あの夏の続きへ   作:テービット

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前編(2)~道標~

「お時間を割いて頂き、ありがとうございました」

 

「構わないよ。こうして学生に教えるのが教職の本分だからね」

 

 二○二四年の九月。

 対東教授が受け持つ夏季休暇中の特別講義の課題に関して、文献や参考書では分か

らなかった部分の質問をする為に、帆高が教授の部屋を訪ねた時のことだった。

 

 大学教授にも色々な人種が居ると知った帆高だが、書類や書物が多くとも、整然と

して小洒落た企業のオフィスのような空気に満ちた部屋はここしか知らない。如何に

も論文と格闘中という風情だったり、ゴミ屋敷寸前だったり、多種多様ながらも喧噪

の気配が漂うという共通点を見出せる他の教授達の部屋と比べると、ここは異質だ。

 対東教授は、増築中の別棟にもう一部屋、専用作業室を構えている。個室から雑然

とした気配が排除されているのは、この教授生来の几帳面さとその特別待遇が理由だ。

 国から重要研究指定を受けている研究テーマで他の追随を許さない実績を挙げてき

た対東教授の研究室は、知名度の高さに伴って、スポンサーに支えられた予算の規模

や就職先の質も段違いだ。それだけに、学内でも厚遇されていた。

 その割に、教授陣の中で目立った軋轢が無いのは、彼の人柄故という評判だ。

 

「そういえば、君は神津島出身だったね」

 

「僕の出身地を御存じなんですか?」

 帆高は思わず怪訝な表情を浮かべて身構えた。

 有名人の教授と違い、帆高は教授が指導する学科所属の百人程の学生の一人に過ぎ

ない。教授から見れば、教養科目の授業でしか顔を合わせていない、講義室の長椅子

という棚の上に陳列されたジャガイモ以上の存在ではない筈だ。

 

「私も全員の情報を全て覚えている訳ではないよ。……実はね、私の祖父は利島村か

ら移住してきたんだよ。私自身は父から幼少期の島の想い出を聞いた程度の繋がりだ

が、これが案外胸に刻まれるものでね」

 それから少し言葉を選ぶように視線を落とした後、口を開いた。

「受験の採点を担当した際に受験生達の限定的な履歴も目を通したのだが、出身地が

近いから、君のことは特に印象に残っていたんだ。突拍子も無い話で驚かせてしまっ

たかな」

 教授は言い終えた後も申し訳無さそうな微笑を浮かべている。

 

 ようやく合点が行った様子で、帆高は曖昧な相槌を打って肩の力を抜いた。

 そして、しばしの間何か思案した後、急に勢い込んで声を発した。

「あのっ!……課題について以外にもう一つだけ、教授に伺いたいことがあります」

 

「構わないよ。何かな?」

 教授は似合いのスーツ同様に乱れのない姿勢のまま、言い淀む帆高の二の句を待つ。

 

「教授はその……関東でだけ雨が降り続ける今の気候について、どうお考えですか?

えっと、この気候の中でどういう意識で研究開発に取り組まれているのか、とか。

それと、もし巷で言うような何か――誰かの実験のミスだとか。その……そういう、

陰謀論が真実だったとしたら。どう、思われますか?

 漠然とした、変な質問ですみません。ですが、どうしても一度、教授に伺ってみた

くて――――」

 帆高は畏縮する自分の身体を辛うじて押し止めるように、努力を払って視線を外さ

ないままで教授を見据えている。

 

 幼稚とすら言える質問だ。

 だが、その質問を発する青年の声は、誰が聞いても切羽詰まった人間のそれだった。

それでも、一笑に付されるか、要領を得ない冗談に付き合う暇は無いと叱責されるの

だろうと予測してか、帆高の顔に浮かぶ表情は自信なさ気だ。

 

 

 この対東教授が主要の研究対象とするのは先端農業全般だが、中でも注力するのは、

植物工場である。

 外界から隔離された屋内環境で、完全に管理して工業生産品として作物を育成する、

従来の農業と異なる無機質な印象を与えることから、工場という仰々しい名称で呼ば

れている。

 未だ原因不明の異常気象によって、世界有数の大都市たる東京の半分近くがたった

数年で水の底に沈んだ。その現実に対して、国際世論が受けた衝撃は尋常ではない。

それ故、環境学や気象学と並んで、地質や天候に一切左右されないのが売りの先端農

業――植物工場にも、否応なく国内外からの注目が高まり続けている。

 とりわけ対東教授は、この研究の第一人者として、生産性向上と低コスト化におい

て目覚ましい貢献を果たしている。

 そんな彼を「予測不能な世界で生きる上で人類に必要な人材」「生存の為の研究で

先陣を切って奮戦する者」などと持て囃す紹介記事が、専門誌はおろか全国紙ですら

掲載されたこともある。

 教授当人は大学運営部が書かせた提灯記事だと歯牙にもかけない態度だが、そうし

た称賛の声があるのも事実だ。

 そんな人物が何を考えて日々研究に勤しむのか。帆高は高校時代から、好奇心と、

ある種の畏れも抱いていた。

 

