見慣れない白い壁が見える。
これ、本当に壁か?……照明があるから、天井か。
肌の感触からすると、ベッドか何かで寝てるみたいな感じだ。聞き覚えのある規則
的な電子音――バイタル音って奴か?――もする。
自分は横になっていると理解して身を起そうとすると、腰と腕に走る痛みが身体を
縛り付けた。とはいえ、動かせない程の痛みではない。無理に捻らなければ、起きる
ことは出来そうだ。経験上、骨折やそれに準ずる酷い状態ではないと見当がつく。
それと同時に、僕の身に――彼女に何が起きたのかを思い出した。
陽菜は?
陽菜はどうなった?
急いで探そうと、慌てて首を横に向けて――
「陽菜っ!?」
僕の手を握って座っている、彼女の顔が目に飛び込んできた。
僕の心に巻き付いて、細切れに千切らんばかりに締め上げていた糸が解けていく。
呆然とした彼女のつぶらな瞳はこれ以上無く大きく開いて潤みを増し、涙が煌いて
溢れ出した。既に乾いていたのだろう幾重もの涙の筋の隣に、更に筋が増えていく。
車が迫っていたあの時、無我夢中で彼女の身体を引っ張って投げ飛ばしてしまった。
こんな華奢な子が受け身なんて取れないだろうに。
「陽菜さん、大丈夫?怪我は無い?」
彼女に尋ねながら身を起そうとしたその瞬間、
「帆高っ!!」
彼女に抱き着かれて制止された。彼女は誰かが連れ去るのを阻止するかのように僕
の頭を抱え込んで、僕の名前を呼びながら泣き崩れた。
「帆高!帆高……良かった。……良かった。私、どうなるか不安で……怖くて、怖く
て――」
陽菜にしがみ付かれて気が付いた。彼女は全身ズブ濡れだ。僕がどれだけ寝ていた
のか分からないけれど、外は暗くなっている。大分時間は経っただろう。六月上旬と
はいえ今の東京は肌寒い。このままじゃ身体を壊してしまう。
「陽菜、早く着替えないと。風邪引いちゃうよ」
僕は彼女に立ち上がるよう促すけれど、それでも、彼女は僕を離そうとしない。
溜まりに溜まった感情を全て洗い流そうとするように、彼女は声を上げて泣きじゃ
くる。鼻と耳を赤くして、小さい女の子みたいだ。
僕に被さる陽菜の涙が、頬に当たる。
その感触が、雲海の中を落ちながら必死に彼女を追いかけた、あの空で見た涙を思
い出させた。
あの時も、陽菜は泣き声を噛み殺そうとしている風で、僕は心配だった。けれど、
零れ出た涙が宙を駆け上がるようにして僕の頬を伝い、冷え切った体を滾らせる熱を
くれた。そして、そのすぐ後には満面の笑みで僕を迎え入れてくれた。
だからこそ、あの涙は陽菜の喜びの証なのだと、僕は信じることが出来た。
でも今は、彼女の瞳から滴り落ちて頬を伝う熱い涙の軌跡から、焼くような痛みを
感じる。
陽菜が感情をむき出しにして、思う存分泣けるようになるのを、ずっと心待ちにし
ていた。
だけど、ようやく叶えたのがこんな形だなんて。情けなくてもどかしい。
「もう、大丈夫。僕はちゃんとここに居るよ」
僕はそう繰り返しなら、陽菜が泣き止むまで、彼女の肩を出来る限り優しく抱いて、
背中と頭をさすり続けた。
突然、部屋の引き戸が勢いよく開いた。
「帆高!目が覚めたの!?」
外から僕達の声が漏れ聞こえたのか。凪が鋭い第一声を放って飛び込んできた。
凪は、僕と、しがみつくように抱き着く陽菜を見て、
「この馬鹿、心配させんじゃねぇよ」
険しい表情を緩めた。端正な容貌の彼が真剣な表情すると、場の空気により一層の
緊迫感をもたらすだけに、張り詰めた空気が急速に弛緩していく。
「心配かけてごめん。センパイ」
「いい加減、その呼び方止めろってば。やっぱまだまだ、義兄さんとは呼べないな。
……看護師さん呼んで来るから、ちょっと待ってて」
凪は呆れ気味にそう言うと、紙袋を病室の収納棚の上に置いて、部屋の扉をそっと
