アインの反応は目を細め、俯くだけだった。
鉄血宰相の言い分を全面的に認めたのだと判断できる。
守護騎士第一位は、聖杯騎士団を率いる総長は、七耀教会の尖兵、古代遺物の回収と教義に反する異端者の殲滅を第一目的とする組織の長であるにも拘らず、誰かを異端と蔑む権利など有していないのだと。
要するに、アイン・セルナートこそが異端者であるということだろうか。
馬鹿な。それでは矛盾する。
この女は疑う余地なく聖痕を宿している。
異端審問の時に見たのだ。背中から浮かび上がった深紅の紋様を。全長三メートルにも及ぶ巨大な聖痕を。
ケビン曰く、それは守護騎士の誰よりも高い出力を誇る代物。模擬戦にて、他の守護騎士全員を僅か十秒足らずで粉砕したという究極の一。
誰よりも空の女神に愛されし者。誰よりも空の女神から恩恵を授かった者。それが聖杯騎士団の総長だ。
だが、鉄血宰相はアイン・セルナートこそ異端者だと暴露した。当の本人も否定せずに歯噛みするだけだった。
辻褄が合わない。
どう考えても相反する。
頭のよろしくない俺では、どんなに考えても答えを導き出せそうになかった。
「――ふっ、話を戻そう」
爆弾を回収しようともせず、鉄血宰相は視線を前方に戻した。
「カルバード共和国と違い、帝国は民主主義を採用していない。国家の暴走だとしても、その咎を受けるのは為政者のみ。即ち私だ。皇帝陛下と国民に罪はない」
政治の事はわからない。
俺は経験したことしか理解できない。
鉄血宰相の言う罪と罰の所在など実に曖昧だ。
これから起こる大規模な戦争。
エレボニア帝国による全世界同時侵攻。
ゼムリア大陸の大地を闘争の渦で覆い尽くし、結果として『焔を纏う怪物』が降臨してしまう。
今なら理解できる。アレは黒の騎神イシュメルガの悪性と焔の神、そして『巨イナル一』が七の相克を経て再錬成された姿なのだと。
あの化物は世界を滅ぼす。
戦争で疲弊した各国を蹂躙する。
誰も生存を赦されず、誰も未来を赦されない。
だから。
罪はなくても、罰は受ける。
咎はなくても、誅を受ける。
帝国民だろうが共和国民だろうが、遍く等しく平等に。世界大戦の果てに在るのは、灰すら残らない焼却された箱庭だけだ。
「その国民を、世界も含めて滅ぼそうとしている人物の言葉と思えませんな。そこまで帝国を想っているなら、皇族に忠誠を誓っているなら、何故黄昏を引き起こしたのかお聞きしたいのだが」
オーレリアが横槍を入れる。
翻意を促すわけでなく、単純に理由を知る為に。
鉄血宰相は珈琲で喉を潤してから極めて端的に答えた。
「必要だからだ」
ギリアス・オズボーンは黒の騎神の起動者だと聞いた。
起動者には様々な恩恵が与えられるらしい。獅子戦役で活躍したリアンヌ・サンドロットが生きているのも、生前から銀の騎神という巨イナル一の欠片に選ばれていたから。ロゼが言うには、本当に一度死から甦り、そのまま不老の存在になったとか。
十月戦役、貴族派と革新派による内戦の開始を告げる運命の銃声。クロウ・アームブラストの放った宿命の一撃。それは鉄血宰相の心臓を的確に射抜いた。
俺は何度も阻止しようとした。
阻止できた世界線はおおよそ二割。殺害された世界線は多く見積もっても八割程度。その中で、帝都ヘイムダルの群衆に紛れ込み、ギリアス・オズボーンの死体を間近で注視する機会に何度も恵まれた。
確認した。幾度となく確認した。
左の胸を撃ち抜かれている。
孔が空いている。煉瓦が見えている。
ショック死する傷痕。失血死する流血の量。
助かるはずのない鉄血宰相の遺体を運んだことさえある。
