昔、約束した。
陳腐で。月並みで。ありきたりな。
誰にでも心当たりのある他愛無い口約束。
少年は胸を張って口にした。
将来クレア姉と結婚するのだと。
可愛かった。目に入れても痛くない弟分。
最愛の弟を失った時も、叔父を処刑した時も、親戚と不仲になった時も、いつだってクレアの味方となってくれた。隣で支えてくれた。凍えた心を溶かしてくれた。
お世辞にも賢いと云えず。武術の才に恵まれているとも云えず。一を聞いて一を知る。何の変哲もない少年だった。
名門であるトールズ士官学院を受験しても合格できなかった。平々凡々な士官学校に属し、常識的な成績で卒業する。鉄道憲兵隊はおろか、第六機甲師団に入れたのも幸運だと判断できる程に。
何処にでも存在する尋常一様な人間。英雄に相応しくない。傑物とも云えない。普通の幸せを謳歌できる人間だったのに。
『永遠』に、私が、護るつもりだったのに。
「あの、フェア?」
交易町ケルディックを越えた。
窓の外に広がるルナリア自然公園。
心を洗い流すような森林風景が流れていく。
ヘイムダル中央駅から沈黙の続く車両。鉄路を越える鈍い音だけ響く。否が応でもお互いの息遣いが聞こえる。
クレアは我慢できずに口火を切った。
気まずい空気を払拭する為に。4ヶ月前に逃亡してしまった件を謝罪する為に。弟分の『歪んでしまった性的嗜好』を正す為に。
「――――」
辿々しく名前を呼んだ。
返事を待つ。何秒も、何十秒も。
フェア・ヴィルングは窓の外を眺めるだけ。静かに。呼吸を整えて。まるで視覚以外の情報を排斥しているかのようだと思った。
彼の顔を見つめる。
去年と変わらない虚ろな表情。容貌は悪くないのではと黙考する。瞳は大きく、鼻筋は高く、比較的小顔に近い。それら全てを澱んだ双眸が台無しにしている。
そういえば、と無意識に回想した。
4年前に悪戯でキスしてしまったなと。
クレアは頭を振る。いやいや。何を考えているのかと。顔が赤くなっている。落ち着け。円周率を計算しろ。
自分自身と無意味な暗闘を繰り返す中、クレアは気付いた。フェアの顔が青白くなっていると。今にも倒れそうな表情をしていると。
「フェア、大丈夫ですか?」
「――――」
改めて問い直す。
返事は無い。遠い目をしている。
クレアは座席から身体を起こす。手を伸ばした。英雄の肩を揺さぶる。不謹慎ながらも頼もしい身体付きだと頬を赤らめた。
「え?」
フェアが視線を動かした。
漸く姉貴分の存在を認識したらしい。不思議そうに小首を傾げた。何回か瞬きする。夢か現か、理解できていないようだ。
クレアは座り直す。ため息を溢した。
「顔色が悪いです。青白くなっていますよ」
「それは、気付きませんでした」
フェアは唇の端を歪ませた。
無理に浮かべた苦笑だとわかった。
胸の動きが大きくなる。何度も深呼吸を繰り返している。心を落ち着かせる為ではない。疲労、もしくは苦痛を和らげる為に。
皇城バルフレイム宮の光景を思い出した。
次々と脳裏を過ぎる事柄。不埒な記事、倒錯的な言動、恋する乙女のような皇女殿下、満更でもないように微笑む騎士。思わず歯軋りしてしまう自分。
クレアはもしかしたらと勘繰った。
「満足に休息を取られていないのでは?」
「毎日しっかりと寝てますよ」
「ここ数日、皇女殿下に連れ回されていたと聞き及んでいます。幾ら仲良くなろうとも、夜遅くまで皇女殿下の部屋に入り浸るのは感心しません」
噂好きの侍女から聞いた。
皇女殿下の自室に連日連夜、招待される男がいるのだと。
救国の皇女と黒緋の騎士。雑誌や新聞を通して帝国中を賑わせるラブロマンス。英雄譚のヒーローとヒロイン。年若い男女。何も起きない筈がないと力説していた。
フェアは脚を組んだ。明後日の方向を見る。
「――詳しいですね」
「閣下と協議する為に登城することが多かったですから」
クレアは素知らぬ顔で答える
本当は弟分が心配で情報を探っていたのだ。
黒緋の騎士は十月戦役にて貴族連合軍を真正面から蹴散らした。嫡子を殺された貴族も数多く存在すると聞く。
戦闘行為に於ける結果だとしても。暗黒竜を討滅したしても。帝都の危機を救ったとしても。皇女殿下の専属騎士に選ばれたとしても。
フェア・ヴィルングはあくまで平民である。貴族からしてみれば見下す存在。貴い血を一滴も持たない下賤な輩。溝鼠ごときが調子に乗るなと。
