あの夏の続きへ   作:テービット

1 / 18
前編(1)~二人の朝~

 一年前の春。

 

 駅から彼女の家へと続くあの坂道。

 彼女と再会した瞬間を、僕は今も夢に見る。

 息を呑むほど美しかった彼女の姿は、僕の瞼の裏に焼き付いたまま、生涯色褪せは

しないだろう。

 

 曇天と溶け合うような鈍色の水に沈む街を見下ろし、ひたむきに祈る華奢な少女。

途方も無い重圧に耐えているようでもあり、独りで立ち向かっているようでもあった。

 フードを被っていた所為だろうか、彼女の立ち姿がいつの日か鑑賞した美術絵画と

重なって見えた。人生を終えるその時まで誰かの墓前で祈りを捧げる修道女が題材の、

幻想的で儚く、非現実的な美しさと気品が漂わせる絵だったと思う。

 けれど、僕へと目掛けて雪崩れ込んで着たその光景は、紛れも無い現実だ。

 今までの人生で目にした、どんな光景をも上回る清廉さと儚い美しさ、そして心を

抉る悲壮さに、僕はひたすら圧倒された。

 

 あの時、僕と彼女の周りには桜が咲いていた。

 七分咲きの桜は一生懸命に咲いていて既に美しい。けれど、本領はまだこれから。

満開に花開けばもっと綺麗になる。それなのに、健気に咲く桜を、空と地面が鉛の牢

獄のように一体になって取り囲んで、桜の花を雨で打ち据えて花弁を毟り取っていく。

 清廉で儚く美しい命が、またしても、少しずつ削り取られていく。

 あの時で彼女は、僕の顔を見た途端に、すぐに笑顔になってくれた。でも、今でも、

マセた笑顔で僕をからかいながら、自分も泣いていたことは誤魔化し通そうとする。

 

 このままなんて駄目だ。

 彼女にこんな理不尽な仕打ちをする世界も、そこに彼女を追い込んだ愚か者も、

このままにしておいて良い訳が無い。

 

 天空を龍や魚が蠢き、雲上に草原が広がる。あんな現実離れした光景を目の当たり

にした後では、僕の手で今更になって東京の天候を変えるとか、そんな大それたこと

が出来るとは思えない。それこそ雲を掴むような話だろう。

 それでも――――

 僕の手で、彼女の心が二度とあんな風に追い込まれないようにする。いつも平穏に

笑って過ごして欲しい。それを実現することが、彼女の"大丈夫"になるということで

はないだろうか。

 

 けれど、依然として、目標は遥か彼方だ。

 今でも、陽菜が何かを祈る姿を見かけると、身体が強張る。なるべく動揺と畏縮を

出さないようにしているけれど、果たして僕は、どれだけ上手く隠せているのだろう。

 

 

**********

 

 

 言葉で表し切れないあらゆる感情が私の中に流れ込み続けて、好きな人への気持ち

とか、楽しかった日々の記憶とか、大切なものを私の意識ごと押し流そうとする。

 元々そこに在る私の心とかき混ぜて、マーブル模様を描こうとするみたいに、私と

いう器から溢れ出すのも構わずに、他の人の意志や感情を無理矢理注ぎ込む。私とい

う器は破裂するか溶かされるかして、いずれは消えて無くなるのが分かる。

 そうやって、徐々にだけど確実に、私の自我は溶かされて、広がっていく。透けて

見えるくらいに意識が薄く展ばされて、遠くへと広げられていく私は、そんな自分自

身の変化さえ、他人事のようにしか感じ取れない。

 ――――やがて、そんな感覚さえもが、空に染み渡るように消えていく――――

 

 十五歳の誕生日から二年半の間、空の彼岸へと連れ去られたあの時の夢を毎晩のよ

うに見た。あの時の感覚は夢の外にまで追い縋ってきて、足首を掴んで引き摺り込も

うとするかのように、目覚めた後の私の心に見えない爪痕を残し続けた。

 私は、毎朝怯えていた。二段ベッドの上で寝ている弟の凪に心配かけないように、

肩に爪を食い込ませて身体を抱きかかえていたけれど、それでは震えは止まらない。

 結局、いつも彼の記憶に頼って、どうにか抑え込んでいた。

 溶けていった私を、かき集めるようにして呼び戻してくれた彼の力強い声と、温か

くて見た目よりもがっしりした手。帆高がくれた感覚一つ一つを必死に思い出して、

震えが止まるまでじっと耐えた。

 去年までは、毎日そうやって朝を迎えた。

 

