落ちているようなのに、浮遊感。ふっと意識が浮上すればリクライニングシートが自動的に起き上がって、遊作の上に重なっていた
「ぐえ」と条件反射でうめく。
気遣うわけでもないのに丁寧な手つきで髪をすいた指先に、Aiは「ただいま」と祈った。膝に突っ伏していた身体を起こしたら、遊作の手を取って引き上げてやる。ふたりが立ち上がると、壁際にたたずんでいた穂村
眼鏡の奥の目元は、まだ赤く腫れぼったい。
革靴の音が焦りを帯びてかつかつなったと思うと、財前が硬い声で詫びる。
「こちらの配慮が足りず済まなかった」
「俺は……何も」
「できる限りのバックアップをさせてくれ。依頼したのはこちらなんだ」
「さっすが財前社長、遊作ちゃんも甘えさしてもらいな」
「君もだ、
「頼もしいねえ」
「わたしたちにはそれくらいしかできない。できることをやらせてほしいんだよ」
諦観のにじみでる物言いは、財前の心根の真っ当さを如実に表していた。人間のキャパシティでは膨大な知識や技術を
誰かの力になれる人間であろうと踏ん張るだけで精一杯なのだ。
素直に礼を述べ、今夜はこれで
財前社長直々に見送られて地上に出ると、車寄せのロータリーを少し外れた場所に見慣れたキッチンカーが停まっているのが一同の目にも見えた。ドアにもたれていた草薙が、片手を上げてみせる。その隣には財前葵の姿があり、ぺこりと頭を下げる。
歩み寄ってきた草薙は、弟に何を言うでもなく小さな頭をくしゃりとつかんで乱し、「帰るか」と目を細めた。困ったような笑顔は、しかし首から提げられている小さなポーチを見とめて凍りつく。
「……仁。それ……」
『久しぶりだな、……草薙翔一』
「おまえ……っ!」
「もう、だから兄さんには内緒のつもりだったのに!」
ライトニングと一触即発の空気がちりりと焦げたが、仁が頬をふくらませた途端に保護者一同が迷いなく折れる。ライトニングもまだ接し方が定まらないといった様子で〈光の
わかったよ、と草薙は嘆息する。弟が前々から〈ピカリ〉に会いたがっていたことは知っていたのだ。学校でうまく友達を作れずにいることも、遊作を見てきたからわかる。遊作にはAiのように愛嬌のあるイグニスがいて、尊には不霊夢という頼り甲斐のあるイグニスがいて、そんなふたりとともに大学生活を送る仁が期待をかけてしまうのもしょうがない。ライトニングの邪悪さは、看過できるレベルではないのだが……。
「晩飯、そのへんで食って帰るか。遊作に愛、尊も一緒にどうだ?」
「いや……俺たちはいい」
「俺も遠慮します。
『綺久嬢によれば今日はカレーだそうだぞ』
「そう、昨日俺が作ったカレーな」
『その通り。きみが分量を見誤ったおかげで、おそらく向こう三日はカレーだろう』
「うどんでも買って帰るかぁ……」
やれやれと首を振る不霊夢に、尊は夜空をふり仰ぐ。小型携帯端末のメッセージアプリを立ち上げて、同居している幼なじみから連絡がなかったかと確認する。う、と、……と入力をはじめる手つきはたどたどしいが、尊が着実に成長していることは明らかだった。
そんな日常に、遊作はそっと微笑する。
なのに遊作の横顔を見つめるAiは、同じ目線になったからこそ別の価値観でものを考えていることを思い知るのだ。
それじゃあ、と断って草薙がキッチンカーの運転席に乗り込み、仁は助手席でシートベルトをつける。あの場所は何度も遊作を乗せたが、きっともう遊作はあそこに入りたがらないだろう。遊作と尊のためのログインブースが今どうなっているかも、Aiが帰ってきてから誰も触れていない。仁が頻繁に
不霊夢は〈炎の
また明日、と、踵を返す。幼なじみと同棲しているアパートに帰って、一緒に夕食をとるのだろう。明日はきっと、幼なじみが手作りした弁当を持って大学に行く。そしてAiがバイトしている学食で、遊作と仁と一緒に昼食を食べるのだ。
財前葵も兄に駆け寄り、アクアを交えて穏やかにねぎらいあっている。
SOLの本社ビルが煌煌と白く光を放って、夜を出迎えようとしている午後七時。冴え冴えとした風はすっかり夜なのに、意地汚い太陽が水平線でじりじり踏ん張っているのだろう。
夜になりきれない宵闇は、街灯もあいまって中途半端に暗くて明るい。
「俺たちも帰ろうぜ。スーパー寄るけどいいよな?」
「好きにしろ。……何かきれていたか?」
「愛ちゃんが-Ai-妻弁当作ってやるって言ったろ」
「本気だったのか……」
胡乱なため息をつくくせに、遊作は、こうしてひどくやさしい目をしてAiを見つめる。そのたびに、Aiは泣きたくなってしまうのだ。電脳空間ならまだしも
(本気だよ、俺はいつでも。ずっと、本気だよ)
ずっと昔から。遊作が六歳の子供だったころから。Aiが目玉だったころから。いや、きっとまだイグニスとして完成するよりも前から。
