白銀の討ち手   作:主(ぬし)

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 感想コメントからいつも元気をもらえています。同時に、10年も前の小説なのに内容を覚えて下さっている方がたくさんいらっしゃるので、驚いてもいます。お待たせしてしまってすみません。より原作に近い雰囲気にしようと加筆修正に努力していますが、成功していますでしょうか。思春期の少年らしい葛藤や未熟で青臭いところを描きつつ、サユとの出会いにより彼が成長していく様子をお見せできればいいなと思います。あと、TSキャラにありがちなサユの無自覚なスキンシップも早くお見せしたいです。というか描きたいです。
 現在、何度も読み返しして当時の未熟な描写に身悶えしながら、思い描いていた続きのアイデアを脳内から絞り出しています。今のところ、なんとか成功し、それらをより膨らませようとしているところです。どうか気長な目で見つつ、たまに応援してくだされば幸いです。


1-1 急転

「フリッツ・Y・ルヒトハイム。次は君の番だ」

 

 スポーツクラブの部長を務める男───同じ高等学校(ギムナジウム)に通うひとつ上の上級生───に名を呼ばれ、俺は意識して悠然と立ち上がった。わざわざフルネームで呼ぶのは、俺を仲間とは見なしていないという意思表示(あてつけ)だ。俺よりも拳ひとつ分は背の低いそいつを冷ややかに一瞥して、スタートラインへ立つ。俺はドイツ人の父親と日本人の母親のあいだに生まれたハーフだが、面差しなどの身体的特徴はゲルマン系そのものだ。肌の色が若干黄色みがかっているくらいで、それもほとんど目立たない。だから、俺がハーフだと知っているのは俺の履歴情報を知っている学校関係者くらいだ。

 

(今日は、9秒74だ)

 

 前足側の膝を立てて義足の膝を地面に押し付け、足裏をスターティングブロックにじわりと乗せる。両手の指で全体重を支えて前傾姿勢をとり、太腿の大腿四頭筋に力を集中させて暴発寸前まで高める。鼻から大きく息を吸って肺腑を満たし、茂みから獲物を狙うチーターのように姿勢を限界まで低くする。疾く走る、それ以外には何も考えない。アイドリング状態だった心臓のギアを一段ずつ上げていく。呼吸を止め、精神を統一し、走ること以外の思考と雑音をシャットアウト。獲得した耳が痛くなるほどの静謐の世界に、『用意(Bereit)…』という合図が響いた。身体に染み付いた滑らかな動きでぐっと腰を上げて静止する。自分が限界まで引き絞られた弓になったという確信(・・)

 空砲の音が耳に入ったと自分が理解するよりも速く、身体は感電したかのように跳ね動いた。アッパーカットのように激しく腕を振り上げ、足の回転(ピッチ)を一瞬にして限界値まで上げる。車輪のように間断なくコースを蹴って、風よりも速く疾駆する。ビュウビュウと風を切る音が、遠い。一瞬だけ瞼を閉じて、この感覚をたっぷりと味わう。この短い時間だけは、何からも束縛されない心からの自由を味わえる。病気の母さんのこと、学校のこと、将来のこと、金のこと、成績のこと、そして自分自身のこと。それら全てを振り払って俺は自由になる。何者も、今の俺には手出しできない。

 景色が瞬く間に後方へ流れ、ついさっきまで100メートル先にあったはずのゴールラインを飛び越える。そのまま10メートルほど余韻を楽しみながら速度を漸減させ、心臓と筋肉の収縮を平常時の状態に戻す。

 

「タイムは……えっと、9秒74、です……」

 

 ストップウォッチを手にした年下らしい少女が呆然としながらタイムを告げた。想定していたとおりのタイムを叩き出したことにとりあえず満足し、俺は巌のような無表情でスタート地点へと戻る。メンバーの仲間や大人たちの空気が高タイムにザワリと波打つが、それだけだ。褒めそやす顔はなく、全員が一様に俺から距離を置く。……一人、タイムを告げた女だけを除いて。

