白銀の討ち手   作:主(ぬし)

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 ドイツのことを調べると、あらためて「国が違えばいろいろ違うのだな」と思わされます。大変ですけど、書いていて発見があるので楽しいです。
 さて、僕も今年で34歳です。34歳!なんと、歳をとったものです。子どもも出来るってものですよ。この『義足の騎士』を書いているときはフリッツくんと5歳ほどしか変わらなかったので、少年の心がまだ等身大のものとしてわかっていたと思うのですが、もう34にもなると必死に想像するしかありません。ちゃんと年頃の少年らしい、自立しようともがく思春期のキャラクターになっているか、心配です。


1-8 成長

 さあ行こう今行こうすぐ行こうとまん丸の目を爛々と輝かせながら服の裾を引っ張るサユをなだめつつ、俺はクラブに充てがわれた部室へと歩を進める。サユにとってメロンパンとは理性を失わせるほどに魅力的なものらしい。小さなお尻の後ろに、パタパタと左右に揺れる犬の尻尾が見えてきそうだ。

 

「すまんな、小僧。普段はそれなりにしっかり者なんだが」

 

 すっかり落ち着きをなくした自らのフレイムヘイズに代わって礼を言う保護者(テイレシアス)の呆れ半分諦め半分の声に「いいってことさ」と微苦笑を返す。このペンダント───紅世(Flamme Welt)という世界の王様(König)らしい───も、彼なりの苦労があるのかもしれない(便宜的に“王”と呼ばれているだけで権力者というわけではないらしい)。

 

「まさか嗜好までオリジナルに引っ張られるとは。忠実に贋作し(つくり)過ぎたらしい。凝り性なのも考え物だ」

 

 内容のわからないボヤきにとりあえず相づちだけ打っておく。サルマキスと同種の生き物だと聞かされて、正直、このペンダントの中身にも苦手意識を持っていた。けれど、サユへの接し方がまるで愛娘へのそれに似ている様子を見て、その人間味のある態度に段々と親しみが湧いてきた。サルマキスと同種ではあるものの、同類ではないようだ。

 サッカー部の隣に設けられた部室───サッカー部の部室は陸上部の3倍デカい。ドイツ人のサッカー好きは異常だ───の扉の前に立ち、肩越しにサユを振り返る。

 

「サユ、ちょっと外で待っててくれ。欠席届けを提出するだけだからすぐに済む」

「大丈夫?メロンパンは売り切れない?」

「大丈夫だから!間に合うから!」

 

 幸いなことに、今日は4限目以降の授業はない。14時30分で授業が終わると、クラブ活動に参加していない普通の生徒はそのまま帰宅できる。俺も部活を休めば、日が暮れるまでに隣町まで足を伸ばす時間はなんとか確保できる。日暮れといっても、北半球に位置するドイツは日本のように夕方6時近くまで太陽がのんびりとしてくれない。冬になればなるほど極端に日照時間が短くなり、日の入りが夕方4時過ぎの日も珍しくなくなる。そして基本的に無駄を嫌うドイツ人は時間にシビアで、日が暮れればさっさと家に帰る。というわけで、この時期は店も夕方4時か5時で閉まったりするから、昼過ぎに学校を出発しても、徒歩で隣町に着く頃には閉店間近になっているというわけだ。こっちに引っ越して最初の頃は俺も母さんもよく戸惑っていたことを思い出す。

 元気を持て余す犬に「待て」をするようにサユを制し、部室の扉をノックする。朝の気まずい会話を思い出して入室に一瞬躊躇うが、「なるべく早くね!」と背後で急かす声に逡巡を掻き消され、忍び笑いを我慢しつつドアノブを回した。

 

「ああ、お前か。もう調子は戻ったのか?」

「あ、ああ。そのことなんだが、今日はまだ調子が戻りそうにないんだ。だから休むよ」

 

