白銀の討ち手   作:主(ぬし)

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『Fate/Imitation Sabre』の話です。この作品は本当に僕に大きな影響を与えてくれました。実はこの作者さん、なんとイラストもメチャクチャ巧いんです。漫画も描けるし、小説も面白い。そして、10年以上前に、コミケでこの『Imitation Sabre』の同人誌を販売されているのです。ホチキスで留めただけのコピー本ということでDL販売もしない、と知って、僕はどうしてもどうしてもそれを手に入れたくて、コミケに行くという友人になんとか頼み込んで、その同人誌を買ってきてもらうことに成功しました。その時の喜びと言ったら、何よりも嬉しかったことを覚えています。


2-1 蛇神

 

(ここは…?)

 

 気がつけば、いつか見たことのある光景がそこにあった。

 青々と生い茂る木々の間から陽光が降り注ぎ、無数に折り重なる葉々を艶やかに煌めかせる。穏やかに吹く風がさわさわと葉擦れの音を鳴らし、鼓膜を優しく撫でてゆく。暖かく柔らかな日向の匂いを肺いっぱいに吸い込めば、何とも言えない安らぎが胸の内に満ちる。瞬間、嗅覚を通じて海馬が刺激されたのか、ここがどこなのかが明瞭に把握できた。

 

(思い出した。ここは、欧州の森だ)

 

 御崎市を離れ、『零時迷子』を狙う追っ手を振り切りながら国々を渡り歩き、途中で欧州の深い森に身を隠した。この光景は、まさにその森だ。記憶が戻るに連れ、身体の感覚も取り戻す。動くようになったばかりの首を左右に巡らせてその姿を探し求める。

 

(シャナが隣にいたはずだ)

 

 たった今まで触れ合うように寄り添っていたシャナの姿が、なかった。一歩踏み出し、見慣れた後ろ姿を探す。鬱蒼とした緑は大地を呑み込み、シャナの小さな身体を隠すように視界を遮っている。「もう会えないかもしれない」。その言葉がポツリと脳裏に浮かんだ途端、ゾクリとした絶望感が背筋を這い登った。そういえば、さっきまで夢を見ていた気がする。シャナと離れ離れになる、自分が自分でなくなる、世界から切り離される、奇妙で恐ろしい夢……。思い出そうと記憶の皮膜に手をかけた途端、総身がぶるりと痙攣する。

 

(しょせん夢だ。忘れてしまおう)

 

「思い出すべきではない」という直感ともつかぬ感触を胸に、不安を払うように頭を振ってから周囲に耳を澄ませる。

 

 

―――悠二、どこなの?

 

 

「っ、シャナ!?」

 

 いつも聴き馴れた少女の声―――けれども、今はなぜか堪らなく愛おしく感じるシャナの声。心細げに僕を呼ぶ声が心に響き、その度に切なさの波が押し寄せて胸を強く締め付ける。早く会いたい!その瞳を見つめ、この腕で抱きしめたい!きっと「いきなり何するの」と怒られるだろう。気持ち悪がられるかもしれない。それでも、今はシャナをこの手で感じたくて堪らないのだ。シャナの姿を求めて声のする方に走る。生い茂る草木に腕を突っ込んで身体を食い込ませ、記憶に絡みつく獏とした不安を振り払うように一直線に駆け続ける。シャナを護るため、同じ道を歩むために鍛えてきた双腕が視界を確実に開いてゆく。ふとその視界に、燃えるような紅色が混じった。

 

「シャナ!」

 

 茂みから飛び出すと――――そこに直立していたのは、()だった。紅蓮に燃え立つ長髪は美しく飾り立てられた柄を連想させ、一切の無駄を排除した引き締った体躯は流麗な刀身を思わせる。木漏れ日を受けて凛々しく佇む後ろ姿は、まさしく伝説の地に突き立てられた秘剣だった。その気位の高い美しさにしばし見蕩れた後、軽く頬を叩いて表情を引き締め歩を再開する。彼女の立つ一帯だけ鬱蒼と地面を覆う茂みがない。まるで自然すら彼女に近づくことを躊躇っているかのようで、そんなシャナの傍らに立てる自分の幸せを再実感し、誇りに思う。

 

「悠二はどこ?どこにいるの?会いたいよ、悠二」

 

 こんなにすぐ近くまで近付いているのに気がつけないなんて、シャナらしくない。どうしたんだろう?一抹の疑念がこめかみを過ぎったが、ふわりと鼻先を掠めた香りに瞬く間に吹き散らされた。豊かな長髪が軽やかに風に舞い太陽のフレアのように視界を凪ぐ。人工的に合成されたものではない清廉な身の内から生じる甘い体臭が、身体を前に前にと突き動かす。

 

(やっと会えた。もう、絶対に離さない!)

