パンツになりたいなぁ
…助かってないよね、まだ。
人間の体に戻って一番最初に出てきた思考がそれだった。
焦りと絶望の暗雲が僕の中に立ち込める。
この時間帯で山の中の道なき道の先の崖に誰か通りがかるだろうか、通りがかったものは朝日ちゃんを助けるだろうか。
じいやが大の男三人を蹴散らして助けに来るだろうか、そもそもじいやは無事なのか。
警察に、いや説明ができない。僕はパンツなんですなんて言った日には良くて頭の病院か、悪くて冷たい牢の中だ。
鶴辺家に、電話番号を知らない。せめて僕が宿代をケチって町外れに泊まっていなければ!
何か、何か無いか。なんでもいい、見落としは無いか。
パンツとしての僕の意識が途切れてすぐにこちらが覚醒したのなら、朝日ちゃんはまだ崖の淵にぶら下がっているはずだ。
手元の携帯の時計が表している時刻と日没の時間を考えるとまだそんなに経っていない。
そして場所は山中の崖…崖から見えた景色はどうだった?
…麓の町の明かりに、見覚えはなかっただろうか?
一つの可能性が頭を過った時には、僕の体はもう動き出していた。
「すみません、外出で」
「かしこまりました。あ、パックの残り時間の方少なくなっておりますのでパックの切り替えをおすすめしますが。」
「じゃ、三時間をこれで。すみません、急ぐので」
「あ、お客様お釣りお釣り」
「後で取りに来ます!」
ここで釣りはいらねぇって言えたらかっこよかったのかも知れないけど、四千円弱の浪費は財布に痛恨の一撃で懐に大寒波をもたらすからみみっちいけど仕方ないね。
そんなことより今は朝日ちゃんのことだ。
まだそんなに時間が経っていないとはいえ、幼い彼女がこの寒い中いつまで崖にぶら下がっていられるかはわからない。少なくともそう長くはないはずだ。
近くの駐輪場に停めておいた自転車のスタンドを乱暴に蹴りあげて、ペダルを漕ぎながら急いであの崖から見えたやたらと眩しい建物を探す。
日の落ちた中では、それはすぐに見つかった。いつも眩しくてうざったいとか思っててごめんよ。
この近辺にある山は一つ、築杯山だけ。
方向を見失わないように確りとその山を睨み付けて、全力でペダルを回す。
築杯山は名前こそ山だがその実なだらかな丘のような部分がほとんどで、その山腹には公園や遊歩道、サイクリングロードなんかもある。
少なくともあんな崖は人が多く通る所には無かったはず。
あるとすれば、それは山頂付近の突起のような部分だ。
目指す場所は決まった。後は全力で走るだけだ。
僕は大きく息を吸い込んで、自転車のギアを二段上げた。
築杯山のサイクリングロードは緩やかな上り坂を、道が険しくなる山頂付近の直前まで続けており、そこまで行くのはそう難しいことではなかった。
上り坂が下り坂になる所まで来た僕は、振り返ってあの眩しい建物が見えることを確認すると自転車を目立たない場所に停めて携帯をライト代わりに道なき道へと突き進んだ。
もちろん安全性や遭難のリスクを考えると登山道を進んだ方が良いのだが、朝日ちゃんのいる場所が登山道付近だとは限らないし、回り道で時間をかけすぎるのも危険だと考えて直進する。
ズボンのポケットに入っていたラバー軍手を着けて手を保護しつつ、生い茂る木々に掴まりながら急な斜面を登る。
日雇い肉体労働者の必需品がこんなところで役に立つとは、なんて考えながら真っ暗な山道をただひたに真っ直ぐに登っていると、ほどなくして水の流れる音が聞こえてきた。
携帯のライトに照らし出されたのは、高さ数メートル程の断崖とその手前を流れる川だった。
