「帆高君やっほー!」
入店時のドアチャイムに負けじと、夏美の第一声が店内に響き渡る。
「よう、青年。その格好も様になってきたな」
一方の須賀は、立ち姿同様に緩く手を挙げて挨拶した。
二人は扉を開け放ったまま、世俗の垢を落とすと言わんばかりに傘の雨露を勢いよ
く振り払い、ダンクシュートさながらに傘立てに傘を突き挿す。
「須賀さん、それに夏美さんも一緒ですか。珍しいですね」
「って、もう顔が赤いじゃないですか。お酒は止めた方が良いんじゃないですか?」
店員がこんなこと言うのも難ですけど、と帆高は呟きながら、少々億劫そうな表情
に反した丁寧な所作で二人を席へと促して、自分はカウンターの向こうへ戻った。
時間は夜九時半。
須賀と夏美が訪れたこの店は、帆高のバイト先の一つであるカフェバーだ。ここは
彼が取材を通して出会った、料理に目覚めた元バーテンダーが切り盛りしている。
バイトを探していた帆高をこの店に紹介したのも須賀である。
「これも仕事だから仕方ねえの。大目に見ろって」
「そうそう。でも、編プロに就職した後までおっさん相手に接待するなんて思わなか
ったー!やっぱ今度から圭ちゃん一人で行ってよ。おっさん達、私の方にばっかグイ
グイ来てガチで鬱陶しいのよね」
「社長と呼べ、社、長。それにお前、まだ副業のキャバクラの籍外してないんだし、
慣れたもんだろ」
「ちょっと圭ちゃん!それパワハラにセクハラ!公私混同!マジないわー!!労基の
出番じゃん!?ねぇ帆高君はどう思う?
あっ!それと、お勧めのカクテルちょーだい!」
ほろ酔いのほろ酔いの夏美は、いつも以上に勢いを増して捲し立てる。
帆高は久々の彼女の調子に少し呑まれつつも、頬を緩めてどこか懐かしげに目を細
めながら、二人に水を差し出した。
編集プロダクションとして精力的に活動を始めて、ようやく軌道に乗ったK&Aプ
ロダクションだが、勢いに乗った分だけ、出版社や外注ライターとの密な関係を維持
する苦労も増している。記事の質と同等以上に人脈がモノを言う業界だ。当然、納期
の厳守なんて常識だけでなく、こまめな接待等の面倒事もマメに取り仕切らなければ
ならない。そういった事情は、バイトとしてライター兼電話番を勤める陽菜を通して
帆高も聞いていた。
酒を待つ間、夏美はスマホを弄りつつ時折玄関を一瞥し、須賀は帆高がカクテルを
作る様子を眺める。
帆高はライムのカットと、更には味見を手早く済ませた。マスターはもう果実を扱
うカクテルを作る許可を出したのか、と須賀は少し驚く。手慣れた様子でステアも終
えて、ほどなくしてジントニックを二人分誂えた。
「ありがと帆高君。じゃレディーファーストで」
帆高がすっと出したジントニックを先に手に取った夏美が一口飲む。
「帆高君、美味しいじゃんコレ!私のバイト先のバーテンダーのよりイケるって!」
そりゃキャバクラのバーテンなんて、なんちゃってバイトが多いんだから当然だろ。
と須賀は口にしかけたが、帆高が続いて差し出した自分の分を一口飲んで、そのまま
言葉も一緒に飲み込んだ。目の前の帆高も本格的には修行していないバイトだが、確
かに下手なバーで出す酒よりも美味い。
「お前も大分板についてきたな。マスターに結構仕込まれて苦労したんじゃねえか?」
「ありがとうございます。結構楽しいし、そんな大変じゃなかったですよ。それに、
自分で味見出来ないから、まだ基礎中の基礎しか教わってませんし」
少年、と冗談めかして須賀が呼ぶことはもうなくなったが、それでも帆高が二十歳
になるのは一ヶ月半程先だ。それでも、「まだお酒を飲めなくてもやるからには、
ちゃんとしたものを出せるようになりたい」そう希望した帆高に対して、店主もある
程度の技法を仕込んだようだ。
