夢であれ。夢であれ。
起きる度にそう願った。
想いは水流となり、虚構を埋める。
いつか読んだ書物に記されていた。
言霊とでも呼ぶべき概念。言の葉に宿る力は認識できない遠い異世界にも届くのだと。最初は冗談だと思った。今でも阿呆なと侮蔑する。
さりとて現実はどこまでも空虚で残酷だった。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございます、師よ」
「うむ。早めに休め。明日も早い」
「承知しております」
言葉は短く交わされる。
もう少し丁寧に返答したい。だが、鍛錬の相手はヴィクター・S・アルゼイドというエレボニア帝国でも五指に入る剣士。意識を保っていられるだけで御の字といったところか。
帝国南部の湖畔に佇む町レグラム。その高台に建てられたアルゼイド流の道場。窓から差し込む夕焼けは、仄かな霧に阻まれて若干色彩を落としていた。
朝から夕方まで休憩なし。遥か超常の剣士と一騎討ち。自らが望んだこと。直談判したこと。だとしてもキツい。足腰が震えている。
正直、膝立ちの状態でもしんどかった。
「大丈夫ですかな、フェア殿」
ヴィクターさんの立ち去られた道場。既に他の門下生も帰っている。残っているのは師範の一人であるクラウスさんと俺ことフェアだけだ。
フェア・ヴィルング。
俺の名前。数多のループで磨耗した記憶。その中でもはっきり覚えている数少ないモノ。これを忘れた時こそ、俺の精神も完全に壊れてしまう時だと思った。
「申し訳ありません、クラウス師範」
差し出された手を掴む。引っ張られた。
ご老体を彷彿される萎びれた手からは想像もつかない力強さ。思わずタタラを踏むが、男の胸に飛び込む訳にも行かずに踏ん張った。
余計に疲れた。超足痛い。早く寝たい。
「いえ、構いません。どこかお怪我は?」
「明日に残るものはありません」
「――はて、建物を揺らすほど強く弾き飛ばされておりましたが」
「壁にぶつかる前に体勢を変えました。強打しましたが痛いだけです。身体に損傷はありません」
変えるだけで精一杯。力不足を感じる。
本来なら反転し、気功を足に集中させ、壁を踏み場にして逆襲を仕掛ける予定だった。頭は直ぐに行動へ移ろうとして、今はまだ七耀暦1204年9月なのだと思い至った。
七耀暦1206年8月ならいざ知らず。覚醒してからたかが1ヶ月程度では、思考に身体は全く付いていかない。何しろ基礎が出来ていない。膂力が足りない。反射神経も足りていない。何もかもが不足していた。
唯一存在するのはアルゼイド流とヴァンダール流の技だけ。だがそれらも、身体を鍛え上げない事には宝の持ち腐れも同じ。歓声を挙げたくなるぐらい皮肉な状況である。
「――――」
「クラウス師範?」
「申し訳ありません。些か疲れたようです。いやはや、もう歳ですかな」
「クラウス師範はまだまだお若いかと」
「慰め、感謝します。しかし、アルゼイド流を学び始めて一月足らずの若人に敗北するようでは、衰えたと自覚しても不思議ではございますまい」
クラウスさんは感慨深く息を吐いた。
確かにこの世界線では、アルゼイド流に身を置きはじめてから僅か一月足らず。それでも幾度のループを考慮すれば既に数十年、アルゼイド流の剣術を振るっている。
身体的強度に不満はあれど、この程度できて当然だった。
クラウスさんには当然言えない。
俺、同じ時間軸を何回も体験しているんですよ。
紛れなく阿呆。そして阿呆な話である。
俺にとって現実なところが更に阿呆な点だった。
「クラウス師範の教え方が巧みだったからかと」
「そう言っていただけると幸いです」
「師の御息女も僅か17歳で中伝に至っていると聞き及んでいます。アルゼイド家の才能に比べれば私など幾ばくにも及びません」
ラウラ嬢の話を持ち出す。意識が逸れた。
クラウスさんの警戒心がほんの少し緩んだ隙を狙った。一礼してから道場を出る。暖かな夕陽に目を細め、思わず頭を振った。
これ以上はボロが出る。いや、出ているか。
どう考えても怪しまれているのだ、俺は。
当然だ。8月上旬に突如として正規軍を退役。その足でレグラムへ移動。アルゼイド流の門下生となり、僅か1ヶ月の鍛錬でクラウス師範を叩きのめしたのだから。
異常である。不可思議である。
だが、こうしなければならなかった。
何かに打ち込みたかった。打ち込める環境に身を置きたかった。どうしても。どうなっても。
今回の世界線は違うのだ。いつもと違う。違和感ではない。そんな単調なものではない。
頭の奥で木霊する。ずっと、ずっと。
おどろおどろしい、不気味な声が、途切れる事なく。