パンツの僕が見た時よりも高さは無いように感じたが、それでも突き出た岩なんかに体をぶつければただでは済まないだろう。
一瞬、岩に叩きつけられて赤い華になる朝日ちゃんを幻視して背筋が凍った。
特別体が弱い訳ではないと知ってはいるものの、彼女がどれだけ耐えていられるだろうか。
一刻も早く朝日ちゃんの下へ向かわなければ、とは思うものの、この寒い中川に入るのは自殺行為と言ってもいい。迂回路を探さなければ。
焦燥感から速くなった歩調で川の上流へと歩くこと少し、多少狭まった川の中央付近に大きな岩が顔を出しているのに気付く。
最近落ちてきたのかまだ丸く削られきっていないそれは、僕には神か何かがかけた橋にも見えた。
しかし渡れると確信するにはその川幅は広く、落下の可能性を想起させる。
落ちたらどうなる。その想像が、僕の脚を竦ませる。
その竦んだ脚で、僕は跳んだ。
僕はともかく、朝日ちゃんが落ちればまず助からない。
冷たい水に熱を奪われて徐々に冷たくなる彼女を想像したその時、僕の脚は動き出していたのだ。
怖いくせに、想像しただけで震えていたのに、どうしてこの体が動いたのか自分にもわからなかった。
岩の平たい部分に着地して、勢いのままにもう一度跳躍する。
暗いせいで向こう岸が見えないから、出せる全力で。
勢いをつけすぎて向こう岸に着地した後転がることになってしまったけれど、なんとか渡ることができた。
方向感覚も、まだ大丈夫だ。
後はこの急斜面を登って朝日ちゃんを探すだけ。
「朝日ちゃーーーん!おーーーーい!朝日ちゃーーーーん!」
声を張り上げて彼女を呼ぶ。
クライマーもかくやというスピードで斜面を登りきった僕は、崖の淵を歩いて朝日ちゃんを探した。
崖下に落ちてしまったのではないかという考えをかき消すように、祈るように、大声で彼女の名前を呼びながら。
「っ!たすけてください!ここにいます!」
それは、聞き間違えようもない、この数週間の間に聞き慣れた朝日ちゃんの声で、彼女がまだ生きていることの証明だった。
まだ少し遠いその声を頼りに、真っ暗で不確かな地面を駆ける。
助ける。今度こそ、助ける。
「今、行く、から!頑張って!」
全力で動き続けて切れた息を整えることもせず、精一杯の大声で彼女を励ましながら電源の心許なくなった携帯のライトを崖下に向けて彼女の姿を探す。
すっかり日も沈み真っ暗になった視界に、麓の町のあの看板が映る。
このあたりのはずだ。
「朝日ちゃん!どこ!?」
「ここ、です!」
ライトを少し前方に向けると、探し求めた姿が照らし出された。
泥だらけになってしまった可愛らしい服、そこから伸びる細く白い腕、生き残る為の努力でボロボロになってしまっても尚崖の淵を掴む指。
人間の僕が初めて見た彼女は、パンツだった頃にも見たことがない必死の形相で、生きようとしていた。
「朝日ちゃん、今助ける!」
一秒でも、一瞬でも早くと彼女の下へと駆け、跪き腕を伸ばし、遂に僕の右手が細腕を捉えた。
それと同時に限界を迎えた朝日ちゃんの指から力が抜け、がくんと僕の腕に彼女の全体重がかかる。
多少体勢を崩したものの、僕の手が彼女を離すことはなかった。
人間の僕の体ならば、年相応に小柄で軽い彼女の全てをぶら下げたって破れることはない。
「引き上げるよ!」
彼女の重みを体感して、これならば一人でも引き上げることができると判断した僕は彼女に声をかけた。もう大丈夫、助かるよ、と安心させる意味をこめて。
携帯を置いて空いた左手で近くに生えていた丈夫そうな木の枝に掴まって支えにしながら、右手により一層力をこめて立ち上がり彼女を引っ張る。
