あの夏の続きへ   作:テービット

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前編(6)~灰色の袋小路~

 

「すみません。課題提出に伺っただけなのにお言葉に甘えてお邪魔してしまって」

 

「いや何、気にすることは無い。立ち話も難だからね」

 

 帆高は、五日間に渡る農業実習を終えた翌朝、対東教授の個室に居た。

 教授は、自室の前で突っ立っていた帆高を部屋に招き入れた。帆高に来客用ソファ

に座るように勧めた後で、自分はデスク上の箱から何か取り出している。

 

「二年生は実習の合宿から戻ったばかりじゃなかったかい?合宿期間中の夜に取り組

んだのか。大変だったろう」

 

「時間を有効に使おうと思っただけですよ。これから今回の実習のレポートに取り掛

からないといけませんし、今日も午後からバイトですから」

 帆高はバランスボールに乗るように、柔らかいソファの上で身じろぎしている。

 

「頼もしい言葉だね。近年のこの学部には、君のように学習意欲が旺盛な学生が増え

ている。教鞭を執る身として喜ばしい限りだ。

 ……さて、と。もう少しだけ待ってくれ。」

 

「あっ、どうぞお構いなくっ」

 陶器の音が聞こえて、教授が自分に茶を出そうとしていると思い当たった帆高は中

腰になるが、

「そう言わずに、私を助けると思って飲んでくれ」

 教授は片手を上げて彼の遠慮を払い、手振りで座っているように促した。

 

 帆高は嬉しさの中に焦りを迷いが混じった曖昧な微笑を浮かべた。

 学習意欲旺盛な学生が増えている――それが彼にとっては問題だ。

 帆高としては、レポート提出は自分が一番乗りかと思っていたが、教授は入室時に

専用の課題提出用の簡易ポストから四部程のレポートを回収していた。

 彼に先んじて提出した同期が居た証だ。

 課題提出において学業成績に影響を及ぼすのは、提出期限を守ったか否かと内容の

良し悪しだ。提出の先着順は特に関係無い。それくらいは帆高自身も承知しているが、

自分より成績上位のライバルの存在を明示されているように思えてしまう。

 教授の誘いを無碍に断れないし、彼としても称賛されれば素直に嬉しい。しかし、

悠長にここに座って茶なんて飲んでいて良いのか。バイトとの隙間時間で何かすべき

ではないのか――。

 そんな焦燥と敗北感が募っている。

 

 教授は、そんな彼からすると少々苛立ちすら覚える慎重さな手付きで、ソーサーに

載せたティーカップを帆高に差し出し、自分もテーブルを挟んで帆高と対面する形で

反対側のソファに座った。

 

「マルベリー、桑葉の茶だよ。提携先からの貰い物だが、一人で飲み切るのは骨が折

れる。飲んでくれるとありがたい。私はハーブティーには疎いのだが、どうだろう」

 

「すみません。僕も普段麦茶かインスタントコーヒーかって生活なもので。ただ、落

ち着く香だと思います」

 帆高は欠伸を噛み殺しているのを誤魔化すように、お茶を飲み込みながら答えた。

 世辞は言っていないが、今はもっと刺激のある飲み物が欲しいと言うのが本音だ。

 このソファは彼が人生で経験した中で屈指の座り心地を誇る。疲労で重たく、朦朧

としてくる身体には毒だった。

 ずっと抱え続けている頭痛は今は鳴りを潜めているが、今度は少しでも気を緩めて

身を預けると眠ってしまいそうな自分を懸命に律している。

 

「本当に大丈夫かい?余り寝れていないようだが。中間試験までまだ日数はあるし、

出来る限り休養をとった方が良い」

 

「いえ、問題ありません。連日の農作業で少し疲れただけですよ」

 教授の言葉を、帆高は空元気で否定する。

 今の帆高は目のクマも出来て、視線もどこか虚ろだ。普段顔を合わせない人間でも、

風邪でも引いてるのかと疑うだろう。

 

「……率直に言うと、会う度に君が疲弊していくように見えるんだよ。春休みに静養

すれば問題無いかと思ったが、その様子だと多忙だったのだろう?

