待ち合わせでいつも使う喫茶店で帆高を待つ間、私は受験勉強をしていた。
ここは値段が安い割に美味しいし、お店の人は嫌な一つ顔せずに長い時間居させて
くれるから、帆高も私も常連として使わせて貰っている。
彼が一生懸命働いてからここに来るのだから、私がサボって待つなんて出来ない。
それに、これからのデートをたっぷり楽しむ為に、やるべきことはやっておきたい。
今日デートで観に行く映画は、私の好きな映画の続編だ。
子供向け作品の続編だけど、単独作として大人でも楽しめる内容だって評判だから、
初めて観る帆高も、映画のストーリーについて行けると思う。
あの映画は、私と凪とお母さん、それと――お父さんの四人で映画館へ観に行った。
凪はまだよちよち歩きの赤ちゃんで、家族揃って出掛けたのはあれが最後だったっけ。
小さかった私は、本当に無邪気に楽しんでた。
彼も気に入って、一緒に楽しんでくれると嬉しい。
その時、背後でお店のドアベルが鳴ったと思ったら、
「陽菜さん、待たせたね」
帆高の声が聞こえた。約束の時間より一時間以上早い。妙だとは思ったけれど五日
ぶりに彼に会えるのが嬉しくて、勢いよく振り返って、
「帆高!早かっ――どうしたのっ!?大丈夫?」
帆高の様子が目に飛び込んできた途端に、私の声が裏返った。
春休みが明けてからのここ二ヶ月は特に疲れ気味だったけれど、今日はくっきりと
したクマも出来ている。今着てる青のジャケットが色移りしたいみたいな顔色だ。
この五日間、夜には電話だってしてたのに、何で気付けなかったんだろう。
「バイトで失敗しちゃって。注文取り違えたり、皿割っちゃったり。料理焦がしたり。
新人みたいなミス連発で迷惑かけちゃって――。店長も、今日は早めに帰れって言う
からさ。でも……今はもう大丈夫だよ。クビにはならずに済んだし」
私の顔を見てから彼の身体から力みが減ったように見えるけれど、彼の笑顔はどこ
となく引き攣っている。
増々おかしい。
今日の食堂のバイトは大分長く続けてるから、そうそう初歩的なミスはしない筈。
以前風邪気味でも無理に出勤した時には、もう慣れたから余裕だった、なんて鼻高々
だったのが、フリスビーを上手にキャッチ出来た子犬みたいだったのをよく覚えてる。
何が原因かは分からないけれど、間違いなく、帆高は今苦しんでいる。
「一昨日連絡した通り、席のチケットは予約しておいたから。上映時間までまだ大分
余裕があるし、久々にここで何か食べて行こ――」
私がおでこを彼のおでこに当てると、彼はぽかんと口を開けた。
普段なら私が恥ずかしがってやらないことを咄嗟にやったからか、口と同じくらい
に丸くした目で見つめている。
私だって恥ずかしいけれど、それどころじゃない。こうして体温を診た限りでは、
風邪を引いたりはしてない。でも、これから熱が上がって来るかも知れない。
おでこを離した私は、テーブルに広げた参考書と筆記具をかき集めてバッグに放り
込み始めた。
「他にも、何かあったでしょ。今日はデート中止しよう。帰って休まなきゃ駄目」
帰り支度を整えた私が席を立とうとすると、
「僕は大丈夫だから。とにかく何か頼もうよ」
手綱を咄嗟に掴むような素早さで、帆高が私の手を握ってきた。
「今日は楽しみにしてたろ。チケットだって支払い済だし、久しぶりのデートなんだ
からさ」
私に心配をかけまいとしてるのだろう、彼は元気を心の底から無理に搾り出すよう
な声で話している。
でも、私の目を真直ぐ見て話してくれない。
今の帆高の声と様子を見ていて、過去の記憶が蘇った。
四年前、夏美さんから天気の巫女は人柱だと教えられて自分の運命を確信した後、
透明になりかけた身体で私を見つめ返す鏡の中の私自身の瞳と、今の帆高のそれは似
ている。
晴れ女は大好きな仕事だった。けれど、同時に、あの頃の私は晴れ女であることが
自分の生きる意味を得る為の責務のようにも考えていた。夏美さんから人柱の話を聞
いた時は、自分はそうやって消えるべきなんだと覚悟した。
帆高と過ごしたあの夏の日々は私の大切な想い出だ。
