次回更新は6/18を予定しております。
翌日、肉体が女の子のものと変わってから三度目の朝のことだ。今日は学校へと向かおうと思い、制服に袖を通していると、学ランに身を包んだシー君がひらりと飛んできた。
「今日は里香が学校休むんだって」
「そうっすか……」
「それで買い物してくるって言ってたよ!」
何か買う必要があっただろうか?
そんな疑問を持ちながらも、里香君のことは放っておこうと決めて、シー君と一緒に学園へ向かった。
道中で、同じような生徒を見かけはしたが、特に会話も何も無かった。ネルコさんや新田君とも会うことはなく、普通に教室まで移動した。
まるで真面目な生徒が授業開始前から予習して準備するように、机に書類を置いていく。それは、昨日新田君から渡されたものだった。教科書などは持っていないので、それを変わりに読み進めていく。
研究レポート。そう短くまとめられた紙の束を捲った。
『1.私はクオリアという個人、個体が有するであろう質感の支配者だ。それなのに、何故か自我を持ち一個体として存在してしまっている。これは何故なのか、そして私という存在は何者なのか、それだけを追及していかなければいけない。それが、きっと、私が存在する理由や意味へ繋がるはずなのだから』
『2.元々私は他者のクオリアを認識し、操作することが出来る存在だ。それはそうだろう。元々私であったものなのだから。では、私は誰のクオリアなのか、なぜ肉体を持っているのだろうか。焼け落ちたこの身は、一体誰のものなのだろうか。まずは自分が宿る謎の肉体から調べないといけない』
『3.幸いな事に、私の周囲にはいくつもの研究サンプルが存在した。ただの無機物から生物まで、既に失われた生命にもまたクオリアは存在する。だが、そのどれもが私のような複雑性は持たず、単純なものである。それぞれに刺激を与え、それが受け取るクオリアを抽出する。それらは各々の物質が生み出した反応の結果でもあり、クオリアでもある。彼らは私の一部でしかないようだ。それは全て既知の出来事であった』
『4.この体に近しい存在を生み出すことにした。思えば、私という存在は、人間という存在から誕生したのではないだろうか。クオリアという名前も、意味も、それが認識してから存在が確立されたのではないかと思う。しかし、同時に私のいるこの場所には、人間は存在しないということの証明でもあった』
『5.私の世界に侵入してくる存在がいた。そいつは自分を召喚士だと名乗った。私の肉体に酷似しており、そいつは人間だとはっきりと理解出来た。彼女を捕らえ、実験を行う。そうして、私は外の世界や異なる世界を知った。彼女の持つクオリアは私とは別のものであった。私は何者なのだろう』
『6.人間を生み出そうと思ったのだが、私の力ではそう上手く出来ないようだ。単純に能力が違うのだろう。既存の物質を相手にクオリアを操作することは容易だが、無からクオリアを持つ何かを生み出すのは相当な困難であった。かろうじて形だけ作れたのだが、それら物質にはクオリアは宿っていなかった。ただ与えられた刺激に対して反応を返すだけのモノモドキでしかなかったのだ』
『7.長い時を過ごし、研究を行っていれば、気付くこともある。私は非常に不安定な存在だということを。生み出された存在という訳でも無く、自然発生したしっかりとした固定の情報や意味を持つ存在でもない。私は物や生命に依存した心の存在でしかないということを。つまり、この世界にいては、いずれ全てのクオリアが失われて、私は存在を維持出来なくなってしまう』
『8.ただもう一人の存在を生み出すために行っていた実験は、いつしか私を存在させる為の目的に変わっていた。完全な心を持つ人間を生み出せば、私は私という存在を維持する事が出来る。そもそも、他者にとっては私は存在してもしなくても意味が無いのと同じであるのだ。どうせ観測することは不可能なのだから。では、何故私は存在するのだろうか』
『9.私は個々人のクオリアではない。それを扱う事が出来る能力であり概念なのだ。それを意識した途端、私という存在は一つ上の段階、枠組みに入った気がした。知覚できる世界を知って、クオリアというクオリアを意識出来るようになった』
『10.世界が消滅した。私のいた場所は完全な消滅を辿ったのだ。クオリアは全て失われ、私もまた消えるのかと思ったのだが、世界を繋ぐ他のクオリアが存在する限り、概念である私は不滅なのだろう。今は私が得た新しい力を用いて、元々の実験を行う場所を作り出した。ここで、私が宿るに足る器を生み出そう。更なるクオリアの進化を目指して。閉じた世界の中で、ただ私は心を作り出そうとシミュレーションし続ける』
書類はここまでだ。なんだか途方もないことをダイジェストで語られただけのような気がする。研究結果とか書いてないし。レポートなのだろうか?
