「お疲れ様でした。先に失礼します」
バイト先の工場から出た僕は、早足で家に向かう。
頭痛がする。歩く度に痛みが余計に増して正直歩くのもキツいが、だからと言って
こんな所にいつまでも居られない。
頭痛の一番の原因は寝不足だろうか。ここ最近、身体もガチガチに強張ったままだ。
何かの役に立つだろうと、島に居た頃は勉強づつ以外は身体を鍛えて体力をつけて
きた積りだったけれど、肉体労働で今のシフトはなかなかに堪える。
週五でバイトを入れても、講義もバイトも無い完全フリーの日を週一日確保すれば
問題無いかと思っていた。どうやら自分の体力を過信していたようだ。
あのカフェバーのバイトを増やせれば言うことはない。だけど、あそこが休日の時
に入れられて、僕のスケジュールにも合うバイトは限られる。今のシフトの維持は、
今日のバイトを続ける為には必要だ。仕方ないだろう。
……最後に須賀さん達と話してから、もう三日経つのか。時間の経過は憎たらしい
ほど早い。寝る前に仕上げないといけない課題もまだ残っている。
急いで帰らないと。
*********
バイトから帰宅した時には、もうすぐ午前零時半になろうとしていた。
玄関の扉をそっと開けて、中の様子を窺う。
部屋には薄明りが点いている。いつも陽菜は無理して僕の帰りを待ってくれている
けれど、今夜は僕が再三頼んだ通り、既に寝てくれたようだ。
冷蔵庫を開けると、僕用の夕食が用意してあった。
緑黄色野菜をふんだんに使ったコンソメスープ等、この時間帯でも胃に負担がかか
らず、栄養もばっちりの献立だ。明日着られるように、洗濯済の僕の服も畳んで置い
てある。彼女の気遣いが本当にありがたい。
なるべく音を立てないようにしながらコンロに火をつけ、電子レンジをセットして、
僕は今日、やっと腰を下ろした。
夕食を温め直す傍ら、スマホでニュースの一覧をざっと確認する。
「先端農業研究の予算増額を決定」「水上バス上で喧嘩。乗客一名船外に落下後救助」
「八王子、土砂崩れ対策の課題」「前途多難、水道管老朽化対策」「野菜価格、高騰」
既視感以外覚えないか、うんざりしてくるような見出しばかりだ。
目の奥が脈に合わせてズクズクと痛くなってきた僕は、スマホを充電器に繋げて、
そのまま床に捨て置いた。
今の僕にとって重要な情報は一つ。
対東研究室の研究内容と実績に対する評価に加えて、農工大が留学生の受け入れを
推進中な影響で、対東研究室の競争倍率が鰻登りであることだ。
昨年に至っては、対東研究室に迎えられたのは、学年首席とそれに次ぐ一人、それ
に加えて、早期卒業して大学院から入った飛び級一名と、留学生の計四人だけだとか。
特定の研究室に成績優秀者が偏らないように大学側で采配するのが常識だそうだが、
農業の生産性確保を急務とする政府の意向もあってか、対東研究室は例外扱いを受け
ている。
実質的に、早期卒業が出来る成績が必要条件で、それ未満は門前払い。狭い門とは
まさにこのことだろう。
保護観察で済んだとは言え、僕には前歴がある。
刑罰有の前科ではないから記載義務は無い。保護司にそう教えて貰った。けれど、
「賞罰無し」と偽ったのが後になってばれて、余計な面倒が増えた例もあると聞く。
何より、命より大切な人を取り戻す為に必要な代償だ。せこせこと嘘をついて隠す気
はない。
とは言え、選択肢が減るのも事実だ。設備の整った大手企業の研究職に就くのは、
僕には困難だろう。おまけに、その大手企業がスポンサードを申し出たり、共同研究
を持ちかけて、その研究において多くを担う機会が多いのは、対東研究室だ。
だからどの道、先端農業――特に植物工場の研究に没頭出来る環境に身を置いて、
