『
己の欲するままにせよ。欲しいままに喰らい、欲しいままに使い果たし、欲しいままにまた次を喰らう。押しも押されぬ紅世の神は、それらを公然と認めたのだ。病的に心配性な同胞殺し共がやれ禁忌だなんだと理由をつけて妨害してくる“人喰い”を公然と許したのだ。それを理解した数多の“
(なんて、素晴らしい御方だ!)
「好きにせよ」。そのたった五文字の一言に、サルマキスは自身の存在意義すら承認される絶大な安心感に満たされた。生まれ落ちたばかりで自己認識が雲のように曖昧だったサルマキスにはまさに天啓だった。今までは、己が何をすればいいのかわからず、人間の世界に行っては無為に人を喰らうばかりだった。目的意識乏しく、欲望も薄く、活気もなく、
(おお、我が神よ!我らの至高なる御神よ!)
未来に明るい希望を見出した彼は、あらためて遥か頭上を仰ぎ、尊大な雄姿を両方の目でしかと見る。巨大で、偉大で、強大な、紅世における最高の神の一柱。迷える“王”や“徒”を正しき道へと導いてくれる、創造を司る神。その山のような威容は、例えるなら
不意に、創造神の金星の如く発光する眼球がギョロリと蠢いた。果てしなく遠い彼方に向けているような、どこを見るともない、
(───あっ)
その一対の目が、サルマキスの視線と交差した。それは、客観的に見れば“交差”とも呼べない、数億分の一秒にも満たない交錯だった。相手にしてみれば個としての認識になど遥か遠く及ばない。流し目で視界に映り込んだ風景の一角にしか過ぎない。だが、サルマキスには永遠に感じられる神との繋がりだった。絶頂しそうなほど馥郁たる心地だった。その瞬間だけ、世界は彼と創造神だけに感じられた。創造神は、他の誰でもなく、眷属であるサルマキスだけに告げるためにここに来てくれたのだと感じられた。その一瞬は、彼の未来を決定的に運命づけるには十分すぎた。
(いつか必ず、貴方の
彼はうっとりとして決意した。いつか、あの神の玉座の左に立ってみせる。眷属として、腹心として、無二の配下として。『
「───ぎゃんっ!?」
その滑稽な悲鳴が誰のものか分かりかねた。自分の口から出たなどと信じられなかった。うわの空だったサルマキスの肉体に激痛が走り、目の前で火花が散る。ぐぎゅっという鈍い音とともにそれまでの心地よさが無残に吹き飛び、予想だにしない衝撃にサルマキスは飛び上がって驚いた。尻尾だ。誰かが尻尾をひどく踏みつけたのだ。
と、クツクツと喉を鳴らす意地の悪そうな忍び笑いが聴こえた。キッと目を見張って振り返れば、そこにはいかにも底意地の捻くれていそうな子狐がいた。
自分より数百年ほど年上なのだろう、体格差はわずかに向こうが上回る程度だ。が、サルマキスは“
「す、崇高なる神の御前で無礼ではないか、見知らぬ“王”よ」
虎の衣を借るような台詞に、子狐は臆する様子を見せない。
「知ったことかよ。
ザワッと、“徒“のあいだに疑念の波が駆け抜けていった。創造神を見上げて悦に浸っていた彼らの陶酔心に冷や水をぶっかけて、子狐の“王”は我関せずといった態度でふんと鼻を鳴らした。誰も彼も創造神の圧倒的なカリスマの前に跪拝する勢いで心酔しかけるなか、この“王”だけは周囲をあざ笑う笑みを浮かべていた。周囲が熱狂すればするほど自らは冷めると言うかのような天の邪鬼な態度は、この幼い“王”が生来から有した魂の在り方に違いなかった。
「他人の許可なんて貰うまでもない。俺は俺の好きにする。俺は何者にも縛られない。自称神の言うことなど知ったことか」
サルマキスにはこの紅世の“王”のセリフの意味がわからなかった。言語は同じなのに、内容を理解することを頭が拒んだ。これほど素晴らしい、全てを肯定してくれる神がいるというのに、何が気に食わないというのか。どうして神を必要としないなどわけのわからないことを言うのか。神の肯定がなくて、どうして充実して生きていけるのか。混乱しながらも、自分自身すらも否定された気分になったサルマキスは憤慨の爆発をあと一歩のところで抑えると、震える声で狐の“王”に噛み付く。
「そ、その小生意気な台詞、“天壌の劫火”───天罰神の御前でも言えるのかな?」
弱気に口元をひくつかせながら紡いだ意趣返しだった。他ならぬ狐の前で虎の威を借りるというなんとも情けない、それでも弱小のサルマキスにとっては精いっぱいの仕返しだった。だが、勢いに任せて口にしてしまった後で、自分の浅慮を悔やんだ。不用意に相手を挑発するべきではなかった。もしも、この年若い狐の“王”が激情に燃えて牙を剥いたら、今の自分には勝ち目などない。頭からガブリと食われればそこまでだ。
(こ、殺されそうになったら、創造神は自分を助けて下さるだろうか?この無垢な信奉者を、自らの眷属を、その偉大な御手を差し出して颯爽と護って下さるだろうか?)
