893プロは、東京の裏路地に建っているビルの一室に事務所を持っている。
そのビルは造りが古く、コンクリートの壁に
――いかにも恐い人の事務所、って感じなんだよな。
外見からしてやくざ映画に出てきそうな事務所で、しかも名前が893プロ。
真っ当なアイドル事務所なんですと言ったところで、誰にも信じてもらえない。
「おはようございまーす」
体全体で押すようにして、重い鉄扉を開ける。
ぎぎっと
床は緑色のタイルで、デスクとパソコンと応接用のソファーがある。
それ以外に目に付くものは特にない。
物騒な日本刀も無ければ、机の上に足を投げ出して
それどころか、
「あっ、ぼんどさん。おはようごさいますっ!」
「菜々さん、おはようございます。昨日は菜々さんも結構飲んだのに、元気そうっすね……」
凡人が二日酔いのアフロ頭を掻くと、彼女は力強く両手のこぶしを握ってみせて、
「菜々にはウサミンパワーと、ウコンの力がありますからねっ! キャハ!」
「……それ、ほとんどウコンの力ですよね」
思わず苦笑する凡人。
すると菜々は、怒って頬を膨らませ、
「ちょっとぼんどさん。何ですかその半笑いは! 悪い子はお尻ぺんぺんですよ!」
「菜々さんのお尻ぺんぺんとか、むしろご褒美なんだよなぁ……」
「んなっ!?」
凡人の紳士的発言に頬を赤くした彼女は、安部菜々――17歳(**歳)。
歌って踊れてアフレコができる、声優アイドルを目指して活動している。しかし残念ながら、売れていない。生活費を捻出するためにバイトをする必要があり、それならウチで働かないかと社長が誘って、893プロの事務員をやっている。
アイドル業界の通例に従って緑色の事務員服を着ているが、その耳には大きなウサミミが揺れている。これだけは譲れないアイデンティティであるらしい。
「俺、最近飲みすぎると次の日が辛くて……。歳ってやつですかね」
凡人が肩をすくめながら弱音を吐くと、菜々はしみじみと頷いて、
「あぁー、それはありますねぇ。肝機能が低下――――――してない菜々には、よく分かりませんがっ!」
ギリギリのところで踏みとどまった彼女に、凡人は笑みを浮かべて親指を立てる。
「いいね、菜々さん。覆面レスラーは控室でも覆面を脱いではいけない。常に十七歳であることを意識していこう!」
「そ、そうですね……。ぼんどさんが不意打ちで菜々を試してくるから、慣れてきちゃいました」
肩をすくめて赤い髪を揺らす菜々へ、凡人はテレビカメラを向けるようなジェスチャーを見せて、
「あとは、ハイビジョンカメラの接写を恐がらないようになれれば、いいんだけど……」
「うーん。スキンケアは万全なんですけど、若い子と比べられちゃうと厳しいな――――――って、年上の方に思わせちゃって申し訳ない!」
「危ないところから立て直したね。ナイスだよ、菜々さん!」
凡人が菜々と笑い合って、ほっこりしていると、
「おい、ぼんど。菜々ちゃんといちゃついてないで、こっち来いや」
事務所の奥から社長の声がした。
ドスのきいた関西弁だ。まさに893プロの社長にふさわしい凶悪な響き。
「じゃあ、菜々さん、また」
「あっ、ちょっと待ってください」
立ち去ろうとした凡人に、菜々が近づいた。
彼女は小柄で、背が低い。
真正面に立たれると、改めて男女の体格差を実感してしまう。
――やっぱり可愛い
凡人がじっと見つめる先で、菜々もまた凡人のことを見上げて、両手をさし出して。
一歩、また一歩と近づいて来て、こちらの吐息がかかってしまうぐらいの距離になり――。
「え、ちょっ、菜々ひゃん……!?」
動揺して情けない声を出してしまう凡人。
菜々は構わずに、さらに距離を詰めてくる。
それに伴って、心臓の音が、どんどん大きくなっていき――。
――これは絶対の秘密なのだが、凡人は素人童貞なのだった! プロデューサーという立場上、女の子に対して強気な態度を見せているけど、それは虚勢。何かの拍子に接近されると、情けなく緊張してしまうのだ!
「……はい、これでよし。自慢のアフロが乱れてましたよ」
凡人の髪を直した菜々が、ふわっと優しく微笑んだ。
彼女は笑うと、目じりが垂れる。
その笑い方が、凡人はすごく好きだった。
好きになりそうだった。
この事務所に来てからそれなりに長い付き合いで、気の置けないやり取りができる彼女のことを、そういう目で見てしまう瞬間は少なくないのだが。
――だ、ダメだ。俺には杏ちゃんがいる!
