夢を見る。
時々、変な夢を見る。
ふわふわとした感覚に包まれていた。
周囲は白く。壁はなく。
地面は泡のように覚束ない。
さりとて赤黒い六角形の柱が八本、自身を中心に等間隔で聳え立っている。何処となく焔を彷彿させる熱量、空気を震わせる存在感から肌寒い空間を温めていた。
見覚えのある光景だった。
何度も何度も、この空間から誰かの人生を追体験する。
題名を付けるとするなら『冴えない凡人の一生』だろうか。
赤ん坊の時は母親の腕で優しく抱かれ、幼少期は元気に帝都を走り回っていた。父親の仕事の都合によって紡績町パルムへ引越し、氷の乙女と知り合い、日曜学校から平凡な士官学校に進学して、平均的な成績で卒業、そのまま内戦に至るまで軍人として切磋琢磨していく平々凡々な男の一生だった。
最初は何だろうかと呆れた。
詰まらない。楽しくない。何もオチがない。
途中から微笑ましく感じた。
英雄ではない。超人ではない。それでも必死に生きる一般人。『叶えられない夢』に手を伸ばす若者を応援するようになった。
彼の名前はフェア・ヴィルング。三つ歳下の男の子。エリンの里で修業している時も、巡回魔女として帝国中を放浪している時も。夢の中でしか知らない彼を人知れず応援していた。
「頑張れ、頑張れ」
まるで我が子を応援するように。彼に対して母性を感じていたのかも知れない。自分にこのような感情があったのかと驚嘆したのも覚えている。
ある時、巡回魔女の役目である月霊窟の最奥に安置されている『水鏡』を確認して、何故か起動している事に目を見開き、そして隠された真実に気付いてしまった。
彼は本当本来の意味で『一般人』ではなかったのだと。
黒の思念体。大地の聖獣。そして、理解できない見えない何か。様々な力を纏っている。いや、憑かれている。
どうしてなのか。
彼の半生を半ばリアルタイムで眺めていたが、常軌を逸した奴らに取り憑かれる要素など欠片も無かった。確かに『枷を外した故の不思議な願い』を持っていたが。それでもありふれた存在。世界からしてみれば塵芥に等しいモノ。にも拘らず、運命とやらに縛られてしまっていた。
ヴィータ・クロチルダは水鏡の前で誓う。
元々、呪いに犯されたエレボニア帝国の現状を憂いていた。家族の為に。フェアの為に。解決しなければならないと考えていた。
好都合だと奮起した。黒の思念体、大地の檻、フェア・ヴィルングの存在。勧誘されていた秘密結社の使徒になってでも、必ずや目的を遂行するのだと誓言した。
魔女の禁忌を破る。犯罪組織に身を落とす。
敬愛する盟主は口にした。
「永劫回帰に永劫輪廻。意味は似ていますが、その本質は大きく異なります。彼を救いたいなら、彼を『引き揚げたい』なら、貴女もまた深淵へと浸かるしかないのです」
正直な話をすると意味がわからなかった。
ヴィータが水鏡で確認できたのは、黒の分体が取り憑いたこと。大地の聖獣が憑依したこと。そして、見えない何かに縛られていることだけだったからだ。
永劫回帰とは何か。永劫輪廻とは何か。
問い質しても盟主は教えてくれなかった。
今はまだその時ではないと。いつか貴女も知る事になるのだと。望もうと望むまいと拘らず。貴女は彼の真実に手が届いてしまうのだと。
それは一体いつなのか。
それは一体何故なのか。
ヴィータは疑問を浮かべたのに対して、盟主は玲瓏な美貌を破顔させた。
例えそれが地獄の始まりだったとしてもと言い残して。
類稀な聡明さを誇る彼女でも掴み取れない真実の糸口。それらを探りながら、思考しながら、盟主の齎す『オルフェウス最終計画』の準備を着々と進めていく。
結果として幻焔計画を完遂できなかった。
何故か暗黒竜が復活して、フェアが緋の騎神を動かして、皇女を取り込む事で覇王へと変貌して、幻焔計画を鉄血宰相に乗っ取られて、妹に無様な姿を晒してしまう結果になってしまった。
他の使徒から笑われて。酷い屈辱と後悔に苛まれる日々。壁を殴り、物を投げ付けて、それでも癇癪を抑えられない情けない格好。杖を強く握り締める。
