Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 改訂版 作:うさヘル
第十一話 「生き方を選べ」
世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜
第十一話 「生き方を選べ」
ねぇ、士郎。
今更だけど、あなたはどんな正義の味方になりたいの?
*
正義の味方、と聞くと、多くの人はテレビやアニメ、小説の中に出てくる戦隊モノのヒーローや仮面を被って正体を隠し悪と戦う彼らの事を思い出すのではないだろうか。あるいはドラマや映画の中に出てくるような困難に陥っている人を助ける主人公だったり、現実で言えば日常の平穏を守る警察や有事の際に活躍する自衛官や軍隊の人々を思い出すかもしれない。
正義の味方。すなわちそれは、どうしても自分の手では解決不可能な出来事が目の前に立ちふさがった時、颯爽と現れて問題を解決してくれる存在の総称である。大した見返りも何も求めず当たり前のように他人の祈りの為に命をかけて、知らぬ間に問題を解決しても名乗り出ず、人知れず世界の平和を守るそんな存在こそを、人々は自らにとっての正義の味方であると呼んでと認めるのだ。
正義の味方。あの性悪神父はそれを「悪がいないと成り立たない存在だ」、と言い表した。非常に腹立たし事だが、なるほどそれは真理である。悪とは例えば、大きなものでは、人類の支配を企む悪の組織が現れたり、地球崩壊の危機に陥ったりであったり、あるいは小さなもので行けば、信号無視をしたとか、公衆の面前で誰かを思いっきりぶん殴ったとか、そう言う法を破ったり、誰かに直接的な危害を加えたりする行為のことである。ようするに、悪とはつまり誰かの迷惑となる行いの総称だ。放置しておけば何処かで誰かが困るようなものを処理するからこそ、彼らは正義の味方として扱われる。つまり「正義の味方」が万人にとっての迎え入れられるには、世界のどこかで万人にとって迷惑となる問題が起こっていなくてはならなくなる。誰かにとっての悪を解消し、代わりに解決してやる事で、その誰かは大衆に正義の味方として認識されるようになるのだから、正義の味方には解決すべき悪が必要とはそういうことである。なればこそ、正義の味方たらんとする誰かさんこそが、世界中の誰よりも解決すべき悪を望んでいる、というやつの言は間違っていないということになる。
はるか昔のことだ。私は藍色に輝く夜空に浮かぶ満月の下、養父、衛宮切嗣の前で正義の味方になると誓った。それは決して「正義の味方になりたかったけれど自分はなれなかったんだ」と後悔を露わに独白した衛宮切嗣に対する同情だけではなく、また私があの地獄と駆け抜けてきた生涯の中へと置き去りにしてきた過去の亡霊に対する贖罪の為だけではなく、衛宮切嗣という男の純粋な願いを受けて私自身が、その心に動かされるものがあったからこそ、私は正義の味方になると誓ったのだ。
かつて世界は、悲惨と苦痛に満ちていた。そんな世界に生まれ落ちてしまった人間の多くは生きるのに精いっぱいで、他者を気遣うような余裕なんてない人ばかりだった。胸の裡に溢れ出てくる負の感情や余裕のなさは容易に感染し、他者を悪の道に引きずり込む。かつて世界はそんな醜いものばかりで満ち溢れていた。かつてそのような世界に生まれ落ち、そしてそんな世界から救い出されてしまった私は、だからこそそんな状態が世界に残っていることが耐え難かった。だからこそ私は、悲惨と苦痛のない、誰もが幸福になるという世界を望んだのだ。
しかし今。世界は、かつて私が望んだものに近い形となっている。一日の終わりに負の感情を失う世界。望まなければ誰もが次の日には鬱屈とした思いを抱えていなくて済む世界。正義の味方に近しい存在がすでに存在している、そんな世界。そんな誰もが他者への優しさを継続することが容易になった世界で、今更ながらに思う。果たして。この残酷ながらも優しい法則が蔓延する世界において、私は誰のどんな問題を解決すれば、私の目指した誰をも救える正義の味方などというものになれるのだろうか。
*
……目覚めは驚くほどあっさりだった。もはや窓ガラスを軽く揺らすほどの鐘の音に耳朶を打たれるのも随分と慣れたようで、寝床より起き上がればもはや鐘の音は頭の中を反芻したりはしないようになっていた。寝ぼけた頭で窓の方へ目をやれば、昨夜あれほどの灼熱を地に放っていた太陽はその傍若無人な矛先を収めている。今や穏やかさを取り戻した陽光は窓より飛び込んできて、部屋の床を平行四辺形の形に淡く陽気に切り取っていた。
「ふむ……」
そうして飛び込んだ光と部屋の中に漂う埃が反応しあって煌びやかに輝き踊っているのを暫く眺めていると、徐々に意識は覚醒へと導かれ、眠りの間に拡散されていた意識がまともな状態にもどってゆく。飛び込んでくる光に導かれるように身を起こして窓を開け、部屋の中にたまりこんでいた空気を入れ替えると、そこでようやく頭が何かを考えようという状態になってくれていた。
―――あの男の狙いは一体なんだ?
言峰綺礼。かつて、第五次聖杯戦争にて監査役という地位を隠れ蓑に裏で暗躍し、聖杯に潜んでいたゾロアスター教の悪神「この世全ての悪/アンリマユ」がこの世に誕生することを望んだ、万人が美しいと思うモノを美しいと思えず、他者の苦痛に愉悦を感じるという破戒神父。
だが奴のその野望は、かつての我がマスター遠坂凛と、その伴侶衛宮士郎によって阻止された。そして奴はまた、彼らの手によって命を失った。それはもう、千年単位で昔の話だ。あの夢の中に出てきた影が真実奴であるとするならば、奴はなぜ、今、この時代に蘇ったというのだろうか?
