ロストエンパイア創造記   作:メアリィ・スーザン・ふ美雄

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絵空事【心を入れ替えた日】

 学徒と王子の身分違いの恋。

 クライストチャーチ・カレッジに入学した王子様と、学寮でのパーティや音楽会を通じて知り合い、二人は惹かれあっていました。

 

 ああ、しかしなんと罪深いことか。

 アリス・リデルの心には、未だに遠くに行ってしまった先生への恋心が燻っていました。

 二人の男の間に揺れる恋に、アリスの心は千々に乱れました。

 

「ああ王子、あなたはどうして王子なの?」

 

 学寮の一室の窓から、彼女は夜空を見上げて、そんな言葉を漏らしました。

 言うまでもなく、シェイクスピアの戯曲【ロミオとジュリエット】のパロディです。

 世紀を跨いで廃れぬ名作を、彼女は劇場で見たのです。

 お忍びで、王子様と一緒に、見たのです。

 

 彼女はその日、その物語に感化され、悲劇の乙女のような気持ちになっていました。

 この寮室にいられるのも、今年が最後になるでしょう。

 今年中にはこの心に、ひとつの決着をつけねばなりません。

 

 室内にある鏡には、黄金の午後の日の自分が映っていました。

 その冷ややかな瞳はあたかも、いまのアリス・リデルを責めるよう。

 でも、好きになったのですから、どうしようもないではありませんか。

 

 一体この世のどこに、乙女の恋心を抑えうる理性が存在するのでしょう!

 

 アリス・リデルは学園長のお父さんから、この恋愛は秘密にするよう言われていました。

 だから彼女には、この心を相談できる相手はいませんでした。

 現実では王子様と仲睦まじく、夢の中では遠く離れた想い人が残した思い出に浸る……

 ああ、なんて冒涜的!

 こんなこと、アリス・リデルが育んできた恋愛観において、到底許されることではありませんでした。

 

「大人になるって、悲しいことなの……?

 でも、こんな気持ちで人を好きになるなんて、それこそ相手に失礼だわ!

 ああ私ったら、もうどうしたらいいのか……」

 

 アリスは学習机に突っ伏し……ふと鏡をまた見ると、鏡の向こう側では、ひょこひょこと黒兎が跳ねているではありませんか。

 アリスは後ろへ振り向きました。

 もちろんそこには誰もいません。

 再び鏡へ向き直りました。

 鏡の向こう側では、黒兎が二足で立ち上がり、タップダンスを踊っています。

 アリスはびっくり仰天して、再び後ろへ振り向きました。

 もちろんそこには誰もいません。

 三度アリスは鏡を見ました。

 鏡の向こう側では、兎が鏡の目の前まで来ていて……そして、鏡を通ってこちら側に来ました。

 

 果たしてこれは現実でしょうか?

 それとも夢を見ているのでしょうか?

 ひとつだけ言える確かなことは、普通じゃないということくらいです。

 でも、アリス・リデルは普通じゃないことには耐性がありましたから、別にどうということはありませんでした。

 

「ハローハロー! アリス・リデル!

 鏡の中からこんばんわー!」

「まあ! ……もしかして、イナーヴァ、かしら?」

「よくわかったね! イグザクトリイ!」

 

 西洋かぶれ兎のイナーヴァは、ぺっこぉ~り、と深く深く頭を下げました。

 どこで覚えたか知りませんが、すっかり現地に馴染んだ様子で、言葉は非常に流暢でした。

 イナーヴァは挨拶もそこそこに居ずまいを正すと、臣下の礼を取って言いました。

 

「誓約に従い、あなたを助けに来た。

 あなたが、助けを求めていたから」

 

 アリスは記憶を思い出そうとしました。

 でも、あんまり覚えていません。

 一度夢見たきりですから、しょうがないかもしれませんね。

 

「気持ちだけでも、嬉しいわ。

 でも、恋愛相談なんて、イナーヴァに勤まるかしら?」

「ハッキリ言って、ムツカシイです。

 でも、解決することはできます」

 

 イナーヴァは、自信たっぷりにいいました。

 いったいどうしたら解決なんてできるのでしょう?

 アリスは素直に聞きました。

 

「ねえ、いったいどうやって?」

「あなたの恋心を預かりましょう。

 王子様を想う心か、先生を想う心か……どちらかを私に差し出してください。

 そうすればあなたの恋の病は、たちまち治ることでしょう」

 

 恋心を譲るというのは、一体どういうことでしょう?

 アリスは頭を悩ませて、きっと好きになっていないことになるのだと想像しました。

 

「そんなこと、できっこないわ!」

「できるのです。

 人がほんとうにその気になれば、いつでも心を入れ替えることができますからね。

 私はそれを、ほんのすこし、円滑にするだけなのです」

「もしそうしたら、どうなるっていうの?