 

「あ、あの、ルヒトハイム先輩……」

 

 見ない顔の女だ。最近入ったマネージャーだろう。細かく観察せずとも、その白すぎるほど白い肌を見れば、男子部員の誰かを好いて入部したことは容易に想像がつく。このクラブはそういう手合いが多い。誰を好んで入部したのかは知らないが、迷惑な話だ。

 

「悪いな、忙しいんだ」

 

 突き放すように短答し、何か言いたげだったマネージャーを押し退けるように待機ベンチへ突き進む。オリンピック選手も顔負けのタイムを叩き出したにも関わらず息も切らしていない俺に、小さなマネージャーは怯えたように身を竦めて道を譲った。伸ばした前髪越しに上目遣いにこちらを仰ぎ見る視線が、涙を溜めているように見えた。きっと化け物を見ている気分なんだろう。

 ベンチに戻ると、同じ視線がクラブメンバーたちから浴びせられる。それを無視して俺はどっかと隅の指定席に派手に腰を下ろした。不快には思わない。こいつらがどんなに全力を出しても、俺のタイムには届かない。しかも、今のはほんのウォーミングアップに過ぎない。俺が本気を出せば、こいつらの自尊心は粉々に砕け散るだろう。「義足の走者に負けた」と。

 憐憫にも嘲笑にも似た感情を覚えて口端を歪ませながら、義足の接続を外して生身の足と義足の間の緩衝用フェルトを調節する。走る時も、義足は変わらず父さんが作ってくれたものを使っている。元は日常用に設計されたものだが、職人の技術の粋を凝らした丈夫でしなやかな木製の義足は、まるで本来の生身のようにフィットしてくれて、短距離走にも十分対応できる。以前にクラブボランティアが押し付けてきた短距離走専用の形状記憶合金製の義足で走ったことがあるが、タイムは散々なものだった。父さんがどれだけ優れた技術者だったかが身に染みてわかって誇らしく思う。

 そうこうしているうちに、最後の走者が走り終えた。案の定、俺のタイムを越える者は今日も出なかった。部長が苦々しい表情をしてこちらに目を向けたので、それにひらひらと手を振って応える。ざまあみろだ。

 いつものように、ぎりと歯を噛み締めて殺意すら込められた視線を俺に送った後、笛を鳴らして部員全員を傾注させる。

 

「よし、今日はここまでだ。大規模トラック整備のため、午後のクラブは中止だ。だが、各自で訓練はやっておくように。以上、解散」

 

 蜘蛛の子を散らすようにメンバーが解散し、汗の染みた服を着替えるためにそれぞれに割り当てられた更衣室へ歩む。そんななか、俺は一人学校へと歩を進める。汗をかいていないのだから、着替える必要もない。ジャージの上にセーターを着てそれで終わりだ。

 背後で「化け物め」と呟く声が聴こえたので、鼻で笑って嘲笑を返してやった。射るような憎悪の視線を背中に感じながら、ふと思う。

 最後に心から笑ったのは、いつだっただろうか。

 

 クラスの俺の立場も、クラブのそれと大して変わらない。俺は溶け込もうとはしないし、クラスメイトたちもわざわざ迎え入れるつもりもない。比較的裕福な家庭の子どもが通うこのハイスクールの空気には最初から馴染むことは出来なかったし、馴染む努力をする余裕も気力もなかった。それに、むしろこの状況は俺にとって好都合だ。ひたすらすべきことに集中できる。

 

 ただ……一つ、気になることがある。同じクラスにアジア系の女がいるのだが、そいつの様子が明らかにおかしい。落ち込んでいるとか、元気がなさそうとか、そんなレベルじゃない。まるで、なんというか消えかけの蝋燭(・・・・・・・)のように、存在感が目に見えて薄れていっている。だというのに、ここからがより異常なのだが、他の奴らは誰もそれに気づかないのだ。陰湿なイジメを受けているわけでもない。ほんの数日前までは、その女はベラベラとくだらないことを仲間内で語っていた。