 

 手を伸ばせば触れることのできる距離まで一気に近づく。目と鼻の先まで迫れば、一度は絶望に染まりかけた心が癒され、熱い喜びで満たされる。失われた半身を取り戻した充足感を味わいながら、はやる心を抑えて驚かさないようにその華奢な肩にそっと手を伸ばす。あと、ほんの数センチ。

 

「シャ―――   「シャナ、僕はここだよ」   ――――え?」

 

 唐突に、無遠慮に、頬を掠めてずいと横合いから突き出された逞しい腕が僕より先にシャナの肩を掴んだ。突然の出来事に思考も感情も追いつかず、ただ呆然と腕の持ち主へ視線を流す。その腕にも、その横顔にも、嫌というほど見覚えがあった。シャナと戦うために鍛え、傷だらけになった腕。シャナを護るために経験を重ね、精悍になってきた顔貌。ありえない。しかし見間違えるはずがない。だって、こいつは―――

 

悠二(・・)!」

 

 僕が口を開くより早く、シャナが嬉々として振り返る。しかし、その瞳に映っているのは僕ではなく、()()()()()()()だ。僕の存在など見えていないかのように、長髪を振り乱して僕ではない悠二の胸に顔を押し付けて抱きつく。その表情は恋焦がれる待ち人に会えた年頃の少女そのものだった。突き放されたような心許なさに襲われて呆然とする中、激しい抱擁を力強く受け止めた悠二が困ったような柔和な笑みを浮かべる。

 

「一人にしてごめん、シャナ。もう離さないよ」

 

 あらゆる刻苦を癒す抱擁力を秘めた声がシャナの耳元で囁かれる。他人を慮れる余裕を手に入れた者だけが発せられる声は、もはや平凡な少年だった頃のそれではない。直向きに、実直に、健気に、シャナのために培ってきた力と知識と経験が少年を数年で()へと成長させたのだ。その過程を本人として見てきたはずの自分が、今は他人の視点で悠二(おのれ)を見ている。血の気が失せた四肢の感覚がなくなり、まるで幽霊にでもなったかのような気分に襲われる。

 

「ま、待てよ!お前はいったい───……っ!?」

 

 反射的に掴みかかった手が悠二の身体を少しの抵抗もなく擦りぬけ、スクリーンに投影された立体映像を掴もうとしたかのように虚しく空を切った。虚を突かれて二人を見やるが、静かに抱き合っている二人はすぐ近くで滑稽に慌てふためいている人間などまるで眼中にないようだった。いや、違う。そもそも、この二人は僕という存在を観測できていないのだ。意識的に無視しているのではなく、そもそも意識されていない。()()()()()()()()()()()()()()()という直感にも似た疎外感が喚起され、自分がこの場の第三者ですらないことを思い知らしめてくる。「なぜ」という疑問が頭の内を支配するが、答えなどわかるはずがなかった。ただ、手を伸ばせば届きそうな、けれども完全に隔てられた二人の姿が目の前に突きつけられているだけだ。あまりに理不尽な事態に混乱は極限に達し、声一つ身動ぎ一つできなくなる。地面が崩れていくような感覚に襲われながら、ただ皿のように見開かれた瞳だけが二人の逢瀬を映す。幾年もの旅を経て浅黒くなった悠二の掌がシャナの頭を撫でる。喉を撫でられる猫のようにされるままがままの幸せそうな笑顔が心に刺さる。

 

(僕だけの笑顔なのに)

 

 羨望が憎悪に転じ、僕は血が滲むほどに臍を噛む。まるでわざと(てら)っているかのような二人のやりとりをまざまざと見せつけられたことで、心を焦がす嫉妬の炎がじくじくと焼け付くような痛みを押し広げ、胸の内側をイバラのように苛む。この世界は、この坂井悠二は、いったい何なのか。幻覚というにはあまりにリアルすぎるし、現実というにはあまりに現実離れし過ぎていた。

 

「さあ、行こう。シャナ」

 

 少年の優しさと有無を言わさぬ男らしさを感じさせるその言葉にシャナが静かに頷き、二人が同時に歩み出す。腹の底に冷たい戦慄が満ちる。

 

(―――待て!!)

