「鬼滅の刃」世界のあの世が「鬼灯の冷徹」世界だったら 作:淵深 真夜
今回は鬼灯22巻201話「強さとは」の後日談というか、鬼滅バージョン的な話。
そして少しだけ鬼灯スピンオフ「シロの足跡」の話もリンクしてます。まぁ、足跡の方は知らなくても全然問題ないくらいの要素ですが。
「強さの秘訣?」
「はい! 火車の姐さんに追いつくために、鬼灯様に色んな『強い人』を紹介してもらい、その秘訣などを聞いて回っているんです!」
小首を傾げて訊き返した狛治に、ピスピス鼻を鳴らしながら芥子が答える。
「あぁ。この間、対決してたもんな。けどあれは一応、芥子の勝ちじゃなかったか?」
その答えと壮大な目標に、狛治は先日行われた動物獄卒勧誘を兼ねた異種族対決を苦笑しつつも思い出し、その結果で浮かんだ新たな疑問をまた尋ね返す。
「確かに試合としては私の勝ちですが、あれは私が火車さんに相手にもされていなかったからの不戦勝。試合に勝って勝負に負けたという奴で、精神的に惨敗です。
あれで私は、強さとは肉体の事だけではなく、精神的なものも重要だと痛感させられ、強さの種類を知りたいとも思ったからこそ、色んな人に強さの秘訣を聞いて回ってます」
その疑問にも芥子はウサギ特有の可愛い無表情で、それでも大真面目だとわかる様子で答えてくれた。
芥子が真剣なのはわかっていたので、狛治は「
「う~ん……。悪いが俺は俺自身を『強い』とは思ってないから、秘訣と言われても何も浮かばないな。肉体面でのこと、素流とか格闘技のコツを教えてもさすがに意味ないだろうし」
だが、真剣に考えれば考える程、芥子が望むであろう答えは浮かばなかったので正直にそのことを話す狛治だが、芥子は落胆した様子もなく、むしろ感心して納得したように腕を組んで何度も頷いた。
「いえいえ、その謙虚さとストイックさこそが、私から見たら狛治さんの『強さ』ですよ。
あと、狛治さんの『我慢強さ』も大きな『強さ』だと思ってます!」
芥子にとって狛治は獄卒としては後輩だが、鬼灯と同じくらい尊敬に値し、ウサギかつ独身なら仕事一筋の自分でもメロメロになっていると思える上司だからか、やけに狛治を褒めちぎる。
その言葉自体は、照れ臭いが素直に嬉しく思う。だが狛治からしたら、過剰というか全く心当たりがない評価でもあったので、つい無粋だとわかっていても否定してしまった。
「ありがとう。けど、我慢強いって何のことだ? 俺はむしろ、耐えることが出来なかったからこそ、多くの罪を犯してしまった生涯だったぞ?」
「……あなたの過去は我慢が足りなかったのではなく、それだけ相手が外道だっただけですよ」
狛治のもはや自傷に近い自嘲の言葉を、芥子は否定する。
どんなに尊敬している相手でも、これだけは認めない。本人にだって否定させない。
芥子自身も「耐えられなかった」からこそ、同じ傷を持つからこそ、真っすぐに狛治を見つめて断言した。
「狛治さんが我慢強くない訳ないじゃないですか!
我慢強くない人が、鬼灯さまや無惨の部下をやれる訳ないでしょう!!」
「突然、鬼灯様に流れ弾をぶち込むのはやめてやれ」
しかしその断言に至る根拠が本当に流れ弾過ぎて、狛治はしんみりしつつ感謝する暇なく、つい反射で突っ込みを入れてしまう。
しかし芥子にとって狛治の自責による自嘲は、ある意味ではNGワード「狸」並みの地雷だったらしく、ウサギ特有の無表情さえも崩れ、泣きそうな顔で前足をじたばた動かし、後ろ足も地面をバンバン踏み鳴らして狛治の素の突っ込みも聞かずに熱弁を続けた。
「狛治さんは我慢強いです! 百歩譲って鬼灯様は忍耐力がなくてもスルー力があればなんとかなりますけど、無惨の部下なんて我慢強くないのならもうドМ以外ないじゃないですかー!!」
「いや、だから鬼灯様に流れ弾をぶち込むなって……。それに無惨様に対しても、俺は我慢してたというか自暴自棄で何も考えてなかっただけだし……、っていうかその状態でも童磨に関しては文句言ったから、やっぱり我慢強くは……」
「いやそれ、むしろ童磨凄すぎません?」
子供の駄々のような状態になってしまった芥子を、正直可愛いと思いつつ狛治は宥める。
そしていくら落ち着くように言われてもヒートアップし続けていた芥子だが、童磨のくだりでいきなり素に戻って、したくもない感心をこちらも反射的に口にしてようやくクールダウン。
狛治も今更になってだが改めて、当時の自分の状態を考えたら確かに、奴が忘れていたが失っていなかった自分の地雷を踏みまくっていたとはいえ、「ウザいから何とかしてくれ」という要望を無惨に出すほどの感情を呼び起こしていたのは、ある意味すごすぎる。
しかも無惨は、その要望は無視したし、狛治に同情もしなかったが、「童磨がウザい」という感想に共感だけはしていたというのも、奴の最低最悪な唯我独尊ぶりを知っていれば、快挙そのものだろう。
「……あれもあれで強さと言えば強さだよな」
「しかも、無惨や鬼灯様も太刀打ちできないくらいですからね……」
一人と一羽は一緒になって腕を組んで俯きながら、改めて童磨の最強っぷりにドン引いた。
「……まぁ、あれはある意味最強で無敵かもしれないが、参考にはならないから忘れろ。っていうか、絶対に見習うな。
童磨はもちろん、俺よりも鬼殺隊だった奴らに聞いた方がいいんじゃないか? 彼らこそ、肉体面はもちろん、心が優しくも強かったことはわかりきっているだろう?」
「それもそうですね。しのぶさんのお話とか参考になりそうですから、さっそく聞いてみます!