 俺が横目で観察する中、そいつはフラフラと教室へ入ってきてストンと自分の机に座る。そしてそのまま、人形のように固まって動かない。向こう側が透けて見えそうなほどに存在感が希薄だ。幽霊だと言われれば納得してしまいそうなくらいだ。誰にも話しかけないし、誰もそいつに話しかけない。完全に背景と同化してしまっている。

 

(まあ、親しいってわけでもないし、俺が気にかけることでもないな)

 

 体調でも悪いのだろう。自覚症状があれば本人が勝手に病院に行けばいい話だ。ちなみに、ドイツの高校には保健室がない。自己管理は生徒本人がすべきことであって、悪ければ自分で病院なりなんなりに行けばいいというのがドイツの学校のスタンスだ。同じ理由で図書館もない。本が読みたければ市立図書館に行け、ということらしい。教材も自分で適切なものを買ってくればいい。日本から移住したときにはそのドライな考え方に驚いたが、今ではむしろ俺の肌に合っていると思っている。自分のことは自分で解決すればいい。他人なんか、当てにすることが間違ってるんだ。

 それ以上思い煩うこともなく、同級生のことなどすっぱりと忘却して、俺は今後の自主トレーニングの改良点について没頭し始めた。

 

 

 

 ‡ ‡ ‡

 

 

 

 必要な会話以外はしない学校生活が終わり、夕方、俺はまっすぐに帰路に就いた。道草をする金もないし、奨学金獲得に必要な成績に達するために勉強もしなければならない。ドイツの高校では必修科目数が日本に比べて倍以上あり、どれも難しい。国や地方からの学生支援金はあることにはあるが、それらは今の学費と生活費、そして母さんの治療費で全部消えている。病院で長期入院しているため、重病ではないとはいえそれなりに金はかかる。保険だけでは賄い切れないし、そもそもドイツ国籍を取得してからまだ5年しか経っていないので医療保険も満額は支給されない。ギムナジウムでの最高ランクの奨学金の条件は「常に好成績を維持すること」だし、それだけでは足りないだろうからそのうちアルバイトも始めなければならないだろう。自然とため息が漏れる。父さんの貯蓄を切り崩しながら生活するのも、そろそろ限界だ。正直、金の工面に関しては頭が痛いが、進学は自分で選んだことなのだから仕方がない。

 ……そうやって自分を納得させなければ、この粘つくような息が詰まる日々を繰り返すことは出来なかった。昨日と同じ今日を過ごし、今日と同じ明日が来て、またその次も同じ日を繰り返す。一年先、十年先もただ繰り返される一日のために、明日に繋がるだけの今日をただ漠然と生きるだけの生活。そのうち、それが当たり前になって、走ることの楽しさも歳を重ねるごとに薄らいで、日々労働の汗にまみれ、仕事帰りの一杯やたまの贅沢を宝にして、誰かを好きになり、結婚して子どもを作り、そして僅かばかりの何かを残して老いさらばえ、安らかに死んでいく―――。それが人並みの幸せなのだと理性が諭す一方で、青臭く猛る本能がそれを明確に拒否していた。「そんなつまらない人生は嫌だ。俺の“器”はこんなものじゃない。機会さえあればもっと輝ける」と。

 出し抜けに、突拍子もない妄想が風のように思い浮かぶ。かつて日本で読んでいた少年漫画のように、無為に続くだけの人生を木っ端微塵に破壊してくれるなにか(・・・)が起こりはしないか、と。「あなたは他の凡人とは違う」と告げてくれる謎の何者かが現れて。「あなたが必要なの」と嬉しい言葉をかけてくれて。そうして、ハラハラと心踊る非日常の世界に連れ出してくれる何かが───そう、例えば、昨晩に教会に立っていたようなとびっきりの美少女(・・・)なんかが現れてくれないものかと。

 