 

 奪われる、という最悪の悪寒が電気ショックのように全身を震わせ、募りに募った焦燥感が硬直していた肉体を無理やり引き剥がした。奥底から衝き上げてくる激情が神経を刺激し、声に鳴らない制止の声を上げる。全身を軋ませながら一歩を踏み出し、

 

(!?)

 

 その一歩を嚆矢としたかのように、突如として世界に異変が走った。つい先ほどまで目の前にあったはずの二人の背中が急速に遠ざかり、背景の森林がノイズのように掻き消えてゆく。掻き消えた後には闇より昏い虚無しかない。夜陰とは根本的に違う底抜けに昏い暗黒の炎(・・・・)が本性を現し、穏やかだった世界を瞬く間に燃焼させて二人の姿をゆっくりと呑みこんでゆく。頭の片隅に残った理性が、ここが異常な世界であることを察知するが、沸騰する焦燥に圧殺された。激変する世界に本能的に後退りしそうになった一歩目を強く地面に押し付け、さらに強い二歩目を踏み出す。曙光に吹き散らされることを知らない暗黒の海原をもがくように突き進む。

 

(シャナが奪われる。僕のシャナが、盗られてしまう!)

 

 取り戻さなければ。世界を塗り潰していく暗黒の中、その一心だけが足を動かす原動力だった。この世界が何なのか、あの坂井悠二が何者かなど関係ない。シャナさえいれば、そんなことはどうでもいいことだ。恐怖を恐怖と捉えてしまう前に、とにかく踏み出した。一歩一歩が意志の勝利だった。空回りをしているかのように一向に縮まらない距離を、それでも届いてみせると懸命に駆ける。ヘドロのように粘性をもった闇に足がもつれて何度も地面に顔を擦りつけそうになるが、シャナの姿から視線を外すことは一度もなかった。見失ってしまったらもう二度と見つけられないと理解していたからだ。音もなく燃え尽きてゆく世界の中、激しくなってゆく呼吸音だけを空間に響かせて崩れ落ちる地面を走り抜ける。

 

「シャナ―――!!」

 

 小さな背中に叩きつけるように叫ぶ。手を伸ばし、膨大な暗黒の掌に塗り潰されてゆくシャナに全力で手を伸ばす。しかして、その手に掴んだのは、

 

 

「まだ、駄目だ」

 

 

 ズルリ、と眼前の闇から突き出てきた手が、僕の腕を掴み返した。突然の不意打ちに自分の目を疑う間もなく、その手の異常さに総身が激しく粟立つ。超質量の暗黒物質が凝縮したような、光すら飲み込む底知れぬ闇の手。触れた箇所から感じるその絶望的な冷たさに、内心で激していた怒りや焦りは一瞬で吹き散らされた。いや、「冷たい」などという生半可な言葉では圧倒的に足りない。全身の活力を残らず圧搾してしまうような、満ち足りることを知らない虚無のカタマリが手の形をして僕の腕に張り付いている。閉じた口腔内に声にならない呻き声を響かせ、得体のしれないソレから逃れようと半狂乱になって腕を振る。だが、黒い手は吸い付いて一体化したかのように離れる気配がない。

 

「今のお前では、届かない」

 

 なおももがき続ける僕に辟易したかのように、虚ろな声音(こわね)と共にやおら黒い腕の持ち主が姿を表す。暗黒の水面に静かな波紋を立てながら眼前に現れたソレ(・・)は、底のない奈落のように黒い――――

 

「なんで、()が、」

 

 それは坂井悠二(じぶん)自身だった。驚愕に目を見開く僕を睥睨しながら、()()()()()()()()の瞳が嘲笑うかのように愉悦に歪む。漆黒に塗り込められた顔面に鼻梁などの凹凸は一切無い。闇を切り取ったように黒に映える銀色の角膜には一筋の血管すら認められない。作り物じみた無機質な眼球に、蛇のそれを惹起させる瞳孔がぐりぐりと蠢いている。およそ同じ顔とは思えない異常さと不気味さに怖気を覚えるより先に、墨汁で描かれたような輪郭を揺らめかせて黒い坂井悠二がぐいと掴んだ腕を引き寄せた。反射的に両足に力を込めるが、たたらを踏んだだけに終わった。こちらの必死の抵抗など意にも介さず一方的に懐まで引き寄せられたことに当惑する。

 

(身体の大きさも筋力も変わらないはずなのに、なんで……!?)