 私は今朝も六時に目覚めた。

 今は四月の下旬。相変わらず、この季節にしては肌寒い日が続く。けれど、寝起き

の私は今日もぬくい。隣で寝ている帆高のお陰だ。

 一年前に彼と再会して、その数ヶ月後に同棲を始めた。それからは、二人で一緒に

寝るようになった。……初めて肌を重ねたのは、去年の彼の誕生日。

 

 私は半分寝ぼけながら、半年くらい前から続けている習慣を今朝も始めた。

 目が覚めたら、まず布団から手を出して、外気に当てて少し冷やす。手が冷えてき

たら、彼が眠ってる間も抱きしめてくれる私の体に触れる。すると、少しずつだけど

確実に温まっていく手が、彼の体がくれる熱をはっきりと感じさせてくれる。これを

何度か繰り返してから、締め括りにそっと彼の体に触れる。

 こうすると、帆高の存在が全身に染み込む気がして、安心して朝を迎えられる。

 私が溶けてなくなっていく、あの夢はパタリと止んだ。

 

 

**********

 

 

 帆高を起さないように注意して、何より先に、枕元のネックレスを手に取る。

 これは、去年の夏の私の誕生日に、彼にプロポーズされた時の贈り物だ。四年前ま

でつけていた母の形見のチョーカーはあの日に壊れてしまったけれど、今はこの婚約

ネックレスが私のお守り。帆高は、このペアネックレスを選ぶのに、かなり時間をか

けて悩んだらしい。

 ネックレスを渡されたあの時のことは、今でもくっきりと頭に浮かぶ。

 

『凄く綺麗!ありがとう!ペアってことはこれ、結婚ネックレスなのかな』

 

『っええぇっっ!婚約用もペアじゃないの!?あぁ、どうしよう買い直す金!?結婚

式の交換用って普通指輪だろ。こんな大事な物を俺、間違えて――』

 

『でもでも、ネックレスって指輪みたく傷つき難いし、ナイスチョイス!』

 

『……大丈夫だよ陽菜さん。結婚指輪もばっちり似合うの買うから!!だから、もう

少しだけ待ってて!!』

 

 同棲したての頃に「結婚式を挙げたい」と私が一度呟いたのをしっかり聞いて覚え

てた彼は、胸が一杯になって私が少しだけ涙声になっていたのを、結婚式に差し障り

が出かねなくて落ち込んだと早とちりした。

 親子行進の最中に距離が離れた親鳥を必死に追うカルガモの子供みたいにあたふた

しながら私を安心させようとする彼を、逆に私が宥めた時のお互いの言葉は、一字一

句全て思い出せる。

 その時の私は、一層強まる愛おしさと同時に、全く違う性質の安堵感と罪悪感が

燻っていた。

 私が失くしてしまった、私にとって唯一の婚約指輪への未練は、ネックレスを身に

付けている今でも、頭から離れずに留まり続けている。

 

 

**********

 

 

 服を着て、身支度を整えた私は、朝食の準備に取り掛かる。

 エプロンの腰紐を結びながら、彼がまだ穏やかな寝息を立てているのを確認した。

昨日は彼も折角早めに床に入れたのに、お互いに気分を抑え切れずに盛り上がって、

結局二人して寝付く時間が遅くなってしまった。

 せめて、少しでも長く休んでいて欲しい。

 

 食材を冷蔵庫から取り出し、手始めにサラダが出来たところで、まだ眠たげな声が

私の耳をくすぐった。

 

「おはよう、陽菜さん」

 

「おはよ。もう少しで準備するからちょっと待ってね」

 

「玉子焼きと味噌汁?なら玉子焼きは僕がやるよ」

 

「お寝坊さんは危ないから。座って待ってなさい」

 

 本当はぎりぎりまで寝かせてあげたかったのに。彼は律儀に起き出して、テキパキ

と準備を始める。

 

「顔も洗ったし、もうやれるよ。任せて」

 

「ほんと?早めに寝られたのなんて久々でしょ。無理しちゃ駄目だよ。……まぁ、寝

る時は案外元気だったけど」

 