「……なんて、都合のいい話だよな」

 

 自嘲を多量に含んだ息を無意味な期待と共に体外に吐き出して腹腔を空にすれば、後にはいつもと同じ空虚な感覚だけが残された。中学生みたいな自分勝手な期待感なんてとっくに捨てたと思っていたのに、まだ大人になりきれていないらしい。もう17歳だっていうのに、馬鹿みたいだ。そんなご都合主義的なこと、起きるわけがない。期待なんて、持つだけ無駄なんだ。どんなに願おうと、どんなに足掻こうと、このヘドロのようにまとわり付いてくる日常は何も変わりはしない。

 見慣れた道を歩き、見慣れた店の前を通り過ぎ、見慣れた角を曲がって、

 

 

 

ゴォッ、と火の粉が、燃え上がった。

 

 

 

「な、なんだ?」

 

 突然、炎が視界を満たした。

 でかい炎の壁が一帯をドーム状に囲んでいる。腐った沼のような緑青色の炎の壁には、文字だか絵だかもわからないおかしな紋様が刻まれている。火事かと思って辺りを見回すものの、慌てふためく人々の姿は見えない。いつもは賑やかなはずの路地にもカフェにも人気(ひとけ)はまったくない。

 悪趣味な夢か、はたまた大掛かりなドッキリか。理性がそう思い込んで平静を保とうとするが、本能がこれはあってはならない事態だ(・・・・・・・・・・・)と命の危機を警告してくる。見てはいけない禁忌の世界の皮膜が唐突に目の前で破れてしまったような感覚に、知らずに握りしめた拳が粘っこい汗で不快にベタつく。心臓がドクドクと激しく脈動して暴れまわり、「ここにいると死ぬ。早く立ち去れ」とヒステリックに体内から喚き立てる。確かに無為な日常からの脱出を願ってはいたが、この展開はあまりに唐突で、恐ろしすぎる。

 わけの分からないままにとりあえずこの場を離れようと後退りをして、

 

「Es gibt nicht deine Flucht.(どこへ行くのかね?)」

 

 すぐ耳元で男の声が囁いた。流暢なドイツ語は鼓膜の間近で発せられたはずのに、吐息をまったく感じなかった。咽喉を通るはずの空気がない、違和感の塊の音声だった。耳の穴にずるりと侵入してくる最悪に気味の悪い声に、氷の指で心臓を掴まれ、血が凍りついた。思考より先に総毛立った肉体の防衛本能が働いて反射的に腕を振るう。しかし、振り返ったそこには誰もいなかった。何もない空間を振り切った腕がぶんと虚しい風切り音を立てる。

 

()私はこっちだよ(・・・・・・・)

「なっ!?」

 

 再び背後から不気味な声。移動する音どころか気配すら感じられなかった。

 

(どうやって後ろに!?)

 

 今度は転がるようにして間合いをとって振り返る。見上げたそこには、英国紳士を思わせる服装をした中年の男が突っ立っていた。頬骨が透ける痩せぎすの顔、上唇を飾るのは鉛筆を引いたような口ひげ。高級感のある漆黒の燕尾服(スワローズテールコート)で細身を包み、同じ色のブリティッシュスクエアハットで頭を飾っている。白い手袋をつけた手には、頂上に光沢を帯びた琥珀が埋め込まれ全体に稠密な紋様が刻み込まれた黒いステッキを握っている。

 

「乱暴だねえ。まったく、紳士的じゃない」

 

 外見だけ見れば、往年の白黒映画に登場するような一昔前の伊達男のようだが――――中身(・・)が、絶望的なまでに異常だった。瞳孔が開いている、なんてものじゃない。白目のない黒目(・・・・・・・)がそこに収まり、別の生物であるかのようにギョロギョロと蠢いている。まるでこの世界の悪意をたっぷりと吸い込んだような淀んだ眼球に見据えられただけで、骨に直接冷水を浴びせられたかのような悪寒が全身を駆け巡り、産毛が総毛立つ。面と向かい合っているだけで生命力が萎えしぼんでいく錯覚に吐き気がする。

 それ(・・)は、明らかに人間ではなかった。

 

(……なんの、冗談だ……!?)