この書類が正しいのなら、今いる世界はクオリアが生み出した実験を行う為の世界だということだ。そして、この周囲にいる人達は、全部作り物だということ。
顔を上げてみた。既に授業は開始されており、教師がカツカツと今時珍しいチョークを使って、これまた珍しい黒板に文章を書いている。
それを写しとる為に、生徒達は机に向かっている。全員同じ動作をしている。
カツカツ、カリカリ、カツカツ、カリカリ。ただひたすらに書き続けるだけの空間がそこにあった。
生徒は誰一人として顔を上げていない。黒板の内容など目にしていない。
教師もまた、生徒の方を見ることはなかった。異常な光景。人間と同じ姿をした何かが、人の真似をしている。
ただただ不気味だった。思わず上がりそうになる悲鳴を堪えて、顔を伏せる。
新田さんが言っていたのはこのことだったのか。
新田さんは、彼らを助けるという判断を下した……ということでいいのだろうか?
対する里香君は、彼らを放置することにしたという訳だ。
気付いたのは多分昨日。それを知り、どうこうするのがどうでも良くなったと考えたのだろう。
とりあえず、次に進もう。もうひとつある、ノートの方を手に取った。
これは新田さんが書いたこの世界での情報だ。幾つか、街の見取り図や、校舎の見取り図。また、活動記録なども書いてある。
彼女がこれを俺に見せたかった理由となりそうな部分だけを抜粋する。
『この世界は、TS学園p-zの世界というらしい。スリープさんや樹君が女の子になり、私と里香ちゃんが男の子になってたから、TSとはトランスセクシャルのことだろう。また、突然訳も分からない場所に飛ばされてしまった。今回は従魔もいない。どうすればいいのだろう』
『早速だけど、この世界にいる間の私の身体はとんでもない身体能力を持っていた。軽く飛び跳ねるだけで数メートル宙に浮く肉体。転んでも一切怪我をしない。これは何のためにこれほど頑丈な肉体にされているのだろうか』
『学校でスリープさん……ネルコさんに色々教えてもらう。時系列的に言えば、これが最初の出来事だ。ある程度落ち着いて感情の整理が出来てから、最初の内容を書いている。毎度毎度ふざけたことばっかりだ。異世界に転移したり、男の子になったり……。元の世界に戻ることが出来るのだろうか』
『授業を受けた。最初は学生だった頃の記憶を忘れないようにと予行練習のつもりで行っていたのだが、ふと気付いてしまった。異常な光景に。まるでプログラムで組まれた物体のように決まった動作だけをする生徒や教師。この世界に生きた人間……いや、ヒトという存在は私達以外にはいないのだろう。だけど、これもまた生命だ。冒涜的な行為ではあるが、それでも生命ではあるのだ。私は、こんなおぞましい行為をしている人を止めるべきだろう。この先に行く着く結果がどんなものなのかそれは知らないが、決して良いことが起きることは無いだろう。気が狂う前に、逃げ出すか立ち向かうかしなければいけない』
……ネルコさんに確認すべきだろうか。隠したかった情報はこれなのか。これだけなのかということを。
それにしても、新田さんの発想が随分物騒になってきている事が理解出来る文章である。俺はこの状況を怖いと思ったが、どうこうしようとは思えなかった。これは何の違いがあるのだろうか。
ネルコさんだとこういう状況でも自分の気がむくままに行動出来るのだろう。新田さんは新田さんで、どうにかしなければという感情が強すぎる気がする。とりあえず、彼らを助けるために行動している訳では無いようだ。
