『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:戦後の新線   作:あさかぜ

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北日本新路線
北日本新路線①:豊原市営地下鉄


 この世界では、南樺太は日本領として存続している。戦後、樺太庁は「樺太県」となり、北海道と共に北海地方を構成する地方自治体となった。

 樺太県は北海道と共に、満州や朝鮮から帰国した日本人の受け入れ先として機能し、新しい日本の食糧庫となるべく入植と開拓が進められた。入植と自然増、様々な優遇装置によって、樺太県の人口は急速に拡大した。戦前の調査では40万人前後だったが、1960年には100万人と大幅に増加した。札幌や東京など大都市への流出が見られたものの、税制優遇や徴兵免除などがある為、そこまで大きなものとならなかった。

 冷戦後は、ソ連の崩壊とロシアとの関係改善によって、ビジネスの場としての側面も見せている。その為、経済目的で移住する人も見られており、緩やかながら人口増加が続いている。

 

 2020年現在、樺太県の総人口は約170万人となっている。この数は、鹿児島県(約165万人)より多く、三重県(約181万人)より少ない数字となる。

 尚、この世界の日本の人口は史実より1000万人多く、一部の県の人口は史実より多い。実際、本来なら三重県より人口が少ない熊本県だが、この世界での総人口は約190万人となっている(史実では約178万人)(※1)。

 

 樺太県の県庁所在地にして最大の都市である豊原市の総人口は、2020年時点で約60万人となっている。これは鹿児島市(約59万人)とほぼ同じ数字である。樺太県の面積は約36000㎢で鹿児島県(約9200㎢)の約4倍の為、豊原市に人口の多くが集中している事になる。

 実際、かつての樺太の主要産業は農業・林業などの第一次産業、鉱業(石炭)、製紙業だったが、製紙業は兎も角、第一次産業は衰退気味で就業人口は減少傾向にある。鉱業は国の方針で技術保持の為に一部が存続した以外は閉山となった。これらの要因から多くの自治体の人口が減少し、豊原や札幌、東京などに流出した。

 一方で、農業が盛んな事から食品加工業の進出が目覚ましく、中央の製粉や製パン、ビール製造の各メーカーの進出が多い。そこから限定品の製造・販売や地域の雇用などが生まれている為、産業が衰退しっぱなしという訳では無い。

 

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 豊原の人口が急速に拡大した1980年、市では地下鉄の整備計画が立案された。ルートは、『川上線の本川上を起点に、豊真線の北鈴谷からかつての豊真線の豊原~奥鈴谷を流用、豊原付近で東に進路を変えて豊原市街部を横断、樺太神社手前で再び南下、清川で樺太本線と連絡して豊原空港に至る』、というものである。路線長は約27㎞とされた。

 これでも縮小された方で、当初は本川上から東進して樺太本線の東側に出て、そこから南下して豊原駅に向かい、そこからさらに南下して豊原空港に至るルートを通る構想もあった。8の字運転をする予定だったが、流石に需要が見込めないとして計画案以外は破棄された。

 規格については、輸送量は少ないと考えられた事と建設費の圧縮から、営団地下鉄銀座線と同じとされた。

 

 この路線が計画された背景には渋滞の緩和があるが、渋滞が深刻化した要因は2つある。1つは市街地の拡大、もう1つは豊原空港の拡大である。

 樺太の経済構造の変化によって、豊原市に人口が集中した。それに伴い、市の周辺部にニュータウンが多数建設された。これによって住宅不足は解消されたが、一方で市中心部へのアクセス問題が浮上した。ニュータウンから中心部への公共交通機関は国鉄とバスしか無かったが、国鉄は本数が少ない事から足として不便であり、バスは急速な人口増加によって渋滞が問題となり定時性は著しく損なわれた。アクセス問題の解決が見られなかった為、ニュータウンの新規入居の鈍化が見られた。