力が欲しい。いや、やり直したい。
今度こそ上手くやれる。今度こそ叶えてみせる。
傲慢にも。愚かにも。
彼女はそう願ってしまった。
「ごめんなさい、フェア」
だからなのか。だからこうなったのか。
目を覚まさせてやろうという世界の意思なのか。
久し振りに見覚えのある空間へ招かれたと思い、フェア・ヴィルングの人生を再体験するのも悪くないかなと微笑んだ瞬間、視界はノイズ塗れとなり、雑音が響いて、聞き取りにくい彼の声が鼓膜を揺らした。
【タス、け、テ】
ヴィータ・クロチルダは青白い表情を浮かべる。夢の中で、立ち竦んだまま、とある地獄を追体験しているから。
眼前にて繰り返される無惨な二年間。まるで凝視しろと云わんばかりに。目を離したら赦さないと恫喝するように。延々と脳裏に焼き付けようとしてくる。
この世の中に存在する様々な悪意を凝縮させたような、見るも悍ましい宿命に囚われた青年が絶望に諍い、踠き、足掻く二年間。誰にも信じてもらえず、たった一人で、親しい人も、憎たらしい人も全てを灰にして歩き続ける『深淵の軌跡』であった。
「ごめんなさい」
彼は歩き続けた。
希望が無くても、絶望に囚われても。
『彼女』と交わした約束を果たす為に。
美しくも忌まわしく、儚くも神々しい願い。
黒が振り翳す呪いとは別口に、フェアの精神性を蝕み続ける約束という名の『呪詛』であった。
何よりも先ず『彼女』を殺したくなったヴィータだったが、それよりも大事な事に気付く。根本的な部分。これまでの出来事と、これから予定していた計画が無意味であると察した。
例えばの話として、万事上手く行き、見事に黒の思念体を滅ぼしたとしても、フェア・ヴィルングを救い出すなど不可能である。
彼のループに黒の思念体は関係ない。
アレは保険を掛けているだけだからだ。
永劫輪廻を行わせているのは外からの来訪者である。黒を消去したとしても、フェアは変わらずに七耀暦1204年8月にループしてしまう。
どうしたらいいのか。どうすればいいのか。
先ずは来訪者の実情を知るべきだろうか。
いや、下手に探りを入れて、怒らせてしまったら何を仕出かすかわからない。恐らく来訪者は『外なる神』。天災に等しい。迂闊に触れようものなら汚染されてしまうだろう。
触らぬ神に祟りなし、と東方では言うらしい。
ご尤もな言葉である。まさしく至言。しかし、虎穴に入らずんば虎子を得ずとも聞いた覚えがある。
「私は貴方を助けるわ」
例えどんな事をしてでも。
膝立ちとなり、優しく手を伸ばす。
絶望に打ち拉がれるフェアの頬を撫でる。
励ますように。労わるように。
落ちてくる雨から彼を暖めるように。
これは異なる世界線。
これは異なるゼムリア大陸の記憶。
ヴィータ・クロチルダは本来この場にいない。只の幻想。或いは残滓。或いは虚像。どれにしてもフェア・ヴィルングに認識されない偽りの存在である。
だけど、その暖かさは通じたのか。
フェアは徐ろに顔を上げ、一拍挟んで自嘲する。
「今回も、ダメか。幻覚が見えるなんてな」
「――!」
思わず目を見開いた。
彼と話すのは果たして何度目だろうか。
片手で数える程度だが、不思議とスムーズに言葉が浮かんでくる。
「あら。私はちゃんと此処にいるわよ?」
「霞んでるんだが」
「どのくらいかしら?」
「顔もわからないくらい、かな」
「まぁ、貴方からしてみれば幽霊みたいなものだから」
「ああ、そう。やっぱり幻覚なんじゃねぇか」
弱々しく微笑むフェア。
傍らに突き刺してある白い大剣へ視線を移し、そして頭を横に振った。
「幽霊なら、斬ってもしょうがないよな」
「試してみれば?」
「そうしてやりたいのは山々なんだけど、どうも手に力が入らなくてね」
「その傷なら仕方ないわね」
腹部から絶え間なく流れ続ける血液。
一目見てわかる。致命傷だ。助かる術はない。
内臓を大きく抉られている。激痛に苛まれているだろうに、普段の様子と変わらずに喋れるだけ驚愕する。