チラと視線を上に向けて大蛇の顔色を伺うも、天を衝く巨大な神はそもそも足元で起きている“徒”と“王”の一幕になどなんら関心を示してはいなかった。遠いところを見つめるばかりの達観しきった透明な眼差しが、今はまったくもって頼りない。
自らの命が風前の灯であると感じて冷や汗を隠しきれない彼の眼前に細い鼻先がぐっと迫る。恐怖に息を呑むサルマキスを悠然と見下ろし、子狐の“王”は豊かな白銀の毛並みを堂々と見せ付けて、わははと豪胆に笑った。
「
9本の尻尾を扇のように大きく広げた“王”は飄々とそう言ってのけると、事態全てに興味なさげにゆったりと踵を返す。
「他者に自分の存在証明を委ねるなんざ、くだらない。実にくだらない。そんなもんは自分で見つけるものだ。目的は自分で自分に付与してやるものだ。趣味の一つでも見つけたらどうだ。……ああ、そうそう。言い忘れるところだった」
危機の方から去ってくれることに安堵しかけたサルマキスの内心を見抜いたかのように、狐の“王”がゆるりと流れるような動作で首を回し、細めた眼で振り返る。ギクリと肩を跳ね上げて狼狽するサルマキスに、“王”は口端をニヤと不敵に釣り上げる。
「そうビクビクしなくとも、お前なんか食わないさ。誰もお前なんか食わない。誰もお前のことなんか見ていない。創造神も、お前のことなんか見ていない。まだまだ、
言って、ついと再び正面を向くと、彼は悠々とした余裕の足取りでその場を後にしていった。あの“王”には、サルマキスに対する害意などなかった。それどころか、これっぽっちも意に介していなかった。敵する者とすら、ましてや捕食する相手とすらも思われていなかった。完全に、
「な───あ───」
己が相手の眼中にも無い、雑魚扱いされたことを悟ったサルマキスの背筋を冷たい衝撃が貫き、次に怒りで全身がカッと熱くなった。精神が激昂し、処理能力の限界に陥って、一切の思考を強制的に停止させられた。純白の尻尾を左右に揺らして小さくなっていく白銀の後ろ姿を、呆然と見開いた眼球で見つめることしか出来ない。
「ち、違うのです、“祭礼”様!これは───」
失望されたくない一心で、サルマキスは醜態について弁明しようと慌てて創造神を仰ぎ見る。しかしながら、崇拝する当の神の意識はすでにここにはなく、こことは違う別の次元の先を静かに見据えて瞑想に似た精神状態に至っていた。『
サルマキスは全身をブルブルと制御しきれない感情に震えさせた。全身の皮膚から余すところなく脂汗が滲んだ。食いしばる口の間から涎が吹き出て止まらなかった。訳も分からずに喚き立て、誰彼構わず八つ当たりしたくなる欲求を必死に抑制した。胸の内でどす黒い感情が煮えたぎっていた。皮膚が破けて中身が派手に飛び出しそうだった。
衆目の前で辱められたことが悔しかった。侮られたことが無念だった。崇拝する創造神の前で、特別な眷属である自分が無下な扱いをされたことが腹立たしかった。なによりも───自分自身では決して認めないし意識することも避けているが───愛する創造神に認識されていないと図星を突かれたことが、たまらなく、たまらなく、恥ずかしかった。“お前は特別なんかじゃない”と残酷な真実を突きつけられたことが、果てしなく、果てしなく、屈辱的だった。
サルマキスは堅く誓った。「目に物見せてやる」、と。創造神の眷属である自分が、本来いなくてはならない場所に立ち、自分を見下してきたあらゆる愚か者たちを苦しみの底に追い落としてやる。彼の性格は取り返すことなどできないほど捻じ曲がり、その性質は邪悪を極めることとなった。
これが、“贋作師”テイレシアスと“魔使い”サルマキスの、最初にして最悪の出会いだった。
‡ ‡ ‡
