「つまり―――君みたいな『フレイムヘイズ』って呼ばれる奴らは、人間の味方って解釈していいんだな?」
「そう思ってくれて問題ないよ、フリッツ君」
辿々しい俺の確認に、目の前で椅子に腰掛ける少女は微笑を浮かべたまま頷いた。少女が街の修復を終えた後、俺たちはすぐ近くにあった俺の自宅に移動していた。窓からすっかり暗くなった外の景色を見れば、いつも通りの賑やかな町並みが広がっている。向かいでは教会の鐘が鳴り、皆に本格的な夜の訪れを報せる。その長閑な光景には先の人外同士の戦いの爪痕など微塵も見て取れなかった。
(その人外の片方がこんな女の子だなんて、いまだに信じられない)
正面へと目を戻せば、少女───名をサユという───が、長い説明を終えた喉を
(なんていうか、
“顔は生き様を表す鏡”と聞いたことがある。荒んだ人生を歩んでいれば岩のような顔になるし、のんびり生きていれば自然と緩んだ顔つきになる。その法則に則ると、目の前の少女の性格はとても剣呑なものであるはずだった。筆を流したような切れ長の双眸は触れれば指先が切れてしまいそうなほどに鋭く、強固な自制心と揺るがぬ意志を如実に示している。形の良い鼻梁は行き先を明確に知る渡り鳥のようにハッキリと前を向き、引き締まった唇は一切の情を廃して物事を語る哲学者のような硬質さを讃えている。容貌全体からはまさに“高貴な狼”といった印象を見る者に与え、他人のことなど知ったことかと言わんばかりの寄る辺のなさすら感じさせるだろう。だが、それも黙っていればの話だ。実物の
簡単な自己紹介をした後、俺はサユに数え切れないほどの質問をした。過去に同じ質問を受けたことがあるのか、それとも質問をする立場になったことがあるのか、サユは嫌な顔一つせずに丁寧に答えてくれた。『紅世』という、“この世の歩いていけない隣の世界”があること。そして、この世界は遥か昔から紅世の住人による侵入と暴虐を受けていること。それを撃退し、紅世と現世のバランスを保つためにサユのような『フレイムヘイズ』が日夜戦っていること……。簡単に理解できる話ではなかったが、実際に体験をしてしまった後では信じる他なかった。自分が当たり前のように過ごしていた日常とまったく相容れない非日常。それと接してしまった時点で、俺が送ってきた暮らしは終焉を告げた。―――いや、俺が気が付かなかっただけで、実はもっと前から俺は非日常の住人に付け狙われていたのだ。
あれだけの戦いに巻き込まれながら、平然と無傷の顔を浮かべる義足に一度目を落とし、再びサユを見る。視線に気づいたのか、サユがその小さな手には大きすぎるマグをテーブルに置くと小さなお尻を動かして居住まいを正す。おしとやかな乙女のようにメイド服の裾を整えようと指を伸ばして複雑そうな表情でそれを中断したのは何故なのか、俺にはわかるはずもない。
「宝具ってのが、人間と紅世の住人が協力して造る特殊な道具や武器だってことはわかった。でも、それと俺と何の関係が?」
この質問にサユは答えられないようで、彼女はカップの傍らに置かれたペンダントに促す視線を向けた。ペンダント―――この中にいるテイレシアスという男は、俺を襲った“紅世の
テイレシアスが、「うむ」と相変わらず地鳴りのような声で己の契約者から流された視線に応える。
「小僧。お前のセカンドネームは“ルヒトハイム”で間違いないな?」
「あ、ああ。そうだけど……」
「では、デニス・ルヒトハイムはお前の親族か?」
「それは死んだ父さんの名だ。時計職人の家系で、義足職人になった。死ぬ前にこの義足を造ってくれた」
サルマキスも父さんの名を口にしていたことを思い出す。俺の即答に、テイレシアスは「なるほどな」と低い納得の声を漏らした。俺には何が「なるほど」なのかまったくわからない。困惑を隠さない俺を見て、「テイレシアス、どういうことなの?」とサユが助け舟を出してくれた。
「小僧、お前の父デニス・ルヒトハイムは、当代においては名の売れた宝具の創作者だった。会ったことはないが、なかなかに腕の良い紅世の宝具製作者だったと聴いている。死んだとも、息子がいたとも知らなかったが」
「父さんが!?」
自慢の父親が紅世と密な関わり合いがあったと知って激しく動揺する。テイレシアスの淡々とした言葉がそこへさらに追い打ちをかける。
「お前の父が得意としていたのは“時の事象に干渉する”宝具だった。加速、遅速、停止。その分野では、紅世の匠も
