ロストエンパイア創造記 作:メアリィ・スーザン・ふ美雄
すまない狼少年……きみにはジャック&イーディスの下敷きというか叩き台になってもらわなければならないんだ……悪いが死んでくれ(直球)
むかしあるところに、世界で最も古いといわれる精神病院がありました。
その環境は劣悪で、監禁とほとんど変わらない状態なうえに、おぞましいうめきに満ちていますし、管理していたのは刑務所を管理する役所と同じですから、暴力を振るう危険な患者は、手錠をはめられ壁か床に鎖で繋がれることさえありました。
でも、さすがにそれは本当に昔の話なので、いまではせいぜい拘束衣を着せられて、簡素なパイプベッドの上に拘束される程度です。食事もちゃんと食べさせてもらえますし、かつてのそれとは雲泥の差です!
だから狼少年は、拘束衣を着せられて、ベッドの上で寝かされて、拘束ベルトでベッドから動けないようにされていました。そのうえ猿轡までかまされて、黒い目隠しで視界を閉ざされています。
彼は何段階かにわけられた危険度のうち、けっこう危険なレベルと分類されて、地下に収容されていたのです。
彼に"作業"を施すのは、いまでは絶対に女性です。
男性が"作業"すると、大変なことになることは、尊い犠牲の果てに分かっていました。
だから今日の"作業"を担当する額に手術痕があるその看護婦は、粗末な食事をつんだカートを狼少年がいる部屋の前まで運ぶと、三重のロックを解除して、鉄格子を開きました。それで、看護婦がカートごと中に入ると、また三重のロックをかけてから、猿轡を外しました。
「オエッぇ! アアオオオッ!?
おっ! 狼!? おっおオオ、狼が!」
「はーい狼じゃないですよー羊さんですよー」
「狼じゃない!? 嘘だっ!」
「嘘じゃないメェー羊さんだメェー」
「おお、おお……そっか……よかった……」
「……大丈夫みたいですねー?
じゃあご飯食べましょーねー」
看護婦は手馴れた様子で、狼少年を宥めると、粗末な食事を与えました。
量も少ないですから、すぐに与え終わりました。
食事させ終えた看護婦は、カートに積んであるキャンパスノートを手に取って、狼少年に質問しました。
「昨日は何かありましたー?」
「……また、夢に出たんだ……お、狼に、襲われる夢……あの街は、犯しい……で、でられない……イカれてる……もういやだ……誰かぼくを助けてよ……」
「えーっと、淫腐街って場所でしたっけ?
安心してくださーい。私達がきっと助けますから」
「……みんな狂ってる……交尾ことしか考えてない、悪い狼ばっかりいる街なんだ……みんな、みんな襲ってくる……っ!?」
「大丈夫ですよー。
ここにはもう男の人は来ませんからねー」
「そんなの分かるもんかっ!? ああ、窓に! 窓に! 狼が!?」
狼少年は発作的に暴れますが、そんな動きで拘束が外れることはありません。
看護婦は"観察"を止めて、室内を見わたしました。
この部屋に、窓なんてありません。
でもきっと彼には見えているのでしょう。
常人には見えない窓に、常人には見えない狼が、覗いているのが見えるのでしょう。
「落ち着いてくださいねー。
例え窓から覗いていても、この部屋には、入ってくることはありません。
誰も襲うことはできません。あなたは安全です」
「安全っ!? 安全……安全……
そっかぁ……よかったぁ」
何の保証もない看護婦の言葉に、狼少年は目に見えておとなしくなりました。
主観と、認識。
この二つが患者に大きな影響を与えることは、えらいお医者さん達が突き止めていました。
やがて狼少年は、唐突に力が抜けたように、また眠ってしまいました。
看護婦は、そういった様子の一部始終をキャンパスノートに書きました。
自分が不慮の事故にあって死んだら、次の者へと引き継げるようにです。
17世紀科学革命が起きてから今日までに培われた科学では説明できない出来事も、対象を説明するために観察して、知識や経験が蓄積し、学問として体系化すればなんらかの説明がつくはずですから、いまの精神病院では、そういうことが行われていました。でもお医者さんの数がぜんぜん足りませんから、できるだけ共感性のない看護婦が命がけの危険な仕事を代わりに対応しているのです。
確約はできませんが、今日のところは大丈夫でしょう。
そう判断した看護婦は、狼少年の腕から伸びる点滴めいたものの先にある、血の詰まった血液パックを外して新しいものに差し替えると、カートの上に載せました。真新しいパックには、とってもゆっくり血が滴っていきました。見ての通り、採血です。
それから外した猿轡をかまして、ベッドの拘束具の状態をチェックしてから、排泄物の処理もして、カートを押して鉄格子の前まで行き、三重のロックを外して、廊下に出ました。もちろん鍵はかけなおします。