 互いに気まずさを感じていることを自覚しながら口を開く。その日の出来事をネタに会話に花を咲かせるような同好がいない俺は、部室の鍵を預かる部長の次に早くクラブに参加するのが常だった。今日も授業が終わると即行で(サユに押されながら)クラスを出たため、部室には机で事務処理をしているらしい部長と、例の小柄なマネージャーしかいなかった。衆目が少ない幸運を噛み締めつつ、二人に欠席届けを提出したい旨を告げる。ドイツでの放課後のクラブ活動は強制ではなく、どちらかといえば趣味に没頭したり、成績に余裕があったりする一部の人間が自由意志で参加するものとされている。だから、欠席届けを提出するハードルは日本に比べて圧倒的に低い。

 低いのだが、それが俺となると反応は別だ。

 

「や、休む?お前が!?」

 

 これまで、走ることを生き甲斐にして一度も休んだことのなかった俺が自分から欠席を告げたことに、部長とマネージャーは目を見開いて驚いていた。それも当然だと思う。今まで、雨が降ろうと雪が降ろうと他の部員が軒並み休もうと、俺だけは自主練習を欠かさなかった。そんな俺があっさりと「休む」と口にしたのだ。他ならぬ俺自身ですら驚いているのだから、この二人がポカンと口を開けて固まっているのも不思議じゃない。

 

「そこまで調子が悪いのか?──ああ、なるほど」

「フリッツさん、いったい───あ……!!」

 

 そんな二人も、背後の扉の隙間から「まだ?まだ?」とこちらの様子を覗くサユの姿を目にした途端に、合点がいったと言わんばかりに眉を跳ね上げた。部長はアングロサクソンそのものの彫りの深い眉を片方だけ意味ありげにくいっと持ち上げる。マネージャーに至っては、その大人しそうな容姿に似合わないキャベツの塩漬け(ザワークラウト)を食べたような渋顔で扉に厳しい目を向けた。

 

「な、何か言いたいことでもあるのかよ」

「いやなに、お前は他人に興味のない奴だとばかり思っていたんだが、なかなか隅に置けないじゃないか」

 

 「だから朝から変な調子だったのか」とやけにさっぱりした顔を破顔させ、部長はテキパキと欠席届を引き出しから取り出して必要な欄に記入をしていく。後は本人のサインと欠席理由を入れるだけのサービス満点の状態にしてこちらに寄越すと、「だがな?」と不意に怪訝そうな目付きになってずいと顔を近づけてくる。

 

「なんというか、あの娘はちょっと、その、小さすぎるんじゃないか?お前の趣味嗜好に文句をつけるつもりはないんだが、体格差的に兄妹にしか見えな―――」

「違う!深読みするな!」

 

 乱暴に届出書にサインをして欠席理由欄に「私用だよなんか文句あるか(privaten Gebrauch.Du hast ein Problem)」と書き殴るとバシンと机に叩きつける。たしかに、サユが幼い見た目通りの年齢に見える傍からすれば、俺が彼女に惹きつけられている様子は奇妙に映るに違いない。

 

(サユの実年齢をみんなに伝えることができれば誤解も解けるのに)

 

 内心に嘆息する。それはできない相談だった。サユのようなフレイムヘイズの存在、“歩いていけない隣の世界”の存在、それらを一般人に伝えてはならないと昨晩にサユから厳命されていた。そんなことをすれば無用な混乱を引き起こしてしまう。それに、荒唐無稽過ぎて信じてもらえるはずがない。

 

(そもそも、サユの年齢をどう定義(・・)すればいいんだ?)

 

 俺は、サユが何歳のときにテイレシアスと契約してフレイムヘイズとなったのかを聞いていない。男友だちのような気兼ねのない話しやすさからして、年齢はある程度近しいのだろうという推測しか出来ない。

 そんな彼女の本当の年齢は、果たして何歳なのだろう?いや、何歳の時の年齢が()()()()()()()()()なのだろう。契約して成長が止まったときの年齢なのか、それとも実年齢なのか。フレイムヘイズはどちらを自身の年齢だと自認しているのか。

 

(女性に歳を尋ねるのは失礼って話だし……)

 

 気にはなったけれど、母さんから口酸っぱく聞かされた言葉が俺の欲求を寸前で制したことで、際どい質問は躊躇われた。もしかしたら、成長が止まっていることはサユにとってデリケートな問題なのかもしれないと思った。彼女は異能の戦士(フレイムヘイズ)というにはとても人間らしい感覚の持ち主だから、人間をやめてしまった事実を突き付けられるのは嫌がるかもしれない。

 

(もっとクラスメイトや部活の仲間と会話をすればよかったのか?)

