行政区に聳え立つオルキスタワー。
クロスベル州を治める行政府であり、貿易センターや国際会議場などの施設を兼ね備えている一大ランドマークタワー。地上40階の超高層ビルには、帝国領を表現する『黄金の軍馬』が掲げられていた。将来的にはクロスベル総督府として機能していく事になる。
クロスベル駅で倒れたフェア・ヴィルング。口から泡を噴き、痙攣を繰り返し、最後は絶叫して気絶した。
騒ぎ出す市民。混乱する駅員。
誰よりも早く立ち直ったクレアは、弟分をウルスラ病院に運び込もうとした。当たり前だ。異常な光景だった。このまま死んでしまうのかと怖れてしまう程に。
一喝して駅員を正気に戻し、蔓延る野次馬を蹴散らした。担架を用意させる。担ぎ上げた。運搬する直前、緋の騎神に止められた。
曰く、ウルスラ病院で高度な治療を行っても意味がないのだと。『直したい』なら任せて欲しい。早期に霊力を高めないと死んでしまうと。
担架に寝かされたフェアの身体に縋りながら、どういう意味なのかと問い返す。知っている事があるなら教えて欲しいと。
緋の騎神は数秒間沈黙を保ち、貴女に出来ることは何もないと拒絶した。問答無用で起動者を核に取り込んだ。停止命令を無視。オルキスタワーへ飛び去った。
「成る程。緋の騎神がヘリポートに降り立ったのはそういう経緯からだったか」
超高層ビルの執務室。
クロスベル市を臨時統括する才色兼備な男性は、顎に左手を当てて呟いた。名前をルーファス・アルバレア。四大名門の嫡子にして、元貴族連合軍総参謀にして、鉄血の子供たちの筆頭という肩書を持っている。
クレア・リーヴェルトは苦虫を噛み潰したような表情で謝罪した。
「ご報告が遅れ、申し訳ありませんでした」
ルーファスが悠然と振り返った。
都心の煌びやかな夜景から視線を移す。
豪華な椅子へ腰掛け、執務机で手を組んだ。
「このような事態なら仕方あるまい。大尉を責めるのはお門違いというもの。何しろ相手は騎神だったのだから」
「しかし――」
納得いかずに否定するクレア。
鉄血宰相から与えられた任務は、黒緋の騎士をオルキスタワーまでお連れする事。ルーファスへ紹介する事。問題が起きないようにサポートする事だった。
僅か半日。一日も持たずに失敗した。
持ち前の責任感と弟分の容態から来る焦燥感。
誰しも振り向く絶世の美貌に翳りを見せた。口元は震えている。双眸は澱んでいた。顔色は今にも倒れそうな程に青白い。
「オズボーン閣下も苦笑しておられたよ。クレア大尉は、フェア・ヴィルングの事になると融通が効かなくなるとね」
ルーファスは快活に哄笑した。
楽しげに。面白そうに。さりとて嘲りを込めて。
ギリアス・オズボーンの名前を出された。敬愛する上司であり、親代わりとなってくれた人物の名前を。つまりは意識を切り替えろと。お前は鉄道憲兵隊の大尉だろうと叱責されたのだ。
「大尉、残念なことだが感傷に浸っている時間は少ない。理由は説明しなくても構わないかな?」
突き刺さる眼光だった。
軍人としての答えを求められている。
フェアの容態は気になる。出来るなら騎神の元へ駆け寄りたい。声を掛けるだけでも意味があると信じて。再び目を覚ましてくれると期待して。付きっきりで看病してあげたかった。
クレアは目を閉じる。軍人と私人の葛藤。どちらを選ぶべきか。悩んで、答えを出す。将来的に後悔する選択だと自嘲しながら。
「共和国軍に動きがあると推察します」
「二日、もしくは三日後に侵攻してくるだろう。情報局からの報告が正しければ、最精鋭と謳われる空挺機甲師団を投入する筈だ」