帆高と陽菜の同棲生活の様子見に行った凪が、カルピスやらジュースやらで実験台
にされて、水腹を抱えて愚痴を言っていたのは須賀の記憶にも新しい。
ここの店主は元々銀座で修行した人間なだけに、雰囲気はカジュアルなカフェバー
の割に、酒の扱いにうるさい。指導を面倒臭がって辞める学生やフリーターが多く、
良い働き手が居ないか相談された須賀は、帆高にこの店でのバイトを勧めた。どうや
ら帆高は料理が好きなようだし、やる気と飲み込みの早さに関しては太鼓判を押せる
からだ。
須賀の人選は当たりだったようで、数日前須賀に電話してきた店主は
「彼が飲酒出来る年齢になったら、本格的に技法やレシピを教えていきたい」
と喜んでいた。
プロに見込まれているならこの手の業種にも適性があるのだろう。このまま長続き
すれば仲介役として鼻が高いし、いずれ帆高の作るマティーニを飲めるかも知れない
と須賀は密かに期待している。
ただ、須賀達にとって、今日は酒を飲みに着ただけではない。
「で、お前らの調子はどうなんだ?お前、陽菜ちゃんと何かあったか?喧嘩――って
ことはないんだろうが」
一息つけたところで、須賀と夏美は今日の本題に乗り出した。
「いや須賀さん!他のお客さんが居ますし――」
帆高は顔を少し赤らめ動揺しながら周囲を見渡す――が、店には現在、須賀と夏美
以外の客は居なかった。平日の夕食時には混むものの、それが一旦捌けると数時間程
は客が少ないのが、この店の日常だ。
店員の癖にそんなことも失念する程に慌てる帆高の初心な反応に対して、須賀は若
干呆れながらも優しさのこもった目付きで彼を見つめ返している。
帆高が夏美を方にも目を向けると、須賀の話題に対して興味津々な風ではあっても、
茶化す雰囲気は無い。むしろ彼女にしては真剣に構えている。
帆高は今になってようやく気が付いた。二人が今日ここに立ち寄ったのは、単なる
飲み直しではなく、帆高の相談に乗るのが目的だ。彼女が先程から店の中を眺めてい
たのも、自分が腹を割って話し易い環境かを確認していたのだろう。
三人共、忙しい身となった今では、須賀のオフィスでじっくりと相談を聞く時間を
確保するのは難しい。
「受験の件を引き摺ってんのかなって思ったけど、陽菜ちゃんも帆高君も、あれから
長いこと悩んでる気もしてね。陽菜ちゃんなら来年は受かるだろうし、本人もそこは
そんなに心配してないっぽいから、じゃあ何が理由だろうって思ったのよ」
「ウチも年末からのこの半年近く、忙しさにかまけちまってたからなぁ。あの子がウ
チに着てる時も、何か、いつにも増して無理してるようにも見えてな。お前らの間で
何かあったのかって思ったワケ。
……まぁどうしても言いたくないとか、おっさんに話しても意味がねえってんなら、
無理には聞かねえけどさ」
「ちょっとっ、昭和オヤジと一緒にしないでよ」
マスターは少し離れた場所で調理をしている。今日は売れ筋でない料理が予想外に
捌けてしまい、補充に追われている最中だ。仮に、帆高達の会話が聞こえたとしても、
マスターはバーの人間だ。従業員か客か問わず、他人のプライバシーを漏らす真似は
しない。それに、先程客前で大声を出したのにマスターが目配せで注意すらして来な
い辺り、須賀が事前に話を通してるのかも知れない、と帆高は想像した。
二人共忙しい中で時間を割いて、わざわざ心配して着ている。帆高としても無碍に
は出来ない。
「その、陽菜さん……多分、先の展開を望んでるんでしょうけど、俺はいつどうやっ
て踏み出そうかなって……。その、結婚とか、子供とか――」
二人の気遣いに感謝したか、予想外の周到さに観念したか、あるいは帆高自身も悩
みを吐き出したいのか。彼は、断片を千切って寄越すように相談を切り出した。
怪訝な面持で、須賀はグラスから口を離す。
