「だからさぁ、遠慮すんなって」
凪の溌剌とした声がマンションの一室に響いた。
須賀と凪の二人は、K&Aプロダクションのオフィスの応接室に居る。
マンションの一室にソファとローテーブルを置いて体裁を整えただけの簡素な空間
だ。元々商談の際には須賀が出向くことの方が遥かに多かったが、十ヶ月程前から、
実質的に須賀の休憩所兼仮眠室と化している。
近況報告がてら凪が遊びに来た時の彼の居場所もここだ。
須賀は今、コーヒーカップを片手に、凪の通話を聞き流していた。
数時間後の出版社との打合せの後、来るべき大口の仕事が始動する。忙殺を予感さ
せる嵐の前静けさだろうが休める時に休むまで。そう決め込んで、ソファに半分寝そ
べるだらけた姿勢をとりながらも、絶妙なバランスでカップを保持してコーヒーを溢
さず器用に啜っている。
くつろぎを通り越して自堕落を絵に描いたような須賀の様子を横目に、感心と呆れ
を顔に浮かべながら、凪はスマホを片手に話を続ける。
「ああ、だから俺が戻るのはあと二時間はかかるよ。うん?……だから、そっちのア
パートじゃ、三人だとやっぱ手狭だろ?前言った通り、こっちの隣は相変わらず入居
者が来る気配ゼロだから。現物見ても気が進まないなら、こないだ言った通り、ウチ
で使えそうな物だけでも物色してけよ。……いや、良いって。こっちも断捨離代わり
になるからむしろ助かる」
陽菜は今、妊娠している。
女の子だそうだ。出産も近い。
あの二人に驚かされるのは慣れたものと須賀は思っていたが、報告を受けた時には
流石に度肝を抜かれた。
妊娠した時期は、恐らくは去年の六月。帆高が交通事故に遭った直後だろう。
あの事故から退院した翌日、ただの経過観察とはいえ病院の検診に大遅刻をしでか
して、打撲が悪化して担当医から説教を喰らったという。医者が「お若いですね」と
しか須賀達に言わなかったから、原因は察しが付いた。
通院からの帰りに二人がオフィスに顔を出した時、夏美がお熱いだのと茶化す一方、
須賀は呆れるべきか胸を撫で下ろすべきか迷ううち、説教する気力が失せてしまった。
そして、二人は、挨拶もそこそこに、勢い込んで婚姻届を突き出してきた。
夏美はこの時のことを
『真面目な空気だったから我慢してたけど、圭ちゃんがずっと顎外れそうな顔ままで
器用に喋ってたのがマジウケた。腹話術師に転職出来るよ絶対』
などと、今でも顔真似をしながらネタにする。
「帆高君の戸籍謄本が無いとどの道役所で受け取り拒否されるかも」という夏美の
突っ込みに対しても、何はともあれ役所に持っていくと言い張る帆高の鼻息が荒さ。
終始帆高の袖を掴んでいた陽菜の様子。そんな二人を面白がりながらも、いつものふ
やけた丸字と違って厳然とした生真面目さが漂っていた夏美の署名。呆気にとられな
がらも、驚くほどに軽やかだった署名の際の自分自身の筆運び。
もう一年近く前のことなのに、須賀は昨日のことのように思い出せる。
その後はと言えば、二人は友人達に素直に祝福されたらしい。めでたいことだ。
ただ、報告を受けた帆高の両親が案の定島から飛んできた時は、そこそこ人生経験
豊富だと自負する須賀も逃げ出したくなった。
二人とも婚約済なのだから、所謂出来婚のような酷い揉め方はしないと楽観視して
はいたが、自分が明日花と婚約した時の、須賀と間宮両家が展開した壮絶な修羅場の
記憶が嫌でも脳味噌の奥底から這いあがって来た。
誰にとっても、他家の御両親なぞ、好き好んで会いたい相手ではないだろう。
とはいえ、後見人として、話し合いの場には同席せざるを得ない。
監督不行き届きだのと叱責を浴びたとしても、甘んじて受け入れるしかないだろう
と覚悟を決めた。
しかし、
『まあまあ圭ちゃん。いっそ萌花ちゃんの時の予行演習だとでも思って、どーん!と
行こうよ』
などと言う、声援の積りで夏美が寄越した、縁起でもない呪詛めいた予言の所為で、