崖の淵から胸元辺りまで彼女を引き上げたところで、僕は大変なことに気付いてしまった。
朝日ちゃん、スカートを破られた上に僕を履いてない・・・
僕の戸惑いをよそに、彼女は掴まれていない方の腕を崖の上に出して崖をよじ登ろうとする。
その行動に我に返った僕は、不可抗力だから仕方ないと覚悟を決めて彼女を崖の上へと引き上げた。
ようやく地面に足がついた彼女は、安心したのかそれとも疲れてしまったのか、座り込んでしまったようだった。掴んだ腕が、すとんと下がった。
危機は脱したとはいえ彼女が部分的にとても薄着であることは変わりなく、この気温の中では体調を崩してしまいかねないため、僕は彼女に上着を渡した。
「寒いでしょ、これどうぞ」
「あ、ありがとうございます・・・、っ!」
暗闇で表情こそ見えないが、はっ、という呼吸音から彼女が本来隠されているべき場所を外気に晒してしまっている事を思い出したようだと察することができた。
さすがにこの状態で携帯のライトをつける度胸はなかった。
掴んでいた彼女の腕を離して自由にすると、ごそごそと上着がすれる音がした。きっと腰に巻いているのだろう。
「あー、もう明かり点けても大丈夫?」
「は、はい。もう大丈夫、です」
携帯のライトを点けて、状況を確認する。
泥だらけの服は崖から引き上げた時に擦れて所々穴が開いてしまっており、僕の上着を巻いたとはいえ、包みきれなかった所からは泥に汚れて尚綺麗な太ももが露になっていた。
大きな怪我こそ見当たらないものの、朝日ちゃんはその身を抱くようにして寒さを耐えているようだった。
この寒い中薄着で風に曝されていたのだ。寒くないわけがない。
僕は着ているパーカーを脱いで朝日ちゃんに手渡した。寒っ
「朝日ちゃん怪我は無い?寒いでしょ、とりあえずこれ着てて」
「痛みとかは無いので怪我は大丈夫だと思うんですけど、あなたは、その、寒くないんですか…?そんな半袖で」
「大丈夫大丈夫。中学生の頃とか真冬でも半袖短パンで体育の授業出てたし」
「あぁ…そういう方いますよね。ところで私、以前あなたとお会いしましたか?私の名前をご存じのようですが…」
あ、しまった。
人間の僕は朝日ちゃんと面識が無いんだった…いやパンツの僕も面識があると言っていいかはわからないけど。
…もしかしてこれ結構マズいのでは?
身分のはっきりしない野郎がお嬢様の名前を知ってて窮地に駆けつけてきた?怪しさ1000%もいいところだね…
最悪あの人拐い達の仲間と思われて逃げられるかもしれない。
別に逃げられるだけなら僕が凹むだけなんだけど、この暗い中明かりもなく逃げ出したらまた崖から落ちかねない。
ここは返答を間違える訳にはいかない。
どう返せば怖がられずに済むだろうか…
「あの、もしかして、あの男達の…」
「いやいやいや違うって!僕はただ君を助けに来ただけなんだ!あいつらの仲間なんかじゃ」
僕が少しばかり考え込んでしまった空白の時間に不安を感じた朝日ちゃんから、当然の疑問と懸念が放たれる。
恐れていた事態に動揺して口から溢れたこの返答は、どうしようもない失言だった。
「どうしてあの男達を知っているのですか?」
「あ゙っ、違っ、僕は」
「助けるふりして!また酷いことするんですか!?」
パンツだった僕でも見たことのない怒りと恐怖の表情を浮かべた朝日ちゃんは、立ち上がることも忘れてずりずりと後退り僕から距離を取ろうとする。
その姿は、僕の心に暗い暗い影を落とした。
違う、違う、僕は君を助けたかっただけなんだ!