しかし、彼は何度も甦った。
内戦を終わらせて、貴族派を解体して、クロスベルを占領した。救国の宰相として元気に姿を現した。
奴は不死身なのだと畏怖した。
とはいえ、何事にも理由は有る。
ギリアス・オズボーンは黒の起動者だった。
リアンヌ・サンドロットと同様に、クロウの銃撃によって死亡した後、不死鳥よろしく死を克服したのだろう。
此処までは良い。
鉄血宰相は騎神の起動者である。
その事実は俺にとって納得のいく答案だった。長く長く胸につかえていた疑問が氷解していく気持ちを味わった。
だが、黒の騎神の起動者なら話は別だ。
悪性だけが残った抜け殻。
焔の神と同化した呪いの指揮者。
俺が輪廻を越える為に殺さないといけない、まさしく仇敵の起動者だと知り、だからこそ新たな疑念が生じた。
僅か数時間前、皇城で対談した時、鉄血宰相は言っていた。
――必要な事だ。
決意を胸に、意思を瞳に携えて。
一言一句同じ。
込められた想いも一緒。
忘れない。忘却するには早すぎる。
そこまでして鋼の至宝を再錬成しなければならない理由とは何なのか。
それを知りたくて、口を挟まずに耳を傾けた。
「今からでも止めたらどうかしら?」
「無理を言うな、魔女よ。既に歯車は回り出している。もう誰にも止められんよ。それに、貴様も薄々気付いているだろう。結社、教会、魔女、地精、どの立場の人間にしても、巨イナル黄昏は避けて通れない試練なのだとな」
「否定しないわ。様々な策を弄しても、巨イナル黄昏は止められなかった。そうね、不自然なぐらいに」
「誰もが望み、誰もが拒否する。それが巨イナル黄昏という舞台の本質だ。まぁ、終わってしまえば笑い話にもならない瑣末事だろうがね」
自嘲するギリアス・オズボーン。
鋼の聖女は何も言わず、騎士団総長は眉間に皺を寄せていた。オーレリアは椅子に背中を預け、ヴィータさんは小さく頷いていた。
そんな中、会議室に満ちる魔力を減衰させたロゼが、やれやれとため息を溢した。
「暖簾に腕押しじゃな。地精の人形に成り果てておらぬようじゃが、意見を変えるとも思えん。その頑固さ、妾の旧い友人にそっくりよ」
「魔女の長殿にそう言われるとは光栄だ」
「ローゼリア、この人は――」
「落ち着きたまえ、鋼の聖女。此処には皇族の方がいらっしゃるのだ。節度の無い行動は慎むべきだろう」
立ち上がろうとする鋼の聖女を片手で抑え、鉄血宰相は静かに諭した。座りたまえと促して、アルフィン殿下に頭を下げる。
そのどちらにも親愛の情を内包しているように感じ取れたが、俺の気のせいだろうか。
鋼の聖女と鉄血宰相に深い関係性があると思えないけど。
「黄昏を止めたいのであれば、世界の崩壊を防ぎたいのであれば、このギリアス・オズボーンを打倒するほかない。いずれ行われる七の相剋に於いて黒の騎神を滅ぼすしかない。そうだろう、フェア・ヴィルング?」
視線が交錯する。
帝都の駅で遭遇した時、怖いと思った。
黒緋の騎士という異名を捨てた時、敵わないと諦めた。
だけど今は違う。
俺は越えなくてはならない。
鉄血宰相という壁を突破しなければならない。
丹田に力を込める。視線に想いを乗せる。
長い言葉は要らない。
飾った台詞も必要ない。
ただ一言、将来の好敵手に淡々と告げる。
「ええ、私が貴方を倒します」
ギリアス・オズボーンは鷹揚に頷いた。
嬉しそうに。面白そうに。
そして、感動するように自然な表情で笑った。
「良い目だ、黒緋の騎士。強くなったな」
「貴方のおかげです。この御恩は忘れません」