こうして並んで歩くようになって、歩幅は遊作と同じになった。タイミングばっちりのふたりだ。でも、それは遊作の背が伸びたからであって、Aiが合わせたわけじゃない。SOLtiS標準規格にまで、遊作の背丈が追いついてきただけだ。
中学・高校のころ借りていたアパートはもう二年前に引き払っていて、今の住まいは財前が手配してくれたマンションになった。大学にもSOL本社にも近い場所に、Aiとふたりで住んでいる。
確かにあの安アパートではSOLtiSの充電用クレイドルは置けなかったし、成人男性サイズのAiとの二人暮らしには手狭だろう。案外私情に流される財前晃社長がいろいろ便宜をはかってくれるのはとてもありがたい。
素直に感謝する一方で、Aiは、きょうだいの絆なんて存在しなければいいのにと折に触れては思った。
ブラッドシェパードとゴーストガールみたいな異母兄妹の絆も。財前晃と財前葵のような義兄妹の絆も。草薙兄弟の絆も。いつもいつでも兄の献身がついてまわる。
まるで、シミュレーションのなかで遊作がAiをかばって死んでしまったみたいに。
まったく、どうして
リボルバーを「お兄様」と呼んでみせたのだって、俺を守らなきゃいけないのは鴻上博士や〈ハノイの騎士〉のほうであって、八十億分の一にすぎない遊作じゃないんだ——という、Aiなりの祈りだった。
Aiは六分の一のイグニスで、イグニスのひとりとして人類に対抗できる力がある。けれど遊作は一介の大学生でしかなく、人類代表ではない。AIの味方をすれば、数の暴力には抗えず人間側から排除されてしまう。
人類にとっては取るに足らないちっぽけな存在。なのに、Aiにとっては世界のすべて。そのどうしようもないギャップは、いつだってAiを泣き叫びたくさせる。
イグニスは単体で完結する生命体だ。繁殖もしないし、身を守るために社会を築く必要もない。イグニスである以上、
それでもパートナーと一緒に生きてみたかったAiは、人間社会に混入するために遊作から苗字を間借りし、双子の弟という続柄を捏造して藤木
人間にはボディばかりか名前にまで男性用・女性用があって、愛という文字は女性態用の
社会秩序、一般常識、共通認識——もっともらしい
だって、そんなしち面倒臭いコミュニティを当然のものとしているから、家族がいなかった遊作は孤独に苦しめられたのだろう。
父親、母親。兄貴、弟に妹。祖父母。幼なじみ。父親の部下。全部ぜんぶ、遊作にはなかったものだ。なのに
Aiが人間ごっこを楽しめているのは、Aiが人間ではないからだ。人間じゃないから人間ごっこに失敗しても痛くもかゆくもない。異種族としての命があるからこそ比喩表現ではなく真の意味での
遊作や尊、仁たちのように、周囲とうまく歩調を合わせてつながれない自分自身に悩んだりはしない。
人間至上主義者はAIといえばピノキオ・コンプレックスを抱いていて人間になりたがっているものだ……なんて幻想を抱きがちだが、それはむしろ人類側の悩みだろう。イグニスであるAiよりもよほど『人間らしく生きるべきだ』という強迫観念に呪われているように、Aiにはうつった。
たとえば両親がいるべきだとか。いないのはおかしいとか。友達がいるべきだとか。いないのはダメだとか。学校に行くべきだとか。行けないと苦労するだとか。
〈ロスト事件〉で深く深く傷つけられた被害者たちは、十三年前に狂わされた人生を必死に生きている。なのに奪われたもの、持っていないこと、それらを
遊作を殺すかもしれない可能性はいつだって憎いのだ、Aiは。
「なあ、遊作」
「愛? どうかしたのか」
足を止めて振り向く視線は、いつもとても静かだ。表情はやわらかくなったけれど、笑うときは今も少しだけぎこちない。
イグニスとして死んで人間に紛れて生きろだなんて遊作は絶対に言わない。逃げ隠れして生きるしかないなんてひどいことは絶対に言わない。そんなまっすぐな人間がAiのオリジンで本当によかった。
「愛してるよ」
夜風は涼やかに吹き抜ける。
「……ああ。わかってる」
受け止められたのか流されたのか、よくわからない曖昧な相槌だった。
帰ろう、と遊作が手を引く。Aiはスーパー寄ってからだからな、と文句を言う。十九歳の人間と、製造二年のアンドロイド——あるいは創造十三年目の人工知能——、ふたりの平穏な帰り道。
多分どこかの監視カメラから〈ハノイの騎士〉の誰かが見張っているのだろう。
AIが人間の日常を侵略しないように、今もどこかの海の上で。
【次回予告】
〈ロスト事件〉の軛はいまだ、無辜の受刑者たちを捕らえて離さないのか。一時は日常に回帰した遊作たちだったが、AiはLINK VRAINSの砂漠の地下深くに棲まう謎に迫るため、ある男にコンタクトする。
かつてSOLテクノロジー社に在籍し、ハノイの騎士にアースの最期を見せた人物——今は
イグニスの〈
「……俺のこころを壊したのは、
第二部 The Burden『盾と矛』——毎週水曜 夕方6時25分更新。
Into the VRAINS!