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『クリスティーナ』
優しく自分を呼ぶ声が聞こえる。男の人の声。
これは……父上の声だ。
『クリスティーナ』
また自分を呼ぶ声。
この美しい声は……母上の声だ。
『クリスティーナ』
二人の声が重なる。そうだ。二人とも、この声の通り優しい人だった。
皆に優しくて、いつも穏やかに微笑んでいて、クリスティーナや姉たちには人一倍優しかったのを覚えている。
暖かくて、優しい日々。
それが壊れ始めたのは、父上が……お父様が国王にされてからだった。
前国王の一人息子であったお父様は、血筋を尊ぶアルカディアの流れに沿って即位をさせられ、被りたくもない王冠を被ることとなった。
元来より腰が低く、ニコニコ笑っているしか能のない人だ。当然の様に強気の姿勢が必要となる外交など出来ようはずもなく、他国からは「腰抜け王」と陰で馬鹿にされる始末だった。
かといって頭の回転が早いわけでもないお父様には複雑な内政も務まらず、誰かの助けを借りなければ碌に書類も捌けない。そんな人だった。
でも、最初のうちは誰も彼の事を責めるようなことはしなかった。
彼が困ったらいつも誰かが「仕方がない王ですね」と苦笑いで手を貸していて、彼を慕う家族たちも呆れたように笑いながら彼の事を応援していて――
クリスティーナだってそのうちの一人だった。いつだって彼の助けになりたくて、そして将来的にはお母さまの様に賢く気高い女性になりたかった。
幸福だった。間違いなく。
忙しく、良いことばかりではなかったけれど、それでも皆でお父様を支えていたあの時は確かに充実していた。
だが。
そんな日々は、突如蘇った魔王によって完膚なきまでに叩きつぶされた。
ただ存在しているだけで命を害する瘴気を放つ魔王により、徐々に人の大地は汚されて面積を削り、大小さまざまな国家に大打撃を与えていた。
そしてそれは、他国の輸入品によって生活を支えられていたアルカディア王国にも明確なる危機として迫り、王国誕生以来の無能と評されるお父様は前代未聞の災害に対処することとなった。
日々、飢えに苦しむ国民たち。
募る不満。
溜まるフラストレーション。
徐々に反抗的な態度を見せる臣下たち。
お父様は幾度も眠れない夜を過ごした。それでも国民たちを見捨てられないと歯を食いしばって、碌に読めもしない小難しい資料に目を通していた。
『クリスティーナ。祈りなさい。この王国が救われますようにと。隣の国の人々も救われますようにと。そして願わくば――世界が救われますようにと』
寝不足で隈が出来た顔で、それでもお父様はそう言って微笑んでいた。
この時期にはまだオリバーが神官長を務める純白教の力が強く、祈れば救われると皆が信じていた。
だからクリスティーナも祈った。
この国が救われますようにと。隣の国の人々も救われますようにと。そして願わくば――お父様が救われますように、と。
だけど、この時期から聡明だったクリスティーナはどうしても祈るだけでは我慢が出来なくなっていた。他にもっと、出来ることがあるのではないかと思い立ったのだ。そして彼女は一日中図書館に籠る様になり……父の眼を盗んでは小難しい書類に目を通した。
気が付けば、世界の構造が理解できるようになっていた。何をどうすれば物事が上手く回るのか分かる様になっていた。
それは、アルカディア一の賢女と言われた母の遺伝子だったのだろう。
クリスティーナは独りでに賢くなり、そしてこの国を救うための効率的な政策を幾つか思いついた。
唯一疑問だったことがあるとすれば、自分よりも賢い筈の大人たちや母上がこの方法を思いつかなかったことだが――今にして思えば、あの時期から既に魔将騎ゾルディンの手が入り込んでいたのだろう。
幼きクリスティーナはとっくに内側から国が崩壊していることに気が付けず、馬鹿正直に気が狂いかけていた父に改善案を提案して――悲劇の夜を迎えた。
『クリスティーナ』
あの優しい声は消えた。
もう二度と戻ることもない。今なら分かる。クリスティーナはきっと、あんな目に合った後でも父の事を愛していた。
だから彼が死んだ時、本当に悲しくて仕方なかったのだ。
夜も眠れないくらいに。
『クリスティーナ』
でも最近になって、似たような響きを持った男の人の声が聞こえるようになってきた。
自分の全てを知り、それでもなお受け入れてくれそうな……そんな、彼女にとって都合が良すぎる声が。
そんなことがあるのだろうか? まだ彼女の人生には希望があるのだろうか?
私はまだ、生きていていいのだろうか?
