いつも以上に薄雲に阻まれた暗い夕暮れだけれど、足元は何とか見える。
玄関の扉を開けた時には、ほつれた縄伝いに枯れた古井戸の底へと降りようとする
気分だったけれど、玄関先で靴を脱ぐうちに、少しずつ目が暗闇に慣れてきた。
恐らく、こうしているとお互いをより感じられるからだろうか。僕達は部屋の照明
を点ける気にはならず、僕の袖を掴んでいる陽菜と一緒に、恐る恐る部屋の中を進む。
とりあえず、窓のカーテンを開けてみると、見慣れた部屋が戻ってきた。
当然ながら仄暗い室内だけど、足場が確保出来たし、すぐ後ろの陽菜の顔も見える。
今は、それで十分だ。
僕達は、持ち物の片付けもせずに荷物を打ちやり、床に座って壁際のベッドに背を
預ける。
隣に寄り添う陽菜は、僕の肩にちょこんと頭を寄せてきた。そして、左腕を僕の
右腕にすっと絡ませて、貼った湿布の上から僕の腕に、もう一方の手を優しく添える。
講義で合宿に参加した経験なんて、前にも何度かある。僕達が何日か別々に夜を
過ごしたのは、同棲を始めた後でも、別に珍しくでもない。
だけど、今日は、僕と陽菜の二人だけのこの空間を、この一秒一秒を、じっくり味
わいたい気分だ。
**********
そうして、帰って座り込んでから、結構な時間が経過したと思う。
家に着いた時にはまだ辛うじて明るかった空は、今ではすっかり暗い。
普段なら街灯の光が部屋に差し込むけれど、今は機能していない。一週間くらい前
から点滅し出していたから、そのまま故障して消灯してもおかしくはなかった。今日
その時を迎えたようだ。
カタカタと窓が風に煽られる音からして、風が強い夜なのだろう。時折雲の隙間か
ら差し込む月明かりが仄かに部屋を照らしたかと思えば、唐突に暗闇に覆われ、また
照らし出す。そうやって、月光は入退室を繰り返している。
時折、彼女が指を絡めた僕の手を握って着て、僕はそれに応えて握り返す。
そうやって、ただ、お互いの体温と感触を確かめ合っている。
風音の合間を縫うようにして、彼女の息遣いが僕の鼓膜を揺らす。
このまま、ずっとこうして居たい。
今、僕の喉まで出かかっているこの話題を始めてしまえば、僕達の関係が決定的に
変わる予感がする。僕が彼女に言わなきゃいけないことは既に決まっている。
伝えたい、伝えなきゃいけないことがある。なのに、この期に及んでまだ躊躇して
しまう。
いざという時にヘタレる性分は変わらないようだ。
僕は、気合を入れる積りで長く息を吐き出し、何回か深呼吸した。
「そろそろ時間だ。湿布を替えないと。」
流石にもう、意を決して話すべき時だ。その前にやるべきことを済ませよう。
そう考えて、僕が立ち上がろうとすると、
「待って!……私にやらせて。」
陽菜が腕を絡めていた方の手を強く握って、僕を引き止めた。
腕を差し出すと、慎重ながらも流れるように陽菜は包帯を解いていった。僕だけで
なく、彼女も、何か話を切り出そうとずっと考えているのだろう。その安定感のある
手つきに反して、その瞳は不安げに揺れている。
湿布を剥がすと患部は青アザになっていた。
予想の範疇だし、治りかけの証拠だろうと考える僕に対して、陽菜はショックを
受けた様子でまじまじと観察して、その手が止まった。
何秒間かそのままだったろうか。陽菜は作業を再開して、手際良く湿布を貼って包
帯で固定し終えると、僕の目を覗き込んで聞いてきた。
「ねぇ、痛い?」
「別に平気――痛っ」
「「……ふふっ」」
僕と同じく、僕達の二度目の邂逅時、廃ビルでのやり取りを思い出したのだろう。
懐かしさを覚えて、僕達から自然と笑みが零れた。が、
「ふっ――――。うぅぅ…………」
陽菜の笑みは悲しそうに歪み、目からぽろぽろと涙がこぼれ出した。
僕は驚いて腰を浮かそうとしたけれど、それより早く、彼女が僕に抱き着いてきた。
「帆高、私……私ね」
再び寄りかかったベッドのスプリングを背に感じながら、僕は腕の中に抱きしめる
陽菜の次の言葉を待つ。
「私……我儘言っちゃダメだってずっとずっと思ってた。けど、ごめんなさい。もう、
耐えられない。」
声を詰まらせながらも、彼女は喉から絞り出すようにして僕に語り続ける。
「また、私が何かあって消えちゃったら……。貴方に何かあったら、急にもう二度と
