『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:戦後の新線   作:あさかぜ

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北日本新路線②:JR宗谷海峡線

 かつて、本州と北海道を結んでいたのは青函連絡船だった。この航路は青函トンネルの開通とそれに伴う海峡線の開業によって、1988年3月13日に定期運行が終了した。

 だが、青函トンネル開通に伴って北海道各地では博覧会が行われた為、その期間中は暫定運行が行われた。正式な廃止は同年9月19日だった。

 因みに、国鉄・JRが運行する青函航路は廃止になったものの、民間企業による青函航路は存続している。

 

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 この世界では樺太が日本領として存続している為、稚泊航路(※1)は存続した。

 終戦直後にソ連が日本勢力圏の満州・朝鮮に侵攻し、千島・南樺太への侵攻の兆しがあった為、急遽、稚泊航路が強化された。その為、戦時標準船を基とした砕氷船が複数投入された。

 青函連絡船用のW型戦時標準船(「W」は「Wagon」に由来)や博釜連絡船(※2)用のH型戦時標準船(「H」は「Hakuhu(※3)」に由来)が流用されなかった理由として、稚内・大泊両港には青森・函館両港の様に鉄道車輛の乗り入れ設備や連絡船に車輛を運び入れる設備が無かった為であった。

 その為、投入された砕氷船は貨物船と殆ど同じだった。だが、元々の性能が悪い戦時標準船を改造した為、砕氷能力は決して高くなかった。実際、何度か流氷によって稚内・大泊両港に入港出来なかった事がある。その際は、北海道側は小樽港に、樺太側は真岡港に入港して対応した。

 

 この状況が大きく変化したのは朝鮮戦争だった。再建なった日本軍(名称は「日本国防軍」)は連合国の一員として朝鮮戦争に参戦し、仁川上陸作戦や第二次日本海海戦で勇名を馳せるなど大活躍した。

 しかし、それがソ連、というよりスターリンの逆鱗に触れ、1951年1月2日に豊原市に原爆が投下された。これによって市中心部は壊滅し、4万人以上の死者を出した。

 問題は、市街地が壊滅した事もあるが、当時樺太にあった車輛の多くが使用不能になった事だった。被災を免れた車輛を掻き集めても到底足りず、北海道や本州などから持ってくる必要があった。被災してから1週間で日本各地から車輛が集められたが、中々樺太まで届けられなかった。大泊港及び真岡港に車輛の乗り入れ設備が無かった為、クレーンで引き揚げる必要があった。加えて、時期が冬であり流氷によって港が閉鎖される事もあった為、中々車輛の輸送が進まなかった。

 

 この反省から、稚泊連絡船にも青函連絡船と同様の設備を導入しようという動きが見られた。幸か不幸か、千島の択捉島もソ連による核攻撃を受けた事で、アメリカから「千島・樺太復興」の為の支援金や物資が大量に流入した為、それが実現出来るだけの資金と資材は存在した。世論や軍も「樺太防衛の為の輸送手段」として稚泊航路の重要性を認識した為、1953年には計画が立案され、1955年には工事が開始された。国防軍も参加した事で工事は急速に進み、1957年7月20日から使用が開始された。

 これによって、稚泊連絡船は旅客や貨物だけでなく、車輛の航送も行う事となった。同日のダイヤ改正によって、樺太と北海道、本州を結ぶ直通貨物列車の運行、大泊から真岡・敷香・恵須取への急行の運行が開始するなど、樺太の国鉄線の転換期となった。

 また、稚泊連絡船に連絡する為、戦前から運行されている函館~稚内の急行を改編し、札幌を経由する函館~稚内の急行「宗谷」と室蘭本線経由の札幌~稚内の急行「利尻」の運行が開始された(※4)。他にも、札幌~稚内の準急が運行され、宗谷本線経由の「礼文」と北見線(1961年4月1日に「天北線」に改称)経由の「亜庭」が1往復ずつ設定された。輸送量の増加から、函館本線・宗谷本線の改良も進めれた。

 樺太の産業や観光客が増加するのは、稚泊連絡船・函館本線・宗谷本線の改良による所が大きかった。

 