『然るべき報いを与えてやる』
英雄を讃える声の裏側で巻き上がる怨嗟の声。如何にも人間らしい感情の発露。決して無視できない嫉妬と軽蔑の嵐であった。
普通の人間なら辟易するだろう。人間の醜い部分を見せられて絶望する。命の危険を感じて皇城から退去してもおかしくない。
にも拘らず、聞こえるように陰口を叩かれても。皇女殿下の威光を笠に着てると揶揄されても。緋の騎神に選ばれた事すら何かの間違いだと罵倒されても。
フェアは涼しい顔で聞き流した。
まるで『最初から聞こえていない』ように。
確かに貴族派は弱まっている。内戦を経て、カイエン公爵の暴走を切っ掛けにして、確実に往年の力を失っている。何もできない。領邦軍の規模も縮小した。貴族連合軍総司令官だったオーレリア将軍は、右腕であるウォレス准将と共にジュノー海上要塞で籠城したままだ。
逆風に晒される小貴族の胡乱な言葉など、無視しても問題ないかもしれない。聞く耳持たない方が吉なのかもしれない。
本当に良いのか。大丈夫なのか。
まさしく『異常』で『混沌』とも云える貴族たちの反発を無視して、変な禍根を残さないのだろうかと心配してしまう。
皇帝と宰相は気にしていないけども。
四大名門を筆頭とする大貴族の加護を失ってしまった小貴族の戯言ぐらい、今はまだ黙殺しておけと直属の上司にも窘められた。
「クレアさんが想像されているような事はしてませんよ。皇女殿下がお休みになられるまで護衛しているだけですから」
フェアが肩を竦める。
普段よりも心無しか早口だった。
口煩い姉に言い訳でもするように捲し立てる。
「バルフレイム宮ですよ」
クレアは疑いの眼差しを向けた。
「だからこそです。クレアさんも気付いている筈です」
「――民衆と貴族の動きですか?」
「俺の想定と乖離してきて少し困っています」
四大名門の均衡は呆気なく崩れた。
貴族派は凋落。領邦軍は壊滅。
フェア曰く、此処までは予定通りだったと。
さりとて不遜であると知りつつも、セドリック皇太子を疑問視する声が民衆の中から現れた。内戦の時に何をしていたのかと。暗黒竜が暴れ回っている時に何をしていたのかと。
代わりに『救国の皇女』として信奉を集める、アルフィン皇女を至尊の座に押し上げようとする動きすら出てきた。
帝国内で存在すら危ぶまれてきた貴族が何を考えるか。答えは簡単だ。セドリック皇太子に取り入り、最終的にアルフィン皇女を何処か僻地に幽閉する。
最悪の未来は、戦後のどさくさに紛れて、アルフィン皇女を殺害されてしまう事。進退窮まった貴族たちなら充分にやりかねない愚行だと。特にオーレリアやウォレスが海上要塞に引き篭もっている今、警戒して然るべきだとフェアは断言した。
「今は、誰が護衛を?」
「ヴィクターさんが警護に当たっています」
「光の剣匠殿なら安心ですね」
「はい。オリヴァルト殿下も気に掛けてくれると仰られたので。俺としては半月から一月ほどでクロスベル戦線から帰りたいと考えています」
虚空を眺める黒緋の騎士。
思い浮かべているのは皇女殿下に違いない。
幼い頃のフェアから向けられた優しい視線に似ている。胸の奥がキリキリと痛んだ。心臓がギュッと締め付けられる苦しみを覚えた。
初々しく手を繋ぐ二人を覗き見て。はしたない妄想を浮かべる侍女の声を聞いて。クレアは負けたくないと考えた。取られたくないと我儘を抱いてしまった。
奪われたくないなら。取り戻したいのなら。
私のモノだと証明する他ない。
諍うしか、勝ち続けるしかない。
戦え、競い合え、鎬を削れ。
この世は『闘争』の概念に浸る事でしか進歩しないのだから。
「それに――」
フェアは握り拳を作り、ゆっくり解いていく。
「クロスベルは、嫌いですから」
内戦が終結してから。
暗黒竜を討伐してから。
声が聞こえる。怨嗟の声が責め立てる。
最初は甲高い耳鳴りに近く。刻一刻と鮮明になっていき。人間の声だと気付いてから一段と早くなり、今では一人一人を聞き分けられるほどにまで洗練された。
苦痛と絶望。詰問と絶叫。
どうして助けてくれないのか。
どうして守ってくれないのか。
どうして暗黒竜を生み出したのか。
どうして置き去りにしていくのか。
どうして、どうして、どうして、どうして!?