「万全の準備が施されていると聞きました」
「作戦内容、軍の行動、それらに必要な兵站。全て滞りなく終わっているとも。空挺機甲師団相手でも互角に戦えると断言しても構わない。勝つことは明白。しかし、戦線を一時的に突破される可能性が高いと考えるべきだ」
機甲兵と戦車による画期的な新戦術を用いたとしても。稀代の軍略家であるルーファス・アルバレアが指揮したとしても。
全ての戦線を完全に封鎖など不可能である。
共和国の誇る空挺機甲師団。彼らの練度を鑑みれば妥当な判断。空軍力だけを比較した場合、帝国軍は敗北していると認めてしまう程の差が存在する。
「市街地まで来られたら――」
「今後の統治に悪影響を及ぼす。それはなるべく避けたい。だからこそ黒緋の騎士、英雄殿の派遣を要請したのだがな」
困ったものだ、と。
ルーファス・アルバレアは肩を竦める。
黒緋の騎士を揶揄した言動であった。ほとほと使えないと。肝心な時に役立たないと。一体何をしているのかと。
ルーファスの立場からしたら妥当な感情なのかもしれない。手にしていた切り札が消失したのだから。愚痴の一つも溢したくなるのが人間なのかもしれない。
如何なる理由があったとしても、クレアの不快感は消えない。僅かながら憤りを付与して意見を口をする。
「閣下、新たな騎士の派遣を具申します」
蒼の騎神を駆るクロウ・アームブラスト。
灰の騎神を操るリィン・シュバルツァー。
どちらを呼んでも問題ない。フェアの代役として十二分に通用する。仮に明日の昼、帝国本土から呼び出したとしても間に合う計算だ。
ジュノー海上要塞で領邦軍存続を求めて籠城するオーレリア将軍。例え黄金の羅刹を牽制するにしても片方で十分だ。第七機甲師団と協力すれば不測の事態にも対応可能である。
しかし、ルーファスは首を横に振った。
「簡単にいくまい。人手が足りないのは何処も同じだからな。オズボーン閣下に要請したとしても却下されてしまうだろう」
「フェア・ヴィルングは戦えません」
「騎神が治してくれるなら問題あるまい」
「彼に必要なのは休息であると愚考します」
「大尉、フェア・ヴィルングは『英雄』だ。内戦で疲弊した帝国人を鼓舞するのに最適な、共和国に対する恐怖心を和らげるのに必要な『機械』なのだよ。今更な話さ。機械如きが、表舞台から勝手に降りるなど許されると思うかい?」
随分と勝手な言い分だった。
アルフィン殿下の進む道を斬り拓いたのも。暗黒竜を討伐したのも褒められるべき行い。帝国史に記載されても然るべき偉業とも云えよう。
故にフェアは英雄となった。
否が応でも『英雄』として人気を博した。
必要がある内は死体になってでも働いてもらう。
フェアの境遇に対して、クレアは愕然とする。
朗らかに微笑む筆頭の眉間に、導力拳銃を突き付けたくなった。落ち着け。落ち着け。我慢しろと必死に言い聞かせる。一時の感情に身を委ねるなど不合理だと知っているだろうに。
三回ほど深呼吸してから、抑えた声音で尋ねた。
「英雄なら使い潰しても構わないと仰られるのですか?」
「英雄とは国家の危機を打破してこそ存在価値を持つ。民衆の抱く絶望を払拭し、希望の火を灯してこそ存在を認められる。皮肉な話だが、英雄に祭り上げられた者は国家の奴隷となるしかないのだよ」
淡々と。揚々と。
ルーファスは断言した。
英雄になる条件を。英雄になった者の末路を。
何処となく面白そうだった。
フェア・ヴィルングがどういう結末を辿るのか。
壊れるのか。奮起するのか。