 私情に口を挿む積りはないが、バイトも休暇を申請出来るならそうした方が良い。

 もし不当労働を強いられているなら支援相談課を紹介しよう。行ってはみたかい?」

怪訝そうな面持で、学生を労わる言葉を教授は投げかけ続ける。

 

 だが、帆高は煙草の魅惑を退ける禁煙家のように助言を拒んだ。そして、椅子に

沈みかけた姿勢を正すと、改めて意志を吐き出し始めた。

 

「大丈夫です。バイトについては本当に良い職場を知人に紹介して貰っていますから。

 それに……僕は、教授の研究室で是非とも先端農業の研究をしたい。

 いえ、しないといけないんです。ですから、このくらいで止まっていられません」

 

 教授当人に今から直談判や懇願をしたところで、研究室の配属が左右されることは

ない。帆高の表情からも、教授に対して熱意をアピールする風でもなければ、おべっ

かを使って取り入ろうといった打算も見られない。

 ただ、声のトーンが徐々に落ちていくその様子は、どことなく切迫して、自己暗示

めいていた。

 

 対東教授はティーカップをテーブル上のソーサーに置くと、俄かに前に乗り出した。

注意深く細める目で、顕微鏡で観察するようにして帆高を捉えている。

 

 そして、彼はおもむろに口を開いた。

「研究者だけでなく別の道を検討してみてはどうだろう。まだ二年生なんだ。焦るこ

とは無い。今の君には、進路をじっくり見つめる時間が必要じゃないかな」

 

「あの、教授おっしゃる意味が分かりかねますが……」

 

「恐らくは、君の私事に立ち入るであろうから、無礼を承知で言わせて貰うけれどね。

このまま今の君が研究の道を進んでも、その先に君を救うものは無いと思うよ。

 本当に研究職へと進むのか。じっくりと考え直してみた方が良い」

 穏やかだが、はっきりとした言葉だった。

 帆高はにわかに目を剥いて、聞き慣れない外国語を辞書を片手に聞き取ろうとして

いるかのように手を仰いでいる。

 

「えっと……それはどういう――」

 帆高は、不意に右手で頭を押さえた後、呻くようにそれだけ口にして、そのまま言

葉に詰まった。鈍器で突然後ろから殴られたのに、次の瞬間には怪我が完治して戸

惑っている、とでもいった様子だ。

 

「どうした森嶋君。やはり医務室に――」

教授は声から平静さを減じつつ帆高に近寄ろうと立ち上がる。

 

 その教授の行動を、扉をノックする音が遮った。

 

「失礼します。対東教授、高瀬です。来月の学会の論文の件でご相談が――ん?」

 

 勢い良く扉を開けたのは、帆高も見覚えがある、修士二年の院生だ。焦りと険しさ

を含んだ声で要件を告げる途中で、彼の方も帆高の存在に気付いた。

 自動車を運転中に中途半端に深い冠水箇所に遭遇して、そのまま走破出来るか迂回

すべきか値踏みするのに似た目付きで、彼は帆高を睨め付ける。

 学会や就職活動の追い込み等、学生共通の火急の用事を抱える者達同士は、いわば

苦楽を分かち合う同志だ。しかし、彼らにとって、それ以外の学生――直接的な関係

の無い教授の部屋でお茶を飲んでる学部の二年生なぞ、ただの酔狂な暇人に過ぎない。

 

「高瀬君、今は彼と大切な話をしている。すまないが、用件は後で聞こう」

明らかに異様な態度の帆高を横目に対東教授はそう断るが、

 

「いえ、もうバイトの時間でもありますから。お茶、ご馳走様でした。これで失礼し

ます」

 帆高は教授と院生の間をすり抜けるようにして、教授に制止されるよりも早く、個

室から駆け出すように出て行った。

 

 

**********

 

 

 農業実習を兼ねたこの五日間の合宿も、対東教授への課題提出も終えて、僕は今日

のバイト先へ向かって歩いている。

 道すがらスマホを取り出して時間を確認して、教授の部屋から出てからもう三十分

経ったことに今更気付いた。つい数分前のような気がしていたが、正直時間の感覚が

無い。部屋から歩いてここまで出てきた時の記憶が曖昧だ。

 