二日酔いの朝かというくらいに心身は重かった。
そして、帆高の両親だけでなく、須賀と実際の監督役でもあった夏美や、何故か無
駄に気負った凪までもが、家族会議に同席した。
一堂に会して開口一番、帆高の父親は「学生の身でまだ早い」「軽率」等と息子達を
諫めた。その後に矛先が自分にも向かうだろうと予想しながらも、須賀もつい頷いて
しまったものだ。
が、そこから先は須賀の予測から完全に外れた。
『俺は陽菜との子供が欲しいと本気で願って、彼女は応えてくれた。彼女も俺も愛し
合った結果だ。軽率だとかそんな言葉、誰にも言わせない』
そう啖呵を切って、当人なりに作成した青写真――子供の養育費の目標額到達に必
要だろうバイトのシフトと授業の単位を落とさずどう両立するか、就職をどうするか
――を寄越してきた。
起立し勇み立つ帆高と、もじもじしながら真っ赤な顔で俯く陽菜を除く全員が唖然
としながら座り込む室内で、須賀は「コイツ、無鉄砲な割にこういうプレゼン資料や
計画立案は案外マメに作る奴だったな」などと、一人で現実逃避混じりの懐かしさに
浸っていた。
青写真の内容は、風邪を引いたら黄色信号が灯りそうな綱渡りさながらの代物では
あったものの、「息子夫婦がそこまで真剣なら」と、帆高の両親はあっさり折れた。
須賀の予想通り、若者達に覚悟を決めさせる為の説教が主目的だったらしい。
帰り際、「子供が産まれて多忙になる前に、小さくても式は挙げた方が良い」と
助言して、結婚式の費用まで息子夫婦に渡したと聞く。孫娘が産まれれば、祖父母
バカと化すだろうと須賀は確信している。
須賀としても、託児所付きで評判の良いバイト先を斡旋してやるくらいは出来る。
このオフィスだって、赤ん坊の一人くらい何とかなるだろう。
それに何より、経理や編集業務にも慣れた陽菜が今抜けるのは惜しいし、夏美や
陽菜が電話番をやっていると、取引先の感触がかなり変わるのだ。〆切絡みの用向き
で須賀が電話をとった時の、先方の辛辣さは名状し難い。
萌花にしても、産まれて来る子にお姉さん風を吹かそうと息まいて、最近は上機嫌
だ。須賀としても願ったり叶ったりである。
「それにさ、そっちのアパートより壁も厚いから存分に――いや、冗談だって。そう
怒んなよ姉ちゃん。お腹にも良くないから」
この先雨が降り続けても向う十年は武蔵野台地から東側も水位は大して変動しない
という予測を気象学者や環境学者達が立てている。
だが、裏を返せば、そこから先は未知の領域。
東京の西側で一時期見られた地価の高騰ぶりは鳴りを潜めた。元々居を構える人間
が減る一方だった東側の地価下落は更に顕著だ。国分寺の帆高の独身用アパートと、
そこよりは広い凪と夏美が住む田端のアパートを比べても、古さは大差ない割に今で
は後者の方が家賃が安いくらいだ。
そんな訳で、凪は、帆高の収入が安定するだろう五、六年先まではひとまず産まれ
て来る子供と田端に住むことを、姉夫婦に勧めている。
まだしばらくはスーパーやコンビニ等の商業施設も淘汰されそうにないし、何より、
産婦人科も小児科も水上バスを使わずに済む圏内で健在だ、と彼が力説していたのを
須賀も何度か耳にしている。
*********
「じゃ、俺はもう少し須賀さんの所に居るから。合鍵あるだろ?家で待ってて」
電話を終えた凪は須賀の方に向き直って、
「まったくね。姉ちゃん達には参っちゃうよ。須賀さんだって夏美さんの叔父さんに
なったのって二十歳そこそこでしょ?俺、この年でオジサンだぜ?」
したり顔で喋り出した。
姉ちゃん達やオジサンという単語を呆れた風に口にしつつ、ソファに座りながら、
メトロノームのように身体を揺らしている。
「そういうお前も、この時期から歯固めまで買うのは、幾らなんでも気が早ぇぞ?」
須賀はからかい交じりに皮肉った。
凪は普段、担任と部活の指導教員の許可を得て新聞配達を行い、バイト代を夏美と
