七耀暦1205年7月19日。
クロスベル市上空を疾走する二隻の特殊飛行艇。
曇天に覆われた帝都ヘイムダルと異なり、雲一つ存在しない月夜の中、光学迷彩とステルス機能を展開した状態で針路を西へ向けている。
飛行艇の名を『メルカバ』と云う。守護騎士全員に与えられる代物。飛行アーティファクト『天の車』を機関部に活用し、エプスタイン財団の近代導力技術供与によって作成された飛空艇である。
行先は混迷極める帝都ヘイムダル。
既に三人の守護騎士が現地へ赴いているが、封聖省の枢機卿は万が一を考慮して最強の切り札を投入した。
飛行艇側面に『壱』と書かれたメルカバへと乗り移ったワジ・ヘミスフィアは、逆立ちしても敵わない上司へ声を掛ける。
「今の通信相手、もしかして蛇の人間では?」
通信を終えたばかりの女傑は、艦長席に腰掛けながらニヒルな笑みを浮かべる。
「厳密には蛇の人間だった、だな。今でもその名残は有るがね。五月中旬に離脱しているよ。確認も取れている」
「蒼の深淵ですか」
「そうそう」
「今、例の男の近くに居るはずでは?」
「その通り。だから他言は無用だぞ」
爽やかな笑顔で返されて、ワジは反論せずに首肯する。
これでも長年の付き合いだ。経験則から培われた危機感と、騎士団全体に共有されている暗黙の了解に唯々諾々と従う。
即ち。
アイン・セルナートが破顔した時は是が非でも逃げるべし。
アイン・セルナートが上機嫌な時は万難を排して逃亡すべし。
「封聖省のお偉方が黙っていませんよ」
それはそれとして、釘を刺しておく。
「バレなければ問題あるまい。わざわざ解析される危険性を犯してまで、秘匿通信を使ったのだからな」
教会の独自暗号技術を用いた秘匿通信で。
異端審問確定のフェア・ヴィルングに関わる深淵の魔女と連絡を取るとは。
不良騎士と名高いワジでも流石に目眩がした。
「危ない橋を渡りますね。いくら総長でもクビが飛びますよ」
物理的に。
教会の威信にかけて。
尤も、鋼の聖女と互角に渡り合えるかもしれない女傑、もとい暴れ回る生粋の猛虎に、誰が首輪を掛けるのかという致命的な問題を無視すればの話であるが。
「それは楽しみだな」
「相変わらず戦闘狂ですね」
「失礼な奴だ。守護騎士総出で私のクビを殺りに来るのだろう。多少なり心躍るのも仕方ないと思わんか?」
「ノーコメントで」
手綱を握る努力は怠らないでくれと。
吼天獅子の異名を持つバルクホルン卿と、副長であるトマス・ライサンダーから頼まれているにも拘らず、責任感を虚空の彼方に放り投げたワジは肩を竦めて明言を避ける。
苦労しているんだろうなぁと他人事のように構えていたが、いざ自分の番になってしまうと腹部から痛みを感じた。
ケビンに任せれば良かったと酷く後悔する。
「つまらん」
鼻を鳴らすアイン・セルナート。
額に皺を寄せて、煙草の吸い口を噛んでいる。
これ以上は不毛だ。話を変えよう。
背中を駆け巡った寒気と、純粋な好奇心から問い掛ける。
「蒼の深淵と何を話されたので?」
「例の件だ。魔女の予想が我々と一緒なのかどうか確かめたくてな」
アインは美味しそうに煙を吐き出す。
トントンと灰皿を鳴らして、流れ作業のように煙草を咥える。
紫煙が一筋の糸のように流れていった。
ブリッジに立ち込める独特の臭いを嗅ぎながら、ワジは上司の破天荒さに天を仰いだ。
冗談かと期待したのだが、どうやら本当らしい。
去年の一件。塩の杭発生時と酷似する現象。その中心人物と目されるフェア・ヴィルング。七耀教会が掴んだ極秘情報である。
まさしく門外不出。ノーザンブリア異変を連想させる情報が表沙汰になってしまえば、西ゼムリア大陸は大混乱に陥ってしまう。
只でさえ一杯一杯の状況。
これ以上の混沌など誰も望まない。
無秩序な状態はいずれ破滅を生むだろうから。
だが――。
ワジは腕組みしたまま推測する。
封聖省のお偉方にバレたら破門確定の危険を冒してまで、わざわざ手に入れた情報としては余りに弱すぎるのではないかと。
聖杯騎士団を束ねる総長なら、更に一歩進んでいてもおかしくない。
「それだけではないでしょう」
「当然だ。代償と対価がかみ合っておらん」
アインは煙草を灰皿に押し付ける。
気付けば、吸い殻が死体のように積み重なっていた。
「本命は別に在りますか」
「知りたいか?」
「総長のご判断に任せますよ」
どちらかと問われれば、知りたいと答える。
フェア・ヴィルングに関する事柄だろうから。
特務支援課の面々を苦しめた男。
クロスベル独立の道を険しくした男。
未だ出会った事のない敵に対して、ふつふつと敵愾心が湧いてくる。
