綺麗な夜を歩きたかったんだ。

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夜を食む

 そっと扉を開く。甲高く軋む音と、頬を撫でる冬夜の澄んだ風。乱雑に父のコートを羽織って外に出る。しんと冷え込んだ空気の奥から微かに聞こえ来る喧騒。どうしようもなく一人で、それでいて決して一人にはなれない。そんな夜の街が、堪らなく好きだ。振り返って、ぼんやりと見上げた二階の窓から透ける薄灯を眺める。そうしてまた歩き出す。今度は振り返らない。静寂の底へ、歩き出す。

 

 

 いつも歩く道が陽ではなく月に照らされているだけで、こんなにも世界は儚く見える。瞬く街灯、暗く淀んだ路地の奥、月明りを吸い込んで鈍く光る硝子片。凍える手をポッケに突っ込んで、閑静な道を往く。

 夜の足音が好きだ。こつこつ、と問い返すような響きは暗い所から沁み出す孤独を霧のように淡く蕩かす。薄ら聴こえる盛り場の怒鳴り声に合わせて軽くステップを踏む。少しだけ自分が薄まってこの夜に溶けていけるような気がして、浮足立つ。

 夜の視界が好きだ。少し近視の入ったこの瞳には、暗がりに佇む信号機の灯りが金平糖みたいにぼやけて映る。色彩に包まれて揺らめく街の灯は、日々刻々と様相を変える万華鏡。二度とは同じものを目にする事が無いであろう哀しみを、胸の奥にそっと仕舞い込む。

 夜の匂いが好きだ。張り裂けそうな程に冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、凍える白い息の中で仄かに薫る金木犀。微かに漂う夕餉の残り香だけが今は遠い暮の名残。

 夜の空気が好きだ。白湯に似て蕩けた甘いそれは、心の欠けた所をほんの少しだけ埋めてくれる。食んだ夜霧は欠伸で滲んだ涙と共に流れ星のように消えてゆく。そしてまた誰か夜を歩く人にそっと寄り添うのだろう。

 

 

 気紛れに伸びた足の先には馴れ親しんでいた公園。錆びてペンキの剥がれたブランコに腰を下ろす。午前三時の一人遊戯、役目を終えた物が眠る場所。微かに軋む音は切なく泣いているように思えた。揺れる世界が、このまま何処か遠くへ連れ去ってくれたなら。酔いにも似た振動は儚く薄れてゆく。一際高く啼くと、残るは幼い記憶よりも小さく掠れた思い出。記憶は薄れども、思い出は継ぎ足されてゆく。たとえそれが後戻りできず、美しい時間を塗り変える事だと分かっていたとしても。それがいつかの救いになるのだと、そう願いながらまた星を眺める。煌きは鈍くなれど、それは確かに其処にある。

 

 

 ちらつく街灯と眠たそうにぽくぽく音を立てて走る自動車のヘッドライト、薄雲の奥から洩れる月の照。人気のない大通りは静かに揺れている心を逸らせる。前から湿った足音と共に歩いてくる何かが、本当に人なのかどうか。顔を伏せて擦れ違う間隙に、鼻孔を擽る獣臭。振り返りはしない、どうあろうとそれが夜の礼儀作法なのだから。

 黒く塗り潰された信号機が四方八方から濁った目で見下す。誰もいない交差点と擦れて消えた白線、悠然と横切る片耳の折れた猫。

 生気の絶えた十字路には、棄てられたものと拾い上げられたものの残滓が零れ落ちている。

 おやすみとおはよう、綻びとアップリケ、届かなかった手紙と振り絞った声、紙魚の走る絵本と電子音、彼は誰時と誰そ彼時、贖罪と離別、十円硬貨の表と裏。

 異なる様に思えて同一線上にあるそれらは、きっと知らない誰かの宝物。夜の底に沈む彼らに手を振ってまた暗い方へと彷徨う。

 虫羽のような雑音を漂わす自販機は、どこかオアシスに似ているように思う。決して押し付けがましくはない無機質な光がいつでも出迎えてくれる。

 ごとん、と愛想の無い音と共に吐き出されたカフェラテをそっと両手で包む。沁み込む熱にふぅ、と吐息が洩れた。赤錆びたガードレールに腰掛けてかしゅ、とプルタブを引き上げる。白い湯気が霞んで夜闇に紛れていく。

 安っぽい甘さが、ただただ心地良い。こくこく、と鳴る喉の音だけが聴こえる。雫音が掠れる空き缶を握り潰すと、素っ気無い光から抜け出て、深い方へ、ただ深い方へ。

 涼風に紛れて少しずつ近付く夜明けから逃げる様に。

 夜はまだまだこれからで。眠れぬあなたが電子の海で溺れているのなら。いつかの夢で、会いましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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