の家賃の分担と部費等の交友費に回している。須賀がその分の金を渡そうとしても、
「私立小学校の学費まで払わせちゃったし、食費や光熱費分で十分世話になってる」
と言って、頑として受け取らない。
そしてその交友費を削って、産まれて来る姪用に乳幼児向け玩具等をこっそり買っ
ていた。誕生祝いに渡すつもりの凪に頼まれて、須賀がこのオフィスに隠している。
途端に凪は少しばつが悪そうな表情になって、身体の揺れが止まった。
ふと、彼は須賀を視線から外す。
「だってさ、ほら。俺、妹が居たらなって前から思ってたし。萌花ちゃんのお陰で
その気分を味わえたけど、やっぱ自分の姪ってなるとね」
凪はのろのろと指で頬をかいている。
「姉ちゃん達も自分の趣味の物があるだろうから、俺の趣味で玩具買って押し付ける
のも難だろ?被っても問題無さそうで、使い勝手も良いってなると、ああいうのって
割と選択肢無くて……
俺に出来ること、出来る限りしてやりたいじゃん。家族なんだからさ」
照れ笑いを浮かべる少年は、眩しい程の輝きを放っている。眉目秀麗という言葉が
これほど似合う少年もそうは居まい。
以前須賀が「アイドル事務所にでも応募すれば、忙しくてもボロ儲け出来るんじゃ
ないか?」と凪当人に提案したら、「趣味じゃない」と一蹴されたことがあった。
家族が無断で応募する例もあるので、陽菜をはじめ女子達に対して「代理で事務所
に応募してみるか」と冗談半分で口に出したら、萌花と夏美が般若の形相で須賀を睨
んできた。陽菜はといえば、二人の豹変ぶりにただ引いていた。
目に入れても痛くない愛娘の表情はどんな顔だろうが愛おしい。そんな男親の儚い
夢を乗せた彼の常識は、またもや予想だにしない形で塗り替えられてしまった。
まさか、可愛がっていた少年に噛みつかれて銃口を向けられた末に警官と殴り合い
まで演じ、終いには空に浮かぶ得体の知れない龍らしき何かを目撃した体験よりも、
優先して脳から削除したい貌の記憶が誕生するとは――――
須賀は想像すらしていなかったし、したくもなかった。
……まあ、実際、凪がアイドルデビューなんてしたら、彼の周辺だけでなく、下手
すればこの会社まで地獄絵図と化すだろう、とは須賀も思っている。
凪が幼児向け玩具を購入する現場を同学年女子に目撃されて質問責めに遭った時も、
こんな調子で、はにかみながらのろけていたらしい。
普段は同級生に対して気取った態度で接している分、ギャップに中てられた女共は
極めて多く、「オーラで石になりそう」「戦が始まる」とか言った評判が、凪当人の
与り知らぬ所で他校にまで広まっているという。
そんな話を須賀は夏美から聞いた。
何故、夏美がそんな話を知っているのかについては、彼は敢えて聞かない。
**********
「――っておい、そこは駄目!ストップ!」
照れ隠しだろうか。
凪がふと顔を背けたかと思えば、慌てた様子で壁目掛けて駆け寄った。
須賀が姿勢を正してソファの裏側を覗くと、飼い猫のアメが壁の穴目掛けて飛び掛
かろうとしていたようだ。日増しに巨体になり続けるデブ猫の癖に、俊敏さにはさし
たる衰えは見えない。憎からずも厄介な家族の一員だ。
アメが飛びつこうとした壁の穴については、帆高と陽菜には「酔っ払ってうっかり
空けた」と須賀は説明し、二人は少し呆れた顔で彼の深酒を心配していた。
だが、実際は違う。
この穴は、帆高と陽菜が交通事故に遭ったと聞いたあの日に、我を忘れて拳で空け
てしまったものだ。
壁にでかでかと穴が開いていては応接室としては使えないが、かと言って修復する
には壁一枚丸ごと交換工事が必要でなかなか踏み出せない。おまけにあの場には偶々
凪が居合わせていて、子供にみっともない姿を見せてしまった。須賀としては、自業
自得とは言え踏んだり蹴ったりだ。
ただ、あの頃から、凪が自分に対して完全に心を開いてくれたとも彼は感じていた。