だけど、私のそんな覚悟を否定して、二人でずっと一緒に生きようと手を伸ばして
くれたのも彼だ。
私は握り返した彼の手をゆっくりとテーブルに置いて、
「君が辛いの隠して無理したって、デートなんて楽めないよ。
……お願い。隠さないで教えて。何があったの」
意を決して彼に尋ねた。
彼が毎日無理をしているのは、私の幸せを願ってのことでもあるって、前から気付
いてた。でも、何に悩んでいるのか、こうして直接聞きはしなかった。
藪を突いて出て来るのが蛇なら良い。けれど、傷つけた私への不満や怒りだったら、
今の幸せな生活に取返しがつくか分からない亀裂が入る。私はいつも怖気づいてた。
その結果、心と体を毎日擦り減らして、彼は疲れ果てている。
これ以上、かつての私がやろうとしたのと似たようなことを、彼に強いる訳にはい
かない。
すると、帆高の目が据わった。
「陽菜さんの方こそ、隠し事は今更だろ」
ぺしゃんこに踏み潰されたみたいな声が私を打った。思わずぎくりとするのを抑え
ようとしたけれど、それでも多分、彼には気付かれた。
私達の間に沈黙が続いて、お店の軽快なBGMがやたらと遠く聴こえる。
「これはさ……俺の問題だよ」
身を乗り出して彼が話しかけてきた。私の動揺ぶりに遠慮してか、声は普段の帆高
に近くなっている。
「それに、ほら。隠し事があったとしてもさ、お互いこれまで上手くやって着ただろ?
今俺が抱えてる問題だって、ちゃんと解決しとくからさ。心配しないでよ」
けれど、悲しいくらいに震えているのを帆高は隠せていない。
「陽菜さんさえ、笑って楽しく過ごしてくれれば、それで俺は――」
「そんなの、私は望んでない!
疲れ切った君をただ見てるだけなんて……無理だよ」
私は、半ば叫ぶように声を上げていた。
何かの痛みを堪える彼の表情が周囲の酸素を薄めていくような気がして、息苦しさ
に堪えられなかった。
彼が気を揉んで苦しんでいる原因は、多分一つじゃない。その中には、私が隠し事
をしていることもあるのだろう。
だからと言って、私の夢のことなんて話せない。恐らくもっと彼を悩ませる。
……正直に言えば、私の夢と彼の目標のすれ違いが彼の心を私から遠ざけて、彼が
去って行くのが、たまらなく怖い。
その光景を想像するだけで、何もかもから逃げ出したくなる。
自分のことは隠しながら、彼には胸中は明かして欲しいと一方的に頼む私は、卑怯
な人間だと思う。
こうして話してる間も、彼は私をじっと見つめているようでいて、私のことは見て
いない。痛ましい過去を収めた写真を眺める沈痛さで、どこか別の遠いところを見て
いる。
私が正直に我儘を言って彼は余計に悩んで苦しむ。そんな姿はこれ以上見たくない。
そうして苦しみ抜いた彼が変心してしまうかも知れないのが、怖い。
どうして良いか分からなくなって頭が混乱してきて、情けなさで涙が出るのを何と
か堪えようとする。
きっと、私は今、くしゃくしゃでみっともない顔をしてる。
私の様子を見ていた帆高が血相を変えたと思った途端、彼の表情がどんどん暗く
沈んでいった。
「やっぱり、君はそういう風に泣くんだな」
にわかに帆高の瞳が潤み出した。
「そうやって、じっと独りで我慢して、独りで耐えて。……俺はまた、陽菜に抱え込
ませてる」
彼の声にも眼差しにも私を責める色は無いけれど、自棄めいた彼の嘆息が、私の鼓
膜に突き刺さる。彼は今、重荷に辛うじて耐えるようにテーブルに片手をついて、身
体を震わせている。
「俺は、陽菜の”大丈夫”になんてなれてない!君が楽しみにしてたデートすら、
まともにこなせなくなってるじゃねえか。こんなんじゃ……全然駄目だ。
俺は今もそんなに頼りないのか?これじゃあ、何一つ変わらない。……君に甘えた
まま、何も分かってなくて、してやれてないガキのままだ。まるで進歩してない」
ずぶずぶと沼に沈んでいくように、耳に刺さる声がどこまでも低く暗くなっていく。
今こうして対面してなかったら、帆高の声だと聞き分けられなかったかも知れない。
「陽菜、君の望みを言ってくれないか?