凡人はアフロ頭を振って、杏に対する気持ちを強く意識する。
「……ありがとう、菜々さん」
「いえいえ」
凡人は菜々に対する気持ちをぐっとこらえて抑え込み、怖い社長の元へ行く。
「ぼんどぉ。菜々ちゃんのことが好きなんは分かるが、今はそれどころやないんやで」
事務所の一番奥のデスク。
そこにはいかにも〝重役の椅子〟といった感じのソファーがあって、
「何か、あったんですか? もしかして、村上組の連中が……?」
「おう。実は、巴のお嬢に目え付けられちまって、鉄砲玉が――って」
バチンと机を叩いた社長が、豪快に破顔して、
「それじゃ、ほんまもんの極道やないかーい! ウチは健全経営のアイドル事務所――やっちゅうねん!」
――実のところ893プロは、ヤクザとはまったく関係がなかった。
そもそも、893と書いて、ハクサンと読む。
社長の名前が
当の本人はお笑いとアイドルをこよなく愛するおっさんで、893プロという会社を立ち上げた直後、「ウチの会社、えらい印象悪いなぁ!」と気付いて焦ったんだとか。
「――で、冗談はこのぐらいにして。ちょ、ぼんど、耳かせや」
社長はチラチラと菜々のほうへ視線を向けている。
どうやら、彼女に聞かれたくない話があるらしい……。
「実はなぁ、ちょっと経営がまずいんや。一発ドカンと儲けんと、ウチの事務所、アカンかもしれん」
「……アカンって、どういうことですか?」
「せやから、そのまんまの意味や。今のままやと、三カ月後に手形が不渡りを起こす。オレ、一回不渡りやってるさかい、後があらへん。倒産してまう」
「と、倒産!」
「ばかっ、声がでかい」
――ガシャン。
陶器の割れる音がした。
振り返ると、目を見開いている菜々がいて、床に割れた湯呑が……。
「あっ、すいませっ。すぐに、片づけっ」
菜々はしゃがみ込んで割れた湯呑を拾おうとする。
「菜々さん!」
凡人は大きな声を上げ、菜々がびくっと反応した隙に駆け寄って手を掴む。
「素手でこんなもん触ったら怪我しちゃうでしょ。菜々さんはアイドルなんだから、そういうの、気をつけて。片付けは俺がやりますから」
菜々の手首から、震えが伝わってきた。
その動揺の正体を、凡人は知っている。
「……あの。893プロ、なくなっちゃうんですか?」
彼女が本当に十七歳であるならば、ここまで動揺しないだろう。
本当の菜々を知っているから、凡人は何も言えずに無言で手を放す。
凡人に代わって、社長が重苦しいため息をついて、
「このままやと、余命三カ月っちゅうとこやろな」
その言葉は、会社に対するものであり、同時に菜々へ向けた宣告であった。
彼女の年齢を考えると、今から他所の事務所で再デビューをするのは……。
「……そう、ですか。いや、薄々、そんな気はしてたんです。ほら、菜々、事務員やってますから、収支とか、分かっちゃって。だから、もしかすると、まずいんじゃないかなーって」
彼女はいつものように笑おうとする。
しかし、その目尻は垂れていない。
――もし、俺が……。
仮にものすごいプロデューサーで、アイドルを〝売る〟ことができれば、きっと啖呵を切っていた。
俺が何とかしてやる。だからそんな顔するなって、男らしく言っていた。
しかし凡人は黙って床を見つめて、手のひらに爪を食い込ませていた。
「……まあ、未来のことはどうなるか分からん。それがこの業界や。最後までウサミンパワー全開で、がんばろな?」
社長に慰められて、彼女は頷いた。
その顔に張り付いている笑みは、〝いい笑顔〟とは程遠い代物で。
そんな顔をさせてしまっていることに、凡人は担当プロデューサーとして、いたたまれない気持ちになった。
「それと、ぼんど。もう一つ、言いづらいことがあるんや」
「……まだ、何かあるんですか?」
身構える凡人に、社長は気まずげな顔で、
「年末のオーディションで採用した子。あれ、なしにしてくれ」
凡人は驚き、社長の顔を凝視しながら歩み寄る。
「何、言ってんすか。そんなの、ダメでしょ……。だって、可愛そうじゃないですか!」
「そりゃあそうやが、仕方ないやろ? 状況が状況や。沈みかかってる船に船員増やしてどうすんねん。そっちのほうが可哀想や」
「…………ッ!」
凡人は瞬間的に荒ぶった感情が落ち着くまで社長を睨みつけ、肩から力を抜いて社長から距離を取る。
ゆっくりと深呼吸をして、目を閉じて。
あの日のことを、思い出す。
あの子にオーディションの合格を伝えた日。
彼女は嬉しそうだった。
こんな弱小事務所のオーディションなのに、すっごく喜んでくれて……。
「それじゃ、連絡よろしくな」
「……はい」
凡人は両手を握りしめ、早足で事務所の外へ出た。
ひとけのない階段の踊り場でスマホを取り出して。
――ここでためらったら、電話できなくなっちまう。
そう思った凡人は、ぐっと唇を噛んで〝通話〟をタップする。
「もしもし、893プロの松平と申します。電話口にいらっしゃいますのは、諸星きらりさんでしょうか?」