十割近い私情。偏った思考。依怙贔屓と蔑まれても否定できない。
それでも、ワジは内心を隠した。
聖杯騎士団総長の考えを伺っていないからだ。
「お前らしいな。責任は負いたくないか」
紅蓮の双眸が貫いた。
心底まで見透かされるような感覚に襲われる。
ワジは意図的に視線を外して、ぼんやりと外を眺めながら答えた。
「語弊がありますね。背負う必要のない危険から離れているだけです」
「虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言うだろう」
「君子危うきに近寄らずとも言います」
前例に倣って東方のことわざで言い返すと、アインは愉快そうに哄笑する。機嫌を良くしたのか、新しく煙草に火を付けて、上方に勢いよく煙を吐き出した。
「そう怖がるな。今から話すのは、あくまでも私の推測。仮説に過ぎんさ」
「聞くだけでしたら」
言葉少なめに先を促すと、総長は意外な問いを投げ掛けた。
「女神の元へ、と口にした事はあるか?」
「ええ、勿論。誰もが口にする言葉だと思いますけど」
「そうだな。教会関係者だけでなく、信心深い者でなくても必ず一度は口にする言葉だ」
「それが何か?」
眉を曇らせるワジ。
アインは嫣然と笑った。
「不思議だと思わないかね?」
「と言うと?」
「我々は、この世界を女神が創造した唯一の物だと信じている。大原則の教義としている。そもそも疑問に思わないような思考システムとなっているわけだ」
ワジの脳裏に過ぎる近年の研究結果。
外洋を進む船舶や飛行船が、いくら行けども同じ海域や空域を突破できないという謎の現象。科学的に、そして物理学に説明できない。袋小路だと判明した世界は、逆説的に女神の実在を裏付ける根拠となっている。
つまり、思考の放棄。
説明できない現象を空の女神に押し付けているだけ。
「悪魔や天使などが住まう高位次元を認めているものの、別世界の存在を赦していない」
誰あろう七耀教会が赦していない。
空の女神を奉ずる組織であるが故に。
「なら、死した魂は何処に行くのか」
脚を組み、天井を見上げるアイン。
ワジは立ち昇る紫煙を目で追いながら咄嗟に答える。
「女神の元へ――。いや、そうなると」
不自然な所で言葉を切ると、アインは淡々と続きを口にした。
「矛盾が生じてしまう。空の女神が創造したのがこのゼムリア大陸だけだとするなら、死んだ魂の行き場など何処にも存在しない事になる。まさか空の女神に吸収されるわけもないだろうしな」
「総長はどうお考えで?」
一拍。
「死した魂を回収、調整、管理する外部機関が存在するのだと見ているな」
それこそが、ゼーレ・デァ・ライヒナムだと。
半分以上も残っている煙草を灰皿に置いて、アインは感慨深く呟いた。
一瞥すれば人名に思える言葉の羅列。だが、総長の提示した仮説を元に訳してみると、なるほどなと納得の言葉が口から漏れた。
死者の魂。
それを収納する存在という訳だ。
「古代遺物、にしては強力過ぎますね」
「我々教会関係者からしてみれば、まさしく『想定外の奇蹟』という奴だな」
「塩の杭と同じ――」
反射的に目を見開く。
点と点が一直線に繋がった。
ノーザンブリア大公国を崩壊させた塩の杭は、想定外の奇蹟と呼称されている。ゼーレ・デァ・ライヒナムもまさしく同じ代物なのだとしたら。
そして、塩の杭を連想させる今回の事態に関係有るとしたら。
「気付いたか?」
「フェア・ヴィルング」
「その通り」
我が意を得たりとばかりに首肯するアイン。
「では、彼が死者の魂を吸収していると?」
一個人に赦される能力だろうか。
神の存在を脅かしかねない権能だ。
そもそもアインの仮説が正しいのなら、フェア・ヴィルングは人間と呼べない何か。古代遺物、或いは想定外の奇蹟が擬人化した存在に近い。
「どうかな。所詮、私の仮説に過ぎんさ」
アインは真面目な相貌を崩して、煙草を吸うことに熱中している。
「意外と当たってるかもしれませんよ。それに自信も有るんでしょう。わざわざ蒼の深淵に話すぐらいには」
「可愛げのない奴だな」
「総長のお陰です」
正に薫陶の賜物だと。
感謝していますと頭を下げる。
アインは鼻で笑い、モニターへ視線を移した。
「去年の一件、塩の杭を連想させて話してみたが釣られなかったからな。自説を披露する羽目になってしまった。聡明な女だよ、蒼の深淵は」
流石は蛇の使徒へ登り詰めた魔女だ。
アイン・セルナートと論戦を交わせる者など、そうそういない。教会関係者でも片手の指で数えられる程度だろうか。
