BOOTHで販売している短編集「白南風/玻璃梅の華葩」に収録されています。
目の前に大きく口を開ける崖があったのなら、足が止まるのは当然のことだと思うけれど、霧だとか、暗闇だとか、そんなものに覆い隠されて気付かなければ進み続ける僕らは、きっと硝子玉でできている。
――硝子は流体なんだって。
いつもの下らない与太話に、そんな雑学があった。
完全な固体ではなく、何千年、何万年もかけてゆっくりと流れる石の水。不変のように思い込める恋の病熱の中でさえ留まることのないその流れは、きっと、人間に作ることを許された最も永遠に近いもの。それでいて、ほんの僅かに力を加えたら砕けてしまう脆さは命に似ている。そうしてやっぱり、僕らはきっと硝子玉でできているのだと思う。
――硝子は流体なんだって。
無邪気に笑いながら教えられたあの日から、ずっと、ずっと、ずっと、君だけが無謬の光だった。
硝子玉の中で、ぼうと光る心だけが、ずっと。
ずっと冬が嫌いでした
澄み切った瓶底のように透けた空
蜂蜜の匂い
向かいの家の怒号に跳ね起きて
水道から痛みが溢れても平気でした
薄荷飴ふたつ
こそこそと他人の振りばかり
オリオン座の形を覚えて
魁星の探し方を知って
それでも冬が嫌いでした
秋のことは覚えていないのです
小学生の頃は思い出すたび苦笑が込み上げるほどの中毒者だったのに、今や活字に触れていない時間の方が長くなった。手の中の缶コーヒーが優しいけれど、胸の奥の冷たさには届かない。飲めども飲めども変わらないので一息に呷ってみれば咳が出た。尾崎放哉が過ぎる。真冬の街灯を風が冷やかす向こうで日が暮れかけていた。僕は、なんだろう、歩いている。一応は下校中だけれど、心臓にぽっかりと開いた洞から風化した心が剥げ落ちていくから、どこへ向かう気にもなれない。
幼馴染が死んで、七年経った。
事故だった。
これが道での交通事故なら、まだ怒りをその運転手にでも向けられたのだけれど、彼女が死んだのは自宅の廊下。特に何もないところで転び、床で強かに頭を打ち付け、当たり所が悪かったのかそのまま亡くなった。もともとさして信じてもいなかった神様を全く諦めるのには十分な出来事だったが、それと同時に恨みの矛先も失った。彼女の両親は親のいなかった僕を引き取って実の子のように可愛がり始めた。それを所詮代償行為だと詰る権利は持っていないけれど、そう言ってしまいたくなるくらいには、彼らはいつも泣きそうな顔で僕を見る。そのくせ帰らなくても心配されないのだから、帰る気にも、行方を眩ませる気にもなれず、こうしてぼんやりと空を見ている。
冬が嫌いになった。
幼馴染の誕生日も、命日も、一月十一日だったから。
年が明けて一月になると否応なしにそれを意識させられて、冬休みも終わればいよいよ泥の中を歩くような息苦しさのまま進級準備に追い立てられることになる。春には三年生、即ち受験生。また彼女の知らない一大事なので、向こうに逝ったら教えてやるためにも励まなければならない。七年間、彼女がここにいないことが当然かのように生きてきた事実も、僕を全身が鬱血するような感覚に陥らせる原因のひとつだった。
明るい子だった。それ以上に聡明で、けれど太宰が好きな嫌な子供で、そして親友だった。
その意味を知った上で、よう、色魔、なんて声を掛けてくるとんでもない子だったけれど、他の人の前では絶対にしなかった。芥川の蜜柑が好きだと言ったら目を輝かせて、知らない、教えてよ、とはしゃいでいた。彼女は僕より誕生日が早かったから、いつも少し姉ぶろうとする癖があった。本の虫だった僕にその手の話題で何か教えてやりたいと、手当たり次第に本を読んでいた。本気でそう思っていたのに、種本を僕の本棚から選んでいくのが可愛らしかった。髪はあまり長くなかった。動き回るのが好きなのに手足は白く細かった。あの日も姉貴風を吹かしたくて、僕を雪の積もった公園へ連れて行ってやろうと思ったらしい。そう言って駆けだそうとして、廊下で転んで、あっけなく死んだ。
僕のせいで、死んだ。
ぼんやり歩いていると、住宅街をぐるりと回って学校まで戻ってきてしまっていた。日はほとんど沈み切り、紺色の空の向こう端だけ薄く赤み掛かっている。爪先が歩道からはみ出ていた。信号が赤になって、一歩戻って、半歩だけ前に出る。缶コーヒーはすっかり冷めていた。
彼女は、この味を知っていたのだろうか。
そんなことを考えながら残りを呷ると、ちり、と瞼が痛んだ。
目を閉じたのはほんの一瞬だった。
よう、色魔!