会えなくなったらって。毎日、毎日、怖い。
私は、帆高と今すぐに家族になりたい!結婚して、子供も欲しい。……出来れば
結婚式も挙げたいけど、お金が足りないなら我慢する。君が居なくなっても、子供が
居てくれれば私は生きていける。
……でも、君がどう思ってるのか分からなくて。こんな話して困らせたくないし、
嫌わるのも嫌で、どうしたら良いのか分からなくなって――」
昨日の経験のお陰でようやく理解した。
雨さえ降っていれば、陽菜はきっと無事で居てくれている。そんな漠然とした安心
感に寄り掛って過ごしてきた僕とは違う。
予告も無く唐突に、大切な人との時間をもがれて奪い去られるかも分からない事態。
それは陽菜にとって、ずっと前から追い縋るように迫り続けて、鎌首をもたげている
現実なんだ。
幼い時に経験した父親の蒸発。
病気で憔悴していく様子を一部始終見守り、逝ってしまった母親。
どうすれば凪と離れ離れにならずに済むかも分からず、怯えながら年齢を偽って夜
中も必死に働く日々。
晴れを願う度に、徐々に透けていく自分の身体。
独り連れて行かれた、幻想的だが寂寥感に支配された檻の無い牢獄みたいな空の上。
そこでは、記憶はおろか自我すらも無理矢理薄められて、じわじわと奪われていった。
同棲したての頃、悪夢に叩き起こされた陽菜からそう聞いたことがある。
いつどこで大切な人を失うか怯えながら、耐えて耐えて耐え抜いて、自分を押し殺
して隠し通してきたのだろう。
歯を噛み締めているうちに口の中に血の味が広がってきた。陽菜が家庭への憧れを
知っていながら、どんな想いでそれを抱いていたか、気付こうとさえしなかった。
――でも、今はもう違う。
「ごめん、陽菜さん。僕はこれまでずっと自分に言い訳してきた。まだ早い、準備が
出来てないって。そうやって、見るべきものまでちゃんと見て来なかった。
お願いだ。君が何を考えて、思ってきたのか、何を望んでたのか、もっと聞かせて。
自分が何を見落としてきたのか、ちゃんと知りたいんだ」
陽菜の嗚咽が少し収まってきた。僕は、彼女がまた話せるようになるまでゆっくり
背中をさすりながら、彼女の言葉を待つ。
「昨日、私……嘘ついた。私にもね、こうだと良いなって夢はあるんだ」
後ろめたさを滲ませながら、彼女は口を開いた。
「あのね、私と帆高で、いつかお店を開きたいの。出来るなら、カフェか食堂をやり
たい。そこで、二人で作った料理を出して、私達の料理でお客さんが笑顔になるのを
見たいなって。
……難しいのも分かってる。私だって、飲食店でバイトしてるもん」
ぽつりぽつりと、陽菜は自分の夢を口にする。
開店から三年間経営していられる飲食店は、全体の半分以下。過半数はそれまでに
淘汰されるって話も聞く。確かに、実現は困難だろうとは思う。
だけど、陽菜と一緒に料理をして、それで笑顔になってくれる人達を一緒に眺めな
がら、陽菜やその人達と同じ時を過ごす。それがもし実現出来たなら、どんなに充実
した人生になるだろう。
「素敵な夢じゃんか!何で今まで教えてくれなかったの?」
思わず彼女に迫り、話の腰を折ってしまった。
明るく無邪気な夢の内容に反して、それを語る彼女は孤独さすら漂わせている。
自分がしでかした酷い悪戯を告白して許しを乞う子供のような彼女を見つめるうち、
言いようもなく胸が苦しくなった。
「こんな自分勝手なこと、言える訳無いじゃない。
雨が降り続ける東京の様子を見て、君、ずっと苦しんでる。それくらい分かるよ。
それだけじゃない。私が年上だって嘘ついて君を傷つけたり、私を連れ戻す為に警察
にまで捕まって……」
陽菜の瞳がまた潤んで、大きく揺れ始める。
「君が私を選んでくれたあの瞬間、今まで生きてて良かったって思った。私がいっぱ
い辛い目に遭わせた後でも、頑張って凄い大学に受かったのに、私なんかの所に戻っ
てきてくれた。……これ以上、邪魔したり我儘言うなんて、出来ないよ」
それは違う。これが我儘なんかである訳が無い。陽菜が邪魔?意味が分からない。
僕は堪らなくなって、陽菜の両肩を掴み、抱き着く彼女を少しだけ身体から離した。
「違う、違うよ。陽菜さん。僕は君が思ってるような人間じゃない」