ありがとうございます、狛治さん! ……あと、何度も言いますが、狛治さんだって心がとっても強い人ですよ」
しかしいつまでも
芥子もその意図を理解して、無敵のウザさを誇る虚無の塊は思考から放り捨て、奴から連想した割と親しく付き合っている同僚の名を上げ、さっそく彼女のもとに向かうと宣言。
そして狛治に礼を言って去ろうとするが、その前にやはり芥子は狛治の自嘲を許せなかったのか、しつこく狛治を「強い」と断言した。
その言葉をまだ否定するほど、狛治に無神経な頑なさなどない。
彼は素直に嬉しそうな笑みを浮かべ、「ありがとう」と告げる。
その笑みと言葉に芥子は安堵して、次のインタビュー相手であるしのぶの元へぴょっこんぴょっこん跳ねて向かう。
「芥子」
2,3歩ほど跳ねた背中が呼び止められる。
振り返った芥子は、可愛らしく小首を傾げた。
「……お前の、強くなりたい『理由』は、何だ?」
自分を呼び留めた狛治が、淡く微笑みながら尋ねた言葉の意図がいまいち理解できず、芥子の首の角度がさらに深まる。
「え? ひとまず、火車の姐さんに追いつくことですけど……。ん? これは目標であって、理由じゃないですね。あれ?」
理解できないまま答えようとして、けれど自分の答えが「理由」でないことに気付き、今度は自問自答で悩み出す。
そんな芥子に狛治は苦笑して歩み寄り、彼女の長い耳の間の小さな頭を指先で撫でてから言った。
「……大丈夫だ。きっと、彼らの話を聞いて、そして『見て』いれば思い出す」
その言葉の意味もわからなかった。
狛治の、少し悲しげだがとても優しい笑顔の理由も。
その笑顔に、何故か無性に泣きたくなった自分の心から生まれた感情の名も、まだ芥子にはわからない。
* * *
「『自分の適材適所を見極め、生かす』。それが私の自負している『強さ』です」
「そうですね。あと、『相手を理解する』ことも大事な強さだと思います。
憎しみというフィルターのかかった相手像で策を練っても、その策通りに相手が動く可能性なんて期待できません。それなら無策で臨機応変に行動した方がずっとマシなくらいです」
休憩時間だったので、しのぶは自分の仕事場ではなく閻魔庁の医務室で、珠世と一緒にお茶を飲んでおり、芥子のインタビューにはしのぶだけではなく、彼女に続いて珠世も自分なりの「強さ」を語ってくれた。
「なるほど……。どちらも実体験に基づいていますから、何と言うか説得力の重さが凄いですね」
鬼の首が切れない非力さでありながら、無理やり筋力をつけるのではなく、鬼を殺す毒を開発したしのぶは、まさしく自身の適材適所を完璧に生かしている。
女性は、筋肉がつきにくい。特異体質の蜜璃でさえも、柱の中で比べたら飛び抜けて怪力という訳ではないくらいだ。
……比べる対象が悲鳴嶼とかなので、あまり参考にはならないかもしれないが。
とにかくただでさえ性別段階で不利なのに加えて、しのぶの小柄な体格に筋力がつけば、その小柄さを生かした敏捷性が間違いなく筋力と反比例して落ち、そしてその落とした敏捷性以上のメリットを得る筋力は、やはり性別と体格の問題で決して得ることは出来ないのだから、しのぶの判断は英断というより最適解だ。
そして珠世のおっとりとした言葉に騙されそうになるが、彼女の「強さ」はある意味では皆さん反応に困りまくる、無惨でさえも真っ当な反応をした産屋敷ボンバー以上に、狂的なほどの覚悟ガン決まりによる「強さ」だ。
奴を憎みに憎み抜いていた彼女にとって、もっとも考えたくもない存在、理解なんてしたくない思考だっただろう。
それでも珠世は、自分の開発した毒を生かすために、自分がどのような言動を取れば、無惨が自分の思惑に気付かず、薬の効果が現れるまで騙され続けるかを考え抜いた。その為に、憎くてたまらない男の行動原理を自分の私情で歪めず、理解して読みきった。
「そうですね。というか、珠世さんは本当に良くやり遂げましたよ。
私の場合、あいつは空っぽだからこそ割と行動原理や思考は予測しやすかったのですが、無惨は知れば知るほど斜め下にやらかしまくりですから……。あれを理解するって、憎いとかムカつく以前に呆れとか馬鹿らしさが先立ちません?」
