あの夏の続きへ   作:テービット

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後編(4)~夫婦の夢~

 

「事故に遭ったと聞いた時は驚いたよ。経過はどうだね。こうして見る限りは良さ

そうだが」

 

「お陰様で良好です。ご心配おかけしました」

 退院早々の打撲の悪化を見咎めた医者に生暖かい目で説教された上に、今も少々寝

不足ではある。だが、彼はそんな現状や原因を誰かに教える気は無い。陽菜以外には。

 そんな体調の帆高ではあるが、彼の声は溌剌として、一挙手一投足には気力が漲っ

ている。来客用ソファに腰掛ける姿は、弓に番えられた矢のようだ。

 

「元気な顔を見られて安心したよ。病み上がりのところに、ここまで来てくれてすま

ない」

 

「いえ、あの日僕がお話の途中で退室してしまいましたから。あの時のお詫びをしな

いとって思ってましたし」

 

「あの時は話の腰を折られてしまったからね。……ただ、君の表情を見ると、私の言

わんとしたことはもう分かって貰えているようだ」

 言いたくなければ無理に言わなくて良い。教授の目はそう言っていた。

 

 しかし、帆高は教授に首肯して口を開いた。

 

「はい、何となくですが。……僕は、研究者としての心構えがまるで出来てなかった。

そういう話だったんじゃないかと」

 帆高は、腹をくくったようなどっしりした安定感を発している。

 

「僕には、どうお話しして良いか分からない事情がありまして、その事情の所為で、

大切な人とどう生きるかちゃんと考えるのには僕なりに覚悟が必要で――でも、その

覚悟を決めるのが怖かった。

 だから、社会の役に立てば見つけられそうな、逃げ口上を探してたんだと思います。

“これだけやったんだからもう良いだろ”と主張する為、とでも言いますか。

 そうやって、研究というものを踏み台か逃走経路みたく考えてました。それを仕事

にして、大切な人とどう生きていくのか。そういうことはまともに見据えられずに、

全てとちゃんと向き合えてなかった」

 

 教授は帆高が心境を吐露する間、デスクに手を組んでじっと静観していた。

 帆高が話し終えると、彼は組んでいた手をすっと解いた。

 

「やはり、そうか。君は何かに対する償いの為に研究者の道に飛び込もうとしている

ように見えていたが、見当違いではなかったようだ」

 

 帆高は僅かにたじろぎつつも、教授を真直ぐ見据えている。

 そんな帆高をじっと見つめ返しながら、

「森嶋君、以前―――夏休みの終わり頃か――この部屋で君を初めて話した時のこと

は覚えているかな?」

 そう問いかける教授に対して、帆高は首肯した。

 

「私も君に謝らないといけない。私はあの時、君に嘘をついた。いや、隠していたこ

とがあると言うべきか。受験審査の一部を担った教員には、受験生の履歴の一部のみ

閲覧を許可されたのは話したね。……その中には賞罰欄もあった。基本的には、その

学生の取得した賞状等を確認する為の欄だ」

 帆高の目が大きく見開かれた。それと同時に、得心が入ったという表情を浮かべて

いる。

 

「君は、自分の保護観察処分について記載していたね。謝罪すると言いながら不躾だ

と思うが質問させて欲しい。実刑有りの刑罰でもなければ賞罰欄には記載義務は無い、

と保護司から助言を受けた筈だ。何故、敢えて記載したんだね?」

 

「あの時は、まだ保護観察期間中でしたから。ちゃんと書くのが筋だと思いました。

それに、先程の事情にも関係しますが、僕は、自分がとった行為は隠すような恥だと

思ってません。確かに法を犯しましたが、僕が生きていく為に必要なことでした」

 帆高は毅然とした態度で断言した。

 

 そんな帆高への視線を外さずに、対東教授は椅子から立ち上がった。

 

「保護観察処分を敢えて記載する人間は、三種類が居ると思う。もう十分に更生した

と自負する者か、拠所無い事情で罪を犯して、甘んじて罰を受けたか、はたまたその

両方か。森嶋君のことを覚えていた最大の理由は――同郷というのも一因ではあるが

――君がどういう人間か気になったからだ」

 