 

 引き剥がそうと身を捩るが、努力は一向に実らない。どんなに力を振り絞って暴れても僅かな身動きしか許されず、ついには身体を逸らされて腕の中に抱え込まれる格好にされてしまう。再び愕然とする僕を見下ろす黒い双眼がさらに笑みに歪む。鼻先が触れるほどの距離で、世界を縦に割る亀裂のような瞳孔がこちらの瞳を射貫いてくる。

 

()()()()()では、シャナの元には永遠に辿りつけない」

 

 鼓膜を通り抜けて脳髄に直接噴きかけるような声は何の感情も温度も帯びてはいなかった。すぐ耳元で発せられたはずなのに広い空洞を渡ったような反響を伴う声が説明しようのない違和感を増幅し、三半規管を乱して吐き気を催させる。精神を乱暴に掻き回されるなか、唯一、()()()()()という科白(せりふ)だけが疑問となって脳裏にこびり付いた。比するも何も同じ身体を持っているのに、なぜそんなことを言うのか。黒い坂井悠二から濃密に発せられる異様な空気に押しひしげられながらも抗弁しようと必死に頭を回転させる。

 

「なにを言って―― ……え?」

 

 走り始めた思考が、ようやく一つの疑念を掬い上げる。そうだ、なぜ今まで気がつかなかったのか。感情のほんの小さな機微すら逃さず見抜く鋭い双眸が意のままの展開に冷笑を浮かべるのを見ながら、心中で呆然と呟く。

 

(なんで()()()()()()()んだ?)

 

 同じ坂井悠二のはずなのに、どうして僕の方が一方的に見下ろされているのか。なぜ、膂力でいとも簡単に負けて組み伏せられようとしているのか。全ての答えは、黒い坂井悠二の二つの奈落に映っていた。

 どこまでも遠く深い闇を孕んだ瞳に映る僕の姿は――――シャナとそっくりの少女だった。

 

「ぁ、あ、あああああああ……!!」

 

 刹那、記憶の皮膜が乱暴に剥がされ、記憶の奔流が破壊的な勢いを持って海馬に叩きつけられた。僕は───ボク(・・)は、敗北したのだ。シュドナイに殺され、消滅し、シャナを残してこの世を去った。そして完全に消え去る寸前で紅世の王テイレシアスと契約し、フレイムヘイズとなり、シャナを模した身体を手にした。それから御崎市を襲っていた紅世の王キュレネーと戦闘になり、一度死にかけ、マージョリーさんに助けられ、白銀の討ち手として開眼し、そして……。忘却のダムに堰き止められていた膨大な情報が脳裏に次々と浮かび、像を結んではあっという間に過ぎ去ってゆく。それらに頭皮ごと髪を引っ張られて後方に吸い込まれるような錯覚と目眩を覚えながら、ボクは吹き荒ぶ記憶の嵐の中に一人の少女の姿を幻視した。

 焼け果てた地面に伏せ、長髪を振り乱して泣き叫ぶ一人の討ち手。虚空に向かっていなくなったボクの名を叫び続ける、炎髪灼眼の少女。この悪夢のような世界で、唯一輝きを放つ希望。如何なるものを犠牲にしてでも辿り着かねばならない終着点。

 

「シャ―――」

「シャナの元へ戻りたければ、アレ(・・)を手に入れなければならない」

 

 無意識に伸ばしかけた手を記憶の渦ごと跳ね飛ばし、眼をカッと見開いた黒い坂井悠二がこちらの瞳を強く深く覗き込む。絶対的な啓示を与える“神”の声が魂を揺さぶるのを知覚し、ボクはゴクリと息を飲んだ。身のうちに生じた声が熱を持って呟く。「こいつは帰る方法を知っている」と。

