───さあ、零時迷子を手に入れろ。
すぐ耳元で、あの声がした。戦いの最中に―――そして、悪夢の中に出てきた
───己が為したいことを、為せ。その力が、今のお前にはある。
その声が持っていた違和感―――広い空洞を渡るような距離を感じる響きはなくなり、間近にまで迫った気配が蛇のようにじわじわと絡みつき、締め付ける。
息を吹きかけるような至近から、全てを見透かす暗黒の気配が妖しく囁く。
───お前の望みを、叶えろ。
『ボクの、望みは―――』
シャナの笑顔が胸の中いっぱいに広がる。目を瞑り、輝きを放つその全てを心の中で大切に抱き締める。この世界の坂井悠二を、自分自身を殺してでも彼女の元に帰りたいと心の奥底の闇で獣が呻る。漆黒の獣が、何としてでも取り戻すと爪を立てて血の涙を散らせながらシャナの笑顔に必死に手を伸ばす。この獣の声に従ってしまえば、どんなに楽だろうか。己を律する心を捨て、剥き出しの欲望のままにこの双腕を振り乱し、シャナの下に帰れるというのなら。
獣の爪が、ついに笑顔に届く。決して放すまいと輝きに爪を深く食い込ませて強く激しく狂おしく抱擁する。そして獣は気づく。腕の中の輝きはすでに失せ、笑顔も失せていることに。そこにあるのは、悲しませたくないと願ったはずの人の泣き顔だけ―――
瞼をゆっくりと開く。そうだ。すべきことなんて決まっているじゃないか。迷うことなんて、ない。
『ボクは、シャナを悲しませたくはない。だから、シャナと悠二に戦いを挑む』
『それは矛盾してはいないか?』
『していないさ。二人を極限状態に追い込み、鍛え、弱点を責める。そうすれば、二人がボクと同じ結末を辿ることはなくなる』
ボクとシャナが敗れた原因は、互いの弱点を補強しきれていなかったという力不足に他ならない。シャナは接近戦に特化しすぎ、坂井悠二は単独でも敵と渡り合える力を持てなかった。二人合わされば両翼となって誰にも負けなかったが、切り離されればお互いの弱点が露呈してしまう。ボクたちはその瑕疵を強化する余裕もないままに御崎市を離れてしまい、その結果、ボクは殺されてしまった。だからこそ、同じ欠点を抱える二人に対して、シュドナイにされたような攻撃を仕掛ける。徹底的に弱点を衝けば、二人は確実に成長する。シャナも悠二も実戦を経て成長するタイプだ。口で伝えるよりもこの方がよっぽど効率がいい。
ボクの考えを咀嚼したテイレシアスが豪胆に笑う。
『最強のフレイムヘイズと謳われる、あの天下の“炎髪灼眼の討ち手”を相手に回して、手加減をしつつ鍛えてみせるとお前は言うのか?フレイムヘイズになって一度しか戦いを経験していないお前が?』
『まさか。シャナ相手に手加減なんてできるわけない。ボクが全力で挑んでも最後にはシャナに敗北し、殺されるだろう。―――それでいいんだ』
悠二を殺して元の時間に帰っても、シャナはきっと喜んではくれない。シャナを悲しませなければ元の時間に帰れないというのなら、この時間のシャナのためにボクは命を差し出そう。それに―――この胸の奥で蠢く獣をずっと抑え込んでいられる自信はボクにはない。だから今は、心に蓋をしよう。獣が暴れださないように。決心がぶれないように。
笑い声がぴたりと止まる。地鳴りのような声がさらに低くなる。
『再び手に入れた生を他人のために使い捨て、自ら進んで悪役を買って出るというのか。“白銀の討ち手”サユとして別の道を歩むこともできるというのに』
『ボクにチャンスをくれたテイレシアスには悪いと思ってる。でも、ボクはやらないといけないんだ』