 

 今になって思う。俺は、他人とのやり取りを煩わしいものと切り捨てていた。でも実際は、他人と深く接した経験の少なさ故に、他者の懐にどこまで踏み込んでいいのかというさじ加減がわからないだけだった。ただの臆病者だった。だから、欲求のままに勇み足でサユのプライバシーに突っ込んで嫌われてしまうことを恐れた。一丁前に斜に構えて周囲から一歩引いていたツケがこんな風に回ってくるなんて、思いもしなかった。取り逃してはいけないものを取り逃していたことに気付いたような、モヤモヤとした後悔が募る。

 

「……おい、なんだよ、その顔は」

「いいや、別に?」

 

 目の前の部長たちから珍しいものを見る目で眺められていることを察して、自分の表情が羞恥で赤くなったり気落ちして曇ったりとコロコロ変化していることを自覚した。自分の顔面の筋肉がこんなに機敏に動くなんて初めて知った。

 だが、見た目の事実として、彼女の背丈はあまりに小さい。180を越える俺と並んだらそれこそまさに妹にしか見えない。それでも、本人によると中身は成人間近らしい。その年齢不相応な落ち着いた人となりを知らなければ、日本のフィクションマンガみたいな出鱈目事にしか捉えられない。

 

(どうして、そんなデタラメな女の子に、こんなに惹かれるんだろうか)

 

 外見と内面のギャップによるものか、サユには不思議な魅力があった。子どもなのに子どもっぽくなく、少女なのに少女っぽくない。一方で、肩肘張った大人っぽさもなく、いちいち共感を求める女っぽさもない。ほんの少しだけ年上の少年と接しているような肌なじみの良さを感じる。この柔らかな人格は、フレイムヘイズになったことで培った、特殊で豊富で複雑な人生経験の厚みによって揮発したものなのか。

 サユに対して「嫌われたくない」という感情が浮かぶのは当然だと思う。サユから愛想を尽かされることは即ち“死”を意味するからだ。けれど、俺のなかに芽生えているサユへの感情は、強者への媚びとは違う気がした。

 

(じゃあ、この感情の正体は、なんだ?)

 

 心中の己に自問して、心中の俺が自答を拒んだ。直視することを未熟な本能が拒否した。

 

「フリッツよ、お前の百面相は見ていても飽きないが、そろそろ行かないといけないんじゃないか?」

「う、うるせえな」

 

 普段なら下級生からの不遜な態度に怒りを露にするはずの部長は、なぜかいまだにニヤニヤと破顔したまま。それがこちらの心境を見透かしているように見えて無性に腹が立ち、またその何倍も恥ずかしかった。ムズムズとした痒い感覚が脚の皮膚の一枚下を走り狂い、じっとしていられなくなる。

 

「じゃ、じゃあな、ビューロー部長!」

「ああ、しっかりエスコートしてやれよ」

「うるせえうるせえうるせえ!」

 

 上擦った声で吠えると、紅潮した顔を悟られないようにさっと翻してさっさと退室する。他人に対してこんなに感情をむき出しにしたのは久しぶりだった。怒りを抱いているのに、不思議と不快なものには感じない。むしろ他者と本心で触れ合ったことに心地よさすら覚えている。

 馴れない心の揺れに戸惑いながら、さっさとサユを連れて校舎を出ようとして、

 

