双葉杏をメルカルで落札した結果   作:栗ノ原草介@杏P

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 第2話 『893プロ』

 

 

 

 893プロは、東京の裏路地に建っているビルの一室に事務所を持っている。

 そのビルは造りが古く、コンクリートの壁に鉄扉(てつとびら)が横並びになっている。それはまさしく〝昭和の雑居ビル〟といった風貌(ふうぼう)で、あまり明るい印象を持てない。

 

 ――いかにも恐い人の事務所、って感じなんだよな。

 

 外見からしてやくざ映画に出てきそうな事務所で、しかも名前が893プロ。

 真っ当なアイドル事務所なんですと言ったところで、誰にも信じてもらえない。

 

「おはようございまーす」

 

 体全体で押すようにして、重い鉄扉を開ける。

 ぎぎっと蝶番(ちょうつがい)の軋む音がして、(ひら)いたドアの向こうにあるのは、いたって普通のオフィスだ。

 床は緑色のタイルで、デスクとパソコンと応接用のソファーがある。

 それ以外に目に付くものは特にない。

 物騒な日本刀も無ければ、机の上に足を投げ出して紫煙(しえん)を吐いている組員の姿も見当たらない。

 それどころか、凡人(ぼんど)に気づいてキャハっと笑ってくれたのは、

 

「あっ、ぼんどさん。おはようごさいますっ!」

「菜々さん、おはようございます。昨日は菜々さんも結構飲んだのに、元気そうっすね……」

 

 凡人が二日酔いのアフロ頭を掻くと、彼女は力強く両手のこぶしを握ってみせて、

 

「菜々にはウサミンパワーと、ウコンの力がありますからねっ! キャハ!」

「……それ、ほとんどウコンの力ですよね」

 

 思わず苦笑する凡人。

 すると菜々は、怒って頬を膨らませ、

 

「ちょっとぼんどさん。何ですかその半笑いは! 悪い子はお尻ぺんぺんですよ!」

「菜々さんのお尻ぺんぺんとか、むしろご褒美なんだよなぁ……」

「んなっ!?」

 

 凡人の紳士的発言に頬を赤くした彼女は、安部菜々――17歳(**歳)。

 歌って踊れてアフレコができる、声優アイドルを目指して活動している。しかし残念ながら、売れていない。生活費を捻出するためにバイトをする必要があり、それならウチで働かないかと社長が誘って、893プロの事務員をやっている。

 アイドル業界の通例に従って緑色の事務員服を着ているが、その耳には大きなウサミミが揺れている。これだけは譲れないアイデンティティであるらしい。

 

「俺、最近飲みすぎると次の日が辛くて……。歳ってやつですかね」

 

 凡人が肩をすくめながら弱音を吐くと、菜々はしみじみと頷いて、

 

「あぁー、それはありますねぇ。肝機能が低下――――――してない菜々には、よく分かりませんがっ!」

 

 ギリギリのところで踏みとどまった彼女に、凡人は笑みを浮かべて親指を立てる。

 

「いいね、菜々さん。覆面レスラーは控室でも覆面を脱いではいけない。常に十七歳であることを意識していこう!」

「そ、そうですね……。ぼんどさんが不意打ちで菜々を試してくるから、慣れてきちゃいました」

 

 肩をすくめて赤い髪を揺らす菜々へ、凡人はテレビカメラを向けるようなジェスチャーを見せて、

 

「あとは、ハイビジョンカメラの接写を恐がらないようになれれば、いいんだけど……」

「うーん。スキンケアは万全なんですけど、若い子と比べられちゃうと厳しいな――――――って、年上の方に思わせちゃって申し訳ない!」

「危ないところから立て直したね。ナイスだよ、菜々さん!」

 

 凡人が菜々と笑い合って、ほっこりしていると、

 

「おい、ぼんど。菜々ちゃんといちゃついてないで、こっち来いや」

 

 事務所の奥から社長の声がした。

 ドスのきいた関西弁だ。まさに893プロの社長にふさわしい凶悪な響き。

 

「じゃあ、菜々さん、また」

「あっ、ちょっと待ってください」

 

 立ち去ろうとした凡人に、菜々が近づいた。

 彼女は小柄で、背が低い。

 真正面に立たれると、改めて男女の体格差を実感してしまう。

 

 ――やっぱり可愛い女性(ひと)なんだよな、菜々さん……。

 

 凡人がじっと見つめる先で、菜々もまた凡人のことを見上げて、両手をさし出して。

 一歩、また一歩と近づいて来て、こちらの吐息がかかってしまうぐらいの距離になり――。

 

「え、ちょっ、菜々ひゃん……!?」

 

 動揺して情けない声を出してしまう凡人。

 菜々は構わずに、さらに距離を詰めてくる。

 それに伴って、心臓の音が、どんどん大きくなっていき――。

 

 ――これは絶対の秘密なのだが、凡人は素人童貞なのだった! プロデューサーという立場上、女の子に対して強気な態度を見せているけど、それは虚勢。何かの拍子に接近されると、情けなく緊張してしまうのだ!

 

「……はい、これでよし。自慢のアフロが乱れてましたよ」

 

 凡人の髪を直した菜々が、ふわっと優しく微笑んだ。

 彼女は笑うと、目じりが垂れる。

 その笑い方が、凡人はすごく好きだった。

 好きになりそうだった。

 この事務所に来てからそれなりに長い付き合いで、気の置けないやり取りができる彼女のことを、そういう目で見てしまう瞬間は少なくないのだが。

 

 ――だ、ダメだ。俺には杏ちゃんがいる!

