三十六話 盟主邂逅
鼓動を感じた。旋律を奏でた。
約二千年に渡り、理の果てに微睡む大いなる神。
静かに、されど確実に。
騒がしく、なれど不明に。
如何に『私』とて手出しできぬ至高の存在。
迂闊に触れれば抹消されてしまう。無闇に関われば発狂してしまう。無力を恥じ、無知を呪い、無明を消した。
だとしても。そうだとしても。
私は何とかして諍いたかったのだ。どうにかして傍にいたかった。胸を叩き、感情を吐き出し、伝えたかった。全てを背負い込む必要など無いのだと。
そうあれかしと望まれ、そうあればいいのにと願われ、そうあるべきだと断言されても尚、まだ見ぬ人類の為に大罪を背負った男の魂を救いたかったのだ。
因果律を確定させる禁書。白痴の魔王と接続してしまう宝物。強大な神性を剥ぎ取る前に創り上げた『七至宝』すら、一息で吸収してしまいかねない化け物へ単独で相対する道を選んだ男の魂を煉獄から掬い上げたかったのだ。
「――――ゼーレ」
目尻から溢れた涙を拭う。
無意味な感傷。無価値な滂沱。
心を切り替え、他所行きの表情を貼り付ける。
後悔も、懺悔も、悔恨も必要ない。
『私』は身喰らう蛇の盟主。
神性を剥ぎ落とした女神の残滓。
そして、彼の心を縛り付ける呪詛を刻んだ最低最悪な女だ。
森林の隙間から溢れる夕焼け。
もうそんな時間か。一呼吸を挟み、名残惜しくも宝剣を鞘に仕舞った。近くの岩場に腰掛け、竹で作られた水筒を口に運ぶ。
エリンの里を訪れてから早くも一ヶ月。怒涛の一月だった。漸く落ち着いた。未だにお客様扱いだが、それは致し方ないと思う。彼らからしてみれば千二百年も待ち望んだ存在だ。どのように接していいのかわからないだろうから。
顔を上げる。
最近、頻繁に空を見るようになった。
まるで幼い頃みたいに。好奇心からか。それとも義務感からか。無意識ながら手を伸ばす。何かを掴もうとする。だが、何もない。
空虚で、無意味で、ゼムリア大陸から出てみたいという無謀な願いを嘲笑うようで。
ふと疑問に思った。
嘲笑うのは誰なのだろうかと。
家族か、友人か、他人か。それとも世界からか。
恐らく全員だろうなと自嘲の笑みを溢す。
「此処にいたのね。探したわよ」
足下から聞こえる声。
夕陽に彩られた天から視線を落とす。
黒猫がいた。エマの使い魔。セリーヌである。
どうして此処にいるのかと疑問を覚えて――。
「嗚呼、夕飯か」
「いつまで経っても帰ってこないんだから。珍しくロゼが心配してたわよ」
片膝を付き、黒猫と視線を合わせる。
不機嫌であると伝えるように眦を吊り上げるセリーヌだったが、少しだけ心配そうに鳴いた。この使い魔はキツそうな言動と裏腹に心優しい性格の持ち主だ。飼い主に似るというのはどうやら本当らしい。
「悪かったよ。少し考え事をしてて」
セリーヌは一瞬だけ目を見開き、静かに問う。
「――皇女のこと?」
ほら、と笑いそうになった。
未練がましい男を嘲笑するのでなく。心の底から相手を慮るような声音で優しく尋ねてくる。
だからこそ俺は肩を竦めて答える。
「違うって」
「なら、いいけど」
納得したのか、していないのか。
セリーヌは不機嫌そうに目を細める。
どちらかといえば納得してなさそうである。余計な心労を与えるのも気が引けた。故に尋ねた。何度か繰り返してきた問い掛けだった。
「セリーヌはさ、ゼムリア大陸の外に何があると思う?」
「またそれ?」
「気になるだろ」
「そりゃあね。でも、幾ら考えても意味ないでしょうが。誰も真実を知らないもの。教会の連中だって答えられないわよ」
「――俺は、俺たちは不自由なんだよ。この小さな星に、この大陸に押し込まれている。綺麗に整えられた箱庭を有り難がってるんだ」
誰の仕業なのか。誰の思惑なのか。
わからない。だから腹立たしかった。
最早、過去形である。過去形にしてしまった。
「だからアンタは空を見続けるの?」
「ずっと昔の夢だよ」
「夢、ね」
「最近、どうしてなのか頻繁に考えるんだ」
俺の願いは一つだけ。
この地獄から解放される事。
世界の真実など、世界の在り方など。既にどうでもいいことだった。死を賜る事に比べれば。輪廻の隙間を潜り抜ける事に比べれば。
セリーヌが右脚で俺の足を優しく叩いた。
「疲れてるのよ。今日は早めに休みなさい。ロゼには私から伝えておくわ」