―――……一つずつわかっている情報から推測するしかないか。
さて、まずは……奴はどうやってこの世界に復活したのか、だ。
―――神によって再び命を授かった
神。奴の信仰する神。通常、聖堂教会というカトリック系列の一派である奴が言うなれば、それはもちろん、唯一神のことだろう。だがあそこの神は、死者の復活という神の子レベルの存在しか成し得ないような奇跡を安売りするような軽薄を許容しないはずだ。となれば、奴の言う神というのはこの場合、死者の蘇生を可能とする唯一神と同等の力を持つ存在のことを示していると考えるのが妥当なのだろう。また、奴が魔のモノと呼ばれる存在の話を嬉々として話していた事と合わせて考えるに、おそらく神=魔のモノと呼ばれる存在と考えて間違いないはずだ。捻くれ者の腐れ外道神父に相応しいと私が思っている故の捻じ曲がった解釈かもしれんが、まあそのあたりはどうでもよかろう。
さて、神=魔のモノと仮定した際、次に問題になるのはその魔のモノが何を考えているかだが―――
―――これはあの聖杯戦争の再現なのだ! 戦争を最後に勝ち抜いた勝者には、万能の願望器が与えられる! その再現! それこそが、我が主の望み! それこそが私が心底望むものなのだ! ―――
再現。あの物言いから察するに、もしやすでに聖杯戦争は再開していて、己は参加者として盤上に乗っているのだろうか。この世界に来てから己がやったことといえば、迷宮の番人を倒したくらいだ。
―――ふむ、そういえば、シンが三層の犬にとどめを刺した際、、私はランサーの声を幻聴したな……
最後に使ってきた技も、ランサーの宝具「ゲイボルグ」の投擲に似た、三十に分かれる魔弾であった。ならばおそらく、あれがランサー「クーフーリン」という存在の再現であると見て間違いあるまい。とすれば……
―――おそらく、一層の石化能力を使用する輩はライダー「メデューサ」で、二層の転移を使いこなす黄金の羊はキャスター「メディア」、あの三連を繰り出す虫の群れはアサシン「佐々木小次郎」か……
彼らが人型をしていない理由はさておき、この仮定があっているとすれば、これでこの聖杯戦争からはすでに四騎のサーヴァントが脱落していることになる。となると、残っているのは―――
「アーチャーである私、「エミヤシロウ」。そして、バーサーカーである「ヘラクレス」に、セイバーである「アーサー王」か」
―――やれやれ面倒な奴ばかり残っているな……
クーマが、「新迷宮にも四層、五層があるだろう」といっていたことから考えるに、四層、五層のどちらの階層かは知らんが、ヘラクレスかアーサー王のどちらかをモチーフとした敵が出てくるのだろう。わざわざかつての陣営ごとに切り分けるが如き馬鹿みたいな律儀さには感心するが、どのみち一筋縄ではいかないだろうことにため息が漏れてゆく。
―――しかし、待てよ
もしやそうして、六騎のサーヴァントの代理を倒したとして、最後に私が死ななければ、聖杯は完成しない。いや、そもそも。
―――魔のモノは、なぜ聖杯戦争の再現をしようとしているのだ?
聖杯戦争。あらゆる願いを叶える万能の願望器「聖杯」を巡って行われる魔術儀式。もしやつが聖杯を欲していると言うのならば、奴は聖杯を利用してまで叶えたい願いがあるということなのだろうか?
―――……いや
だが、奴の話によれば、魔のモノは霊脈と一体化しているはず。それならば、霊脈の力を六十年もの間を溜めこみ、その膨大な魔力量の方向性を定めてやる事で現実の壁をぶち破り改変を行う、という聖杯のシステムから考えるに、地球そのものとも言える魔のモノに聖杯なんぞ必要ないと思うのだが……
―――だめだ、材料が足りん。この方向からのアプローチは一旦保留。残るは……
『もちろん、あの冬木の教会でだよ。―――今頃あるいは、文字通り天の国に召されているかもしれんぞ』
―――っ!
奴に対する考察を深めようと記憶を掘り起こすと、そこから関連した奴のやった悪行が紐付きで思い出され、腑が煮え繰り返りそうになるのを意志の力でなんとか抑えこむ。腹の中に溜め込めておけないだけで、思い返した際に脳が生み出す灼熱の怒りの源は一日経っても消えないのだな、とどこか他人事のように考える。
―――だめだ。落ち着け。今は必要ない情報だ。凛の骸がどのように扱われたかは、一旦、保留にしておけ。その報いは、次に奴と合間見えた時に、必ず叩きこんでやる
将来必ずあの腐れ外道は滅してやるから今は我慢しろ、と胸板を強く掻き毟りながら、己へと言い聞かせる。ともすれば奴への殺意で一杯になりそうな胸の裡からなんとかその思いを追い出すと、胸の奥に生じた猛火をエトリアの街に吹く風のさわやかさやを利用してなんとか沈静し、もう一度推察を再開する。
―――冬木の教会
たしかに奴はそういった。……冬木。エミヤシロウという存在にとって、大きな運命の転機となったあの土地が、未だこの数千年も未来の世界にその姿を残していて、奴はそこで復活したということなのだろうか。
冬木。数千年前に地下に消えた街があるとすれば、おそらくは同様にこの大地の遥か地下なのだろう。だが、それだけの時を経ても未だにあの街とあの教会は原形を残していたということなのだろうか? はたして一体どうやって? そも、なぜ奴は私を生かして地上に転移させたのだ? 不倶戴天といってもいい存在である私を、なぜ殺さずに生かしたまま地上に送ったのか? 聖杯戦争を再開すると言うのなら、元サーヴァントたる私は真っ先に殺し、聖杯に捧げて然るべきと思うのだが……。
―――まさかとは思うが
夢の中で私が見せた醜態に愉悦したいがため……? まさかとは思うが、奴の場合、ただそれだけのために聖杯完成を遅らせることもありえるかもと思えしまうのが、なんとも辛いところだ。
「ちっ、煮詰まったか」
舌打ちをして、ベッドに半身を横たえる。ともあれ与えられた情報から導き出した情報を整理したことで導き出せた結論は三点。その内確定しているのは二点。神―――おそらくは魔のモノ―――が聖杯戦争の再開を望んでいるという事と、この世界のどこかに冬木と言う土地があって、その教会が残っている事。