閉めて退室した。紙袋の音と袋の嵩の割に軽快な彼の挙動から察するに、着替えの服
を持ってきてくれたのだろう。
ナースコールがあるから呼びに行く必要は無いと言いかけたけれど、静かに部屋を
出て行った様子を思い出し、陽菜と僕の為に時間を作ってくれたのだろうと気付いた。
それから数分ほど、僕は陽菜の背中をさすり続けていた。陽菜のすんすんとすすり
泣く声も、大分小さくなってきている。さっき凪が着たことに気付いて、少しだけ恥
かしかったのかも知れない。
陽菜が落ち着いてきて僕も安心したけれど、扉の外から徐々に近付く複数の足音が
聞こえて、そこはかとなく名残惜しさも感じた。
**********
その後、担当医の先生や、駆けつけて代理人として相手のドライバーや警官と話を
してくれた須賀さんから、現状と今後の予定について話を聞いた。
僕の症状は思ったよりも遥かに軽かった。
混乱したとは言え、さほど制限速度を超過してなかったドライバーが直前で必死に
ブレーキを踏み込み、木々が多少なりともクッションになったお陰で、車は大分減速
した。そして、陽菜を後ろへ放り出した姿勢のまま、僕の身体はボンネットに乗り
上げた。
諸々の要因が重なり、轢かれた時の衝撃がほぼ緩和されて骨折一つせずに済んだ。
目立つのは脳震盪と前腕と腰の打撲だけだ。包帯で湿布を固定するのも、腕だけで
済んでいる。
『まあ、日頃の行いが良かったのかも知れねえな』
須賀さんは冗談めかして言っていた。
事故に遭った直後で素直に肯定し辛いけれど、陽菜も絆創膏だけで済んだのだから、
確かにそう言えるかも知れない。
搬送中の検査の所見では脳へのダメージは診られず、数時間で意識は回復、直前の
記憶の喪失も無いから、恐らくは問題無いとのことだ。それでも、念の為に入院して
一晩経過を見てから、明日改めて検査をするという。検査で異常が無ければ明日中に
退院出来る。
そんな程度ならこの点滴は大袈裟じゃないかとは思うものの、過労気味と判断され
たのもあって外せない。個室に泊まると料金も高いだろうから、せめて一般病棟に移
りたいけれど、とにかく今は休めと皆に説得された。
陽菜は一晩付き添うと申し出てくれたけれど、今となっては憔悴しきった彼女の方
こそ休養が必要に見える。明日検査の後に一緒に帰ろうと宥めて、この日は夏美さん
と凪に陽菜を半ば引きずるようにして連れて行って貰って、彼女は田端の実家に泊ま
ることになった。
一通り説明を聞き終えて皆が去った直後、消灯時間を迎えてやることも無い僕は、
仕方なく寝ることにした。
耳に慣れてきた医療機器の無機質な電子音だけが聞こえる。
陽菜の寝息と同じなのは、規則的なリズムがあることだけだ。なまじ共通点がある
所為で、彼女がこの場に居ないことを強く意識させて、何だか神経を逆撫でされる。
この五日間、彼女と離れてよく耐えられたものだと我ながら感心する。それどころ
か、一人で寝るのが当然だと思ってた同棲以前の生活が嘘のようだ。
焦燥や自責の念が図らずも僕の意識と集中力を掻き乱し続けていたお陰かも知れ
ない。彼女と別れてからの二年半も、彼女に会いたいという欲求を封じ込めること出
来たのも、彼女に何を伝えるべきか迷い続けたからだと痛感する。
陽菜に伝えなきゃいけないことがはっきりした今は、彼女が恋しくてたまらない。
病院のベッドで布団を被ってるのではなく、拘束されてグリルでじっくり炙られてい
る気分だ。
陽菜と早く話したい。悠長に寝ていないで飛び出して、彼女と家に帰りたい。
いっそ、この点滴を引き千切って田端のアパートまで走ろうか。……いや、この時
間帯に水上バスの便は無い。流石にこの体調で泳いで行くことも出来ない。