横断歩道の反対側に、人影があった。
草臥れたランドセル。
買ったばかりの白いバッシュ。
猫のようなミディアムヘア。
カーキ色の大きなセーターと、裾から伸びた白い足。
好奇心と冒険心の星空を虹彩いっぱいに蓄えた少女が、向こうから手を振っていた。
……ああ、お迎えか。
寒いからせめて、君の分のコーヒーも買ってから行くよ。
合わせる顔も、無いしなぁ。
そう暢気に信号待ちをしていたら、向こう側の彼女は段々と苛立ちを浮かび上がらせて、信号が変わるとランドセルを振り回しながら体当たりしてきた。
無視しないでよ、と吠える彼女を撫でたら、薄い膜のような感触があった。
幽霊なんだな。
直感のまま言葉を漏らすと、彼女は、さあ、わかんないや、と笑った。
胸の奥の隙間風が止んだ気がした。
ずっと冬が嫌いでした
時雨れる夜にさらさらと歌う窓
屋根伝いの逢瀬
ホットココアを温め過ぎた
ベッドの中ではいつも独りだった
0時半のランプ
ここのカーテンだけは開けたまま
明日の天気を思い浮かべて
着ていく服もお洒落にして
それでも冬が嫌いでした
夏のことは覚えていないのです
見れば見るほど、あの頃の彼女だった。
服装は妙に整えているというか、小学生というより高校生の感性に則っている気がするけれど、それでも彼女が好みそうな格好だった。シルエットが出るような服は嫌いなくせに、動きにくいからと足を隠すのも嫌っていた。それで風邪のひとつにも罹らない健康優良児だったのだから、かつての病弱だった僕はいつも羨ましく思いつつも、やっぱり恥ずかしいのでズボンか何か履いてよと情けなく懇願していた覚えがある。思えば、いつも彼女の方が男前だった。
とうとう帰る気が失せてしまったので、親に連絡を入れてファミレスに行く。お腹は空いていたりするのかと尋ねると、多分食べれる! と元気よく答えてくれた。記憶の中の彼女そのままで、なんだかあの頃に戻ってデートでもしているような気持ちになってきた。いや、そんなことを言ってる場合じゃない。もっと聞くべきことはあるだろう。なんでここにいるのかとか、幽霊なのに触れるけどどうしてとか、その格好はどうしたのかとか。でも、それを聞いたらいけない気がした。オルフェウス型の神話はどれも、黄泉の姿を暴いた瞬間に終幕へ向かう。事実を確かめて目を覚ますくらいなら、ずっとこの光景に溺れていたいのだ。僕は臆病者だった。
テーブルの上にはなんとか風のミートソーススパゲッティと、デミグラスソースがとろとろの卵に被さったオムライスが並んでいた。僕はスパゲッティが嫌いだった。どうにも上手く巻き取れない。一方彼女は器用に綺麗に食べられるからか好物にいつもスパゲッティを挙げていたのだが、その技量は今なお健在であるらしい。死んでいるのに健在というのも妙な話だけれど、目の前に口も何も汚さず麺を食べ続ける小学生風幽霊が確かに在って、これが一見すると血色も良く健やかそうなのだから健在と言っていいだろう。ひとまずそう思うことにした。くるりくるりとフォークをひねる彼女に美味しいかと聞けば、変わんないなー、ここ。なんて気の抜けた返事をされた。何が変わらないって? 椅子に座ったときの目線と、このスパゲッティの味と、君の食べ方と、君の悪い癖、あと猫背。随分と言ってくれるね。少し、楽しいけれど。水を飲んだ。
未練はそりゃあたくさんあったけれど、今までずっと彷徨ってたわけじゃないから地縛霊ではないし、多分ほっとけば私は消えるから安心していいよ、と彼女は言った。美味しそうにスパゲッティを食べながら。幽霊も食事はできるようだった。現世に留まるほどの未練が無いことは本来喜ばしいのかもしれないけれど、10歳で死んだ女の子が本当にすっぱり逝けるものなのかという疑念は無いでもなくて、少々反応に困る。すると彼女は、私のことより君の話が聞きたい、中学のこととか、高校のことを話してよ、とねだった。望むところだった。僕はそのために生きている。
