双葉杏をメルカルで落札した結果   作:栗ノ原草介@杏P

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 第1話 『新春の甘姫』

 

 

 

 大人気フリマアプリ――メルカル。

 誰でも手軽に出品できるフリーマーケットアプリで、老若男女、幅広い層に利用されている。

 しかし利用者が増えるにつれて、善良とは言い難い出品者が目立つようになる。

 ゲーム機の外箱だけ(・・)を売りつけようとしてみたり、『この写真が品物です』という思わせぶりなコメントを添えて、商品の写っている〝写真〟を出品したり。

 

「なんっじゃ、こらぁぁああああ――――ッ!」

 

 それは、大晦日のことだった。

 隙間風吹きすさぶボロアパートに、男の声が響き渡る。

 

 彼はアフロで、スーツ姿で、酔っていた。

 

 職場にて行われた忘年会でしこたま飲まされて、ついさっき帰ってきたばっかりだ。どうやって帰って来たのか分からないぐらいに酔っている。ぼんやりとした頭に除夜の鐘の音が聞こえて、「もう年末か……」と呟きながら座椅子に腰かけた。

 コタツのスイッチを入れて、石油ストーブを点火する。その独特の匂いに冬の雰囲気を感じながらスマホを手に取って、メルカルのサイトにアクセス。何か掘り出し物はないかと思って検索し、それ(・・)を発見してしまう。

 

 

・双葉杏。美品。未使用。即決。

 

 出品者からのコメント。

 働きたくないので、養ってくれる人募集。

 

 

 双葉杏が、写真付きで出品されていた。

 

「杏ちゃんなわけ、ないだろうがぁぁああ――ッ!」

 

 彼はスマホの画面を見つめて、怒りに肩を震わせた。

 酔った頭を回転させて、これはどういう出品なのかと考える。

 まさか本当に、杏が売り出されているわけではないだろう。

 と、すると……。

 

 ――こういう手口の、デリヘル嬢とか?

 

 あくまでも可能性の話だが。

 落札すると双葉杏を自称する嬢がやってきて、やめろと言ってもサービスしてくる。そして法外な料金を請求されてしまう。

 そういう悪質な出品とか、メルカルならあるかもしれない。ちょっと賢い風俗嬢が、とんちみたいなアイデアを思いついたのだ。

 

「……入札ゼロ。まあ、そうだろうな」

 

 実に怪しい出品だ。誰も手を出していない。

 双葉杏を落札できるわけがない。

 

「…………」

 

 しかし。

 頭が冷えてくるにつれ、好奇心がじわじわと込み上げてきてしまう。

 

 一体、何を落札できるんだ?

 

 予想どおりにデリヘル嬢が来るのか?

 それとも、〝双葉杏〟という名前の、アイドルとは無縁の商品が届くとか?

 

「くそぅ……。気になってきた!」

 

 こんな、どう見ても何らかの詐欺としか思えない出品に関わりたくはない。

 しかし、杏の名前を目にした時点で、それを無視することなんて……。

 

「だって俺は、杏ちゃんの――」

 

 震える指で〝入札〟をタップした彼は、松平(まつだいら)凡人(ぼんど)。二十五歳。

 かつて一世をふうびしたアイドルユニット――リトルポップスの支持者で、双葉杏の熱狂的なファンだった。遠方(海外)で行われるライブであろうと追いかけて、彼女を応援するために積み上げたCDの枚数は誰よりも多い。

 

 彼はTO――トップ・オタ。

 

 昔はもちろん。

 杏の名前を聞かなくなった、今においても。

 

 ――本当にデリヘル嬢が来たら、びしっと説教してやろう! だけど、杏ちゃんに似てたら、その時は、まぁ……。

 

 ふへへと、だらしなく笑ってしまう凡人。

 外から聞こえてくる百八の鐘にも負けず、煩悩全開なのだった。

 

 

 

 * * * 

 

 

 

 翌日。

 凡人(ぼんど)は『元旦だよ、全員集合!』というメールに呼ばれて出社する。いつものように事務所のドアを開けると、むわっと酒の匂いがした。関係者たちによる盛大な新年会が開催されていて、嫌というほど飲まされた。

 

「おのれぇ……。早苗ぇぇ……」

 

 新年会を抜け出した凡人は、飲ませてきた犯人の名前を呟きながら、負傷兵のような足取りで自宅のアパートへ向かっていた。

 恨むべきは大酒飲みのお姉さん。楽しそうに笑いながら、積極的すぎるスキンシップを取ってきて。

 

「そんなんされたら……」

 

 あの笑顔とスキンシップは反則だ。

 あの人は飲み会のたびにあの調子だから困るのだ。

 隣に座って、酒をついで、ベタベタベタベタ。

 

 ――そんなんされたら、惚れてまうやろぉぉおお――ッ!

