<今日、1時間目、英語>
僕は今、シャナが初めてこのクラスにやってきた日のことを漫然と思い出していた。
そんな彼にとって、果たして今日は厄日なのか、それとも吉日なのだろうか。
「シャナ、そんな言い方はないよ」
「サユ、うるさい。コイツが間違った文法を教えるのが悪いのよ。お前、よくそれで教師を名乗れるわね」
「はい……」
「誰にだって間違いはあるよ。それにこの文法でも通じることは通じるでしょう。ですよね、先生」
「はい……!」
どっちが大人なのやら。ぶっ叩かれては沈み落ち、掬い上げられては浮き上がり、またぶっ叩かれて凹む。海面で浮き沈みするブイの如く少女二人のあいだで精神的上下を繰り返す教師を、僕らはなんとも言えない顔で眺めている。あっちから責められてはしょんぼりと頭を下げ、こっちからフォローされては涙ぐんで手を合わせて拝む。容赦のない不動明王と慈悲深い弥勒菩薩に挟まれた一般人とはかくもこのように情けないことになるのだろうか。子どもからしたら、大人の醜態はなんとも見るに忍びない。同情でホロリと涙してしまいそうだ。
と、隣からツンツンと肘で突かれる。
「シャナちゃんの双子の妹っていうからてっきり性格も似てるのかと思ってたけど、なんだか正反対だね。坂井くん、なんでか知ってる?」
「あー、離れて暮らしてた時期があるらしいから、そのせいなのかな……?」
「なんとなーくなんだけど、坂井くんに雰囲気が似てるんだよねえ」
「あ、あはは、まっさかぁ。それはサユに失礼だよ、あはは」
小声で囁かれた緒形さんの質問に声を上擦らせながらやっとのことで返事をする。たどたどしい応えにも納得してくれたらしい緒形さんが「ふーん」と何度か頷いて再び視線を前に向けるのを横目に、僕はホッと内心に息をついた。昨日の今日では
「
「はい……」
「人間はそうやって成長していくんだよ。みんながシャナみたいに優れているわけじゃないんだから。ね、先生」
「はい……!」
僕たちクラスメイトを置き去りに、壇上にてブイの浮き沈みはまだ続いている。シャナがいつものように厳しい口調で教師の不備を反論の余地もなく突いたかと思えば、隣のサユが優しくフォローする。サユは、設定では同い年となっているけれど、本当は僕らより年上だ。というわけで、シャナほど飛び抜けてはいなくとも教師の過怠を見抜くくらいの学力は備えているらしい。かつて
(もしも本当にシャナに双子の姉妹がいたら、こんな感じだったのかな)
などと想像すると、なんだかこの光景も微笑ましく思えた。精いっぱいに背伸びした小学生が意地の張り合いをしているようにも見える。美少女二人のじゃれ合いは見事に絵になるな、と思わずフフッと忍び笑いを漏らしてしまったが、本人たちには聞こえなかっただろうか。
「とにかく、この教師は他人に教えを垂れる資格はないわ」
「はい……」
「そんなこと言ったら可哀想だよ。先生だって一生懸命やってるんだから」
「はい……!」
まあ、今日はムチ役だけでなくアメ役もいるのだから、教師当人にとってはいつもより救いはあるのではなかろうか。日頃から辛辣な正論で詰め寄ってくるシャナとまったく同じ姿の少女から優しく慰めてもらえるのだから、精神的ダメージも少しは減るのでは、なんて呑気に分析する。こうして対岸の火事を見ているような気分でいられるのは、普段は自分がやっているシャナのフォローをサユが代わってくれているからだ。
(やっぱり、中身は僕なんだなぁ)
よくよく観察してみると、サユの口調の端々には自分と通じる部分もあった。緒方さんが野生の勘で気づいたのも頷ける。声質は同じだけど、抑揚が若干違う。身振り手振りも、一方は機敏かつ堂に入っていて、一方は控えめで穏やか。中身が
「悠二、お前ならこの問題の答えをどう導くの?」
「悠二さん、どうですか?」
うっすら笑顔を浮かべていたのがまずかった。二人がジロリと僕を睨む。シャナは「なにを偉そうに他人事みたいな顔してんのよ」と仏頂面だし、サユも口元に微笑みは貼り付けていても目は笑っていない。「この状況を作ったのはお前だろなにのんびりしてるんだ」という苦情がありありと滲んで見えた。こういう時、シャナと同じ顔をしているというのは恐ろしい。迫力が単純に2倍になっているからだ。我知らずゴクリと息を呑んだのは僕だけではない。“悠二”の
「さ、坂井!あとは任せた!」
「先生嘘でしょう!?」
矛先が自分から僕に逸れたことを察知した英語教師は、「今日はもう自習だ」と唐突に声を上げると、なんとスタコラサッサだぜと言わんばかりにその場から大股で遁走を開始した。驚いて立ち上がった僕に、背中越しに情けないセリフを投げてくる。
「逃げるんだよォ!サカーイーッ!!どけーッヤジ馬どもーッ!!」
「わあ~!!なんだこの先生ー!!」
保身のために生徒を売るとはなんて奴だ、同情して損した!吸血鬼にでも食われてしまえ!
ピシャリと後ろ手に閉じられた教室の扉を呆然と見る僕の両肩に、むんずと鷹の爪を思わせる指が食い込む。細くて小さいのに、肩の骨を握り潰されそうな握力の指が、二人分。振り返らなくても、背後の二人がどんな表情をしているのかわかった。激しくささくれだっている圧力がレーダー波のように背中にビシビシ当たっているからだ。さっきまで壇上にいたのに、どうやって一瞬で僕の背後に出現したのか。僕が知らぬうちに瞬間移動の自在法でも習得したのか。
「ずいぶんと余裕そうじゃない、悠二」
「ぜひ悠二さんのお手前を拝見したいです」
膝裏、学生服越しにシャナのスカートとサユのドレススカートが触れているのがわかる。密着した女の子に囁かれて耳たぶをコショコショとくすぐられるなんて、思春期の男からしたらご褒美だろう。低められたささやき声にこれでもかというほどの
「誰だよ!さっきから執拗に僕の左尻と右尻を離ればなれにしようとする奴は!左尻彦と右尻姫が可哀想だろ───……あ、ごめん、吉田さん。急に叫んだりして」
そうだ、後ろの席は吉田さんだった。にこりとタンポポが咲くように朗らかに微笑む吉田さんに頭を下げる。彼女がそんなことをするはずがない。僕の尻を物理的に仲違いさせたところで吉田さんに得るものがあるわけでもないのだから。彼女からどことなく闇を感じるのはきっと気のせいに違いない。ズルズルと壇上まで引きずられる自身の行く末から目を逸らそうとする本能が見せた詮の無い幻だったのだろう。尻の痛みは幻痛にしてはやけにはっきりと尾を引いたが。
結局、僕は自身が英語教科をまったくの苦手としていたことをトラウマになるほど再認識させられる羽目になった。シャナの手によって黒板に鮮やかに踊る流麗な筆記体を前に、ひたすらに「わかりませんごめんなさい」を繰り返すばかりだった。当然、サユはフォローしてくれず、逆に「そんな問題も解けないんですかぁ」とメスガキムーヴで煽るばかりだった。メロンパンで都合よく操られた意趣返しなのか、なにやら楽しそうな気配すら感じる。「
「悠二!集中!!」
「はい……」
「悠二さん、そこ間違ってますよ」
「はい……」
夜のテンションが多分に含まれていますし、勢いで書いてます。自分が楽しく書ければいいかな、という開き直りもあります。いいじゃないか、創作ってのは自由なんだよ!