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 稚泊航路の改良から15年が経過した1972年、この頃から現状の連絡船方式では迅速な貨物輸送が行えない事、ソ連と戦闘状態になれば宗谷海峡が封鎖される事などから、津軽海峡と同様に海底トンネル(仮称「宗谷トンネル」)の建設が計画された。この構想は終戦直後から存在しており、朝鮮戦争後はこの構想はより具体性を帯びた。1961年6月に鉄道敷設法が改正され、鉄道敷設法第144号ノ3に『北見国稚内附近ヨリ樺太県留多加附近ニ至ル鉄道』が掲載された。これによって、宗谷海峡を鉄道で結ぶ構想が国鉄の予定線に組み込まれた。起点と終点が附近とされた理由は、留多加付近で豊宝線(※5)と接続する予定の為である。

 実際、144号ノ3の一部である新留多加~留多加~能登呂の留多加線が1973年に開業している。能登呂から先は延伸可能となっており、地元では延伸熱が高まっていた。

 

 しかし、当時は青函トンネルが建設中である事から、この時は調査がされたのみだった。本格的な工事の開始は、青函トンネルの工事が完了してからとなった。この工事には日本の大手及び準大手ゼネコンの殆どが参加しており、同時期に瀬戸大橋の建設も行われていた為、ここで新たな工事を行うのは負担になるとされた。

 調査が完了した1979年、国は突如として宗谷海峡のトンネル建設を促進させるように言及した。ソ連の海軍を中心とした軍拡によって、津軽海峡や宗谷海峡の安全性が低下した為であった。

 しかし、言及した時点で青函トンネルの工事は半ばであり、瀬戸大橋に至っては起工式が行われたばかりでああり、ゼネコン各社は余裕が無い状況だった。だが、予算の増額は行われ、数年以内の工事着工となった。

 

 1981年、遂に宗谷トンネルの起工式が行われた。この時に参加したゼネコンは準大手や中堅が多く、大手は共同事業体として助言や一枚噛む程度だった。1986年までに斜坑の工事は完了しており、その頃には青函トンネルの工事がほぼ完了していた。その為、青函トンネルの建設に従事していた人達が今度は宗谷トンネルの建設にも着手した。

 翌年には本工事が開始した。海底トンネル建設のノウハウがある人達が多数存在する事、津軽海峡より条件が難しく無い事(※6)から、工事は進んだ。それでも、海底トンネルである事、距離がある事から時間は掛かり、トンネルが繋がったのは2001年の事だった。

 

 その後、線路の敷設や信号の設置、電化工事などが行われ、2003年3月16日に開業した。この開業に先立ち、宗谷本線・天北線・豊宝線の重軌条化や交換設備の増設などが行われた。当初は宗谷本線と豊宝線の電化も計画されたが予算や車輛運用などから見送られ、稚内~豊原のみとなった。その代わり、電気機関車が多数配備され、気動車を推進出来る様に改造された。

 

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 開業と同時のダイヤ改正で、JR北日本の宗谷本線・樺太本線系統の特急は以下の様に再編された。

 

・札幌~豊原(宗谷本線経由)の昼行特急:宗谷:4往復

・札幌~豊原(宗谷本線経由)の夜行特急:利尻:1往復

・札幌~敷香・恵須取(宗谷本線・樺太本線経由)の昼行特急:樺太:3往復

・札幌~敷香・恵須取(宗谷本線・樺太本線経由)の夜行特急:間宮:1往復

・札幌~稚内(天北線経由)の昼行特急:礼文:7往復

・札幌~稚内(天北線経由)の夜行特急:サロベツ:1往復

・稚内~豊原・大泊の昼行特急:ノシャップ:8往復

・大泊~北真岡(豊真線経由)の昼行特急:鈴谷:11往復

・豊原~北真岡(豊宝線経由)の昼行特急:アニワ:6往復

・大泊~敷香の昼行特急:アカシア:4往復

・大泊~恵須取の昼行特急:白樺:4往復

 

 また、可能かな限り分かり易い時間設定とし、「宗谷」と「樺太」は札幌を偶数時丁度に、「礼文」は奇数時丁度に出発する。そして、「宗谷」と「樺太」も交互に出発する。

 夜行特急は、「間宮」が21時丁度に、「利尻」が22時丁度に、「サロベツ」が23時丁度に札幌を出発する。樺太・稚内側では、「間宮」が20時丁度に、「利尻」と「サロベツ」が22時丁度に出発する。

 樺太側では、豊原で「宗谷」・「利尻」・「樺太」・「間宮」と「鈴谷」・「アカシア」・「白樺」と接続するダイヤが組まれており、特に「樺太」・「間宮」は「鈴谷」と、「宗谷」と「利尻」は「アカシア」と「白樺」と接続する事が心掛けられている。同様に、「鈴谷」は「樺太」と「間宮」に、「アカシア」と「白樺」は「宗谷」と「利尻」に接続する様に組まれている。

