あの夏の続きへ   作:テービット

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前編(8)~「大丈夫」になりたい~

 彼女が店を出てから、もう何分か経っただろうか。

 

『お願い。私を、ちゃんと見て』

 

 陽菜の言葉で、僕は息を呑んだ。まるで自分一人だけが時間の流れから取り残されて

いるようだった。

 反論なんて簡単な筈なのに、言葉が喉から出て来なくて、頭が真っ白になっていた。

 

 彼女のことは、いつだって、誰よりも見つめてきた。

 輝くような笑顔、お説教をする時のむっとした顔、真っ赤な頬ではにかむ顔、少し

子供っぽいしたり顔――花園よりも色とりどりの表情は、いつだってすぐに、簡単に、

はっきりと思い出せる。

 

 だけど、悲しむ顔はどうだ?ちゃんと頭に描けるか?

 陽菜が祈る姿は?祈ってる時、どんな顔をしていた?

 ……何度も目にしてきた筈なのに、はっきりと思い出せない。

 

 ……違う。

 思い出すのを拒否しようと邪魔するもう一人の自分が、根を張った黴みたいに心の

奥底に居座っている。

 独り善がりな期待を教授に跳ね除けられて空っぽになった頭で、彼女の真剣な願い

を聞いた今、改めて自分に問うと、見たくない――見ようとしなかったことが、色々

と見えてきた。

 

 僕は、彼女の心に寄り添おうとしてきただろうか。

 この一年、祈る彼女を見かけた時には、僕はその背や横顔が視界に入る度、焦りや

動揺を覚えていた。そして、僕が声を掛けて彼女が祈りを止めると、ほっと胸を撫で

下ろしていた。

 彼女に今ここで「ちゃんと見ていない」指摘されるまで、そのことすら、ちゃんと

自覚しないままに、気付かないフリを通そうとしていたように思う。

 

 一年前に坂道で祈る彼女を見た時、見惚れる程の美しさでありながら、目を背けた

くなる悲しさを併せ持つその姿に、僕は完全に呑まれていた。

 でも、僕がしっかりと彼女を見続けてさえいれば、それ以降に彼女が祈る姿から、

何か変化を見て取ることだって出来たかも知れない。

 それなのに、あの一年前の立ち姿以外、祈る彼女を思い出そうとしても、脳から掘

り起こせるのはフラッシュバックみたいに極短い時間だけだ。思い返せば僕は、彼女

が祈る場面を見かける度、自分自身でも不思議なくらいに急いで大声をかけていた。

 

 ――もしかしたら、僕はただ、彼女の祈る姿を見たくなくて、祈るのを止めさせた

かったから声を掛けてたのか?

 

 彼女を守りたい。支えたい。ずっと、毎日そう思ってきた。その積りだった。

 けれど、こうして自分の記憶を掘り返せば掘り返すだけ、僕がやろうとしたのは、

彼女の"大丈夫"になって、全部受け止めることとは程遠い気がしてくる。

 四年前の夏、晴れ女として活動した日々の中で、僕が無自覚に陽菜に負わせて抉り

続けた彼女の心の傷。この世界を変えたことで彼女が受けたであろう苦痛。

 僕はただひたすらに、それらを直視することを、怖れていたんじゃないだろうか。

 

『このまま今の君が研究の道を進んでも、その先に君を救うものは無いと思うよ』

 

 何故、対東教授の言葉にあれ程ショックを受けたのか。今なら理解出来る。

 何の事は無い――教授は見抜いていたんだ。

 

 僕は、「今自分は立ち向かってる、前に突き進んでいるんだ」と自分自身を誤魔化

しながら、後ろ向きの努力を重ねてきただけだった。

 この一年間、人々の生活を改善する研究に携わるのが目標だと標榜しながら、僕の

選択の結果なのだろう降り続ける雨で苦しむ人々を見る度に、心苦しさに耐えかねて、

肝心の当人達の様相からは目を背けてきた。

 昨日までの実習が良い例だ。当人達をしっかり見ないで、仕事だけ済ませて逃げる

気満々だった。

 

「何だよ。俺……逃げてただけじゃねえか。」

 

 先端農業の研究で功績を上げて植物工場の高品質化や普及を実現することで、皆の

生活基盤を雨と無関係の物にする。

 それが達成出来れば、ゆくゆくは雨の脅威なんて皆が気にしなくなるかも知れない。

僕の選択の結果がもたらしたのだろう罪から背を向けつつ、清算出来るのではないか。

そんな都合の良いことを懇望していたんだ。

 今は、そんな浅薄な自分の胸の内が、はっきり分かる。

 そんな願いが叶ったならば、世界の在り様を変えたことで僕以上に苦悩しているだ

ろう彼女と共に、この重圧から解放される。

 大手を振って陽菜との人生を謳歌出来る。

 躊躇う事なく陽菜と手を繋ぎ、人目なんて気にせずに彼女の瞳を好きなだけ見つめ

ながら、僕がこの人の夫だとのたまおうことだって自由だ。

 