少しびっくりしている様子の彼女に僕ははっきりと告げる。
今までも、陽菜に対して愛の告白はしてきた。プロポーズだってしてるんだ。好き
だとか愛してるとか、僕のありきたりな拙い言葉でも、その度に彼女は喜んで受け
入れてくれた。
けれど、互いの感情を確かめ合ってはいても、過去についてどう思っていたかにつ
いての話題は互いに敢えて避けてきた。
「俺が頑張れるのは、陽菜さん――君が居るからだ」
僕は陽菜の瞳を覗き込んで、彼女の奥底に届けようと想いの丈を吐き出す。
今こそ、僕の想いをちゃんと伝えるべきだ。
「もしも家出せずに普通に上京したり、あの嵐の夜、三人で逃げずにフェリーに乗っ
て独りで島に帰ったとしても、碌な人生を送れてなかったよ。
ただ島以外のどこかに逃げ出したいからって、大して興味の無い分野の専門学校に
でも滑り込んで、志望も無くフリーターとかになって――そんな風に、ふらふら漂う
みたいに生きてたと思う。四年前にしても、割の良いバイトで適当に食い繋げれば、
何となく東京に住み着ければ、それで良い、としか考えてなかったしね」
「だけど、帆高は今だって、研究で社会の役に立とうって立派な目標を持って、一生
懸命努力して前に進んでるじゃない。
君は出会った時から、一人で努力して、目標目掛けて頑張れる人だったよ。晴れ女
のビジネスだって、あんな風に私にプレゼンして依頼サイトまで立ち上げて、凄いな
って思ってた。……私なんて――」
僕は頭を振って答える。
「自分を見つめ直して、何を目指して生きるか、どうしたいのか必死に考えたのも、
不安になっても勉強を頑張り続けられたのも、陽菜さんと一緒に居たいからだ。晴れ
女の依頼サイトの立ち上げだって、自分の為だったら、あんなに必死にはなれなかっ
たよ。
君が年下だと知った時は確かにショックだった。けどね、僕は自分の不甲斐なさを
自覚出来たから、奮い立って走り続ける力が湧いた」
僕が田端の陽菜の家に初めてお邪魔して、昼食を御馳走になった時を思い出す。
お互いの事情に深く踏み込めば、あの心地良い空間は壊れてしまうかも知れない。
それを怖れて、一緒に過ごせる時間を繋ぎ止めるために、お互いの事情や過去に踏み
込もうとしなかった。
僕は、線路を走りながら散々後悔したあの時から、まだ成長出来ていなかった。
だから、今日こそは、口から一言一言に魂を込める積りで陽菜に告げる。
「俺に努力を重ねて将来を切り開く力があるとすれば、それは陽菜さんがくれたんだ。何度でも言うよ。僕の生きる力――勇気も愛も全部くれた君と人生を分け合いたい。
君とじゃなきゃ意味が無いんだ。」
陽菜の顔が夕日のような紅色に染まっていくのが、暗い部屋の中でも分かる。
僕がプロポーズした時よりも驚いている気さえする。
しかし――――
これ以上話を進めれば、かつて見られた東京の夕日みたいに、陽菜はもう二度と、
こんな表情を僕に見せてくれなくなるかも知れない。
「それにね、社会の役に立つ立派な目標を持つ……なんて、そんなまともな人間じゃ
ないよ。僕は……本当に救えない奴だ」
陽菜の僕に対する信頼と情愛を改めて知り、また臆病風に吹かれている。
僕の本性を曝け出せば、彼女に幻滅されて心は離れてしまうかも知れない。でも、
彼女が本心を語ってくれたのに、自分だけ隠して逃げるなんて出来ない。
「何にも知らないで晴れを願って君を苦しめる奴らが、雨を降らせ続けて君を悩ませ
る天気が、許せなかった。でも……何より許せない屑は、僕だ」
それまで少し照れていた彼女の表情が怪訝そうに曇り、僕は総毛立ちながらも、
何とか話を続ける。
「君と出会えたあの夏、晴れ女の仕事を提案して、君の役に立てたなんて誇らしく
思ってた。実際は横でただ見てるだけで、何もしてなかった癖にさ。そうやって、
負担も何もかも君に全部背負わせて、身体が透けていくのを隠してたあの頃の君の
気持ちなんて、考えもしなかった。
その挙句、どんな世界になろうが君と生きたいって願ったのに、世界の変わりよう
を目の当たりにする度に、まだ気後れしてる。何があろうが、僕さえ居れば大丈夫だ
って君が思える。そういう男になろうって誓ったのに……。」
姿勢を正した彼女は微かに差し込む月明かりの影に入り込んで、表情が見えなくな
