黒キ聖杯を覆っていた第二障壁は破裂した。
フワフワと空中を漂う障壁の破片。赤黒い花弁が舞い散る光景を他所に、衝撃力を残していた獄炎の長剣は第一障壁にまで罅を入れる。
壊せるか。貫通できるか。
だが、緋の騎神と俺自身に限界が訪れる。
テスタ=ロッサは騎内に溜め込んでいた霊力の枯渇が原因で。
起動者の俺は体組織を崩壊させるような想像を絶する激痛が理由だった。
黒緋の覇王から通常の騎神状態へと戻った。全身を蝕んでいた激痛が消失した途端、獄炎の長剣は泡沫のように霧散した。
一対一ならば黒キ聖杯に完敗したといえる。
追撃する余力なんて無かった。空中に浮いているだけで精一杯。一時的に麻痺させていた痛覚をゆっくりと復活させながら、事態の行く末を見守るしかなかった。
だが、俺とテスタ=ロッサは役目を果たした。
第四から第二障壁まで粉砕したのだから。風光明媚だったカレル離宮周辺は字面通りに炎の海と化したけど。見るも無惨な光景だけど。全力を出した結果だ。致し方ない被害だ。どうか大目に見て欲しい。
残る第一障壁はどうなったか。
結果だけを記すなら、ロゼの秘術とライサンダー卿の聖痕による力で無理矢理にも極小規模な孔がこじ開けられた。
間髪入れずに魔女の転移術を発動。あらかじめ選抜されていた人々が障壁の孔から聖杯の中へと侵入した。
黄金の羅刹、黒旋風、千の護手、吼天獅子、蒼の騎士、更にリィンを重心に据えている士官学院の者たちが青白い光弾となって、この事態を引き起こした面々へ殴り込みに行った。
決して過剰戦力だと思わない。
黒キ聖杯内部で待ち構えていると予想されるのは死から復活した猟兵王、ルーファスを筆頭とした鉄血の子供たち、火炎魔人や告死線域といった結社の執行者。いずれも常人の想像を超越した強者である。
突破できるか。
正直、難しいだろうと判断する。
少なくとも可能であると断言できない。
オーレリア・ルグィンが本気の火炎魔人を食い止めない限り、全滅の可能性すら有り得る。あの戦闘狂なら嬉々としてこの困難も乗り越えそうだけど。肺に気を付けろと忠告しておいたから、あの女なら予想に反して良い勝負をしそうである。
『久し振りですね、フェア・ヴィルング』
意識を切り替える。
対峙するは白銀の騎神。
起動者は一騎当千もかくやな鋼の聖女。
その声音は非常に固かった。
まるで酷く緊張しているかのように。
馬鹿な。
鋼の聖女はリアンヌ・サンドロット本人。俺が尊敬している歴史的偉人の一人。常勝不敗の軍神である。
故に有り得ない。
俺と向き合うだけで緊張するなど、獅子戦役終結の立役者を馬鹿にしている。
「ご無沙汰している、鋼の聖女。此処からは俺が相手しよう」
『覇王でなく。ゼムリアストーン製の武具すら持たずに。この私が駆るアルグレオンに相対できるとでも?』
「手も足も動く。何も問題ない。いや、貴女さえ良ければ、いつぞやの月下の草原みたく『稽古』を付けてくれると有り難い」
内戦時と比べて、俺は強くなれているだろうか。
千回を超える死を以って、聖女の兜を割れた時から多少なりとも成長できているだろうか。
剣術を極めた。
膂力は鍛えた。
戦う理由も増えた。
光の剣匠を相手にしても互角に渡り合えると自負できる。本気の火炎魔人にもある程度なら相対できると推測する。
白兵戦なら。騎神を使用しない戦闘なら。
ヴィータさん曰く、鋼の聖女は獅子戦役の時から銀の騎神を駆っているらしい。年月にして約二百年以上、起動者で在り続けている。
この明確な差を決して無視できない。
用心に用心を重ねて相対しなければならない。
『戯れ言を』
聖女が吐き捨てる。
壮麗な美貌を強く歪めた。
『あの現象は、断じて、稽古などと呼べる代物ではない!』
「結果的に俺は一年近く修行を前倒しできた。どこからどう見ても、非常に有意義な稽古だったと思うんだが」
正直、月下の修行が無ければ、今回のループは去年の時点で無惨に終了している。
鋼都ルーレ奪還作戦時、オーレリアに惜敗していただろう。黒竜関侵攻作戦時も黄金の羅刹に敗北していたに違いない。
たとえ羅刹の戦闘を乗り越えたとしても、暗黒竜の復活で絶死する。明言できる。武器も持たず、徒手空拳で暗黒竜と渡り合えたのは、間違いなく鋼の聖女のお蔭である。
『ーーやはり、貴方は狂っている』
聖女は視線を伏せた。
悍ましい生物と目を合わせないように。
「あんな人の言葉を気にしたら駄目よ。ね?」
アルフィン殿下が胸板を軽く小突いた。
正面から抱き着いたままの主君を表情を見て、安堵すると同時に危惧する。リアンヌ・サンドロットを『あんな人』と蔑視する妖艶な笑みの裏に、黒い何かが潜んでいそうな気がしたからだ。