「クリスティーナ様」
「うん……?」
ここ数日ですっかり聞きなれた声に顔を上げる。やけに背中が痛い。そして頬に何かが張り付いていた。手で払いのけると、それがゾルディンに関する書類であったことが分かった。
「もー、机で眠っていたんですか? 風邪ひいちゃいますよ?」
「……アルマ?」
「はい。アルマです」
「……アルマ!」
「はい。だからアルマですって。ギリギリまで私を待っていてくれたんですね。……ありがとうございます。そしてごめんなさい。遅くなりました」
いつもの柔らかな笑みを浮かべるアルマを見て、クリスティーナはようやく目覚めた。
そうだ。昨夜、なかなか帰ってこないアルマを待っている間に机で寝落ちしてしまったのだった。
クリスティーナは慌てた様子で椅子から立ちあがってアルマに詰め寄った。
「な、何をしていたのですか⁉ 私がどれほど心配していたと……!」
「ご、ごめんなさい……その、調査対象の人と仲良くなった結果、泊っていかないかと誘われてしまいまして……」
「と、泊まる⁉ へ、変なことはされませんでしたか……?」
「アハハ! 心配し過ぎですよ。相手はイリーナっていう女の方です。一緒におしゃべりして、後はぐっすり眠っていました」
「そ、そうでしたか……それは本当に良かった。あまりにも貴方の帰りが遅かったので、敵の罠に引っ掛かってしまったのかと心配していたのです」
「考えすぎですよ。私はこうして五体満足ですし、それに良い情報も仕入れて来たんですよ」
「流石はアルマですね。では早速報告を――」
「その前に」
クリスティーナの言葉を遮る様にアルマは言った。
「一先ず、湯浴みをなさった方がいいかと。私のせいではありますが、年頃の女性が机で寝落ちなど言語道断です! まずはしっかりと湯船につかって疲れを癒してください! そして然る後、適切なお肌のケア! それから――」
「報告が先では? それに、私まだ眠いのですが……」
「お風呂に行けば目が覚めます! ……あっ、本当にしんどいようでしたらベッドでお眠りになって下さい」
「いえ、睡眠時間的にはいつもと大差ありません。……そうですね。偶には大浴場に足を運んでみるのもいいかもしれません」
「でしょう! あそこ、王族の人とその付き人しか入れないので、ずっと憧れだったんですよねぇ~」
「それが目的ですか……」
やれやれ、と首を振ってみるクリスティーナだが、いつも通りのアルマが帰ってきたことに内心喜んでいた。
まぁ、こうして王城に帰ってきた以上は心配事もない。報告は後でいいだろうとクリスティーナは判断した。
そんなこんなで二人は大浴場に向かうことになったのだが
………………
…………
……
「いやー、クリスティーナ様の髪はやっぱりお綺麗ですね」
「……アルマ」
浴場からの帰り道。クリスティーナはげっそりとした表情で、アルマは活気に溢れた表情で廊下を歩いていた。
「お肌ももちもちのすべすべで、羨ましい限りです!」
「アルマ」
「お胸の方はまだまだ成長過程ですが……大丈夫です! 私の考案した胸部マッサージがあれば、あと二段階は進化出来ますから! 私が保証します!」
「アルマッ‼」
「は、はい?」
「私はここに誓います――あなたとは、二度と一緒に入りません」
「そ、そんなぁ!」
崩れ落ちた後、子犬のように纏わりついてくるアルマをあしらいながらクリスティーナは大きなため息をついた。疲れを取るためのお風呂でどうして疲れなければならないのか。やっぱり、一人風呂が最高だと思い直す孤独主義者のクリスティーナ。
「あれ? あの方は……オリバーさんでしたっけ?」
飼い主に見捨てられた子犬のように潤んだ瞳でクリスティーナに縋りついていたアルマだが、急に正気を取り戻し、クリスティーナの自室前に佇む青年を指差した。
彼女の言う通り、前方に見えるのは堅苦しい雰囲気が特徴的な神官、オリバーに相違ない。
「オリバー殿。私に何か御用ですか?」
風呂上がりで申し訳ないとは思ったが、別に破廉恥な格好をしているわけでもない。クリスティーナはごく自然に声を掛けた。
「……………………なるほど」
「はい?」
「いえ、なんでもありません。オドルー神官長より伝言を授かって来ただけです。神殿まで来て欲しいと」
「分かりました。この後、すぐに向かいます。用件はそれだけですか?」
「はい。詳しいことは、ご本人に尋ねてください」
そう言ってオリバーは踵を返し、廊下の奥に消えていった。心なしか、早足で。
「……なんでしょう?」
オリバーが不愛想なのは昔からだが、今日は特に様子がおかしく、どこかぎこちなかった。どうしたのだろうと首を傾げるクリスティーナの横でアルマはニヤニヤと笑っていた。
「いやぁ、なるほど。そういうことですか。これはまた面白いネタが増えましたねぇ……クフフ」
「その不気味な笑いを止めなさい。ところで、彼の様子がおかしなことに心当たりでもあるのですか?」
「えぇ、ありますともありますとも」
「なら――」
「いやぁ、でも残念ながら教えられないんですよねぇ、これが。ご本人たちの問題ですから。部外者の私は黙っておくことにします」
「……意地悪ですね。あなたらしくない」
「これがアルマですよ。でも、一つだけヒントをあげるとすると……お風呂上がりのクリスティーナ様の色気が半端なかったということですね!」
「????」
「……マジかー。これが分からないって、相当重症ですよ、クリスティーナ様」
まぁ、これまでの境遇を考えると仕方がないのかもしれないけど。
アルマは少し悲しい思いを抱きながらも、己が仕えるこの主にそういった幸せが訪れることを祈るばかりである。
そして、自分がその場面を見られたらどれほど幸福なことか――
「まぁ、分からないことを考えてもしょうがありません。アルマの報告を自室で済ませたらすぐにオドルーの下へと向かいましょう」
「分かりました」
………………
…………
……