「気にしなくて良い。多少なり打算も含んでいたからな。そう教えた筈だ。後はまぁ、皇帝陛下にお喜びしてもらう為でもある」
もしかして、とふと思った。
皇帝陛下が俺を気に掛けてくれるのは、俺がアルスカリ・ライゼ・アルノールの転生体だからなのかもしれない。
『黒の史書』とかいう、アルノール家に伝わるエレボニア帝国の過去と未来を記す古代遺物から知り得たのだとしたら、ここまで温かく見守られる理由として充分だろうから。
「宰相、一つお尋ねしてもよろしいかしら?」
「勿論ですとも、皇女殿下。何を知りたいのですかな?」
アルフィン殿下の問い掛けに、丁寧に応対する鉄血宰相。口調、視線、動作、服の着こなし。改めて視認して、その気品溢れる姿に感心した。
平民出身だと信じられない。
実は貴族の生まれでした、と告白された方が腑に落ちる。
凡人でしかないフェア・ヴィルングよりも、ギリアス・オズボーンの方が調停者アルノールの生まれ変わりに相応しいだろうに。
「会合を開いた理由です。貴方はもう意思を曲げるつもりがないのに、こうして私たちと言葉を交わしている。どうしてなのかしら?」
「的を射る意見、感謝します。やっと本題に入れますからな」
「本題?」
「七の相剋をいつ始めるのかを決めるつもり?」
オーレリアとヴィータさんの発言に対し、鉄血宰相は首を横に振る。
「慌てなくても、七の相剋は始まる。大地と連動する形でな。魔女なら前兆に気付く筈だ。本題は別だとも」
会議室を見渡して、威風堂々と言い放つ。
「そう、本題とは七耀教会の処遇だ」
アインが顔を顰め、トマスは身体を強張らせた。
鉄血宰相はそちらを一瞥した後に、円卓の上で手を組み、粛々と言葉を紡いでいく。
「そもそも会合を設けるつもりなど無かった。巨イナル黄昏は幕を上げた。誰も後戻りできん。話し合いの時間はとうの昔に過ぎ去った。だが、それでも七耀教会の暴走を看過できない」
「暴走とは片腹痛いな。私たちは世界の為に動いている。今までも、そしてこれからも。フェア・ヴィルングは危険だ。蒼の深淵、貴様も知っているだろうに」
「彼は塩の杭にならないわ。私がいるもの」
「塩の杭よりタチが悪いぞ。その男は世界の要であり、世界の腐敗だ。魔女に何ができる。いざという時、その男を殺せるのか。お前たちには何もできまい」
アルフィン殿下が繋いだ右手に力を込めた。
俯くように視線を向ける。
主君はコクンと一度だけ頷いた。
意思は伝わった。想いも受け取った。
異端審問の記憶に膜を張り、アイン・セルナートを睥睨する。
「紅耀石、何が望みだ?」
「私たちの願いは一つだ。貴様を異端審問に掛ける。それだけだ。――そう、それだけだ」
アインは深呼吸した。
悍ましい生き物を眺めるような双眸で。
痛ましい化け物と対峙するような相貌で。
それでも一歩も引くことなく、俺たちは向かい合った。
「よく考えろ。貴様も気付いている筈だ。貴様が暴走したとして、誰を最初に殺めるのかを。皇女殿下だ。魔女たちだ。己の大事なモノを失う覚悟があるのか?」
「――あるとも」
切っ掛けをくれたのは鉄血宰相。
覚悟を抱かせたのはアルフィン殿下。
二人の見ている前で恥を晒すなど御免だ。
「もう逃げない。もう迷わない。そう誓った」
「その覚悟が『全ての元凶』だったとしても?」
「俺はアルフィン殿下の傍にいる。たとえ悲劇を齎すとしても。俺は、黒緋の騎士だから」
「救われないぞ、誰も。誰一人、救われない」
アイン・セルナートは独白するように呟く。
確かにそうかもしれない。