アルフィン殿下の言葉に首肯で返し、テスタ=ロッサを戦闘状態に移行させる。
「否定しない。よく言われるからな」
『気味が悪い。気分が悪い。ええ、私にこのような感情を抱かせたのは貴方が二人目です。故に聖女ではなく、唯の人間として、私は貴方に告げましょう』
一拍。
『ーー消えろ、悪魔。此処に貴様の居場所などない』
侮蔑を込めた一言。
憎悪を孕んだ口上。
心臓を貫く言葉に、俺は嘆息する。
まさか悪魔と称されるなんて、大層嫌われたな。
慣れ親しんだ視線だ。
肩を竦めて受け流そう。
忌避される程度なら、もう、微笑んでいられるから。
「フェア」
アルフィン殿下が俺の名前を呼ぶ。
優しく。穏やかに。親身になって。
何を尋ねたいのか、何を知りたいのか。
彼女の立場で考えれば、容易く予想できる。
だから頷く。
端的に返答する。
「後で詳しく話します」
「いいえ、それは良いの」
宝珠に翳してある俺の右手に、アルフィン殿下の左手が重なった。
「殿下?」
「私たちは一緒よ。ずっと、どんな時も」
ギュッと握り締められる。温かいと感じた。手放したくないと思った。どうかこの人は、誰よりも幸せになって欲しいと願った。
――――許されない、と誰かが泣いた。
くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー
しゃめっしゅ しゃめっしゅ
にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん
――――思い出せ、と誰かが天を仰いだ。
世界は滅びる。
無辜の怪物によって滅びる。
呆気なく。例外なく。まるで救済のように。
それを食い止めたくて。
繰り返される輪廻から解放されたくて。
俺はこんなにも頑張っているというのに。
――――嘘を吐くな、と誰かが手を挙げた。
二重冠を戴く、長身痩躯の人物が笑う。
燃える三眼と黒翼を備えた異形の存在が泣く。
円錐形の顔のない頭部に、触手と手を備える流動性の肉体を持つ怪物が怒った。
暗い暗い闇の帷。多種多様な貌を持つ存在が周囲に満ちていく。敵意と好意、怒号と歓喜。様々な感情を向けられながら、俺は――オレは、古い鏡を眺めていた。
そうだ、これは鏡だ。
生まれたばかりのオレだ。
いつか両手足を引き千切られて、内臓を引き摺り出されて、胴体は入れ物にされて、それでも尚、誰にも奪われなかった権能によって死者の魂を受け入れた姿が有った。
くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー
しゃめっしゅ しゃめっしゅ
にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん
嗚呼、歌が聞こえる。
うたが聞こえる。
ウタがキコえル。
ウたガきこエる。
うタガキこえルンだ。
「やぁ、こんばんわ」
そして――。
『あの時』と同じく、讃美歌に包まれる。
『あの時』と同じく、道化師に邪魔される。
全てが過去をなぞっていた。
どこか懐かしかった。
できるなら眠ってしまいたい程に。
浸かっていたい。幸せだったあの頃に。綺麗に整えられた箱庭の中で、無邪気に遊んでいたあの頃に。
「こうなるだろうなァと思っていたけど、案の定だったね」
でもそれは赦されない。
オレに安息など烏滸がましい。
子守唄を振り払い、目を開ける。
黒く染まった道化師が、眼前にいた。
緋の騎神テスタ=ロッサの中に浮かんでいた。
オレには見える。
きっと、オレと彼女だけに見えている。
道化師の背中から生えている巨大な蝙蝠の翼を。
「心臓の封印を解いたからかな。それとも、先代の聖獣が暴れているのか。いや、その両方かな。ゼーレ、君はどう思う?」
停止した時間。
微動だにしない空間。
太古、箱庭を稼働させた権能は健在らしい。
懐かしい顔を見た。
何一つ変化していない容貌に苦笑する。
「両方だよ、イブ」
「そっか。心臓は彼女に渡してあるよ」
「構わない。オレが持っても仕方ないからな。両手足は?」
「見当は付いてる。ただ、七耀教会の狗が見張っているから」
「苦労を掛ける。ごめんな」
「ボクに謝られてもね。君が謝罪すべき相手は別にいるだろう?」
「聖獣に関してなら、本人も納得済みだよ」
「そうだとしてもさ。次に会う時は謝っておきなよ」
「善処する」
「君ねぇ。さては反省してないな?」
「してるって。人間の傲慢さ、宗教の陰惨さ、未来の不透明さ。全ての見通しが甘かった。たとえ、ニャラルトホテプ様の策謀だとしても」
「あんなのに様付けなんて要らないよ」
「イブ、あのお方は――」
「ゼーレ、彼女に何か伝言でもあるかい?」