った。僅か数十センチ程度の距離の差なのに、陽菜が恐ろしく遠くへと去ってしまっ
た気がする。
「雨の影響を一番受けるものが、一切影響を受けなくなったら――」
声が萎んでいくけれど、僕は伝えなきゃいけない。
胃がよじれていくような感覚を自分の首根っこに爪を立てて誤魔化して、無理矢理
声を絞り出す。
「もう誰も――君でさえも――空が、天気どうとか、気にしなくなるんじゃないか。
そうなれば、僕は思うままに、君と家族になって、僕らの子供と一緒に大手を振って
歩ける。僕は今とても幸せだって、誰に気兼ねすることもなく叫ぶことだって出来
るんじゃないかって、思った。
天候に左右されない農業がもたらす未来って奴を突き付けて、君が前から僕に抱き
続けてるかも知れない不満とか怒りとか、今雨の下で苦しんでる人達も苦悩も、それ
でまとめてチャラに出来る。そんな可能性に縋ってた」
自分でも意識しないうちに、僕は片手で頭を抱えていた。
彼女の目をしっかり見つめて、視線を外さずに語ろうと決めていたのに、それすら
守れていない。
「晴れとか雨とかは、他の奴らにとってどうでも良い世界になった。僕がそういう
世界にしてやった。だから君も忘れろ。僕が君に晴れ女をやらせて、君を死の淵に
追いやった事実も、ヘラヘラ笑って見てた僕が君に与えた痛みも苦しみも、全てを
無かったことにしろ。
そういう、ふざけた考え方だ。こんなの、自分の願望を押し付けるただの暴力だ。
みっともないなんてもんじゃない……そんな屑の癖に、君の夫になろうだとか君の
子供が欲しいとか、妄想をしてたんだ。」
とうとう、全部吐き出してしまった。
僕のことを愛して称賛すらしてくれる陽菜に対して、反吐さながらの性根をぶち
まけた。
「本当に最悪だ。こんな恥知らず、君にとっての"大丈夫"である筈が無い」
陽菜が細く長く、息を吐く音が聞こえる。
彼女は、何を考えているのだろう。月が翳った今、彼女の姿もほとんど見えない。
消えて無くなりたくなる悔悟と、それでも彼女を抱きしめたいなんて、厚かましい
欲求に挟まれている今の僕は、彼女の目にはどれだけ醜く映っているのだろう。
情けなく項垂れる僕の肩が、いきなりぐいっと強く引き寄せられた。
急に首がガクンと振れて思わず目を見張った僕の視界から、陽菜が消えていた。
「やっぱ、出会った時と同じ。私の思ってる通りの人だ」
彼女の優しい声と香りに包まれて、頭を締め付けていた絶望感が不意に緩んだ。
「そうやって、何でも背負い込んで泣き出しちゃう、繊細なとこ。責任感が強いとこ。
優しいとこ。私が君を好きな理由リストに入ってんの、知らないでしょ。
帆高はさ、真面目過ぎるんだよ。全然恥かしくなんてない。真面目に考えて、
考え過ぎて、思い詰めて、疲れちゃってるだけよ」
身体を柔らかく、それでいて強く包む温かさと、頭を撫でる優しい掌の感触で、
陽菜に抱きしめられていると気付いた。
彼女は僕の頭を撫でながら、ゆっくりと、穏やかに僕の中で凝り固まったしこりを
解すように語りかける。
「それにね、私に大学で勉強したことを教えてくれる時、確かに、辛いことからよう
やく楽になれるって顔はしてたよ?でも、充実してるって感じの時だってあった。
きっとさ、ただ逃げ込んでただけじゃないよ。沢山悩んで埋もれて、まだ気付いて
ないだけ。きっと、帆高が本当に好きなことも、勉強してきたことの中にあるんじゃ
ないかな」
長い髪を梳くように僕の頭を最後に一撫でした陽菜は、僕を抱きしめる腕を緩めて
から顔を少し離して、そのまま首に両腕を回した。
そして、陽菜は、憂いと心外さを帯びた様子で眉を顰めて、
「それに、酷い誤解してる」
僕にそう告げた。
何のことかと僕が思案し始めるより早く、彼女は目を細めて再び口を開いた。
「四年前に凪と三人で晴れ女のバイトやってた時、そりゃ、身体が透けていくのは、
怖くてたまらなかったよ。でもね、あの夏は私の人生で一番キラキラ輝いて見えた」
僕の頬に陽菜が手を当てる。彼女の手の温かさが、僕の中の凍り付いた何かを溶か
しているのだろうか。堪えていた涙は雪解け水みたいに目からとめどなく流れ続ける。
「さっき、晴れ女は私に独りでやらせたって言うけど、それだって違う。