どこかで大人たちが語り合い、どこかで子供たちがはしゃぎ合う。大小あらゆる車両が道路やそれ以外の場所を走り回り、けたたましい騒音を辺りに轟かせる。
……その喧騒に賑わう街の地下深くに、暗黒が立ち込める空間があった。狭いのか広いのか、そもそもその概念が存在するのかすらわからない異界の一室。上下四方すべてを隙間なく石壁で囲まれた完璧な密室は、生物どころか空気すら侵入することを許さない。───その部屋の主を除いて。
「おのれ、“贋作師”め……!」
耳朶を掻き毟るような不気味な声音が響いた。それと同時に、濃緑色に濁った炎が粘性を帯びた液体のように壁という壁から染み出してくる。それらはずるずると不定形な身体を引きずりながら中央に集まり、交わり合わさる。全ての炎が融け合った時には、その炎は爬虫類の顔をした紳士を形作っていた。
サルマキスは“不死性”を有する数少ない紅世の〝徒〟の一人である。“千征令”オルゴンが、彼の兵隊『レギオン』をすべて滅ぼさなければ討滅できないことと同様に、サルマキスもまた彼の飼う『
サルマキスが怒りに任せてステッキを壁に叩きつける。頑健な作りをした両者はどちらも疵一つ入らず、それは彼に無力感を湧き起こさせてさらに苛立たせた。
(私をここまで虚仮にするとは、あの腐れキツネめ、ルヒトハイムの子め……!)
肥大化しきったプライドを持て余す彼にとって、捕食対象に過ぎない人間に戦況を覆されたことは不愉快極まりないことであった。因縁のある“贋作師”に出鼻をくじかれたことが腹だたしくて仕方がなかった。まさか、あの狐の“王”がフレイムヘイズの側に立つとは。自由人を気取った無法者のくせに、世界のバランス云々とほざく同胞殺しどもに加担するとは。なんてムチャクチャで、厄介な奴だ。
押し寄せる強烈な憤怒に全身を身震いさせながら、サルマキスは自らの失態を分析しようと懸命に努力する。
(あと少しで
“贋作師”のフレイムヘイズは手強かった。大口を叩くだけはあって、現代のフレイムヘイズにおいて五指に入る……とまでは言わないが、間違いなく十指には入る手練れだった。正面切って戦えばまず勝てない相手に対し、自らの不死性を生かして不意を衝くまではよかった。まさに“肉を切らせて骨を断つ”だと、あの時は自分で自分を褒めた。そうして手に入れかけた勝利を、ただの人間が宝具を使うことで打ち砕いた。よりによって、サルマキスが血眼になって捜していた宝具を使って。
のっぺりとした爬虫類の頭部を憤怒に歪ませ、怒りに震える拳をギリギリと音が鳴るまで握り締める。そうやって自分を抑えなければ、今にも激昂して再びあの人間を襲おうとここから飛び出してしまいそうだった。無論、そこにはあのフレイムヘイズが待ち構えているのは火を見るよりも明らかだ。こんな不完全な状態で戦いを挑むことは得策ではない。サルマキスは“王”ではないため、存在の力の回復力が小さい。“王”なら放っておくだけですぐに回復するだろうが、サルマキスはそうはいかない。
(あの宝具さえ、あの宝具さえあれば、
冷えてきた頭で、念願の宝具を手に入れた自分の姿を夢想する。どんなに強大なフレイムヘイズが挑んできても一撃を放つ時間すら与えずに屠る力を有し、この世界でこそこそと隠れることなく自由に振舞える自分。特別な力を有した、特別な存在。それはまさに“祭礼の眷属”に相応しい。創造神の玉座の左に立つに相応しい。いや、むしろ───新たな
(幸運なことに、宝具自体はすでに完成していると見える。そこはさすがルヒトハイムと言ったところか)
水色の炎を纏って人間に力を与えていた義足を思い出す。自分があれを最後に見た時はまだ未完成の木塊だったが、ルヒトハイムは存在の力の正体を知らされても一応は完成させたらしい。それが技術者としての意地によるものか、存在の力を吸われた人間へのせめてものケジメだったのかは、人間を低俗な
