私、マシュ・キリエライトがあの人と出会ったのは、四つ目の特異点。魔霧に覆われたロンドンでのことでした。
市民を殺害していたジャック・ザ・リッパーを倒した私たちは、モードレッドさんと一緒にロンドンの見回りをしていました。
その途中、不意に遠くから響いてきた破壊音に、私たちは戦闘が発生していることを察知して現場に急行しました。
しかし。
「ああ、私が信じた大義は、間違っていたのですか……」
現場に到着して、私は目を疑いました。
ロンドンを襲う魔霧計画の首謀者の一人、自らを“P”と名乗ったサーヴァントが、目の前で消滅していったからです。
「これは、てめえがやったのか?」
モードレッドさんが目つきを鋭くして問いかけたのは、その場にたたずむ中年の男性でした。
男性は着物姿で、その容姿からも東洋系であることはすぐに分かりました。状況からしてサーヴァントなのでしょう。
体つきやたたずまいから、一目で戦いが得意でないことは分かりました。ですが、その雰囲気は、芸術家や魔術師とも違うように感じたのを覚えています。
「その通りです」
私たちの警戒心を受け流すように、男性はあっさりとうなずきました。
その淡々とした声と表情は、全く彼の内面を読み取らせませんでした。
「彼はパラケルススと名乗り、私を拘束しようとしました。なので、しかたなく彼と戦ったのですよ」
とりあえず、私たちは彼と一緒にジキルさんのアパルトメントへと戻ることにしました。
その道中で彼から事情を聞いた結果、二つのことが判明しました。
一つは、やはり男性がサーヴァントであること。
もう一つは、計画の首謀者たちが魔霧から現界したサーヴァントを確保し、彼らに従わせているということでした。
しかし、男性の真名を教えてもらおうとした時です。
それまで能面のような無表情で受け答えしていた男性が、初めて顔をこわばらせました。
「私のクラスはキャスター。すみませんが、お話しできるのはそれだけです」
「はあ!? 怪しいにもほどがあるだろ。何か事情でもあるのかよ」
疑わしそうに言うモードレッドさんに、男性は小さく「いいえ」と答えました。
「ただ、私のエゴです。人に知られることの恐ろしい、みじめな過去もあるのですよ」
「なんだ、それ」
モードレッドさんは呆れていましたが、それ以上の質問は時間の無駄であると、男性の眼差しは明白に告げていました。
なにより私たちには、魔霧計画の全貌を解き明かすという差し迫った問題があったのです。
「君は、“P”、“B”、“M”という三人に心当たりがないかな? 首謀者たちの頭文字だと思う。Mはメフィストフェレスで、Pはパラケルススのはずなんだけど。Bが分からないんだ」
ドクター・ロマンの質問に、彼は首を横に振りました。
「残念ですが、私にも分かりませんね。P、B、それにMですか……」
そう言って、彼は謝罪しました。
しかし、あれは私の見間違いだったのでしょうか。
たまたま彼の隣を歩いていた私は、一瞬ですが、見えたような気がしたのです。
男性の表情によぎった、苦渋に満ちた暗い陰を。
この人は何かを知っている。
そんな考えが、私の心に浮かびました。
しかし、ちょうどそのタイミングでアパルトメントに到着したために、私は男性への疑念を口にする機会を失ってしまったのです。
「あなたは、何か悩んでいることがあるのではないでしょうか」
アパルトメントに戻り、先輩たちがこれからの行動について議論していた時です。私が窓のそばで少しボンヤリとしていると、男性がソッと声をかけてきました。
知らず知らず、心のわだかまりが表情に出ていたのでしょうか。
「ジャック・ザ・リッパーのことを考えていたのです。彼女も、首謀者たちに利用されていました」
少し間を開けてから、私は正直に言いました。
何年か前、「悩みがある時は、誰かに相談すれば楽になるかもしれないよ」と、ドクターから助言されたことを思い出したからです。
「今でも信じられません。彼女は、ただの善良な子供に見えました。ロンドン市民を殺害していたなんて……」
「人間というものに善悪などはありません」
予想外の言葉に、私は思わず男性の顔を見つめました。
彼は私の視線をよそに、物思いにふけるように窓の外を眺めていました。
そのまま会話は途切れるかと思えましたが、唐突に、彼は口だけを動かして私に尋ねました。
「あなたの周りにいる人は、みんな善良な人ですか?」
私の答えは決まっていました。