叫ぼうとした僕の口からは、掠れた吐息が出るだけだった。
守りたい人に拒絶され、憎まれ、恐れられる。
それだけのことが、こんなにも怖いのか、こんなにも辛いのか。
「最低!最低!来ないで!きゃ」
「来ないでって?そっちから来てんじゃねぇか、クソガキ」
後退る彼女が何かにぶつかって上げた短い悲鳴に、聞きたくなかった声が言葉を返した。
声の主にライトを当てれば、鼻血をたらし右手にカッターを持った禿頭の男が照らし出された。
そいつを見上げた朝日ちゃんの顔から血の気が引いていくのが見える。
ニタニタと嗤う男の右腕が持ち上がり、何をしようとしているのかを僕たちに示す。
「大人しくできねぇなら、大人しくさせてやるよ!」
「いや、きゃあっ!ぇ?」
その腕が振り下ろされる刹那、心を影に縛られ声すらも出せなかった僕の体は弾かれるように前へと飛び出していた。
尻餅をついた姿勢の朝日ちゃんに覆い被さるように、カッターと彼女との間に体を滑り込ませる。
僕の体に侵入した冷たい刃は、背中に焼けるような痛みを刻みつけて出ていった。
今まで体感したことのない程の痛みは、僕の脳に脳内麻薬をたくさん分泌させているようだ。
体が動く。それならば、彼女を守れる。
上体を起こして朝日ちゃんと禿頭の男の間に立ち塞がり、素人丸出しのファイティングポーズを構えた。
少しでも喧嘩慣れしているように見せかけるように、相手の戦意を削げるように。
「邪魔、するんじゃ、ねぇッ!」
朝日ちゃんを庇った時に携帯を放り投げてしまったから、視界は月明かりと町から届く僅かな明かりが頼りだ。
そんな朧気な世界の中で、僕のなけなしのはったりも虚しく禿頭の男が右手のカッターを振りかざすのが見える。
喧嘩なんてしたことは無いから、ここで華麗に攻撃を避けて反撃なんてことはできない。
それなら、耐えればいい。
左腕で予想されるカッターの軌道を塞ぎ、右脚で相手の体を押し出すように蹴った。
左腕に痛みがはしる。けど、耐えられる。
朝日ちゃんに怖がられた時より痛くない。朝日ちゃんに拒絶された時より怖くない。いやでもやっぱり痛い。
少し遅れて、右脚に確かな感触が伝わる。
「ゔっぉ゙、クソが、なめやがって!」
僕に蹴り飛ばされて尻餅をついた男は、多少苦しそうに呻きはしたものの戦意を喪失するどころか激昂して悪態を吐いた。
別に舐めてる訳じゃないんだけどなぁ、舐めるなら朝日ちゃんみたいな女児がいい。隅々まで舐め回したい。
「死ねやぁぁああああ!」
痛みと現実感の無さ、そして背中と腕から流れ出る命の感覚でズレていた思考が、男の怒号で現実に引き戻される。
僕の視界がそいつを捉えたときには、僕の腹に男の脚がめり込んでいた。
体重の乗ったその脚は、カッターとは違った痛みを僕に押し付けながら僕を転がした。
せめて頭を打たないように腕で庇いながら、なるべく衝撃を受けないように後転する。
鈍い痛みと慣れない縦回転で回る世界とふらつく足を気合いでどうにかして立ち上がると、禿頭の男が朝日ちゃんの方へ歩いてくるのが見えた。
「ひっ、たすけ、」
「うるせえクソガキ、全部てめぇのせいだ!てめぇが大人しくヤられねぇからこんなことになんだよ!」
僕を蹴り転がした脚が、今度は朝日ちゃんに向いていた。
震えてもつれる僕の足が、またしても考える前に動き出し僕の体を前へと運ぶ。
守るべき主人の下へ、朝日ちゃんの下へと。
「ゔっ、くぅ」
「てめぇ…そんなに死にてぇのか」
鳩尾に再度脚がめり込む。
今度は後ろに朝日ちゃんがいるから転がることもできずにその場で踏ん張って耐える。
空の胃からせり上がる何かを感じながら、崩れ落ちてしまいそうな自分に喝を入れる。
情けない呻き声こそ漏れたものの、なんとか壁にはなれたようだった。
「なんで、どうして、」
僕の後ろから朝日ちゃんの震えた声が聞こえる。
その問いに対する答えなら、既に決まっていた。
「お望み通りに殺してやるよぉ!」
僕の血に濡れた冷たい刃が、僕の胴体に向かって真っ直ぐに突き出される。
それが僕に傷を付けると同時に、固く握りしめた僕の拳が禿頭の男の顔面を捉えた。
初めて遠慮なく人を殴った感覚は、腹部の痛みに掻き消されてあまり感じることはできなかった。
「く、そがぁっ!」