 樺太における空の玄関口である豊原空港は、1977年からワイドボディ機の就航が開始した。それによって、樺太への観光客やビジネス客が急増したが、空港から中心部へのアクセスがバスしか無かった。国鉄線の計画はあったものの、国鉄再建の途上で建設は暫く先と見られた。

 その様な状況である為、大量輸送手段が必要という認識があった。路面電車や新交通システムという考えもあったが、路面電車だと車線を潰す必要がある事から更なる渋滞の悪化が懸念され、新交通システムは雪や凍結に対処可能か未知数だった事から(豊原の平均気温は11月~3月で氷点下)、コストは掛かるものの地下鉄が計画された。

 

 計画されたものの、「一地方都市としては過大な計画であり、無謀」という意見が多かった。当時の豊原市の人口は約50万人であり、当時地下鉄を計画していた都市の中で最も人口が少なかった仙台市でさえ約80万人であり、人口に比べて大きな計画だった。

 資金面でも、豊原市で地下鉄を建設出来るだけの体力があるのかという疑問があった。樺太県のインフラ整備は国防目的から比較的優遇されていたが、それでも難しいと見られた。

 一方で、「物足りない」という意見が出た。樺太は対ソの最前線であり、冷戦中は何か事があれば開戦となる可能性があり、その場合は豊原市が攻撃対象となると予想された。朝鮮戦争中に核を落とされた事実がある為、防空施設としての地下鉄整備は歓迎していた。

 しかし、国としては樺太本線の豊原付近で不通になった時のバイパスとしての機能を希望していた。この計画では国鉄の車輛が通れない事、起終点で樺太本線と繋がらない事から、バイパスとして使用出来ない事が不満とされた。

 

 だが、豊原市への人口の集中は止まらない一方、ニュータウンのアクセス問題も深刻化な為、地下鉄の必要性は理解された。冷戦も、ソ連で改革が進められた事で軍事的衝突の可能性が減少した事から、無理に国鉄のバイパスとする必要も無くなった。これにより、当初の計画通りに地下鉄を建設する事が決まったのが1987年だった。

 1988年に免許が認可され、1990年から工事が開始された。当時はバブル景気の真っ只中であり、樺太のリゾート開発などもあった為、地価が高騰した。その一方で税収も増加した為、建設費は高騰したものの、建設は進められた。

 バブル終息はあったものの、ロシアとの貿易の玄関口として機能し始めた頃であった為、樺太の経済は未だに良好であった。一方で地価と物価が下落した為、建設スピードはこの頃に早められた。

 

 当初は1995年7月に開業予定だったが、同年5月28日にサハリン北部のネフチェゴルスクで大地震(推定マグニチュード7.0)が発生した。被害は無かったものの、大事を取って延期となった。そして、同年11月26日に豊原空港~豊原が開業した。残る区間も、豊原~北鈴谷が1997年7月20日に、北鈴谷~本川上が1998年4月19日に開業した事で全線が開業した。

 

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 車輛は、銀座線の主力車輛である01系を基とした「1000系」が導入された。01系の試作車の製造は1983年であり既に10年以上経過している為、各種計器類は1993年製造の5次車に準じている。

 01系との違いとして、極寒地での運用に耐えられる様に強力な暖房装置の追加や二重窓の装備などの違いもある。また、輸送量の少なさから4両編成で投入されたが、将来的には6両編成での運用が可能となっている(駅の設備も6両まで対応)。

 

 ラインカラーは、緑豊かな樺太と鈴谷川のイメージから緑と水色となった。上から緑・水色・緑の帯となっており、01系と同じ場所に入っている。

 尚、路線のイメージカラーは緑となっており、路線図や駅の案内版でも緑が用いられている。

 

 運賃は初乗り210円、全線乗車すると450円となる。これは3㎞まで210円で、4㎞毎に40円追加となる為である。建設費が高騰した為、その分が運賃に跳ね返った。

 

 ダイヤは、データイムは1時間に8本、ラッシュ時は1時間に12本となっている。尤も、これは本数が最も多い清川~西久保の本数であり、全区間運行するのはデータイム・ラッシュ時共に1時間に4本となる。