玲瓏な容貌は悍ましいモノに変わっていた。
怒りが湧いた。憤怒した。クレアは机を叩く。
「皇帝陛下、宰相閣下がお認めになられると思えません!」
「皇女殿下の婿候補として迎い入れる準備も進められていると聞く。此処で奮起しないで、平民出身の彼が爵位を得られると思うのかな?」
現実を見たまえ、と嗤う。
クレアが如何に反論しようとも。フェアが如何に反発しようとも。英雄の個人意思など中央政府からしてみれば不必要な代物なのだと。
随分な言い草である。
酷く人間味のない発言だった。
目を見開くクレア。手が震えた。
ルーファスはクスッと表情を緩める。好青年のように白い歯を見せて。女性を魅了する美貌に『空虚な感情』を貼りつけて。
「全ては彼が目を覚ませば、の話だよ」
せいぜい英雄殿に期待するとしようか。
ルーファス・アルバレアは嫉妬するように吐き捨てた。
夢だと気付いた。
これが明晰夢かと納得する。
暗闇に包まれた都市。散乱する死骸。明けない夜の帳。
完全に滅びた帝都を散策する。一人で。何日も。
異臭を我慢して。寂しさを誤魔化しながら。終わりの見えない夢の中を漂い続ける。
僅かに残っている廃墟の形から鑑みて、恐らくだが約900年前の帝都だと思われる。緋の帝都に相応しい煉瓦色の建物が欠片も見当たらないからだ。
これは想像か。それとも残滓か。
どちらでも同じ事だと虚しく笑う。
俺は納得したいだけだ。己を許したいだけだ。過去の方が悲惨だった。暗黒竜を討伐しなければ到来するだろう未来を夢想して、被害に遭った人々から目を背けているだけ。
下らないと唾棄する。
いつの間にこれほど『弱くなった』のかと。
巻き戻る時計を壊す為に。終わらない輪廻から脱出する為に。本当の意味で『死』を賜る為に活動してきた。
空の女神を殺してでも成し遂げる気概を持っていたのに、たかが五桁の人間を巻き込んだぐらいで罪悪感に苛まれてしまうとは。
皇女殿下と仲良くなれたから。
己の境遇を信じてもらえたから。
少なからず救われてしまったから。
帝国の人間を護りたいと思ってしまったから。
俺は弱くなった。心地良い弱さだと感じていた。
駄目だ。駄目だ。このままだと以前の自分に戻ってしまう。クレアさんに甘えてしまった輪廻まで回帰してしまう。
進むのだと。前へ。前へ。
一歩ずつでも前進するのだと決意した。
戻る事は許されない。
諦める事は容認できない。
遡るぐらいなら壊れてしまえ。
回帰するぐらいなら死んでしまえ。
強い自分に。全てを壊す覚悟を決めた己に。
確固たる意志を持ったフェア・ヴィルングを取り戻せ。
――――楽しめ、と誰かが嘲笑した。
黒い混沌が背後で踊る。
以前よりも存在を感じない。
それでも確かに取り憑いていた。
遊ばれる。弄られる。玩具にされる。
死ね。死ぬのだ。死なせてやると。
輪廻を繰り返せば楽になれるのだと嘯いた。
また導いてやる。
皇女と出会わせてやる。
さりとて『騎神には乗らせない』と憎悪する。
――――楽しめ、と誰かが誘導した。
宝剣ヴァニタスを抜く。磨かれた剣身に己の顔が映った。誰も殺していない処女剣。最初に奪う命が持ち主とは、何とも皮肉が効いているなと冷笑する。
首を貫くか。斬り落とすか。
一瞬だけ考え込む。断切に決定。
逆手に持ち替えて、首に押し当て、力を込めて。
「相変わらず凡庸な男じゃ。黒も驚いておろう」
薄皮一枚で阻まれた。
血が首元を伝う。致命傷にならない少量の血滴。
幾ら宝剣に力を込めても。当てる角度を変えても微動だにしない。