 対東教授の眼差しは、目の前の学生が質問に込めた必死の想いを察したかのように

少し柔らかくなった。

「森嶋君、君は伊豆七島――いや伊豆諸島の『水配り伝説』を知っているかね?」

 

「……地元ですから、さわり程度なら」

 予想外の話題を突然振られ、帆高は顔から訝しみが漏れるのを隠し切れなかった。

 

 伊豆諸島を伊豆七島で括りことに対する反感、といった地元特有の感覚を含めて、

思春期特有の反発心故に、地元への興味を露程も持たずに過ごしてきた帆高である。

だが、そんな彼でも、水配り伝説の舞台が神津島の不入ガ沢であるということくらい

は知っている。

 

 

**********

 

 

 この神話は、この七島それぞれを司る神々が、この場所で神津島の水を各島にどう

分配するか合議するところから始まる。

 この合議の結果、翌朝に先着順で水を採っていくことが決まり、翌朝には各島の神々

は、約定通りに先着順で遠慮なく水を確保していった。

そして、一番最後に着たのが、寝坊して出遅れたのが利島――対東教授の祖父の出

身地――の神。この神は残った水の少なさに激昂して暴れまくった挙句、残った水す

ら周囲に飛散させた。

 それ以来、神津島は予定外の湧き水が豊富に得られるようになって水不足には困ら

なくなり、対照的に、利島は本来得られる筈の水を確保し損ねて、七島の中でも水不

足に悩まされる羽目になった。そんな顛末だ。

 

 民俗学の知識も、さしたる興味も無い帆高にとっては、小学校の頃聞かされたのを

記憶の底から掘り起こさないと思い出せない、錆びの浮いた御伽噺に過ぎない。

 ……その筈だった。

 青年の胸中で、何故だか新鮮味や親近感が湧いていることに、彼自身当惑していた。

 

 

**********

 

 

「いや、脈絡も無くすまない。君の陰謀論といった話題を聞きながらこの雨を見てい

たら、この神話が頭に浮かんでね」

 

 頭の中に湧いた違和感に気を取られて、話題を振った自分の方が呆然としていたこ

とに気付いて、

「いえ、こちらこそ変な質問をしてしまって申し訳ありません。でも、どうしてその

話を?」

 帆高は姿勢を正して質問した。

 

「現実問題として、この異常気象の原因解明は暗礁に乗り上げている。誰かの仕業と

いう考えは荒唐無稽だが、憶測からの推論立ても、検証に着手する前段階として必要

な時もある。そう畏まることも無いよ」

 教授は思案顔になった後に、おもむろにデスクの写真立てを手にとって、

「この話題を始めた理由は……そうだな。先祖の出身地だからか利島の神に対して贔

屓目もあるかも知れないが、子供の頃に聞かされた時から多少なり思うところがあっ

たんだ。こうして雨が止まなくなってからは特にね。

 さて、森嶋君。君は、この神話についてどう思うかね?」

 写真を眺めながら、帆高に問いかける。

 

「どうって……何かモチーフになる出来事でもあったかって知識が無いので、僕には

大したことは言えません。短気は損気って意味合いの教訓かも知れないとか、巻き込

まれた利島の人達はいい迷惑だとか、そんな月並みなことしか……。すみません」

 帆高は少々気後れした様子だ。持論を述べたと言うより、他人はそうだろうと諦念

混じりに吐き出した感がある返答だった。

 

「いや、謝らなくて良いよ。当然の見解だろう。ただ、私の見解は違うな。」

 帆高の意外そうな表情に反応を示さず、彼は語った。

「確かに、既に決まった約定の結果であり、寝坊した利島の神の自業自得だ。とはい

え、皆の命の存続に関わる水の配分を先着順で好き放題確保する、という方法にも問

題はあると思う。そして、問題を起こして利島は水不足による窮地に陥った訳だが、

その代わりに神津島の人々は、利島の神のお陰で水不足から救済された訳だ。

 そんな状況が、この東京、ひいては日本と似ているように思うのだよ」

 

 帆高の鼓膜をやかましく叩いていた窓の雨音が不意に弱まり、再開した構内設備の

工事音が取って代わった。

 