精神病院で生き残るコツは、人を人だと思わないことです。
例えば訓練用のマネキンを相手にするように、無心で対応することです。
人だと思えば、時に共感し――――共感すれば、狂気に飲み込まれますからね。
特別な訓練と手術を受けたエージェント看護婦は、こうして人知れず、毎日働きましたとさ。
……
…………
……………………
いっぽうそのころ淫腐街では、今日も狼少年と紅ずきんが会っていました。
最初に会ったときとは違って、もう少年が過度にどもることはありません。
一度は拒絶こそしましたが、別の日に普通に訪ねてきてから、二人の仲はそれなりに良好でした。
だからどこか、心を許したのかもしれません。
紅ずきんは狼少年にほうちょうのことを話しましたが、狼少年に犯人の心当たりはありませんでした。でも彼は、紅ずきんのことが気になりますから、手伝っているのです。
それとは別に、食事も用意してくれますから、紅ずきんにとってはありがたいばかりでした。
紅ずきんは、お持ち帰り用のごはんを道具袋に入れていると、不意に狼少年が言いました。
「……ねえ。きみは狼が好きなの?」
「いや別に。
ただ、私が困ってる時にたまたまそこにいて、それから仲良くなっただけ。
狼だからとかじゃないわ。ポロだったからよ」
「だったら、その、ぼくも、きみと仲良くなりたいな」
「それなりに仲良くしてるつもりだけど」
「いや、そういう意味じゃなく」
狼少年は、そこで言葉を止めました。
自分の胸の内から溢れる感情を、どういえばいいか分からないのです。
秘密を口にしても、受け入れてもらえるでしょうか?
もっと親密になってからにすべきでしょうか?
それとも、ずっと口をつぐむべきでしょうか?
分からないのです。分からないのです。
嘘をつきすぎて、もう自分の気持ちが分からないのです。
どうしたいのか、どうなりたいのか、言語化できそうにないのです。
「? じゃあ、私はもう行くから」
紅ずきんは、建物から出ていきました。
その頃にはもう狼少年は、平常ではいられませんでした。
いつものように、魔法の言葉を繰り返します。
男は狼、男は狼、男は狼、男は狼、男は狼――!
「男は度胸! 何でも試してみるのさ」
ふと建物の外で、そんな声が聞こえました。
ここは淫腐街の裏通りですから、アレでアレな人がいてもおかしくありません。
「男は度胸……そっか、そういう考え方もあるのか……」
狼少年は心を決めました。
もう隠さないし偽らない。
紅ずきん。
ぼくはきみを食べたい。
そう、ぼくが、オオカミ。
オマエは、美味そうなヒツジ。
それから少し。
淫腐街に、狼少年の叫び声がすっかり響かなくなりました。
彼はいなくなりました。
紅ずきんにもどうしてこうなったのか分かりません。
血の滴るほうちょうを手にする彼女が分かるのは、一冊の童話のことくらいです。
名状しがたい青白い粒子のような何かとは別にその場に残った、一冊の童話だけ。
その童話のタイトルは【狼少年】
こんな、こんなものに、運命を狂わされたとでもいうのでしょうか?
メアリィ・スー教の創造神。メアリィ・スー。
かの存在を除かなければならぬ紅ずきんは決意しました。
「ちょっと発想飛躍しすぎ!
気付くの早すぎるよっ!
遊びたいのはやまやまだけどもうちょっと待っててねー♪」
そのとき、不思議なことがおこりました。
突如として淡い虹色の光が紅ずきんの全身を覆い、光の中に消え去ったのです。
創造神メアリィ・スーは、童話【紅ずきん】から都合の悪い記述を改訂し、彼女の記憶を改ざんすると、家に帰してあげました。
そしてその場に残った童話【狼少年】を虚空に片付けると、修羅場溢れる三角関係にならなくて残念だなあと思いましたとさ。
大変です。
収容違反インシデントが発生しました。
厳重に拘束していた狼少年がいなくなったのです。
貴重な変態型の精神異常者で、トラウマのトリガーも明確で、経過の観察も良好だったというのに、いなくなってしまったのです。これでは精神分析学の発展に遅れが生じてしまいます。
でも、いなくなる瞬間を目撃した人は誰もいません。
三重の鍵はかかったままで、ベッドの拘束は外れておらず、拘束衣さえその場に残っているというのに、狼少年だけが、影も形もなく居なくなりました。
どこに潜んでいるということもなく、その存在は消失しました。
看護婦に不手際はありませんでした。
ですが監視の不在という不手際はありました。
未知を解明するためには、もっと非人道的な措置が必要そうです。
こうして精神病院は、人権だ人道だという声を退けて、より閉鎖的に、より監獄的になり、歴史を外れていくのでした。