子供の方はともかく結婚に関しては、帆高はこの期に及んで何を言ってんだか、と
いうのが須賀の正直な感想だ。
「むしろ、何を今更悩むんだ?婚約だってしてんだし、お前は親の扶養から外れてん
だろ。さっさと陽菜ちゃんを扶養家族にした方が楽だぞ?」
「えっと……それは、そうなんですけど――」
「まー、今時は結婚だ婚姻だって形に拘らない男女が多いって言うけどねー」
もごもご後ろめたそうに言い淀む帆高を見かねて、夏美がとりなそうとする。
しかし、彼女もまた、場当たり的に口にしたフォローに対して、自分自身で納得
行っていない様子だ。
帆高は今、バイトを掛け持ちして家賃等の生活費を自力で払っている。親の世話に
ならずに、持てる限りの段ボール箱を抱えたまま海を越えて引っ越し代を節約した。
そうまでして、東京でどうしてもやりたいことがある、と意思表示した若者だ。
陽菜との婚約を帆高の両親があっさり承諾したのも、そういう息子の覚悟を前々
から見ていたのも要因だろう。
親の脛を齧っているならともかく、陽菜と上手くやり繰りして扶養控除を適用した
方が、負担は減る筈である。客観的に見れば、今更結婚を躊躇する理由が無い。
それに、いざ半年前に婚約してみたが、陽菜本人に対する気持ちが離れつつあるだ
とか、夜の相性が悪くて困ってるとか、そういう話じゃないことは、須賀と夏美は熟
知している。それこそ、知りたくなかったくらいに。
『須賀さん……何事も、変わっていくんだね。
俺がセンパイ、だった時期も……あったんだよなぁ』
凪が二ヶ月に呟いた言葉だった。
受験に失敗した姉を心配して、彼女の風邪が全快したと耳にしたタイミングを狙っ
て、夏美と共に労いのサプライズを敢行しようとした。準備を整えて帆高のアパート
に突撃した時、まだ日も高いのに、病み上がりの姉と未来の義兄の営みに計らずも遭
遇してしまった。彼らもまた、不合格を慰める流れでそうなったのだろう。
そして、夏美曰く「燃え上がるってか、アレもう山火事。ヤバイ」という二人に気
付かれないように、凪達は須賀の事務所までそそくさとオフィスまで撤退して着た。
凪は中学生の割には大分マセている。今更ながらも、後見人としては諫めるべきだ
ろうと須賀が憂慮する程にだ。
そんな子が、あの時には、地平線の更に向うを見る遠い目をして、オフィスの壁を
ただただ見つめていた……。
……実のところ、須賀と夏美両名は、帆高が結婚を躊躇する理由について、一応は
察しがついている。しかし、この理由の核となる現象及び体験は、二人――特に須賀
――にとって、今一つピンと来ない話だ。
帆高当人がなかなか言い出せない様子で目を逸らしたままである以上、この話題に
ついて、二人の方から切り出して相談に乗ってやることも出来ない。
「なぁ、帆高」
帆高に呼びかけながら、須賀は背筋を正した。
その目は直前まで躊躇するように泳いでいたが、覚悟を決めたようにピタッと彼に
視線を定めている。
「まさかとは思うが、もう陽菜ちゃんへの情は冷めて着てっけど、別れ話切り出すの
も面倒だし、都合やら具合が良いから、とりあえずキープしとこうって考えじゃ――」
帆高の手にするグラスが激しく揺れてカウンターに水が飛び散り、須賀の質問は遮
られた。
「ふざけんな!キープ?陽菜を何だと思ってんだ!!」
激昂する帆高を目の当たりにした夏美は、叔父を諫めようと開きかけた口をそのま
まに仰天している。帆高に対して、いまだ子犬のような印象が抜けない彼女にとって、
彼のこういう姿は想像だにしないものだ。
「俺だって、早く陽菜と結婚したいし子供だって――」
グラスを握り潰しそうなほど強く握る帆高の手から力が少しずつ抜けていく。怒り
が萎んでいくにつれて、帆高の首はより下へと垂れていった。
