帆高と陽菜が水上バス停留所に到着した直後、凪との電話の途中で陽菜は急にきょ
ろきょろと周りの目を気にし始めた。かと思えば、顔を赤くして器用に声を抑えなが
ら怒鳴っている。
帆高には簡単に検討がついた。凪にからかわれたのだろう。
しばらくの間むくれていた陽菜だったが、田端駅の改札を出て、帆高が差し出した
傘に入って、指を絡めて彼の手を握ると、途端に大分機嫌が直った。
二人で坂を一歩一歩上る度、顔の微笑みはより明るく、鼻歌は大きくなっていく。
凪が田端のアパートに戻ると連絡してきた時間まで、まだ大分余裕がある。
二人は、焦らずゆったりと歩く。
陽菜はもう一人の身体ではないから、今では夫の横顔を時々一瞥するくらいで、以
前にも増して慎重に歩くようになった。しかし、その足取りはスキップでも始めそう
な軽やかさだ。
「古過ぎる玩具って赤ちゃんには良くないかな。今のとどう違うんだろ?」
「とりあえず現物で良さそうなの、幾つか持って帰ろう。瀧さん達がお勧めの玩具の
現物見せてくれるって言ってたろ。それと比べられるからさ。僕が瀧さんから借りて
来るよ」
「んー、やっぱ私も行くよ。三葉さんと赤ちゃんにも今の内にまた会っておきたいし」
陽菜のお腹はもう冬服でも目立つようになり、何時産まれてもおかしくない時期に
差し掛かった。
帆高の方は妻以上に気を張りつめて、いつも周囲に目を配って歩く。半年以上前は
何事にもかなり過敏に反応して「散歩デビューしたての子犬みたい」などと彼女に
からかわれたこともあった。
彼は空いた手に持つ傘を二人の間に立てて、彼女の身体が傘にすっぽり収まるよう
に差しながら歩いている。少々不自然な体勢だが、歩く後ろ姿は極自然だった。
掲げる黄色い傘は骨が二本折れていたが、それも計算に入れて、陽菜が濡れないよ
うに上手く角度を調整して保持する。骨が折れて揺れる部分が、上機嫌な動物の尻尾
のように揺れる。
「お世話になりっぱなしだよね。何かお礼しないと」
「そうだね。あっ、今度父さんが島の名産を冷凍して送ってくれるって言ってたろ。
あれ、お裾分けしようか」
丸いお腹に添えている陽菜の左手の薬指には、冬の夕日を思わせる橙色の指輪が光
り、彼女の首元にはネックレスのチェーンが覗いている。
このネックレスは一年前は帆高がつけていたものだ。
彼女がつけていた物は、今は帆高が身に付けている。
『このネックレスも私の大事な宝物だし、正直、私にとってこれ以上の指輪ってどこ
探したって無い気がするのよ。変わってるかも知んないけど、私達だけの結婚式って
感じでそれも良いじゃん』
結婚式の計画中に彼女が発した意見に帆高も同意して、去年の夏に開いた式では、
指輪ではなくお互いのネックレスを交換した。
安価な式場の空き、妊娠中の体型とレンタルドレスの都合、凪の受験、そういった
諸々の都合のため、なかなかハードなスケジュールになってしまった。
だが、努力の甲斐あって、帆高や陽菜が呼びたい親族や友人達も皆都合はついて、
無事招待客は全員出席した。夫婦共に、ささやかながら幸せに満ちた結婚式になった
と満足している。皆で撮影した記念写真を眺める度に、その時の喜びが写真から溢れ
て来るのが二人には見えた。
帆高は現在、取得単位数やバイトのシフトを以前より減らして、学内外の農業セミ
ナーにも参加し始めた。勉強に手は抜かないし、出来れば対東教授に師事したいとは
思っているが、どの活動も無理の無い範囲に留めている。
帆高にとって大きかった変化の一つは、学内での交友関係の変化だ。
かつて、帆高は同期のことを競争相手としか思っていなかった。課題も独力で解い
て、出し抜き追い抜かねばと焦燥に駆られてばかりだった。
だが、心に余裕が出来た今は違う。病み上がりの自分を心配する同期が大勢居ると
知り、彼らと協力するようになった。お陰で負担も大分減って、友人も増えた。
陽菜はと言えば、飲食店に必須の資格の他、簿記等の有用なものをガンガン取得し
ており、次は調理師免許を取る予定だ。
「本当は栄養士の資格もあると良いけど」と言いつつも、資格試験に必要な学校に通
う余力は無いので、栄養学を通信教育で学んでいる。
頭が下がるバイタリティを発揮する陽菜に対して、帆高も競争意欲と敬愛がより
一層湧き立っている。
対東教授からは、帆高を通して育児や状況が落ち着いて、改めて大学や短大を受験
する気になったら、その時には民間を含めた給付型奨学金について相談に乗ると申し
出を受けている。
何年か先の話になるだろうが、二人は折を見て検討する気だ。