「ヨコセ、ヨコセ」
ずっと聞こえる。
何をしても、何処にいても。
ひたすら頭の奥から鳴り響く。
最初は『アレ』かと思った。無貌の主。今回のループでも時折声を掛けてくる存在。言葉と感情が一致しない化物。北、探せ、人形と単語だけで命令してくるクソッタレ。もう諦めた。心臓を掴まれている恐怖心も、意図的に感情から除外した。
「我ノモノダ、スベテ」
この声は違う。異質な物だ。
心臓は掴まれない。身を縮こませる必要もない。明確な恐怖は襲い掛からず、さりとて無視できるほど優しい声音でもなかった。
ひたすらに悪意がある。
この世の全てを憎悪する黒い炎に、全身を焼かれているような錯覚。気を抜けば呑み込まれそうな魅力さを感じた。
火炎魔人に焼かれて以来か。
出会い頭に焼死させられた。
混じっているなと口にしていたが、何をと問い質す前に殺された。理不尽だ。数十を超える世界線の中で一度しか会っていないから言い返した事もないけれど。
「アァ、心地ヨイ」
テメェだけだ。
俺は心地良くない。
剣を振り払いたくなる衝動を抑える。
ずっと同じ単語を口にする。これで会話でも出来ればまだマシなのだ。気を紛らわせられる。なのにこの声は延々と同じ言葉を繰り返すだけだ。
よくわからない。
もうわからない事だらけだ。
何度同じ時間を体験しても、世界は謎に満ちている。
英雄ならば。才人ならば。一度の邂逅で全てを理解するのかもしれない。一度の体験で最善の選択肢を選ぶのかもしれない。
俺は違う。全て異なる。
一般人で、凡人だ。だからわからない。
無貌の主も、この昏い声の主も。俺のループと何がしか関係性があるのだろうと推測している。但し事態を打破するに至らない。
あぁ、思考が上手く働いてくれない。
使えない。使えない。使えない。
三人寄れば文殊の知恵と東方で言うらしい。
遥か昔、親父が――そん、な――こ、と、を――
――――頭の奥でブチッと鳴った。
「あれ?」
ふと首を傾げる。
「俺に家族なんていたか?」
ヴィクター・S・アルゼイドは、物思いに沈む。
自室の窓から湖畔を見下ろす。波風一つない鏡面の如き水面。仄かな霧が揺蕩う。遠くには巨大な城も見える。
美しい風景だ。観光地としても名高いレグラム。それらを一望できるアルゼイド子爵家の館。多くの人間にとって羨望の眼差しを受ける。
だが、ヴィクターの目には何一つ映っていない。
壁に掛けられた宝剣ガランシャール。
彼の意識は常に自らの得物へ向いていた。
――――アレはなんだ?
目蓋の裏で再生される先程の模擬戦。
僅か一月の鍛錬でクラウスを薙ぎ倒した逸材。報せを聞き付け、レグラムに帰還したのはつい先日である。フェア・ヴィルングと邂逅したのも今朝である。
どうしてか。初めて会った気がしなかった。
以前は帝国正規軍に勤めていたと聞く。其処で顔を合わせていたのかもしれない。無意識に覚えていたのだろう、とフェア・ヴィルングは大して気にもせず肩を竦めた。
違和感だ。途方もない違和感を覚える。
剣を交えれば済むことか。
剣士として、アルゼイド流筆頭伝承者として。ヴィクターは宝剣を構えた。フェアも得物を持ち上げる。
同じ。全く同一。寸分違わない剣の構え。
待て。待て。待て。
焦燥する。額から汗が一筋流れた。
確かにお互い同門の剣士だ。筆頭伝承者と初伝という隔絶した差があるとしても。同門の剣士ならば同一の構えになる事は可能性として存在する。
だが、それは――――。
有り得ない。有り得る筈がない。
窓に手を置く。思わず力が入った。
理解が追い付かない。鍛錬中ならまだしも、こうして自室に戻ればこの通り。止め処ない疑問が次から次へと浮かび上がってくる。
修行不足か。はたまたフェアのせいか。
汗を流したい。だが、一刻も早く懸念を取り除きたい。こんなにも焦りを覚えたのはいつ以来だろうか。
コンコンと扉がノックされた。
「クラウスです」
「ああ。入ってくれ」
振り向きもせずに答える。
自室の扉は開き、閉められた。
足音は立たず。歩く姿に澱みもなく、全身を巡る気も充実している。いつも通りのクラウス。アルゼイド流でも有数の実力者。そんな老人を完膚無きまでに叩きのめした鬼才が脳裏を過ぎる。
「フェア・ヴィルングについてわかった事は?」
「役立つ情報は得られませんでした」
「遊撃士に頼んだのだろう?」
「はい。トヴァル殿に依頼しました」
「にも拘らずか」
「出身は帝都です。両親はおりませんな」
「いない?」
「戸籍にも存在していないとの事です」
「どういう事だ?」