そんなある意味では肉体的な拷問以上の苦痛だったであろう、「無惨を理解する」をやり遂げた美女は、芥子からの尊敬のまなざしと、しのぶからのもはや尊敬を上回る困惑の言葉に、やや頬を紅潮させて明日も美しいと確信させる微笑みでしとやかに答えた。
「ありがとうございます。精神的苦痛は確かにあったけど、理解すること自体は楽でしたよ。
だってあいつ、攻撃力と再生力と生き汚さは想像できる限り上に、それ以外はとにかく下に、地面にもぐりこんで掘り続けて、地球を貫通させる勢いで下に見ておけば良かっただけだから」
とてもいい笑顔で、相変わらずボロクソに無惨を貶す珠世にしのぶは引いた様子もなく、彼女も朗らかに笑って「なるほど」と納得していた。
そんな会話内容を無視すれば、実に目の保養となる仲の良い友人同士の優雅なお茶会風景だ。
とても珠世が、無惨に騙されたとはいえ自分の家族を食い殺し、そのことで自棄を起こして多くの人間を血祭りにあげた、間違いなく「悪鬼」としか言いようがない時期があったことも、しのぶはそんな「悪鬼」を憎み抜いて、自身を毒の塊にして神風特攻をやらかした鬼殺隊であったことなど、現在の二人を見るだけでは信じられない程に仲睦まじい。
そんな二人を、いつもなら芥子は微笑ましく思うだけなのだが、今日はほんの少しだけ違った。
もちろん微笑ましいとはいつも通り思っている。けれど、今日は何故か芥子のモフモフな小さな胸の奥が、ほんの少しだけチクリと痛んだ。
「けれど私たちの『強さ』なんて、芥子さんは既に持ち合わせていますよね?」
「それもそうですね。『かちかち山』で行った策は全て、芥子さんの適材適所を生かしつつ、相手の愚かさを理解していたからこそ、出来た事ですし」
決して鈍い訳ではない、むしろ敏い方な二人だが、流石にウサギの無表情から芥子自身もいまいち理解できていない感情の機微を読み取ることは出来ず、しのぶと珠世は自分たちと似た者同士な兎に、似ているからこそ生かせないアドバイスだったことを詫び、そして次のインタビュー相手を推薦した。
「悲鳴嶼さんのお話を聞いてみたらどうでしょうか?
精神論はもちろん、あの人は聴覚を生かした戦い方するから、芥子ちゃんにとって有益なお話が聞けるのでは?」
「なるほど。あの方は当時の柱で最強ですし、ぜひともお話は聞きたいです!
ありがとうございます、しのぶさん! 珠世さん!」
しのぶの提案に芥子はすぐさま乗って、礼を言いつつ賽の河原までぴょこぴょこ跳ねて行く。
もうその頃には、胸の奥の痛みなど忘れていた。
* * *
「……私はそもそも体格に恵まれていたから、期待に沿えず申し訳ないが、私の話はあまり参考にならないだろう。
精々……胡蝶が言っていたように、視力ではなく聴力に頼る戦い方くらいか。目が見える者は、こちらが聴力頼りだとわかっていても、やはりそれがどんなものか想像ができず、対応できないようだ。異能を操る鬼相手でも、私が最後まで戦えたのはそこが大きいだろう。
それと、見ただけで盲目というハンデがわかれば相手は油断するから、この見た目もある意味では私の『強さ』なのかもしれんな」
「いや、むしろあなたの見かけは警戒心を限界まで引き上げますよ?」
賽の河原で悲鳴嶼が悩みながら答えてくれた言葉に、芥子も申し訳ないと思いつつ突っ込んだ。
悲鳴嶼はその突っ込みに気を悪くした様子はないが、そもそも突っ込みの意図がよくわかってないのか首を傾げている。
盲目だから、自分の体格が恵まれている事は自覚していても、盲目がハンデに思えない程の見かけだとはさすがに思ってないようだ。
「? よくわからないが……、私が言えることは本当にこれくらいだな。
すまない。私は……自分の心が強いとはとても思えないのだ。むしろ、私は強くなどない、間違った恨み言を抱え続けていた愚か者だ」
小首を傾げつつ、悲鳴嶼は片膝をついて芥子の頭を撫でて、彼女に詫びる。
その視力がないはずの目は芥子に向けられてこそいるが、芥子を意識上でも見ていないことは明らかだ。
彼が見ていたのは、生前の自分。鬼殺隊に入る前。入るきっかけとなった事件。