そんなことを、冗談ではなく切実に考え続けている。
どうにか寝ようと寝返りを打ちかけて、ビリッと感電のような痛みが走る。
安静にしているうちに痛みは治まったけれど、余計に意識は冴えてしまって、否応
なく死というものについて考えさせられる。
車が目前に迫るあの光景が頭を過り、それに釣られるようにして、ある映像が頭に
浮かんだ。
確か、中学時代の修学旅行中だったか。
同級生と一緒に見た、大昔のテレビドラマ特集で紹介されたワンシーンだ。
そのシーンの内容は、交通事故で恋人を失って以来、異性との交際を避ける女性に、
主人公がプロポーズしようとした。何をしたかと言えば、走行中のトラックの正面に
突っ込んでいってギリギリ轢かれずに済んだのを見せつけ、「自分は死なない。貴方
が好きだから」と叫ぶ。そんな感じだった。
同級生達はこのドラマの主人公はとんでもなく迷惑な馬鹿だと哂った。
その一方、僕はと言えば、この主人公が嫌いにはなれなかった。同級生の意見に
反論の余地は無いものの、好きになった人を元気付けたくて、自分の想いの強さを
伝えたくて、必死になるその姿に格好良さすら感じてしまった。
だけど、現実の僕の人生は、ドラマとは違う。
僕の場合、幸運が重なって軽傷で済んだだけだ。少しボタンの掛け違えがあれば、
今頃病室ではなく、霊安室に居ただろう。
思えば、四年前東京に着た時だって、死と隣り合わせだったと言えるかも知れない。
フェリーで須賀さんに助けられずに、海に投げ出されていたら?
陽菜をチンピラから助けた時、拳銃が本当に玩具で相手の怒りを余計に煽っただけ
だったら?もしくは整備不良の銃が暴発したら?
天気の巫女の陽菜はまだしも、何の取柄も無い僕が空の彼岸に飛び込んで、よくも
無事に帰って来られたものだ。
いつでも、どこにでも、命を落として、陽菜と引き離される可能性は転がっている。
彼女は僕を愛している。僕が死ねば悲嘆に暮れるだろう。今日の様子を見るまでも
なく、それは――今のところは――確かだと己惚れられる。
でも、僕はいずれ死ぬ。……だったら、どうする?
彼女が悲しまないように、彼女の幸福を願って早々に身を引く?僕よりもっと相応
しい男に譲る?
嫌だ。死んでも嫌だ。
陽菜に嫌悪されて、彼女の心が決定的に離れてしまったら――それだって、諦めき
れないし、諦めたくない。まして、僕が彼女から離れる?有り得ない。
意識はどんどん冴えていく。電子音に並走するような自分の鼓動を強く感じる。
彼女とどう在りたいか。真っ暗な天井を眺めながら、ただひたすら、考える。
はっきりしてるのは、二つだけ。
一秒でも長く、陽菜と一緒に居たい。
どれだけ浅ましかろうと、僕の想いを伝えないまま彼女と別れるなんて真っ平だ。
**********
眠ろうにも眠れないと思っていたけれど、気付けば僕の意識は途絶えて、僕はまた
朝を迎えた。自分自身で思っていた以上に疲れていたらしい。
午前中から始まったCTやレントゲン、血液等の必要な検査は想像以上にすんなりと終わって、すぐに退院の手続きにかかった。
『念の為にしばらく入院させろってゴネて、重傷アピールしてがっぽり慰謝料ふんだ
くってやれよ』
凪は拳を振り上げながらそんなことを言っていたけど、そんな真似は当たり屋みた
いで気が引ける。それに、須賀さんが代理人として引き続き交渉してくれて、幸いに
もこちらの望む方向で話がまとまった。請求総額を低く抑えたのが幸いして、僕の治
療費や故障したスマホ、衣類の代金も相手方が全額弁償してくれるということだ。
下手にゴネてこれ以上話を拗らせる必要も無い。元通りになるというなら、それ
以上の慰謝料なんて、どうでも良い。
今はとにかく、陽菜と二人になりたかった。