 教授はデスクを迂回して、帆高に向かって歩み寄る。

「あの時は水配り伝説を話題に挙げたが、白状するとね、東京の天候に関する私見を

述べるだけでなく、あの神話の話題を通して君の反応も見ようとしたんだ。あれで、

君は二番目かと見当がついた」

 

 そして、帆高から数歩分離れた距離で立ち止まると、

「今にして思えば、こちらの意図を隠して君を試す失礼な真似をした。申し訳ない」

 帆高に向かって深々と頭を下げた。

 

 帆高は思わず彼に駆け寄り、頭を上げてくれと慌て気味に頼み込む。そんな帆高の

慌てる様子を受けて、教授はようやく頭を上げた。

 外の工事の振動で窓がカタカタ揺れる音だけが部屋に響き、帆高は気まずそうに口

を結んでいる。部屋に重苦しい空気が満ちる。

 

「失礼ついでと言っては難だが、この一年と二ヶ月間、私なりに君を見ていて思った

事を言わせて欲しい」

 そう言って、教授が沈黙を破った。

 

 彼からは、ただただ目の前の青年を心配する気配が漂っている。気まずさから解放

された帆高は思わず肩の力を抜いて頷いた。

 対東教授は、帆高にソファに座るように促して、自分はデスクの方へと歩いていく。

 

「さて、何から話すか。そうだ、森嶋君。植物工場において発育に影響を及ぼす要素

というと、何が挙げられるかな。ああ、すまない。これは君を試している訳じゃない。

こういう雑談を通して、頭の中で何をどう話すか整理してるんだ。私の悪癖だね」

 

「……いえ、構いません。えっと、まずは室温、それから照明の波長や強さ。被照体

との距離や照射時間もあります。それと、水耕栽培に括るなら水質の厳選も欠かせま

せん。肥料に使う養液の選定もです」

 

 帆高は怪訝な表情を浮かべているが、口は淀みなく動いた。

 以前の彼なら、対東研究室配属に向けた点数稼ぎの為には完璧に正解しなければな

らない、と肩肘張って多少なりとも動揺していただろう。

 教授は、そんな帆高の回答を咀嚼するように頷いた。

 

「講義の内容はしっかり覚えているね。他には、土壌より蓄積し易い硝酸イオンへの

対策も、消費者の健康の為に不可欠だ。養液を攪拌して濃度を一定に保つことも。水

耕栽培に限定しないなら根菜に対応し易い培地の研究も欠かせない。培地の素材や設

置高さ、検討の対象は枚挙に暇が無い」

 

 工事の音で僅かに揺れる窓を、授業用のポインターで黒板やスクリーンを指す時の

仕草で窓をコツンと叩き、

「今もこの大学では今、完全人工光型の植物工場を増設している。だが、小規模の個

人や法人に普及させるなら、コスト削減の為にも太陽光を有効活用する選択肢は切り

捨てられない。環境学の講義で学んだだろうが、この雲に覆われた空でも、快晴時の

二割程度は日光が届いているのだからね」

 流れるように喋り続ける。

 

「研究課題は、山積みですね。キリが無いくらいに……」

 教授の遠い目を見て、帆高は思わず呟いた。

 

 教授は窓から離れて歩きながらも帆高の方を向き、彼を見つめながら語りかける。

「こんな限定的な分野ですらね。研究者というのは、すべからく課題や未解明の分野

を探して、断続的になろうともライフワークとして活動を継続すべき役職だ」

 教授は棚の前で立ち止まり、収納された書物の背表紙をゆっくり指でなぞり始めた。

以前講義で見学した、伐採後の切り株の年輪を確かめる林業の職人の手つきにて似て

いる。帆高はそんなことを思いながらを眺めるうちに、それらの本が教授自身の著書

であることに気付いた。

 

「純粋に探究心や好奇心から従事出来る研究対象に出会えたなら僥倖だ。名誉心や懐

事情を理由に昇格や論文賞を目指すのも、研究者のモチベーションを保つ為には必要

だろう。研究者同士の下世話な足の引っ張り合いですら、向上心を刺激する上で役立

つ時はある」

 

 矜持、懊悩、懐旧、感慨、嫉妬、これらのいずれか、もしくは全てか。この老年の

言葉の節々から微かに漏れ出す感情が何か、帆高には分からない。

 