養い子のほとんどを守れなかった挙句に、仕方がない事情が重なったとはいえ、自分を思ってくれていた子供たちの優しさを全て誤解して、「子供は保身ですぐに嘘をつく」と思い込んでいた過去を見ていたのは、その白濁している眼に湛えられた後悔と悲しみですぐにわかる。
だから芥子は、「そんなことないですよ」とフォローの言葉をかけようとしたが、それは不必要。
「あー! ウサギさんだー!」
「泣きマッチョがウサギさん撫でて泣いてるー」
「いいなー。ひめじまさん、私もさわりたーい!」
悲鳴嶼と芥子に気付いた賽の河原の子供たちが、無邪気に近寄ってきて、それぞれの感想やら要望やらを口にする。
悲鳴嶼は芥子が子供たちの玩具にならないように庇いつつ、芥子はただの兎ではなく獄卒であることを説明したり、芥子自身に優しくなら子供たちが撫でてもいいかどうかを尋ねて、子供たちの面倒を見る。泣きマッチョ呼ばわりに関しては、慣れているからか事実だからか、気にした様子もなくスルーしていた。
芥子も大人な対応で、多少乱暴でも大人しく子供に撫でられながら、安堵する。
「……悲鳴嶼さんは十分に強いですよ。誤解とはいえ、子供を恨んでも仕方なかったのに、不信感を懐いてもずっと守る対象であり続けたのは、十分すぎる『強さ』ですよ」
そんな独り言を呟きながら、芥子はジェンガをさぼって逃げる子供を泣きながら追いかけ、子供も泣かせにかかる悲鳴嶼を眺めた。
怖がられ、嫌われるはずの賽の河原の獄卒で、確かにジェンガ崩しをしていないにも関わらずに、その外見といきなり泣き出す奇行でやたらと怯えられているが、同時に面倒見の良さをしっかり子供たちに見抜かれ、懐かれている悲鳴嶼の優しさを「強さ」と断じる。
……その「強さ」にまた、チクリと何かが胸の奥で痛みながらも、芥子は子供達とほとんど戯れている悲鳴嶼をただ見ていた。
* * *
「『強さ』の秘訣? 稀血なんて特異体質頼りだった俺こそ、悲鳴嶼さんより元からあるものだよりだっつーの」
「そうだな。俺も鬼食って鬼化なんて、ハチャメチャな特異体質に頼りっぱなしだったからなー」
「笑ってんじゃねーよ!! お前はよりにもよって、なんつーもんを食ってんだ!?」
悲鳴嶼から今度は、「酷いことを言われても、お互いを思いやり続けた不死川兄弟なら、精神論での『強さ』の話が聞けるのでは?」と言われ、不喜処にやってきた芥子が、さっそく実弥と急病で欠勤している獄卒の代わりでバイトしている玄弥の話を聞く。
しかし彼らも自分達の精神的な強さに自覚がないから、お互い無惨の鬼に対して有利だった自分たちの体質を「強さ」として挙げ、玄弥は相変わらず手が早い心配性な兄にキレられ、サブミッションを決められる。
「痛い痛い! 兄ちゃんごめん! もうしないから許して!!」
「当たり前だ馬鹿野郎! っていうか、ここで鬼食いしたらお前はただの猟奇殺鬼犯じゃねーか!! んなことしたら、俺がお前の首切って俺も切腹するわ!!」
「どうどう、不死川さん、落ち着いて。潔い兄弟愛と責任感は素晴らしいですが、亡者のあなた方だとその償いはあんまり意味がないですよ。
っていうか、玄弥さんは本当にいったいどんな経緯でそんな特異体質に気付けたんですか?」
兄弟のじゃれ合いではなく、割とガチで実弥は弟の肩関節を外すどころか粉砕しかねない勢いで固めているので、玄弥が何とか外そうと行動でも言葉でもがんばるのだが、頭に血が上りやすい兄には何を言っても逆効果らしい。
だがさすがに第三者の言葉で少しは頭が冷えたのか、芥子に宥められて実弥は舌打ちしつつ弟を解放。
玄弥は呻きつつホッとしながら、芥子の関心はあるが同時に呆れている疑問に答えた。
「いてて……。あー……、あの時は刀の色は変わんねぇわ、呼吸はどんなに頑張ってもひっひっふーくらいしか出来ねぇわで、剣士としてダメダメだっていうのを思い知って、もう完全にヤケクソのやけっぱち、ノリと勢いとその場のテンションで食ったら、なんか鬼の能力が使えたんだよ」
「食うな!!」
しかし正直に話すぎて、もう一回兄から雷と拳骨が落とされた。
その落とされた拳骨に数秒間しゃがみこんで悶絶したが、それでも玄弥は笑って兄を見上げて言う。
「いってー! ごめんってば、兄ちゃん!