「大丈夫。俺も手伝うよ。ヴィータさんの洗脳を解く準備なんだから」
「いいから。アンタがいても大して役に立たないんだから。今日は大人しく休んでなさい。いいわね?」
有無を言わせない声音だった。
素直に頷かなければ魔女全員で休ませそうな勢いだ。こうなってしまうと梃子でも動かないのがセリーヌである。
溜息を一つ。首肯する。
黒猫はそれでいいのよと笑みを浮かべて――。
「――これは」
最早驚きは無かった。
完全に世界が閉じている。
微風に揺れる木々、周囲を駆け回る魔獣、先導するように歩く黒猫。それら全てが、世界を構成する物質全てが静止した。
錯覚か。それとも幻術なのか。
不思議な現象に慣れたからだろう。慌てず、冷静に現状を把握していく。どうしたものか。下手人は誰なのか。初代ローゼリアなら侮蔑を含んだ言葉で煽ってきそうな場面だが、体感時間で一分経過しても現れそうにない。
この時点で初代ローゼリアの線は消えている。ならば誰なのか。存在X、もしくは存在Yか。こんな回りくどい、いや、こんな直接的に関わろうとするだろうか。
どんな存在が現れてもいいように、俺は宝剣を抜こうとして、締め付けられる胸の疼痛から眉間に皺を寄せた。
そうだ、俺は『彼女』を知っている。
空から舞い降りた長髪の女性。色素の薄い髪、白磁のような肌、黒を基調とした清楚な服装、まるで『女神』のような雰囲気を醸し出す天女に、俺は何故か懐かしさを覚えた。
そして、この女性が何者なのか察した。
「間違っていたら笑ってほしい。アンタ、結社の盟主か?」
確率として数億分の一に等しい質問だろう。
だけど、どうしてだろうな。
俺は確信を以って問いを投げ掛けた。
仄かな笑みを浮かべ、『彼女』は静かに声を発した。
「初めまして。漸くお会いできましたね」
「――なんで、かな。聞きたい事とか、確認したい事とか、たくさん有る筈なのに、上手く言葉にできないんだ」
例えば、盟主がどうして此処にいるのか。
例えば、この現象の原因と結果について。
例えば、どうして結社を作り上げたのか。
例えば、何故俺の輪廻を知っているのか。
例えば、例えば、例えば――。
細かい所まで挙げるならキリがない疑問の数々。純粋な部分もあれば、叱責に近い部分も有るだろう。にも拘らず、勝手に身体が動いた。一歩だけ近づく。『彼女』の頬に手を当てる。生きていると体感して、ひたすらに安堵した。理由はわからないけど、目尻に涙が浮かび上がりそうな程、俺は安心したのだ。
「どうしました?」
盟主は小首を傾げた。
初対面の男に触れられた不愉快さは微塵も感じられない。まるでこうしている事が当たり前のような、恋人という関係性が至極当然のような距離感だった。
俺は慌てて距離を取る。
胸を覆い尽くすような恋慕をかなぐり捨てて。
「アンタ、俺に何をした?」
「何も。今の貴方には何もしていませんよ」
「今の?」
「言葉を間違えましたね。貴方には何もしていません。だからこそ、貴方はこの空間に存在していられるのですから」
俺は宝剣を突き付ける。
瞬間、心の何処かで誰かが絶叫した。
やめろ。何をしている。許されない行為だと。
愚行を糾弾する心をかなぐり捨てて、盟主に対して敵対行動を取った。
「心して答えろ。セリーヌや、他の人たちは無事なんだろうな?」
彼女は淡々と頷いた。
「勿論。単純に『世界を止めた』だけです」
「時間を停止した、ということでいいのか?」
「厳密には『世界の管理を棄てた』だけですよ」
正直、意味がわからなかった。
大国すら翻弄する秘密結社の長だとしても、世界の管理を行えると思えない。人間の許された管轄を超えている。
人でないなら何だろう。決まっている。アレしかいない。
「神、なのか?」
七至宝を人類に与えた空の女神。
星すら瞬く間に滅ぼしそうな外なる神。
比べるとしたらそのような偉業を行える存在だ。
盟主は少しだけ表情を変えた。不機嫌そうな口調で答える。
「その区分は嫌いです。貴方も嫌いでしょう?」
「そう、だな。空の女神も、外なる神とやらも大嫌いだ」
「ええ。貴方はそれで良い。そうでなければなりません」
「含みのある発言だな」
「人が歩むのに必要な感情は憎悪ですから。神を恨んでいるなら、心底から嫌っているなら貴方はまだ歩いていける。安心しました」
胸を撫で下ろす盟主に、違和感を覚えた。
何かが、何処かがおかしいと。