「個々人の事情はどうあれ、一度は主とするテーマから離れて研究が途切れようとも、

挑むべき課題も活動も無限に存在して、どこまでも続く。誰かが志半ばで辞めても、

別の誰かが継いで、改善点や未解明の領域を探求し続ける」

 

 ただ、絡み合って逆巻く感情を理性で捻じ伏せる、そんな抑制した冷静さを帆高は

彼からはっきりと感じた。

 

「だから、罪悪感を埋める為に研究に生涯を捧げても、その先に救いは無い。解消し

ようにも、無限に改善の余地がある。真実の探求を目的とする科学研究で、既に失っ

てしまった何かを取り戻せる訳でもないだろうからね」

 学生を諭す温かな声色で、教授はそう言った。

 

「対東教授。それなら、研究者個人にとってのゴールというのは、どこにあるんでし

ょうか」

 

「研究者当人にとっての終わりは、引退か妥協の二択だろう。そして、その人物の使

命感や義務感が強ければ尚の事、この二択は受け入れ難い。罪悪感を解消する方法も

また、二つだけだ。被害者から許しを受けるか、被害者が居ないなら自分自身に許し

を与えるか。

 だが、真実を探求するのみの研究において、許しを与えてくれる他人なんて存在しない。それに今言った通り、自身を許して妥協する選択もまた然りだ。

 贖罪目的で研究の道へと踏み出せば、賽の河原の石積みと見紛う人生が待っている。

 私はそう思う」

 そう告げる教授の目には、半端な覚悟の新参を追い返すような厳格さと思い遣りが

浮かんでいた。

 

 教授の言葉に耳を傾ける間、帆高は眼前に広がる底無し沼の幻を観察する目付きで

無言のまま俯いていた。その手は、見えない石を弄ぶように、軽く握った拳を、閉じ

たり開いたりしている。

 今の話は、帆高がこれまで考えないようにしてきながら、その実、薄々とは意識して

――敢えて見て見ぬフリをしてきたことだった。

 

 例え、天候に一切左右されない農業を確立出来たとしても、それで雨で生活が激変

した人々の時間が巻き戻ることもなければ、雨で失われたものを取り戻せもしない。

埋まらないギャップを目の当たりにする度に、罪悪感を少しでも埋められそうな別の

研究テーマやテーマの深化を求め続けていただろう。

 ――――陽菜を道連れにして。一生。

 

「誰かに奉仕することで、自身の人生も豊かになる形で昇華出来るなら、それは至福

だろう。だがね、私の知る限り、使命感や義務感、罪悪感に端を発していると難しい

道だ。それらの感情を少しでも埋めることに囚われて心身を削ってしまうのは、何と

言うのが妥当だろうか……」

 

「人柱、でしょうか」

 帆高は物思いに耽るように呟いた。

 

「随分と大仰な表現だ。だが、社会基盤を支えるという意味では的外れではないかも

知れないね。無論、その人柱に依存して回る社会には限界が必ず来る。いずれは転換

せざるを得ない。だが――」

 

 帆高は、無意識のうちに立ち上がって

「そうして生涯を捧げている人達のお陰でこの社会が成立している。僕も少しは理解

している積りです」

 教授の言葉に重ねるようにそう言った後に、

「先日の入院先も、そうだと思います」

 腕の包帯をしげしげと眺め始めた。

 

 帆高が入院中、深夜にトイレに行った時に、様態が急変した患者が出たのか、騒然

とした雰囲気も窺えた。

 もしかしたら、自分の存在意義の獲得や心の欠落の充足を求めて、己の心身を削っ

ていた人があそこにも居たかもしれない。

 帆高にとって、他人事と切り捨てることは出来ない。

 けれども――――

 

「ですが、身勝手って言われようと、僕と妻は、違う生き方を選ぶと決めました」

 帆高は、小さくともはっきりと相手に届く声でそう告げた。

 

 青年の宣言を聞いた老教授は、驚きで皺が深くなるのを一切隠そうとせず、青年を

まじまじと見つめた。

「君はもう結婚しているのか?いや、驚いた。……それに、その様子だと新しい進路

を見いだせたようだ。良ければ、聞かせて貰えないか」

 心なしか、教授は僅かながらも活気を帯びたように帆高には見える。

 