邪神が怒り狂う。身体を乗っ取る。誰かを傷付ける。決して有り得ないと断定できない。可能性の高い未来だと判断すべきだ。
更には焔の神が反撃してきて、周囲の人を巻き込むかもしれない。
それでも、俺は黒緋の騎士であることを選んだ。
「忠告はした。フェア・ヴィルング、もしも心変わりしたならアルテリア法国を訪ねるといい。いつでも迎える準備はできている」
行くぞ、トマス。
アインは副長の首根っこを掴み、立ち上がる。
心変わりしない俺を憫笑したアインは、部下の尻を蹴り飛ばしながら退室した。度重なる聖痕の使用により、体力を著しく擦り減らしていたケビンとバルクホルン卿を連れて、アルテリア法国へ帰還するのだろう。
誰がアルテリア法国になんぞ行くか。
お金を大量に積まれても拒否してやる。
『始まりの地』。
空の女神が生まれたとされる場所なんて、思い出しただけで吐きそうになる。
「七耀教会は手を引いたと見るべきかしら。黄昏からも、フェアからも」
「さてな。油断しない方が良かろう。七耀教会上層部は狂信者の集まりだ。フェア殿を付け狙う可能性は高い筈だ」
「ふん。清々するわ。無能な味方は有能な敵よりも始末に負えんからのう」
ヴィータさんは忌々しそうに出口の扉を睨み、オーレリアは不敵に笑って、ロゼはまるで子供のように舌を出して威嚇していた。
この人、本当に八百歳なのだろうか。
野菜全般が苦手だったり、孫娘であるエマに頭が上がらなかったりと良い意味で人間臭く、また実年齢よりも余程幼く見えるのだけど。
「宰相閣下はこれが目的で?」
鋼の聖女にとって心揺さぶる出来事ではなかったらしい。姿勢を崩さず、口調を歪めず、鉄血宰相に尋ねた。
「魔女たちが教会の裏切りを赦しても、彼らの足並みは狂うだろう。十把一絡げにする好機だ。教会が手を引いても確実に戦力を減らせる。どちらでも構わなかった」
「恐ろしい男じゃのう、お主は」
「褒め言葉として受け取っておくとしよう、魔女の長よ。さてと、どうしたものか。思いの外、七耀教会の件が早く片付いたな」
「珍しいわね。鉄血宰相が予想外なことに驚くなんて」
「フェア・ヴィルングの成長は予想外だった。答えを出すのにもう少し時間が掛かるとばかりな」
一拍。
「嗚呼、なら最後の取引といこうか」
想定していなかった言葉に、思わず訊く。
「本題は教会の暴走では?」
「その通り。この会合の本題は、七耀教会の暴走を受け入れるのか、それとも拒絶するのか。それを君に問うものだった」
だが。
「佳い返事を聞かせてもらった」
故に取引をしようと。
勿論、君たちにとっても悪い話ではない筈だと前置きする。
聞くだけなら問題ない。
視線で続きを促すと、鉄血宰相は何食わぬ顔で言った。
「先程、耳にしたかもしれないがね。私たちはリィン・シュバルツァーを預かっている。本来なら奴を『贄』として地下深くへ封じておくつもりだったのだが――」
「まさか解放するとでも?」
ギリアス・オズボーンはふてぶてしく笑い、続けた。
「そのまさかだとも。解放しよう。二週間後、フェア・ヴィルングと皇女殿下が皇城バルフレイム宮に来てくれるのなら、という条件を飲むのであれば、だが」
初めのエレボニアに種を植えた。
繋いだクロスベルで醜く芽吹いた。
騙ったウロボロスを華の海に変えた。
終いのクトゥルフは無情に摘み取った。
故に、この物語の行き着く先は初めから一つに定められていた。
蒼の深淵「フェアったら立派になって!」←後方姉貴面。
鉄血宰相「今のフェアになら、リィンを任せられる」←後方父親面。
リアンヌ「絶対にやめた方がいいです!」←後方母親面。