 

 額に次々と汗が浮かび、全身が小刻みに震える。そいつが細長の目で俺の身体を上から下まで舐めるようにくまなく観察していく。その視線に吐き気を催すほどの不快感を感じながら、しかし蛇に睨まれた蛙のように身体はその場に固定されてピクリとも動いてくれない。気色の悪い視線が俺の右足に到達する。瞬間、紳士の皮を被っていたそいつの顔に亀裂が走る。それが笑顔(・・)だと気づくのに数秒の時間を要した。

 

「ああ、やっと見つけたよ、ルヒトハイム!そこに隠したんだね、私の宝具『トランスケンデンス・ムンドゥム』を!」

「な、なんで俺の名を―――!?」

 

 上擦る俺の言葉に、そいつが「ふむ?」と虚を突かれたというように小首を傾げて俺の顔を凝視する。そして合点がいったというようにぽんと手を叩いた。わざとらしい動作がまるで人間を真似している(・・・・・・・・・)ようで、余計に違和感が募っていく。

 

「ああ、君はルヒトハイムの息子だね!そうかそうか、たしかに彼によく似ている」

「父さんを知っているのか!?あんた、いったい……!?」

 

 精一杯の精神力(ちから)を振り絞ってそいつを睨みつけながら疑問をぶつける。その間に、じりじりと少しずつ後退して距離を稼ぐ。そいつは、肩を竦めて顔面に走る亀裂を歪ませる。

 

「凡庸な君には言ってもわからないだろうし、わかる必要もないし、言う気もないよ。それにしても、君は父上にとてもよく似ている」

 

 子供をなだめすかすように言うと、男はやおらステッキを無造作に掲げ、そして勢いよく地面に突き下ろした。ガツン、という道路を打ち付ける音。その意図がわからずに眉を顰め、次の瞬間、目を見開いた。建物の陰、ポストの陰、車の陰、ありとあらゆる陰の中から生まれ出るように巨大な生き物が這い出て来た。ずるずる地面を這うそれらは、芋虫のような―――いや、そんな生易しいものではない。深海に生息する異形の生物に通じるものがある、限りなく不気味で悪意に満ちた化け物だった。それらは俺が逃げようとしていた路地をイモムシのような巨体で塞いでしまった。あまりにも人外すぎる光景に立ち尽くすしかない俺に、紳士の姿をしたそれが蛇のような薄気味悪い笑顔を向ける。

 

「父上と同じく、逃げることにかけては人一倍優れているようだね。まあ―――」

 

ガツン、とステッキが再び地面を突く。

 

「もう逃がさないけどね」

 

 ぞる、と音を立てて無数の化け物が襲い掛かってきた。怖気と絶望に打ちのめされて身体がまったく動かない。動こうという意志も生じてくれない。情けなく竦み上がって震えるだけだ。化け物どもが乱杭歯を見せ付けるように大口を開けて迫り来る。人間など軽くひと呑みにできる、洞穴のような大口。恐怖が体内で爆発し、思考が撹拌され、奥歯が掘削機の如くカチ鳴る。死神がその骨ばった手で俺の肩に触れているのを明確に感じる。

 粘性の高い唾液が足元で跳ね、ドブのような臭気が眼前に迫る。もう、何をするにも遅すぎる。絶叫さえ上げられない。目を見開いて、冷や汗をびっしりとかいて、ただこの光景に翻弄されるだけ───

 

 

 

 

───運命に服するな(・・・・・・・)

 

 

 

 

 柔らかみのある、聞き慣れた声が脳裏に閃いた。何者かが死神の手を強引に振り払い、俺の肩を力強く掴んだような錯覚。

 ゴツゴツと節くれだった職人の手は、大きくて、温かくて、その感触は忘れようもなくて。

 