夏美抜きで須賀と二人でこの部屋に居ると、凪は所在無さげに、ソファの上で縮こま
るように行儀正しく座っていたが、今では別人のようだ。
凪がアメを抱えて遠ざかる隙に、急いで穴を隠せる物を探す。
須賀が気付かぬうちにこれまでもアメがぶら下がっていたのだろう。心なしか縁が
ボロボロに崩れていて、穴の下もささくれたような爪跡が残っている。とりあえず、
カレンダーを壁に貼って誤魔化しにかかった。
その間もアメの気を引く凪を横目に見ながら、須賀は改めて思う。
凪は周囲に常に気を配る、過ぎる程に出来た子だ。何度驚かされたかも分からない。
まず驚かされたのは、陽菜と凪の二人で暮らしていた田端のアパートに初めて須賀
と夏美が訪れた時だった。
子供だけの割に部屋が片付いていたのにも感心したが、それ以上に、何かのコレク
ションかと思えるほどの、トロフィーと表彰状の山に感服すらした。そのほぼ全てが
凪の物だ。母親が給付金に頼りながら私立小学校に通わせて、姉が年齢を偽って働い
てまで弟の生活水準を保とうとしたのも、理解出来る優秀さだ。
そして、凪は今、公立の進学校に合格して高校受験を終えた。
無事に合格、と言いたいところだが、果たしてそう言って良いのか。須賀としては
歯がゆいものがある。
当初、須賀は何とか凪の為の塾の費用を捻出してやりたい、と気を揉んでいたが、
全くの杞憂だった。彼はどこからか中古で進学塾のテキストを入手したかと思えば、
独学で公立の進学校にあっさり受かった。
娘の関係でお受験事情に精通する羽目になった須賀には分かるが、凪の成績なら、
中堅レベルなら私立校でも特待生で入れたし、難関国立校も狙えただろう。陽菜から、
凪の担任との面談の時にもそう勧められたそうだが、凪当人が突っ撥ねたらしい。
本音を問うても、
『俺が楽したいから一校に絞っただけだって。須賀さんも夏美さんも気にしないでよ。
……そんなことより、須賀さん。受験料出してくれて、ありがとうございました』
気後れした様子で礼を言うだけだった。
そんな彼が難関校の過去問にも手を付けていたのを須賀は知っている。
記念受験すら敢えてしなかったのは、余分な負担をかけまいという配慮からだろう。
須賀にとっては凪に対する不満は無い。どころか、何とか支えてやりたいと以前に
も増して思っている。
……強いて不満を挙げるなら、彼が居る時とそれ以外で、萌花の態度が露骨なまで
に変わることか。
**********
「しかし、あいつらの様子じゃあ、姪だけじゃなく甥も遠からず出来るんじゃないか。
大変だなぁ、オジサン」
感慨を隠すように、須賀が立ち上がってコーヒーメーカーのスイッチを入れながら
凪を茶化すと、
「よしてよ。悪いけど、本物のおっさんに改めて言われるとキツいって」
満更でもない様子で、凪は苦笑する。
そして、次の瞬間には、どことなく神妙な面持ちに変わった。
「それに何つーか、兄なのか弟なのか分からないのがもう身内に居るからね。弟に関
しちゃ慣れたっていうかさ。……いや、やっぱ、アレは兄貴かな」
「へぇ、珍しいな。センパイは卒業とは言ってたが、何かあったか?」
帆高に対する凪のしみじみとした呟きを聞き、どういう風の吹き回しか興味が湧いた。
「あれじゃ、まだまだ義弟だぜ」などと嘯いてきたのが、これまでのお約束だ。
「いやさ、俺の同級生の間でも、付き合っただの別れただのって話題が増えてきてね。
そいつら見て、でもって帆高と姉ちゃんを思い出すと、最近考えるんだ」
凪は膝に肘をつき、空いた手でじゃれつくアメを相手しつつ、天井を見上げている。
「俺もさ、アヤネにカナ、ミウ、ミサキ、アンズ、カエデ……。俺なりに最高に可愛
いし性格も良いって思う女の子達と付き合ってきた。まあ、今もあの子達とはよりを
戻したりするけど」
名前が増え過ぎだろ。受験期にまで新しい女子と付き合ってたのか?