「すみません、須賀さん。俺が不甲斐ないだけなのに……」
帆高は恥じ入った様子で、カウンターに零した水を拭いていく。
須賀の悲しげな眼差しには帆高を詰問する気配はなく、ただ陽菜と帆高を心配する
色だけを帯びている。元々内罰的な傾向が強い帆高としては、恩人にそんな懸念をさ
せている自分の無様さを恥じて、ただ恐縮するしか無いだろう。
「痛っ!?」
憮然とした夏美が、無言のままヒールの爪先で須賀の脛を蹴った。帆高が何事かと
不思議そうな顔を須賀に向けるが、
「……まぁ、気にすんなよ、青年。今のは俺が悪かった」
そう言って誤魔化した。
彼としても、帆高が言えずにいる悩みを引き出したくて、思ってもないことを口に
してカマをかけてはみたが、流石に意地の悪い質問だったと反省している。
ただ、帆高の陽菜への想いは依然強いままなのは確認出来た。
となれば、須賀と夏美の推測通り、結婚に踏み出せない原因は、就職との兼ね合い
から来る精神的なプレッシャー。そして何よりも、帆高と陽菜の二人だけの秘密――
例の特殊な体験が原因にあるのだろう。
四年前の陽菜の失踪と、廃ビルから彼岸に行って世界の形を変えただのという話だ。
あの二人が選択した結果として、東京からは青空が失われ、雨が降り続ける異常気
象が続くようになった。そんな与太話を、須賀は今も根からは信じていない。
だが同時に、一刀両断で切り捨てるだけの科学的根拠は――須賀個人としての心象
的な確信も――無い。
律儀な帆高と陽菜両人にとって負い目になっているのは、手に取るように分かる。
かと言って、何を言ってやれば良いのか。須賀にも夏美にも皆目見当がつかない。
重苦しくなった空気を振り払うように、須賀は椅子の背もたれに仰け反って、大き
く背伸びをする。
「まあ、何だ」
須賀は肩まで上げて組んだ手を勢いよく振り下ろしながら、
「世間様も、妊娠して踏ん切りついたから結婚ってパターンは多いわな。結局、この
手の話題はケースバイケースとしか言えねえや」
天井を仰ぎつつ呟いた。
「あら?流石に若過ぎるだろ、まず社会人になって地に足付けろ。とか圭ちゃんなら
正論言うかと思ったけど、ちょっと意外」
「俺は萌花が産まれたのは遅いが、高校中退だし、ぶっちゃけた話、家出人だからな。
明日花と結婚した時も、やれ家名の恥だの娘を誑かしただのと両家共に罵倒の応酬で、
酷ぇもんだったよ。経済面だ常識だ云々で、コイツのこと言えた身分じゃねえよ。
それにまぁ、就職したら地に足付くかって言えば、そうでもねえしな」
「まー、就職したては慣れるので大変だし、やれ転勤だ昇級試験だって、ずるずる延
ばす理由は無限湧きするしね。あー……でも、昇進とか栄転とかと無縁な会社っての
も虚しいけど。ね、圭ちゃん」
「……悪かったな。お前が弊社を育てて変えてくれ」
「それに、私の友達でも学生で産んだ子何人か居るけど、上手く行ったのと駄目だっ
たので半々かなぁ。大体、サークルとかライブとか、自分の生活リズム変えらなかっ
たのが駄目な原因の典型だからね。その点、帆高君と陽菜ちゃんは、遊ばなさ過ぎで
心配なくらいだから珍しいけど」
「陽菜ちゃんは見た目と違って大人びてたしな。夏美よりしっかりしてるんじゃない
かと今でも思うわ」
「さらっと酷くない?……陽菜ちゃんが大人びてたのは確かだけどね。圭ちゃんが心
も体も老け込んだ分、私が自然とバランスとろうとしたのかな?」
須賀は苦笑しながら、夏美の冗談を半分聞き流している。
自分達では本当の意味で理解してやれない領域の問題に対して、何かしてやれるこ
とは無いか。少しでも帆高の役に立つ助言を。そう考えながら、何を言ってやれば良
いか見当がつかないまま、二人は冗談めかした当たり障りの無い一般論で茶を濁す。