「メイド服の君、さてはサッカー部のマネージャー希望だろ?うちは人気だからな!」

「おい、サッカー部はもうマネージャーがたくさんいるだろ!陸上部に譲れよ!」

「そっちにはエリザちゃんがいるだろ!」

「どちらも違います。マネージャー希望じゃないです。ちょっと人を待ってるだけなので、落ち着いてください」

「「じゃあなんでメイド服を?」」

「仕様です」

「「仕様」」

 

「君、中学2年生(8グレード)でしょ?誰だよこんな可愛い妹さんを待たせてる不届き者は!」

「ボクは高校生(10グレード)です。一応」

「……ちゃんと食べてる?偏食しちゃ駄目だよ?」

「ぜ、善処します」

 

「ちっちゃくて可愛いわね〜。ねえ、よかったらこのチョコ食べる?ミルカの新製品!」

「このあと大切な用事があるので、お気持ちだけ頂き……やっぱりチョコ頂きます!」

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます!───ん〜〜!濃厚〜〜!!」

 

 人集りの中心で揉みくちゃにされるサユを見て、ズルリと盛大にずっこけた。正面にあったロッカーにド派手な体当たりをかまし、そのまま脱力してズルズルと床に突っ伏す。細めた横目で見やれば、サユが恵んでもらったミルクチョコを口いっぱいに頬張っていた。その場の全員の顔が、まるで我が子の微笑ましい様を見守る慈父慈母のようにニヤけている。

 ああ、彼女が目立つということをすっかり忘れていた。どこかに隠れていてもらうべきだった。

 

「あ、フリッツ君。やっと出てきた。待ちくたびれたよ」

 

 地に伏して頭を抱える俺に気付いたサユが、「ドイツではチョコといえばミルクチョコって本当なんだね」と唇にチョコをつけたままトコトコと駆け寄ってくる。まるで主人の帰宅に気付いた飼い犬が喜び勇んで草原を駆けて来るかのようだ。そのいじらしく健気な仕草に身悶えしたくなるような愛おしさを覚え、心拍のリズムが一段高くなった。

 サユは思春期にかけて少女が身につけるはずの用心深さをまったく欠いていて、なんだか危なっかしく見える。たしかに親しみやすいけど、女の子にしては親しみやす過ぎて、性自認の乏しさすら感じる。こんなに可愛いのに、他者との心の壁が無警戒に低すぎるのだ。フレイムヘイズとはみんなこういうものなのだろうか。

 

(どっちがボディーガードなんだか)

 

 そういったアンバランスな魅力故に、サユと接する人間の頭には“この天使のように純粋な存在を護ってあげなくては”と、切なさに似た義務感が湧き上がるのだ。俺のほうが彼女に護ってもらっているという事実を思わず忘れそうになるほどに。

 

「……君が待ち合わせてるのって、フリッツだったのか」

 

 サユに追随して屈強なスポーツマンやマネージャーたちがスクラムを組んで歩み寄ってくる。母性本能やら父性本能やらを刺激されたのか。ぞろぞろと肉の壁が大挙して迫ってくるのを見て、高鳴っていた心拍は急激に冷めた。

 

「な、なんだよ」

 

 さっと身体のバネを使って立ち上がり、常の仏頂面で奴らと対峙する。何故だろう、背の高さはそれほど変わらないはずなのに、遙か頭上から見下ろされるようなプレッシャーを肌で感じる。通常の3倍のプレッシャーだ。こいつらも、サユの纏う“護ってあげたくなるオーラ”にやられてしまったらしい。情けない奴らめ。だが、一応感謝してやろう。コイツらがいなかったら、衝動に任せて胸のなかに飛び込んでくる飼い犬にするようにサユをギュッと抱き締めてしまっていただろうから。

 

「はい、そうです。フリッツ君とは同じクラスで、とってもお世話になってます」

「ほお~、あの(・・)フリッツがお世話をねぇ」

 