……けどさ、兄ちゃん。確かにこのヤケクソ経緯は俺もどうかと思うけど、俺は鬼を食ってこの体質であることに気付けて良かったと思ってるんだ。この体質に感謝はしても、後悔なんかなんにもねぇよ」
「あ”あぁ?」
実弥の稀血とは違い、人間と定義すべきかどうかも怪しい体質であることを朗らかに笑って肯定する弟に、弟を誰よりも何よりも愛しているからこそ、実弥は狂犬のような顔で唸るように凄みを利かせて睨み付ける。
だが玄弥は身内の気兼ねなさと、自分が死んだ時の兄の慟哭を知っているからこそ、兄のメンチ切りに生前のような怯えは見せず、むしろ更に嬉しそうに、誇らしげに笑って言い切った。
「だって俺は、どんな姿になっても兄ちゃんと一緒に戦いたかった。兄ちゃんと一緒にいたかったんだ。
兄ちゃんは自分を犠牲にして、俺の安全と幸せを守りたかったんだろうけど、俺の幸せは兄ちゃんと一緒にあったから、幸せになりたいんなら兄ちゃんを追うしかなかったんだ。
だから、兄ちゃん、本当にごめん。俺は、もし過去に戻れるとしても絶対に何度でも鬼を食うし、……上弦の壱との戦いで同じ事をするよ。もちろん、今度こそ生き残ろうと努力するし、足掻き抜くけど……それでも俺は……、俺だって自分の全部を兄ちゃんにあげてもいいくらい、兄ちゃんに生きててほしかったし、幸せになって欲しいんだ」
弟の真っ直ぐな、当時も今も変わらない想いと願いを耳にして、実弥は真っ赤になって今度は照れ隠しの拳骨を落とし、玄弥もさすがにこの一撃に対しては「理不尽!!」と悲鳴を上げた。
「お二人の強さの秘訣は、『相手に嫌われても、相手の為に自分の全てを尽くすこと』ですね。もう兄弟そろって、まさしく『泣いた赤鬼』の青鬼であり、赤鬼です。
けど、不死川さんはさすがにそろそろ素直になった方がいいと思います」
そんな兄弟のやり取りを眺めながら、芥子が出した結論にやっぱり実弥は顔を真っ赤にして、「うっせぇわ!」と怒鳴った。
そんな兄をフォローのつもりか、玄弥は「いや、俺が死んだ時の号泣絶叫で兄ちゃんの本音はもう全部わかってるから、別に今のままでもいいよ」と全力で藪蛇をやらかし、今度はチョークスリーパーで締め上げられる。
そんな過激すぎる兄弟の戯れを、クスクス笑って芥子は見守る。
二人の「強さ」を自分で語っていた時、疼いた痛みから目を逸らすように。
* * *
「錆兎のおかげだ。錆兎を目標にして、錆兎に追いつこう、錆兎の死を無駄にしないと思い続けたからこそ、俺は最後まで戦えた。
まぁ、錆兎には結局は追いつけないままだったがな」
「義勇。気持ちは嬉しいが、たぶんとっくの昔にお前は俺を追い抜かしてる」
弟を締め上げながら不死川が次にインタビューする相手に勧めた元鬼殺隊は、現同僚である獄卒ではなく保父さんという色んな意味でギャップのある職に就いている冨岡 義勇だった。
上げた理由は、他の者達のように芥子が求める「強さ」の参考になりそうだからではなく、「未だに何考えてるか全然わかんねー奴だから、ちょっと聞いてみてくれ」という、ほぼ完全に不死川個人の好奇心だった。
しかし芥子の方も、しのぶ経由である程度知っている義勇の人柄が「めちゃくちゃ強いけど、かなりの天然かつドジっ子」だったので、彼女の方も普通に気になりインタビューを実行した結果がこれだ。
しばし考えた後に言い放った強さの秘訣というか、強くなろうと思ったきっかけ、その努力を続けられた理由としては、真っ当で友達思いの立派なものだ。
しかし、即座に後ろで本人に突っ込まれている通り、この男は真っすぐだけどなんかズレてる。
確かに錆兎は、当時の最終選別に参加した隊士候補の中ではずば抜けた実力を持っており、そんな彼と比べて義勇は精々平均レベルだったのは確かだが、死んだことであらゆるものが止まってしまった錆兎と、どんな思いであれ形であれ、生きて前に進み続けてきた義勇とでは、錆兎の言う通り追いつくどころかとっくの昔に、それも比べ物にならないぐらい追い抜いていると考えるのが当然だ。
その当然を、意地とかではなく素で気付いていない義勇は、振り返って力強く断言する。
「そんなことはない。錆兎だったら時透よりも早く柱になれただろうし、新しい型だって30くらいは生み出したし、なんなら無惨相手でも一瞬で首を切り落とせた」
「出来てたまるか」
「義勇さん、錆兎さんを何だと思ってるんですか? 最低でも縁壱さんと同格だと思ってますよね?」
「というか、本当にそれぐらいの実力があったら、刀が折れてもあの手鬼にやられんだろう……」