どこに行っても、お客さんの一世一代の晴れ舞台だとか、お金のかかったイベント
ばっかで、私一人じゃビビっちゃって集中して願えたか分からない。君と凪が傍に
居てくれたから、落ち着いて、晴れますようにって願えたんだよ。
皆を私の力で皆を笑顔に出来て、すぐ横に私に笑い返してくれる君が居る。最っ高
に幸せだった。」
彼女の声が、言葉が、穏やかながらも鮮烈な響きをもって、僕の中で共鳴するのを
感じる。
「私の大切な想い出のこと、あんま悪く言わないでよね」
彼女がむーっとむくれた水風船みたいな表情を作ったと思ったら、
「帆高が謝る必要なんて無いよ。辛いこともあったけど、君と過ごしたあの夏は、
私にとって大切な宝物だから」
すぐさま慈愛に満ちた柔らかい笑みに戻って、僕にそう告げた。
鳴動と化した彼女の言葉が、僕の心を熱く激しく震わせる。
彼女が僕に語り掛け、言葉の一つ一つが僕に届く度に、僕の中の想い出を覆って
埋めていた泥や澱が崩れて取り払われていくのを感じる。
その中から、懐かしい煌きが顔を覗かせて、徐々に輝きを増していく。
陽菜が取り戻してくれたもの。
それは、僕がずっと忘れていた快晴の姿だ。
陽菜と凪と三人で過ごしたあの日々。三人で一緒に見た美麗な景色の数々。太陽の
下で喜ぶ人々の姿。晴れの下で見る陽菜の横顔を、僕が独占出来る幸福。罪悪感と焦
燥感に曇った目で見えなくなっていた、森嶋帆高という人間の核となる体験。
僕の人生の中でも最も眩かった光が蘇る。
「帆高が私を選んでくれたから、もし晴れ女の力が戻ったとしても、自分を犠牲にし
てまで晴れを願おうとは、もう絶対に思わない。その代わりにさ、私と君と私達の
子供、――凪は、まだ一緒にやってくれるかな?――家族で何か作り上げて、色んな
人達の笑顔を貰える仕事をやれたら、マジで素敵じゃん」
やはり、そうだ。この人は僕にとっての陽だまりだ。
陽菜はいつも誰かの幸せを願って、初対面の相手だろうと、一人一人の顔と目を、
真直ぐに見て生きている。目が曇って、他人はおろか、愛する人とすら真直ぐに向き
合い切れず、膝を屈しそうだった僕を暖かく包み込み、目指したい場所を照らし出す。
「私に生きる意味も、愛する人と毎日を過ごす喜びも、君が沢山教えてくれた。
私の夢を素敵だって言ってくれたけど、帆高が私に見せてくれたのよ。あの夏は、
君がくれた夢みたいな素敵な時間だったから。あの夏の続きを夢見てただけだもん」
僕は相変わらず泣いているし、部屋だってほとんど真っ暗だ。
それなのに、陽菜の顔は鮮明に見える。
彼女の肌は淡く紅潮している。季節外れの桜みたいだ。
雨に打たれ風に吹かれても、晴れでも曇りでも、控え目ながら可憐な淡紅色の花を
咲かせる。どんな苦境にあろうと、自分がその瞬間に持てる限りの美しさを放つ、
儚げで凛としたその姿に、僕は今、目を奪われている。
陽菜は絶え間なく豊かな表情をくるくる変える。それは、彼女がその瞬間を精一杯
生きているからだ。持ち得る生を謳歌する彼女の精彩が、僕を魅了して、生きる気力
を与えてくれる。
だからこそ、彼女と居ると、僕は”大丈夫”だと実感出来るんだ。
僕も、陽菜のように在りたい。
無性に陽菜が恋しくなって思わず手をとろうとした時、僕の腕にまた痛みが走り、
昨日のことを否応なく思い出させた。
恋しくて堪らなかった陽菜は、今はここに居る。
だが、それも永遠じゃない。彼女と引き離される日は、いつか必ず訪れるだろう。
それまでの間に、出来る限り近く、強く陽菜と結びついていたい。
僕達が深く愛し合ったんだという確かな証が欲しい。
煮え滾るように感情が昂ってくる。到底抑え切れないし、抑えたくない。
「陽菜さん、渡したいものがある」
きょとんとする彼女から少し離れて、僕は財布の中のお守り袋を取り出し、彼女の
前に正座する。そして、お守り袋を開いて逆さまにして、袋から飛び出たものを掌で
受け止めた。
僕の掌に収まったものを見て、彼女の目は見張った。
外の微かな月明かりに照らされて、きっとどんな高価な宝石にも負けないであろう
煌きを放つ。昨日までは彼女に存在を隠し通そうと思っていた、指輪だ。
「私の誕生日に空で無くしたって、ずっと思ってた。でも――」
どうして?