 

 と、叫びたくなった回数は、一回や二回じゃない。

 もっとも向こうは、からかってるだけだろうから、ガチ恋はしないほうがいい。きっと本気で引かれてしまう。それに会社でのお互いの立場を考えれば、そういうことはできないし……。

 

「きっとカレシとか、いるんだろうなぁ」

 

 空に向かって呟き、芽生えそうになる恋心を抑え込む。

 真冬の冷たい風を頬に感じて、酔いが醒めてきた。だいぶ足取りがまともになってくる。初詣帰りと思われる人たちが山のほうからおりてきて、すれ違いざまに凡人のアフロ頭をチラチラと見てくる。

 太陽がそのまま地面に落ちてきそうな夕焼け空だった。

 澄んだ空気に夕日の赤が鮮烈な輝きを放ち、凡人の自宅のアパートも赤々と照らされている。

 そこはいまどき珍しい木造アパートだ。

 ブロック塀に囲まれていて、手入れのされていない敷地に枯れた雑草が横倒しになっている。入り口のそばに集合ポストがあって、その脇に階段がある。それが二階の廊下に繋がっている。その廊下には落下防止の鉄格子があるだけで、目隠しになるようなものは何もない。

 なので凡人が住んでいる205号室は外から丸見えで、だからこそ彼は入り口で足を止めていた。スーツのポケットに入っているスマホの存在を強く意識して、通報したほうがいいのだろうかと目を凝らしながら考える。

 

 ――俺の部屋の前に、誰かいるんですが……。

 

 ふわふわもこもこした感じのコートを着た子供(?)が三角座りになっていた。

 そういう知り合いに心当たりはない。

 強いていうなら、親戚の子供だろうかと思うが、その線は薄い。

 凡人は大阪出身で、単身上京している。正月休みを利用して親戚の子供が「来ちゃった」する可能性はゼロではない。しかし限りなくゼロに近い。

 熱狂的なドルオタとしてなりふり構わなかった凡人は、親戚から〝あまり関わっちゃいけないお兄さん〟として警戒されている。お年玉をたかろうとすらしないのだ。念のために用意したポチ袋が、何年も使われずに実家の引き出しに眠っているのが、地味に辛い。

 

 ――まあ、俺の親戚づきあいの話は置いといて。

 

 とりあえず凡事は、謎の子供とコミュニケーションを取ってみようと決意する。

 これが筋骨隆々の大男とかだったら通報待ったなしだけど、相手は子供。いくら不審者だからといって、いきなり通報するのはさすがに大人気ない。

 

 凡人は音を立てないように階段を上がり、正体不明の子供に近づいた。

 

「あ、あの……。そこ、俺の部屋なんですが……」

 

 声をかけても、返事がない。

 

「おーい。ちょっと、ねえってば」

 

 そーっと、つついてみる。

 すると、もこもこのコートがビクッと反応。

 引け腰だった凡人は本気でびびって、臆病な猫のように素早く飛び退いた。

 錆びた鉄の廊下がバアン! と乾いた音を出す。

 その音が子供の耳に届いて、「ん。ふぁぁ……」と声がした。

 どうやらその子は寝ていたようで、眠そうに目をこすりながら立ち上がる。

 コートにうずもれて隠れていた顔があらわになった。吹き抜ける冷たい風がツインテールの金髪をふわふわとなびかせる。すごく背が低くて、立ち上がってもつむじが見えた。こちらを見上げる瞳は大きく、寒さのせいか頬が赤い。

 

 まるで、双葉杏みたいだった。

 でも、そんなわけがない。

 

 憧れのアイドルが、都内から私鉄で一時間以上かかるボロアパートにいるわけがない。山の稜線を間近に見ることのできる田舎に、どうして杏がやって来るというのか?