しかし普段は良く言えばクール、悪く言えばというか真実を言えばぼけっとしている義勇の珍しい生気ある目ときりっとした顔による熱弁は、錆兎本人の即答で否定された。当たり前だ。
そんな二人のやり取りに困惑しながらも芥子がひっそり突っ込み、鱗滝も弟子の拗らせ具合に頭を抱えながら、更に根本的なことに突っ込んだ。
総突っ込みをくらっても、自分の錆兎像を曲げる気はないというか、本気で錆兎ならそれぐらいできると信じている義勇は小首を傾げ、更に周囲は「どうしよう、この天然……」と義勇への反応に困り果てていたら、彼らのやり取りを面白がってクスクス笑っていた真菰が、助け船を出すように話を若干変える。
「ふふっ、義勇は相変わらず錆兎が大好きだね。でも、ちょっと気持ちはわかるよ。
私も鱗滝さんの事、それぐらい強いって思ってるし、私は手の鬼にやられちゃったけど、鱗滝さんとの約束を守りたい、鱗滝さんの元に帰りたいって一心だけで、何年もお迎え課から逃げ続けて現世に居ついちゃってたもん」
言ってから真菰は、「って、これは全然強さの秘訣の話じゃないね」と言って、小さな舌をチロリと出した。
「あぁ……。それは確かに、芥子が知りたい『強さの秘訣』とは違うかもしれないが、俺達が戦い慣れしてないお迎え課とはいえ、鬼から逃れ続け、最終的にあの世側が折れて現世に留まることを黙認させたのは、文字通り『死んでも諦めない』が出来たのは、俺たちを我が子のように慈しんでくれた鱗滝さんのおかげだ。
俺が選抜に参加した者達全員を守りたいと思ったのも間違いなく、鱗滝さんに褒められたい、恥になる人間になりたくないというのが大きかったしな」
真菰の言葉を芥子が「いいえ! 十分参考になります!」とフォローする前に、錆兎がその必要性をサラッと奪う発言をして、鱗滝は未だにつけ続けている天狗面の中でかすかな嗚咽を漏らしつつ、二人の愛弟子を抱きしめた。
彼からしたら、自分の捕まえた鬼と、厄除けのつもりで彫った狐面の所為で、錆兎や真菰に限らず他の弟子たちも、才能があったのにあまりにも早くて惨い死に至らしめたという罪悪感が、生前も今もあった。
そんな罪悪感など背負う必要はない、それどころか自分たちが強くなれたのは、強くあり続けたのはあなたのおかげだと改めて愛弟子たちから告げられたら、そりゃ感涙もする。
そして、同じように鱗滝を敬愛して、もちろん感謝もしているのだが、相変わらず話下手な義勇は完全に出遅れてなんか一人オロオロしてた。
そんな残念過ぎる鬼殺隊の最強格であった元水柱を、芥子はまたしても「どうしよう、この人……」という目で見ていたら、錆兎が苦笑しながら「義勇だってそうだろ?」と終わりかけていた話題に参加の手助けをしてやる。義勇さんのお守り、ご苦労様です。
「あぁ、もちろんだ。園長には幼い頃の俺だけではなく、炭治郎と禰豆子のことでも世話になりすぎた。俺だけではなく園長も切腹するとお館様に手紙を出してくれていたと知った時は、ショックすぎて呼吸がやっとな状態だったが、何か言えたのなら、俺が腹だけではなく自分の首も自力で切るからやめて欲しいとでも叫んでいたな。
……思えば、俺はあまりにたくさんの人に助けられてばかりだ。蔦子姉さんに始まり、園長や錆兎、そして炭治郎の言葉や、あの兄妹の存在そのものに俺は救われ続けた。
……俺は、自分が強いとは思ってなかったし、今も思えない。だけど、俺は自分を救ってくれた人たちに恥じない生を歩みたいと思ったことがきっと……皆が俺を『強い』と思ってもらえる所以であり、秘訣なんだろうな」
言葉が足りない足りないとここ100年で言われ続けていた為、義勇は必死に自分の考えを全部、正確に言葉にして、照れくさそうに笑った。
その笑顔か、それとも義勇の言葉にか。義勇の言葉だとしたら、一体どこにかなんて、芥子にはわからなかった。
自分の痛みなのに、どこに反応して痛んだのかが、芥子にはわからない。
「だから、これからも俺は錆兎を目標に、精進し続けるつもりだ。とりあえず、全園児の顔と名前とアレルギーや持病の有無、家族構成や家庭環境などを入園初日で覚えられるようになりたい」
「俺のハードルを無限に上げるな」
「初日でそこまで把握されたら、親御さんがむしろ不審がるからやめんか」
「義勇、さすがにそろそろ目の前にいる錆兎本人をちゃんと見よう?」
相変わらずイマジナリー錆兎に無茶ぶりを吹っ掛ける義勇が、水の呼吸師弟に総突っ込みを食らっているのだが、それらを他人事として笑うことも呆れることも出来ないくらい、それは痛み続けた。
* * *
(……理由。私の、『強くなりたい理由』とは、何でしょう?
この胸の痛みは、それがわからない……思い出せないからこそ疼いているものなんでしょうか?)