極力辛いことは省いた。楽しいこと、驚いたこと、ちょっとしたことだけを面白おかしく伝えようと努力した。僕の人生は起伏に乏しくて、辛いことを除けば後は些細なことばかりなんだけれど、聞き上手な彼女はきらきらと目を輝かせて、頷いて、もっともっとと先を促した。ファミレスの喧騒の中では僕の独り言も目立つことなく、穏やかに話は進む。夢のような時間だから目覚めたくはないなと思った。夢は夢だから、どこかで覚めなくちゃならないとも、思った。そんな後ろ向きなことが顔に出ていたのか、彼女はじっとりと目を細めた。ねえ、もしかして楽しくないか? 楽しいよ、お前と話すのは。そうじゃなくて普段だよ。……楽しいよ。そ、本当なら良いけど。僕は黙りこくった。それがどうしようもなく金色の答えだった。彼女は最後の一口を咀嚼して水を呷った。デザートはどうだと尋ねたら、いいや、と素っ気なかった。僕は仕方ないじゃないか、と言いかけては飲み込んだ。何度も、何度も、お前がいなければ楽しくないと、僕の時間だけが進むのは嫌だと、何度も、何度も、何度も。電源を切り忘れた携帯電話が鳴いたから、ごめん、と言い切るや画面に視線を落とした。届いたメッセージには相槌も何もなく、ただ一言、今日は帰ってこなくていいと書かれていた。念入りに電源を切って、ちょっと外に出ようよ、と言った。彼女は、しょうがないなぁ、もう、つきあったげる、と微笑んだ。
僕は友達がいなかったので、日常の些細な話で語れるのはもっぱら下校中のことになる。いつも同じところで野良猫を見かけるとか、どこそこの自販機にだけある限定の飲み物が美味しいだとか。そんな話の中に、帰り道から少し逸れたところにある公園に立派な梅の木が一本あって、ときどきそれを見に行くのだというものがあった。見つけたのは春、花が散りかけた頃。酸っぱい葡萄じゃないけれど、満開のときに見たら、ああ、こんなものか、と思ってしまうだろうから、蕾が付いた頃、あるいはまだ芽吹いてすらいない梢をぼんやりと眺めながら、その顰め面が綻んだ様を想像するのがこの季節の楽しみだった。寒空の下その公園に向かいながら彼女にそう聞かせると、君は昔からなんか爺臭いというか、小学生になって僕から俺に変えたのもあんまり似合ってなかったよね、なんて失礼をかましてくれた。今は良いだろ、僕なんだから。それもそっか、でもなんで戻したの? 正直なところを彼女に言えるわけもないので、似合ってないのに気付いたからだと答えると、彼女はケラケラ笑った。その姿は無邪気で溌溂としていて、とても小学生らしくて、小学生のままで、僕は高校生になったのだと思った。
数ある独り身スポットの中からあの梅の木を選んだのは、白状すると本当になんとなくで、この七年間で彼女に見せなかったものなら別段何でも構わなかったのだけれど、しいて言えば嫌な思い出が全く無かったからだ。他の場所は辛いときや寂しいとき、腹が立ったとき、空しいとき、気晴らしのために来るばかりなところ、あの梅の木の公園だけは、ただ偶然道に迷ったときに見つけて、そのまま一目惚れしただけなのだ。ありのまま、今の僕が素直に素敵だと思える場所に連れて行こうと考えたとき、脳裏に浮かんだのがあの梢だった。凍える空を裂く細腕と硝子よりも澄んだ白。彼女は、上品じゃなくて悪かったね、なんて口を尖らせたけれど、高潔なんだから似合うだろ、と返した。無邪気に手を引かれていたあの日からずっと、ずっと、ずっと、お前だけが無謬の光だった。彼女は小走りで駆けだして梅の木の下に立った。手を後ろで組んで悪戯っぽく笑い、花吹雪がなくても綺麗でしょ、なんて嘯く。そうだね、本当に。白い花が降り始めた。ふわりと落ちる姿は花弁のような、透き通る色は硝子のような、それは初雪だった。
ずっと冬が嫌いでした