残念ながら、素人が全力で人を殴ったところでそのダメージはたかが知れているもので、禿頭の男は気絶するどころかふらつく様子もなく僕に向き直り再度カッターを突き出してきた。
痛みこそ麻痺しているもののすでにいくらか穴が開いている僕の体では、それを避けることも防ぐことも、反撃することも出来なかった。
また一つ、僕の体に穴が開いて命が流れ出る。
「もうやめてください!死んでしまいます!」
後ろから朝日ちゃんの声がする。
守らなきゃ、今度こそ最後まで。
体が回避行動を取ろうとする前に、僕にもう一つ穴が穿たれる。
このまま刺し続けられれば、僕はすぐにパンツだった頃のようにズタボロになって果ててしまうだろう。
それではだめだ。朝日ちゃんを守れない。
僕はこの体に残る気力を総動員して、凶刃が引き抜かれる前に男の手を掴んで右に思い切り引っ張った。
ぺき、と軽い音を立ててそれは呆気なく折れた。
これでカッターの刃はほとんど僕の中に残って使い物にならなくなったはずだ。だからといって状況が好転した訳でもないんだけど。痛いし。
「てめぇ頭おかしいんじゃねえか!?」
「げほっ、ふ、はは、よく、言われるよ」
こうしている間にも僕の命は流れ出ていて足元は不確かになっているけれど、なるべく余裕ぶって相対する者を威圧するように、後ろにいる者を安心させるように精一杯強がって軽口を叩く。
暗くて相手の表情をはっきりととらえることはできないが、それでも僕は笑って見せる。痛くないぞ、怖くないぞ、まだまだ余裕だと。
僕やじいやが警察などに通報した可能性を考えると、相手だってそう長いこと僕を相手にしていたくはない筈だ。
鉛のように重たくなった腕を上げて、再度ファイティングポーズをとる。
これで防げる攻撃なんてあるのかはわからないけど、やらないよりはましだろう。
「いい加減死ねぇ!」
顔面にまっすぐ飛んでくる拳を何とか腕で防ぐ。鉛のように重く感じる癖に実際には鉛ほども硬くないし重くもなくて、防いでも腕が押されて顔面にぶつかって痛い。
自分の腕に視界を塞がれていると、今度は腹部に衝撃が加わって体がくの字に折れ曲がる。
前のめりに倒れ掛かって下がっていく僕の顔面を、今度は膝蹴りが捉える。べきりと嫌な音がして鼻を激痛が襲う。涙が出る。鼻血も出る。
思い切り蹴り上げられた勢いのままに上体がのけぞり、踏ん張りがきかずに尻餅をついてしまった。
間髪入れずに顔面に蹴りを入れられ、防ごうと思う暇すらなく地面に転がされる。
一度体を地面に横たえてしまうと、それからどうしても立ち上がれなくなった。全身くまなくとても痛い。それにひどくさむい。
血と一緒に気力とかそういうものも流れ出ているのだろうか、瞼までもが重くなってくる。意識が、遠のく。
随分と狭くなった僕の視界に、僕から離れていく一つの人影が映る。その影が向かう先にあるものは⋯
「まだやんのかよ、このキチガイが、よぉっ!離せ!クソが!」
どうにか動いた、動かした腕で男の足にしがみつくと、男は悪態を吐いて何度も僕の顔を蹴り上げ踏みつける。
自分の頭が上下左右に振られる中、僕はしっかりと歯を食いしばって必死に耐えてしがみついた。この脚を離すものか、こいつを朝日ちゃんのもとへ行かせるものか。それだけが僕の頭の中を支配していた。
蹴られ続けて何分が経っただろうか、もしかしたら数秒のことだったかもしれないが、そんな痛みと苦しみの時間の中に一筋の光が見えた。いや、聞こえた。
「お嬢様ああああぁぁぁ!返事をしてくだされえええぇぇぇぇ!お嬢様ああぁぁぁぁ!」
その声は遠く姿も見えなかったけれど、僕にとっては確かな希望となった。
今ここにじいやが来ているということは、小屋にいた悪漢共を片付けてきたということのはず。
つまりじいやは相当強いのだ。さすが執事というべきか。
「くそったれ!もうあの爺が来やがったのか!離せ!死ね!」
「っ、ごほ、ぐぇ、」
また蹴られ始める前になんとか叫んでじいやを呼ぼうとしたものの、僕の叫びはせり上がってくる血となにかよくわからないものに邪魔されてついぞ出てくることはなかった。
朝日ちゃんは叫べるだろうか?人間は極度に恐怖を感じると声が出なくなったりするそうだから、あまり期待はできない。
僕も朝日ちゃんも声を出せないなら、声を出せる人に叫んでもらうしかない。
僕は噛み締めていた口を大きく開いて、男の足、アキレス腱に思い切り嚙みついた!