須賀の中で、焦りが煙を立てて燻り始める。
このままでは、去年の冬、帆高が目標とする研究とやらについて、彼から断片的に
聞かされた時の二の舞だ。あの時の帆高は単純に憧れを語るというよりも、縋りつく
ような危うさを覗かせていた。その様子が心に引っ掛かった須賀は、知っている限り
研究分野としての展望や収入の厳しさ等、一般的な情報を伝えて、一応の釘は刺した。
だが、帆高の心に響くものがあったようには、残念ながら見受けられなかった。
須賀が見る限り、帆高も少しはこの会話に興じている様子だ。このまま雑談を続け
て、彼にとって気晴らしになったならば良し、と撤収する手もある。
だが、須賀は、この青年に対してだけは、手抜きの助言で済ませたくなかった。
「こういう話題だと……やっぱり、そうだな。経験者として実体験を語るくらいしか
出来ねえな」
須賀は目を瞑って、気付けと言わんばかりにグラスの酒を一気に呷る。
彼は自身の傷口を抉る決心をした。それは、思った以上に回っているアルコールの
影響もあるだろう。秘めてきた想いを吐き出すのは、恐らく素面では不可能だ。
須賀はおもむろに瞼と口を開いた。
「明日花――妻が死んだのは交通事故でな。萌花を保育園に迎えに行く途中だった」
須賀は、グラスを軽く揺さぶって水面を眺めている。
夏美が目を大きく見開いて須賀の横顔を見つめる。グラスを握り締める彼女の手の
甲を、水滴が次々と伝って落ちていく。
「玉突き事故で、明日花を轢いた奴も巻き込まれた被害者。しかも事故直後、そいつ
は意識不明の重体。肝心の原因を作った奴は、即死しやがった。……お陰で他人を責
めることすら出来ねえ」
残った酒を一気に飲み干した後、残った氷を見つめながら須賀は続ける。
「もっと早く子供を作ろう、なんてこっ恥ずかしいから実際には言えねえがな。俺が
明日花にそう頼み込みでもしてれば。……そうすれば、あの時、あの場所にアイツが
行かずに済んで……事故に巻き込まれなかったんじゃねえか。
事故は避けられない運命だったとしても、萌花が物心つく前に死に別れた所為で、
写真でしか母親を知らない、なんて事態は避けられたんじゃないか。
正直、今でもそんなことを思ったりもするんだわ。これがさ」
「でも圭ちゃんっ、会社を持てる目途が立つまで子供を作るのは待つって二人で決め
たって明日花さんが言ってたよっ」
夏美が身を乗り出した衝撃で、座っている椅子がガタッと揺れた。
「しょうもない妄想だとは、分かっちゃいるさ。
けどよ、夏美は知ってるだろ。俺がどうなってたか。そんなことを延々と考えて、
アル中同然だった時期もあった。萌花に会わせてくれないなんて義母を恨んだ時もあ
ったけどよ、娘の為には正解だった。今じゃ感謝すらしてるよ」
手元のグラスを凝視していた須賀は顔を上げた。
「夏美が言うように、明日花と一緒に何日もじっくり考えて、夫婦で決めたことだ。
俺達の選択が間違いだとは思わねえ。お前らに会えたのもある意味そのお陰だしな。
どうしても、月並みな言葉になっちまうがな。どれだけ良いと思った選択だろうが、
必ず後悔する時は来ると思う。」
それから数秒間、皆が沈黙した。
店内にはジャズのBGMが流れているにも拘わらず、二人のグラスの中で溶けた氷が
鳴らすカランという音が、帆高にはやけに大きく聞こえた。
「本当にありきたりなことしか言えねえが、俺が嫌という程味わった実感だ。
帆高、どんだけ話し辛いとしても、意地でも陽菜ちゃんとしっかり話せ。二人で
どうするか決めておけ。もし、明日花の意見を聞かずに俺が独断で決めてたら、俺は
後悔し通しで完全に潰れてた。萌花の父親ですら無くなってたろうよ」
須賀の声から激励と希望を託す意志を聞き取ったのは、帆高だけではないだろう。