悴んだ手を繋いだぬくもりの儚いこと
超新星
今日の寿命が鳴らす靴音
もう少しだけ素敵に整えたかった編み物
ビニール袋
発条を取り換えた玩具の不整脈よ
夜明けの色に目を瞑って
胸の炉に熾きた火を眠らせて
それでも冬が嫌いでした
春のことは覚えていないのです
忘れたいのです
結局その日は帰らなくて、適当なファミレスと漫画喫茶に避難して夜を越した。彼女は小説よりも漫画が好きで、僕が本棚から溢れるほど小説を蓄えていたように、彼女も多種多様な漫画雑誌を積み上げていた。七年も経てば雑誌の中の顔ぶれも変わっていたり、変わらず連載が続いていたりする。あの世で説明してやるために僕も読むようになっていたので、これは今どんな状況だ、これは何篇だ、あの話はどうなった、あの作者はどこ行ったと、矢継ぎ早に飛んでくる質問を捌き続ける夜だった。そんな彼女も夜明けを過ぎて初雪の融けるように消えて無くなることはなく、昨日と同じランドセル姿で楽し気に僕の隣を歩いている。実質幽霊に取り憑かれているわけだけれど、類稀な心霊体験の真っ最中である僕に顔色が悪いとかなんとか指摘してくる知り合いもいなかった。友達が少ないとかそれ以前に、これといって目に見える変調が起きていないらしい。とりあえず、彼女が側にいるから十分だった。
彼女は僕の親、つまり自身の生みの親について何も言わなかった。興味を覗かせることもしなかった。ただ、朝になる前に帰らなくていいのかとだけ聞かれた。一度だけ一カ月ほど帰らなかったことがあるけれど、学校には通えというメッセージが来た切り何も音沙汰がなかったと言うと、少しだけ悲しそうにして、それから口の両側をなんとか吊り上げていた。しばらくすると、今日は学校が見たいから連れて行けと抱き着かれた。幽霊だからか薄い膜のような感覚があるだけで、抱き締め返すことも、頭を撫でることもできなかったけれど、震える肩から目を背けるのは難しくなかった。記憶にある限り、彼女の生みの親は良い人たちだった。僕の両親は十年前に亡くなっていて、それから嫌な親戚の代わりに面倒を見てくれた。ときどき彼女が持って来ていた薄荷飴は親に持たされたもので、この匂いと一緒に気持ちもすっきりするだろうという気遣いだったらしい。彼女の部屋の窓にランプの灯りが反射しているのを見て、何の暗号も無く、ただ飴を舐めながらその色を見る。お互いにそんな習慣ができたのはいつだったろうか。彼女がいた部屋はそのままに、僕は物置だった小部屋に住んでいる。元の家は建て直されて他人の家になった。もう意味の無い習慣だけれど、こうして彼女の姿を見て記憶が蘇れば思い出話ができる。少しだけ、嬉しかった。
そういえば、昔、風鈴の話をしたよな。風鈴? うん。硝子は流体なんだって話。うわー、よく覚えてるね、そんな話もしたっけなぁ。忘れてたのか? 覚えてるよ、初めて君が感心してくれたときのことだもん。……初めてだったかな。初めてだよ、君はいろんなことを知っていて、私にないものを全部持っていたから、きっと、ほんの少し時間が経てば同じものを知っただろうけれど、あのときの君の顔だけは、いつまでも覚えてるよ。恥ずかしいな、どんな顔してたっけ。可愛い顔だったよ。なんだいそりゃ、そんなの忘れてくれよ。絶対、ぜーったい、忘れないからね。そうかい。ところで、そのときのことで他に覚えていることは無いの? 他って……何かあったっけ。知らない、ばーか。