そう尋ねた筈の彼女の声は震えて、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
彼女の内で歓喜と困惑、僅かな詰問の感情がない交ぜになって、瞳を揺らしている
のが分かる。この指輪に対する彼女の想い入れの強さがひしひしと伝わって、僕に自
責の念が重くのしかかった。
「この指輪が、何も分からず知らないフリしてた、あの夏の馬鹿な僕そのものに思え
て……ずっと、渡せなかった。もっとちゃんとした指輪で過去を塗り替えなきゃ駄目
だとか、そんなことをずっとうじうじ考えてた。
でも、それは違うんだって、君のお陰でようやく分かった」
僕はこの指輪を罪の証じゃないかと思っていたけれど、傷つけないように袋に仕舞
って、常に肌身離さず持ち続けていた。捨てようとか、そんな発想は浮かびすらしな
かった。一人で悶々と悩みながら眺めていた時にも、その理由は分からなかった。
けれど、今、陽菜がはっきりと教えてくれた。
僕にとっても、この指輪とあの夏は、かけがえのない宝物だったからだ。
一緒に晴れ女の仕事であちこち巡ったあの夏の日々。
陽菜の横顔に見入って、彼女と言葉を交わす度に、僕の心は太陽光を反射する水面
さながらに煌いてた。
あの時既に、僕は陽菜に首ったけで、少しでも彼女に見合う贈り物を必死に探し求
めた。彼女の辛さを理解せず、自分の所業に対して無自覚ではあった。でも、彼女の
役に立ちたい、彼女に幸せになって欲しいと、あの時も僕は本気で願っていた。その
思いだけは本物だ。
この指輪には、天野陽菜という女性、そして彼女と一緒に過ごせた日々への感謝や
憧憬、愛慕、今の僕という男に通じる全てが詰まっている。
そして、それらは僕の中で、より一層強く大きく育まれた。
もう一度、僕の想いを全て込め直そうと力の限り指輪を握り締める。
僕が吐き出すように心境を告げると、陽菜は僕にしなだれかかった。
彼女の額が小さくこつんと音を立てて、僕の額に当たる。顔にかかる吐息が熱い。
「……ばーか。考え過ぎ」
「それ、返してくれます?大好きな人から初めて貰った、私の大っ切な宝物なんです
けど」
声に含んだ茶目っ気に似合う可憐な微笑みと共に、指輪にも勝る綺麗な光の粒が、
陽菜の双眸から零れる。
誰かの前で泣くまいと堪えたりせずに自然と流れ出た、陽菜の嬉し涙だ。
僕は無意識のうちに、指輪を握る力を少しだけ緩めて指を差し出し、花を伝う二粒
の朝露を思わせるそれらを掬い取っていた。指の上から零さないように慎重に運び、
既に指輪を包む掌中に仕舞い込んで、強く、強く、握り込む。
彼女の涙が火種になって、僕の中の神経や血管を導火線代わりに、掌から全身へと
見えない炎が駆け抜ける。
「……帆高?」
伝えたい言葉が怒涛の如く押し寄せては、飛沫のように頭の中に散らばる。速度と
音量を上げ続ける鼓動が頭の中にガンガン響き渡って、何か別の生き物が上げる一つ
の唸りと化したようだ。相応しい言葉が頭の中でまとまらない。
それでも、陽菜に伝えたい決意ははっきりしている。
彼女の手を取って、指輪を彼女の左薬指の先に据えて止める。
意志の力でどうにか混乱を捻じ伏せて、ようやくまとめた僕の想いが口から飛び出
した。
「陽菜。もう一度この指輪を受け取ってくれるなら、今度こそ、僕と結婚してくれ。
僕はすぐに婚姻届を出したい。君と一刻も早く家族になりたい。
待たせておいて勝手なこと言ってると思う。まだ未熟だとか時期尚早だとか、普通
なら言われるのも分かってる。でも、もう後悔は一切残したくない。
あの夏の続きを、その先を、陽菜と僕達の子供と一緒に作っていきたいんだ。」
やっと、陽菜に伝えたいことを言えた。
僕は、固唾を呑んで陽菜の返事を待つ。
「んーと……今度こそ、はっきり言わなきゃね」
陽菜の頬は、みるみる内に今まで以上に真っ赤に染まっていく。
枝に実って程よく育った果実が、枝から落ちる限界まで熟し切るのを早回し映像で
見ているかのようだ。
そして、彼女の薬指は力強くピンと張って、僕の指輪を受け入れてくれた。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
満開に咲き誇る花のような笑顔で、彼女は答えてくれた。
それから陽菜は、座ったまま床を突き飛ばして、僕との距離を更に詰めて、
「でさでさ、帆高。さっき"僕達の子供"って言ったけど、子供は一人だけ?男の子?