しかし、須賀の打ち明け話に対して帆高は何を言い出して良いか分からず、ただ布巾
ごと拳を握り締めていた。
**********
帆高は店主に呼ばれて一時的に買い出しに出掛け、カウンターにはマスターが入れ
替わりで控えている。
須賀と夏美は、帆高が外出の直前に作った二杯目のグラスを二人して弄んでいる。
「圭ちゃんさぁ、さっきの話、私にはしてくれなかったよね」
叔父の須賀でさえも内心では美貌と認める顔をむくれさせて、夏美は須賀を詰る。
「なかなか言い出せないこともあんだよ。まあ、男同士の話とか、叔父の意地とかっ
て奴だ」
酔いで赤みを帯びた頬と長い睫毛の据わった目でじっとを見つめる夏美は、他人が
見たら引き摺り込まれる程に妖艶な雰囲気を醸し出している。
しかし、叔父の脳裏には懐かしさと愛らしさが蘇っていた。彼にとっては、高校生
かそれ以前から自分に纏わりついてきて、出会った直後の明日花には何故だかちょっ
かいも出していた、姪の子供の頃を思わせる表情だった。
「何それ、セクハラ。何でも抱えてハードボイルドだとか気取ってみても、ただのや
せ我慢好きのぼっちのおっさんにしかなんないよ」
憮然とした声でもって小突いてくる夏美の言葉に苦笑しつつ、須賀はグラスを口に
運ぶ。相変わらず姪に心配される情けない叔父だと自嘲していることを、夏美は見抜
いているのか、彼には分からない。
だが、自分よりも心配なのは帆高達の方だ。
須賀は物思いに耽る。
あの四年前の廃ビル。須賀と同じように、帆高は最愛の人を失いかけた。
須賀は、娘を引き取る上で必要な身辺整理や保身、そして帆高自身の将来の為に、
少年を止めに着たと思っていた。だが、それだけではないと、彼の一途な叫びを聞い
た瞬間に気付いた。
――明日花の死をようやく受け入れたのに、何故今更になって俺の心を弄ぶ?――
――もし万一、彼岸とやらが実在して、帆高は愛する人を連れ戻せるのなら、何故、
俺の隣に明日花が居ない?俺の致命的な見落としで機を逸して、俺のしくじりで明日
花を永久に失ったとでも言うのか?――
オカルトは非科学的な妄想でなければならない。でなければ、明日花を失ったまま
の自分の人生は、一体何なのか。
煙を噴いて燻り続けるやり場のない残り火のような感情のままに、少年まで延焼さ
せてやろうと八つ当たりをする。心の奥底に居座るもう一人の自分に須賀は気付いて
しまった。
須賀は、ドス黒い燃え滓同然の自分の未練の醜さに慄然としたものだ。
その後、帆高が警官に無碍に扱われている様子に自分を重ねてしまい、つい激情に
駆られて警官と殴り合いまで演じてしまった。
陽菜は怪我も無く戻ってきたことと、自分のそんな公務執行妨害の間に、何かしら
の関係があるのかは分からない。陽菜が屋上で隠れていたのを言い出せずに居るだけ
で、自分の行動が全て無駄だった可能性だってある。
だが、帆高が言った与太話が真実だったなら――危うく、とんでもない過ちを犯す
ところだった。須賀は、下らない妄想だと思いつつ、あの件を考える度に身震いする。
天井を仰いで、彼は嘆息した。
会社も軌道に乗ったとはいえ、片手団扇は夢のまた夢。萌花を引き取る為の条件の
一つ、娘を今のエスカレーター式の私立学校に引き続き通わせるという間宮夫人との
約束も、守らなければならない。今はどうにか、凪にはある程度の資金援助をしてや
れているが、現状はそれで手一杯だった。
是が非でも、帆高と陽菜には幸せになって欲しい。須賀は心の底から願っている。
何とか帆高の助けになれば、と自分の胸中を曝け出しはしたが、果たして帆高の役
に立ったのか。
須賀は、自分の中に渦巻く憂慮と無力感を洗い流さんばかりの勢いで、グラスの酒
を賞味しようともせずに喉に流し込み始めた。