「ですが、東京の人達は間違いなく困っています。今まで通りの生活を送れなくなっ

て――」

 苦しげな帆高のこの反論もまた、無視出来ない一般論を仕方なく読み上げているよ

うな義務感が滲み出した声だった。

 

「そうだね。ただ、不謹慎だろう話だが、恩恵を受けた者も居る。周知の通り、この

大学もそうだ」

 

 日本大学の雄たる東京大学は、水害によって再編を迫られた。

 かの大学ともなれば運営は継続されて、移転作業は進行中ではある。だが、完全に

元通りにする為に莫大な予算を投入する訳には行かず、東大の規模は縮小を余儀なく

されて、他大学に予算は再分配された。また、振り分けが変更された予算以外にも、

教授陣や学生、機材等のリソースも他大学に流出した。

 現在、この農工大も構内農地のうち幾つかの区画を植物工場や屋内設備へと改修中

だが、それもこの増額された予算のお陰だ。優秀な人材も確実に増えた。

 

「勿論、大学に限った話でもない。散々唱えられてきた財政や人口の一極集中の問題

は図らずも解消しつつあるし、新たな産業の活性化も促進されている。

 私達の与り知らぬ何者か――神とでも言うのかな。もし仮にそんな物が居たとして、

その何かの意図で東京が現状の通りになったとしても、総括すると悪と断じられるの

かは、私には判断がつかない。」

 

 帆高は、教授が説く今まで自分が聞いたことのなかった見解によって受けた驚きと

興奮を抑えようとするみたいに、ひたすら瞬きをしていた。

 

 東京都は西側を再開発しつつ、今もまだ首都としての機能を維持してはいる。

 それでも、昨今の気象と様変わりした東京を前にして、しがみ付く者だけではない

のは当然の話だ。省庁の一部は庁舎を都の西から都外に移転する計画は進行中、民間

企業の本社機能を移す動きも、緩やかではあれど止まる気配は無い。

 

「無論、君の指摘の通り、生じた問題の影響は深刻だ。例えば、私の研究に関して言

えば……利島もそうだな。主要産業の椿生産は風前の灯だった。あの花の育成は適度

に乾燥させる必要があるからね。」

 

 握り締めている自分の手が汗まみれになっていることに気付いた帆高は、教授の目

を盗むように、そっと掌を拭った。

 雨の中でも存外適応出来ていても、激変してしまった人々は大勢居る。

 この行為は、その事実に直面する度に繰り返す、彼の癖になっていた。

 

 虫眼鏡で観察するように目の前の学生を眺めていた教授の声に、にわかに明朗さが

加わった。

「だが、その椿生産も私とK大の教授の共同研究が役に立った。今では根腐れの対策

の目途も立っている。とはいえ、これも天候に対する農業問題解決の為にと、政府の

補助金が増額されていたお陰だがね」

 

「……皮肉、とお考えですか?」

 現状に対して否定的なのかをおずおずと問う帆高に対して、教授は首を横に振る。

 

「森嶋君。つまるところ、我々は繰り返しているのではないかな。

 神か未解明の自然現象か何かが利島に水不足をもたらしたとしても、改良し続けた

浄水設備が利島の住民の生活を支えられるようになった。そして、この止まない雨に

よって利島の住民も水不足からは解放された。その代わりに訪れた椿生産という主要

産業の危機もまた、科学の発展によって対応出来つつある」

 

 対東教授は真直ぐに帆高を見つめた。立ち竦む子供の肩に手を置く、叔父のような

眼差しだった。

 気恥ずかしくなって下を向いた帆高の目に、教授の左薬指の指輪が映った。天井の

照明を反射する指輪の光で、彼は自分の目が射貫くように照らされた気がした。

 

「例え何者かの仕業だろうと、この雨が止まなかろうと、私達学者のやることは変わ

らない。その功罪や現象全てを、丸ごとカバーするだけの寛容さと潜在性が科学には

ある。私はそう思うよ。

 その力を発揮させる為に、私達学者は研究に従事するのみだ」

 

 帆高は眼を見開いていた。

 

 その後、帆高は焦るように教授の部屋から退室した。上ずった声で退室を申し出る

彼の様子は傍目には不審ですらあったが、それでも教授は和やかに彼を送り出した。

 

 砂漠の真ん中を彷徨っていた時に、オアシスをようやく見つけた。そんな安堵感と

解放感が、帆高を支配していた。教授の部屋から退室した時にも、礼と挨拶の中に混じ

る興奮を抑え切れていなかったのを、果たして彼は自覚出来ていたかも怪しい。

 

 この時の帆高の目には、最愛の女性の手を取ってオアシス目掛けて二人で駆け出す、

そんな蜃気楼めいた幻しか映っていなかった。

 

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