彼女はしばらく拗ねていたけれど、高校に着く頃にはすっかり機嫌を直していた。目を輝かせて校舎を見上げる姿は特撮スタジオに招かれた子供のようだった。今日は土曜日で、部活動も昨日の雪を受けて休みのところがほとんどらしい。勉学以外はさして活発なところではないから僕は特に疑問を持たなかったのだけれど、彼女は誰も走っていないグラウンドや吹奏楽部の音がしない校舎内が新鮮なようだった。そういえば、中学校の見学をしようって活動で陸上部に入りたいとか、いやいやトランペットのソロをやりたいとか、そんなことを言っていたっけ。彼女は中学高校のキラキラしたところしか目にしたことが無いのだ。それはつまり、レギュラー争いをしようともせず適当な玉遊びで時間を潰す卓球部とか、人目に付かないところで楽器を構えもせず持ち込んだゲームで遊ぶ吹奏楽部とか、本を持ち込んで各々好きに読むだけの美術部とか、怠ける人間を知らない。彼女は熱意しか持っていない。制服もローファーも無く、ただそれだけしか。君は何部に入ったの、と尋ねられたので、僕は不要な枕詞を省いて、文芸部だよ、と答えた。部員はいないではないが僕以外は全て幽霊部員だ。出てくる人間がいると思っていないのか顧問すら来ない。伝統は基本的に若者の敵だけれど、こんな部にも小さいながら部室を宛がってくれるところだけは味方と言えよう。秘密基地同好会と自虐的に言い換えようかと一瞬思ったが、一人しかいない文芸部というのが彼女の琴線に触れたのか目を輝かせ始めたので、口を噤むことにする。
案の定というべきか、彼女は僕の書いたものを読みたがった。文芸部として最低限としか言いようのないような酷い出来のものばかりだけれど、それでも僕が生み出してしまった物語が机に押し込んであったのだ。掘り当てられた時点でもう手遅れだと察して、両手に原稿用紙の束を握りしめてそわそわと見上げてくる視線に白旗を振った。彼女は難しそうな顔で椅子に座る。好みの話は無いだろうなと苦笑しつつ、その横顔をぼうと眺めることにした。薄荷飴をポケットに押し込んで、彼女が温めてくれたホットココアを両手で包み持っていた頃のように。微かな紙の匂いが、ホットココアと、薄荷飴と、鼻の奥でつんとする寒さの感覚を呼び起こした。文芸部室がデロリアンに詰め込まれて、あの日の僕らの部屋に飛ばされていく。あるべき姿に消えていく。原稿用紙が人間失格の文庫になる。彼女の姿が洒落た余所行きの服からカジュアルな部屋着になっていく。明滅する。心臓の奥で十一兆回ものスーパーノヴァが巻き起こって、僕の中の何かを何度も何度も生まれ変わらせた。二人で公園まで競走したこと。ジャングルジムの上で見た夕日。坂道。遠くで車の走る音。赤とんぼ。セーターの袖の中で繋いだ手。振り返った彼女の髪が雪を弾いて光った眩しさ。全部が、まるで今この瞬間に起こったかのように頭の中で咲いては散華した。ようやく全部が視界の外へ流れると、彼女が熱心に読んでいる原稿用紙の中身が思い返された。読書好きの二人が読んだ本の感想を言い合う話。夏休みの終わりに海の見える駅へ出かけようと思い立つ少女の話。かつて作った作品を褒めてくれた少女に夢で逢う話。音楽の道を開いてくれた先輩がいなくなってしまう話。どれもまとまりがなくて、テーマもあやふやで、とても人に見せられたものじゃないけれど、ひとつ、確かなことがあった。
どれも、彼女が生きていたら、共にしてみたかったことなのだ。本の感想を言い合うのも。ふと思い立って遠出するのも。創作に情熱を燃やすのも。音楽や部活に青春を捧げるのも。
正午過ぎ、灯りもつけていないものだから少し薄暗くなってきた頃、最後の1ページを読み終えた彼女は、深く溜め息を吐いた。
……いつの間にか、こんな話まで書けるようになってたんだね。
大きくなったね。
僕は、大きくなりたくなんてなかった。
お前と死ねたらよかった。
お前と、君と、一緒がよかった。それ以外、なにも要らなかった。
遣る瀬無くて、空しくて、悲しくて、悔しくて、薄い膜のような感覚を抱き締めて涙を流しながら、僕の脳裏にはテンペストの一節が過ぎった。
――我々は夢と同じもので作られており、その儚い命は眠りと共に終わる。
夢は、覚めなくては。
ずっと冬が嫌いでした
ベテルギウスの灯が瞬く回数だけ
十二月の未明