俺が君に出来ることは何がある?君の将来の希望とか、どうありたいとかってある
だろ?その為に俺は何をしてあげられる?
一体どうすれば良い?何をどう頑張れば良いんだ?頼むから答えて。……お願いだ。
頼むよ、陽菜」
顔をくしゃくしゃにしながら堰を切って感情を吐き出す彼を前にして、私の心はギ
リギリと絞めつけられていく。息が苦しい。
帆高が頼りない?私に何もしてくれてない?そんな訳無い。
どうして、彼はこんなことを言うんだろう。どうして、私は彼に言わせてしまった
んだろう。激情に溺れているように見える彼を慰めたいのに、何を言えば良いか分か
らない。
「私は――私の将来の希望は……そんなのは、無いよ」
まだ私は嘘をついて、
「陽菜、誤魔化さないでよ。正直に話して」
すぐにバレた。自然と伏し目がちになってしまうのを抑えられない。
私が彼の傍に居られて、彼が夢を叶えて幸せになれるなら、私はその道中で彼を全
力で支えていく。私自身の将来の夢なんて、さっさと捨てて忘れるべきものだ。
けれど、彼の真剣な問いには本音で応じなきゃいけない。
店内はBGMが流れている筈なのに、耳鳴りが聞こえて来る気がする。
私は数回深呼吸をした。
自分の夢を諦める見返りを求めるようで浅ましいと思うけれど、私の願いを一つ吐
露することにした。
「私は帆高と一緒の時間を過ごせれば、それで良い。同じことで喜んだり楽しんだり、
偶には君に怒ったりするかも知れない。悲しいことだってあると思う。でも、全部君
と分け合いたい。
だからお願い。私を、ちゃんと見て」
せめて帆高には、私に気兼ねせずに素の自分を曝け出して欲しい。
もっと彼を近くで感じたい。彼がただ純粋に、私自身をじっと見つめてくれれば、
それで満ち足りると思う。私はもう大丈夫なんだと思える。
彼の安らいだ姿を、あの屈託のない笑みを、もう一度私に見せて欲しい。
それだけで良い。
それなのに――――
「それは……何を、言って――――」
そう言ったきり、言葉か想いか、何か大きくて重いものが喉につかえて、帆高はそ
のまま言葉に詰まってしまった。
綺麗な音色を奏でるオルゴールの歯車の隙間に固い石を強引に捻じ込んで、そのま
ま壊れて停止してしまったみたいだ。帆高の左目だけが痙攣したようにヒクヒクして
涙が一筋滴り落ちたのを合図に、彼の感情までも引き潮のように去って、私の前から
消えていく。
粘ついた冷たい液体が、血の代わりに身体を巡って、私を内側から凍えさせていく
気がした。
私は今、とんでもない過ちを犯したのだろう。彼を酷く傷つけた。
何を言えば良いのだろう。「ごめん、言い過ぎた。許して」とでも言うのか。私の
発言の何が、どうして彼を傷つけたかも分からないのに?
そうして彼が許してくれたら、しれっと傍に駆け寄って、彼をまたしても傷つけて、
許して貰って――――私は、延々と、帆高にそんな仕打ちを繰り返すの?
――その双眸で私を見つめることさえ、君にとっては苦痛なの?
直接そう尋ねることさえ怖くて仕方ないのに、私はまだ彼に見つめて欲しいとそう
思ってしまう。
「ごめんね。私、頭冷やしてくる。……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
それだけ何とか喉から絞り出して、駆け込むようにお会計を済ませた。
混乱した頭と震える指先で無事に支払いを出来たのは奇跡みたいだ、なんて頭のど
こかで他人事のように考えてる。
ここで独り逃げ出すなんて、最悪だとは分かっている。
でも、居た堪れなくなった私は思わず店から飛び出していた。滅茶苦茶に揺れながらけたたましく鳴っているドアチャイムも、私のずるさを糾弾しているように感じる。
私は、ぐちゃぐちゃに混乱する頭をぶら下げて、どこへともなく走り出していた。