そして、確定ではないが、おそらくは七騎の英霊が覇を争うその聖杯戦争がすでに再開しており、現状残るは三騎にまで減っているだろう事も判明している。
―――あとは、奴に真意を問いたださねばならないか
想像の中に億劫な未来を思い浮かべてため息をつく。情報収集のためとはいえ、あの人格破綻の極悪な外道神父と会話をしなければいけないと言う面倒は、想像するだけで気分を不快に陥らせた。鬱憤を吐き出してやろうと長いため息を吐くと、床に落ちた光の四辺形が先ほどよりもその面積を減らしているのに気がつく。
窮屈そうに身を縮こめさせている完全に窓を解放させると、溜まった鬱屈を散らすかのように涼しげな風が部屋の中に飛び込んできて、縦横無尽に遊びまわり駆け抜けてゆく。そうして開けた視界に広がるのは、私がやってきてから三ヶ月間変わる事のないエトリアの光景だった。
孔雀緑の屋根、木造と白漆喰の混ざった壁、街と外を区切る壁の外に広がる肥沃な森林地帯。円を描く街のちょうど狭間あたりに位置するインの宿屋から見える景色は、その全てがなにもかも変わっていない。だというのにもかかわらず、この同じ場所から見える景色は、私にとって昨日までとまるで違う光景として私の目には映っていた。
―――負の感情をとどめておけない世界、か
街行く人々の顔を眺める。昼間のエトリアを行き交う人々。その三割ほどは冒険者で、残りが町人やそれ以外だ。冒険者の方へと注視すると、迷宮という場所で命のやりとりをしている彼らの顔は、しかしまるでそんな気概を感じられないほど、いつも変わらない笑顔に包まれている。
つい先日まで、私はそれが長い年月をかけて人が自ら変化の道を辿った結果だと思っていた。スキルという技術を得た人類が、数千年の時をかけて己の性質を変えてきた結果だと思っていた
しかし、現実は違った。最初こそ一方的だったかもしれないが、彼らは、魔のモノという存在と、負の感情を代価とした契約を結んだ結果、出来たのがこの世界であったのだ。
負の感情を吸収する魔のモノと契約したものの子孫が住む世界。一眠りすると、その身に留めておくことを望まぬ負の感情をほとんど全て失ってしまう人々の住む世界。人々は自ら変化したのではなく、おおいなる存在によって、その性質を変化させられてきたのだ。
理不尽や不幸に直面するたび胸の裡に堆積してゆく負の感情の澱という害悪を知らずに育ったからこそ、彼らは他人を憎まない、恨まない、妬まない。人に悪意を抱き続けないからこそ、彼らは警戒心が薄く、見知らぬ他人をすぐに信用する。
世界に住む人間の全てがそんな性質を持っているというのなら、なるほど、この世界の住人の多くが、あそこまで他人と無邪気に接することができるようになる理由もわかる。いつの日か感じた、自分と彼らは違う、という思いは、ある意味で正しかったのだ。
―――彼らと私は違う生き物、か
瞼を閉じてそんなことを考えた途端、不穏な疎外感が胸に押し寄せてくる。不意に思い出したそんな言葉は何とも言えない説得力を持っていた。だがそれも仕方のないことだと思う。だって衛宮士郎という存在は、すなわち英霊エミヤという存在は、その始まりからして負の感情と密接な関係を保っている。それだけではないにしろ、あの地獄と地獄の中から一人だけ助けられてしまったという罪悪感は、エミヤシロウという存在が正義の味方を目指して駆け抜けることになった大きな要因だ。原動力こそは誰かを助けたいという綺麗なものだったかもしれないが、その後継ぎ足してきた燃料は誰かを助けなければならないという強迫観念だった。エミヤシロウという男は、その始まりを除けば終わりに至るまでのほとんどすべてが負の感情によって生じるものをこそ原動力としてきている。ならば果たして。本当に、自分と彼らは、エミヤシロウと未来世界に生きる人々は、同じ生き物であるといえるのだろうか―――
―――は、馬鹿馬鹿しい
そしてたどり着いた結論を馬鹿げた妄想だと切り捨ててやると、瞼を開けて空を見上げる。するとぱっと一面に吹き抜けるような青い空が広がった。空の端では、風が山の稜線の向こうに雲を追いやろうとしている。まるで蒼穹の景色に余計な色は要らぬと言わんばかりの風の所業は、そう、例えてみれば魔のモノのやっていることのようなものなのだろうと思う。
人の心は言ってみれば真っ白なキャンバスみたいなものだ。人は生きていく中で、感情の絵の具を使って、記憶という絵を心中のキャンバスに書き込んでゆく。歓喜に満ちた記憶なら、色鮮やかで華やかな絵が刻まれるだろう。その記憶が悲哀や苦痛に満ちたものなら、暗澹とした色合いになるかもしれない。
出来上がっていく絵に手を加えるのが魔のモノだ。奴はその暗澹たる属性の色は己のものだと主張し、パンくずで、ペンチングナイフで暗い色を削って白のキャンバスに戻して去ってゆく。そうしたやり方をこの世界の人々は知らずのうちに、あるいは知りながらも、迎合し、暮らしている。
そうして魔のモノとの共同作業により完成するのが、暖かい色しか使われていない絵だ。この世界に生きる彼らは、知ってか知らずか、魔のモノと協力して「生涯」という題名の一枚絵を見事なまでに平穏の作風に仕立て上げる。
その色使いと作風は周りのものに伝播させ、やがて世界からは一層暗澹の色と気配が消えてゆく。その末が、明るい絵ばかりを収集する美術館のごときこの世界だ。
そして、その中に一枚混じり込んだ異物こそが私。光明満ちた真作だらけの世界に、一枚紛れ込んだ、タッチも色使いも衛宮切嗣という男の正義の味方という夢を模倣して書きあげられただけの、陰鬱な贋作者の書き上げた絵こそが、私だ。
思う。このままいけばおそらくは聖杯を巡って魔のモノとやらと戦うことになるわけだが、仮に、負の感情を食って成長する魔のモノを倒してしまったのなら、負の感情が奪われるという出来事はなくなるというのだろうか? あるいは、スキルというものが無くなるのだろうか?
そうして人が今まで当たり前のように使用していたエネルギー確保の手段を失った時、果たして世界はどのように変化してゆくのだろうか? 世界は再び、エネルギーの利権などを巡って争いだらけの状態に戻るのだろうか?