 

『私は帆高と一緒の時間を過ごしたい。

 同じことで喜んだり楽しんだり、偶に怒ったりするかも知れない。悲しいことだっ

てあると思う。でも、全部一緒に分かち合いたい。』

 

 だが、今、彼女の言葉のお陰で、頭の靄が晴れた。

 今までは、僕自身の罪悪感からも、最愛の人に対して犯した罪からも、何もかもか

ら背を向けて、陽菜に僕の願望を押し付けようとしていただけだ。

 彼女の本心を受け入れるどころか、知ることさえ拒絶して、自分を誤魔化して僕に

とって都合の良い人間になれと強要しようとしていた。

「今の君の悩みの種も、過去の遺恨も、僕がこの手で無かったことにした。だから、

もう過ぎた事として何もかも水に流せ」つまりはこういう思考だ。

 

 さっきとの陽菜との会話にしたってそうだ。陽菜とのデートを楽しもうとしてたん

ですらない。

 研究者になって、彼女に過去を忘れろと強要出来る男になれそうもないからって、

せめて婚約者として満足させる男を演じて、彼女の心の中で僕の居場所と存在価値を

確保しようとしていた。あまつさえ、自縄自縛で勝手に苦しんでるのを彼女に慰めて

貰おうとして、また甘えてた。

 挙句、自分が陽菜を泣かせた癖に、無力さに耐えかねて八つ当たりする始末だ。

 

 こんなに厚顔無恥な願望が、こんな下劣な男が、果たして他に存在するのか?

 

 

**********

 

 

 改めて思い知らされた自分の醜さに対する自己嫌悪に沈んでいると、僕の足に何か

がぶつかる感触がした。嫌々ながら、殻から首を出すカタツムリさながらの鈍さで足

元を向く。

 僕の足にぶつかったのは、陽菜愛用の傘だ。

 この雨の中忘れて行くなんて、余程慌てて出て行ったのだろう。記憶の限り、今日は

レインコートも持参してなかったようだった。

 このままだと、彼女は雨に濡れて風邪をひいてしまう。

 

『何となくね、濡れとこっかなって思うと、フードだけ被って歩いてみるんだ。ほら、

あれ。水も滴る良い女って奴?』

 一年前の春に陽菜と再会した直後、女はおどけてそう言った。

 そんな彼女を見ていられなかった。

 僕は彼女の手を半ば強引に引っ張って、二人で傘を買いに行った。

 そうして彼女が欲しがったのが、この黄色い傘だ。この色だと、晴れ女ビジネスで

都内を巡ったあの夏の日々を想起させる。正直言うと別の傘にして欲しいと思ったが、

彼女の熱望で今度は僕が仕方なく折れた。

 

 僕が贈った黄色い傘を差して踊るように歩く彼女は、真夏の日差しの下で風に揺れ

る向日葵みたいだった。

 

 足元の傘を見つめていると、陽菜との想い出が泉の水ように湧き出てくる。

 初めてのデート。初めて一緒に料理をした時。同棲を始めた日。両親への挨拶の為

の帰郷。

 そして、傘を渡す切掛けになったあの時――祈りを捧げる彼女との坂道での再会。

幾度となく繰り返し思い出したあの光景が、再び頭に浮かんできた。

 あの時も、彼女はフードだけ被って、雨に濡れながらひたすら祈っていた。

 美しさへの驚嘆と、気後れして逃避しかけたことへの言いようのない自省。あの時

彼女を見た瞬間、僕は、自分自身の中から噴き出すあらゆる感情の奔流に押し流され

ていた。

 

 

 もし、もう一度あの瞬間に戻ったなら、今の僕は何をするだろう。

 僕は彼女をどうしたい?彼女にどうあって欲しい?

 

 

 ――――何を考えることがある?