区間運転は豊原空港~西久保・鈴谷、清川~西久保・鈴谷・本川上となっており、データイムで1時間に1本、ラッシュ時に1時間に2本ずつ運行されている。

 始発は5時45分の本川上発豊原空港発行きと清川発本川上行き、終電は0時丁度の西久保発清川行きと清川発西久保行きとなっている。

 尚、豊原空港の最終便は出発便は22時15分、到着便は22時の為、豊原空港行は21時45分の本川上発が、豊原空港発は23時45分の西久保行きが最終電車となる。空港発の最終電車が遅い理由は、飛行機のダイヤが乱れた場合を考慮に入れている為である。

 快速運転は行われておらず、全て各駅停車である。

 

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 開業初年、1日の平均輸送人員は約28,000人だった。その後、利用者は増加し続け、全線開業した年に約42,000人、2010年には約63,000人が記録された。豊原市の人口を考えれば妥当な数字だが、当初の見込みでは全線開業の年に60,000人だった為、利用者の伸びが緩やかだった事を意味する。

 利用者の伸びが緩やかな理由として、運賃の高さから敬遠された事、計画当初より道路整備が進められた事で渋滞の緩和が見られた事、沿線人口が停滞した事、国鉄からJRに転換された事で増発が進んだ事などがあった。つまり、計画当時と状況がかなり変化していた事が、利用者が伸びなかった大きな要因とされた。

 

 地下鉄の開業によって、豊原市の財政状況は危ぶまれた。一時は財政再建団体(※2)になるのではと見られていたが、2000年頃から経済の回復と人口増加、それに伴う沿線開発の再開などがあり、税収の増加が見られた事で財政再建団体になる事は避けられた。

 また、沿線開発の再開によってニュータウンの整備の促進や老朽化した団地の建て替えが進み、人口が再び増加に転じた。県内の各地からの流入もあったが、ロシアとの関係改善による経済交流の促進もあり、樺太県は新潟県や秋田県など北陸・東北・北日本の各地方の日本海沿岸自治体と共にロシアとの交流口とされた事で、県外からの移住者も増加した事が要因だった。

 

 2020年現在、昨年度の1日当たりの平均輸送人員は約71,000人だった。沿線人口は緩やかながら増加を続けており、収益も年々増加している。建設費の償還があるから依然として赤字なものの、豊原市における主要交通手段としての地位は確立している。

 

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(豊原市営地下鉄)

◎豊原空港:JR樺太本線(空港支線)

◎清川:JR樺太本線

・東清川

・春楡台

・樺太大学

・大沢台

・苔桃台

・唐松台

・豊原運動公園

・樺太神社

・県庁前

◎豊原:JR樺太本線・豊真線・川上線

・追分

・豊原大学

・軍川

・西久保

・樺太農業大学

・南鈴谷

・鈴谷

・白樺台

・平和台

◎北鈴谷:JR豊真線

・鈴谷台

◎本川上:JR川上線




※1:地方の人口が多い要因として、日中戦争が小規模だった事、大東亜戦争での死者数が少なかった事、朝鮮戦争中に核攻撃を受けた事で東京への一極集中に危機感がもたれた事、コメの対米輸出などで農業重視政策が採られた事などがある。
※2:赤字が一定以上に達した場合、地方財政再建促進特別措置法に基づいた再建計画を作成し、総務大臣がそれに同意した自治体の事。「一定以上」の基準は、都道府県なら標準財政規模(※3)の100%を、市町村なら20%を超えた場合を指す。財政再建団体に転落した自治体は、事実上破産したと見做される。2007年6月22日に自治体財政健全化法(正式名称は「地方公共団体の財政の健全化に関する法律」)が公布された以降は、「財政再建団体」の名称は過去のものとなった。
※3:通常の状態の場合に得られるであろう収入の事。地方税の税収・地方交付税交付金・地方債発行額などを合わせたもの。

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