そうやって魔のモノを倒すことが、世界の混乱を引き起こすことだとすれば、それは正義の味方として正しい行いなのだろうか。果たして、この世界の為になるのだろうか。
―――魔のモノと言峰綺礼を倒す。それは本当に、私の独り善がりではないのだろうか? 所詮は贋作でしかない私に、果たしてこの世界の当たり前の法則をどうこうする資格があるのだろうか? 果たして、これから自分がやろうとしている行為は、正義の味方として正しいものなのだろうか
「―――は、何をバカなことを」
そこまで考えて自嘲する。魔のモノという存在が現在の人々に影響を与えているというのはどうあれ、あの破滅思考の男が神として崇めるような存在なのだから、どうせろくなやつではあるまい。ならば、倒してしまったところでなんの問題もないはずだ。
「―――私も魔のモノの影響を受けたか……」
人々から感情を奪う化け物が忘却を強いる悪夢。否、魔のモノという存在によって己の抱いていた負の感情を食われる現象は、つい先ほどまでの眠りの中で、ついにその姿を消していた。そう、おそらく奴は、私の数千数万年以上における憎しみの収集の結果を見事に食い尽くしたのだ。
忘却の救済は為されてしまった。そうして胸の裡に溜め込んでいた負の感情が澱まで残さず元の色を取り戻した時、心中において明晰な状態で残っていたものは、見事なまでにかつて己が大切としてきた記憶だけだった。
地獄の中で養父に助けられた瞬間。養父と誓いを交わした夜。土蔵で彼女と契約を交わした瞬間。彼女とともに運命の夜を駆け抜けた日々。決着をつけた後の彼女との別離。正義の味方を目指して活動した日々の中にあった平穏。助けた人々から礼を言われた瞬間。
そして、再び巡ってきた運命の夜、凛とした彼女とともに駆け抜けた日々。
それらの悲喜交々の感情を伴って思い出せる、今の自分を作り上げた原点の記憶はどれも色褪せず残り、キャンバスの上で鮮やかに輝きを放っている。それが。その絶望の着色をこそげ落とされた状態の心地よさが、今の私の葛藤を生み、迷いとなったのだろう。
「―――時間か」
エトリアの蒼穹を鐘の音が切り裂いた。長い間隔を置いて鳴り響いた三度の大きな音色に続いて、テノールの小さな鐘の音が三連打で三度鳴らされた。埋葬の予告と、死亡した人間の性別を告げる鐘の音が、漆喰と石畳の街に反響して路地裏の方まで通り抜けてゆく。
東欧風の街に住まう人々は、その西欧式の鐘の合図を受けて、立ち止まり、静かに瞑目する。誰とも知らぬ人間のために、黙祷を捧げるその光景を見て、やはりこの魔のモノと契約をかわした人々が住まう世界には、しかし優しさが満ちていると思う。
「……いくか」
そのまま眺めていると、先ほどの禅問答のごとき堂々巡りに陥りそうだと考え、私は黒服を纏い、ノブを握って扉を開けた。途端、階下の宿屋の入り口より昇ってきた風が、窓の空いた部屋を通り抜けてゆく。懊悩と苦悩により陰鬱な空気を漂わせていた部屋は、蒼穹広がる空から運ばれてくる快活な風によって驚くほどの爽やかさを取り戻していった。その爽快な様は、まるで、真っ白な地塗りすら施されていないキャンバスを見た時のようであった。
*
葬儀の帰り道、合流した「異邦人」一同と共に執政院に向かってゆく。私と同じく黒服を纏う彼ら四人のうち、響とピエールの二人は消沈気味であったが、ダリとサガの二人は多少落ち込みを見せているもののほぼ常と変わらない平生の態度だった。
その悲しみを未だ持ち得る者達と、すでにそれを忘れ去った者達の対比が先ほどの己の葛藤の比喩に見えて、私は思わず眉をひそめた。どうやら過去を引きずる癖はこんなところでも発揮されてしまうらしい。
そんな彼らの内に先ほどまでの懊悩を見つけて辟易とした気分を抱えながら、彼らの後ろについて行く。そのまま進み、高い壁面の雨樋までが真っ白く塗られた壁沿いを静かに歩いてゆくと、やがては以前、混乱を避けるために使用した裏口に辿り着く。
裏口を守っている兵士は私たちの姿を見ると、静々と綺麗な一礼をして門を解放してくれた。何も聞かずに通してくれるあたり、クーマが事情を説明していてくれたのだろう。
会釈で返答しつつ、開かれた職員用の小さな扉を潜り、質素で殺風景な通路を進んでゆく。通常なら人に見せる場所でないためだろう飾り気のない廊下を五分ほども進み、突如として現れる華美な廊下に足を踏み入ると、私たちはすぐに目的地へと到達した。ノックをすると、聞き慣れた声が入室の許可を告げて、私たちは中へと足を踏み入れてゆく。
「……やぁ。事情は聞いたよ。彼のことは残念だったね。まさに青天の霹靂というやつだ。」
遠慮せずに座ってくれ、と着席を勧める彼の言に従い素直に腰を下ろすと、柔らかな素材のクッションがこれまでの疲労を労わるかのように全身で我が身を優しく迎えいれてくれた。その提言が如きに従うべく位置を調整してさらに深く背を預けると、接触した部分から先ほどまでの気怠さと気まずさが溶けていくような心地よさが押し寄せてくる。
「……、それでは、早速で悪いのだけれど、番人討伐の報告をお願いできるかな」
*
「以上です」
「そうですか……」
ダリが三層番人戦における始まりから終わりまでの流れを一通り話し終えると、クーマは伸ばしていた背筋から力を抜き、豪奢な装飾の椅子に深く背を預けて天井へ目線を送ると、瞼を閉めるとともにため息を吐いた。天井に向けられた彼の顔には、疲労の色の他に後悔の感情が混じっているよう見受けられる。恐らくは、合同での特別調査の許可を出した事を後悔しているのだろう。
「ご苦労様でした」
「いえ……」
彼の疲弊具合に、私たちは誰も続く声をかけられなかった。瀟洒で整った静かな空間は、今や謎の緊張感に包まれている。壁にかけられた時計の時を刻む音だけが、やけに大きく部屋の中に鳴り響いていた。
「―――」
クーマが口を開きかけ、しかし躊躇して、口を遊ばせるだけに終えてしまう。再び沈黙が訪れる。おそらくは誰かが舵取りをしないと進まないだろうな、と誰もが思っているのだろうが、クーマは葬儀直後のこちらに遠慮してだろう、また、異邦人のメンツは疲弊の様子が見て取れる彼を慮ってだろう、己から口火を切ろうとしない。
「―――、クーマ。申し訳ないが、見ての通り、私たちは葬儀の直後で精神的に参っている人間が多い。なにもないのであれば、事務手続きを行ったのち、速やかに退散したいのだが」