アルマの仕入れた情報を簡潔に手早くまとめあげたクリスティーナは、素晴らしい成果を上げたアルマをべた褒めした。
明確なる目撃者。これでゾルディンの化けの皮を剥がせる。
(追い風が吹いていますね。今度はこちらから仕掛ける番です)
早速この成果をオドルーと共有したいと思ったところで彼からの呼び出しだ。色々と都合よく進んでいる状況に多少の違和感はあるが、これまでの劣勢を思うとこれくらいのボーナスがあってもいいだろう。
変装の為、例の動きにくい騎士甲冑を身に纏ったクリスティーナはアルマを伴って神殿に向かった。
オリバーから後にクリスティーナたちが訪れることを聞いていたのだろう。オドルーは神殿の前で待っていた。
「クリスティーナ様。それにアルマ殿も。わざわざの御足労、痛み入ります」
「構いません。あなたがわざわざ呼び出すとは、余程大事なことなのでしょう。こちらこそ、到着が遅れて申し訳ありませんでした」
「お風呂に入ってたら遅れちゃったんです。クリスティーナ様、昨日は机の上で寝落ちしてたんですよー」
「余計なことを言わない!」
「それはよろしくありませんな。女性にとって美容は大事なことですから」
「オドルーも!」
やたらとノリがいい二人の部下に頭を痛めつつ、クリスティーナは尋ねた。
「それで? 一体どういった用件で私たちを呼び出したのです?」
「あなたに受け取っていただきたいものがあったからです。こちらへどうぞ」
そう言ってオドルーは神殿へと二人を誘った。
神殿はそこそこ立派な建物ではあるのだが、所々ひび割れている箇所もあり、決して整備されているとは言い難い様相だ。
これは、王城から改築や修繕の為の費用をケチられたからであり――また、建物が王城の裏という極めて不便で布教がしにくい場所にあるのは、オドルーの先代が王と揉めたことが原因であった。
クリスティーナにとっては見慣れた場所。アルマは何気に初めての場所だった。
ビリッ
「? あれ、今の何だろう?」
「どうかしましたか、アルマ」
「いえ……なんでもないです」
神殿の扉をくぐり抜ける一瞬、頭の奥底に痺れが走ったような気がしたが、直ぐに気のせいだと持ち直したアルマはクリスティーナの背中を追いかける。
神殿の中は外とは隔絶された、どこか特別な空気が漂っていた。日光がステンドグラスから差し込み、柔らかく内部を照らしている。
だが、差し込む日光を抜きにしても神殿内は異常に明るかった。
何かがある。何かが待っている。
全貌は見えない。
だが、とてつもない力が作用していることだけは分かる。
「こ、これは……」
一体何なのだろうか。
クリスティーナが疑問に思っていたところでオドルーが口を開いた。
「我らの信じる純白教には、祈りを捧げることで神の御業を一時お借りすることの出来る信仰奇跡があることはご存知ですね? 魔術の様な理論と魔力で形成されたものとはまた違う力。それは時に人を癒し、時に邪悪を打ち滅ぼす武器となり得る」
「え、えぇ……実際にこの眼で見たこともありますから、知っています。……しかし、医療が発展してきた今、使い勝手が悪いそれらの奇跡は用いられなくなってきた、と」
「その通りです。奇跡は私たちの祈りに乱れがあれば発動しません。であれば、怪我人が病院に運ばれるのは必然の流れでしょう。使えない奇跡に価値を見出すものなどごく少数です」
半ば啞然としているクリスティーナとアルマを先導するようにオドルーが歩みを進める。
「――ですが、利便性に欠ける奇跡にも良いところはあります。その祈りが絶えない限り、永久にその効力が続くということです。つまり、人類が滅びない限りは決して絶えることのない希望を生み出すことが出来る」
オドルーの背中を追いかけた二人は光源の正体を知り、そして戦慄した。
一本の剣。
美しすぎる刀身。シンプルながら、素晴らしい意匠。
伝説の中にしか存在しない筈のそれは、抜き身のまま持ち主の到来を待ち望んでいた。
「『
聖剣、とオドルーは言った。その存在はクリスティーナも知っている。父が昔、彼女に聞かせてくれたおとぎ話に出て来た剣。
皆を救う、そんな都合のいい現実を齎す奇跡の結晶。
そんな大それた代物を、オドルーはよりにもよって自分に渡そうとしている――
「そ、そんな……これは……こ、こんなに大事なもの、受け取れません」
文字通り血を吐くような苦行の末、彼らの切なる祈りが結晶となった剣。
あまりにも畏れ多い代物だ。クリスティーナは無意識のうちに後退った。
「……聖剣は、自らが選定した者にしか使わせません。私はあなたこそが相応しいと判断しました。来るべき魔人との決戦に備え、是非ともあなたに――」
「嫌です」
「クリスティーナ様……」
駄々をこねるように首を振るクリスティーナ。
彼女は初めて見せる悲壮な表情で語った。
「……ルタもあなたも、勝手が過ぎます。何故私みたいな人間にそんな大層な期待を掛けるのです? やれ女王になれだの、聖剣を受け取れだの、そんなの……荷が重すぎます。だいたい、そういうのは他に相応しい人物がいるはずでしょう? もっと国のことを考えていて、清らかな心を持った人物が」
「じゃあ、クリスティーナ様が適任じゃないですか」
「ア、アルマ?」
唐突に口を開いた彼女の発言に面食らうクリスティーナ。アルマは気にした様子もなく、己の思いを語った。
「――私は、クリスティーナ様にずっと憧れていました。どんな苦境に立たされても決して諦めることなく、戦い続けてきたあなたのことを見てきました。私、馬鹿で難しいことはよく分かんないですけど、それでもクリスティーナ様以上にこの聖剣に相応しい人はいないって、自信を持って言えます。例え勇者様であろうとも、クリスティーナ様には敵わないって、誇りを持って宣言できます」
「アルマ……」
「もっと自分に自信を持ってください。私は、あなたを見て救われました。もっと素敵な自分になれるんじゃないかなって、期待を持てました。だから、自分の事をそんなに卑下しないでください。あなたはクリスティーナ様です。誰よりも美しくて、誰よりも強い聖騎士様になれるお方です」
