帆高はきっとまだ喫茶店に居る。
戻って早く謝らないといけないのに、どんな顔で戻れば良いのか、何をどう切り出
せば良いのか分からない。
迷いに迷った挙句、仕事中の夏美さんに電話をしてしまった。今の私の声を凪には
聞かせられない。このまま実家に戻ってはいけないと思いながら、駅へ向かってのろ
のろと歩いてしまっている。
歩いている最中、鼻先に水滴が当たって、今更ながら傘を忘れたことに気が付いた。
彼が私の体調を心配して、折角プレゼントしてくれたお気に入りの傘なのに。
でも、今は雨に打たれていたい気分だから、丁度良いのかも知れない。
帆高に連絡する為にも、一旦頭を冷やして考えをまとめきゃ駄目だ。
私は、フードだけ被り、また歩き出す。
一年前までは、これが私の習慣だった。
あの頃の私は、常に雨を肌で感じていなきゃいけないような気がしていた。
馬鹿みたいな自己満足で、無意味だ。風邪を引くから止めろと凪にも何度も注意さ
れた。けど、風邪を引いたら、それはそれで気が楽になるかな、なんて思ってもいた。
当然、何の解決にもならなくて、毎日どんより暗くて重い空を見上げる度に、心が
押し潰されそうだった。
独りで何も出来ずにいるのが堪えきれなくなりそうな時、私は祈った。
私はもう、晴れを願うことは出来ない。晴れ女としての力はもう失ってしまったし、
晴れを祈るのに資格が必要だとすれば、それも自ら手放したのだと思ってた。
それに、祈って万一願いが通じてしまえば、私を選んでくれて、この世界で生きる
チャンスをくれた彼の覚悟が無駄になる。
だから私は、晴れではなく、雨の中で苦しむ人々の幸せを無我夢中で祈った。何に
祈れば良いのか、具体的にどういう幸せなのかすら分からないのに、溺れてる最中に
藁でも掴もうとするように、見えない物にあてもなく縋ろうとしていた。
私の所為で罪を重ねて保護観察にまでなってしまった彼に、私の為に東京を水に沈
める共犯にしてしまったかもしれない彼に、会う資格さえ無いのかも知れない。
それでも、私は帆高に会いたかった。
その時だった。
『陽菜さん!』
薄暗い霞を吹き飛ばす、春風みたいな帆高の声が聞こえた。
背は大分伸びて、身体は昔より逞しくなっていた。
私を抱きとめ、包み込む腕と手は凄く力強い。
顔にはどことないあどけなさはまだ残っているけれど、辛そうに泣いているのに、
輝く笑顔を湛えている。私の心を氷解させる、陽だまりのように暖かい人。
空の雲を切り裂くように日の光が差して、彼と私を包んでいた。
雨風も太陽も、何もかもが私達を祝福してくれているのではないかと思える、至福
の時間だった。
『僕達はきっと、大丈夫だ』
そう、彼の言う通り。彼と居られれば、私はどんな困難もきっと乗り越えられる。
そんな希望と期待で身体が熱い。
森嶋帆高。
私を愛してくれる、私の人生で一番大切な人。
彼を、彼との人生を選んで良かった。心からそう思った時、私は不意にお母さんの
言葉を思い出した。
**********
まだ私が十三歳で、外出許可も下りないお母さんが一緒に初詣に行けないことを私
達に謝って着た時のこと。苦労しているお母さんに何とか気を持ち直して欲しくて、
「神様にお祈りしたってどうせ願いは叶わないから別に良い」なんて、少し強がった
私達に対して、
『"祈り"と言うのはね、元々は"意宣り"というんだって』
と教えてくれた。
私達を撫でるお母さんの手はヒビ切れでカサついてたけれど、その感触が不思議と
心地良かったのも覚えている。
『神様自身、そして神様が宿っている空や森といった自然は、私達の身体と繋がって
いて、神様は私達の中や傍にいつも居る。そういう考え方があるらしいの』
これは貴方達のお婆ちゃんからの受け売りなんだけどね、なんて照れ臭そうにしな
がら、お母さんは話を続けた。
『"私のこういう目標の為に頑張ります。だから、どうか見届けて下さい。"