眉をひそめる。振り返る。クラウスも訝しげな表情を浮かべていた。当然だ。そのぐらい辻褄が合わないのだから。
鬼籍に入ったならわかる。
蒸発してしまったなら理解できる。
だが、戸籍にすら存在しないとは意味不明だ。
ならばフェア・ヴィルングはどうやって生まれたのだろうか。
「消された、ということか?」
「戸籍を抹消した形跡はないそうです」
「なに」
「ヴィルング家は今も帝都に存在します。周囲の方々も認識しております。フェア殿が生まれた時の事も楽しそうに話していたそうです。ただ両親はおられないとの事で」
「捨て子だったか」
「それが……」
言い淀むクラウス。
歯切れが悪い。滅多にない。
ヴィクターは嫌な予感を覚えながらも問い掛ける。
「どうした?」
「両親はいないと嘯くそうですが、フェア殿は間違いなくヴィルング夫人から生まれたと仰られるそうで」
「なんだ、それは――」
「では両親は何処におられるのか、とトヴァル殿が聞き返しても小首を傾げるだけで反応しなかったそうです。瞬きもせず、身動き一つせず」
気味が悪い。
頬が吊りそうになる。
本来ヴィクターは心優しい剣士だ。
若人を導く為に平気で泥を被る益荒男である。
そんな彼をして、フェア・ヴィルングの薄気味悪さは筆舌に尽くし難かった。
強さだけなら問題ない。何しろ『オーレリア・ルグィン』という先例がいる。一月でクラウスを打ち破ったのも驚嘆するだけで不気味さは感じられない。
問題はフェア・ヴィルングの背景だった。
「他には、何かあるか?」
「幼年学校、士官学校、軍人時代の友人たちから聞き込みした所、頭脳はおろか身体能力も人並み程度だったそうです。アルゼイド流はおろか、百式軍刀術すら忌避していたと」
「だが、突如として軍を辞め、アルゼイド流の門を叩いた」
「結社と呼ばれる連中の可能性もある、とトヴァル殿は危惧しております」
確かに。
今挙げ連ねた情報だけで判断するならばフェア・ヴィルングが、秘密結社『身喰らう蛇』の一員であるという考えに至るのは至極ごもっともであろう。
むしろ道理だ。可能性として最も高い。
幼い頃から結社の一員として暗躍しており、貴族派と革新派の争いが激化しそうな今日、情報を集めるという意味からヴィクター・S・アルゼイドの懐に忍び込む。有り得そうな事だ。結社の人間ならやりかねない。
だが、ヴィクターは『違う』と確信する。
フェア・ヴィルングはそんな生易しい存在ではないのだと、長年培った剣士としての勘が警鐘を鳴らした。
「クラウス、そなたは見たか?」
「何をでしょう」
「フェア・ヴィルングの背後に、何かがいる」
「……結社の影ですか?」
「違う。そんな生易しい物ではない」
同一の剣の構え。
呼吸のタイミングも一緒。
気を練り上げる速度も全く同じ。
幻想の中で幾度も交錯する剣戟。ヴィクターが勝利を飾る未来が見える。膂力、剣術、精神面。いずれもフェアを上回るヴィクターが勝つのは最早必然であった。
フェアが動く。ヴィクターも奔る。
剣を交えた。一瞬の交錯。火花が散った。
――――互角だった。
先読みの勝負では紛れもなく勝っていた。
にも拘らず、現実を覆された。驚嘆して振り返るヴィクターの目に、一瞬だけ悍ましい物体が入り込んだ。
「では、どのような?」
「『2匹』いた。どちらも黒い。片方は多くの眼を持っていた。もう片方には顔が無かった。触手のような物でフェア・ヴィルングを雁字搦めにしていたな」
苦虫を噛み潰したように吐き捨てる。
気のせいだったのか。
そう思いたい。だが、現実は非情だ。
ヴィクターは己自身を騙せない。確かに存在するのだ、あの名状し難き闇は。一人の男に取り憑いて何かを成そうとしている。
何を成す。何の為に取り憑いている。
アレを斬れるか。――斬れない、と弱音を吐く。
ならばフェア・ヴィルングを斬れるか。
斬れると断言できる。斬らねばならないと本能が告げる。
「旦那様?」
「クラウス。明日の予定だが、フェア・ヴィルングの中伝に至る試験を行う」
「はっ。聞き及んでおります」
「その際に、奴を試す。いざという時は斬らねばならぬ」
ヴィクターはため息混じりに呟いた。
――――斬れないだろうな、と。
どこかで誰かが歌っている。
楽しげに歌う。喜んで歌う。手を広げて歌う。
くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー
しゃめっしゅ しゃめっしゅ
にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん
嗚呼、なんて気持ちのいい響きなのだろう――。