「―――父さん?───ぅわッ!?」

 

 突然、右足に刺すような痛みが走った。まるで燃えるように熱い。いや、本当に燃えていた(・・・・・・・・)。見下ろせば、清々しい水色の炎を纏わせて義足が囂々と燃えている。美しい珊瑚のような、どこまでも続く空のような、見る者をハッとさせる水色に、俺は一瞬心を奪われた。木製ゆえに火が燃え移ったのかとドキリとするが、不思議なことに脚の肉が焼けている様子はない。それどころか義足との接点から力が流入してくるような、何でもできそうな万能感すら湧き上がってきた。

 

(う、動ける!?)

 

 気づけば、痛みに意識を弾かれたことで身体を思い通りに動かせるようになっていた。心身に、急速に余裕が満ちてくる。さっきの声はなんだったのか、なぜ義足が突然水色に燃えているのか。どれもこれもわからないが、そんなことはどうでもいい。今はとにかく、この化け物どもから逃げるのが先決だ。俺の脚力なら逃げ切れるかもしれない。自由になった身体を180度ひるがえし、肉体の思うがままにクラッチスタートの体勢をとる。右足に、今までにない力の充溢を感じる。太ももに力を込めると、まるで命令されたかのように水色の炎が一際燃え広がって俺を包み込む。

 獲物を丸呑みにしようと迫る化け物の雄叫びが耳の後ろで聴こえると同時に、踏み出された右足が地面を思い切り蹴り飛ばし―――その瞬間、俺は物理法則を超えた(・・・・・・・・)

 

「―――なぁああッッッ!?」

 

 比喩でもなんでもなく、この瞬間、俺の身体はこの世界の物理法則を裏切っていた。大気が気圧の塊となって行く手を阻もうとするが、俺はそれすらもぶち破って壊れたマシンのように疾駆する。バシ、バシ、と円錐状の白い膜を何枚も蹴破り、その度に轟音が遠くに放たれ、視程の左右限界線で何かが派手に吹き飛ぶ。

 

(なんなんだよ、これは……!?)

 

 強烈なGが全身を叩きつけてくるが、加速は弱まることを知らない。それは疾走という名の暴虐だった。遥か後方に置き去りにした伊達男の驚愕の声が聴こえたが、あっという間に聞き取れなくなった。完全に制御不可能になり、猿のように無様に手足を振り乱してなんとか走る。周囲の光景が水飴のように引き伸ばされ、俺の動体視力ではただの横線の群れにしか映らなくなってきた。急激に増加していくGの圧迫で眼球が押し潰され視界がブラックアウトとレッドアウトを繰り返す。時速何キロ出てるのか。そもそもキロ単位なのか。もう何も見えないし、聞こえない。硬膜のなかで光が散る。風圧に胸郭が押し潰され、息もできない。思考もできない。踏みしめる足底の感触のみが感覚の全てとなった。

 

「ぅがっ!?」

 

 不意に何かに足をとられて転倒する。目が見えない俺が体勢を整えることなどできるはずもなく、当然のように俺の身体はコマのように猛烈にスピンしながら放物線を描いて虚空を舞った。数秒の滞空時間を経て背中から地面に激突し、二、三回、跳ねてどこかの建物にぶつかってやっと動きが止まる。巨大な鉄球の一撃のような鈍重な衝撃に全身を余すところなく打ち据えられ、もはや痛覚さえ麻痺していた。ただ身体が痺れて動かない。指一本たりともまともに動かせない。痺れる眼球だけがなんとか自分の意思で動かすことができた。明滅する視界で辺りを見回し、そこが自分の家のすぐ目の前だということがわかる。ということは、背中を接している建物は教会だろう。動物は身の危険を感じると咄嗟に自分の住処に足を向けると本で読んだ。俺もその例に漏れなかったらしい。