 

「まつだいら、ぼんど? なんでアフロなの?」

 

 その舌ったらずな声がまた、狂おしいぐらいに双葉杏だった。

 もしかすると、これは夢なのかもしれないと凡人は思う。

 

「……やけに意識がはっきりしてる夢だな。ハハっ」

 

 凡人がアフロ頭を掻きながら笑うと、少女は形の整った眉をハの字に曲げた。 

 

「なに言ってんの? 現実だけど」

「いやいやまさか、あり得ないでしょ? 杏ちゃんそっくりな女の子が俺の部屋に来るとか、そんな夢みたいな展開――」

 

「めるかる」

 

 その一言に、凡人は目を見開いた。

 覚えている。

 つい昨日の話だ。

 除夜の鐘を聞きながら、杏を名乗る風俗嬢に憤慨し、説教してやろうと(場合によっては全力でお世話になろうと)思って落札をしたのだ。

 

「じゃあ、君が――デリヘル嬢?」

 

 だとしたら大当たりにもほどがある。

 だってこの子は、双葉杏にそっくりだ。髪型から顔立ちから体型まで、完全に双葉杏を再現している。年齢が大丈夫なのかが心配だけど……全力でお世話になりたい!

 

 フンスと鼻息を荒くする凡人であったが、少女は嫌そうな顔で「なに言ってんの?」と口にする。

 

「え、だって、メルカルってアレでしょ? 双葉杏になりすました、別人じゃ……」

 

 凡人はあくまでも疑っていた。

 目の前の少女は、双葉杏の名を騙る別人であるということを前提に話をしている。

 

「はぁ……。しょうがないな」

 

 面倒くさそうな吐息をついた少女が、表情をあらためる。

 ニコッと笑ったその顔に、見覚えがあった。

 見覚えがあるどころの話ではない。

 その笑顔が見たい一心で、一体どれほどの時間とお金と情熱を費やしてきたのか。

 

「……杏、ちゃん?」

 

 凡人はごくっと唾をのみ、震える声でそう言った。

 田舎のボロアパートの、肌寒い夕暮れの中で。

 

 その少女――双葉杏は、未だアイドルの輝きを宿した笑みをきらめかせていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 メルカルで双葉杏を落札したら、本当に杏がやってきた。

 何がどうなっているのか、まるで分からない。急展開すぎて理解が追いつかない。いっそ夢であってほしい。

 いや……。

 ある意味では〝夢〟そのものなんだけど。

 

「ねー。コタツ入れていい?」

「あっ、うん。ご、ご自由に!」

 

 ライブ会場でしか見たことのない杏が、いつも凡人が座っている座椅子に座って、「やっぱり冬はコタツだよねぇー」とか言いながらスイッチを入れている。ドッキリだったら、そろそろ種明かしが欲しい。

 

「ねー」

「はっ、はい! ……なんでしょう?」

「なんでそんな、すみっこにいるの?」

 

 凡人は今、玄関の脇に立っている。

 

「だって杏ちゃんに、その……これ以上近づくのは、ファンとして抵抗があるというか。も、もちろん、すごく嬉しいんだけど! ……自重というか、遠慮というか」

「ここはぼんどの家なんだから、遠慮の必要ないよね? むしろ杏が遠慮しろって感じだし」

「あっ、ハハっ。まあ、そうだね。一応、俺の家だね、うん。……じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 凡人は引きつった笑みを浮かべて、すり足でそーっとコタツのほうへ歩き出す。三メートルの距離を移動するのに五分もかけて、コタツの近くのフローリングに正座した。

 

「ねえ」

「は、はい! ……なんでしょう?」

 

 杏の大きな瞳の中に、凡人のアフロ頭が映り込んでいる。彼女をこんなに近くで見るのは、実に久しぶりだった。

 最後の接触イベントは、確か二年前……。

 もうポスターや、過去のMVでしか会えないと思ってた。

 

「ぼんどは、さ……」

 

 杏が何か言おうとして、口ごもる。まるで子供のそれみたいな右手でツインテールの片方をいじり、はじらう乙女みたいに視線を伏せながら、

 

「そ、そんなに……杏のことが、好きなの?」

「…………」

 

 そのとき凡人は、実に悩ましげな顔になる。

 

 ――この問いかけに、果たしてどういう意図があるのか?