 邪気のないサユの返答に、砲丸投げを得意とする同学年の男がさも怪しい者を咎める視線を投げかけてくる。四方八方から突き刺さる追求の目にあっと言う間に射止められ、俺はクモの巣に引っかかった虫のように身動きがとれなくなった。何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな居心地の悪さを覚えないといけないのか。たちの悪い警察官(ポリツィスト)の取り調べを受けたらこんな感じの心象を抱くのかと漠然と思う。無意識に「私がやりました」と口走って両手を頭の後ろで組みそうだ。

 

「ところで、フリッツとの“とても大切な用事”って、なに?」

 

 先ほどとは別の女子生徒がこちらを射貫く視線はそのままに、サユに優しく問いかける。その顔は、まさに“娘に悪い虫がつくのを嫌がる母親”といった感じだ。どいつもこいつも、保護欲求が噴火寸前なのが見て取れた。ちょっとした刺激で爆発しそうなくらいに。急にとてつもなく嫌な予感が膨れ上がり、全身から嫌な汗がぶわっと吹き出す。

 

(頼むから空気を読んでくれ、サユ。無難な回答をしてくれ!)

 

 懸命な願いを込めた俺の眼力をさらりと受け止め、サユはくすりと大人っぽい余裕を含んで微笑む。よかった、君ならわかってくれると信じて、

 

「ええ、これから二人でデートに行くんです♪」

「じゃあなお前ら!!!」

 

 空気と俺の期待を真っ二つに切り捨てたサユの細腰を片腕で抱きかかえ、俊足を駆使してその場から遁走した。一拍遅れて「待てー!」という怒声と複数の靴音が廊下に響き渡る。待てと言われて待つ奴がいるか!

 愛娘についた悪い虫を叩き潰そうと鬼気迫る様子で追走してくる連中から逃れようと、校門に向かって一直線に突っ走る。女の子の腰に腕を回して持ち上げたまま走るなんて初めてのハンデだった。そのせいで連中との距離が縮まらない。いくらサユが軽すぎるほど軽いとはいえ、人間一人を抱えながら追いつかれないだけマシなはずだ。こんな時こそ義足の宝具が発動して欲しいのに、まったく反応してくれないのはどういうわけなのか。今、明らかに命の危機だぞ、父さん!

 ハアハアと息を上げる俺の腕の中で、出し抜けに、クスクスと愛嬌を感じる忍び笑いが発せられた。見下ろせば、荷物のように俺に抱きかかえられたままのサユがイタズラっぽい微笑を浮かべていた。まさか、さっきの台詞は。

 

「ごめん、ちょっとイジワルだったかな?でも、あんまり待たせるもんだから、つい」

「やれやれ、お前もいい性格になってきたな、サユ。これでは小僧が、ぷっくく、気の毒ではないかぶははは!いいぞもっとやれ!」

「お前らいい性格してるよまったく!!」

 

 ワザとだったのか!前言撤回、この娘は天使じゃなくて小悪魔だ!!

 

 

 

 

「フリッツはやっぱり凄いな」

 

 スタタタタと一切の乱れのないストライド走法の軽快な足音が校門に向かってフェードアウトしていく。いかに小柄とはいえ、人間を担いでいながら出来るような走りではない。それを横耳で聞きながら、陸上部のクラブ長を務めるリヒャルト・ビューローは、つい先ほど提出されたばかりの欠席届に晴れやかな顔で受認サインを記していた。その笑顔の理由は、調和を乱す問題児とようやく打ち解けるキッカケを掴めたことだけではない。

 欠席届を然るべき棚に仕舞うと、先ほどから一向に手が動く気配のない新人マネージャーに苦笑を浮かべて話しかける。

 

「廊下での一幕、聞いてたか?」

「聞いてました。あの娘、デートだって。フリッツさんとデートだって!」

「違う違う。そっちじゃなくてだな」

 

 よほど“お目当ての先輩”をとられたのが悔しいのか、小さい頃から気弱で自分の影に隠れてばかりだった彼女が珍しく声を荒げている。その変化も好ましいものだと感じながら、リヒャルトはニヤリと満足気に笑う。

 

「あいつ、初めて俺のことを“ビューロー部長”って呼んだんだ。今まで素っ気なく“部長”だけだったのにな。俺の前であんなに表情をころころ変えたことも今までなかった。こんなことは初めてだ」