 僕の目の前に続く道はまだ午前中なのが嘘のように暗い。

 頭上の空には、吊り下げられた分厚い鉄板みたいな雲がどこまでも広がっている。

見えない糸が急にぶつりと千切れて、予告無しにいきなり降って着そうだ。

 

 今回の合宿から今この瞬間まで――――心底堪えた。

 疲れた。

 

 この天候に悪戦苦闘する中で学びの場を提供してくれる老夫婦への感謝を込めた、

彼らの支援を兼ねての実地演習だった。だから、僕も一切手を抜かずに、誠心誠意働

いた。一緒に合宿した同期達の中でも、僕は人一倍我武者羅になって働いたという自

負はある。

 

 ただ、一人泥塗れになって働いたのは、本当にあの夫婦への感謝を示す為だったの

だろうか。合宿中も今も、分からない。

物凄く失礼な話だが、つい数時間前に別れの挨拶までしたのに、あの夫婦の顔をし

っかりと思い出せない。

 この雨に対する諦めが混じったあの人達の声を聞いていると、僕を根腐れ寸前の植

物みたいに呼吸困難になりそうで、僕はあの人達と言葉を交わす代わりに、振り払う

ようにして作業に没頭していたと思う。そのことに気付いたのは、帰りの移動バスの

車中だった。

 僕はこの五日間、あの人達の顔を直視出来ず終いだった。

 

 足を引き摺ってどうにか進む。身体が重い。皮肉にも響き続ける頭痛のお陰で、

教授の部屋で感じていた眠気だけは頭から押しやられている。

 昔、学校の防災訓練の一環で、着衣水泳をやった時を思い出す。

 ちゃんと傘を差しているし、実際に服は乾ききってるのに、服が水を限界まで吸っ

たような重みが全身にのしかかる。僕が気付かないうちに靴底に鉛でも仕込まれてい

るのか。

 この身体の重さと止まない頭痛は、実習の後にも他の授業の課題を進めていた所為

もあるだろう。

 ほとんどの同期は早めに床に就いたが、喉を内側から掻きむしるような焦りで眠付

けず、毎日午前二時くらいまで薄明りを灯して課題を片付けた。

 だけど、部屋の明かりからして、僕と同じく勉強していた奴も数人は居たし、僕が

特別って訳でもない。実際、そいつらは課題提出も先に済ませていたようだ。

 そういう奴らが競争相手なのだ。

 まだまだ、もっともっと、努力しないといけない。

 

 でも――――努力と言っても、一体僕に何が足りないんだ?

 僕は、これ以上、何をすれば良い?

 

 あの時の教授の言葉を、吐いて戻した物をまた胃に無理矢理詰め込むみたいに、頭

の中で延々と反芻する。

 

『このまま今の君が研究の道を進んでも、その先に君を救うものは無いと思うよ。

 本当に研究職へと進むのか。じっくりと考え直してみた方が良い』

 

 あれは、僕とって……何て言うんだ?最後通牒?絶縁状?三下り半?

 教授とは大した縁も無い。同郷と言っても島さえ海に隔てられている。それなのに、

そんな厚かましい単語ばかりが頭に浮かんでは消えていく。

 

 そもそも、僕は一体どこへ向かって、何がしたいのか。それさえも分からなくなっ

てきた。この一年、無我夢中で重ねてきた積りだった僕の努力は、所詮は独り善がり

の迷走に過ぎなかったのだろうか。

 

 

 僕にだって、現実は多少なりとも見えている。

 研究室で本格的に研究をやっていく為には、大学から更に大学院へ進んで、修士、

博士と進む。スムーズに行ってもその時点で二十七歳だ。大学の同期や先輩から聞け

た話では、実質宙ぶらりんの所謂ポスドクを三年まで続けるか、固定給の無い非常勤

講師になる者が大半だという。

 そうなるともう、自分の望みの研究どころじゃない。聞いた限りでのこれらの役職

の収入は、はっきり言ってしまえば、現状のバイトのシフトを増やしてフリーターに

なった方がまだマシ、という水準だ。

 

 僕は、陽菜と家庭を持ちたい。だからこそ婚約したんだ。

 だけど、僕は一体、これから先何年間、陽菜に苦労をかける気だ?