元鬼殺隊のインタビューを一旦終えた翌日、仕事をしてても芥子は集中できずに考え続けた。
昨日の、彼らの話を聞いていた最中に感じたものよりははるかに小さい、痛みというより違和感程度のもの。それでも、確かに疼く小さな小さな痛みの理由を考え続ける。
その痛みの正体は、狛治に問われて答えることが出来なかった、自分の強さを求める「理由」が関係していることまではわかっている。
だけど、それ以上がわからない。
自分の事なのに、芥子には強くなりたい理由がわからない。自分が「理由」を、いつしか完全に見失っている事にようやく気が付いた。
だけど、目的の理由を見失っている事には気付けても、その「理由」が未だにわからない。
いや、正確に言えばわからないのではなく、自分が目を逸らして逃げているという自覚はある。
だって、その理由を見る為には直視しなくてはいけないから。
忘れたくて、なかったことにしたくて仕方がない、あの忌々しい獣とそいつが行った、残虐非道な過去を見なくてはいけないから。
(……私はなんて……弱い……)
自分は自分で思っていた以上に弱い、トラウマを克服どころかその痛みから逃げて回っているだけだと痛感させられた。
自分が強さを求める理由は、「逃避」ではないかと思えてしまった。
「あ……」
だから、いつもとは比べ物にならぬ覇気のなさで、亡者を櫂で叩きのめしながら見つけた、現場を見回っている狛治からつい逃げ出そうとしてしまった。
狛治が自分に気付いたら、昨日の別れ際に問われた「理由」の答えを聞かれると思ったから。
自分の弱さを、醜さを自覚させられながらも、それでも芥子は逃げ出したかった。
しかし、狛治が芥子に気付く前に、芥子が逃げ出す前に彼が、いつも通りの能天気さで声を掛けてきた。
「あー、狛治さん! ちょうど良かった。ほらほら、後輩君。狛治さんにも訊いてみなよー!」
シロが尻尾をぶんぶん旋回させながら狛治に駆け寄り、ついて来ていた蝶ネクタイ風の首輪をつけたミニチュアピンシャーと思われる犬獄卒の後輩を呼びかけた。
狛治が尻尾振りながらぴょんぴょん跳ねまわるシロを宥めつつ、犬獄卒から話を聞くと、どうやら彼は十王の補佐官になることが夢らしく、鬼灯のアドバイスでシロと一緒に各庁の補佐官から話を聞いて回っていたらしい。
そんな事情を芥子も聞きながら、逃げ出そうとした足を自分の前足でピシャリと叩いて、その場に留まる。
前向きに、自分の夢に向かって真っすぐに努力しているシロの後輩があまりに眩しくて、逃げ続けている自分が泣きたくなるくらいに情けなく思えたから、芥子は自分自身を「甘えるな」と叱りつけてその場に留まった。
狛治が後輩へのアドバイスを話し終えたら、自分から話しかけよう。
そして未だに昨日の答えは出てこないままであること。理由がわからないのは、自分が過去から逃げ続けているからであることを素直に告白して、向き合おうと覚悟を決める。
芥子が待ったのは、ただ単に話の途中に割り込まないという常識的なものでしかなく、むしろせっかくの覚悟が萎んでしまいそうだからさっさと話してしまいたかった。
芥子自身には関係がなく、興味のない話だった。
だけど、その長い耳は自分に向けられたものではない言葉を、はっきりと捉えた。
「……そうか。向上心があることは良いことだ。
……ところで、お前の『補佐官になる』ことの『理由』は何だ?」
「え? え、え~と……その、鬼灯様のあの大胆で、で、でも冷徹な裁判の、あの、仕事ぶりに感銘を受けたというか、その……」
狛治に昨日の芥子と同じく、自分の目標の「目的」を問われ、後輩は狼狽える。
昨日の芥子のように、本気でわからないからの狼狽というより、おそらく彼はただ単に「獄卒がなれる最も高い役職が補佐官だから」という、功名心が全てであることをはっきり自覚しているからこそ、それを馬鹿正直に言う訳にもいかないから、何とか取り繕おうとしているのが、その狼狽しきった支離滅裂な発言でも理解できた。
芥子でもわかったのだから、狛治も気づいていただろう。
彼は優しく微笑み、ミニチュアピンシャーの頭を撫でて告げる。
「別に給料をより多く欲しいからだとか、どうせならトップを目指したいという動機を責める訳じゃないから、無理に取り繕うな。
向上心があるのは良いことだと言っただろ? 動機に貴賤なんかない。特に他者を陥れるとかいった卑劣な手段ではなく、努力してその地位を得ようとしているのなら、動機は何であれ讃えるべきだ」
後輩の犬獄卒は狛治の言葉に、安堵した様子を見せる。
しかし、狛治の表情は優しい笑みのままだが、いつしか瞳には寂しげで悲しげな影があることに気付いたのか、また彼は戸惑う。
そんな戸惑いに気付きながらも、狛治は言葉を続けた。
自分が「理由」を問うた理由を語る。
「だからこそ動機を……、自分の目標や目的だけではなく、自分が選んだ手段の『理由』を決して忘れるな」
狛治は語る。
忘れたくて忘れた訳ではない。
無惨によって人間の記憶を、頭を潰された挙句に血を大量に摂取させられたことで失ったことはもちろん、その直前の凶行だって忘れたくて忘れたんじゃない。
思い出せなくなるほどの怒りと、絶望と、悲しみを叩きつけられたから。
けれど、それでも狛治は告げる。
忘れてはいけない、と。