 

「……アレ(・・)って、なんだ?」

 

 シャナの元に戻れる、という魅力的な言葉のせいだけではない。心の一部が、圧倒的な存在感を放ち、確信以上の響きを持って自分を導こうとするこの黒い坂井悠二を信用しかけていた。今のボクには、なぜだかこのおぞましい闇の獣が()()()()()()()にすら見えてきていた。訝しげな、だが小さくない期待を孕んだボクの問いに、こちらを直視する蛇のような双眸がぬらと満足気に光を放つ。その眼に宿るのは怨念の光だけではない。容赦のない強力無比な意思の波動が漲り、見る者に畏敬と畏怖の念を抱かせる暗黒の炎が奥底で爛々と燃えていた。目論見が上手くいったと言わんばかりの亀裂のような笑みが顔面を横一線に引き裂き、闇を凝集した暗い口腔が目の前でゆっくりと開いてゆく。

 

「お前がよく知っているものだ。常にお前と共にあった唯一無二の宝だ。お前を戦いに巻き込んだ根源だ」

「なっ……!?」

 

 言いながら、掴んだボクの腕を自身の胸に押し当てる。タールに似た粘度の高い液体に挿し込むように、一瞬わずかな抵抗を感じさせて腕は黒い坂井悠二に吸い込まれた。溶け朽ちた肉をズブズブとかき分けて進むような不快な感触が肌を滑り、生理的な嫌悪感と拒絶感に身体が身も世もなく震え出す。歯の根が合わぬほどの震えは、しかし、指先がそれ(・・)に触れた瞬間にピタリと止まった。詳細な形状など覚えていない。触れたくらいでは判断できるはずもない。だが、わかる(・・・)。長い間、ずっとボクの中にあったからこそ、この魂がしかと覚えているのだ。これこそ、ボクをシャナと引き合わせ、幾多の戦いの原因となり、ボクを死に誘った宝具(・・)なのだから。

 

「零時、迷子」

 

 そう呟いた瞬間、眼前の黒い坂井悠二の気配が膨張(・・)した。その身体がぐぐっと膨れ上がるやまるで蛇が脱皮をするように表皮が裂け、隙間という隙間から凄まじい存在感が迸る。風船のように醜く膨れ歪んだ鬼面に禍々しい笑みが浮かんだのを最後に、それ(・・)は坂井悠二の姿をあっさりと脱ぎ捨てた。耳障りのする音を立てて千々に散逸する皮の内側に鱗のようなものが垣間見えたが、一瞬だった。目の前で爆裂したそれはあっという間に元の身長を通り過ぎ、とぐろを巻く度になおその大きさを倍加させる。気がつけば、それは数瞬のうちに見上げるほどの―――顕現したアラストールに匹敵するほどの―――巨大な黒蛇の姿となっていた。

 

「ぅ、ぁ…」

 

 まさしく蛇に睨まれた蛙のように戦慄し絶句するボクを遥か高みから睨み据え、途方も無い巨躯を持った蛇が吠える。

 

(しか)り!!零時迷子を手に入れなければ、お前は元の世界に戻れない!!シャナに再び会いまみえることはできない!!」

 

 鎧のように全身を隙なく覆う無数の鱗をカチカチと鳴らせ、闇よりさらに濃い漆黒を纏った大蛇がぐんと首を曲げて顔を近づける。逃げ場のない恐怖に抗う間もなく伸し掛られ、全身に絡みつかれて、ようやくボクは悟った。こいつは正真正銘の魔物だ。天を裂き、地を飲み込む、凶悪な邪神なのだ。

 

「行け、往け、逝け、白銀の討ち手よ!存在してはならぬ忌み子よ!!今一度、零時迷子をその手に掴むのだ―――!!」

 

 視界を埋め尽くす醜面がさらに近づく。喰われる、と直感した身体が凍りつき、ついに正気が失われる。膨れ上がる恐怖が声になってボクの喉を震わせ――――

 

 

 

「うわああああああッッッ───ひぎぃッ!?」

 