「痛い?」
「そこまで、かな」
「そう。アレを斬ったこと、後悔してる?」
ヴィータは少しだけ目を逸らした。
時間にして夕暮れ。分厚い雨雲に覆われているせいか、湖の辺りはやけに薄暗い。それでも見える位置に棄ててある遺体と、暴風雨でも過ぎ去った後のような建物の残骸が先程まで行われていた激闘を彷彿させた。
「どうだろう。よくわからないよ、もう」
「悲しい?」
「いや」
「可哀想に」
「幽霊に同情されるなんてな」
笑い声を挙げようとして、彼は痛みに悶えた。
くの字に身体を折れ曲げようとするフェア。
歯を食い縛って耐える彼を、ヴィータは慌てて支えた。魔女の秘術を行使しても、世界によって打ち消されてしまう。
歯痒い。苛々する。
どうして私はこんなにも無力なのかと。
「なあ、教えてくれよ」
フェアは曖昧に笑う。
最後の力を振り絞っているのか。
息は絶え絶え。声に覇気を感じない。
それでも、次の輪廻に向けて意識を昂らせる為に問いかけた。
「俺は、『コレ』でいいのか?」
ヴィータは彼を地面に仰向けで寝かせつける。
頭を腿の上に乗せた。所謂、膝枕である。
フェアは多量の出血で意識が朦朧としているらしい。特に抵抗も見せず、弱々しく頭上を睨み付けるだけだった。
「おい」
「大人しくしなさい」
頭を撫でる。優しく、優しく。
彼の母親の代わりとして愛情を込めて。
手入れなどしていない黒髪を手櫛で整えていく。
「幽霊、さん?」
「貴方はそれでいいのよ」
「本当に、そう思うのか?」
「ええ。貴方の思う通りに進みなさい。これからは私もフォローしてあげる。だから、決して諦めないで」
「諦めるつもりなんてないよ」
「約束する?」
「意味、あるのか?」
「嫌?」
「いいよ。約束する」
「良かった」
ヴィータが微笑む。
フェアは安心したように目を閉じた。
「ありがとう」
「――何が?」
「少しだけ、迷っていたから」
「そう。疲れているのね。少し眠りなさい。子守唄でも歌ってあげるわ」
「だから、子供扱いはやめてくれって」
歌姫による無償の子守唄。
雨粒が地面を叩き付ける音も、吹き荒ぶ木枯らしの轟音も跳ね除けて、フェア・ヴィルングの耳許へ優しく伝わっていく。
ヴィータは考える。
こうして誰か一人の為に子守唄を紡ぐのも悪くないなと。魔女として。歌姫として。使徒として。様々な使命を忘れられた一時だった。
彼女もまた悩んでいた。苦しんでいた。
だから救われたのは果たしてどちらだったのか。
わからないまま時間は流れていく。
雨は止まず、風は収まらず。
湖の辺りで子守唄だけが人の気配を知らせてくれる。
「フェア・ヴィルング、だ」
唐突に、彼が喋った。
目を閉じたまま。少しだけ口を開けて。
今更ながら自らの名前を言の葉に乗せた。
「え?」
ヴィータは小首を傾げる。
「俺の、名前。名乗ってなかった、から」
「――――」
嗚呼、と納得する。
魔女は一度として彼の名前を呼んでいない。
気恥ずかしかったからか。
それとも彼の惨状に心打たれたからか。
ヴィータは子守唄を止めて、歌姫の如き微笑みを浮かべた。
「良い名前ね」
「あぁ、本当に」
「私の名前も、知りたい?」
「幽霊にも、名前が、あるのか?」
失礼ねと口を尖らす。
童心に帰り、彼の頬をむにっと掴んだ。
いざ名乗ろうとして、ヴィータはふと思った。
もしも此処で名乗ってしまったら、今回の世界線に於ける過去を変えてしまうのかもしれないと。
好都合か、それとも不都合か。
ヴィータ・クロチルダでも判別できなかった。
結局、悩むだけ無駄だと結論付ける。
ならば名乗ってみるのも面白いと熟考して、
「――もう、莫迦ね」
彼が息を引き取っている事に漸く気付いた。
これまで見てきたループの数々。死ぬ瞬間はいつだって悲惨だった。拳銃自殺、拷問による死、深傷を負ったショック死、出血死、数え上げるのも馬鹿馬鹿しくなる程、彼はありとあらゆる死を経験して、その死に様はいずれも可哀想なほどに痛ましかった。