(もう一つの懸念は、フレイムヘイズがあの宝具の
ステッキの琥珀に淡い濃緑の光が灯り、宝具の反応を探る。数秒と経たずにそれは強い水色の輝きを放ち始める。その光は、サルマキスの目当ての宝具が未だに健在で、まだ近くにあることを示していた。大切な宝具を持ち逃げされないように仕掛けていた発信機のような
水色の輝きを見てサルマキスはにんまりと破顔する。あの宝具の
身体の内側から言いようのない優越感が湧き出してくる。この世にあまねく全てを支配していると錯覚する優越感だ。否、それはもうすぐ現実になる。今頃、あの“贋作師”のフレイムヘイズは安心して油断しきっているだろう。「ダメージを与えたのだからしばらく襲ってこないだろう」などと言って。そうだ。油断している。その油断を衝けば、あの愚かな紅世の王と道具はどんなに驚愕し、ショックを受けるだろう?憎っくきアイツらに吠え面をかかせてやれるのなら、多少の無茶も許容される。私なら出来る。祭礼の眷属である私なら簡単にやってのけられる。未来の神である私なら絶対にやってのけられる。
(そうだ、何も問題はない。多少の計画の変更はあって然るべきだ。全て、全て順調に進んでいる。それこそ運命のように)
くくっとサルマキスの喉から常人には耳心地の悪そうな笑みが溢れた。自分を納得させる作業を終えてすっかり気が晴れたサルマキスが、両手で顔を覆い、粘土細工を弄るように揉む。奇妙な作業が終わると、そこには壮齢の紳士が優雅な微笑みを貼り付けていた。濃緑色の瞳はやがて訪れる栄光の未来に輝いている。彼は小躍りするようにして部屋の隅の革椅子にたどり着くと深く腰掛け、存在の力の回復に専念する。一日ほどしてある程度回復したら、どこかで人間を適当に喰らって、フレイムヘイズを襲撃する準備をしよう。
(そうだな、手始めは病院がいいだろう。老い先短い人間どもの物置とはいえ、存在の力はまあまあ蓄えられている。素早く襲って喰らって撤退すれば問題はない。ついでにトーチも設置すれば
餌場の当てをつけて、サルマキスは目を瞑った。そう、トーチの設置もしなければならない。
(よもや、ここから遠く離れた最果ての地で実現しかけた自在法のことを“贋作師”のフレイムヘイズが熟知しているというわけもあるまい)
そんな偶然は万に一つもあるまい。奇跡のようなものだ。奴らは、最後の最後まで、こちらがどれほどの智謀を巡らせていたのかを想像することも出来ないだろう。勝利を確信し、さらにその先まで思い浮かべたサルマキスは喉を鳴らすようにしてくつくつと笑う。彼の頭の中では、すでに自分の顔に泥を塗ったフレイムヘイズと人間を思う存分に痛めつけて惨殺する算段が作られ始めていた。華奢な身体を上から下まで己の鮮血に染め、甲高い悲鳴を上げる哀れな白銀のフレイムヘイズと、慈悲を乞う人間の子ども。彼らを腹の底から笑いながら容赦なく踏みつけて、絶望の果てにその命を刈り取ってやるのだ。
ああ、そうだ。もしも、あのフレイムヘイズの少女と人間の少年がお互いに恋心を抱いているのなら、少年の目の前でフレイムヘイズを徹底的に犯して、犯して、犯し抜いて、恥辱の限りを尽くして、苦しみの末に少年を人質にして自害を迫ってやろう。自分で自分の腹を掻っ捌いて、自分の手で心臓を引きずり出させよう。己のために命を投げ出した想い人を見つめて絶叫する少年を、頭からガブリと踊り食いしてやるのだ。なんと、まるで壮大な戯曲のような展開じゃないか。我ながら、なんて素敵なアイデアなのだろう。
その様子を想像して、サルマキスの下半身がびくりと震えた。
極まる満悦に絶頂を覚えたのだった。
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