この女性はヒトではない。
敢えて表現するなら人形に近い。
もしくは何かの搾りカスだろうか。
いずれにしても人間を超越している。そんな存在が、どうして俺如きを心配しているんだ。どうして世界の管理を一時的に棄ててまで会いに来たんだ。
「色々と聞きたいことがある。聞かなきゃいけないことが山ほどあるんだ。アンタは、答えてくれるのか?」
「いいえ」
だろうなと思う。
だから、純粋な疑問だけ尋ねる。
「どうして、俺の前に現れたんだ」
「外なる神を出し抜ける好機だったから」
「それは理由にならない」
「謝りたかったのです」
「初対面なのに、か」
「ええ」
何を謝られているのか分からなかった。
訊けば簡単なのに、口は動いてくれなかった。
もしも結社の連中が齎した被害について謝っているなら、幾らでも文句や不満を口に出来たはずなのに。
俺は宝剣を背中に戻して、ポツリと答えた。
「許すよ」
「許さないで下さい。許してはなりません」
えぇー。
「なら謝る必要ないだろ」
「自己満足です。貴方に大罪を押し付けた。貴方に後始末を任せた。貴方に呪詛を植え付けた。貴方に、果てしない苦痛を肩代わりしてもらった。謝罪だけで許される許容量を超えています」
大罪。後始末。呪詛。苦痛。
身に覚えの無い言葉の羅列だった。
その内容を知りたくとも、彼女は答えられないと唇を噛み締めた。外なる神に知られてはとんでもないことになるのだと。
「なら手伝ってくれよ。俺の輪廻を終わらせる為に」
「私が直接関与したとなれば、外なる神が黙っていないでしょう。本来なら貴方に会うだけで因果律の調整が働くと思っていただければ」
「?」
「今回の事もまた『天の理』に触れたから。女神の施す呪いから最も浄化されている魔女の里だから。こうして貴方と直接対面できたのです」
「難しい話は苦手なんだがなぁ」
嘆息して、頭を搔く。
生来、頭の良い方ではない。
経験に基づく推測なら可能なのだが、意味深な単語を聞いても、それに該当する答えを導き出せないのだ。
残念な頭をしていると自分の事ながら思う。所詮はトールズ士官学院にも入れなかった落ちこぼれなのだから仕方ないかもしれないけど。
「ふふ、そうですか」
何が琴線に触れたのか、盟主は微笑んだ。
優しげな声、柔らかい笑顔、望郷の念すら抱かせる光景だった。
「アンタも、笑うんだな」
正直、驚いた。
彼女は『もう』笑わないのだと思っていたから。
恐らく盟主自身も仰天したのだろう。何度も己の頬に手を当てる。信じられないと言いたげに呟いた。
「笑うなんて、いつ振りでしょうか」
「鉄面皮より良いと思うけど。アンタは、昔から笑ってた、ほうが――」
昔から。昔から。
昔から何なのだろうか。
俺と彼女は初対面なのに。
これまで出逢った事も無いはずなのに。
「これ以上は、駄目みたいですね」
盟主が浮かび上がる。
重力を完全に無視した挙動など今更だ。それでも手を伸ばす。焦燥感が身体を動かした。どうにかして彼女を此処に繋ぎ止めておきたいと心臓を焦がした。
「待て。行くなッ。また俺の前から――!」
消えるのか。
置いて行くのか。
俺は、オレは、君の為に――。
「先に私の前から姿を消したのは貴方ですよ、ゼーレ」
さようなら、と言葉を残して。
どうしようもない喪失感を抱かせて。
彼女は姿を消した。
「ちょっと、なに立ち止まってるのよ」
セリーヌの声で、霞んでいた意識が回復する。
「――アンタ。その花、どうしたの?」
右手を持ち上げる。
白い花が握り締められていた。
俺は何をしていたのだろう。誰かと会っていた気がする。誰かと話していたと思う。大事な人。大切にしなければいけない人と。
大森林にも、エリンの里にも自生していない白い花を見つめて、俺は、オレは動く口を止められなかった。
「オレの好きな花を覚えていたんだな」
エーデルワイス。
最早、何処にも存在しない花の名前を、オレは弱々しく呟いた。
創の軌跡が発売されると4月下旬に知り、パッケージの写真が盟主であると気付き、盟主の新設定が出る可能性も高いと思い、更新は控えようと考えていたのですが、これはクトゥルフ神話に犯された軌跡シリーズなので吹っ切れようと遅まきながら決意して更新した次第です。
後、普通にAPEXの面白さに嵌っていたという俗物的な理由もあります。更新が遅れて申し訳ありませんでした!