「手段と目的が逆転して迷走し、最悪の事態に陥る原因のほとんどが、自分がどうしてその『目的』を目指したのか、何故その『手段』を選んだのか、その『理由』を見失い、忘れているからだと俺は思う」
忘れてはいけない。
『おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸…………』
一思いに殺らなかったのは、当時の芥子に薬の知識と神の加護があっても、肉体そのものはひ弱な部類だったから、単純に出来なかった。
知恵を尽くすしかなかった。手段など選べなかった。選ぶ気もなかった。
もしもあの時、無惨が目の前に現れて協力してやろうと言ったのなら、相手が地獄の鬼以上の悪鬼であると知ってても、その手を取ったかもしれないぐらいに、存在そのものが許せなかった。
「他者から凄いと思われたいという動機でもいいんだ。けれど、どうしてそう思われたかったのかを忘れたらだめなんだ。
きっと、そう思われたい『理由』の根源は、幼い頃に親から褒められたとか、自分の努力を認められたからとか、そういう優しく、尊いもののはずだから」
忘れてなんかいない。
『おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸…………』
一思いに殺れたとしても、きっとしなかった。
苦しんで苦しんで、自分のしたことの残虐非道さを思い知って、みじめに命乞いをして死んで欲しかった。
だから、火傷した背に塗ったのは致死性の毒ではなく、芥子味噌だった。
嗜虐心などない。痛みの絶叫も呻き苦しむ様も、心は満たされるどころか乾くばかりだった。
泥の船を作っている時なんて、虚しさで泣きたくなったくらいだったが、それでもやめることなど出来なかった。
「……その根源である『理由』を忘れてしまい、ただ他者から認められたいという目的だけになれば、いつしか手段が正道から外れていくかもしれない。
だから……決して忘れるな。その『理由』を忘れてしまったことで犯した失敗で傷つくのは、その『理由』を与えてくれた大切な人と……、誰よりも正しく、尊かった過去の自分なのだから」
忘れられない。
『おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸…………』
あの憎しみを。あの悲しみを。あの絶望を――――
忘れられるわけがない。
『おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸おのれ狸…………』
忘れない。
『おじいさん。こんなところに子ウサギが』
『おやまぁ……。親とはぐれてしもたのかねぇ……』
あの温かさを
あの優しさを
あの愛しさを
忘れない。忘れたくない。忘れられるわけがない。
だから、だから芥子は――――
『――お前なんか死んでたって生きてたってどうだっていいから、おばあさんを返してよ……』
ようやく、思い出した。
* * *
「芥子」
後輩犬獄卒に、補佐官になるためのアドバイスというより、生き方そのものに対する深すぎる忠告を終え、シロと後輩が去っていくのを見届けてから、狛治は振り返って呼びかける。
どうやら彼は最初から、芥子に気付いていたようだ。
きっと、芥子が『理由』を思い出せないままでいることにも、気付いていた。
芥子がいようがいるまいが、きっと狛治はあの犬獄卒と出会って同じことを訊かれたら、同じ事を語っていた。
だけど、他意がなかった訳ではない。
あの忠告は、昨日自分が芥子に問うた言葉の『理由』だった。
だから狛治は、余計なことは何も言わない。
「理由がわかったか?」も、「思い出せたか?」とも問わないし、芥子の「理由」を聞こうともしない。
ただ、昨日と同じように優しく微笑んで、彼は言う。
「早退するなら、俺が手続きをしておこうか?」
傍から聞けば、脈絡がなさすぎる申し出だ。
しかし、芥子はその言葉に零しそうな涙をこらえて、即座に答えた。
「――はい! お願いします!!」
言って、芥子は背負っていた櫂も放り捨てて駆け出す。
自分が強くなりたかった「理由」の元へ。
あんな悲劇が二度と起きないように、強くなって守りたかった「理由」の元へ。
昨日、胸が痛み続けた「理由」の元へ。
大切な人と心穏やかに一緒に過ごすという、芥子が夢見て、そして忘れてしまっていた「理由」の元へ。
忘れられないからこそ、忘れていた。
何よりも大切な愛しい思い出だからこそ、思い出せば酷く痛んで、その痛みに耐えきれなくて目を逸らしていた。
それがどんなに愚かでもったいないことだったのかを思い知ったからこそ、芥子は駆け抜ける。
地獄を、地獄から天国に繋がる通路を、そして天国を駆け抜けて、会いに行った。
仇を討った後も会わずじまいだった、おじいさんとおばあさんの元まで、芥子は駆け抜ける。
ただ、会いたいから、大好きだから、逢いに行った。
ネタバレになるから前書きで言えなかったけど、シロの足跡よりもワニ先生の読み切り「文殊史郎兄弟」要素の強い話でした。
本当は例のセリフをタイトルにしたいくらいだったけど、全力で盛大にネタバレだから断念。
結果、錆兎のセリフか、芥子が悲鳴嶼さんに突っ込んだセリフかで大いに悩んだ。
活報でネタバレ全開な「文殊史郎兄弟」の感想と考察を語っているので、興味がありましたらどうぞ。