 

 もしかすると流行りの〝ウザイ系ヒロイン〟に挑戦しようとしてるのだろうか? だとしたらナイスだと思う。ウザカワな杏ちゃんに煽られるとか最高だ。是非ともその路線で売り出してほしい。むしろ何故やらないのか? 担当プロデューサーを問い詰めてやりたい。

 

 全力で思考している凡人は、傍から見ると否定的に口を閉ざしたように見えてしまう。

 そんな凡人を見つめる杏が、悲しそうな顔でため息をついた。

 

「めるかるで落札するぐらいだから、杏のこと、好きなのかと思ってた……。まぁ、さいきん活動してないし、杏のことなんて――」

 

 ――ダン!

 凡人は正座をしていた状態から勢いよく立ち上がり、オーケストラの指揮者のように腕を振る。

 

「俺、杏ちゃんのこと、好きすぎてヤバいから! そもそもメルカルやってたの、杏ちゃんのグッズを落札するためで! ほら、この押し入れとか、杏ちゃんのグッズでパンパン! もー、何にも収納できないの! ヤバいでしょ! そ、そのぐらい、好きなんだ!」

 

 テンション高くまくし立てる自分の声を聞きながら、凡人はふと、昔のことを思い出す。

 たとえば握手会とかで、凡人はこんな感じだった。

 憧れのアイドルを目の前にして、緊張してテンパってしまって。それでもとにかく好きの気持ちを伝えるために、支離滅裂な言葉に情熱を乗せていた。

 

「ふぅーん」

 

 そして杏は、決まっていつも、理解できないものを見るかのような半眼になって。

 それでも最後に、ニコッと笑ってこう言った。

 

「まあ、ありがと。悪い気は……しないかな」

 

「ぐはぁっ!」

 

 凡人は思わずふらつき、その場に片膝をついた。

 あまりに久しぶりすぎる杏の塩甘対応(塩対応の後に一握りの甘い対応がくる)に、緊張と遠慮と理性が消し飛んだ。

 そう……。

 凡人はショックのあまり、理性を失ってしまったのだ!

 

「杏ちゃん、やっぱり可愛いなぁ……。はぁ……尊い。存在が尊い!」

 

 ゆらっと立ち上がって「ふひひ」と笑う凡人に、杏はぞっとして笑みを引っ込めた。

 

「……あの、思わせぶりなこと言って、ごめん。謝るから、元のビクビクしてたぼんどに、戻ってほしいな?」

 

 口元を引きつらせながら説得してくる杏に、凡人は「それは無理だよ、杏ちゃん」と口にしながら、一歩近づいた。

 

「だって、これが俺の本当の姿だし……。デビュー当時から推してます! 大好きですっ!」

 

 好きな人に好きと言える喜びを噛みしめながら、凡人は泣きそうな顔になる。

 そして本当に感極まってしまって、目のふちから涙をこぼす。

 それを見た杏は、身の危険を感じたのか、小さなひたいに冷や汗をかいて、

 

「あ、うん。それは、ありがと……。でも、いったん落ち着こ? さっきから目つきが恐いし、スリ足で近づいてくるのも地味に恐怖って言うか、そろそろ防犯ブザーの出番っていうか!」

 

 珍しく大きな声を出す杏。

 しかし凡人は、キノコを愛でる星輝子のように「ふひひ」と微笑みながら、

 

「大丈夫だよ、杏ちゃん。イエス・アイドル、ノー・タッチ。それはファンの鉄則だ。見るだけ……。見るだけだからぁぁああ――っ!」

 

「だから近いって! もーっ!」

 

 杏が着ているコートの中には、防犯ブザーが装着されていた。杏がヒモを引っぱって、キュンキュンキュンと警報音が鳴り響く。

 そのうるさい音が、凡人の情熱に冷水(ひやみず)をかけた。

 凡人は杏に向けて進んでいた足の動きを止めて、パチパチと瞬きを繰り返す。

 

「……お、俺は、一体なにを」

「やっと正気に戻ったか」

 

 はあー、と安堵の吐息をつく杏。

 そこに含まれる呆れの気持ちに、やばいことをやらかしてしまった時の悪寒が背中を駆け抜けて、

 

 ――あ、杏ちゃんに、嫌われた!