「―――」
お世辞だ、なんて言葉が無粋であることはクリスティーナにも分かった。だって、アルマの言葉には、その一つ一つに彼女の熱が込められていた。クリスティーナへの、真っすぐな思いが込められていたのだ。
それを無駄に出来るほど――クリスティーナは冷酷になり切れない。
「……いい部下を持ちましたな」
「えぇ。私には、勿体ないくらい」
「では、私からも最後の念押しをさせていただきますか。――クリスティーナ様。私はあなたこそが聖剣に相応しい人であると信じています。最も人間らしく、そして光り輝く魂を持ったあなたが持つべきであると。それに、私には分かるのです。この神殿の地下より封印から解き放たれた聖剣が、あなたを強く求めていることが」
「……しかし、あなたの信じる神がお許しになるかどうか……」
「神は剣を振るいません」
はっきりと言い切り、オドルーはクリスティーナを見つめた。
「この剣を振るうものがいるとすればそれは、己の意志でこの世界を救わんとする者だけです。クリスティーナ様。絶望により心を折られたあなたが、それでも何とか這い上がらんとするところを私は見てきました。貴方の心の中に信仰がなくとも構いません。歪んだ思いがあろうとも構いません。それもまた人間です。だけど、これだけは覚えていてください。私はただ、あなたに救われて欲しいのだと。そして、願わくば――」
この世界を救ってほしい。
あまりにも大袈裟な言葉をしかし、オドルーは真っ直ぐな瞳で言い切った。
「……本当に、いいのですか?」
「構いません。もし武器として使えなくとも、それはあなたを守る盾となる筈。魔人に抗する勢力が我々のみである以上、核であるあなたが持っておいて損はないでしょう。それに――どうにも嫌な予感がします。この聖剣を扱える人材がいて損はないでしょう」
「……もしも私が相応しくなかったら?」
「その時は、私が使いましょう」
茶目っ気のあるウインクを一つ。
それで肩の力抜けたクリスティーナは、ゆっくりとその手を聖剣へと伸ばした。
聖剣は彼女を受け入れるように光り輝き――
そして聖剣はクリスティーナ・エヴァートンの所有物となった。
伝説の始まりである。
誇り高き聖騎士の誕生。
クリスティーナは己に任された聖剣の輝きに目を細め、オドルーは万感の思いを持ってその光景を見守っていた。
ズブリ
「えっ――」
だから、その直後に起きた出来事を正しく認識するのに時間を要したのも仕方がないことだろう。
「ア、アルマ……?」
徐々に熱を持ち始めたクリスティーナの脇腹。そこには、切っ先鋭い本物の短剣が差し込まれていた。甲冑の合間を狙った的確な一撃。
そして、その凶行に及んだのは……クリスティーナの信頼する部下、アルマ。
「ど、どうして……」
言葉にならない感情が押し寄せる。
疑問と、絶望。
痛みと、熱。
どうして? どうして? 信頼してくれたのは嘘だったの? なんで? あなたのこと、信頼していたのに。あなたとなら、友達になれると思っていたのに。私、また間違えた? またいけないことをした? これはその罰?
「ヒュッ! ど、どうして……」
喉の奥から血がせりあがって来る。内臓が傷ついているらしい。だが、クリスティーナは痛みや血などどうでも良かった。今はただ、どうしてこうなってしまったのか疑問で疑問で、分からなくて、本当に何がいけなかったのか分からないの。私? そんなにいけない子だった? 私は――――
「いけない!」
手に持った聖剣を振るうことも出来ず、ただ呆然と立ち尽くすクリスティーナ。遅まきながら現状を把握したオドルーは咄嗟にアルマを突き飛ばし、クリスティーナを支えながら後退した。
「クリスティーナ様! しっかり!」
「ゴホッ! ゴホ!」
「くっ、今は治療が先決か」
クリスティーナの脇腹に刺さったままの短剣を見て直ぐに回復の奇跡を行使しようとするオドルー。しかし、彼は直ぐに奇跡を取りやめた。クリスティーナの治療を諦めたわけではない。それよりも先に解決しなければならない問題があったからだ。
『……』
突き飛ばされた体勢からゆらりと立ち上がったアルマ。彼女の瞳はほぼ無力と化しているクリスティーナへと向けられている。
「ッ、アルマ殿! どうしてこのような凶行に出た! あなたはクリスティーナ様に尽くすと誓ったではありませんか! だというのに――」
『……』
オドルーの声を無視し、アルマは突進してくる。武器は手元にないが、恐ろしい雰囲気を纏った彼女を野放しにはしておけない。
「神の奇跡よ、我らを守り給え!」
オドルーは咄嗟に教会の守りを発動させ、クリスティーナと自分を覆うように結界を発動させた。
決して強度の高い結界ではないが、非力な少女の攻撃程度なら防げる。オドルーは理性を失ったように結界へ無意味な攻撃を続けるアルマに語りかけた。
「アルマ殿! 聞こえていますか! あなたは今、正気ではない! これ以上、クリスティーナ様に害を為そうというのなら、こちらも相応の実力行使に出る! それでもよろしいのですか⁉」
『……』
アルマは答えない。両手の拳から血を流しながら物言わぬ人形のように結界を殴り続けている。
説得は不可能か、とオドルーは落胆する。今の彼にとっての優先事項は、聖剣の担い手となったクリスティーナの命を何としても守り通すことだ。ここで彼女を失うような愚行は犯せない。
彼が最も嫌う命の選別。出来ればやりたくはない。アルマは仲間だ。ここ数日、彼女が一生懸命働いている姿を見守って来た。役に立とうと奮闘している姿を見て勇気を貰い、遂に聖剣の解放に踏み切った。
だが……この非常事態に綺麗ごとは言っていられない。
最悪の場合、アルマには――
(いや、待てよ。人形のよう……まさか)
「……クリスティーナ様」
「ゴホッ! ゴホッ! ア、アルマ……」