**********
「ごめん。帆高、ちょっと良い?」
坂道が終わりに差し掛かった時、陽菜は立ち止まった。帆高も合わせて歩みを止め、
陽菜の横顔を覗く。
すると、帆高の左手を陽菜は自身の両手で包み込み、彼の腕を胸の位置まで上げて、
目を瞑って祈り始めた。帆高は、陽菜の手に当たらず、かつ彼女の身体が濡れないよ
うに傘の位置を手慣れた手つきで整えて、陽菜に倣って一緒に祈る。
陽菜に祈(意宣)りの意味を聞いてから、帆高はもう臆することはなくなった。
もしかしたら、身勝手なのかも知れない。
この先、想像すらしない困難が待ち受けるかも知れない。
それでも、夫婦で自分達の夢の実現を目指す。
その先で出会った人達一人一人が幸せになる手伝いが出来れば嬉しい。
自分達に生きる機会と意味をくれたこの世界に感謝しながら、愛する家族を幸せに
して、自分も幸福を掴み取る。その為に全力で生きるのだ。
帆高はそう、挑むように宣誓する為に、夫婦で祈(意宣)る。
恐らく娘を授かったと思われる帆高が退院したあの日から、この行為は二人の習慣
になっていた。帆高の肩が濡れることは想定済で、レインコートも常用している。
二人が祈っている内に、いつの間にか辺りの雨足は弱まり、ほとんど霧雨になって
いた。
特に合図するでもなく互いの気配を察して、二人はほぼ同時に祈りを止める。帆高
は傘を差したままもう片方の手で陽菜の丸いお腹に触れて、陽菜は慣れた手つきで帆
高の右肩を乗る大量の雨露を払う。
払い終えるや否や、陽菜は自分のお腹を撫でる夫の手を取った。
「ねぇ、帆高」
「ん、何?陽菜」
ピンクの唇を少しとがらせた陽菜に対して、帆高は穏やかに応じる。
自分の手をお腹からそっと外されて帆高は少し残念そうな顔をしたが、妻の手付き
の優しさを受けて、彼は彼女の次の言葉を見守りながら待つ。
陽菜は頭にフードを被ってから傘の外に出て、お腹を押さえたまま二歩、三歩と歩
いた直後に、
「昨日の夜の続きっ。全然進まなかったでしょ」
ターンするように振り返ってそう言った。
身重の妻が予想外に激しい動きを始めそうな気配を感じて、慌てて駆け寄りかけた
帆高だったが、
「昨日って――えっと……家族会議?」
素っ頓狂な声を上げて、つんのめって立ち止まった。昨晩のことを思い出すと思わ
ずニヤケ顔になりそうだが、どうにか堪えて真顔を作っている。
進展が無かったのは別に意見が平行線だった訳でもなく、実態が夢見心地のピロー
トークだったからに過ぎない。だが、外出中にその単語を口に出すと陽菜がむくれる。
「この子の名前、本当に陽向(ヒナタ)にしたいの?何で?」
「え?昨日寝る時は賛成してくれた感じだったじゃん。どうしたの?」
「昨日は、気持ちが、その……ふわふわしてたし、私と似た名前つけたいって言われ
て嫌な気しないし、帆高が凄いグイグイ着るからそれも良っかーなんて思っちゃった
けどさ。でも、やっぱ読みまで親とほとんど同じじゃ、可哀想じゃん。
この子が大きくなったら、きっと嫌がるよ」
陽菜は口を尖らせて、気恥ずかしさと不安が入り混じった面持ちで言った。
そんな彼女に対して、帆高は微笑みながら首を横に振り、勢いよくカーテンを開く
ように、周囲を見回しながら口を開いた。
「僕にとってはさ、陽菜は日向そのものなんだ」
帆高は耳まで火照らせている。
陽菜に対して素直に気持ちを口にする度、彼は常にこうなる。それでも、どれだけ
恥ずかしかろうが、一瞬たりとも後悔しないために、言葉で言い尽くせないなりに気
持ちを伝えようと彼は決めている。
「東京はこういう空だ。陽が少し差しても、いつも曇りだったり雨だったりで、カラっ
と晴れた綺麗な快晴を東京で見るのは、これから先も難しいと思う」
かつて、この坂の夢を見る度に、帆高はここが鈍色に染め上げられた、無惨に命を
毟り取る牢獄に見えた。しかし、今こうして夫婦で揃って見る光景は、彼の目にはま
た違って映る。
「でも、ほんの少しでも陽が差す場所――日向は、いつだって世界を変える。周りが
暗ければその分だけ、照らされた場所はくっきりと明るく、新しい綺麗な姿を見せる。
僕はこんなにも美しい世界で生きているんだ、って教えてくれるんだ」
確かに鉛のような空はどこまでも続いてはいるが、雲を切り裂いて差し込む天使の
梯子――木漏れ日のように雲の隙間から差す光――は海と繋がった水面を、局所的に
であれ燦然と輝かせている。
かつて大勢の人々を運んだ電車の走行音の代わりに、水上バスの甲板からだろうか、
かしましい歓声が耳に届く。
