『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:戦後の新線   作:あさかぜ

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北日本新路線③:国鉄藻琴線

 藻琴線は、釧網本線の藻琴から東藻琴を経由して川湯温泉に至る路線であった。「あった」と過去形なのは、2020年現在では廃線となっている為である。

 

 藻琴線の原型は、北海道庁殖民軌道藻琴線という殖民軌道である。殖民軌道とは、戦前の北海道庁が入植地への交通の為に整備した軌道であるが、地方鉄道法や軌道法に準じた鉄道では無かった。全国版の時刻表にも乗る事は殆ど無く、その点でも通常の鉄道とは異なっていた。

 藻琴線だが、最初から殖民軌道として整備されようとした訳では無かった。大正末期に、藻琴~東藻琴に軌道を整備しようと藻琴軌道が設立された。この時期に提出された理由として、東藻琴地区(当時は網走町。戦後に東藻琴村として分村)の人口が増加した事、1927年に実施予定の第二次北海道拓殖計画に組み込ませる為だった。

 しかし、同地域の北見拓殖鉄道と重複した事で漏れてしまい、この時に実現する事は無かった。開業するのは1935年まで待たなければならなかった。

 

 その後、1938年までに藻琴~東藻琴~末広~山園のルートが完成したが、1940年には更に藻琴山麓を経由して川湯(現・川湯温泉)への延伸を請願した。藻琴山麓の開拓促進に加え、釧網本線の短絡線としての機能を訴えた。また、既存区間の輸送量が増加した事で殖民軌道では耐えられなくなった為、国鉄線として整備してもらおうという考えもあった。

 この請願は衆議院で採択される所まで行ったものの、戦時体制だった事から有耶無耶となってしまった。戦後になっても復活しなかった所を見ると、戦時中のゴタゴタで紛失したのかもしれない。

 

 戦後も民営化した上で存続し、末広~東洋沢の支線が開業したものの、道路の整備が進んだ事で客貨双方で輸送量が激減した。1961年10月5日に藻琴~東藻琴が廃止となり、翌年の8月16日には東洋沢への支線も廃止した。残る東藻琴~山園も1965年9月25日に廃止となった。

 

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 この世界では、1942年に藻琴~川湯が鉄道敷設法第146号ノ2に掲載された。時節柄、釧網本線のバイパス及び道東方面の警備の強化が主目的とされた。だが、時間が惜しかった事から、規格は殖民軌道より多少マシな程度で建設される事となった。

 1942年10月には早くも工事が行われたが、冬の到来や労働力不足、資材不足から、工事は遅々として進まなかった。余りの労働力不足から、1943年からは朝鮮半島や中国大陸から労務者を大量に連れてきて建設を強行した。途中の藻琴岳越えで多くの犠牲者を出し路盤までは完成し、「沿線やトンネル内には犠牲者の骨が埋められた」と伝えられている。

 だが、線路を敷く直前に終戦を迎えた事で工事は中断された。数年間は放置されたが、引揚者の入植先として沿線が選ばれた。農産物の輸送と開拓の強化の為に路線の開業が望まれ、1949年に工事が再開された。戦時中に建設した故に一部区間で荒廃が進んでおり、その改修の為に時間を要した。開業したのは1953年11月3日だった。

 

 戦時中に迅速な開業を見込んで建設した為、規格は低かった。長大貨物列車の運行を見込んでいた為、最急勾配は20‰で建設されたが、最小曲線半径は160mと急カーブが多い路線となった。

 ループ線やスイッチバックなども多く、釧網本線より約30㎞短縮されるものの、大きな時間短縮とはならなかった。

 

 当初の目的である「釧網本線のバイパス」や「道東方面の警備強化」は消失したものの、朝鮮や満州などからの引揚者用の開拓予定地が沿線に設けられた事で、目的の一つである「延伸区間の開墾促進」が捗った。沿線には新たな農地が開かれ、付随して林業や畜産業も興った。

 それに伴い旅客・貨物の輸送量は大きくなり、増便なども行われた。増便に対応する為に客貨分離が行われ、1957年にはレールバスの運行が開始した。だが、レールバスは輸送量の小ささから数年で撤退し、1960年以降は通常のディーゼルカーが運用に入った事で客貨分離が完全に実現した。1961年10月のダイヤ改正では、藻琴線経由の網走~釧路の準急「屈斜路」が運行された。

 網走・北見方面から釧路への貨物列車の運行も行われた。藻琴で方向転換する必要があるものの、距離が短い事と勾配が緩やかな事から、藻琴線経由の方が輸送費が掛からないとしてルートが変更された。

 

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 こうして、開業直後は利用されていた藻琴線だが、凋落は意外と早かった。

 開業翌年の1954年、藻琴線に沿う様に道道106号線山園藻琴停車場線(現・道道102号網走川湯線)が整備された。当時はまだ充分な整備はされていなかったものの、時代を経る毎に整備が進んだ。それに伴い、バスが整備され、自家用車の普及などもあって旅客量は減少した。貨物も、トラックの普及と高性能化で多くが流れた。主な輸送物が農作物と木材とトラックで輸送可能なモノばかりなのも災いした。

 その結果、1960年頃後半には旅客・貨物共に最盛期の半分程度にまで落ち込んだ。

 

 ここまで落ち込むと、鉄道として存続させるのは難しいと判断された。1968年に国鉄が赤字ローカル線の整理に乗り出した際に、藻琴線もその対象となった。

 だが、この時は沿線住民からの反対によって廃止される事は無かった。また、この頃から国鉄主導で行われた国内の個人旅行の拡大と観光開発がプラスに働き、屈斜路湖への観光路線として活用された事で一時的ながら旅客増が見られた。

 

 観光需要があったものの、10年もすると伸びが鈍化した。道路整備が進んだ事で旅客はバスに流れ、1970年代後期以降は相次いだ運賃の値上げもそれを助長した。同時期に貨物輸送や「屈斜路」も廃止となっており、鉄道として存続するのは難しい状況だった。

 1980年に国鉄再建の為に赤字ローカル線の整備が行われる事となり、多くのローカル線が将来的に廃止となる『特定地方交通線』に指定された。藻琴線も第2次特定地方交通線に指定され、将来的な廃止が確定した。沿線で存続運動が発生したものの、並行する道路の整備は進んでおり、バス転換しても問題無いという意見も多かった。沿線自治体の網走市・東藻琴村(現・大空町)・小清水町・弟子屈町もバスの方が増便し易い事、中心部への乗り入れが行い易い事からバス転換を望んでいた。

 そして、1986年10月31日が最終運行日となる事が決定した。この日は道内の胆振線・富内線、道外の角館線・阿仁合線の最終運行日にもなった。

 

 廃止1か月前から日本各地から鉄道ファンが訪れたり、沿線住民が名残り乗車するなどして、かつての様な満員の状況となった。だが、廃止は目前であり、存続は叶わない。

 そして、1986年10月31日、運行最終日となり過去に無い人が訪れたり、今まで入線した事の無いディーゼルカーによる長大編成の臨時列車が運行されるなど、最後の花道を飾った。

 

 翌日、藻琴線は廃止となり、翌年の春になってからレールの撤去が行われた。東藻琴駅の跡地は鉄道公園として整備されたが、他の区間は区画整理で農地や道路となったり、原野に還ろうとしている。

 

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(国鉄藻琴線)

・藻琴

・山里

・稲富

・東藻琴

・末広

・山園

・奥山園

(藻琴山信号場)

(小清水峠信号場)

(アトサヌプリ信号場)

・上跡佐登

・跡佐登

・川湯

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