「クリスティーナ様! 辛いのは承知です。だが、聞いてください。アルマ殿は誰かに操られている可能性があります。この攻撃は、彼女の意思ではない」
「―――――あっ」
痛みと動揺で乱れていたクリスティーナに冷静な思考が蘇る。顔色は良くないが、それでもオドルーの言葉は間違いなく彼女にとって救いとなった。
辛うじて、ではあるが。
「そうか……あの情報はやはり罠。ゾルディンが私たちの動きに感づいてアルマに洗脳を――」
「クリスティーナ様! このままではアルマ殿の拳が使い物にならなくなってしまいます! お早く指示を!」
「――邪悪を祓う力の奇跡を放ってください。恐らく、それで正気を取り戻すはずです」
「承知!」
結界を解除したオドルーはクリスティーナの指示通り、力の奇跡を放った。軽い衝撃波がアルマを襲い、軽い彼女の身体を吹き飛ばす。
激痛を訴える脇腹を押さえながらクリスティーナが駆け寄る。
「アルマ! 目を覚ましなさい! アルマッ!」
暫く苦しそうに唸っていたアルマだったが……目を開いた時、その瞳にはいつもの輝きが戻っていた。
「う、ん…………あれ、クリスティーナ様? どうしたんですか」
「……なんでもありません。なんでもありませんよ」
「いや、でも……なんだか泣きそうな表情をされています」
「フフフ、なんでもありませんってば。でも、あぁ、そうですね。――あなたが無事でよかった」
「????」
柔らかく微笑んだクリスティーナに首を傾げるアルマ。どうやら先程の記憶はないらしい。
それでいい、とクリスティーナは思った。彼女はきっと自分のしたことを知れば凄まじい自責の念に駆られるだろう。苦しむ彼女の姿は、見たくなかった。
「――さて」
クリスティーナはその表情を引き締めると気合いで立ちあがり、そして――
「な、何をされているのです⁉」
慌てて駆け寄ったオドルーが彼女の傷口に手を当てて回復の奇跡を施すが、クリスティーナの視線は神殿の外に向けられていた。
「これはゾルディンからの攻撃です。致命傷を避けられたのは、運が良かったか……或いは僅かに残っていたアルマの意思のお陰でしょう。ですが暗殺に失敗した以上、次は必ず本命が攻めて来る筈」
『ご名答。良い読みだぜぇ、お嬢ちゃん』
声は頭上から。
ただでさえボロボロだった神殿の天井をぶち壊し、それは地上に降り立った。
人ならざる灰色の皮膚。ギラギラと輝く金色の瞳。鋭い牙。そして、禍々しいオーラを放つ黒い刀身の剣。
クリスティーナは聖剣を静かに構え、問うた。
「……魔将騎ゾルディン、ですね」
『あぁ、そうさ。お初にお目にかかる。クリスティーナ・エヴァートン。――いや、今は聖騎士様と呼んだ方が良いのかね?』
「どちらでも。私の名などどうでもいいことです。あなたは、ここで倒しますから」
『ほう? ご立派な武器を手に入れたばかりでご満悦のとこ悪いけどな、俺がテメェみたいな小娘に負けるとでも?』
「そちらこそ。たかだか魔人の分際で、聖剣の輝きに耐えられると? 貴様はここで殺す!」
『ほざくじゃねぇか……!』
獰猛に笑ったゾルディンの全身から凄まじい魔力が溢れ出す。迸るその殺気だけで人を殺せそうなほどに圧倒的な存在感。
初めて魔人と相対したオドルーは死の予感に背筋を凍らせ、アルマは震えあがる。
だが――クリスティーナは聖剣から溢れ出る力によって寧ろ
正式な所有者となった今だからこそ分かる。この剣の恐ろしさが。そして、この刀身に込められた切なる祈りと、その力が。
分かる。
使い方が。
そして、戦い方が。
『調子こいたその首、この魔剣ゾラムで切り裂いてから城門に飾ってやるよッ!』
魔将騎ゾルディンが神殿の床を踏み抜き、凄まじい速度でクリスティーナに迫る。人間の反応速度では対応できないそのスピードは、彼が勇者ルタと相対した時よりも上がっている。
彼の心からは完全に慢心が消えたのだ。さらに目の前で鬱陶しく輝いている聖剣は、魔王さまですら警戒しているほどの伝説の武器。どんな効果を持っているか分からない。
様子見で大ダメージなど喰らってはシャレにならないので、先手を取ることにしたのだ。
――が。
『な、に……!』
「どうした? 魔将騎とは、人間の小娘一人も仕留められない雑魚の集団なのか?」
掛け値なしの本気で放った魔剣ゾラムの一撃は、聖剣によってあっさりと防がれていた。訓練を受けただけで碌な戦闘経験もない筈の少女に合わせられ、止められていたのだ。
屈辱に顔を歪めるゾルディンだが、彼の戦闘脳は鍔迫り合いを繰り広げながらも冷静に聖剣の力を分析していた。
(俺の速度に合わせたところを見るに、所有者の反射神経向上か? いや、この力は……筋力も上がってやがるな。となると、所有者の戦闘能力底上げか。それも、ほぼ強制的にこっちと同じレベルまで引き上げる力。……ふん、確かに厄介な能力だな)
その後も試しに数度打ち合ってみたが、ゾルディンの斬撃がクリスティーナに届くことは一度もなかった。やはり、所有者の近接戦闘能力を向上させる代物らしい。
だが――その程度では肩透かしもいいところだ。
実力者が持てばとんでもなく厄介かもしれないが、相手はたかだか十数年生きただけの小娘。優に数百年の時を過ごしているゾルディンの敵ではない。
『オラァ!』
本気の斬撃で聖剣を弾き、一旦距離を取った。仕切り直しである。近接戦闘で埒が明かないと分かったのであれば、中距離から圧倒的な火力で仕留めるだけの事。
『吼えろ! 魔剣ゾラムッ‼』
ゾルディンは愛剣に己の血を吸わせ、大量の魔力を注ぎ込んだ。刀身が赤い魔力に包まれ、徐々に肥大化していく。
勇者ルタをして月牙○衝と言わせたそれは、魔将騎ゾルディンが持つ最大火力にして、あらゆる敵を灰燼と化す一撃である。
『聖剣諸共ここで滅びなァァァァァァァ!』
ゾルディンは刀身を振り下ろした。この神殿を丸ごと葬りかねない程の威力と範囲。逃げることは出来ない。受けきることもまた出来ない。