 自由の利く片目で義足を見てみると、水色の炎はとっくに燃え尽きて普通の義足に戻っていた。あれだけの衝撃を受けたのに、木製の義足には欠損どころかかすり傷一つ見つけられない。思い返せば、この義足は昔からやけに丈夫だった。手を滑らせて落としても欠けたりしないし、色落ちもしていない。今まで、それは頑丈な素材を使ったからだと思いこんでいたが、考えてみれば奇妙な話だ。

 

「……やれやれ。驚いたな。手間をかけさせないでくれるかな?あまり騒ぐとフレイムヘイズに見つかってしまうじゃないか」

 

 今、もっとも聴きたくなかった声。ずるずると化け物どもが重く長い図体を引きずる音が聴こえ、緑青色の火の粉が視界いっぱいに散る。逃げなければと脳が緊急指令を送るも、意識と無意識の境目に落ち込もうとする肉体は反応を示してくれない。

 

「私がほしいのは『トランスケンデンス・ムンドゥム』だけ―――と、言いたいところだが、君はかなりの存在の力(・・・・)を持っている特異な人間のようだ。曲がりなりにもその燃費の悪い宝具を起動(・・)させられたのだから。悪いけど、食べさせてもらうよ。恨むなら父上を恨むんだね、名も知らぬ少年」

 

 こいつの言っていることがどれ一つとして理解できなかった。父さんとこいつがどんな関係だったのかもわからないままだ。水色の炎を噴き出す義足のこともさっぱりわからない。“存在の力”とはなんのことだ。俺がそれを持っているって、どういうことだ。疑問ばかりが頭に募る。俺は、何もわからないまま、こんな理不尽な化け物どもに殺されるのか?

 化け物の群れから、車ほどはある巨大なナメクジのような生物が一匹、他の仲間を力づくで押しやりながら進み出てくる。顔もなければ四肢もない。あるのはあんぐりと開けたでかい口だけだ。その口にも、歯茎はなく、舌もなく、喉すらない。そこには口腔内を埋め尽くしてギチギチと煽動する鮫のような牙だけが無数にある。これに食われたら、生きながらにミキサーにかけられてグチャグチャに殺されてしまうだろう。俺は間違いなく死ぬ。俺が死んだら……母さんは、どうなる?

 

「……チクショウ、ふざけんじゃねえぞ……!」

 

 飛びそうな意識を悪態をついて必死に繋ぎとめ、持ち前の精神力を総動員して強引に身体を引き起こす。それを見て、化け物の親玉である伊達男がほうと感嘆のため息を吐く。

 

「ふむ。精神力は父上を上回るようだ。フレイムヘイズにでもなったなら、君はよほど優秀な戦士となっただろう。たとえ敵勢力であろうとも、貴重な人材が失われることは惜しい」

 

 芝居がかった大仰な仕草でさも残念がってはいるが、内心は正反対のことを考えていることがよくわかった。その仕草の何もかもが鼻について、こんな奴に生殺与奪を握られていると思うとはらわたが煮えくり返る。鼻先まで迫った化け物が、目の前の絶好の餌に興奮して靄のような吐息を吐いて激しく身悶えする。下水道の臭いを千倍に凝縮したような吐き気を催す汚臭に嗅覚が一瞬で麻痺する。思わず口を押さえて嘔吐を防いだ目の前で、牙が擦れあってギチギチと軋みをあげる。その牙にどす黒く変色した血痕が数え切れないほどこびり付いているのを目にしてしまい、戦慄する。いったい何十人、いや何百人の人間がこいつの餌食になったのか。

 

「こらこら。宝具まで食べてしまうんじゃないぞ、ハリハラ?」

 