透明な結界に遮られている。頑強な防御結界。ヴィータ・クロチルダと比較することも烏滸がましい堅牢たる守護結界であった。
「此処で死ねば全て台無しになろう。許されぬ愚行じゃ。壊れても突き進め。不幸になろうと成し遂げよ。それが、天を見続けたお主の末路よな」
世界が切り替わった。
古代の帝都から現代のクロスベル市に。
オルキスタワーの頂上から周囲を見渡した。
天空は血のように真紅で。大地は漆黒に覆われている。人の気配を感じ取れない。魔獣の放つ独特な臭いも感知できない。完全なる空虚な世界だと思った。
宝剣を片手に立ち尽くす。
何をすれば良いのかわからない。
死への渇望は消えた。輪廻する覚悟も消えた。ならば目を醒さなければ。クレアさんを心配させてしまっている。
一歩、前へ進んで、異質な影を見た。
「怨嗟の声が恐ろしいのじゃな?」
女の声だ。
「弱さを払拭したいのであろう?」
優しくも厳しい声質だ。
「ならば殺せ。己の中に入り込んだ残滓を」
瞬間、明確な異常を感じた。
オルキスタワー内に、膨大な人間の気配が出現したのだ。一瞬の出来事。まるで虚空から産み出されたように。六桁に及ぶ人間が犇めき合う。
眼前の黒い影もその一人。
時間が経つに連れて、朧げな姿が鮮明になった。
少年のような体躯。黒い目は充血している。口から涎を垂らし、猛獣のような唸り声をあげて、俺という『食糧』を睥睨していた。
見覚えがある。忘れるなんて不可能な少年。
「これ、は――」
「子供も、大人も、女も、男も、若いのも、老いたのも。悉く殺し尽くせ。そうすれば此処から出してやろう。中々良い条件じゃろ?」
感謝しても良いぞ、と言い残して。
空から響いた女性の声は聞こえなくなった。
どんなに問い返しても。説明を求めても。文句を口にしても。空は沈黙したまま。言葉は返ってこなかった。
畜生に堕ちたとしても。
輪廻を脱却するとしても。
純粋無垢な子供を喜んで殺せる筈がない。
「ねぇ、お兄ちゃん」
少年が近づいてくる。
幽鬼のように。殺人鬼のように。
「お兄ちゃんのこと、食べたいの」
ゆっくりと。確実に距離を詰める。
まるで弱った獲物を追い詰めるように。
「お願い、お願い」
必死に懇願してくる。
どうしようもない飢餓感から声を震わせて。
見ていられない。涙が出そうになる。
どうして。何で。この子が此処にいるのか。
意味が無いと知りながら宝剣を構える。
この世の無情さに歯軋りしながら名前を呼んだ。
「――エルマー」
「ボクね、お腹イッパイになりたいのぉォォおおお!!」
獰猛な獣を彷彿させる叫び声を轟かせて。
人喰いの化物である『エルマー』は跳躍した。
クロスベル州を拠点としたカルト宗教団体。空の女神を否定するのはわかるが、最悪な事に『悪魔と邪神』を崇拝するという狂った連中がいた。
エルマーはその被害者。純然たる、可哀想な、どうしようもない被害者だ。とある輪廻で出会い、ケビン・グラハムなる怪しい神父と協力しても、殺害する事でしか救えなかった。
「また、お前を殺さないといけないのか」
柄を握り締める。
エルマーだけだと思えない。オルキスタワーには今、六桁に及ぶ人間の気配が蠢いている。
つまり。エルマーを殺したとしても、その苦痛に耐えたとしても、同じ事を10万回以上繰り返さないといけないのか。
「まったく――」
苦笑する。
「なんて、無様」
緋の騎神「マジでやるの?」←クレア怖い。
謎の女「当たり前じゃ」←おばあちゃまではありません。
緋の騎神「可哀想に」←フェア好き。