その上で結果を出すには、あの教授の研究室に入るしかない。
物思いに耽っていた僕の耳に、薬缶の沸くコトコトという音と電子レンジの唸りが
届いた。本格的に音が激しくなるまえに、そそくさと止めに行く。
けたたましい音で沸騰を知らせるタイプの薬缶を買わなくて正解だった。電子レン
ジも完了直前に停止出来たから、眠る陽菜を無粋なチャイムで起さずに済んだ。
彼女がくぅくぅと立てる可愛らしい寝息に聴き入りながら、静かに夕食を口に運ぶ。
この狭いワンルームを何となく見渡すと、彼女の微かな寝息に乗るようにして、色
とりどりの彼女お手製の部屋飾り達が踊っているように見える。
もし陽菜が居なかったら、僕は果たしてどうなっていたか。
依然ぼーっとする頭がそうさせるのか、陽菜と同棲を始める前のこの部屋のことを
久々に思い出した。
去年の五月、大学の同期で開いたの親睦会に参加した直後のこと。こっそり酒を飲
んで酔っ払ってまともに歩けなくなった奴らを、仕方なくこの部屋に立ち寄らせたこ
とが一度あった。
『殺風景にも程が有んだろ。教科書以外物がねーじゃん』
『アレだ。ドキュメンタリーで見たことあるわ。ここ留置所みてーじゃね?』
人の家に上がり込み、二次会みたいな感覚でぐびぐび水を飲む酔っ払い達の無遠慮
な発言だったが、思い返せば、的外れではなかったと思う。
そんな無味乾燥な部屋を変えてくれたのは陽菜だ。
陽菜との同棲が始まる前、彼女とのデート中とそれ以外の時間の間で、部屋の照明
の電源を入り切りするような落差を感じていたのは、ずっと遠い昔のように思える。
そっと食器を片付け終えた僕はベッドの傍に腰掛けて、陽菜の寝顔を眺める。
どれだけ時間が経とうが見飽きない。本当に綺麗だ。ただ単に端正な顔立ちだとか
そんな話じゃない。くるくる変わる豊かな表情は天真爛漫なようでいて、その実、
常に誰かを気遣う気丈さが秘められている。
移ろう絶景の空のような女性だ。
外で雨樋から垂れる水滴の音が、彼女の陽菜に時々重なってくる
折角の彼女の寝息に雑音が混じって少し邪魔だけれど、聴こえなくなる程でもない
から、さしたる不快さは無い。
それに、僕は――降り続ける雨が及ぼす影響は別として――雨そのものに対しては
嫌悪感は左程抱いていない。それどころか、むしろ安堵感すら抱く日々を送ってきた。
快晴と引き換えに消えた陽菜。そして、彼女と帰還して以降、雨は止まなくなった。
だからだろう、彼女と離れ離れだった期間は特に、この雨は命の脈動でもある気がし
ていた。
この雨が降っている限り、陽菜は生きている。彼女とまた会える。
それが、島で悶々と過ごしていた頃の僕にとっての、生きる支えだった。
逆に今は、青空を恐れているのかも知れない。
SNSで他所の地域の快晴を写した画像を目にする度、あの光景を思い出す。
四年前、陽菜が連れ去られたあの日。
ベッドに残された抜け殻みたいな、彼女の体温を失ったバスローブ。果てしなく巨
大な穴がぽっかりと開いたような、虚無が広がる空。高く昇った太陽はギラつく光で
容赦なく僕の肌をチリチリと灼き続けて、僕の罪深さを炙り出そうとしていた――。
彼女が起きる気配が無いのを確認してから、財布の中のお守り袋を開いて、袋に仕
舞い込んだものを取り出した。
四年前、陽菜の十五歳の誕生日に渡した指輪だ。
陽菜が空に連れて行かれた直後の朝に、空から落ちてきたこの指輪を拾って以降、
結局渡さずに、彼女に見つからないこの場所に隠してきた。
この指輪を渡した時、果たしてどうなるのか。渡したら渡したで、彼女は喜んでく
れるのではないか、と楽観的に思う自分も居る。
だが、もし、二度と彼女の心が晴れなくなったら?