須賀はそう突っ込みそうになったが、話の腰を折るのも良くないと思い、辛うじて
言葉を飲み込んだ。リストの中にナツミとかモカとかが加わりそうな勢いだ。万一そ
うなったら、最早どんな顔をしたら良いのか、彼には見当もつかない。
ともあれ、凪は真剣そのものな面持だ。真面目に聞いてやる必要があるだろうと、
ソファの上で姿勢を直す。
「何て言うかな。女の子達が俺をまだ好きでいてくれるのは分かるし、俺も良い子だ
って思ってるのに、何故か続かなかった。
付き合い出したら曖昧に、って極意みたいに心掛けてたんだ。けど、何かこう……
そこそこ長持ちするんだけど、少しずつ熱が冷めてくっていうか、お互い距離が離れ
ていく感じがしたんだ」
「あー、アレか。恋に恋するって奴か。まあ、中坊ってのはそんなもんだろ」
四十代半ばにもなったおっさんが思秋期の恋愛話なぞ聞いていると、指で耳をほじ
りたい衝動が込み上げて来る。だが、須賀はそれを堪えて、少年の話に耳を傾ける努
力を続けて、それらしき相槌を打った。
彼が年の離れた大人にこんな話を始めた以上、コイバナという代物として以外の、
何か伝えたい意図があるのだろう。
「……そんな少女漫画みたいな表現されると、マジ萎えるね。けどまぁ、そうかも」
自嘲気味に凪は首肯する。
「母さんの、遺言って言うのかな。
"自分の愛してくれる、自分にとって一番大事な人を探しなさい"って、入院して少
し経った頃に俺と姉ちゃんに言ったんだ。だからさ、恋人を作ったり大人っぽいこと
をしてれば、母さんの言ってた人間に近付けるかな、ってガキなりにそう思ってた。
何事も形から入れってね。
それで、関係を持つのに満足して、それからは関係を続けることを優先して――
多分、女の子達をちゃんと見てなかった。俺が気付かないうちになあなあで済ませ
ちゃってたんじゃないかって今では思う。惰性っていうと皆に申し訳ないけど」
少年の様子を見ていて多少なりとも感傷に浸り出したからだろうか。
須賀は、この話題に辟易としつつも、そこはかとなく懐かしさを感じている自分に
気が付いた。
明日花と交際を始めた頃には、彼女の買い物の最中に生返事をしたりでデリカシー
が無いだのと詰られ、些細な喧嘩を度々繰り広げた。それでも関係が続いて尾を引か
なかったのは、お互い結婚を意識する年齢だったのも大きいとは思う。
思春期なら感情の振れ幅が大きく、将来の選択肢も溢れている分、些細なことでも
影響は大きいことだろう。
「それでさ、帆高を見てて、何か分かった気がするんだよね。
アイツ、本当馬鹿みたいに姉ちゃんのことばっか見てるでしょ?出会った頃からね。
でもって、姉ちゃんと同じ目線で考えて、必死で寄り添おうとしてた。そりゃもう体
当たりで姉ちゃんの問題にぶつかって行って、受け止めようとしてさ。
多分姉ちゃんはアイツのそういうとこに惚れたんじゃないかな。」
窓の外のさらに先、遠くの雨雲を見ながら、凪は膝の上のアメの顎をくすぐる。
「まー、アイツや陽菜ちゃんみたく、十代半ばで駆け落ち同然の夜逃げとか、普通や
らねえからな。お前もそういうとこは真似するなよ」
須賀はついつい釘を刺したが、語気はどうにも弱い。
十代で家出して青春と早々に別れを告げた彼としては、帆高や陽菜の初々しさが
時々羨ましく思うことも、正直無くは無い。それに、問題児ぶりが伝染して警察の
お世話になった暴走成人がこのオフィスだけで二名居る。説得力に欠けるだろう。
遠い目で諭す須賀の様子を観察する凪は、クスっと笑って片手を軽く振り、後見人
の杞憂を一蹴する。
「俺だって、流石にそこまでやりたかないし、もうやれないよ。そりゃ、ガキの頃は
楽しんでついて行ったけどさ。……ただ、俺に欠けてたものを、帆高は出会った時か
ら持ってたんじゃないか、なんて気はするんだ。
俺も高校生になったら、今まで付き合ってきた子、これから出会う女の子のことを、
どう思ってるのか。何より、その子達がその時一体何を考えてるのか。本当に本気で、
しっかり考えて向き合おうって思うようになった」
アメを弄ぶ手を止めて、凪は須賀の方に向き直った。
「だからさ、俺、アイツが姉さんと結婚してくれて良かったし、俺にとって義兄さん
なんだって、はっきり言える。まあ、相変わらず頼りないとこは義弟としてフォロー
してやんなきゃね」
再びアメに視線を落として弄ぶ凪の様子は実に晴れやかだ。
アメの方は、くすぐられるのに飽きたか慣れたか、子分を見守る大親分のように
落ち着き払った態度で、凪を――それと須賀の方も――悠々と見つめながら、彼の
膝の上に鎮座している。
子供達の成長は、自分が思ってるより遥かに早い。
萌花と一緒に暮らせるようになって日々痛感するその想いは、須賀の中でどんどん
強くなっていく。凪のことを青年と呼ぶ日も、多分そう遠くは無いだろう。
万一コイツが自分の縁者になって、お義父さん、叔父さんなどと呼んできたら――
須賀は不意にそんな想像をしてみるが、リズミカルな雨音を立てる窓をふと見ると、
そこには満更でも無い様子の中年が映っていた。
森嶋夫妻と凪少年、彼らには何度でも驚かされたり呆れさせられたり、時には喜ば
されたり、これからもまだまだ須賀にとっての未知の経験が待っていることだろう。
「ま、乗りかかった船だ。とことん付き合ってやるさ」
須賀は、二杯目のコーヒーの香りを楽しみながら、ゆっくりと味わい始めた。