そうやって自分と神様に誓うことで、まずは、自分の力で夢に向かい続ける勇気を
貰うの。頑張り続けていれば、自分の中や傍に居る神様は、きっと一緒になって力を
貸してくれる。そう信じて、祈(意宣)るの』
急にお母さんの手に力が篭って、
『貴方達も祈(意宣)って、精一杯、貴方達に出来る限りことをしなさい。どこかの
誰かに、ただ何となく無い物ねだりして縋るんじゃなく、望む人生を掴む為に。
神様は居ないかも知れないけれど、貴方達を愛してくれる人なら、一生懸命頑張る
貴方達に、きっと力を貸してくれる。そういう人を探して、大切にするのよ。
でも、人生で一番大切だと思える人に出会えたなら、自分の中の強い願いはちゃん
と口に出して伝えなきゃ駄目。無理して隠していると、多分、お互いが余計に傷つく
だろうから。』
そう言ったお母さんの声は、悲しくなるほどに優しく穏やかだった。
「大切な人とかって恋人とか?私達にはまだ早いよ」なんて、私も凪もそう言って
冗談めかしてはぐらかそうとした。けれど、お母さんの真剣な眼差しを前にしたら、
言葉が詰まってしまって、気が付いた時には二人して泣いていた。
お母さんの容態はその数日後から悪化の一途を辿り、その年の夏の終わりに、その
まま還らぬ人となった。今になって思えば、あの時にはもう、お母さんは自分の死期
を悟っていたのかも知れない。
お母さんのあの言葉が四年という歳月を超えて、私に教えてくれた。
私は勘違いしていた。
私は、あの夏の十五歳の誕生日に、晴れ女としての祈りの力を失ったんじゃない。
祈りとは何かを忘れてしまっていたんだ。
私が空を晴れにしていた時、周囲に漂っている、人から漏れ出るエネルギーのよう
なもの――多分、人々の願いや感情――を、空に溶けだす感覚を覚えながらも天へと
届けた。
晴れにしたのは私の力だとは思わない。
空と繋がった時や、あの不思議な草原での体験の後では、そう思い込もうとしたっ
て無理だ。きっと、神様なのか分からないけれど、実際に特別な力を持つ何かは空に
在ったんだろう。
でも、その空の何かに向かって、願いを届けようと決めたのは私自身だ。
目の前の人を、誰かを笑顔にしたい。
それが、私の生きる意味だと思って、何回も祈っていた。
そして、巫女としての力を失う直前には、自分の為に祈って良いのだと彼に優しく
背中を押されて、空の上で二人で祈った。彼と共に暮らす人生の続きが欲しい。ずっ
と一緒に居たい。だからこの手をずっと離さず、一緒に帰ろうって。
いつだって、他の誰かに縋ってねだるんじゃなく、私自身がこうしたいとはっきり
と決断してきた。
夜になると夢の中で繰り返し襲って来る、心と体が染み出すように溶けて消えてい
くあの感覚。
彼を失ったことによる、胸やお腹から内臓が丸ごと抉り取られたような喪失感。
その代わりに雨雲みたいな色の鉛でも詰め込まれたみたいな、雨が街を沈めて変え
ていってしまうことへの息苦しさと罪悪感の重さ。
彼と別れてからの二年半の色んなことが、私に自分の祈り(意宣り)の意味を忘れ
させていた。
でも、全ては間違いなく、強く、強く願って、私が選んだ結果だ。
私は祈(意宣)りを、私が生きる本当の意味を取り戻して、手に入れた。
彼が居る限り、幸福感と希望が私の全身に染み渡る。
だから、今度こそ、愛する彼を私が幸せにする。
彼がくれたこの人生を精一杯生きて、彼を支えていこう。
私はこの一年間、そう祈(意宣)ってきた。
その筈だった。それなのに、私は、全然ちゃんと出来ていない。
**********
今頃、本当は帆高と一緒に映画を観ていた筈だったのに。
ポップコーンを帆高と一緒に食べて、手を繋ぎながら映画の展開に一喜一憂する姿
を想像してみる。でも、現実では、両手をポケットに突っ込んで、独りで雨の中を歩
いている。
私は首元のネックレスを、服の上から掴む。