「あ、あれは、その……折角だから頑張ったっていうかむしろ疲れてると――」

 

「はいはいそこまで」

 私は思わず、頬をほんのり赤くした彼の唇を、人指し指で押さえた。

 帆高の反応を見たくてついからかってしまうことは多いけど、彼は無意識的に結構

鋭くボールを打ち返して来る時がある。このままだと、私も夢中になってしまった昨

晩の恥かしいことまで、はっきりと思い出させられそうだ。

 

 昨日は一週間ぶりに、同じ時間に一緒に寝られた。でも、半年くらい前から、帆高

はバイトの後もずっと遅くまで課題に追われて、新学期が始まってからこの一ヶ月は

特に忙しくしている。私が先に寝てしまうことがほとんどだ。

 同棲を始めて以来、ずっと同じベッドで寝ている。なのに、彼が何時に寝たかさえ

分からない日も多いのが情けなくて悔しい。

 

「とにかく、お陰で元気いっぱいだから。やらせて欲しいんだ」

 

「もうっ。…それじゃあ、お言葉に甘えまして。味付けは帆高に任せるね」

 私がお願いすると、帆高は元気な足取りで私の隣に立った。

 休ませてあげたいのはやまやまだけど、正直なところ、台所に一緒に立てるこの時

間を毎朝心待ちにしている。二人で楽器を演奏するように、調理の音がリズムよく部

屋に響く。

 

「あっ、ひっくり返すのはもう少し後が良いよ。」

 

「分かった。――よっと。陽菜さん、これでどうだろ。」

 

「うんっ!凄い。綺麗に出来たじゃん。」

 お世辞でなく、思わず感嘆の声をあげた。

 一人暮らしの頃の帆高はインスタント食品で済ませがちで、私が遊びに来る度に空

の容器の山を作ってたけど、一緒に料理するようになってから、腕前はどんどん上達

している。

 帆高と過ごす時間の中でも、この料理の時間は、思わず台所から走り出したくなる

ほど楽しい。それに、少しでも彼の役に立てる幸福感が、心臓から爪先まで、とくん

とくんと脈動に乗って身体中を巡る。

 

 

**********

 

 

 料理が出来上がってからは、二人で作った朝食を一緒にとりながら、私達は今日の

予定を確認し合う。これも私達の日課だ。

 

「今日も大学の後バイトに直行するけど、帰りは夜十時近くになると思う」

 

「今日のバイト、賄い出ないんでしょ?私、お夕飯作って待ってるね」

 

「遅い時間に食べるのはやっぱ駄目だって。僕を待たなくて良いから先食べてて」

 

「平気だよ。今日はオフィスで大事な商談があるからバイトは午前までって須賀さん

に言われてるし。図書館で勉強してるとそんなお腹すかないからさ」

 

 帆高は大学に入って半年後に将来の目標を見つけて、それに向けて毎日必死に頑張

っている。この間見せて貰った成績表も、ほとんどがS。高校で言う所のオール五に

近かった。

 それに比べて私は―――――大学受験に失敗してしまった。

 帆高は自分の勉強とバイトの合間の時間を割いて私の勉強を見てくれたのに、私は

期待に応えられなかった。とんでもなく情けなくて申し訳なくて、泣くしか出来なか

った私を、帆高は強く強く抱きしめてくれた。

 もう、あんなミスをして、彼に迷惑はかけたくない。

 

 

**********

 

 

 朝食後に外出の準備を整えて、二人で玄関から出ようとした時、

 

「悪い陽菜さん。スマホの充電器取って来るから、ちょっと待ってて」

 帆高はそう言い放つと、急いで家の中に駆けて行った。

 

「うん、そこに居るね」

 私は帆高の足音に負けないように大きめな声で返事をした。

 

 玄関口に先に出た私の目の前で扉が閉まり、帆高の足音が遠のいていく。

 今日は小雨。雲が少し厚いからこれから雨は強まるかも知れないけど、今のところ

そう悪くない天気だ。

 私は帆高を待つ間、両手の指を組んで祈り始める。私が祈りを始めたのはお母さん

が死んですぐ後だから、あと数ヶ月で丸々五年になるだろうか。

 

「陽菜さん、お待たせ」

 

 扉が開くと全く同時に、彼の元気な声が聞こえて、私は祈りを止めた。

 さぁ、時間だ。今日も頑張ろう。

 