サルマキス。その名を耳にしただけでゾッと悪寒が背筋を走り、指先が震えだす。俺の命を狙った化け物。あんな恐ろしい奴と父さんが手を組んでいたなんて、信じられない。
「あの“祭礼”狂いのトカゲについては、良い噂はほとんど聞かん。個人主義の塊で、
サユが驚愕の瞳で俺を見る。“祭礼”とかなんとか、相変わらず簡単には飲み込めない難語ばかりだが、一つのことは理解できた。サルマキスに渡さなかった宝具を父さんがどこに隠したのかを。俺に人の規格を超えた速度と地面を抉る脚力を与えた水色に燃える義足を思い出す。
「そうか、この義足が、」
そこまで言って、思考が凍結した。
(
加速、遅速、停止。───
俺が速く走れるようになったのは、事故で足を失い、この義足を父さんから貰ってからだ。普通に考えれば不自然なことだ。際立った体力を有していたわけでもないガキが偽の足をつけた途端に早く動けるようになるなんて、冗談みたいな話だ。そして極めつけに、この義足には人知を超えた力を持つ宝具が仕込まれている。
要するに――――俺の自慢の俊足は、純粋な実力によるものではなく、父さんの迷惑な遺産によるものだったわけだ。
「なんだ、そりゃ……」
思わず自嘲が漏れる。意気を喪失して脱力した肉体が椅子に沈み込む。自分の俊足の正体を疑うこともせずに今まで調子に乗っていた自分が情けなくて、ひどく滑稽だった。
「大丈夫、フリッツ君?」
心配そうな声に振り向けば、その声そのままに不安げにこちらを気遣う表情をしたサユが、身を乗り出してこちらの顔を覗き込んでいた。思慮深い眼差しが、絶望に沈みかけていた心を優しく浮上させてくれた。
「……ああ、大丈夫だ」
本当はとても大丈夫な精神状態じゃなかった。脳天を殴りつけられたようなショックに喉がからからになる。だが、救いはある。別に二度と走れなくなったわけじゃない。宝具は今も俺が持っているのだ。問題なのは、この宝具を奪おうとしている奴がいることだ。
「テイレシアスさん。サルマキスはまた来ると思うか?」
「間違いなく、来る。奴は宝具を持っていかれたことで顔に泥を塗られた。お前もわかったと思うが、自尊心だけは無駄にデカい卑屈な奴だ。“祭礼”の眷属なんてのは眉唾な話だが、執念深さだけは一流と言って違いない。何度でも、何としてでも、その宝具を奪いに来るだろう。そして憎むべきデニスの息子であるお前の命もまた然りだ」
低い男の声で淡々と告げられた台詞は、最後通告のようにも思えた。あんな化け物に襲われれば、俺なんか一溜りもない。一瞬で殺されるだろう。それならまだいい方だ。ハリハラのような化け物に足先から噛み砕かれながらじわじわと嬲り殺しにされるかもしれないし、むしろそうなる可能性の方が高い。俺に非なんてないのに、だ。
死と苦痛の恐怖に肩が震え、歯がガチガチと音を立てる。汗が背筋を伝い落ちる感触が軟体生物が這っているようで気持ち悪かった。
俺ではサルマキスには太刀打ちできない。―――だが、それができる存在ならすぐ目の前にいる。震える声をなんとか押し殺して、静かに俺の義足を見つめていたサユを見据える。
「頼みが、ある」
「……なにかな?」
俺は一度目を瞑り、この少女が、さっきまでと変わらない天使のようなお人好しさを次の瞬間も発揮してくれることを神に願った。エホバでも、アラーでも、仏陀でもいい。コーランだって仏典だってたんまり買い込んでやる。俺の頼みを聞き入れてくれさえすれば、誰でも構わない。目を開くと、俺は睨むようにして神の如き超常の戦士を見つめる。
「俺を護って、サルマキスを倒してくれ」
しばしの沈黙。沈鬱な空気は圧倒的な重さを持って俺の双肩に圧し掛かり、その重さに押し潰されそうになる。俯く顔から視線だけでサユを見上げれば、その表情は感情を押し殺しているような暗い無表情だった。大人の分別を宿す瞳の奥で、思考の灯火が激しく揺らめいている。何を考えているのか判然としない眼差しから逃げるように、俺は視線を落とすしかなかった。都合のいい願いだということはわかっている。タダで火中の栗を拾ってくれとでもいうような無茶な申し出だ。俺が得するばかりでサユには一切のメリットがない。『フレイムヘイズ』は群れて行動したり誰かを護ったりすることはほとんどないと聞いた。だが、俺は願うしかなかった。『NO』という返答が下されれば、俺は死んだも同じだ。抵抗する術を持たない俺が生き延びるには、病気で弱った母さんを放ってでも世界中を逃げ惑うしかない。そんなことは出来るわけがない。仮に実行したとしても、今日見つかったようにいつかは発見されて殺されることは目に見えている。それに、宝具を狙う奴らはサルマキスだけじゃない。圧倒的な力を持つ紅世の化け物どもから逃げ続けられる自信はなかった。