仕方なしに、クーマとの顔を合わせた回数が少なく、最もシンという男と関係の薄かった私が口を開き、驀地に打って出て場を整える。虚空をさまよってばかりだった複数の視線が一挙にこちらへと集中して向けられた。彼らの目には、揃って安堵の色が浮かんでいた。よくやってくれた、よくやった、と言わんばかりのその瞳の群れを眺めて、私は行いの正しさを確信する。同時に、この程度のことで感謝されるのもどうなのだろうな、と、傲慢ながらも思う。
「……ああ、すまない。ええと、そうだな……」
私の急かす言葉にいち早く反応したクーマは、しかしやはり少し躊躇して、けれど意を決したよう一つ大きく頷いて見せると、一転して迷いを捨てて真剣な目をしてその口を開いた。
「―――、皆さん。まずは改めて、お疲れ様でした。あなた方二つのギルドの活躍、および、合同調査により、見つかってから一年以上のも間、一層すら攻略されなかった新迷宮は、多大な犠牲を払いながらも、たった三ヶ月の間に三層までが攻略されたことになりました。本当に感謝しています」
ありがとうございます、と言ってクーマは丁寧に頭を下げた。多大な犠牲、という言葉に響が体を震わせた。しかしそうして彼女が体を上下させたのは一瞬だった。努めて己の意思でその後の反応を抑えた響だったが、しかしクーマは、空気の振動や場の雰囲気からこの場にいる誰かが自らの発言により平静を乱されてしまったのだろうことを敏に感じ取ったらしい。そうして彼は数秒程もかけて謝罪の意を示し続けたのち頭の位置を元に戻すと、ゆっくりとした動作で背筋を整え、一拍を置いてから息を吸い、再び口を開いた。
「さて、言うまでもないことですが、我々が皆さん冒険者の方々に迷宮探索の依頼を行い、褒賞金を用意しておりますのは、迷宮の最も奥にある謎を説き明かして欲しいからです。かつて英雄達が旧迷宮の謎を解いたように、誰かに新迷宮の最も奥にある謎を解いて欲しい。それが私たち執政院の願いであります」
一度喋り出すと調子が出たのか、クーマは饒舌に話を続ける。
「さて、その謎についてですが……ところで皆さん。新迷宮の奥地に秘められた謎がなんだかご存知ですか? 」
「えっと……、あの、今さっき、謎だから調査を依頼しているって……」
響が馬鹿真面目に聞き返す。確かに最もだが、そんなことは彼も百も承知だろう。しかし、だからこそ聞いてきたのだ、と考えれば、おそらくは。
「ふむ、具体的にはわからんが、街や冒険者の間の噂では、赤死病の原因はあそこにあるのではないかと言われているな」
「赤くなって死ぬ。周囲の森や地面が赤く染まる。その辺りの共通点が判明した直後、執政院が謎に対して褒賞金をかけたから、そんな噂が立った、と言われているな」
私の言葉にダリが続く。私たちの言葉を聞いてクーマはニコリと笑みをうかべると、頷いて、私たちの言葉の後に続いた。
「はい。仰る通りです。正式には発表をしておりませんが、仰る通り、その認識で大まかには問題ありません」
やはりすでに謎は謎でなく、こちらの認識がそのまま正しいのだということをすり合わせるための確認作業かか。
「なぁ、でも、街中に流れている噂と一緒だってんなら、なんでまたさっさと認めちまわないんだ?」
「ああ、それは確かにそうだ。正体がわかっているというなら、その方がエトリアに住むみんなも安心するだろう」
サガの疑問にダリが同意する。二人の様子を見ていたピエールは雅やかな金髪を揺らしながら大きく首を振って、苦笑を漏らした。
「やれやれ、わかっていませんねぇ」
「あ、何がだ? 」
サガがその挑発じみた言葉に反応して喧嘩ごしでつっかかり、顔を彼の方に突き出した。そうして差し出された鳶色の瞳の視線をピエールはさらりと避けると、やはり嘲笑じみた顔を崩すことなく答えを返す。
「人、特に冒険者を動かすのは未知です。未知の場所、未知の領域、未知のモノ。この先に何があるのか、この先にどんな魔物が待ち受けているのか、この先にゆけば今まで経験したことのないことが経験できるかもしれないからこそ、彼らは、私たち冒険者は、その未知がなんであるかを確認するために、命を賭して未知なる場所に出向くのです。なのにいきなり、「答え」を提示されちゃあやる気が削がれるというもの。そんな場所に挑もうとする冒険者は減ってしまうでしょう。つまりは、挑戦者の母数を増やしたいがために、執政院はあえて、答えがわかっているのに、提示しない。……違いますか? 」
ピエールは己の推測を披露し、サガにやり込めてやったと言わんばかりの熱が込められた視線を返すと、一転して涼しげな表情でクーマに問いかけた。緑水の瞳を投げかけられたクーマはニコリと笑うと、口を開く。
「よくご存知です。―――ええ、もちろんそれもあります。特に旧迷宮においては、初代院長のヴィズルが貴方と同じ思考に至り、迷宮奥の謎を知っているにもかかわらず、知らぬふりをして謎に褒賞金をかけることで、冒険者を集め、人の交流を盛んにし、この街を発展させたと言います」
「―――『それも』?」
帰ってきたクーマの言葉にダリが素早く反応した。彼はその大柄な巨体をのそりと動かすと、クーマの机の方に乗り出して、尋ねる。
「その言い方だと、他にも理由があるということか」
「ええ。その通りです。―――、この際ですからはっきりと述べましょう。私たちは、ああして周囲の地形が赤く染まった場合、そこでは赤死病に関わる問題が起きているのだという事実を知っていた。だから、見つけ次第すぐに迷宮へ懸賞金をかけたのです」
赤死病。罹患した人間は、体が赤く染まったかと思うと、すぐに死んでしまうという病気。私が迷宮に潜ることを決めた原因となった病。ああ、そうだ。私は目の前で誰かが理不尽に死んでいくのが見たくなくて、迷宮に潜っていたのだった。悪夢と焦燥に突き動かされていて考える暇がなくてすっかり忘れていたな、と今更ながらに初志を思い出して、内心でそっと自分の馬鹿さ加減と焦燥具合を嘲笑う。
「―――、それで、なぜ、今そんなことを明かすのです? 」
おそらくは赤死病に最も縁があるのだろう響が、顔を固くしながら、聞いた。彼女の顔に浮かんでいた真剣さは場の空気を一気に硬直させ、部屋の中には再び緊張感のある空気が漂ってゆく。
「ええ。じつは、皆様に依頼をお願いしたく思っておりまして。その依頼というものが先の事と関係しているのです―――、お引き受けいただけるのでしたら、踏み込んだことも含めまして、お話しいたしましょう」
さなか、クーマは柔和な目元にいくつもの真剣の証を刻むと、あたりの空気に負けいないくらい鋭い目線で私たちを一瞥した。なるほど、未知の事象に魅力を感じるという冒険者の琴線を擽っての交渉は、見事だと思う。