「あ゛あ゛ぁ゛ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
禿頭の男の汚い叫びが夜の築杯山にこだまする。この声量ならじいやにも聞こえたはずだ。
人体の急所の一つであるアキレス腱に歯を突き立てられた痛みに耐えかねた男は、噛みつかれた足をでたらめに振り回し僕を引きはがそうとする。
僕の頭はまたしても前後左右に振られたが、折角なので持てる気力と咬合力のすべてを振り絞って食らいつく。今だけはパンツじゃなくてワニになりたい。
「あ゛あ゛ああぁぁぁぁっ!はなせっ!クソ、がっ!はぁー、はぁ、ぶっころしてやる」
ボロボロになった僕の咬合力では暴れる脚に食らいつき続けることはできず、ほどなくして振りほどかれてしまった。
転がされた先から男を見れば、噛まれた足を引きずりながらこちらに真っ直ぐ歩いてきていた。どうやら完璧に狙いをこちらに向けられたようだ。
これなら僕がこと切れるまで朝日ちゃんに被害が行くことはないだろう。それまでにはじいやもここにたどり着くはず。
あとはこの体が破れてしまうまで抵抗するだけだ。もうひと踏ん張り。それで朝日ちゃんは助かる。
決意を新たに希望を胸に、血が流れ出る口を一文字に結び歯を食いしばった。
「お嬢様ぁぁぁぁあああああああ!」
結果として、その決意も食いしばった覚悟も必要な場面が来ないまま、想定よりもかなり早くじいやが来たのだった。
安堵と達成感の中、僕は小柄な人影が大きな人影を張り倒すのを見届けて意識を手放した。
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「大丈夫ですか!?生きてますか!?」
「お嬢様、彼の身体を揺すってはなりません。」
「ご、ごめんなさい、でも、でも、」
不安げな少女の声と、それを宥める老人の声が聞こえる。そのふたりの声を、僕は知っていた。
どうやら僕はまだ地獄には落ちていなかったようだ。段々と意識がはっきりとしてくる。
「うぐっ、げっほ、げほ、う゛ぅ、」
「じいや!意識が!」
「動いてはなりませんぞ!応急処置は致しましたが、身体に穴が開いておるのです。安静にしてくだされ。」
意識が浮上してくるとともに、今まで興奮で麻痺していた痛みが僕を襲いだした。
前言撤回。ここは地獄だ。天使みたいにかわいい朝日ちゃんはいるけど痛みは地獄だ。
「先ほど救急をお呼びしました。少しの間、ご辛抱なさってください。」
先ほど、ということは僕が気を失ってからそう経っていないらしい。激痛で碌に体を動かせない僕は、首から上だけで同意を示した。
ボロボロになった僕の体は常にじくじくと痛み、呼吸する度、僅かにでも体を動かす度に更なる激痛に襲われる。
しかしそれは、僕がまだ生きていることの証明であることに違いなかった。
人間の体は丈夫だなぁ。布とは大違いだ。
「あの、守って頂いてありがとうございます。それと、逃げてしまって、酷いことを言ってしまって、ごめんなさい。」
「げほ、ぁー、気にしないで。あれじゃ、怪しまれても仕方無いし。それより、怪我、無い?」
朝日ちゃんのお礼と謝罪に掠れた声でなんとか答える。
僕としてはやるべきこと、やりたいことをやっただけだし、あの場面で僕を疑ってしまうのは仕方無いしことだと思うから全然気にしていないのだけれど。