僕の前から、彼女の笑顔が消えたら?――想像するのさえ、恐ろしい。
どんなに美しく澄み渡る空だろうと、ある日を境に翳ったままになる。それが現実
に起こり得ることだと、僕は嫌と言う程知っている。
この指輪をも渡せない原因は、端的に言うなら値段だ。
リングケース代込で三千七百円。指輪だけなら――三千四百円。
僕の当時の月給を超える金額で、僕なりに清水の舞台から飛び降りた気分だった。
でも、今では、精々自分の背丈の高さから飛び降りて大冒険した気になって悦に入る
子供の遊びに過ぎなかったようにも思える。
……それでも、安物というだけなら気恥ずかしくても渡しただろう。
何より問題なのは、この金額は、晴れ女の依頼一回分の代金と同じであることだ。
『――全部お前の所為じゃねーか!――』
四年前、あの廃ビルで凪が俺に投げかけた、あの時の言葉。凪の怒号には、僕への
叱咤激励も込められていたかも知れない。
―――だが、あれこそが紛れも無い事実だ。
大切な女性の未来を切り開く手伝いを出来たと糠喜びして、無自覚なままに、その
人に文字通り身を削る思いをさせていた。自分達の願いが、彼女の心と体に何をして
いるか理解すらしてなかった世間の人々にしたって、僕がそうするように彼らを誘導
したも同然だ。
三千四百円。
晴れを願う代償の重さを理解せずに、陽菜の覚悟と命に対して僕がつけた値段。
そして、この指輪を渡した直後、僕は彼女の質問に対して安易に「晴れになって欲
しい」と返答して、彼女は絶望の表情を浮かべて空の彼岸へと去った。
僕が最後の依頼人になって、その意味すら自覚しないままに、僕の手で彼女に止め
を刺そうとしていたのではないか?
ヘラヘラ笑いを浮かべながら、世間の人達を嗾けて、そいつらと一緒になって年下
の女の子を崖の縁まで引き摺って行き、そのまま崖から突き落とした、最低最悪の愚
か者。それは――他の誰でも無い――森嶋帆高だ。
この指輪は、そんな僕の愚かさそのものじゃないだろうか。
陽菜の隣に居る心地良さに浸って、彼女の事情も胸中も知らずに済ませる甘えを抱
えたまま、一緒に晴れ女の仕事で駆け回ってた、あの頃の自分を俺は絶対に許しては
いけない。
この指輪を渡す訳にはいかない。
あの夏を、僕の犯した過ちを繰り返すことは、絶対に許されない。
彼女にプロポーズした時には、「今の指のサイズが分からない」「首元なら、雨に
晒され続けて錆びたりしない」という理由でペアのネックレスを贈った。
この婚約ネックレスも三時間も、悩み抜いて似合うものを必死に探した渾身の品だ。
それに、これらは全部本心ではある。
でも、この指輪が頭から離れなかった。いつしか僕は、贈り物の候補から指輪を除
外していた。結局、僕はこの指輪を隠し持ったまま、彼女が見ていない時にはじっと
この指輪を眺める行為を、僕はこの一年間ずっと続けている。
陽菜には改めて結婚指輪を渡したいとずっと思っている。
その為には、もっとちゃんとした指輪を用意しきゃいけないし、それに見合った立
派な結婚式を早く挙げられる準備を整えたい。
だから、どれだけキツかろうが身体が悲鳴をあげようが、バイトは減らせない。
今の僕は、どうにか早期卒業も可能な成績を維持している。周りにそれとなく聞い
た限りでは、成績は同じ学科の同期の中で恐らく上から三番目。聳え立つ高い壁の縁
に辛うじてしがみつけている。
ギリギリのラインだ。
だが、本番はここからだ。内容が難しくなるのは当然ながら、単位数も去年より増
えたし今後も増える。バイトとの両立は更に大変になり続けるだろう。
対東研究室に配属されて研究をやっていくために、どうにかして、このまま壁を超
えなければならない。
指輪を眺めながら延々と考えるうちに、脈に合わせてズクズクと波打つ頭痛をより
はっきりと感じだした。半ばぼけた頭で悶々と考えていても、まとまる考えもまとま