誰も彼もが責問する。
俺は何一つ答えられないと知りながら。
俺は何一つ彼らに報いる事ができないと知りながら。
死にたくないと子供が啼泣する。
生きていたいと大人が嗚咽する。
親の名前を呼びながら死に絶えていく。
子供の名前を叫びながら倒れ伏していく。
過去の事なのに。
終わった事なのに。
もう、どうしようもできないのに。
連日連夜、鳴り止まない憎悪の嘶き。
存在Yの声など生温い。手の届く範囲から耳朶を侵す叫声。キツいなと弱音を吐く。だとしても甘んじて受け入れようと思った。
暗黒竜を生み出したのは俺と騎神である。齎された被害。屠られた人命。それら全て俺たちの責任だからだ。
一週間もすれば慣れた。
現実の声も聞こえるようになった。
謝りながら。同情しながら。
皇女殿下を安心させる為に笑顔を浮かべていた。
「顔色が悪いです」
クロスベル特急の列車で。
見送り役のクレアさんから指摘された。
表情に出しているつもりなどなかったのに。鍛錬が足りていない。精神も未熟に過ぎる。稽古を付けてくれた鋼の聖女にも笑われてしまう。
安心させる為に苦笑してみせた。
辛かった。巧く騙せたのか、自信がない。
目的地に着くまで数時間。とある理由から無理して会話を続けようと苦心した。話題は時事問題から十月戦役に移り、何故か好きな女性のタイプに発展した。それでも意識を口に傾けた。
夕陽が沈みかけた頃。
帝国領クロスベル州に到着した。
嗚呼、頭が痛い。
意識を持っていかれそうになる。
痛い。苦しい。辛い。きつい。悲しい。嫌だ。助けて。殺して。死なせて。食べさせて。私は誰。アイツは誰。どうして。痛い。お腹すいた。苦しい。死なせて。辛い。悲しい。一人は嫌だ。もう嫌だ。苦しい。食べたい。つらい。殺して、殺して、殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して!!
この地は呪われている。
全ての輪廻で断末魔を聞く。クロスベルに近付いた分だけ声量は大きくなる。脳内を掻き回すように。忘れないでと懇願するように。生きた証を残したいと訴えるように。
最初は耐えられなかった。自殺した。
今度は二日目で発狂した。自殺した。
何度も訪れることで耐性が付いた。身体が馴染んでいった。不思議だと思う。今ならゆっくりと寝れるのだから。
――しかし、今回は異なる。
叱責する憎悪の嘶き。
子供が発する断末魔の呪詛。
混ざり合う。溶け合っていく。
此処までキツいとは想定していなかった。汚染されていく。額を手で押さえる。頭がおかしくなりそうだ。立っているのか、座っているのか。地面は上か。天空は下か。
ダメだ。平衡感覚が保てない。
隣にいるクレアさんにしがみ付いた。
それすら力が足りず、地面に倒れ込む。
情けない格好だ。なんて無様なのかと嘲笑う。
「――――」
クレアさんが何か喋っている。
肩を揺らされた。頬を優しく叩かれた。
綺麗な双眸から涙が溢れ落ちた。泣いてしまっている事にも気付かないのか。少しも拭おうとしない。
とある輪廻を思い出した。
クレアさんと恋仲になった世界線。彼女は酷く泣き虫だった。氷の乙女と呼ばれる才女なのに。泣く子も黙る『鉄血の子供たち』なのに。
身体は動かない。鉛のように重い。
死ねばいいのにと罵声を浴びた。
早くこっちにおいでよと手招きされた。
誘惑は甘美で。諦念は媚薬のようで。
それもいいのかなと考えて、意識を手放した。
緋の騎神「…………」←あー、と納得。
黒の騎神「…………」←えー、と困惑。