この斬撃から生き延びた勇者という例外もあったが、彼ですら自分に害の及ぶ範囲を消し去るので精いっぱいだったのだ。
この斬撃が向かう先にはクリスティーナの他に、オドルーとアルマもいる。彼女は全員は守り切れない。
(生き延びてもいいぜ、聖騎士さんよ。ただし、その先には後悔と懺悔の地獄が待ち受けているけどなァ)
ゾルディンは邪悪な笑みを浮かべ、赤黒い斬撃を見守る。
必殺の一撃は無力な人間たちに迫り――
【
光があった。
決して穢されることのない光が。
クリスティーナは誰に言われるまでもなく、ゾルディンの斬撃が迫りくるその瞬間に聖剣を地面に突き立て、祈る様に膝を折った。
魔王すら恐れ、勇者がその力を渇望した聖剣。
信徒たちの祈りが結晶となり、気が遠くなるほどの長い年月をかけて完成されたそれは、この世で最も理不尽な存在であった。
その力の正体は――
切っ先を突き立てた場所を中心に広がった光はクリスティーナとオドルーとアルマを包み込み、そしてゾルディンの斬撃を難なく防いだ。
驚愕に目を見開く面々。
だが、それだけではない。
「聖剣よ。私に力を」
光が闇を喰らいつくしていく。
それはそう表現する他にない、歪な光景だった。
聖剣が赤黒い斬撃の魔力を喰らい、光へと変換していく。
正義が悪に打ち勝つ瞬間だというのに、それはどこか生々しくおぞましかった。
『て、テメエ! それはまさか――』
これから起きる現象に気が付いたゾルディンが焦ったように身構えるが、もう遅い。
聖剣の力を身体で理解したクリスティーナは魔力が充填された剣を頭上に掲げ、巨大な刀身となったそれを躊躇なく振り下ろした。
【
光の斬撃がゾルディンに押し寄せる。それは彼が先程放ったはずの一撃であり、同時に聖剣の力によってブーストされた理不尽極まりない一撃であった。
生存本能がゾルディンを突き動かす。彼は己の魔力を枯渇させる勢いで魔剣ゾラムに血を吸わせ、最速で再び斬撃を繰り出した。
拮抗する光と闇。勝つのは当然――光だった。
『クソッタレがァァァァァァァ!』
ゾルディンは光に焼かれながら吼えた。痛みに。熱に。悔しさに。この上ない屈辱に。
まさか勇者にのみならず、聖剣を手に入れただけの小娘にすら破れるとは。
魔王さまの失望した顔が脳裏に浮かぶ。同僚たちの蔑みが思い出される。「役立たず」と罵られ、六位に転落したあの日を思い出す。
(死ねるか! こんなところで、死んでいられるかよォォォォォォッツ!)
強烈な生への渇望が彼を生かした。嘗て灰狼と恐れられたゾルディンは光の斬撃を魔力で強化した全身で受け止め――気が狂いそうなほどの痛みを耐えきった。
『ハァ、ハァ……俺ァ、死なねぇぞ』
全身に大火傷を負い、今なお聖なる光に全身を焼かれながらも彼は生きていた。直ぐに止めを刺そうとクリスティーナが聖剣を構えるが、その前にゾルディンは神殿から逃走していた。
背中を見せることに何の躊躇も感じていない鮮やかな逃げ。
「仕留め損ないましたか……痛っ!」
急いで後を追おうとするクリスティーナだが、脇腹の傷はまだ完治していない。激痛に動きを制限されてしまった。
「クリスティーナ様!」
駆け寄ったアルマは彼女の傷口を見て青褪めた。なんて酷い傷。一体、誰がこんなことを……。
オドルーは再びクリスティーナに回復の奇跡を施しながら必死に訴えた。
「急いで治療をしましょう! こんな状態では戦うこともままなりません!」
「……いいえ。このままゾルディンを追いかけます」
「クリスティーナ様!」
「奴は死に体です。そんな彼が次にどんな行動を起こすか……分かるでしょう」
オドルーは青褪めた。クリスティーナの言葉を理解したからだ。
「食事、ですか……」
「然り。奴は必ず、人間を食って体力を回復させる。その前に仕留めなければ……!」
「で、でも! クリスティーナ様の怪我だって酷いです! これじゃあ、とてもじゃないけど戦え、な、い……」
「……アルマ?」
徐々に顔色が悪くなっていくアルマに疑問を抱きつつ、クリスティーナは聖剣を杖にして起ちあがった。彼女の事は気に掛かるが、今はゾルディンを追いかけることの方が先決だ。そう、全身が訴えていた。
「オドルー。アルマをお願いします。私は今から奴を――殺しに行きます」
「クリスティーナ様!」
悲痛なアルマの声が聞こえるが、クリスティーナは振り向かなかった。彼女の思考はゾルディンを殺すことだけに集約されていたからだ。――それが、邪悪を決して許さない
聖剣の力は絶大だった。羽のように身体が軽く、力も増し、そして敵の攻撃も無効化することが出来る。
決して慢心などしない性格のクリスティーナだが、それでもこの力があれば敵なしであると確信していた。脳内を駆け巡る聖剣の魔力。一種のドーピングを施した状態であるクリスティーナは痛みを無視し、王城を駆け巡る。
追跡の目印はあった。ゾルディンの血痕である。必死に逃げているようだが、何故か王城の方には向かっていない。クリスティーナは風のように駆けながら首を傾げた。
(何故王城に向かわない? あそこには、奴の食事が山ほどあるというのに……)
疑問ではあるが、考慮するほどの事でもないとクリスティーナは判断した。それもまた普段の彼女からかけ離れた思考だったが、気付くことが出来ない。
自身が聖剣を使っているのではなく、
ただ魔人を狩るだけの装置となったクリスティーナは目を皿のようにして辺りを探し回り――
『なんだ、やっぱり追いかけて来たか。期待通りで何よりだぜ』
「ゾルディンッ!」
声は再び頭上から。視線を上に向けると、そこには背中から生やした漆黒の翼で悠々と宙に浮くゾルディンの姿があった。
そして、その右手には既に息絶えた王城で働く侍女の姿が――
「き、貴様ァァァ!」
間に合わなかった。必死に追いかけて来たのに、救えたはずの命を救えなかった。自分のせいだ。あそこでゾルディンを仕留められなかった私のせいだ!