 その恋心はどうなるの?」

「ご心配なく! あなたが取り戻したくなったらいつでもお返ししますし、未練なくすっぱり諦めたいなら、また別の誰かに譲り渡して、取り戻せないようにすればよろしい。

 これでも地元じゃ、ちょっとしたもんでしたから、そういうのは得意なのです」

 

 それは本当のことでした。アリスが知る由もないことですが、因幡の白兎の神話を思えば、あながち大言壮語というわけでも、まったくの出鱈目というわけでもありません。すっかり西洋に染まった彼でしたが、その血がなせる業なのか、乙女心を繰る術を心得ているのでした。

 

「あらそうなの?

 でも確かに、私の心からどちらかへの恋がなくなれば、とにかくどうにかなるでしょうね」

 

 嘘とは思えなかったアリスは、思わぬ提案に悩みました。

 きゅうにそんなことを言われても、スパッと決められることではありません。

 もしも簡単に決められるのなら、こんなに悩みませんからね。

 

 ものは試しに、仮定しようとしてみました。

 例えば王子様なんてぜんぜん好きじゃなくなったアリス・リデルはどうなるか。

 例えばキャロル先生なんてぜんぜん好きじゃなくなったアリス・リデルはどうなるか。

 

 前者は比較的容易に想像できましたが、後者はまったく想像できませんでした。

 

 キャロル先生とは、それこそ幼女のころから長く一緒でしたから、先生を好きじゃない自分なんて、とても自分の事とは思えませんし、考えられる気がしません。

 

 ああ、そして、気付きました。

 アリスはやっぱり、キャロル先生が好きなのです。

 永遠に喪われるかもしれないという仮定のおかげで、アリスはついにその結論に至りました。

 

 深く熟考したあとに、アリス・リデルは王子様を想う恋心を捨てる決心が固まりました。

 二人を天秤にかけて別の相手を選ぶような自分が、王子様に見合うような女ではないと、ようやく諦めがついたのです。

 

 その諦めから何かを見出し、イナーヴァは手招きするかのような動きをしました。

 すると名状しがたい無垢なる桃色のなんらかの欠片が、アリスの胸からするりと抜け出し、イナーヴァの手に収まりました。

 

 するとどうでしょう。つい先ほどまで【ロミオとジュリエット】のパロディまで口にするほど荒狂う想いが胸の内側で暴れまわっていたというのに、今はもう、ちっとも思うところがないではありませんか!

 

「あらまあ!

 なんだか、とっても気分が楽になったわ。

 思い悩んでいたのが嘘みたい!

 ありがとう、イナーヴァ」

「これくらいお安い御用です。

 ……この恋心は、どうします?」

「いいこと?

 いま助けてもらった私が言うのもヘンだけど、人の心は簡単にとっかえひっかえするものじゃないの。

『やっぱりやめた』なんて女々しいこと言うつもりはないわ。

 王子様の事は、この際スッパリ、諦めるわ」

 

 なるほど、と頷きながら、イナーヴァは恋心を仕舞いました。

 これはどっかそこらへんにいる別の誰かに押し付ければ、万事解決するでしょう。

 もともと王子様なんてモテモテですから、元から彼に想いを秘めた誰かに移せば、エロースとかいう恋愛の神様が起こした数々の問題のようなことなど起こる事はないでしょう。イナーヴァは生まれ故郷のお国柄、空気を読むのは得意ですから、押し付けるべき誰かを見つけるなんて容易いことでした。

 

 なにはともあれ、そういうわけで、王子様との交際は終了しました。

 

 その後アリス・リデルの妹、イーディス・リデルが王子様と付き合っていることがわかったときは、素直に祝福しましたとさ。

 

 

 

 それから少し。

 

 

 

 恋煩いが一区切りしましたから、アリスはずいぶん久しぶりに、先生に手紙を出すことにしました。

 学校に入学してきた王子様が気になっていたこと(気になっていた事は事実ですから、付き合いを秘密にする約束とは矛盾しませんし嘘でもありません!)や、昔夢見た大怪我をした兎が現れたこと。それから、それから――――書き始めればすらすらと、いろいろなことが書けました。

 

 でも、先生が好きだと気持ちを書くことはできませんでした。

 だって、かしこまってそんなことを書くなんて、なんだか恥ずかしいですからね。

 

 ああ、でも。

 彼は、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、耐えられなかったのです。

 アリスが自分以外の何者かに恋わずらい、思いを馳せていたなどと!

 

 ジャック、イーディス。

 巻きこんですまない。

 

 いつかの未来にそんな謝罪を残すほど、彼は嫉妬心を原動力に、誰にも見せない見せられない、黒く穢れたワンダーランドを半ばまで書き上げて、途中でハッと我に返り、己の情けなさを恥じ入って、誰の目にも届かぬよう封印してしまいました。

 

 それから彼は、亡くしたかもしれない想いを埋めるように、遠い親戚の娘、アリス・シオドア・レイクスと会って黄金の午後のような日を取り戻そうとしたり、彼女の誕生日には靴下をプレゼントしたり、私のアリスになってくれるかもしれない少女を探しては写真を撮りまくって鬱憤を晴らそうとしましたが、そういった代替行為で彼の想いが報われることはありませんでしたとさ。

 

 

 

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