真新しい革靴の憧れに照る
冬にしか着られないコートの手触りを覚えて
千秋楽への憧憬
淡い泡沫のめぐりめぐる心臓は水色
凪いだ祈りも嵐せば呪いをしたためた藍色
なぞれど追いきれない玻璃筆に触れた指先の紺色
冬のことを忘れたいのです
貴方を忘れたいのです
冬を嫌いたいのです
忘れたいのです
食事も忘れてしばらく泣いて、その後は小学生なりに語彙を尽くして褒めちぎられ、気付いたら夕方だった。またあのファミレスに行きたいという彼女と共にのんびり歩いていると、あの公園が見えた。梅の木の公園だ。ほんの一日しか経っていないのに蕾が付いていた。昨日は気が付かなかっただけなのだろうか? それにしては鮮やかに映った。彼女は、寄り道したいなぁ、とねだった。僕も同じ気持ちだったから、返事もしないうちに進路を変えた。寒いのに、それすらもなんだか心地良いような感覚。空は薄紅色が浮かび、わずかな瞬きに続いて街灯が目を覚ました。木造ベンチにランドセルを放った彼女は準備運動のように飛び跳ねて、それからまた梅の木の下へ走る。はしゃぐ姿は元気な小学生だった。たとえ、とうに死んでいるとしても。
ねえ、楽しかったー?
彼女は言う。
あの日、私は、僕はね、君とこうしたかったんだ! 手を引いて雪を見せたかった。ご飯とか食べに行ってみたかった。新しいことも、いつもやってることも、雪の日にかこつけて、全部したかった!
……ああ、声が遠いな。
近づかなくちゃ。
硝子の話、覚えててくれたでしょ? 嬉しかったよ! 君は私の知らないこと何でも知ってるから、お姉ちゃんでいられるのが嬉しかったんだ! それも知ってたかな。
足が重い。
近づきたいのに、あの梅の木が遠い。
彼女が遠い。
あのとき話したこと、もう一つあるんだ。硝子はね、何千、何万年もかけてゆーっくり流れるの。じっと見てたってその動きはわかんないし、急かしてつついたらきっと壊れちゃうから、焦らずゆっくり確かめられたらいいね、って話。君はね、私と一緒なら、いつまでものんびり待ってられるって、言ってくれたんだ。
手が届かない。
プロポーズみたいだったなぁ。あれから、なんかドキドキしちゃって、上手く話せなくって、だから、あの日はお返事のつもりだったんだ。……死んじゃったけど。
走り出したいのにゆっくりとしか歩けない。手が伸ばせない。いつの間にか満開になった梅が花吹雪を散らして僕らを隔てて、その向こうから声がする。
ご飯食べて、デートして、初雪なんか見て、おとーとぶんの成長も確かめられて。あの日にしたかったデート、完璧にしてくれたから、だから、ちゃんと言うね。
……ああ、わかった。
夢から覚めるときが来たのだ。
僕は、君の真似して僕になったちっちゃい頃から、ずーっと、君のことが大好きでした!
でもね、追っかけてきたら怒っちゃうから。僕の分まで人生楽しんでから来ないと、嫌いになっちゃうから!
だから――だからっ、生まれ変わったら、キスしにきてね!
まだ咲いていないはずの梅の花が、渦巻いて、嵐して、時雨れて、晴れて。
最後に、いつもの笑顔を浮かべた君の頬に、一条の涙が見えた。
散らば花
散らねば玻璃や
冬の梅
影と知りせば
目を覚ましてやっと、僕はベンチに寝そべっていると気付いた。すっかり日が沈んで痛いほどに冷え込んでいるけれど、不思議と凍えるほどではなかった。梅の嵐は白昼夢か何かだったのか、目を擦っても寒々しい裸の梢が腕を広げているだけだった。随分、女々しい夢を見てしまった。
電源を切りっぱなしだった携帯電話を起動するとメッセージが何件も溜まっていた。夕飯を作ったから顔を見せろという、親からの淡白な一言。それがいくつも来ていて、なんだ、心配されていたんだな、と今更なことを思う。
……早く帰らなくちゃ。
立ち上がって伸びをする僕の肩を風が撫でて、硝子細工のように美しい花弁を一枚、ひらりと取り去っていった。