りはしない。僕は、どこか未練がましいこの習慣を切り上げて、慎重に指輪を隠した。
さて、課題を片付けなければ。
僕はひとまず、頭を切り替えようとシャワーを浴びに行った。
**********
そうして、シャワーを浴び始めたものの、近所迷惑にならないように水の勢いを弱
めている所為か、頭痛に対しては今一つ効果が無い。波打つ痛みに乗って、三日前に
須賀さんから貰った助言が頭の中に浮かんでは消える。
『どんだけ話し難いとしても、意地でも陽菜ちゃんとはしっかり話せ。二人でどうす
るか決めておけ』
僕の不甲斐なさを危惧した須賀さんに逆切れまでして、醜態を晒した。
そんな僕に対して、自分の過去の痛みを敢えて曝け出して、全力で向き合ってくれ
たのだ。あの人の誠意にはしっかり応えたい。
だけど、何もかも準備が足りてない。誰にとってもそうなのだろうが、僕にとって、
ちゃんとした人間になるのは本当に難しい。
結婚のことだけじゃない。彼女が他にも願望とか色んなものを押し隠しているのは、
これだけ長く一緒に居れば分かる。
彼女と結婚するのに相応しいちゃんとした人間に、立派な研究者になれば、きっと
どんな話にだって勇気を持って応じられる。あの教授の下でなら、きっと、そういう
男になれる。そうでなければ――
やはり、シャワーにはさしたる効果が無かった。仕方なく、インスタントコーヒー
を濃く淹れて、課題に取り掛かることにした。幸い、左程は難しくない数学の講義の
計算問題だ。文章を練る程には頭を使わずに済む。
既に目指すべき進路を見据えて後は邁進するのみ、という段階の筈なのに、こうし
て深夜に一人で考えていると、そこはかとない違和感が湧き上がって着る。
自問自答の低い声が、頭にこびりついて離れない。
――本当に、研究室に入って研究をやれるようになれば、条件が満たされるのか?
――本当に、自分は今、前に進んでいるのか?
僕は込み上げる違和感や不安を、頭痛諸共に紙に擦り付けて消そうと、一心不乱に
ペン先に力を込めて教科書の問題を解き続ける。
そうして、しばらくの間、頭を抱えながら課題に没頭した。
大分片がついたものの、眠気でぼやける頭を悪化する頭痛で辛うじて覚ましている
有様だ。あと一息とカップを引き寄せてコーヒーを飲もうとした――が、中身はもう
空だった。
見上げて時計を確認すると、午前三時を回っていた。
流石にそろそろ休まないと明日に障りが出る。
朦朧とする頭を抱えて、歯を磨きながら、明日以降の予定を頭で組み立てる。
明日をどうにか凌げば、明後日はようやく陽菜と丸一日ゆっくり過ごせる。折角の
デートなんだ。充実した時間にしよう。
だが、その後は、五日間かけた農業実習を兼ねた合宿だ。それに、課題もまだ化学
系と別の実習のレポートが残っている。まとめて合宿中に片付けるしかないだろう。
部屋の電気を消した僕は、重い足を引き摺ってベッドまで歩いた。彼女を起さない
ように細心の注意を払いながら、ベッドで眠る彼女の隣に腰掛ける。
陽菜も毎日勉強にバイトにと疲れていてぐっすり寝入っているから、いつもなら、
彼女を起さずにそっと隣に横になることが出来ていた。けど、僕もどうやら普段以上
に不注意になっていたようだ。
「あっと……!」
不意に意識が薄れて腕の力が抜けて、勢いよくベッドにのめり込んでしまった。
「……ほだか?」
しまった、と焦った時にはもう遅く、僕が起こした衝撃で陽菜は起きてしまった。
「あっ、ごめ――」
真夜中に起こしたことを謝ろうと口を開きかけた時、彼女の手が僕の頭に伸びて、
そのまま彼女に胸に抱き寄せられた。
「おかえり、帆高。お疲れさま」
まどろみの中に居る少し舌足らずな陽菜の声は、体温の上がった彼女の身体と溶け
合わさって、僕の頭を包み込む。
春の陽だまりの下、柔らかい草原で寝転ぶような心地だ。
陽菜に包み込まれて、頭に刺さった棘のような頭痛と全身を強張らせた疲労と共に、
僕の意識も安らかに蕩けていった。