女の子が良い?」
人懐っこい少しおどけた声で、矢継ぎ早に質問してきた。
鈍い僕でも付き合いが長いから分かる。
こんな風に彼女が急におどけた調子になるのは、照れ隠ししようとしてる時だ。
普段は僕もつい照れてしまって言葉に詰まり、彼女に一本とられる。
「ほーら、どうなの?言ってみ?」
陽菜は僕に追撃を仕掛けて来る。
お姉さんぶりながら僕をからかい労わってくれる彼女と、恥かしさや安らぎの中で
彼女のペースに身を委ねる僕。勿論、彼女とのそんなやり取りも大好きだ。
だけど今は、普段と違う彼女をもっと見たいなんて悪戯心が沸き起こっているし、
何より、僕の気持ちは一滴たりとも漏らさず伝えたい。
「店を持つなら尚更、お金の問題はあるよね。けど、出来るなら三人――いや、陽菜
となら何人でも欲しい。最初はそうだな、女の子かな。陽菜みたいなお姉さんになる
と嬉しいな」
僕の顔が紅潮してるのは自覚している。陽菜のことをどういう言えた状態じゃない
だろう。
だが、お約束の流れを外されて目をまん丸にしている今の彼女ほどではないと思う。
彼女は今や、耳まで火が噴き出しそうなくらいに真っ赤だ。
「陽菜はどうなの?何人欲しい?」
僕は身を乗り出して、更に質問を投げかける。
陽菜が僕を受け入れてくれた安堵と悦喜の所為で、流石に調子に乗り過ぎてしまっただろうか。陽菜はもう湯当たりしたみたいな様子で、体調が心配になってきた。
もじもじしながら指輪を弄っていた陽菜は、
「やっぱ、帆高ってやらしい」
そう、ぽつりと呟いた。
彼女は、それがスタートの合図を言わんばかりに、僕を勢い良く抱き寄せて、口付
けをしてきた。
いまだかつてない、情熱的なキスだ。
僕達の間に存在し得る隙間を全て埋めようとするように、僕の舌目掛けて彼女の舌
が絡まってきたと思ったら、うねってその形を変える。時々、湿った音を立てる粘膜
と僕の舌を吸い、陽菜は僕の全てを味わって知り尽くそうとしている。
一秒でも長くキスを続けるためか、酸素を求めて陽菜が喘ぐ。
悩まし気な彼女の吐息が、掘削機さながらに僕の理性を猛烈な勢いで砕いて散らし、
そうして生じた僕の隙間を、陽菜への情愛と愛欲が埋めていく。
「返事は、これで許して」
溜息混じりの声を零しながら、彼女の唇が名残惜し気に離れて行った。
僕達は互いに、茹りそうなくらい上気している。彼女の熱い首筋を撫でると、今に
燃え出すんじゃないのかと疑う熱さだ。
荒い呼吸だけが室内に響く中、僕達はどちらともなく腰を上げてベッドに座った。
するりと布の擦れる音が続き、ほどなくして陽菜は一糸纏わぬ姿になった。僕もまた
それに続く。腕や腰の痛みは、蜘蛛の巣でも振り払うように脱ぎ去った服と一緒に、
ベッドの外にでも退散したようだ。
投げ捨てた僕の服が床に散らばる音が、微かな木霊になって僕の中の理性の残滓を
呼び起こした。
陽菜と違って、路上の水溜りの中で寝転がりすらした昨日からずっとシャワーすら
浴びていない。
「僕、汚れてるから先にシャワーを浴び――」
そう言いながら腰を浮かせた僕を、陽菜の手が掴んで引き戻す。
「いらない。行っちゃやだ」
彼女は飛びつくように僕に抱き着くと、締った肢体を僕の身体に擦り付けてきた。
怪我の部分は器用に避けながら、きめ細かな肌で全身を撫で回してくる。
「帆高は汚くないし、綺麗かなんてこれでもう関係無い。お願い、離れないで」
薄っすら積もった粉塵に過ぎない僕の理性と共に、ここから動こうなんて発想は、
彼女に綺麗さっぱり拭いとられてしまった。
彼女は身体を離すと、心を捻って自制心を絞り出してる表情で、腰の湿布に触れな
がら僕に寝るように促してきた。今はもう平気だと僕は身振りで主張するけれど、彼
女はゆっくりと首を横に振る。
そうして、仰向けに寝た僕に彼女が覆いかぶさり、腕で身体を支えていた状態のま
ま二人で見つめ合う。
寝そべって下から陽菜を見上げると、差し込む月明かりが彼女の身体を薄っすらと
照らし出し、白磁の肌が暗闇の中で淡く浮かび上がる。泉の水面のように揺れる彼女
の潤んだ瞳と、そこから溢れて幾筋も滴り落ちる涙の粒は、淡い光を反射して煌いて
いる。
星みたいだな、という感想が頭を過ったその瞬間、一つの光景が頭に浮かんだ。