しばしの沈黙。テイレシアスにとっては迷惑この上ない話だろう。でも、ボクは意思を曲げるつもりはなかった。
『1000年。1000年待って、やっと相性のいい契約者を得たと、思っていたんだがな』
深いため息とともに憮然とした声が漏れる。テイレシアスの力を使いこなせたフレイムヘイズはボクが初めてだと聞かされた。つい数刻前まで、彼は契約をしたことで現界に長く留まり様々な宝具を見て回れると声を弾ませて喜んでいた。テイレシアスにとって、ボクは待ち望んだ存在だったのだろう。そのフレイムヘイズが自分から死にたいと願うのは、テイレシアスからしてみれば不本意極まることだ。そっとペンダントを拾い上げて首にかける。
『……
『え?』
『“天壌の劫火”め、あの頑固オヤジときたら、贋作を創り過ぎると世界のバランスをうんぬんとギャアギャア叱りつけてきた挙げ句、俺にゲンコツを喰らわせやがった。9本ある尻尾を8本にしてやるぞと脅しやがった。俺を“贋作オタクのいたずら小僧”だと言いやがった。あの頑固オヤジをギャフンと言わせてやりたいと何度思ったことか』
『て、テイレシアスさん?』
口を尖らせた不満を漏らす声が一変し、くつくつとした忍び笑いになる。
『いや、すまんな。自分のフレイムヘイズそっくりの敵が現われた時の“天壌の劫火”の反応を想像したらつい笑ってしまった。その紅世の王が俺だと知ったら、あの頑固ジジイ、大層怒るだろうな。今から楽しみだ』
『―――許してくれるの?』
テイレシアスが楽しそうにふん、と鼻を鳴らす。
『言ったはずだ、俺はお前を気に入っている。お前が決めたことなら心置きなくやるがいい。それに、“炎髪灼眼の討ち手”に喧嘩を売れる契約者を得られる機会など、お前が最初で最後に違いない。あのジジイに弓を引ける絶好のチャンスを、むざむざ逃す手はないだろう?』
『……ありがとう、テイレシアス』
万感の思いを胸にもう一度夜空を見上げる。過去の自分とシャナを相手に剣を振るうことに抵抗がないわけではない。本当なら、胸が張り裂けそうなほどに悲しいと感じるのだろう。だけど、ボクは悲しいなんて感情は忘れてしまった。シャナのために手に入れたチャンスをシャナのために使えるのなら、それはきっと本望だ。
これから始まる戦いのために、心に重い鉄蓋をする。鈍重なそれをゆっくりと獣の上に被せてゆく。
―――それがお前の望みと言うのなら、それもまた是だ。
それと同時に、
───だが、お前は必ず余を解放する。お前が真に望むものは、
そうして、巨大な獣はゆっくりと瞼を閉じた。
鉄蓋を被せ終わると、しかと耳に届いていたはずの声はまるで幻だったかのように跡形もなく消え失せた。……いや、本当に幻だったのだろう。ボクの弱い心が幻聴となって心のどこかから囁きかけていたのだ。もう、そんなものには惑わされない。
『さあ、行こう、我が紅世の王。これからボクたちは悪役だ。零時迷子のミステスと“炎髪灼眼の討ち手”をとことんまで苦しめる怨敵だ』
『いいだろう、我がフレイムヘイズ。お前がどこまで戦えるか、俺が見届けてやる』
太陽が昇り始める。これが見納めになる、最後の日の出だ。それを一瞬だけ目に焼きつけて、ボクはその場を後にした。
‡ ‡ ‡
「シャナッ!」
この世界の悠二が叫び、腕時計をシャナに見せる。それを一刹那だけ視認したシャナが悠二の作戦を完全に把握し、牽制の技で間合いを取ろうとする。惚れ惚れするような絶技は、今までのように辛うじて回避するだけで精一杯だ。ボクとの間合いを広げたシャナは細くしなやかな身体を疾駆させて悠二の元へ駆ける。悠二の存在の力が溢れんばかりに回復していくのがわかる。その見事な連携を見ながら、ボクは、「もう零時になるのか」と何の感慨もなく思った。