教会で祈るように顔の前で片方の拳を片方の手の平で握り締める。そして、俺の懇願に対するサユの短い返答。
「───わかった。君を護って、サルマキスを倒そう」
「……っ!」
押し寄せる安堵に全身から一気に力が抜けた。頭頂まで上り詰めていた血がどっと足に向かって押し下がって、そのまま貧血で気絶しそうな眩暈すら覚える。いつのまに止まっていたのか、肺が収縮活動を再開して呼吸が再び行われ始める。ひゅう、と喉から空気が漏れた。サユさえいれば、大丈夫だ。街の一角をふっ飛ばすほどの戦闘力を思い出し、口端がせり上がる。この無敵のフレイムヘイズさえいてくれれば、サルマキスは俺に手出し出来ない。いや、それどころかサルマキスを殺して、俺を狙えばどうなるかという
「ありが―――」
「でも、条件がある」
命を永らえたも同然の状況に安堵する俺の台詞を硬い声が遮った。可憐な見た目に不相応な、鋭い声だった。また嫌な予感がした。
「サルマキスはボクが討滅しよう。その代わり、」
その白い指が俺の義足を指す。その確固たる意思を宿した双眸は、神の命ずるままに天罰を下す天使そのものだった。そこには何の邪悪もなく、何の救いもなく、ただの
「全てが終わった後、その宝具をボクに渡してもらう。これが条件だ」
「な……!」
生き延びたいと考えるのなら、母さんのことを考えるのなら、その取引は喜んで受けるべきだ。サユがサルマキスを倒し、俺がこの宝具を手放せば、俺にはもう襲われる理由がなくなる。普通の人間として暮らしていける。それはどうしようもなく正しい判断だった。しかし―――この宝具がなくなれば、きっと、俺はもう走れなくなる。他人より秀でた優越感を、あの得もいわれぬ風を切る爽快感を二度と味わえなくなる。この足のおかげで待遇のいいハイスクールへの進学も決まった。走ることは俺のたった一つの取り柄だ。この4年間の生き甲斐はそれだけだったと言ってもいい。走れなくなったら今までの時間は全て無駄になってしまう。失いたくない、と思ってしまった。例えこの義足が化け物どもを呼び寄せるハーメルンの笛だったとしても。
自分の置かれた現実を突きつけられ、しかし受け入れることが出来ずに閉口してしまった俺に、サユは小さく嘆息してゆっくりと椅子から滑り降りる。
「今すぐ渡せとは言わないよ。サルマキスにはかなりのダメージを負わせたから、しばらくは身を潜めているはずだ。すぐに報復に来ることはないと思う。君は、
「覚悟……?」
聞き返した俺の目を鏡のようにまっすぐに見返して、サユが容赦なく告げる。まるで、
「これを現実だと認め、未練を断ち切る覚悟を」
言って、サユはおもむろに今まで羽織ってなかったはずの黒い外套を翻した。何事かとそれを目で追って―――次の瞬間、サユの姿はどこにもなかった。後には、まだ熱を持った空のマグがあるだけ。驚きはしなかった。彼女は異能を有する超常の戦士だ。これくらいの芸当ができても何ら不思議はない。立ち上がり、ふらふらと自室のベッドの元まで歩むと、そのまま靴も脱がずに倒れこんだ。義足の関節がぎしりと軋みを上げるが、いちいち外す気にもなれなかった。
サユは、きっと俺の未練をわかっていた。宝具への執着心を見抜いていた。だから、その浅はかな考えを見透かし、断ち切るようにと忠告したのだ。
「これが現実だ、って言われても……」
今この瞬間にも、誰かが紅世の住人に理不尽に殺され、世界の記憶から消されている。自分が平然と暮らしていたこの世界が実はそんなに物騒だったなんて―――その世界に俺も属しているだなんて、信じたくなかった。でも事実なのだ。サユが言ったように、認めなければならない。認めて、判断を下さなければならない。自分のアイデンティティと引き換えに、自分の命を守らなければならない……。
苦悩の重さに耐えかねるように、身体をベッドに沈みこませる。くたくたになった頭にどっと疲れが押し寄せて、泥のような眠りへと誘う。今日はたくさんのことがありすぎた。もう何も考えたくなかった俺は、その誘いに乗って意識を心地よいヘドロへと投じた。
TS作品が増えてくれて嬉しいよぼかぁ