 

 凡人はアフロ頭を振って、杏に対する気持ちを強く意識する。

 

「……ありがとう、菜々さん」

「いえいえ」

 

 凡人は菜々に対する気持ちをぐっとこらえて抑え込み、怖い社長の元へ行く。

 

「ぼんどぉ。菜々ちゃんのことが好きなんは分かるが、今はそれどころやないんやで」

 

 事務所の一番奥のデスク。

 そこにはいかにも〝重役の椅子〟といった感じのソファーがあって、強面(こわもて)のおじさんがどっかりと腰かけている。髪の毛はパンチパーマで、眉毛は太く、目は一重。ヤクザ映画に出てくる〝親分〟の貫録がある。

 

「何か、あったんですか? もしかして、村上組の連中が……?」

「おう。実は、巴のお嬢に目え付けられちまって、鉄砲玉が――って」

 

 バチンと机を叩いた社長が、豪快に破顔して、

 

「それじゃ、ほんまもんの極道やないかーい! ウチは健全経営のアイドル事務所――やっちゅうねん!」

 

 ――実のところ893プロは、ヤクザとはまったく関係がなかった。

 

 そもそも、893と書いて、ハクサンと読む。

 社長の名前が白山(はくさん)で、アイドル業界の習慣に従って数字に置き換えた結果、893プロになってしまった。

 当の本人はお笑いとアイドルをこよなく愛するおっさんで、893プロという会社を立ち上げた直後、「ウチの会社、えらい印象悪いなぁ!」と気付いて焦ったんだとか。

 

「――で、冗談はこのぐらいにして。ちょ、ぼんど、耳かせや」

 

 社長はチラチラと菜々のほうへ視線を向けている。

 どうやら、彼女に聞かれたくない話があるらしい……。

 

「実はなぁ、ちょっと経営がまずいんや。一発ドカンと儲けんと、ウチの事務所、アカンかもしれん」

「……アカンって、どういうことですか?」

「せやから、そのまんまの意味や。今のままやと、三カ月後に手形が不渡りを起こす。オレ、一回不渡りやってるさかい、後があらへん。倒産してまう」

「と、倒産!」

「ばかっ、声がでかい」

 

 ――ガシャン。

 

 陶器の割れる音がした。

 振り返ると、目を見開いている菜々がいて、床に割れた湯呑が……。

 

「あっ、すいませっ。すぐに、片づけっ」

 

 菜々はしゃがみ込んで割れた湯呑を拾おうとする。

 

「菜々さん!」

 

 凡人は大きな声を上げ、菜々がびくっと反応した隙に駆け寄って手を掴む。

 

「素手でこんなもん触ったら怪我しちゃうでしょ。菜々さんはアイドルなんだから、そういうの、気をつけて。片付けは俺がやりますから」

 

 菜々の手首から、震えが伝わってきた。

 その動揺の正体を、凡人は知っている。

 

「……あの。893プロ、なくなっちゃうんですか?」

 

 彼女が本当に十七歳であるならば、ここまで動揺しないだろう。

 本当の菜々を知っているから、凡人は何も言えずに無言で手を放す。

 凡人に代わって、社長が重苦しいため息をついて、

 

「このままやと、余命三カ月っちゅうとこやろな」

 

 その言葉は、会社に対するものであり、同時に菜々へ向けた宣告であった。

 彼女の年齢を考えると、今から他所の事務所で再デビューをするのは……。

 

「……そう、ですか。いや、薄々、そんな気はしてたんです。ほら、菜々、事務員やってますから、収支とか、分かっちゃって。だから、もしかすると、まずいんじゃないかなーって」

 

 彼女はいつものように笑おうとする。

 しかし、その目尻は垂れていない。

 

 ――もし、俺が……。

 

 仮にものすごいプロデューサーで、アイドルを〝売る〟ことができれば、きっと啖呵を切っていた。

 俺が何とかしてやる。だからそんな顔するなって、男らしく言っていた。

 しかし凡人は黙って床を見つめて、手のひらに爪を食い込ませていた。

 

「……まあ、未来のことはどうなるか分からん。それがこの業界や。最後までウサミンパワー全開で、がんばろな?」

 

 社長に慰められて、彼女は頷いた。

 その顔に張り付いている笑みは、〝いい笑顔〟とは程遠い代物で。

 そんな顔をさせてしまっていることに、凡人は担当プロデューサーとして、いたたまれない気持ちになった。

 

「それと、ぼんど。もう一つ、言いづらいことがあるんや」

「……まだ、何かあるんですか?」

 

 身構える凡人に、社長は気まずげな顔で、

 

「年末のオーディションで採用した子。あれ、なしにしてくれ」

 

 凡人は驚き、社長の顔を凝視しながら歩み寄る。

 

「何、言ってんすか。そんなの、ダメでしょ……。だって、可愛そうじゃないですか!」

「そりゃあそうやが、仕方ないやろ? 状況が状況や。沈みかかってる船に船員増やしてどうすんねん。そっちのほうが可哀想や」

「…………ッ!」

 

 凡人は瞬間的に荒ぶった感情が落ち着くまで社長を睨みつけ、肩から力を抜いて社長から距離を取る。

 ゆっくりと深呼吸をして、目を閉じて。

 あの日のことを、思い出す。

 

 あの子にオーディションの合格を伝えた日。

 

 彼女は嬉しそうだった。

 こんな弱小事務所のオーディションなのに、すっごく喜んでくれて……。

 

「それじゃ、連絡よろしくな」

「……はい」

 

 凡人は両手を握りしめ、早足で事務所の外へ出た。

 ひとけのない階段の踊り場でスマホを取り出して。

 

 ――ここでためらったら、電話できなくなっちまう。

 

 そう思った凡人は、ぐっと唇を噛んで〝通話〟をタップする。

 

「もしもし、893プロの松平と申します。電話口にいらっしゃいますのは、諸星きらりさんでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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