悠二をシャナから隔離して、とことんまで追い詰めた。思った通り、いや、思っていた以上に、悠二は剣を交わらせるごとに強くなっていった。悔しいが、元々、ボクよりも素質があるようだった。これで、シャナがいなくても戦えるように成長への筋道を立ててやることが出来ただろう。シャナの弱点を衝いて、圧倒して、苦しめた。ボクとしても、針金一本の橋を綱渡りするような、一瞬でも気を抜いたら敗北必至の接戦だったけど、その甲斐はあった、と思いたい。でも、合理的なシャナなら、きっと自分のネックを冷静に分析できたはずだ。
シャナの柔らかな質感を持つ紅蓮の長髪が、存在の力の回復に併せて輝きを増し、炎に靡く。その華奢な肩を力強く掴むのは、この世界の坂井悠二。その比翼の鳥のような連携にボクの胸をチクリとした嫉妬の痛みが刺す。拮抗する戦闘を打開するために、最大の力をのせた一撃を放ってくるつもりだろう。ボクと同じ坂井悠二であるなら、必ずそうすると確信していた。何度もシミュレーションを重ねた結果なだけに、達成感は感じられなかった。
「最後までお前の読み通りになったな。まったく、つくづく失うのが惜しいフレイムヘイズだよ、お前は」
胸元から呆れたような感心したような複雑な声がした。テイレシアスと話すのも、これが最後になる。
「短い間だったけど、テイレシアスには感謝してる。それこそ、言葉で言い表せないくらいに」
「よせ、俺は人に感謝されるのには慣れていない。だが……俺も、お前には感謝している。なかなかにおもしろかったぞ、我がフレイムヘイズ」
テイレシアスと契約できて本当によかった。ボクの一番の幸運は、テイレシアスと出会えたことだ。
シャナの背から巨大な炎の翼が顕現し、両脇にあった建築物を飲み込んで羽撃く。零時迷子の効果によって存在の力を全開まで回復させたのだろう。ボクにはもうこれっぽっちも存在の力なんて残ってはいない。使える宝具は全部使った。こうして余裕を装って立っているだけで精一杯だ。最初から全力投球だったから、こうなるのは予測していた。
ふと、悠二と目が合った。悠二は、ボクと同じ結末は辿らない。絶対に諦めず、何度でも剣を握って立ち向かってきた悠二なら、どんな窮地でも必ず勝利を掴んで前に進める。他でもないボクが言うのだから、間違いない。その視線に微笑みを返す。変な笑顔にならなかったか、ちょっと不安だった。
シャナの紅蓮の翼が一際大きく羽ばたいたかと思うと、渾身の力で大気を叩きつける。衝撃波を引き連れて、『贄殿遮那』を構えたシャナがまっすぐに驀進してくる。その姿は僕にとっては死神と同じはずなのに、なぜかとても美しいと思った。こんな感情を、前にも感じたことがある気がする。―――ああ、シャナと最初に会った時だったっけ。
瞬き一つせずにシャナを見つめる。数年にわたり積み重ねてきたシャナとの思い出が脳裏に浮かんでは虚無へと還っていく。
ずぶ、と鋭い異物が腹部を抉る感覚。焼けるような激痛が全身を貫く。喉から鉄の味が溢れてくる。
これでいい。ボクのすべきことはこれで終わった。
意識が遠退いていく。ゆっくりと底なし沼に沈んでいくような、自分が薄れてゆく奇妙な感覚。
シャナの手で始末をつけてもらえて、ボクは幸せ者だと思う。
最後に、君をこの名で呼ばせてほしい。ボクが考えて、つけた名前だ。
「シャナ、ありがとう」
―――そして、ボクの思考は途切れた。
7000回転の世界に行きたい