 

 凡人は慌てて杏から離れ、フローリングにひたいをつけて土下座する。

 

「すいませんっ、した! つい、調子にのってしまいまっ、した!」

 

 すると杏は、またしても「はぁ……」とため息をついて、

 

「……別に、そこまでしなくていいよ。もう暴走しないでね?」

 

 思ったよりも柔らかい言葉をかけられて、凡人はほっとする。

 せっかく憧れのアイドルと再会できたのに、うっかり暴走して嫌われるとか……。

 そんな結末は嫌だ。

 

「ところで、晩御飯は? 杏、お腹が空いちゃった」

 

 杏が小さなお腹をさすり、おねだりの上目遣いを向けてくる。

 

「あっ、はい! ただいま!」

 

 凡人は土下座の体勢から素早く立ち上がり、冷蔵庫に駆け寄ってドアへ手を伸ばす。

 そしてその中身を目にして、険しい顔になる。

 

 缶ビールと、食べかけのツナ缶と、及川牛乳。

 

 絵に書いたような一人暮らしの男の冷蔵庫だった。

 憧れのアイドルに出せるものなんて……。

 

「なんかあった?」

 

 凡人は慌てて冷蔵庫のドアを閉め、スーツのポケットからスマホを取り出した。

 

「いや、その……せっかくだから、出前でも頼もうかなって」

「あっ、それ、いいね! 杏、ピザがいーなぁ」

 

 杏の好意的なリアクションにほっとして、凡人はスーツのポケットからスマホを取り出した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 凡人(ぼんど)がスマホで注文してから、三十分でピザがきた。

 

「杏、そんなに食べれないから、ほとんど食べていいからね」

 

 凡人はフローリングの上に正座になって、杏がピザを食べる様子を真剣に観察している。アイドルの食事風景なんて、滅多に見られるものじゃない。

 杏はツインテールがテーブルに垂れないように首を伸ばして、ピザをかじる。口が小さいから一度にたくさん食べられない。何度も同じ動作を繰り返して、一切れのピザを食べ終えるたびに疲れたような吐息をついた。

 

 ――ずっと見てられるな、杏ちゃんのご飯。

 

 凡人が嬉しそうにニコニコしていると、それに気づいた杏がピザを食べるのを中断した。凡人とテーブルのピザを交互に見て、

 

「……ぼんどは食べないの?」

「あ、うん。今はちょっと、一杯で……」

「もしかして、もう晩御飯食べてた?」

「いや、晩御飯はまだだけど、杏ちゃんの食事を見てると、それだけで胸が一杯に……」

 

「…………」

 

 大きな目にまぶたを半分おろして不愉快な気持ちを訴えてくる杏。

 しかし凡人は、その表情も可愛いと思って(えつ)()る。彼女が何をしようと〝カワイイ〟に変換されてしまうフィルター。それを持っている凡人は、ある意味で最強の厄介勢だった。

 どんなに尖った視線を向けても態度をあらためようとしない凡人に呆れたのか、杏はいつものため息をついて再びピザを食べ始める。

 そしてしばらく、彼女がもむもむとピザを噛む音だけが聞こえて、

 

「ふぅ……。杏、もう食べれないから、あとはぼんど、食べちゃって」

「あ、うん。そういうことなら」

 

 凡人は立ち上がりピザの箱を見つめて、思わず息をのむ。

 

「杏ちゃん。これ……」

 

 指を向けた先にあるのは、生々しくかじった跡の残っている、食べかけのピザ。

 

「あー、ごめん。途中だけど、もう無理。代わりに食べて」

「いや! 無理! だってそれ、か、か、間接ピザになっちゃうって!」

 

「そんなに気にしなくていいよ。――っていうか、間接ピザってなに?」

 

 杏は呆れ顔で眉をひそめていたが、凡人はいたって真面目にピザと向き合って、

 

「じゃあ、捨てる――のは杏ちゃんに失礼だから、保存しよう……」

「捨ててよ! 保存してどうすんの!?」

 

 思わずテーブルに両手をついて、身を乗り出してくる杏。

 凡人は構わず、真剣な面持ちで、

 

「ラップに包んで、冷凍庫に保管して、後世に残す」

「歴史的資料みたいに扱わないでよ! 私の食べかけを!」

 

 凡人は杏の残したピザを丁寧にラップで包み、冷凍庫に保管しながら思うのだ。

 

 ――いやでも実際、歴史的資料といっても過言ではないと思う。杏ちゃんの食べかけピザとか、メルカルに出品したら億の値が付くぞ。少なくとも俺は言い値で買うだろう。

 