「……、ちなみに、受けなかった場合、クーマさんは私たちに執政院がその事実を隠していたということを知るだけ知って帰る事となるわけですが、よろしいので? 」
ピエールがクーマに対して脅すようなセリフを吐く。クーマは肩をすくめると、飄々とした表情を浮かべた。
「構わないよ。どうせ市井にまで広がっている噂だ。今更君達がそのことを広めたところで、不確定な噂が信頼性の高い不確定な噂になるだけで、確定するわけじゃあない。結局のところ、私たち執政院が発表しない限り、真実はいつまでもグレーなままであるわけですから」
なるほど。いや、この世界の住人はこういった腹芸をしないと思っていたものだから、少しばかり驚いた。ああ、しかし、そういえばヘイも組合のカルテルを誤魔化すための手段を取っていたな。まぁ、負の感情が有ろうと無かろうと、為政者がこうした含んだ手段を取るのは変わらないらしい。
「―――私としては、受けてもよろしいと思いますが……」
言いながらピエールはゆっくりと首を回してゆく。彼と目があった異邦人のメンバーが彼の意思確認に頭を縦に振ることで答え、そうしてサガ、ダリ、響と続けたのち、体を私の真正面に向けなおして、続けた。
「いかがでしょうか? 」
彼の言葉に部屋の視線が私に集結する。後はお前の意思次第だ、という空気に、ともすればその提案への同意が正しい選択肢のように思えてしまう。
――さて、どうするか……。
「……双方に一つだけ聞きたい」
悩むに嬾い思いへと任せるようにして、口からそんな言葉を発する。
「はい、なんでしょうか? 」
「なんなりと」
「ではまずクーマ。聞くが、その依頼とやらは無茶なものでないのだろうな? 機密に抵触するから具体的な内容を言わないという点には目を瞑るとしても、依頼の簡単な難易度や傾向位は教えてもらえないと、とてもでないが受領などできん」
個人的には依頼の内容が無茶苦茶だろうと受ける腹積もりではあった。だが、この度この依頼をされるのは私一人ではないという点が、私の警戒を呼んでいた。以前、同じように彼らとともに依頼を受け、その末に私は、一人の知人を死に追いやってしまった。
―――だからこそ少しでも慎重に
この世界の住人に悪人はいないとの仮定の元、それでも最低限の確認は必要だ。また、朝方だした聖杯戦争の続きが行われているのだろうという予測も、慎重を呼ぶに拍車をかけていた。話の内容いかんによっては、彼らの協力なしに個人で解決することも視野に入れていく。そんな覚悟と共に飛ばしたこちらの質問を受けたクーマは、「失礼」、と、少しの間額に片手をやり目を覆うようにして考え込る姿勢を取ると、数度側頭部を軽くもう片方の手の人差し指の腹で叩いて考え込み、やがて結論を脳から捻り出したのだろう目を開くと姿勢を整え、再びその口を開いた。
「―――具体的な内容はまだ明かせませんが、何をして頂きたいのか、だけを言ってしまえば、基本的には今まで皆さんがやってきた事と変わらないことを改めてお願いする事になるとおもいます。まぁ、つまりは、新迷宮の未踏の場所――つまりはあるだろう四層と五層の探索と調査と戦闘ですね」
「―――なるほど、了解した。さて、ピエール。クーマのいう、それを仮にわたしだけ受領しなかった場合、君たちはどうするつもりなんだ? 」
返す刀で彼に質問を浴びせかける。すると彼はその薄い唇を奥に引っ込めて、目元を緩めてニコリと笑うと、楽器を鳴らそうとして、しかしないことに気がつき、少しばかり不満の様相が混じった表情で答えた。
「まぁ、当然、私たちも受領を断念するしかないでしょうねぇ。―――、最大戦力が抜けたパーティーで、物理アタッカーの要が抜けた状態であの新迷宮の詳しい探索や調査、戦闘なんか、できるわけがないんですから」
ピエールは話の途中で少し言葉を詰まらせながらも、断言した。最大戦力、のあたりで悲痛の表情を浮かべたのは、おそらくシンという男のことを思い出したからだろう。
「というわけで、できることなら、貴方にも依頼を受託していただきたいのですが」
しかし己の感傷など今は関係ないと言わんばかりに、飄々とピエールは続ける。彼の言動を受けて一同を見渡すと、ダリもサガもピエールの言う通りだと言わんばかりの表情でこちらを見つめている。どうやら男三人の意見は引くつもりがないということで一致しているらしい。
―――何が彼らをそうさせているのだろうか
そう考えようとして、やめた。冒険者の矜持かもしれないし、シンへの義理立てがあるのかもしれない。ともあれ、思いなど個人個人千差万別だ。だが重要なのは、そんな彼らが、危険極まりない依頼を受けようと考えているという事実だけである。彼らはその依頼が危険であると知りながら、それを受けようとそう願った。それだけで十分だ。それ以上のことを推し量ろうとする行為は、如何にも無粋である。
――となると後は……
そうして覚悟を決めた男三人を見渡したのち、私は最後にいまだ言葉をは失していない響という少女に目を落としていった。このギルドにおける紅一点の彼女は、その小さな体の上でセミロングの茶髪を揺らしながら、綺麗な青の瞳を私の方に向けてきている。その真っ直ぐな瞳から、貴方がどんな選択をしようが、私は恨まないし憎みませんという純粋さが見て取れた。その瞳からはたぶん彼女も他の男三人どもと同じ意見であるのだろうことも見て取れる。その眩しいばかりの瞳がかつてのあの騎士王がいつか見せたその瞳と重なって、心の中に少しばかり罪悪感が生まれてゆく。
―――さて、どうするか
個人的には、もちろん彼らをこれ以上巻き込むのは反対だ。だってこれはおそらく、私や凜といった過去に生きていた魔術師たちのせいで発生した事態なのだから。もちろん根本の原因には魔のモノという輩の存在があるのかもしれないけれど、そこからこのエトリアに赤死病という枝葉が延びてきたのは、おそらく私や凛、言峰綺礼といった冬木の街や第五次聖杯戦争にかかわる魔術師たちのせいだろう。おそらく私たちがあの戦いを完全に終わらせなかったがゆえに、此度の事態は発生したのだ。言ってみればすなわち彼らは第五次聖杯戦争に巻きまれた被害者であり、魔術とはかかわりのない一般人に等しいのだ。もちろん彼らがこの度の事態に完全に無関係であるというわけではないものの、そんな彼らを私らの事情に巻き込んでしまうというのはいかにも気が引けた。
―――しかし……