「まぁ、良いか。彼女には、ありがとうと伝えてくれ。エーデルワイスを届けてくれてありがとうと」
道化師は昔と同じように微笑んだ。
「きっと彼女も喜ぶよ」
「今でも恨まれてそうだけど」
「考えすぎさ。あの時、あの瞬間、ボクらは全てを間違えた。君だけの責任じゃない。ただ君が、その権能のせいで嫌われていただけだよ」
「お前は優しいな、相変わらず」
「そうでもないよ。ボクは人間を見捨てた。彼女は人間を傍観した。君は、君だけは、人間の味方になった。だからこそ、こうなっているんじゃないか」
「立ち位置の問題だよ、それは。オレだって、お前の立場なら人間を見捨てるさ」
「――ゼーレ、人間が好きかい?」
「好きだよ」
「ボクは嫌いだ」
「知ってるよ」
繁殖する人に苦言を呈していた。
箱庭の管轄を是が非でも拒否した。
だって、彼は、■■=■■■■なのだから。
オレも彼女も仕方ないねと苦笑した。彼の奔放さを許可した。
「でも、今だけは人間に感謝するよ。こうして君とお話が出来ている理由は、人間の業に因る物だからね」
「マッチポンプみたいな物だけどな」
「否定しないよ。でも、結果はご覧の通りさ。黒キ聖杯の出現、黒緋の覇王による炎上、皇女と交わされる睦言。これだけの事象が重ねれば、邪神様が君に、フェア・ヴィルングに干渉するのは自明の理だった」
「そうだな」
「ボクは永劫輪廻計画を進める。彼女は、君の遺物を護る。漸くだよ、ゼーレ。ボクたちの誤りを正す事ができるよ」
全てを間違えた。
何もかもを履き違えた。
善を悪と断じて、悪を善と呼称した。
「空は女神に」
「地は箱舟に」
道化師と右の掌を合わせる。
遥か昔、永遠の友情を誓った時と同様に言葉を紡ぐ。
『そして貴方は時空の中に』
オーレリア・ルグィンは紅い宝剣を握り締める。
その姿はまさしく自然体で。
普段通りの佇まいにて火炎魔人と相対する。
呼吸の頻度は正常だ。
筋肉の弛緩も正常だ。
化物と対峙しながらもいつも通りを崩さない。
細胞の一つ一つが歓喜している。
研ぎ澄まされた武人としての本能が警鐘を鳴らしている。
傍らに誰もいない。
僅か独りで怪物と向き合う。
誰もが苦言を呈した。褐色の副官さえも。
それでもオーレリアは彼らを先に行かせた。
鉄血宰相を止める為に。
誰にも邪魔される事なく、火炎魔人と会話をする為に。
「お目当て通り、アンタが残ってくれるとはな。先陣を切った甲斐があるってもんだ」
既に、マクバーンの髪色は蒼緑から白銀へ変化していた。全身を駆け巡る赤い刺青は彼の放つ禍々しい雰囲気をより強く後押しする。
結社最強の魔人は赤黒く染まった双眸に喜びの感情を張り付かせ、大気を焼き尽くしそうな黒炎を放ちながら口角を釣り上げた。
「ほう。私に何か用でも有ったのかな?」
「惚けんな。アンタも俺に聞きたいことがあるんだろ。そう、例えば、フェア・ヴィルングの事でな」
「何故、と問うのは無粋か。そなたの言う通りだよ、火炎魔人。私には尋ねたいことが山程ある」
「話が早ぇな。あの紆余曲折野郎にも見習わせたいぐらいだ」
精悍な顔付きに笑みを貼り付ける。
誰と比較しているのだろう。
敵の情報を知る好機かもしれないが、わざわざ尋ねるほどでもなかった。
マクバーンが鼻を鳴らす。口火を切った。
「で、何を聞きたい?」
「結社はフェア・ヴィルングについて、一体どこまで知っている?」
「はっ。答えは人それぞれだ。一しか知らない奴もいれば、全てを網羅している奴もいる」
「そなたは?」
「俺か。俺はーーどうだろうな」
首を傾げるマクバーン。
「全てを知っている気はするが、何一つ理解していない気もする。そんなところだ」
「同感だよ、火炎魔人」
あの男はまるで蜃気楼のようだ。
陽炎のように揺蕩っているだけで、もしかしたらフェア・ヴィルングという存在など、この世の何処にも存在していないと思わせるような、そんな男だ。
「結社はフェア・ヴィルングを、どうするつもりだ?」
「さぁな。知らねぇよ。俺の管轄外だ。先に言っておくが、使徒の奴らも明確な答えを持ってねぇぞ。アイツに関する事象は盟主とカンパネルラに一任されているからな」
「良いのかな、そんな簡単に教えても」
驚くべき口の軽さ。
想像の遥か上を行く。
自由奔放だと喜ぶべきか。
それとも此方を惑わす為と疑うべきか。
「仕方ねぇだろ」
マクバーンが後ろ首を掻く。
「盟主から言われてんだよ。オーレリア・ルグィンの質問には、出来る限り答えるようにってな」
カンパネルラ=イブ
フェア=ゼーレ
この作品は閃の軌跡Ⅳまでの設定を使用しています。
創の軌跡、及び黎の軌跡で判明した新しい設定は適用されません。
どうかご了承下さい。