 神妙な顔で頷きながら冷凍庫のドアを閉めた凡人に、杏は呆れ果てたかのような吐息をついて、キョロキョロと部屋を見渡した。

 

「ねー? ここって、お風呂ある?」

「そりゃあ、あるけど」

「じゃあ、ちょっと借りていい?」

「だ、ダメに決まってるでしょう!」

 

 反射的に大声を出してしまう凡人。

 杏は不満げに首を傾げて、

 

「……ダメなの? なんで?」

「だってそりゃあ、まずいよ。杏ちゃんに入浴なんてされたら、俺……どうしたらいいか」

 

 想像してはいけないと思いながらも、想像してしまう。

 いやだって、全裸だぜ。自分がいつも使ってる風呂で、アイドルが全裸で、入浴するとか! さすがにそれは、まずいだろ……。残り湯とか、残り香とか、そういうものと、どう向き合っていけばいいんだ? 排水溝に毛とか落ちてたら、どうすればいい? どこかに通報するべきか? いやでも、どこに!?

 

 思考を混乱させて押し黙る凡人を尻目に、座椅子から尻を浮かせた杏が、もこもこしているコートに手をかけた。

 

「お風呂、どこ?」

「いやっ、だから、まずいって」

「お風呂に入らないほうがまずいよ。くさくなる」

 

 凡人は思わず、強い口調で、

 

「杏ちゃんは、くさくなんてなりません!」

 

「いや、なるから。杏も人間だし」

 

 杏はあくまでも淡々とした態度で、ヘアゴムを外してツインテールをほどく。気だるげな足取りで風呂場のドアへ近づいて、凡人のほうを振り返り、

 

「ここ、だよね? 使い方教えて」

「あ、うん。えっと……」

 

 凡人が簡単にレクチャーすると、杏はすぐに理解した。

 

 ――っていうか杏ちゃん、恥ずかしくないのか? あと、警戒心とかは? そりゃあ、俺は〝手を出す〟度胸なんてないけど、初対面の男だぞ。普通はもっと警戒するだろ? そもそも部屋に上がったりしないよな。

 

 あらためて置かれた状況に疑問を(いだ)き、そして凡人はその可能性に思い至る。

 

 ――もしかして杏ちゃん、俺のことを覚えてるんじゃ……?

 

 凡人はトップ・オタだった。

 接触イベントには必ず顔を出したし、当時は『また来たの? 暇だねぇ』とか言ってくれた。顔を覚えてくれていた。

 でも、それは何年も前の話だ。

 杏からすれば、大勢のファンのうちの一人にすぎない。

 

「じゃあ、ぼんど。お風呂借りるね。覗いてもいいけど、有料だから」

「の、覗かないって!」

 

 にししと笑った杏が風呂場に入り、ドアも閉めずに脱ぎだした。

 凡人は慌てて外へ出る。

 バタンと後ろ手に玄関のドアを閉め、すっかり冷えているドアに背中を預けて空を見る。

 

 星の綺麗な夜だった。

 

 冷たい夜風が吹き抜けて、凡人は思わずスーツの前をかき(いだ)く。

 そしてふと、鼓膜に残る舌ったらずな声を思い出し、

 

 ――そういえば杏ちゃん。俺の名前を……。

 

 風呂場に繋がる換気扇から真っ白な湯気が立ち(のぼ)る。それと一緒に、ぼんやりとくぐもった鼻歌が聞こえた。

 彼女の歌を聞くのは久しぶりだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 風呂場からシャワーの音がしなくなる。

 万が一にもラッキースケベなんて起こしてはいけない。そう思った凡人は、さらに10分ほど待ってから部屋に戻った。

 コタツの近くにドライヤーが放置され、座椅子に杏が座ってる。椅子に対して体が小さすぎるので、座ってる――というよりも、収まっているという表現のほうがふさわしい。

 

「杏ちゃん?」

「ふすぅ……。ふすぅ……」

 

 杏はうつむいて寝息を立てている。

 凡人は足音を立てないようにそーっと近づき、その寝顔を見つめて考える。

 

 記憶の中にある顔つきと、少し違う。

 

 三年前、リトルポップスの一員としてデビューした彼女は、当時十五歳。

 あの時はもう少し、あどけない顔をしていた。斜に構えている〝キャラ〟をしていたが、それでも子供っぽい純真さがあって、大人と子供の中間みたいな雰囲気が魅力的だった。

 しかし今は、達観した大人のような空気を漂わせている。

 十八歳のそれよりも、もっと上。知らなくてもいいことを知ってしまった、擦れた大人の諦観が滲んでいるような。

 

 ――この数年で、一体何があったのか?