 恐ろしい悪夢に魘されて飛び起き、ちょうど頭上にあった分厚い本に思い切り頭をぶつけた。あまりに頑丈な装丁のせいでぶつけた額が割れるように痛い。思わず額を抑えて転げまわり、そのままガクンと床に落下する。床より一段高いところに寝せられていたらしいと直感で悟るが、床は思いの外近かった。派手に背中を打ち付けた拍子に、ふぎゃ!という潰された猫のような情けない声が肺から吹き漏れた。衝撃に次ぐ衝撃によって目眩と涙でグニャグニャと歪む視界に、焦点が定まらなくても美人だとわかる金髪の女性がひょいと映り込む。

 

「なーにやってんのよ、ちびじゃりモドキ」

「ひーっひゃひゃひゃ!嬢ちゃん、なかなか石頭だな!」

 

 聴きなれた呆れ声が降ってくる。痛む箇所を摩りながら何とか焦点を結ぶと、片眉をあげてこちらを見下ろすマージョリーさんの呆れ顔がくっきりと視野に浮かんだ。ゆるゆると動き出した頭が状況を飲み込もうと軋みながら回転を始める。

 

「マージョリー……さん?」

「この絶世の美女が、いったい他の誰に見えるわけ?ったく、ひどく(うな)されてたと思ったら今度は身体を張ったギャグをかましてくれるんだから。ほら、いつまでも床に寝てるんじゃないわよ」

 

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、優しく抱き上げられて元々寝かせられていたソファに座らされる。まるで羽毛の山のようにふわりと全身を包み込む上質の座り心地に、硬直していた筋肉がゆったりとほぐされる。極限まで鞣された革の手触りが、このソファが最上級のものであることを教えてくれる。

 

「ほら、使いなさい。すっごい汗よ」

 

 マージョリーさんがボクの隣にどっかと腰を下ろし、タオルを放って寄越す。受け取って、ようやく自らの全身が澎湃(ほうはい)と汗で濡れていることに気付いた。下着はおろか、靴下すらグショグショに濡れて肌に張り付いている。おそらく先程まで見ていた夢のせいだろう。よほど恐ろしい夢を見たのだろうが、なぜかその内容を思い出すことはできなかった。手を伸ばそうとすると遠ざかる。とても大事で、とても恐ろしい夢だった気がするのに。さっき頭をぶつけたせいかもしれない。洗いたてらしいふかふかのタオルで汗みずくの顔を拭うと、久しぶりに匂う柔軟剤の豊かな匂いが鼻腔をくすぐり、悪夢の余韻が徐々に鳴りを潜め始める。汗に濡れて顔に張り付いた黒髪の房を払いのけて茫洋とした眼差しで見渡すと、そこは見慣れた友だちの家だった。まるで老舗のバーのような、決して広くはないけれど厳かで落ち着ける空間。かつてマージョリーさんの宿となっていた、離れの一室だ。

 

「ここは、佐藤の家……?」

「せーかい。って、どうしてあんたがケーサクの家まで知ってんのよ」

 

 ぎくり、と思わず肩を震わせてしまう。しまった。見知った友人の家を目にしたことで、思わず口を滑らせてしまった。あはは、と苦笑して誤魔化そうとするが胸の内まで刺すような追求の眼差しは消えない。

 

「え、えーっと、さっきは頭ぶつけちゃってごめんね、マルコシアス」

「いいってことよ。もっとひでーこと毎日やられてるからな。それよりも、早く正体明かしちまった方が身のためだと思うぜぇ?」

「う……」

 

 テイレシアスは相変わらず黙りこくったままだ。信頼して見守っているのか、積極的に手助けはしない主義なのか、こういう時のテイレシアスはちっとも役に立たない。ボクは目を伏せてしばし逡巡する。マージョリーさんに事の成り行きを話して、果たして信じてもらえるのか。そもそも、話すことで未来を変えてしまわないのか、と。前者は未知数だ。ボクの身の上に起こったことは、現実離れをしている紅世の者たちをしてもさらに常識を逸脱したものだ。後者に至っては、“螺勢”キュレネーの出現によって、もはや取り返しの付かないほどに変わってきていることは明白だ。「蝶々の羽ばたき一つが、やがて地球の裏側でハリケーンを引き起こす」という『バタフライ効果』―――通常なら無視できると思われるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象―――が発生したのかは定かではないが、少なくともボクが知っている時間軸とは別の支流に進みつつある。ボクが悩んでいる間も、マージョリーさんは相変わらずボクが応えるのをじっと待っている。……つま先がガツガツと引っ切り無しに床を叩いているが。