とはいえ、彼らの迷宮探索能力に目を見張るものがあるのは確かだった。彼らという存在や、一人の尊い犠牲があったからこそ、私は第三層を、結果だけ見ればほぼ無傷という状態で攻略できたのだ。この先に番人として出てくるだろう敵がヘラクレスとアーサー王の伝承を模して造られているだろうことを考えるに、彼らの力はあってくれた方がいいだろうことも、確かなのである。
―――実を取るか、想いを取るか……、か
懊悩のさなか視線をさまよわせると、再びこちらへと向けられた響の視線と交錯する。そのまっすぐ揺るがない視線は、まるであの時私たちのために死んでいったシンという彼がしていたそれのようでもあった。そして私はあの迷宮において彼と今わの際に交わした約束を思い出す。
『彼女を頼む。剣の才能があるんだ。指導して欲しいとは言わない。ただ、使えるようになるまで見守ってやってくれないか』
それはあまりに重い約束だった。英霊エミヤを庇って死んでいった男が残した最後の願いというものが、彼にとって助けられたこの身にとって重くないはずがない。シン。そんな彼が最後に私に託したのは、彼女を頼むという願いだった。そしておそらく、彼女は行くことを望んでいる。それがどんな思いから生じたものなのかはわからない。だが少なくとも彼女の瞳からは、彼女が問題の解決というものを心の底から望んでいるということとり、出来ることならばそれに自らも関わっていきたいと願っていることを読み取れる。ならば。
―――まぁ、仕方あるまいか
「了解だ。この話、私も受けよう。ただし、その話を聞いてあまり無茶なものだと判断したならば、規約がどうあれ断らせてもらうが―――」
そこで無下に断るという選択を取れるほど、私は恩知らずではない。
「―――、ああ! もちろん、それで構わないよ! 」
エトリアが無茶をおしつけるなら、私は私の好きにやるという宣言を、しかしクーマは快く受け入れて、喜んで手を叩きあわせて答えに対して歓迎の意を示してくる。さて、この辺りの甘さはやはり、不安だの悩みだのの感情を溜め込めない部分からきているのだろうかとも一瞬思ったが、すぐさまそれは相手に対して失礼かと思いなおして、考えを改める。ともあれそうして腰を椅子から浮かしかけて喜んだクーマは、己の状態を省みて少し恥ずかしそうに咳払いをして座り直して腰の位置を調整すると、背筋を正して改めてその口を開いた。
「では早速―――、あ、ところで皆さん。旧迷宮の五層について、何か知っていることはおありですか?」
そうして依頼の内容を話すかと思いきや、やはりクーマは話を脱線させて尋ねてくる。どうやらこちらがどこまで情報を知っているのかを確かめてから、足りない部分だけを補うように語るのが彼のやり方らしい。無駄を嫌うその様は、為政者らしい几帳面の現れといえばそうなのだが、そもそも私は何も知らないのだから、最初から全てを語ってくれればそれで済むだろうにと、図らずも回りくどさを感じてしまったのは心の底にしまっておく。
「ああ、いや、多分、三竜がいるんじゃねーの、くらいしかしらね」
「サガと同じく。噂では三竜や、それに相当する危険な生物だらけで、生半可な冒険者では生きて帰るのも困難だから封鎖していると聞きましたが……」
「私もサガやピエールと同じくらいしか知りません」
サガ、ピエール、響はそう返す。対して、ダリは少し戸惑った様子でクーマに問いかけた。
「私は一応、幾分か知っているが……」
いいのか、と彼は視線でクーマに問いかける。なぜ彼だけが、と疑問に思ったが、そういえば、彼は元衛兵だったな、と今更ながらに思い出す。背の高い彼からの鋭い目線を受けてクーマは静かに頷く。するとダリは所作から了承と説明依頼の意を読み取ったらしく、咳払い一つで場を整えなおすと静かに語り出した。
「旧迷宮五層。今や腕利きの冒険者や有名な冒険者ですら滅多に潜入の許可がおりないその場所。その理由は市井では諸説様々な噂が流れているが、実の所、たった一つの理由なんだ」
ダリは言って、再びクーマに目線を送る。本当に言って良いのか、と問いかける視線に、やはり頷き一つで了承の意を示す。ダリは彼のその所作を見て、 唾を嚥下する音を鳴らすと、意を決して口を開いた。
「―――、その階層の……、第五階層で取れる遺物を持ち帰って欲しくない。あそこにあるのは、かつて世界を滅ぼした道具がゴロゴロと眠っているんだ。そう、あの第五層、「遺都シンジュク」には」
*
「新宿……、だと……! 」
ダリの言葉に、今まで「ほとんど己は無関係である」という体裁を貫いていたエミヤが過剰に反応した。いつものすました顔は何処へやら、目を見開いて、腕を組んだ体を前に乗り出して、その言葉を発した人物の方へと一歩を踏み出して、興奮を露わにしている。そんな彼の言葉と態度に、みなの視線が集中した。だがすぐさま冷静さを取り戻した彼は、己の醜態にたいしてしくじった、というバツが悪そうな顔で視線を斜め下にそらすと、
「いや……、なんでもない」
と言って、再び腕を組んだ姿勢に戻ってゆく。多分本人としては、ごまかしたい話だから気にしないでほしいとの意思表示の態度なのだろうけれど、今度の依頼と深く関わるのだろう旧迷宮の五層に関する情報を知っている反応をみせておいて、放っておかれるわけがないだろう、素人ながらに思う。
「……エミヤ。あの反応を見せておいて、流石にそれはどうかと思うぞ」
「なぁ、エミヤ。お前何か知ってんのか? 」
予想通り、ダリとサガが突っ込んでいった。そうして追求の視線と言葉を向けられるエミヤは、しかし聞いてくれるなと言わんばかりの態度で、目を閉じて、腕を組んで、壁に背を預けてこちらとの交信にたいして一切の途絶の意思を貫いている。やがて一分としないうちにダリとサガが頑なな彼の態度に追求の手を諦めた頃、三人の様子をじっと眺めていたクーマは、静かに息を吐くと、微笑んで告げた。
「エミヤ。貴方やはり、過去からの来訪者ですね? 」
「――――――」
クーマの言葉に、無言と無反応を貫いていた彼が始めて体を揺らした。多分、動揺したのだろう。彼は閉じていた瞼をゆっくりと開けると、その鷹のような鋭い目をクーマに向け始める。その射抜く視線は、お前は何を知っているのか、と問うているようにも見えていた。