あぁ、許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない!
『おぉう、怖い怖い。お前、そんなキャラだったか?」
一方のゾルディンは空中に浮遊しながら首を傾げ、食事を終えた死体を適当に地面へと放り投げた。
怒りに駆られた状態のクリスティーナは何とか侍女の死体を受け止め、優しく丁寧に地面へと下ろした。
(あれ? この人、どこかで……)
仰向けに下したことではっきりと見えるようになった侍女の顔。クリスティーナはその顔に見覚えがあることに違和感を覚えた。
だが、聖剣に駆り立てられた正義感が余計な思考を許さない。彼女は怒りに燃える表情で聖剣を構え直し、ゾルディンと睨みつけた。
「もはや、貴様を生かしておく理由はどこにもない。ここで死ね、ゾルディン。私が引導を渡してやる……!」
『……んー、やっぱ変だよなぁ……なんつーか、らしくねぇ?』
「何をごちゃごちゃと抜かしている! いいからそこから降りて私と戦え!」
『ありゃりゃ、戦闘能力が上がった代わりに語彙力が低下しちまったみたいだな。……まぁ、知恵のないテメェなんてただの小娘だ。その聖剣は恐ろしいが……頭を冷やせば対処法くらい思い付くって話だ』
「いいから掛かって来い! ここで引導を渡してやると言っているんだ!」
『嫌だよ』
はっきりとゾルディンは言った。そして、食事を終えたことによって充実した頭脳でもって導き出した結論を口にする。
『テメェの聖剣だけどなぁ……それカウンター専門の武器だろ? 俺の攻撃が欠片も通用しなかったときは流石にビビったが、要は単なる初見殺しだ。こっちから仕掛けない限り、脅威でも何でもない』
「―――ッ!」
『ほらよ。俺の言葉に何か反論でもあるか? あるんだったらその剣から直接斬撃を繰り出してみろよ。俺のお膳立てなしでな』
「き、貴様ァァァ!」
歯軋りし、屈辱に顔を歪めるクリスティーナ。
その姿を見たゾルディンは呆れたように言った。
『やっぱり馬鹿になってんなぁ。聖剣の副作用か? 持ち主の長所を潰してるようじゃあ武器失格だぜ、聖剣さんよ。……まぁ、俺にとっちゃあ、ありがたい話だけどな。遠慮なく勝ちを拾いに行ける』
ゾルディンは牙を剥き出しにして残忍に笑い、魔剣でとある塔を指した。
『なぁ、お嬢ちゃんよ。テメェには確か、大事な家族がいたよな。勝手な言いがかりでボコボコにされて、左目を失明しかけて、それでも根気強く面倒を見続けていた家族がいたよなァァァ⁉』
「な、なにを……」
危機を察知したからか。僅かながらに本来のクリスティーナが戻って来る。だが、それでは間に合わない。この場所におびき出された時点でクリスティーナは詰んでいた。
『魔王さまが仰っていた。聖剣は、例え刀身をへし折られようとも持ち主の心が折れぬ限り不滅である、と。だが逆に言うとよォォ、持ち主の心さえ折っちまえば、俺の勝ちってことだよなァァァ?』
「ま、まさか……!」
ここに至り、ようやくクリスティーナはゾルディンの思惑を察した。そして思い出した。あの侍女の正体を。彼女は、母の隔離されている別塔で働いている侍女――
『そのまさかだァ! 俺に泣いて感謝しな! テメェの母親、あの間抜け親父と同じところに送ってやるよォォォォオオ!』
血を吸わせたゾルディンの魔剣が肥大化する。その矛先は、クリスティーナの母アウラが暮らしている部屋で――
「止めろォォォォォォォォォォォォォォォオ‼」
悲痛な叫び声が響く。クリスティーナは絶叫しながら聖剣の守りを発動させるが、母の部屋は塔の上にあり、どう足掻いても範囲外であった。
絶対的な守りはクリスティーナを守り切る。傍にいる人も守る。だが、全員は救えない。
空中にいるゾルディンは聖剣に妨害されることもなく易々と魔剣を振り切り、赤黒い斬撃を繰り出した。狙いすまされた一撃は間違いなくアウラの部屋に直撃し――
「母上ッ‼」
クリスティーナはゾルディンが健在であることも忘れて塔に駆け寄った。一縷の望みをかけて見上げる。もしかしたらゾルディンの狙いが甘かったかもしれない。もしかしたら母はそこに居なかったかもしれない。
だが――
「あ、あぁ……そ、そんな……」
ゾルディンの斬撃は的確だった。大きな破壊痕が痛ましい塔には生存者の気配などどこにもなく、そして宙には母が愛用していたドレスが無惨に切り裂かれた状態で漂っていて――
“クリスティーナ”
あの優しい声も、遂に聞けなくなった。
あの日々の残滓は完全に消え去り、クリスティーナは本当の意味で一人ぼっちになった。
「お母さま……」
茫然自失。クリスティーナは聖剣を構えることもせず、ただ崩れ落ちた塔を見て涙を流していた。
『……聖剣に選ばれたとて、所詮は人の子。心さえ折っちまえばこんなもんだ。見てるか? アルカディアのクソ神よ。テメェのお人形さんはここまでだ。後は大人しく魔王さまに滅ぼされるのを待つんだな。この娘は……俺がきっちり殺してやるからよ』