 微笑を浮かべてステッキでこつんと化け物の尻尾を小突く様子は、まるで愛犬を躾けているかのようだ。

“伊達男”、“宝具”、“トランスケンデンス・ムンドゥム”、“存在の力”、“フレイムヘイズ”、“父さん”、“義足”―――それらを知る由もなく、知らないまま終わる。自分が殺される理由すらわからないまま死ぬ。そうして、母さんは一人になる。ただ一人の肉親を失ったら、母さんがどれだけ悲しむのか。いや、この伊達男は俺の次に母さんを狙うことだってありえる。そんなの冗談じゃない。許してたまるものか。なんとしてでもこの窮地を脱出しなければならない。なのに、身体は今にも崩れ落ちそうな状態だ。精神力も限界に達して、今にも無意識の闇に滑り落ちてしまいそうだ。

 

「くそっ、動け、動けよ!もう一回、燃えろよ……!」

 

 義足はうんともすんとも言わない。義足と繋がる肉の面から燃料切れ(・・・・)という奇妙な直感が伝わってくるだけだ。スッと影が俺に覆い被さる。ゾッと血の氷る思いで見上げれば、ハリハラと呼ばれた化け物が俺を噛み砕こうと顎門(あぎと)をがぱりと開けていた。嬉々として迫り来る化け物の裁断機が俺の身体を包み込んでくる。自分を取り巻く謎を聞かされながら、それをろくに理解もできないままに醜い化け物に押し潰される。こんなの、こんなの、あまりにも理不尽じゃないか―――!

 

「ぅ───うわあああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 

 

ついに恐怖が沸点に達し、喉の奥から悲鳴が迸る。

その絶望の叫びが、絶望の沈黙に取って代わろうとする瞬間――――

 

 

 

 

 轟音が耳朶に響いた。俺の頭の真横から、教会の壁を突き破ってそれ(・・)が姿を現す。円錐状の螺旋を轟然と回転駆動(・・・・)させる銀色の刀身(・・)は、ハリハラの牙を一本残らず粉砕して口腔に破壊の猛威を叩き込む。巨体に深々と食い込んだそれは内臓を引っ掻き回し、グロテスクな中身をあたりに撒き散らした。

 

 俺が狂ってないのだとしたら―――それは、紛れもなくドリル(・・・)だった。

 

 ハリハラがドリルをその身に突き立たせたまま断末魔の悲鳴を上げてのたうち回る。それと同時に、亀裂から光を明滅させる教会の壁が内側から爆砕した。顔の前で腕を交差させて襲い来る石礫を防ぎ、教会から現われたソレ(・・)を凝視する。

 

「―――天使(Ein Engel)……?」

 

 純白に燃え、しかし柔らかな質感を持つ髪が、ゆっくりと地に惹かれ、腰の下まで伸びる。後光のような強烈な輝きを放ち、純白と純銀の入り交じる戦装束が美しく照り映える。全てを塗り潰す白い光に彩られた少女は、昨夜にこの教会の屋根で見た幻覚の美少女そのものだった。だが、腕を組んで威風堂々と仁王立ちをしている様子は天使(・・)というより戦士(・・)だ。俺を視界に入れた少女の純白の瞳に、より一層強い怒りの炎が宿る。仁王像のような絶対的な怒りを孕んだ瞳。それは俺に向けられたものではなく、俺を殺そうとした伊達男に対しての怒りだった。地獄の劫火の如く大気を燃やす怒気に、チリチリと肌が焦げるような痛みすら感じる。

 白銀と緑青色の火の粉が舞い散るなか、俺より遥かに小さい矮躯の少女が、圧倒的な鬼迫(・・)を放出させて化け物どもと対峙する。俺は、周りの状況も、置かれた立場も忘れて、見入った。純白の火の粉を舞い咲かせて屹立する、純白の髪の少女を。

 

 

 

その瞬間、俺は直感した。

 

外れた(・・・)、と。

 

永遠に続くと思っていた俺の日常は、あまりに呆気なく燃え落ちた。あるいは、燃え上がった(・・・・・・)

 

もう、日常には戻れない。ここから、今までとは絶望的なまでに乖離した非日常(・・・)が始まる――――




ドイツの高校生活などについて、10年前よりさらに情報があるので、よりリアルに描けるようになりました。便利なネット社会に感謝。
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