 

**********

 

 

 陽菜と一緒にアパートの外に足を踏み出したその時、

 

「きゃっ!?」

 

「陽菜さんっ!」

 僕は咄嗟に陽菜の前に躍り出て、突如空から降り注いだ豪雨と突風の風除けになる。

頭上のエントランスの軒に守られたお陰で、大粒の水の礫は僕らの眼前を通り過ぎて、

寸刻の後に風と雨は嘘のように止んだ。

 

「陽菜さん、大丈夫?」

 

「うん。ありがとう帆高。濡れずに済んだのはラッキーだったかな」

 

「まあ、コレに遭って幸運と言えるか微妙だけどね」

 軒や塀、階段が作る大小様々な滝の音で半ば会話を遮ぎられながら、僕達は即席の

瀑布が収束するのを眺めていた。

 

 この一過性の降水現象はダウンバーストというらしい。

 大学で得た情報によれば、減衰期に入った積乱雲の中で降水粒子と空気の摩擦によ

る下降気流が生じて、突風や大量の降水を誘発するのだ。

 四年前の夏から秋にかけて、僕が陽菜を彼岸から連れ戻した直後から数ヶ月間は、

巨大な滝壺もかくやという有様だったらしい。今の東京では、大抵は局所的な数秒程

度の土砂降りで済んでいるし、それにさえ滅多に遭遇することもない。

 とは言え、運悪く直撃を受ければ濡れ鼠確定だ。デザイン重視の折り畳み傘だと壊

れてしまうだろう。規模やタイミング次第では、車のフロントガラスに亀裂が入るこ

とさえあるという。

 骨折までは行かなくても巻き込まれて怪我人が出たり、運悪く遭遇した車やバイク

がハンドル操作を誤って交通事故を起こす例も、年に数件程度発生していると報道さ

れてもいる。

 

 ――これもまた、四年前の僕達の選択の結果なのだろうか。

 

「久々に凄いの着たねー」

 

「防水性能の高い奴に買い替えて正解だったな」

 

 聞こえてきた声のする方向に目をやると、ベビーカーを押す若い夫婦らしき男女が

こちらへと歩いて来るのが見えた。レインコートで全身すっぽり覆っていても、二人

の仲睦まじさは簡単に見て取れる。ベビーカーの方からは、透明なレインカバーが太

鼓の皮になってポコポコ音を立てているのが、微かだけれどここまで聞こえる。最近

のベビーカーのカバーは雨対策の為に頑丈で分厚くなってるから、遠目には中は見え

ない。カバーが激しく揺れている辺り、随分と元気な赤ちゃんが乗っているようだ。

 

 ふと陽菜の方を見ると、ベビーカーを追う彼女の目は明らかに輝きが増している。

こちらに気付かず目の前を横切りつつある夫婦が押すベビーカーを、彼女は覗き込む

ように見つめている。

 ベビーカーが通過しようとしたその時、陽菜は眩い笑顔を浮かべた。僕には見えな

かったけれど、赤ちゃんが何かしらの反応を返したのだろうか。

 陽菜を見つめる僕と、後ろ髪を引かれるようにベビーカーを見続ける彼女は、その

ままアパートの玄関先でしばらく立ち尽くしていた。

 僕は軽く首を振ってから、そっと掌を拭って、陽菜に手を差し出す。

 

「陽菜さん、そろそろ行こう」

僕は傘を差してから、空いた方の手を陽菜に差し出した。

 

「……うん、行こっか」

 僕の方に振り向いた陽菜は差し出した手を取って、指をしっかり絡め合ってから、

僕の差す傘の中にぴょんと飛び込んできた。

 

 

**********

 

 

 それぞれの目的地へ向かう道中、今日の予定の再確認だとか、次のデートに行くか

とか、冷蔵庫の中身の賞味期限とか、とりとめのない会話を続けながらも、僕は先ほ

どの陽菜の様子を思い返している。

 陽菜が婚約の先――婚姻とか、子供とか――を求めているのは、数ヶ月前から何と

なくは気付いている。彼女がその想いを押し隠そうとしていることも。

 