「あっ!た、たしかに……」

「良い傾向に変わってきたと思わないか?あいつは変わろうとしている。あの黒髪の娘が良い影響を与えたのかも知れない」

「ううっ」

 

 容姿は優れているのに昔から病弱だったせいで自分に自信を持てない、根っからの引っ込み思案な“妹”にハッパをかけるために、少しトーンを落とした深刻そうな声で囁く。気の毒だが、これも発破をかけてやるためだ。

 

「これは大変な強敵が現れたんじゃないか、エリザ」

「───ッッ、ちょっと用事を思い出したので帰ります!後はリヒャルト兄さんがやっておいてください!!」

「ああ、行け行け。『思い立ったが吉日(Heute ist die beste Zeit)』とも言うし───って、もういないか。あいつ、実は短距離走の才能があるんじゃないか?」

 

 処理途中の書類もそのままに弾丸と化して部室を飛び出していった妹、エリーザベト・ビューローの慌てっぷりに口元をにんまりと綻ばせ、リヒャルトは彼女が残していった書類にも丁寧に目を通し始める。

 正直、リヒャルトは、人付き合いが極端に悪いフリッツの人柄を信用していなかった。ただ走るために走っているような、やさぐれて生意気な下級生だとしか思っていなかった。他者との間の堀を埋めることを頑なに拒絶するフリッツは、エリザの恋慕に気づく様子もなく、彼女をぞんざいに扱った。その愛想のなさがまたビューローの怒りを買って、彼は妹の恋路を応援する気にはなれず、むしろ拒否感を抱いていた。だが、今日のフリッツの変化を見て、その心配も薄れた。

 

「うちのエースとやっと仲良くなれそうだ」

 

 満足気に独りごちる。なんのことはない。ちゃんと話をすれば、フリッツもまた一人の人間なのだとわかった。義足という他者との違いを必要以上に気にして、他人に対して素直になれないだけなのだ。不器用で、そんな不器用な自分を持て余す、成長途中の少年なのだ。隔絶した世界の人間のようだったフリッツが、地続きで繋がる同じ世界の人間だとわかって、リヒャルトは嬉しかった。

 

「さて、どうする、我が妹よ」

 

 そんなフリッツのどこに惹かれたのかは今もってさっぱりわからないが、エリザは彼に首ったけだ。本人曰く、「ギムナジウムの広い校舎で迷ったときに道を教えてくれて一目惚れした」らしい。兄としては他にもっと相応しい男がいるのではと言いたいが、人の恋路を邪魔するのは無粋というものだ。ああいう無口でニヒルな異性に恋する年頃なのかもしれない。なにはともあれ、引っ込み思案だったエリザが自分から挑戦するというのはリヒャルトが知る限り初めてのことなので、温かく見守るつもりだった。黒髪の同級生という恋のライバルが現れたことであの娘がより活発的になれば、兄としては嬉しい限りである。

 

「うっす、お疲れ様です、ビューロー部長。すんません、フリッツの野郎を取り逃がしました。マーカスが足が遅いせいですよ」

「うるせえよ、ドム。ったく、あの野郎、女の子を抱えてるのに俺らより足が速いってどうなってんだよ。朝のことがあったから、体調が悪いのかと心配して損したぜ。なあ、コール」

「ああ、その通りだぜ。愛想も感情もない冷徹野郎かと思ってたが、隅に置けないもんだな。あいつも人の子ってことか」

「まあ、我が部にはアイドルのエリザーベトちゃんがいるわけだし、ベアード様は気にしな──あれ?エリザちゃんは?」

「さっき出ていったぞ」

「「「「……俺らも今日は休みます」」」」

「よし、お前ら全員表に出ろ(ドーンハンマーだ)!!」




恥ずかしながら、『シンジのシンジによるシンジのための補完』を先日初めて読みました。ありゃあ、神作ですわ。誰が勝てるというのか、あの完成度に。
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