そんな女性が付き従うフェア・ヴィルングを想像しただけで、ワジは眉を曇らせた。
「そんな女性が想いを寄せる男なんて、厄災のタネにしかならないと思いますが」
「同感だな」
「あれ?」
鷹揚に頷いたアインへ、ワジは小首を傾げる。
「どうした?」
「総長はフェア・ヴィルングに好意的だと思っていましたよ」
瞬間、アインは顔を歪めた。
不味そうに煙草を吸い、灰皿へと放り投げた。
紅い目を細める。僅かに殺気を含んだ眼光は檻から解き放たれた野獣のようだった。
「冗談はやめてくれ。興味の対象にしているだけだ。好きか嫌いかで尋ねられれば、嫌いと断言するさ」
此処は賛同の一手だ。
背中に奔った寒気を無視。ワジは冷静を装った。
「気が合いますね」
「クロスベルでやらかしているからな、奴は」
当然、それも有る。
ランドルフ・オルランドの嘆き悲しむ様子は、直接見ていなくても想像できた。最強の猟兵になるべく育てられた偉丈夫の怒り狂う風貌さえ。
結束の固い特務支援課は引き摺られるだろう。
世界の危機だけに我慢できたとしても、事態が収拾してしまえば、大切な人を失ったランドルフの殺意は行動へ移行する筈だ。
クロスベルの英雄である彼らが殺人犯に成り下がる展開は、必ずや阻止しなければならない。
だからこそ、ワジ・ヘミスフィアは帝国行きを希望した。
フェア・ヴィルングを秘密裏に抹殺する為に。
「もしも『想定外の奇蹟』なら、大厄災を起こす危険性も高いという事。一刻も早くアルテリア法国へ連れて行くべきかと」
「――そうだな」
アインは吐息を漏らして、脚を組み直した。
「始まりの地で異端審問するしか無いだろうな」
同日同刻。
使徒用位相空間、星辰の間。
厳粛とした空間は静寂に包まれている。
使徒に用意された台座より、数段高く設置された巨大な柱。最高幹部よりも上位に君臨する存在の為に造られた祭壇である。
道化師の要望から降臨した盟主は、円台に置かれている物体を見て、嬉しそうにコクンと頷いた。
「よくぞ見つけてくださいましたね、カンパネルラ」
盟主は魂の心臓と書かれた化石を受け取り、愛おしそうに表面を撫でる。ドクンドクンと脈打つ化石も、何処か嬉しそうに鼓動を早めた。
カンパネルラは片膝を付いて、仰々しく頭を下げる。
「勿体なきお言葉」
「ヘイムダル大聖堂の地下はどうなっていましたか?」
「始まりの地を模倣した空間なら、ボク達の予想通りにカレル離宮の地下へ転移していました。大聖堂地下は、見事に岩盤で覆われていましたよ」
「では、気付かれていませんね?」
「はい。更に奥深く、岩盤の下に封印してある空間は手付かずのままです。盟主の計画通りに事態は進んでいます」
それは結構、と首肯する盟主。
彼女の双眸は道化師を眺めているようで、全く違う部分へ向けられている。帝都ヘイムダルの近郊に佇む、皇族の別荘地であるカレル離宮へ。より具体的に表現するなら、銀の騎神と対峙するフェア・ヴィルングへ。
「緋の騎神は起動者を取り戻しました。これで幻焔計画、及び永劫輪廻計画も終演へと導ける事でしょう」
満足気な盟主と裏腹に、苦笑する道化師。
酷く苦労したと嘆息する。
とある条件を糧に鉄血宰相を巻き込み、皇女を巻き込みたくないと尻込みする黒緋の騎士の背中を押して、どうにかこうにか緋の騎神へ乗せる事に成功したのだ。
二千年前から変わらない彼の性格に、憧憬の念を覚える。同時に、少しだけ嫌気が差したのは内緒である。
「黒の分体も協力しています。銀の騎神とも互角に渡り合えるでしょう」
悪意に目覚めた本体を打倒する為に。
帝国の歴史を牽引する狂信者を破壊する為に
誰が悪いのか。どうしてこうなったのか。
答えは決まっている。
人間の強欲、悪意の連鎖。それに付け込んだ『外なる神』の悪戯心に因る物だと。
「カンパネルラ」
化石を懐に仕舞い込み、盟主は幾分か低い声音で名前を呼んだ。
「はい」
「気付いているでしょうが、七耀教会も動き始めています」
「承知しています」
「ゼーレを彼らの手に渡してはなりません。異端審問をさせてはなりません。2000年前の過ちを繰り返してしまう事になるのですから」
むかしむかし。
誰の記憶にも存在しない太古の帳。
女神は言った。
私は空を、貴方は地を司るのだと。
道化師は言った。
止めた方がいい、大いなる存在に目を付けられてしまうと。
魂の箱は言った。
それが人々の願いなら、この身を捧げようと。
そして――。
楽園の箱庭に『外なる神』が舞い降りた。
盟主「――――」←脈打つ化石にウットリ。
カンパネルラ「ヤバいのでは?」←少し怖い。