 彼女を幸せにしたい。彼女にだけは笑顔で居て欲しい。

 それなのに、その陽菜を、浮草みたいな人生に付き合わせるのか?

 

 そして、ちゃんと安定した収入を得て彼女との生活を支えられる役職、助手や助教

になるのは、研究室はおろか所属大学を選り好みせずとも難しい。どこの大学だって、

その募集枠は各学科単位で多くて精々二人だからだ。まして、本来コネで進学し易い

学内学部生ですら配属されるのが困難になっている対東研究室なら、想像を絶する倍

率なのは分かり切っている。

 当てずっぽうで宝くじを買い続けるのと大差無いかもしれない。

 

 ――――どうすれば良い?これから、僕はどうする?

 

 例え、何とかして学部首席になろうと、それはあくまで評価基準の一つだ。肝心の

教授当人からあんな評価をされているなら、僕の対東研究室入りは絶望的だろう。

 運良く他の教授が取り立ててくれたとしても、その教授が担当する別の研究の手伝

いで忙殺される。対東研究室でなければ、先端農業の研究をやらせて貰って、目立っ

た成果を出すなんて、逆立ちしても不可能だ。

 設備、予算、スポンサー、そういった問題は勿論大きい。

けれど、僕にとってはそれだけじゃなかった。

 何よりあの教授は、僕を――僕と陽菜を――受け入れてくれたような気がしていた。

僕達の決断を認めて、祝福すらしてくれた。そんな気がしていた。

 そして、僕達を許容した上で進むべき道を示してくれる。

 正直言って、そんな人物だと期待を寄せていた。

 だけど、そんなものは独り善がりで歪な希望に過ぎなかった。雨に打たれてボロボ

ロ崩れる泥遊びの城のように脆くて下らない妄想を追いかけて、僕は独りで踊り狂っ

ていただけらしい。

 

 風に傘をもぎ取られそうになって、危ういところで柄を引き戻した。

 勢いを増していく雨は、僕に容赦なく降り注ぐ。

 雨雲以外何も無い空と濡れたアスファルトはどちらも暗い灰色で、ぼやける視界の

中では境目が良く分からなくなる。実は、僕は気付かぬ間に灰色の球にでも閉じ込め

られていて、車輪の中をひたすら走る実験用ラットよろしく、グルグルと球の中を歩

き続けているんじゃないだろうか。

 この道に、これから先に、僕が望む終わりはあるのか?

 

 先端農業の研究をやれる立場に就いて、何としてもそこで成果を出したい。出さな

ければならない。

 でなければ僕達は――――陽菜との、これからは――――

 

 頭が痛い。割れそうだ。

 いつまで経っても、思考は堂々巡りを続けている。

 ……何にせよ、立ち止まる訳にはいかない。まずは、今日のバイトを片付けてしま

おう。今日は昼の数時間のシフトだから、何とか乗り切れるだろう。

 

 それさえ終われば、夕方になれば――陽菜に会える。

 合宿の前日、今日一緒に見に行く予定の映画について、陽菜が嬉しそうに話してい

たのを思い出す。まだ凪がよちよち歩きの頃に家族で見た、彼女が好きなシリーズの

新作らしい。

 彼女に会いたい。

 彼女の大きくて力強い瞳に見つめられて、鈴みたいな優しい声を聞き、艶ややかで

温い手に頬を撫でられる。それさえあれば、僕は生きていける。

 ……僕にはもう、どうして良いのか分からない。

 せめて、今日のデートで、僕がちゃんと彼女を笑顔にしたい。今はそれくらいしか、

してあげられることが分からない。

 

 今生きている、この為に生きている価値があると実感出来る全てを求めて、ただひ

たすら足を前へ運ぶ。

 

 

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