「もちろんです。人理を守るために戦っている人たちですから」
「人理のために戦えば、どうして善良なのですか?」
私は言葉に詰まりました。
人理のために戦うことが、本当に善良なのか。
そんな疑問は、頭に浮かんだことさえなかったのです。
私が返答できずに困っていると、男性はこちらに顔を向けて、後悔するように目を細めました。
「これは失礼をしました。あなたを困らせようとしたのではないのです。どうも、あなたのような年齢の人と接した経験が少ないもので、いらぬことを口にしてしまう」
言い終わると、彼は背を向けて歩み去ってしまいました。
それからも、私たちは特異点解決のヒントを追って奔走しました。
真名を隠した男性も、私たちに協力してくれました。ただ、やはり自分のことを語ろうとはしませんでした。
議論する時は冷静な意見を述べてくれますし、日常の会話を欠かすことはありませんでした。
ですが、彼の発言はいつも必要最低限に留まり、明らかに私たちに対して距離を置こうとしていたのです。
「なんだよ、あいつ。人間嫌いか」
モードレッドさんは、それを他人を遠ざけるための態度と受け取ったようです。
ただ、根拠はありませんが、私には別の理由があるように感じられました。
彼の態度は、「自分には近づくほどの価値もない」と私たちに警告するためのもの。なぜか、そう思えたのです。
「どうも、あまり力になれず申しわけありません。戦闘は苦手なものでして」
情報を求めて侵入した時計塔内での戦いの後、ほとんど後衛に控えていた彼はポツリとつぶやきました。
「なんだ、それは俺への嫌味か?」
それを聞きつけたアンデルセンさんが、ぶっきらぼうに応じました。
「戦闘など、もっと強い英霊に任せていればいいだろう。ペンよりもこん棒が手になじむような乱暴者が、そこにいるではないか」
その言葉にモードレッドさんが反発し、先輩とジキルさんが困り顔で仲裁に入りました。
そんな騒がしい光景を見つめる男性の表情は、どこかまぶしそうでした。
すると、たまたま彼と視線が合いました。
「意外そうですね」
「はい。てっきり、あなたは騒がしいのが苦手なのかと」
「とんでもない。むしろ嬉しいぐらいです。こうして誰かの話に耳を傾ける機会は、今後ないでしょうから」
「それはどうしてですか?」
反射的に疑問を口にしてから、無遠慮な質問だったかと思いました。
ですが、男性は気にする様子もなく返事をしてくれました。
「本来、私は英霊となるような人間ではないからですよ。この特異点が終われば、私は消滅し、召喚されることは二度とない。そんな私がロンドンに呼ばれたということは――」
男性は急に言葉を切りました。
そして、口から漏らしかけたものをごまかすように、話題を切り替えたのです。
「あなたの眼には、私はどう映りますかね。強い英霊に見えますか? 弱い英霊に見えますか?」
私は、頭に浮かんだことを素直に答えました。
「中ぐらいに見えます」
私の返事が意外だったのでしょう。それっきり、男性は口を閉ざしてしまいました。
「先生、お時間はありますか?」
いつからか、私はその人を「先生」と呼ぶようになりました。
深い意味はありません。
ただ、すでに私には人生の「先輩」がいます。それならば、先生がいてもおかしくないと思えたのです。
私は時間が空いた時には、よく先生と二人で話し込むようになりました。
「あなたは、どうしてたびたび私の話を聞きに来るのですか?」
「おじゃまでしょうか」
「じゃまとは言いません」
先生は苦笑しながら否定しました。
そのころには、先生も私たちに多少の感情を見せてくれるようになっていました。
どうして私が先生との会話に引きつけられたのか、自分でもうまく説明できません。
あえて言うなら、先生の雰囲気が、これまで出会ったサーヴァントの皆さんと比べて異色だったからでしょうか。
これまで出会ったサーヴァントのみなさんは、誰もが強烈な存在感を持っていました。ただそこにいるだけで、人の目をつかんで離さない輝きがありました。
ですが、先生は違います。むしろ逆でした。
少しでも目をそらせば、次の瞬間には、この人は消えてしまっているのではないか。
先生と話をしていると、ふと、そんな風に思ってしまうことが何度もありました。
そんな先生だからかもしれません。
先生の話の中にこぼれ出てくる知識や価値観は独特で、私に新鮮な驚きを与えてくれました。