…………こういう世界では、俺たちこそがおかしい人間なんだろうな。哲学ゾンビ達にクオリアは無いが、見えている光景があるとすれば、全員が似たような行動をしているなかで、俺たちだけが彼らの常識から外れた行動をしているように映るのだろう。
人の持つ『常識』というものは、所詮数で決めたものでしかない。クオリアの違いこそが、こういう現象を生み出しているのかもしれない。
こんな世界に一人ぼっちだったら、誰も信じられず、発狂してしまうんだろうな。
『目標が決まった。この世界の破壊をすることにした。ネルコさんに確認をしたところ、確証も取れた。この世界は従魔が作っており、そして、この世界の人もどきを作っているのは従魔であるのだ。正直に言うと、ネルコさんや、姿が若干変わってしまった私の従魔と一緒に居たかったのだが、それではいけないと気を奮い立たせる。早速情報を集めなければ。ネルコさんも忙しそうにしていた』
『夜に学園へ潜入した。あの恐ろしい存在がいないだけで、僅かばかり心に余裕がある。まあ、訳のわからない恐怖の世界の夜もまた怖いのだけど。こればかりは怖くて、樹ちゃんや里香君を呼んでしまった。ネルコさんから貰った情報から、生徒会室、そして、私が得た情報的に、職員室脇の謎の空間が怪しいと思われる。しかし、今日は何も出来なかった。夜は夜でおぞましい光景を目の当たりにしてしまった。人が死んだのだろう、教室いっぱいの血と肉。私は気が狂ってしまったのだろうか? しかし、私以外にも異常な光景を目にした人はいる。私は大丈夫だ』
『今日は樹ちゃんもネルコさんも休みだった。二人でデートをしているらしい。こんな時に呑気だな。と少しムカついた。とりあえず私は昨晩の教室へ向かった。しかし、そこには夜にあった出来事がまるで嘘のように何も無かった。教室も、元通りだったのだ。そして、昨日誰かが飛び降り自殺をしたことにようやく気が付いた。里香君が教えてくれたのだが、この学校の生徒では無いらしい。服装が違うとの事だった。もしかしたら、私達と同じような人だったのだろうか。また、救えなかったのか』
次のページをめくる。
『エーちゃんが死んだ』
見開きいっぱいに細いシャーペンで書かれた文字で、その文だけが刻まれていた。力を込められている訳でもなく、普通に書かれたような文字だった。
次のページには、何も書かれてはいない。
「…………」
昨日死んだのが、新田さんの従魔であるエーちゃんだったとは。知らなかった。
新田さんの様子からはそんな事情があったとは読めなかった。様子がおかしいとも言いきれるほどでは無かった辺り、表情を隠すのが上手いと思う。
これは新田さんの遠回りなSOSだろう。ノートを閉じる。そして、窓に顔を向けた。
視線を感じたのだ。窓の外だ。そこには表情を無くし、目に光を失った新田さんが立っていた。じっとこちらを見つめている。
発狂してるぅ……。
茶化さないとやってられないほどにゾッとする光景だった。ノート読み切った直後にこういうのはやめて欲しい。
なんというか、異世界に来てからは身の回りの状況を俯瞰的に、客観的な視点のような見方をするようになった。そうしないと発狂するくらい精神を削られることばっかりなので、俺が学んだ処世術のようなものだ。
とりあえず、この授業が終わったら、新田さんの所へ向かうことにしよう。窓に反射する俺の顔は、引きつった笑みを浮かべている。そのまま手をこっそりと振って、授業に集中するフリをしたのだった。
ネルコさん、この世界って、本当に恋愛イベントの世界なんですよね? 俺はあの人の言葉を信じることが出来なかった。だって、サスペンスとホラーの世界なんだもん。