『君との人生を選んで良かった。これからもずっと一緒だ』
そう言って私にくれたこの婚約ネックレスの感触を胸元で確かめる度、太陽が見え
ないこの空の下でも、私は身も心も芯から暖まるのを感じることが出来た。
でも、今は、私を打ち続ける雨の冷たさを強く感じる。
彼にプロポーズされてこのネックレスを貰った翌日、去年の夏休みの最終盤だった。
私と帆高は一緒に彼の御両親の下へと挨拶に行った。御両親から結婚の許可を得る
ためだ。御両親は私の予想と違って、驚いてはいても好意的に受け取って下さって、
無事了承を得られた。本当に幸せな瞬間だった。
でも、出来れば私にも見せたいと彼が言っていた神津島の星空は、結局雨雲で覆わ
れたままだった。
『小さい頃はこの星空が好きでよく慰められてたよ。まぁ、中学生になたらあんまり
見なくなってたから、無いなら無いで別に構わないけどね。陽菜さん、こんな所まで
付き合わせてごめん』
今夜は別の退屈しのぎを探そう。そう軽い口調で告げて浜辺から引き返す彼の横顔
には、隠しきれない寂しさが滲み出ていた。
やっぱり、私は、彼の人生を狂わせてしまったのだろうか。
「きゃっ!?」
物思いに耽る私の頭上に、突然、夥しい量の水が頭上から降り注いだ。
私から少し離れた所からは男女問わず何人もの悲鳴や怒号が聞こえる。
でも、この辺りはまだマシで、もっと離れた場所では、ちょっとしたビルくらいの
大きさのお化けバケツを逆さまにしたような有様なのが一瞬見えた。あれ程の規模の
ものは、最近では珍しい。
この集中豪雨の名前は確か、ダウンバーストというんだったっけ。最近見たのは、
一ヶ月ちょっとくらい前に帆高と一緒に出掛けた朝だ。あの時彼が庇ってくれたのが、
遠い遠い昔の出来事のように思えた。
すっかりずぶ濡れになった私の口からは乾いた笑いが漏れ出て来る。
服は水をたっぷり吸って靴の中にも入り込み、身体がとんでもなく重い。
さっき無造作に詰め込んだ参考書がどうなったか気になって、バッグの中身を確認
していたその時だった。
得体のしれない怪物が何かを引き裂くような音が耳を劈いた。
それが車のブレーキ音だと気付くと同時に、こっちに向かって走って来る車が視界
に飛び込んできた。フロントガラスがやけに曇って見えるし――ヒビが入っているん
だろうか?――走り方もおかしい。
にわかに、何が起きてるのか思い当たった。
さっきの水でフロントガラスが割れて慌てているんだろう、車が制御出来なくなっ
ているんだ。そうやってアクセルとブレーキを踏み間違えたり、同時に踏んだりして、
交通事故も起きてるってニュースで見たことがある。
どうしよう。重い身体の動きは鈍くて、足が竦んで動けない。
凪の前では、姉として私が頑張らなきゃいけないからと、どうにか虚勢を張れた。
帆高が歌舞伎町で拳銃を撃って皆が愕然として固まってた時も、池袋で私達を庇った
彼が警官に逮捕されかけた時も、彼が居たから、私は一歩踏み出す勇気を持てた。
でも、今は私独りだ。
こんな日が来るんじゃないかという予感は、何となくあった。
あの夏の日から続く大雨による異常気象が引き起こす事故。私と帆高にとって他人
事であり続けて、平穏な日々が続いて欲しいと思ったけれど、そうは行かないみたい。
私は生きたい。生きなきゃいけない。
凪には申し訳ないけど、あの子のことは須賀さん達が助けてくれると思う。あの子
には、私のお下がりしかあげられなくて苦労を沢山かけた。けれど、元々がしっかり
した子だから、きっと大丈夫。……それに、きっと、帆高も凪を支えてくれる。
でも、何を言うべきか分からないけど、帆高に謝りたかった。
もう一度、帆高に触れたい。彼の声を聞きたい。
恐怖と困惑が私の手足を搦め取って、地面に縫い付けてくる。これが、私の選択が
もたらした――彼を傷つけた挙句に逃げ出した、私への罰なのだろうか。