 他にも、「ノシャップ」は稚内で「礼文」・「サロベツ」と、「アニワ」は新留多加で「宗谷」・「樺太」と接続する様になっている。

 尚、宗谷本線の特急の増便によって石北本線の特急「オホーツク」に皺寄せが行った。線路容量に余裕が無くなった為、「礼文」と併合運転する事となった。

 

 特急以外の列車だが、途中の能登呂までは普通列車の運行が行われている。この区間は電化されているが樺太には電車が配備されていない為、全て気動車での運転となっている。

 

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 北海道と樺太を結ぶ路線が開業したが、旅客の伸びは大きく無かった。初年度こそ鉄道で繋がった事によるお祝いムードから利用者が多く、札幌~豊原の時間が今までの約10時間に対し約7時間と大幅に短縮された事のメリットは確かにあった。

 しかし、開業した頃には東京・札幌~豊原の航空便が多数運行されて運賃も下がっていた事から、利用者は直ぐに減少した。札幌・丘珠空港と豊原空港の直線距離は約430㎞で羽田と関空の距離と大差無い為、空路だと1時間程度で到着する。

 2020年現在、輸送密度は約3,200人/日であり、状況としてはギリギリと言える。

 

 一方で貨物は、かつては北海道より遠方であった事から、大泊から船舶で直接東京や大阪に輸送していたが、開業後は高速貨物列車による輸送に切り替えられた。少量の輸送では鉄道の方が効率的な事、転向に左右され難い事、何より速い事が理由だった。

 実際、開業から数年でかつての輸送量を超える量を輸送する事となり、農業生産や加工食品の製造の増加が見られた。その為貨物輸送の方が重視されており、1日36本の定期貨物列車が運行されている。

 

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(JR宗谷海峡線)

(稚内~南稚内:宗谷本線、南稚内~声問:天北線、声問~新留多加:宗谷海峡線、新留多加~豊原:豊宝線)

 

・稚内

・南稚内

・宇遠内

・声問

・稚内空港

・宗谷

・富磯

・宗谷海底

・能登呂海底

・孫杖浜

・問串

・菱取

・雨竜浜

・樺太三郷

・多蘭内

・伏子浜

・留多加

・北平野

・新留多加

・樺太中沢

・樺太二川

・竝川

・南豊原

◎豊原:JR樺太本線・豊真線・川上線、豊原市営地下鉄




※1:「ちはくこうろ」と読む。北海道の「稚内」と樺太の「大泊」を結ぶ事の由来。鉄道連絡船としては1923年5月1日に開設し、史実では1945年8月24日に事実上廃止となった。
※2:「はくふれんらくせん」と読む。九州の「博多」と当時日本領の朝鮮の「釜山」を結ぶ事に由来。最初に下関と釜山を結ぶ関釜連絡船が存在したが、輸送量増加と下関港の処理能力の限界、1942年7月1日に関門トンネルが開業(単線・貨物のみ)した事から、1943年7月15日に博釜連絡船が開設した。戦争末期の空襲や潜水艦によって船舶の殆どが撃沈された事で事実上航路としての機能は停止し、終戦によって朝鮮の統治権を失った事で廃止となった。
※3:現在、日本語をローマ字表記する場合はヘボン式が主流だが、1937年に昭和12年内閣訓令第3号によって、政府が行政機関における日本語のローマ字表記について公式に定めた。所謂「訓令式」であり、「し」なら「si」、「ち」なら「ti」と表記する。戦時中は訓令式だった為、「博釜」は「Hakuhu」となる。
※4:史実で宗谷本線に名称付き列車の運行が開始されたのは1958年10月1日で、札幌~稚内の夜行準急「利尻」が最初。
※5:豊原から留多加を経由し、豊真線の宝台に至る路線。豊真線の貨物用別線として計画された。1960年に開業し、同時に豊真線の宝台~池ノ端の宝台ループ線は廃止され、高速化や長大編成化に対応した。
※6:津軽海峡側は水深約140m・距離約23㎞に対し、宗谷海峡側は水深約70m・距離約43㎞。距離は宗谷海峡側の方が長いが、宗谷海峡側は掘る深さが浅く済み、北海道と樺太は地質がほぼ同じである事などから、宗谷海峡側の方が難易度は低い。

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