それでも申し訳なさそうな声色で謝る朝日ちゃんの純真さが、僕にはとても眩しく思えた。
「はい、貴方が守って下さいましたので怪我はありません。ところで、結局貴方は何者なのですか?それに、どうしてここまで私を守ってくれたのですか?」
彼女が無事であることに安堵したのも束の間、答えにくい問題がその口から発せられてしまった。
バラバラと少し遠くにヘリコプターの飛行音が聞こえてくる中、僕は回答を考える。
しかし身体中が痛む上に血が足りていない頭で良い考えが浮かぶはずもなく、僕は正直に話すことにした。
今ならじいやは少し離れたところで発煙筒を振っているし、ヘリの音もあるから朝日ちゃん以外に聞かれることもない。
事実を話すなら、今この時しか無いように思えた。
「朝日ちゃん、僕は、パンツだ。君が今日履いていた、パンツなんだ。」
「はい?」
突拍子もない事実に、朝日ちゃんは呆けたような声で返事をした。
そうなるのも仕方無い。僕にもどうしてそうなったかわからないんだもの。
痛みを無視して少しだけ頭を上げて朝日ちゃんの表情を伺う。
暗くてよく見えないけれど、やっぱり可愛い。その可愛い顔がぽかんとしていて更に可愛い。
「君が初めて僕を履いたその時、僕は君を守ろうと心に誓ったんだ。けれど、実際は僕はただの布きれで、誘拐されるときも、何もできなくて、悔しかったんだ。」
途切れ途切れに、自分の気持ちを吐露する。
朝日ちゃんはこちらに真っ直ぐな視線を向けてくれていた。
「ん゙っ、しょ、ふぅ、だから、僕は嬉しいんだ。君を守れた。布きれの僕は、途中で破れてしまったけれど、それでも僕は、君のパンツになれたんだ。それが、誇らしかった」
ヘリの音が次第に近づき大きくなる中で、声がそれに掻き消されてしまわないように上体を起こして朝日ちゃんに顔を寄せた。
安静にしていろと言われたけれど、これだけはどうしても伝えたかった。
僕は朝日ちゃんに真っ直ぐ視線を向けると----
「へ?きゃあっ!」
----しゃがんでいる朝日ちゃんの肩を掴んで、僕と場所を入れ替えるように思い切り引き倒した。
僕が朝日ちゃんに向けた視線の先に、猛然とこちらに向かってくる人影が見えていた。
その人影はさっきまで朝日ちゃんがいた場所に、今は僕の上体がある場所に突っ込んでくる。
自分よりも体格の良いその人影に突進を喰らった僕は、当然地面を転がることになった。
回る世界の中、朝日ちゃんの悲鳴に気付いたじいやがこちらに向かってくるのが見える。驚きで固まってしまった朝日ちゃんが見える。…僕がこれから落ちるであろう崖が見える。
勢いを殺す力も、崖の端に掴まる力も既に残っていない僕は、最後の力を振り絞って叫んだ。
「ありがとう、守らせてくれて、履いてくれて」
あまりに力無く掠れた叫びは、きっと誰の耳にも入らずにヘリコプターの音に掻き消された。
上へ上へと遠ざかり次第に狭くなる夜空を見上げながら、僕は目を閉じた。
きっと今の僕は、誇らしげな笑みを浮かべていることだろう。
僕は、彼女を守れた。
僕は、パンツだったのだ。
こうして僕は、意識を閉じた。
次がいつになるか?わっかんない(にっこり)
一応この後の展開は考えてあるので打ちっ切りにはしないと思いますが果たして…