「はい。実は先日、婚約者とようやく婚姻しました。

 ゆくゆくは彼女と飲食店を開きたいと考えています。……それと、難しいと思いま

すが、知人に農地を借りて、僕達で育てた野菜を使った料理を出したい。ですから、

卒業後は就職して飲食店の経営ノウハウを学ぶか、農業法人に就職して、知見を深め

る積りです」

 

 

**********

 

 

 帆高が自家栽培の食品を扱う飲食店を出したいと思った切掛けは二つ。

一つ目は、やはり陽菜の言葉だった。

 陽菜との結婚を決意した晩に彼女の助言を受けてから数日間、帆高は落ち着いて考

えてみた。大学に許可を得て、怪我の療養も兼ねて家でゆっくりと休息をとりながら、

新妻との団欒をゆったりと楽しむうちに、自分の胸の内をしっかりと見つめ直すこと

が出来た。

 自分の手で作物を育てて、それが目に見える形で収穫出来る達成感。肥料等の工夫

を凝らし、手間暇かけた分だけ作物が応えてくれるやり甲斐。まだ一年程の短い実習

で得た経験しかないものの、彼はそこから確かな充実感を得ていた。

 陽菜と一緒に料理を作っている時のそれに似ている、帆高はそう思った。

 

 そして、もう一つの切掛けは、知人との会話だ。

 

 かつて晴れ女ビジネスで都内を巡って知り合った立花さんという老女の下に、陽菜

と婚姻した後に改めて挨拶に行った時のこと。

 二人が結婚したと聞いた彼女から、心からの賛辞を贈られて帆高達は大いに喜び、

結婚式には是非呼んで欲しいという要望にも二つ返事で応じた。そして、一頻り雑談

が盛り上がった後、帆高が農学部の学生だと彼女が知ると、渡りに船とばかりに相談

を持ち掛けられた。

 その内容は、農地の代理管理者探しだ。都内で代々継いできた遊休地を利用した小

規模な農地を維持していた彼女の弟が、この天候に加えて高齢になって増した負担に

よって、引退を考え始めたという。

 この雨に対応してより楽に作業出来るように、私財を投入して屋内設備へ改造する

ことも検討したが、後継者が居なければ、引退時期が数年延びるだけで意味が無い。

後継者が見つからなければ、二束三文だろうと土地を売却する予定とのことだ。

 物思いに耽るように、老女は新婚夫婦に語った。

 

『狭い土地での趣味の延長とは言ってもね、折角丹精込めて育ててきた農地を潰すの

も勿体無いじゃないさ。それに、ちょっと下世話な話だけど、孫夫婦に継がせてやり

たくても、農地のままの方が節税にもなるからねぇ。

 潰して駐車場にしても、このご時世、都内で車持ってる人間も目減りして収入は雀

の涙って話だろう?財産どころか、相続税や固定資産税とかで重荷になっちまうよ。

折角、瀧と三葉も子宝に恵まれたってのにさ』

 ひ孫のことを思い出して立花夫人の顔が綻んだが、一刻の後にまた眉をひそめて、

「農業一本で食べていける程の土地でも無いしね」と溜息混じりに呟いた。

 

『まだあと五年は粘るって弟は言ってるから、副業でも趣味でも、誰か土弄りに興味

がある人が居たら、紹介しておくれよ。弟も多少は農作業について教えられるし、や

れるだけ協力してから、瀧達からその人に貸し出すからさ。あんた達の紹介なら安心

出来る。

 もし、あんた達夫婦が名乗りを挙げてくれるなら大歓迎だけどね。……それはさて

おき、心当たりがあるか、じっくり考えてみておくれ』

 

 

 参考までにと帆高が賃貸料を聞くと、払うだけなら今の帆高でも何とかなる程度の

無料同然の料金だった。代々相続して、弟の努力の結晶も実った土地を、名義だけで

も孫夫婦に持っておいて欲しいという想いが強いようだった。

 