 分かり切ったことじゃないか。

 あの時と同じだ――いや、今度はもっと上手くやってみせる。

 

 

 不意に、テーブルの方でコトッという音が聞こえた。

 見上げると、テーブルの上の白いカップが視界に入って着た。給仕担当のバイトで

はなく、店長が運んできたようだ。

 

「あの、間違いですよ。まだ何も注文してません」

 

「カフェモカだよ。キミ、鏡で自分の顔を見たか?」

「カノジョさん、追いかけるんだろ?お代は次着た時まとめてで良いから。それ飲ん

で、早く行きなさい」

 

 更によく見ると、運ばれたカップから立つ湯気は微かで、小さな氷が物凄い勢いで

溶けている真っ最中だ。飲み易い温度に冷ましておいてくれたらしい。

 

「ありがとうございます」

 遠慮なく、出されたカップの中身を一気飲みする。すると、まだ温かい飲み物が一

気に喉を通り過ぎ、刺激で少し頭が冴えて来た。

 

 何から彼女に伝えれば良いのか。あの夏の日々、僕が彼女の心を抉ってきた過去と

向き合ってちゃんと謝れるのか。それはまだ、分からない。

 僕は今も、どこまでも頼りない男だ。

 けれど、それでも彼女の傍に居たい。

 魚だか龍だか神だか空に居たのが何か知らないが、もし連れていかれたなら、何度

だって取り戻す。

 

 

『僕達はきっと、大丈夫だ』

 

 

 僕は本当に大切な気持ちを忘れかけていた。

 ……いや、それも違うか。僕は間違えてばかりだ。

 変わり果てた東京の姿や彼女に対する仕打ちの重さを意識して、再会した時の彼女

の祈る姿を繰り返し思い出すうちに、僕自身の精神が、初心を捻じ曲げてしまってい

たのだろう。

 一年前のあの坂で、彼女と再会したまさにその瞬間には、僕の感情が振り切れて無

心になった。そして、まず最初に僕の中に満ちたのは、あんなにも尊い彼女を抱きし

められることへの喜びと愛おしさだ。

 彼女の全てを抱き止めて、二人で一緒に生きたい。そう願い、誓った。

 こんな僕でも、陽菜のような女性に巡り合えて触れ合える。そのことに、ただただ

ひたすら、感謝と感動を覚えたんだ。

 

 彼女を、彼女の想い全てを、ちゃんと真正面から受け止める。

 まずは、そこからやり直そう。

 

「カノジョじゃなくて、婚約者です」

「御馳走さまでした。迎えに行ってきます」

 瞠目しているらしい店長に軽く一礼してから、膝裏で椅子を跳ね飛ばし立ち上がる。

 僕は彼女の傘を手に取って、陽菜に電話をかけながら喫茶店を後にした。

 

 

**********

 

 

 走りながら陽菜に電話をかけても、もう何分も話し中のままだ。二人共GPSの位置

情報アプリの類はスマホに入れていないけれど、陽菜の行先は予想がつく。

 このタイミングで長い電話をしていることからして、凪か夏美さん、あるいは高校

時代の友達が相手だろう。凪や夏美さんは田端の実家のアパート住まいだし、友達は

新宿界隈に住んでいると聞いている。

 どちらにせよ、最短ルートを通って駅へ向かって歩いている筈だ。

 全くの見当外れで、実際には先に家に帰ってるなら、それはそれで構わない。ここ

からなら距離は近いから、陽菜が大して濡れずに済む。

 僕は電話を切り、彼女の傘をバトンのように握り締めて、全速力で駆け出した。

 

 今更になって、僕の方が自分の傘を忘れて出て着たのに気付いた。……別に良い。

二本抱えていたら走るには邪魔だ。店長には悪いが保管しておいて貰おう。

 幸い、今は雨が小降りだ。早く届ければそんなに濡れずに済むだろう。

 今は、陽菜に届ける傘だけあれば良い。

 

 彼女の心の傷はどれほどなのか。僕がその傷を直視した時、一体何が起こるのか。

 もしかしたら、途方も無い悲しみや、優しい彼女が僕に遠慮して押し殺し続けた憎

悪が傷口から噴き出して僕達の関係を粉々に砕いてしまうかも知れない。彼女の婚約

者どころか恋人ですら無くなって、未来永劫、復縁のチャンスすら失うかも知れない。

 

 正直、身体の芯から震え出す程に怖い。生きる気力を繋ぎ止められるか不安だ。

 それでも、彼女に全力で駆け寄って、想いの丈全てを抱き止める。その役目は僕の

ものだ。僕が陽菜にどう思われようと、僕がどうなろうとそれだけは他の誰にも譲ら

ない。

 例え彼女の愛を失っても、不満も苦しみも全部受け止めて、僕が居れば彼女が生き

る気力を育める。そんな、彼女にとっての寄る辺になってみせる。

 

 降りしきる雨が顔面に当たるのを感じながら、陽菜の下へと必死に走り続ける。

 

 陽菜。

 今度こそ、僕は、君にとっての”大丈夫”になりたい。

 

 

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