「陽菜さん!陽菜!!陽菜っ!!!」
左後ろの方からだろうか。
悲鳴を上げ続けるブレーキ音に混じって、水溜りを踏み抜いて地面を力の限り蹴り
飛ばすけたたましい足音みたいな音と、叫ぶように私を呼ぶ声が聞こえた気がする。
私が振り向こうとした瞬間、痛い程に強く腕を握られたかと思ったら、ジェットコ
ースターみたいな勢いで視界が回った。
背中になにか大きく固いものがぶつかった衝撃で、肺の中の空気が一度全部吐き出
される。痛みよりも息苦しさが強くて、頭がぼうっとなった。
……どこかで何かがぶつかるような大きな音が聞こえた気もする。
どうにか息を吸うと、酸素が頭に回ったお陰か、ピンぼけした視界が少しクリアに
なって、真正面に空が見えた。顔に雨が直に降りかかってくる。
自分が地面に仰向けに倒れていることと、一心不乱に手繰り寄せるように私の腕を
引っ張る誰かに、その勢いのまま後方へ投げるみたいに引き倒されたと理解したのは、
ほとんど同時だった。
私を呼んでたあの声の主だけは間違えようが無い。
帆高だ。
まだ頭がくらくらするけれど、どうにか身を起し、地面に座り込んだまま彼を探す。
まず視界に入ったのが、車だ。私から数メートル離れた場所で停止してて、フロン
トガラスは割れている。歩道縁の花壇――植樹帯って名前だって帆高が言ってたっけ?
――の小さい木々を突き抜けて歩道に乗り上げていた。
帆高は……どこ?
私の手を引いた誰かは、今どこにいて、どうなったの?
呆然としながら辺りをまさぐった私の手に、何かが当たった。
黄色い傘――私のお気に入りにそっくり――だ。
でも、これは私の傘じゃない。だって、あれは喫茶店に忘れてきたし、手元のこの
傘は、私のと違って、何かにぶつかったみたいに骨が折れて壊れてる。
身体の震えが止まらないのは、多分雨で濡れて寒い所為だ。
声が聞こえたのも、誰かが私の手を引いた感触も、きっと気のせい。
そう思い込もうとしても、浅く早くなっていく呼吸が私を現実へ引き戻す。
……車のバンパーの真下に、青いものが見える。
人だ。
男の人が倒れている。
青いジャケットとジーンズ――帆高と同じ服を着た人だ。
氷の蛇のような得体の知れない不気味な何かが、私の中をのたうち回る。
腰が抜けたのか、立てない。
自分が泳いでいるのか這っているのか、もう分からない。無我夢中で水溜りをかき
わけて進んで、倒れている人を覗き込む。
彼が倒れている。
帆高が車に轢かれた。私の代わりに。
「いや、ほだか。やだ、いや帆高やだやだあぁぁ帆高ほだかああぁ――――」
叫んでいるのが自分だと気付くまでに、多分結構な時間がかかった。
何もかも、地面も空も、ぐるぐる回る。
いつの日か私が消えてなくなること以上に、こんな日が来てしまったらと、ずっと
ずっと、恐れていた。何故彼が、私を庇ってこんな目に遭わなきゃいけないのか。
このままじゃいけない。何とかしなきゃ。私が助けなきゃ。
彼は意識が無い。こういう時、体を揺さ振っちゃいけないって聞いたことがある。
救急車を呼ばないと。
スマホを取り出したいのに、バッグのチャックを掴めない。震える手に止まれと
念じながらスマホを取り出そうとする。
自分が泣いてるのか、帆高の名前を叫んでいるのか、自分が今何をしてるかさえも
分からなくする混乱を、唇を噛み締めて抑え込もうとする。
かつて私が空の彼岸に連れて行かれて彼からの大事な指輪も失った時、私は自分の
感情は押しやられて、溶かされ塗り広げられるように薄まって、もう何が悲しくて泣
くのかすらも分からなくなった。
今は、冷たくて真っ黒なインクが、頭も視界も、全てを染めて埋め尽くそうとする。
思考も心も、何もかもが麻痺しそうだ。
でも、何が何だか分からないうちに、彼を、私の全てを失うのは嫌だ。
私が自分で選んだ人生、命より大切なこの人を、今度は私が連れ戻す。