 服の下で揺れるネックレスが、急かす子猫の爪のように僕の胸を掻き続ける。

 去年の陽菜の誕生日――彼女にプロポーズした日――を思い出す度に、快哉と自己

嫌悪が同時に湧き上がる。

 彼女との関係をちゃんとした形にしたくて、ネックレスを渡した――その筈だった

――あの日、僕が感じたのは彼女がプロポーズを無事受け入れてくれたことへの無上

の歓喜だけではなかった。

 僕は、自分の失敗で、結婚式だとかより具体的な進行が遠ざかったことに対して、

心のどこかで安堵していた。

 心の準備がちゃんと出来ていない癖に陽菜を繋ぎ止めておきたくて、焦って婚約の

品を贈ったのかと自分の不甲斐無さを痛感して、喉に苦いものが込み上げて来る。

 

 僕だって、彼女とならちゃんと結婚して、いずれは子供を儲けたい。

 でも――――実際問題、準備が何一つ、全然出来ていない。

 僕はまだ、あらゆる意味で、彼女の"大丈夫"にはなれていない。

 

 まず、進路の確立と就職、それに収入の安定は必要だろう。そして、僕は去年の秋、

向かうべき目標を見つけた。

 この目標の実現こそが、僕達二人にとって必要なことだと思う。

 それに陽菜だって、来年春に大学受験に再挑戦するのだ。

 

 

**********

 

 

「それじゃ陽菜さん。また夜にね。須賀さん達にもよろしく」

 

「じゃあ、行ってきます。帆高も気を付けてね」

 バサッと音を立てて彼女の黄色い傘を勢いよく天に向けて開き、無機質なコンクリ

ートに大きな黄色い花が咲いた。

 

 大通りの十字路、国分寺駅と大学への分岐点に着いた。僕達はここで一旦別れて、

それぞれの目的地に向かう。

 僕が時折振り返ると、陽菜は少しずつ移動しながらもこちらに向かって手を振って

来るから、僕も手を振り返す。互いの姿が見えなくなるまでそんなやり取りを何度か

繰り返して、陽菜の姿が隠れたところで、僕は速足で歩き始めた。

 一人になった後も――いや、一人だからこそ、僕は彼女のことを、深く潜るように

じっくりと考え込む。

 

 陽菜が春の受験で不合格に終わったのは、決して彼女の努力や実力が不足してたん

じゃない。一緒に生活する中で、彼女の受験勉強を見てきた僕が一番分かっている。

 

 大学時代の自分は、四年前のラブホテルでのあの約束を果たすために備えることだ

け考えていれば良かったから、存分に勉強に専念出来る環境だった。

 でも、陽菜の置かれていた環境は違う。生活費を可能な限り自分で稼ぐ為、去年の

夏まで、バイトを連日夜までやっていたのだ。その負担は半端じゃない。

 須賀さんは生活費の全面的な援助を提案してくれたようだけれど、須賀さんが娘さ

んを引き取る件が本格的に進行中だったのもあって、陽菜が固辞したから尚更だ。

 多感な小学校高学年の時期に、弟の凪を転校させるのは避けたい。今の学校で友達

と一緒に卒業させてあげたい。陽菜がそう希望して、かなり高額な彼の私立小学校の

授業料を既に援助して貰っていたのも関係しているだろう。

 今も田端のアパートに住んでいる夏美さんが、四年前から半同居という形で家賃の

支払いを分担してくれているが、それが無かったらもっと大変だったと思う。

 

 案の定、陽菜は大学に行かずに働く気だった。けれど、夏美さん達が、

『今のとこ、卒業してから二年間までは、給付金が出て学費も払わずに済むんだしさ。

夢とか目標とか今のところ特に無いなら、とりあえずはやりたいこと探す為に行った

方が良いって』

 そう強く勧めたのもあって、陽菜は出遅れながらも受験勉強を開始した。

 

 陽菜はずっと、家計を支えようとして、ずっと無理のし通しだった。

 中学生が年齢を偽って深夜までバイトするなんて、彼女に出会うまで想像すらした

ことなかった。。高校生になってからは、陽菜にも仲の良い友達が出来て、卒業後の

今も付き合いが続いている。だけど、ずっとバイト漬けだったから、高校時代もその

子達と気軽に遊ぶことすらままならなかったようだ。

 陽菜が所謂キャンパスライフを今度こそ謳歌出来るなら、それがベストなんじゃな

いかと思う。

 

 

**********

 

 