カルデアの外には、まだ私の知らないことが無限にある。そう思えることが嬉しかったのだと、今では思います。
ですが、一つだけ、私には気にかかっていることがありました。
先生は、私たちの知らない何かを隠している。
首謀者について尋ねた時の表情を見て以来、ずっとくすぶり続けていた疑念は、私の中で確信に変わっていました。
そして、先生がかたくなに語ろうとしない過去とは、どのようなものなのかという疑問が、どんどん心を占領していきました。
アパルトメントで二人きりになった時、私は思い切って先生に問いかけました。
「先生。先生は、何かこのロンドンの状況について知っていらっしゃることがありますね」
「あります」
弁解する気配も見せず、先生はうなずきました。
「しかし、あなたたちに原因があって打ち明けないわけではないのです。ただ、人間というものを信用できない私のわがままです。私は、自分自身すら信じられないのですから」
「それは、なぜですか?」
「私の過去のせいですよ」
「それなら、先生の過去を教えて下さい」
私の強引な言葉を聞けば、先輩やドクターは驚いたでしょう。
それほど、私の心には強い衝動が生まれていたのです。
「あなたは大胆だ」
先生は呆れたように私を見つめて言いました。
「ただ、まじめなのです。まじめに、先生の隠していることを教えてもらいたいのです」
「私の過去をあばいてもですか?」
肌を刺すような沈黙が、二人の間に広がりました。
「あなたは本当にまじめなのですか?」
しばらくして、先生は感情のうかがえない表情で続けました。
私は、先生から顔をそむけませんでした。
そうしていると、やがて、先生は根負けしたかのようにホウッとため息を漏らしました。
「私は、いつも人を疑っています。実を言うと、あなたのことだって疑っている。ですが――」
そこで先生は、ためらうように言葉を濁しました。
「私は消滅する前に、たった一人でいいから人を信用して消えたいと思っている。あなたは、そのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底からまじめですか」
もし私の命がまじめなものなら、私の今言ったこともまじめです。
そう私は断言しました。
「よろしい。話しましょう。私の過去を、一つ残らず」
震える声で、先生は約束してくれました。
「ただ、今ではありません。その時が来たら、きっと打ち明けると約束します」
そして、先生との約束は果たされないまま、特異点は最終局面を迎えました。
「さあ来たれ。我らが最後の英霊よ……」
ロンドンの地下における戦闘の後、計画の真の首謀者“M”――マキリ・ゾォルケンが、最期の言葉を口にします。
「抑止の輪より来たれ、天秤の守りてよ!」
死ぬ間際に唱えられた召喚の呪文。
その呼びかけに応え、ロンドンに充満した魔霧を媒介にして、その場に一人のサーヴァントが召喚されました。
稲妻と共に現れたそのサーヴァントは、先生と同じく着物を身にまとった東洋系の青年でした。
苦難に削り取られてしまったような痩身と、鋭い眼光。まるで苦行僧のような雰囲気は、私たちを気圧させるのに充分でした。
「やはり、彼でしたか」
その時、背後から重々しい声が届きました。
「先生?」
私の疑問に応えもせず、先生は謎のサーヴァントへと歩み寄って行きました。
「マシュ。彼こそが、ロンドンを終わらせる者です。“
先生の声がわずかに震えました。
「私の恥ずべき過去の象徴でもある。ロンドンに私のような男が召喚されたのは、彼との縁によるものなのです」
先生は、謎のサーヴァントを正面から見据えて、覚悟を決めるように声を絞り出しました。
「彼の名前は――――“K”。かつて私に裏切られ、自らの命を絶った男です」
先生の言葉が終わるのを待っていたのでしょうか。
入れ替わりに、Kは私たちを見下すように言い放ちました。
「精神的に向上心がないものは、ばかだ」
続きません。
試行錯誤を重ねた結果、いつも以上に方向性が迷子な話が出来上がったので、エイプリルフールの特別編として投稿しました。
本当は、「精神的に向上心がないものは、ピグレットだ」を考えていたはずなのに、何がどうしてこうなった。
気づけば、お気に入り件数が100件を超えていました。いつも読んでもらってありがとうございます。
*今回の元ネタは、夏目漱石の「こころ」でした。
パロディ短編集をうたいながら原典を投げ捨てるという暴挙。