穏やかな寝顔だった。
安らかに。静かに事切れていた。
ヴィータ・クロチルダは魔女である。そして、秘密結社の最高幹部である。死体はとうの昔に見慣れている。
彼らと同じ死顔は、フェア・ヴィルングにとって今回のループは少しでも心救われたからなのだろうか。
「下らないわね」
彼の願いは、本当の意味で死を賜る事。
輪廻を繰り返さず、永遠の眠りにつく事。
わかっている。気付いている。知っている。
それでも、そうだとしても。
今まで多種多様な艱難辛苦を味わってきたのだから。彼の精神を磨耗する地獄だけ到来していたのだから。この残酷な試練を乗り越えた先に幸福が待ち構えてないと全くもって辻褄が合わないだろうに。
人生は山あり谷ありと云うならば、フェア・ヴィルングに関して適用させるなら、これからはずっと山だけで良いはずなのだ。
「――救ってみせなさいよ、空の女神」
この子をどうか。
この煉獄から助け出して。
魔女が乞い願うなど間違っている。
至宝を顕現させて。
奇蹟を実現させて。
どうか、どうか、この青年を助けてあげて。
慟哭は空に通じなかった。
女神は彼らに微笑みを齎さなかった。
「――――」
不干渉を気取るのか。
こうして信仰心を集めておきながら。
暴走した七至宝の残骸すら回収せずに。外なる神を相手にする事もなく。こうして一個人を救い上げようともしない。
それが『神』であると云うならば。
それがフェアを見棄てる理由ならば。
「貴女の代わりに、私がこの子の女神になってみせる」
ふと目が覚めた。
肌触りの良い毛布に包まれている。
ベッドはふかふか。眠気を誘う悪魔の道具。
身体が重い。思考も鈍っている。
俺はどうして眠っていたのだろうか。
意識を落とす直前を思い出せない。
視界に広がるは高い天井。飾り付けられたシャンデリアに目を細める。右側へ視線を移す。壁一面に広がる巨大なガラス、触れただけで一般人の年収を超える額を請求されそうな調度品の数々が目に映った。
不調法な俺に似合わない豪華絢爛な部屋である。
何が起きた。どうして此処で寝ている。
疑問を晴らそうとして、身体を起き上がらせようとして、何か違和感を覚えた。
何やらいい匂いが鼻腔を擽る。そして頭を沈めている物は枕と思えない柔らかさ。嫌な予感がして視線を真上から少し後方にずらしていった。
「幽霊、さん?」
ガラスから差し込む陽光で顔が見えない。
さりとて見覚えのある光景だった。
最後の最後に救われた世界線。女性の幽霊に子守唄を歌ってもらいながら死んでいった輪廻の記憶と瓜二つな状況。何も考えずに口走った単語だったが、女性らしい存在はクスッと笑った。
「おはよう、寝坊助さん。約束通りフォローしに来たわよ」
何を言ってるのか。
というか誰だ。あの時のように幻覚か。
いや、膝枕されているのだ。実体はある。そもそも論として、俺はこの気配の主を知っている。確か彼女は秘密結社の最高幹部で、セリーヌ曰く魔女の一人で、帝都でも大人気の歌姫ではなかったか。
そうだ。
蒼の深淵、ヴィータ・クロチルダだ!
寝込みを襲われたか。無用心な。そして怠け過ぎだと己を叱りつけながら、俺はやけに重い身体で戦闘態勢に移ろうとして『悪夢』を見た。
「あら?」
「え?」
「はぁ。密会のつもりだったのに。残念だわ」
開かれた扉の先に。
天使のような微笑みを浮かべて。
普段通りのお淑やかな皇女殿下を見て。
「どうして貴女が此処にいるのですか?」
「簡単ですよ。彼との約束を果たす為に来ました」
「約束?」
「ふふっ。皇女殿下には関係ない事ですよ」
「――」
「顔が引きつっていますわ、皇女殿下」
「そこから離れなさい、ヴィータ・クロチルダさん」
俺は何も悪くないのに、平謝りする未来が垣間見えたのだった。
空の女神「だってニャル様怖いもん。゚(゚´Д`゚)゚。」
D∴G教団「お前、ホンマそういうとこやぞ」
フェア「どっちもどっちなんだよなぁ」