雨に負けず咲き誇る桜も、地面に散った花弁さえもが、纏った雨露に差し込む日光
を反射して、光の実を実らせたかのようだ。
沈んでしまった家屋や二度と使われない線路。奪われて、失っていく――或いは自
分達の選択によって奪ってしまったかも知れない――ものも、はっきりと目に映る。
それでも、新たに輝くものも間違いなく在る。
それは、陽菜が帆高に教えたことだ。
虹色の嵐のように、くるくると変わる表情と仕草で自分を魅了し続ける彼女と一緒
なら、目の前の世界から、美しく色鮮やかな一面を幾らでも見出せる。
帆高は万感を込めて、最愛の妻に自分の考えを告げる。
「僕が五年前に陽菜に出会った時みたいに、この子もこの先出会う誰かの人生を明る
く照らして、生きる希望を与えられる。そんな人――お母さんみたいな、日向のよう
な女性になって欲しい。だから、僕は陽向は最高の名前だって思ってる」
思った以上の帆高の熱気に中てられたのか、陽菜は目を白黒させる。
数秒間を置いて、少し深呼吸した後の彼女の頬は、雨と一緒に舞い落ちる桜の花弁
と同じ色に染まっていた。
「何それ。何か……決め台詞みたい」
陽菜は、柔らかくふっと呟いた。
「ほんと、恥かしい人」
その時、にわかに春風が吹き去って、帆高の傘と陽菜のフードは、風にあおられた。
風に飛ばされかけた傘の柄を慌てて握り直した帆高の視線は、束の間、陽菜から外
れた。
そして、再び視線を戻したその瞬間、彼は、目の前の光景に目を奪われた。
春風に吹かれた雨粒と共に濡れた淡色の花弁が舞い散り、宙を気紛れに舞い踊りな
がら、陽光を反射して輝きを纏う。その煌びやかさと慎ましさを備えた天幕の中心に、
陽菜が佇んでいる。
身籠る子供と共に、最愛の夫を見守るように、優しく目を細めて柔らかくはにかむ
彼女の微笑みは、淡紅色の光の吹雪で彩られて、少女の可憐さを留めながら大人の色
香をも漂わせている。
淡くも鮮やかに輝く天然のベールを着こなす陽菜の姿を見つめるのに夢中で、帆高
は呼吸すら忘れた。
昔話の天女の羽衣とはこの光景から着想を得たのかも知れないと本気でそう思った。
光の吹雪が収まった後も、帆高は下げた傘が開いたままなことにすら気付かぬまま、
恍惚として立ち尽くしている。陽菜は帆高に一歩更に近寄って、ほとんど密着した。
大きいお腹が帆高の身体にぴたりと着いて、彼は無意識のうちに空いた片手をお腹に
添える。
「じゃあさ、二人目の女の子はどうすんの?最高の名前は先約済なんでしょ?」
彼女は頬を更に緩めながら、上目遣いで帆高に問いかける。
「あ、二人……。えっと、そうだな――」
まだ肌寒い雨中なのに、帆高の胸には熱い陶酔感が込み上げていた。
ふやけた頭で、まだ影も形も無い次女について、脳を空回りさせながら口をもごも
ごさせている。
そんな夫をそっと撫でるような視線で見守っていた陽菜は、不意にすっと背伸びを
して、帆高の唇を軽く吸うようにキスをした。
「ほら、ぼーっとしない。私も候補考えとくから、帆高もちゃんと考えといてね」
余韻に浸って呆けたままの帆高だったが、陽菜に頬を甘噛みのように抓られて意識
をようやく取り戻した。
霧雨がにわかに強くなり、顔に水滴を感じ始めて、彼はようやく自分がずっと傘を
下ろしたままだったことに気付いて、慌てて妻に傘を差し直した。
「……了解。最高って一つじゃないだろうし、良いの考えるよ」
「ふふーん、楽しみっ。ほら、そろそろ行こっ!」
陽菜は帆高の手を取り、帆高は歩みを早めて陽菜の隣に並び、二人揃って再び歩き
出す。
最高は一つじゃない。
指を絡めて手を繋ぎ直しながら、帆高は今の自分の言葉を、感慨を持って噛み締め
ていた。陽菜と夫婦で居る限り――つまりは生涯――最高だとその時に思った体験は、
いつだって更新されて、その度に彼女に魅了されてしまうのだろう。
丁度、二人がこの場で再会した、あの時のように。
「陽菜」
「帆高」
「「ん?何?」」
お互いの言葉が被った。愉快そうに二人は微笑を浮かべる。
この場所とこの時間、そしてこの季節。
再会した時のことを二人で思い出したのは互いに察しがついた。だから、お互いが
次に言わんとすることも分かる。
「きっと」はもう要らない。
「僕達は」「私達は」
「「大丈夫」」
思わず吹き出した二人は、歩みを止めずに腕を絡めた。
正面から向きつける風向きで、小雨ながらも、雨は彼ら目掛けて吹き付けている。
しかし、僅かに差し込む日光は、優しげに道を照らしていた。
森嶋家の三人は自分達の新居を目指し、一歩一歩、力強く、確かな足取りで水溜り
を踏みしめた。