地上に降り立ったゾルディンは魔剣を振り上げる。
最後の抵抗か。クリスティーナの意思と関係なく動いた聖剣がゾルディンの魔剣を打ち払おうとするが、意志なき剣に敗れるほど魔将騎は甘くない。
数合斬り合った後あっさりと聖剣を弾き飛ばしたゾルディンは、今度こそ無防備になったクリスティーナに刃を突きつけ、短く別れの言葉を告げた。
『じゃあな』
ズブリ。
禍々しい魔剣が人体を貫く。
肉をあっさりと切り裂き、身体の反対側から切っ先が飛び出る。
身体の内側に刃物が入り込むその感触。クリスティーナは今日、初めてそれを味わったが……この魔剣は先程の比ではないだろう。
「―――あぅッ!」
悲痛な声が漏れる。口元から大量の血が溢れ出る。あぁ、あれは痛いだろうな、なんて。
その光景を、クリスティーナは地面に倒れ込んだ状態でぼんやりと見上げていた。
「ク、クリスティーナ様……さっきは、本当にごめんなさい。やっぱり私、愚図で役立たずみたいですね」
「ア……アル、マ?」
魔剣に胴体を貫かれるその直前。無抵抗だったクリスティーナを突き飛ばしたのは、神殿から全速力で追いかけて来たアルマだった。敬愛する主がゾルディンに殺されようとしていたその瞬間、彼女は何の躊躇いもなく飛び出した。
そして突き飛ばしたクリスティーナを庇うように立ちふさがり――魔剣にその胸を貫かれた。
間違いなく、致命傷だった。
だというのに、彼女は口元から血を零しながら笑っている。
「で、でも……最後にお役に立てたなら……本望です」
『あぁ? 何を言ってやがる。何の役にも立ってねぇよ』
苛立ちをあらわにゾルディンはアルマに突き刺した魔剣を引き抜く。大量の血を流しながらアルマが倒れ落ちる。クリスティーナは反射的に彼女を受け止めた。
だが、それだけだ。
信仰心が薄く、奇跡を学ばなかった彼女ではアルマを死から救う術はない。
というより、この傷では助けようがない。オドルーですら無理だろう。
「あ、あァァァァァァァっァァァァ」
母は死んだ。殺された。
そして、アルマも今まさに死にそうになっている。
クリスティーナのせいで。
『……ふん。見ろよ、この情けねぇ顔を。これが聖剣の担い手だってよ。これが、テメェの守ろうとした主人だ。敵が目の前にいるってのに、剣を構えることすらしねぇ』
ゾルディンは蔑むようにクリスティーナを見下ろした。
『名も知らぬ小娘。テメェの勇気は買ってやるが……残念ながら稼いだのは無駄な時間だ。自己犠牲なんざ、ただの自己満足に過ぎねぇってのに……おめでたい奴だ』
吐き捨てるように言い、ゾルディンはアルマの犠牲が無駄であったことを証明するために魔剣を振り上げ――
「そうでもないさ」
風が吹き抜ける。
ゾルディンが振り下ろした刃は、美しい銀の刀身によって防がれていた。
力強い意志を感じさえる瞳。先日とは比べ物にならないほどに増した覇気。出会う人を安心させるような優しい顔立ちに怒りの表情を貼り付け、彼は参上した。
『テメェは……⁉』
「再会を喜びたいところだけど……悪いね。今は機嫌が悪いんだ」
風のように駆け付けたその男は怒りを押し殺したような低い声で呟くと同時、鮮やかな剣技で魔剣を斬り払い、そして強烈な回し蹴りでゾルディンを吹き飛ばした。
少女二人を庇うように立つその後ろ姿。
クリスティーナはアルマを抱きしめながら呆然と呟いた。
「……ルタ?」
「クリスティーナ。久しぶりだね。そして、ごめん」
油断なく剣を構え、ゾルディンを吹き飛ばした方角に視線を向けながら彼は言った。
「遅くなった」
「――ッ! ルタ! 母上が! それにアルマも!」
「……あぁ、知っている」
後悔と懺悔が入り混じった声。だが、限界まで追い込まれているクリスティーナはそのことに気づけずに彼の脚に縋りついた。
「た、助けて下さい! アルマが重傷なんです! わ、わたしを庇って、魔剣で貫かれて……」
「クリスティーナ」
「私、奇跡が使えないんです! でも、あなたなら使えるでしょう⁉ 早くアルマを治してください! あぁ、そうだ! 聖剣もあなたに譲ります! これであなたがゾルディンを――」
「クリスティーナッ!」
初めて聞くルタの怒声に、クリスティーナは一瞬で正気を取り戻した。そして、こちらへ振り向いた彼の悲痛な表情で全てを察した。
「……ごめん。言いたいことは色々とあるけれど、僕はゾルディンの足止めに行くよ。アルマのことは……残念だ」
「ア、アルマを……た、助けられないのですか?」
「……すまない。僕が遅かったせいだ。この贖いは、ゾルディンの首で」
言葉短く、しかしそれ以上に伝えられることなどない。
勇者は地面を踏み抜き、凄まじい速度で蹴り飛ばしたゾルディンを追って森の中へと消えていった。
「そ、そんな……」
希望が現れ、そして絶望に覆われる。
クリスティーナは徐々に呼吸が浅くなっていくアルマを抱きしめたままただ茫然とすることしか出来なかった。
英雄(クソ野郎)は、肝心な時に間に合わない――