 折角めでたい話を持ってきてくれたのに辛気臭い話をして申し訳ない。

彼女がそう謝ると同時に、噂に出てきた件の孫夫婦が訪ねて着てこの話は終わった。

だが、諦めと共に期待のこもった立花老人の眼差しは、自分に真直ぐに向けられてい

たように帆高は思う。

 そして、彼にとっても、この話は天啓に等しいと言って過言ではなかった。

 

 

**********

 

「森嶋君、農学部の研究者はここ数年こそ微増傾向にあるが、それまで減少する一方

だった。何故か知っているかい?」

 目を細めて新郎の話を聞いていた老教授は、唐突に彼に尋ねた。

 

「農業や農学が、その……花形じゃなかったから、でしょうか」

 帆高が自信なさげにそう言うと、教授は、予想外に痛い所を突かれたといった風に

自嘲に似た笑みを浮かべながら、力なく首を横に振る。

 

「確かにそれもあるだろうが、何より、昇格し難いからだ。君も知っているだろうが、

我々の昇格を判定する条件の一つには論文の数がある。だが、いざ論文執筆に向けて

実験しようにも、土地に人手に時間、リソースが圧倒的に足りない。こうした問題は

農学限定でもないが、顕著な分野なのは間違いない」

 

「そして、実験してデータを集められないと論文は書きようがない。悪循環、と言う

事ですか」

 

「その通りだ。だからこそ、生産現場の環境や手法が千差万別の農学の研究では、各

農家を一軒一軒巡ってリサーチする方法を昔からよく採ってきた。もっとも、どの道

時間はかかるがね」

 そう言って苦笑しながら、教授はツカツカと窓の傍に寄って外を見下ろす。

 帆高がその視線の先を覗くと、その先にあるのは、雨曝しのまま今は手入れをされ

ていない、土耕用の未整備農地が広がる一画だった。

 

「それは今も続いている。特に土耕栽培は、個々の環境要因が大きいからね。そうし

て、研究を生業としない人々の協力で、私達研究者や学問は支えられている」

 

 不意に、泰然とした普段の態度からは想像出来ない素早い動きで、教授は帆高の方

を振り向いた。

 

「研究者として従事することだけが全てではない。もしも本格的に農業に携わる気に

なったなら、天草准教授にも相談すると良い。彼には土耕栽培の研究を担当して貰っ

ている。助けになってくれる筈だ」

 教授が浮かべる微笑みは、帆高には何故かいつもより柔らかく見えた。何故か安堵

――それと、僅かな羨望だろうか――が窺えるのは気の所為か。

 

「その……僕達が夢を実現出来たら、自分達の記録したデータを大学に提供したいと

は思ってます。今はまだちゃんとしたサンプリングの方法とか理解出来てませんし、

どこまで役に立つか見当もつかない、絵に描いた餅ですけど」

 帆高は頭を指で軽く掻きながらそう言った。

 

「そうしてくれればありがたいが、そこに拘る必要も無いよ。幅拾い進路で精力的に

活動する卒業生が居るだけで、未来の入学志望者の模範になってくれるものだ。職種

を絞って社会に貢献しようと気負う必要は無い」

 教授は軽く身を乗り出して、帆高に釘を刺した。そして、言い終える方が早いか、

彼は帆高の方へと歩み寄る。

 

「お節介を承知で言うがね、私が知る限り、君は実直で勤勉な若者だ。人が真面目に

一生懸命生きている限り、その生き様が身勝手だとか、そんなことありはしないよ。

 君は、もっと胸を張るべきだ」

 

 話し終えた対東教授は、帆高に向けてすっと右手を差し出してきた。

 束の間、何の意図か当惑した帆高だったが、彼の右手が握手を求めているものだと

気づき、恐縮しながら弱々しく握手に応じた。

 

「もう言うまでもないだろうが、まずは自分のご家族を大事になさい。それで十分に

社会への貢献に繋がると思う。私も、及ばずながら応援しているよ」

 

 ――――私の分も、健闘を。

 極々控え目な、そよ風のような囁きが耳に引っ掛かった気がして、帆高は小首を傾

けた。ふと、握手する右手から下方に目をやって、教授の左手には以前とは変化が

生じていたことに、帆高は今になって気付いた。

 対東教授の左薬指から、指輪が消えている。

 

 帆高は、握手している右手に力を込めて教授の手を握り返した。

 

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