闇夜に浮かぶ月が人の形に姿を変えて、星々を伴って、今僕の上に浮かんでいる。
陽菜がくれた、僕だけの夜空だ。
それも、かつて一番好きな景色だった、故郷の星空より断然美しい。
星に手が届きそうな夜空、なんて表現はあるけれど、この月と星は僕だけが抱きし
めることだって出来る。
陽菜はいつだって、僕の人生における一番を、軽々と超えていく。
華奢なくびれに手を添えて、爆発寸前の感情から湧き上がる力を必死で抑えながら、
僕だけの月を出来る限りゆっくりと慎重に引き寄せる。しっとりとした柔肌が僕の体
に少しずつぴったりと密着していき、僕達の距離は埋まっていく。
陽菜が僕の上に完全に寝そべった今、彼女の奥底から鼓動が響いてくる。
彼女らしい少し意地っ張りで可愛い二つの蕾や、その奥のふわふわした流線美から
は想像し得ない、荒々しい高出力エンジンを思わせる彼女の心臓の猛りが、僕の頭の
中を猛烈に掻き回す。彼女から伝わる振動が、感情の奔流を大渦へと変えて、僕はそ
の中でただただ翻弄されている。
陽菜に今の僕の感情を余すことなく伝えたいのに、然るべき言葉がまるで思い当た
らない。
"愛"という言葉が、こんなに不自由で狭苦しく感じるなんて、想像すらしなかった。
「陽菜、愛してる」だって?
そんな表現じゃ、今の僕には全然足りない。
初対面の赤の他人に面と向かって「僕は人間です。御覧の通り手足が生えてます」
なんて、したり顔で自己紹介するのと、一体何が違うんだ?
「陽菜、どうしよう。君に伝えたい言葉が溢れてるのに、どう言えば良いのか全然分
からない」
もどかしさで狂おしくなった僕は、溺れて喘ぐように陽菜に心境を訴えた。
すると、彼女は、僕の頬の傷跡を舐めるようにキスをして、
「私達、お互いに遠慮しあってたでしょ。まずはさ、ありふれた言葉でも、一つ一つ、思いついたのから伝え合おうよ。
帆高の気持ち、言葉……一つでも多く、聞かせて」
ふっと息を吹きかけるように、僕に囁きかけた。
陽菜の口調はぐずる子供をあやすようだけれど、とろんとした瞳で僕の瞳をじっと
覗き込んで、そこに映る自分自身にも言い聞かせるようにも見える。
熱気で頭がぼやけてきた僕は――多分、陽菜も――素直に思ったことを口にし始めた。
「陽菜、誰よりも愛してる。僕の人生全部をあげるから、君が欲しい」
「帆高、何よりも大好き。何もかもあげるから、私に貴方をちょうだい」
「本当に綺麗だ。僕の一番、ど真ん中にはいつだって陽菜が居る」
「お願い。もっと陽菜って呼んで。貴方に呼ばれると、今生きてる、特別幸せだって、
体中に染み込むの」
お互いの好きな所、して欲しいこと、語ろうとしたら一晩じゃ到底終わらない。
多分、二千なんて優に超えるだろう。
それに、僕も彼女も、お互い、とっくに我慢の限界を超えている。
これ以上、こうして自分を抑えながら言葉だけを交わしていると、とめどなく溢れ
る感情と言葉で溺れて、息が出来なくなりそうだ。
対面したまま寝そべる僕達は、弾かれたように抱き合って、また深く長いキスを始
めた。
溢れ出す言葉でも表現し切れない想いとのギャップを埋めようと、互いの舌で感じ
取れるものを全て舐め獲り、伝えられる限りの全て伝え尽くそうと更に奥を求め合う。
陽菜が僕にくれる感覚――より荒く淫靡さを増し続けるくぐもった吐息や、間近に
香る酔いそうな甘い匂い、蕩けそうな舌や唾液の味、ハリのある肌の瑞々しい感触
――その全てが、受容体だの神経だのと、まだるっこしい物を無視して、体内を一気
に通り過ぎ、死に物狂いで直接脳味噌を揺さ振っている気がする。
僕達の間では、堪能するなんて概念は溶け去っていた。どこかで満足して止まれる
訳が無い。更なる刺激を欲して貪るように求めあう。
一切、出し惜しみ無しだ。立ち止まって後悔するような真似は、死んでも御免だ。
僕も彼女も、自分の全てをお互いに捧げる。
このキスの後は、ありきたりな言葉でも良い。また二人の気持ちを伝え合いながら、
情を交わす方法を、思いつく限りとことん実践しよう。
夜はまだまだ長い。まずは、さっきの人生最高のキスを上回ることから始める。
陽菜となら、この先、何もかも乗り越えてみせる。