 

 杏の寝顔を見つめたところで、答えは分からない。

 リトルポップスが解散し、徐々にメディアから遠ざかり、最近はほとんど姿を見せていない。

 そんな彼女が、どうしてここにいるのか?

 

 ――346プロで何かあった。

 

 そう考えるのが妥当だろう。

 だって彼女は、346プロの寮に住んでいるはずなのだ。リトルポップス時代にラジオで言っていた。出身は北海道。寮に入っているのだと。

 それが何で、こんな家出まがいのことをしたのか?

 346プロの人間はこのことを知っているのか?

 

 ――連絡したほうが、いいよな……。

 

 凡人のスマホには、346プロの番号が登録されている。

 杏が来ていることを告げれば、すぐにでも彼女のプロデューサーが迎えにくるだろう。

 そうするべきだ。それが大人の義務なのだ。

 

 ――でも。

 

 せめて理由を聞いてからにしたい。

 だって凡人は、杏のトップ・オタなのだ。

 昔はもちろん、彼女の名前を聞かなくなった、今この瞬間においても。

 

 ――もしも、杏ちゃんが俺のことを覚えていて、何らかの助けを求めているなら。

 

 力になりたい。

 手を差し伸べたい。

 ただのファンではない〝今の自分〟であれば、彼女の役に立てるかもしれない。

 

「杏ちゃん。こたつで寝ると風邪ひくぞ。ほら、布団で寝ないと」

「んむぅ……」

 

 凡人は寝ぼけている杏の手を引いて、布団に寝かせた。

 そして自分は押し入れから取り出した寝袋に入って、フローリングの上で寝た。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 翌朝。

 凡人(ぼんど)はスマホの着信音で起こされた。

 体中が痛かった。

 フローリングで寝たことを思い出しながら、窓から差し込む朝日に手をかざす。杏はまだ寝ているようで、膨らんでいる布団は微動だにしない。

 スマホからの着信音は鳴りやまず、画面を見ると〝社長〟と表示されている。

 

「はい、松平です」

『おう、オレだ。ちょっとミーティングをしたい。来てくれ』

「……了解です」

 

 急な出社命令に疲労感を覚えつつ、凡人はのそのそと寝袋から這って出た。頭の奥がガンガンする。まさしく典型的な二日酔いの症状だ。ワイシャツのままで寝てしまったので、シャツがしわだらけになっていた。面倒なのでこのまま出社してしまおうと思う。

 洗面所へ行って歯を磨き、鏡に映るアフロヘアを見て苦笑した。アフロの形が楕円形になっている。アフロにもちゃんと寝ぐせが付くのだ。

 

「どっかいくの?」

「うわっ!」

 

 いきなり背中に声をかけられて、凡人はその場で飛び上がる。

 振り向くと、眠そうな杏が立っていた。

 髪の毛が四方八方に跳ねている。実に豪快な寝ぐせだ。

 それを見た凡人は、可愛い猫動画を見た人のような顔になり、

 

「寝ぐせがすごい杏ちゃんも、可愛いなぁ……。尊い……。尊いよぉッ!」

「もー、そういうのいいから」杏は煙たそうな顔になり、

「――で、どっかいくの?」

「あぁ。ちょっと仕事が」

「お正月なのに仕事? もしかしてぼんどって、ブラック企業の人?」

 

 心底嫌そうな顔をする杏に、凡人は腕を組みながら目を閉じて、

 

「まぁ、ブラックと言えばそうかも。仕事自体は楽しいんだけどな」

「うわぁ、それ、ブラックで働く人の決まり文句だよ。……一体、なんの仕事なの?」

「えっと、その……」

 

 凡人は少しだけ返事を迷う。

 適当に誤魔化そうかと思ったが、自分のことを見上げてくる杏に嘘をつくのは嫌だった。

 

「実は、俺。プロデューサーなんだ」

「……それって、もしかして」

 

 不安げな声を漏らした杏に、凡人は努めて明るい笑みを向けながら、

 

「俺はアイドル事務所――893プロで、アイドルのプロデューサーをやっている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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