 ほどなくして、大学に到着した僕は、いつもの様に正門を潜る。

 遠目には生い茂る木々が雨避けになりそうに見えるが、実際には葉の上を伝って水

滴を収束する天然の漏斗が、学生に文字通りの冷や水を浴びせるエリアだ。去年の今

頃は、今と比べて暇だったことに加えて、陽菜との再会による充足感のお陰で、ここ

を通る度に多少なりとも誇らしさや希望を感じたものだった。

 だが、今となっては、この場所に対しては忌々しさや恨めしさの方が勝る。

 正門から更に少し進んだ先、閑散としたケヤキ並木の前で、僕は立ち止まった。

 この場所だ。

 今年の春、陽菜と一緒にここに貼り出された大学受験の合格発表を見た。

 受験直後から彼女は不安そうではあったから、不合格という結果は想定していた。

けれど、気落ちする彼女を見ると、視界が滲んでくる程に胸を締め付けられた。

 

 彼女は、行くなら僕と同じ大学が良いということで、去年の夏に東京農工大の受験

を決めた。僕も、時間に余裕が出来た時には陽菜の勉強を手伝った。

 

 受験勉強中も、彼女は本当に頑張ってきたんだ。明日に支障を来すから先に寝てて

くれ、と僕が言っても、

『私も受験勉強やらなきゃだし』

なんて言ったり、何かしらの理由をつけて一緒に起きていた。

 彼女は勉強しながら、折を見ては傍で課題を片付けている僕に夜食を用意したり、

お茶を入れたり、常に僕を労った。バイトに勉強、僕の世話でへとへとに疲れ切って

隣で座ったまま転寝する彼女をベッドに運んだことも、何度あっただろうか。

 模試でも合格圏内の結果を出せていたのに不合格だったのは、試験直前にも根を詰

め過ぎて、僕が寝てしまった後にも必死に勉強して、風邪を引いたからだ。

 僕が、もっと強く止めるべきだった。

 僕の方こそ、彼女をもっと労わるべきだった。

 不合格発表を見届けた僕達は無言のまま二人で帰途についた。そして、陽菜は帰宅

するなり、不合格になったことを僕に謝ってきた。

 

『ごめん。本当に、ごめんなさい。沢山付き合ってくれたのに、無駄にしちゃった』

ゴホゴホと咳をしながら、大粒の涙を目尻に溜めた彼女はひたすら謝罪を口にした。

 

 陽菜は泣き方が下手だ。

 ラブホテルで初めて泣くのを見た時や、陽菜を彼岸から連れ戻した時、そして去年

の再会の時のことを思い出す度、無力感で胃が捩じ上げられて、漏れ出た澱か何かが

自分の中に沈殿していく気がする。

 涙が溢れて零れるまで必死に堪えて、目を開けて歯を食いしばり、唇をかみしめる。

そうして、ただただひたすらに、嗚咽を押し殺そうとする。自分が悲しいのを、泣い

ているのを、他の人間に悟らないようにと必死に我慢するのが癖になってしまったの

だろう。

 あの時、僕に詫びて泣き続ける彼女を前にした時も、彼女の悲しみを絞り出すよう

に強く抱きしめ続けることしか出来なかった。

 せめて、僕の前では、気の赴くままに感情を吐き出して、声を上げなら思う存分

泣けるようになって欲しいし、そういう支えになりたい。

 そのくらいの甲斐性が無くて、どうして陽菜の婚約者を名乗れる?

 

 掛け声と共にジョギングをする一団が眼前を通過し始めて、僕は我に返った。

 どの学生も息を弾ませて苦しそうなのに、動作はキビキビとしてどこか誇らしげだ。

ああやって僕とは違う形で大学生活を謳歌する人達を見ると、自分で決めたこととは

言え、食い扶持を稼ぐのに多忙な身としては少しばかり羨ましい。

 その反面、雨の中でも一歩一歩力強く走る姿を見ていると、胸が少しだけ熱くなる。

 

「……行こう」

 

 僕も、前に進もう。

 この大学で、対東研究室入りを、何としても達成しなければならない。

 

 講義室に到着すると、僕よりも先に数人程が着席していた。僕に挨拶してくる声に

対しては、生返事にならない程度に挨拶を返す。だが、正直言って彼らに構っている

場合じゃない。

 僕は着席して講義の準備を進めながら、去年の九月、人生の目標を見つけた時のこ

とを思い出していた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。