 しばらく悩んだ後、僕はマージョリーさんに全てを話すことにした。こんな荒唐無稽な話を信じてくれる人は他にいないだろうし、数百年も戦いの世界に身をおき、さらに誰よりも自在法に詳しいマージョリーさんなら、もしかしたら僕たちが過去に来てしまった原因がわかるかもしれない。都合のいい期待だろうが、何もしないよりはマシだった。それに、イラついてハイヒールの踵が床に食い込んでいる様を見れば、何も話さないままでは解放する気がないのは火を見るより明らかだった。

 

「わかりました。全てを話します」

「ったく、待たせすぎよ!ほら、ちゃっちゃと話しなさい!」

「あと1秒遅かったら我が美しき女豹の餌食になってただろうぜぇ!さあ、早く話しな!」

 

 がーっとまくし立てられる。ボクはまた苦笑する。どんな話でも、マージョリーさんとマルコシアスなら笑って受け止めてくれそうな気がした。ボクは一度軽く息を吐くと、嘘を言っていないとわかってもらうために無理やり笑顔を作って、静かに話し始めた。

 

「ボクは、坂井悠二なんです」

 

 

ボクとシャナが仮装舞踏会の軍勢と戦い、負けたこと。

ボクが『千変』シュドナイに殺され、零時迷子を奪われ、消えてしまったこと。

消えかけのボクを『贋作師』テイレシアスが助けてくれたこと。

目が覚めたら過去の世界に来てしまっていたこと。

この世界にはこの世界の坂井悠二がいるから、自分はこの街を去ろうと考えていたこと。

 

 マージョリーさんは最初は信じてくれなかったらしく厳しい目つきで睨んできたが、だんだんと穏やかな顔になり、黙って聴いてくれた。呆れてもはや聞き流しているだけなのかもしれないと思ったが、最後まで話すことにした。しかし、話が終わってもマージョリーさんは口を開こうとはしない。やはり、信じてもらえるというのはボクの甘い幻想だった。ボクだっていきなりこんな話を聞かされても信じられない。当然だ。

 

「……やっぱり、信じてはもらえませんよね。すいませんでした、変な話を聞かせちゃって」

 

 うな垂れて呟く。失意はあったが、誰かに話しておきたいという気持ちはあったから後悔はしていない。ボクはまだ痛む体に鞭を打ってゆっくりとソファから立ち上がると、懐かしい部屋を後にしようと扉へ歩く。

 

「どこ行くのよ、ユージ」

 

 背後からかけられる、懐かしい声。もう二度と聴けないと思っていた、ボクの名前を呼ぶ声。振り返れば、マージョリーさんの微笑があった。胸が締め付けられ、熱くなる。

 

「信じて、くれるんですか?」

 

 声が震えてしまう。男なんだから堂々としていなくちゃダメだと自分に言い聞かせるが、込み上げてくる感情は抑えられない。マージョリーさんがやれやれと苦笑してボクに近づき頬をそっと撫でる。心からの、優しい手つきだった。

 

「これでも何百年も生きてきたんだから、人を見る眼には自信があるの。―――だから、嘘をついている人間がこんな涙を見せるはずがないってことも、わかんのよ」

 

 マージョリーさんの言葉でようやく、ボクがいつのまにか涙を流していたことに気づいた。全身の熱が鼻の奥に集まり、ツンとするものが視界をじわりと滲ませた。悲しくもないのに、なんで……。恥ずかしくなって手の平で拭うが、涙は止まってくれない。胸の内から沸き起こるこの気持ちと同じように、次々と溢れてくる。手の平では抑えられなくて袖で拭うが、それでも涙は止まらない。

 

「ユージ。今くらいは、泣くのを我慢しなくてもいいのよ」

 

 頭を優しく撫でられる。もう限界だった。マージョリーさんに抱きついて子供のように泣いた。溜まった澱が溶け流れていくのを感じる。情けなくて恥ずかしかったけど、嗚咽は止まってくれなかった。僕が泣き止むまで、マージョリーさんはずっと抱き締めてくれていた。

 

 

「……す、すいません。恥ずかしいところをお見せしちゃって」

 

泣きすぎて赤く腫れた目を隠すように俯いて頬をかく。

 

「こっちはちびじゃりがわんわん泣いてる姿を見れて新鮮だったけどねぇ」

 

そんな僕の髪の毛をマージョリーさんはワシワシと掻き乱して笑った。本当に気持ちのいい人だ。

 

「ううっ、泣けるじゃねぇか!ちくしょう!」

 

 マルコシアスが分厚い表紙を震わせて咽び泣く。アラストールに戦闘狂と誹議される彼だが、実は涙脆いところもあるのだ。はたと、自分の胸元からも微かな啜り上げる音が聞こえた。

 

「テイレシアス、もしかして泣いてる?」

 

 テイレシアスは無言だったが、小刻みに鼻から息を吸い込む小さな音が返ってきた。その珍しい一面を見てマージョリーさんと顔を見合わせて笑う。

 

「しっかし、あんたも凄い力を身につけたもんだね。シュドナイの神鉄如意まで作るんだから、さすがの私も驚いたわ」

 

 ばしばしと肩を叩かれる。褒められているような気がして、なんだか背筋がくすぐったくなる。照れ笑いを浮かべて、

 

―――そうだ、シュドナイ!!

 

「ま、マージョリーさん!シャナが危ない!キュレネーは時間稼ぎで、本当は零時迷子が目的だったんです!シュドナイが……!!」

 

くそっ、今までどうして忘れていたんだ!?自分の不甲斐なさに腹が立つ!今すぐ駆けつけたいけど、もう僕に力は残されていない。おそらくマージョリーさんも同じだろう。いったいどうすれば……!?しかし、マージョリーさんは目を丸くして不思議そうにマルコシアスと目を合わせる。マルコシアスのどこが目なのかはわからないが。

 

「“螺勢”の奴が、シュドナイが来るって言ったの?」

「え?い、いえ……」

 

 そういえば、キュレネーは零時迷子を狙っていると言ったがシュドナイが来るとは言っていなかった。

 

「あんな性格だから当然といえば当然だけど、“螺勢”は一匹狼よ。基本、フリーランスだって聞いてる。誰かに雇われて組むことは少なからずあったけど、組織とつるむことはないわ。大方、『零時迷子』を狙う他の紅世の王と組んだんでしょ。仮装舞踏会(バルマスケ)はたしかに紅世最大の組織だけど、それでもそこに従わない奴らは大勢いる。“螺勢”がちびじゃりを足止めして、その間に他の奴が、えっと、()()()()()()()()を襲うって寸法だったんでしょうね」

 

 マージョリーさんも、ボクが二人いることに多少混乱しているらしい。それは仕方ない。自身、自分が二人いることにはまだ混乱している。シュドナイが出てこないことがわかって少し安心する。でも、シャナたちが襲われることに変わりはない。そんな不安を隠そうとしないボクにマージョリーさんは相好を崩して、

 

「ちびじゃりの分、あんたが戦った。足止めされているはずのちびじゃりっていう計算外の戦力がいれば、零時迷子は奪えない。それに……」

 

 一度言葉を区切ったマージョリーさんが静かに眼を閉じて意識をここではないどこかへ飛ばす。キィン、と普通の人間には捉えられない波長の音が鼓膜を小さく揺らめかせた。自在法……この感じは一種のレーダーのようなものだろうか。ただし、並大抵の自在師では到底真似できないような超広範囲かつ超精密な索敵自在法であるということは今まで蓄えた経験から理解できた。おそらく御崎市全域を探ったであろう大規模な自在法は、ものの1秒で完了した。次の瞬間すっと開けられたマージョリーさんの瞳は安堵の色に満ちていた。

 

「ちびじゃりも、この時間のユージも、無事だったわ。襲ってきた敵はついさっき倒された。あんたがちびじゃりたちを救ったのよ」

「……ボクが、救った?」

 

 呆然と発した言葉にマージョリーさんが頷く。今までずっと誰かに守られてばっかりだったボクが、シャナたちを救った。マージョリーさんはそう言ってくれた。

 

 

―――ああ、そうか。ようやくボクは、誰かを救えるほどに強くなれたのか―――

 

 

シャナとそっくりの小さな身体を抱き締めて、もう一度静かに涙した。




その同人誌……なくしちゃったんですけどね……。

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