「――――――、エミヤ。かつてこのエトリアの旧迷宮を救った五人の一人に、フレドリカという女性がいました。当時はまだ少女に過ぎなかった彼女は、エトリアに来た当初、当時のギルド長ガンリュウの元で職業システムについて深い知識を披露し、しかし執政院でいくつもの常識外れの行動を取って問題を起こして当時のオレルスを怒らせ、金鹿の酒場ではハンバーガーが食べたいといって当時の女将のサクヤを辟易させるひと騒動を起こす問題児であり、この世界では滅多に出回らない銃という武器を使用する、ガンナーという特殊職だったと言います」
鋭い視線をじっと見返したクーマは、一切怯むことなく空中で彼のそれと激突させると、やはり静かに、しかし部屋に響く声でその答えを返してゆく。
「―――、銃……、ガンナー……」
エミヤはクーマのいった一言をつぶやくと、絶句、という表現が相応しい、口を半開きにした顔をする。クーマはその様子を見てにこりと笑うと立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。クーマは表紙が手垢で擦り切れる程読み込まれた本をパラパラとめくると、あるページでピタリと止めて、机の上に置き、差し出した。
「そんな貴方とよく似た彼女は、嘘か真か、この街に現れた当初、千十六歳を名乗っていました。なんでも、この本の記録によると、なんでも、旧世界の遺跡でずっと眠っていて、当時のオレルスに招聘されたハイランダーの方と、ハイラガードからの調査隊によって目覚めさせられたとか」
「――――――」
無言を貫くエミヤは落ち着きを取り戻したようで、身じろぎ一つしないまま、クーマの話を静かに傾聴している。だが、決して気を許したわけではない、というのが、その剣呑な態度から読み取ることができた。クーマはそんな彼の態度を見て、しかし変わらず笑みを浮かべたまま続ける。
「そんな彼女も、エトリアに来てから数ヶ月の間は、必要以上に警戒を怠らない態度だったと聞きます。まぁ、いきなりあの技術の栄えていた世界から、千年以上も後の、彼女の生きていた当時からすれば不便な世界にやってきたのなら、当然といえば当然の態度なのでしょう。……、ですから、エミヤ。私は、過去からやって来たのだろう貴方が、同じように警戒を露わにしていても仕方のないことだと思います。、ですから、私からはこれ以上は何も聞きません。話したくなったら話してくだされば結構です―――さて、話を戻しますが……」
言って、クーマはエミヤから視線を外して私たちを見回すと、本当にそこで話を打ち切って全員にたいして語りかけてくる。クーマの態度にエミヤは、やはり彼にしては珍しく呆気にとられた顔をして、クーマの方に呆然の視線を返していた。顔には信じられないものを見た、と言わんばかりの驚愕がありありと現れている。
―――まぁ、でも
彼の事情が気にならないといえば嘘になる。だが、たしかに人間、語りたくない事情の一つや二つはあるものだ。私だってつい最近、二度もそれを味わった。あの思い出は今でも色褪せぬ大切なものだけれども、出来ることならそれを他人に語るようなことをしたくはない。語ったところで何も解決しないからだ。話したい事情が大切な思い出で、語りがたい事情があるというのならば、語らずともいいではないかと思う。だってそれは傷を抉るに等しい行為だ。多分、そうして語りたがらないということは、彼にとってその思い出は喜びと悲しみが入り混じった複雑な記憶なのだろう。そう思えるくらいには、今の私には同情の心と分別があるつもりだ。それに。
―――それにきっと、エミヤさんは、本当に必要になればそれを語自ら語ってくれる、そんな人間だ
彼はダリやサガですら忘れてしまったシンへの想いを、抱えていてくれた人間だ。彼は他人の苦痛や願いを無視できない、いつまでも自分の傷として抱えていようとする優しい人間なのだ。私はそれをあの時確信した。だから無理やりに聞き出す必要などない。
「ダリが説明してくれたように、私たちが旧迷宮五層の出入りを制限しているのは、過去の時代の旧異物を持ち帰って欲しくないからです」
私がそんな確信を改めて得ていると、クーマは再び説明を開始する。
「あそこにある過去の技術の塊は、どれも使っていると、世界樹―――すなわち、この大地の基礎となる環境を悪化させる要因になるものだからです。環境の悪化は、世界樹にダメージを与え、フォレストセルと呼ばれる魔物が生まれる原因となったり、悪食の妖蛆と呼ばれる存在を活性化させたり、あるいは意思を持つに至った世界樹自体が暴走する原因になり、そして―――」
クーマはそこで一旦話を切ると、長い話で喉が乾いたのか、「失礼」、と言って近くの水差しからコップに水を入れ、それを飲んで息を整えると、再び続けた。
「そうして世界樹が弱まると、世界樹が抑えている魔のモノと呼ばれる存在が活性化し、やがて周囲は、魔のモノが侵食した証として、旧迷宮第六層、「真朱の窟/まそおのいわむろ」のように赤に染まってゆく。そしてその魔のモノの侵食こそが、赤死病の正体なのです」
「―――、……」
エミヤは魔のモノ、という言葉に少しだけ反応して、身じろぎをして見せたが、先ほどの醜態は二度と晒さぬと言わんばかりに両腕を強く握りしめて、不動の姿勢を保っている。なんというか、案外わかりやすい反応をする人なのだな、と思う。
しかし、今はそれどころではない。クーマはとんでもないことを言った。
「魔のモノが……、赤死病の正体……? 」
私はクーマの言った事を復唱する。それは私が追い求めていた謎。私を冒険者へと導いた病気。両親が赤死病で死んで心としまったからこそ、私はこうして今この場にいるのだ。その謎がこうしてあっさりと明かされたということは、私の心に多大な影響を及ぼして、思考は停止へと追いやられた。
「おい、クーマそれはどういうことだ。そんな話は衛兵の頃に聞いた覚えはないぞ」
「ええ、それはそうでしょう。魔のモノの存在と赤死病の正体は、執政院の中でも更に一部のモノにしか知らされていませんから。知っているのは、私とゴリン、今は不在の院長といった、旧迷宮六層の存在をしる人間くらいでしょう」
「魔のモノってぇのは、そんなにすげーやつなのか?」
「ええ。なにせ、奴はかつて一度世界が滅びた原因ですから。その存在を知られたくないが故に、私たちは新迷宮周辺が赤く染まった原因、つまり赤死病の原因が魔のモノと知りながら、それでも知らないふりをして、新迷宮の謎を解いてくれ、とお触れを出して懸賞金をかけたのです」
「赤死病の正体が魔のモノ由来のモノと知られたくないから、ですか」
「ええ。魔のモノの事を話すとなると、五層の事も話さなくてはなりませんし、五層の事を話すと、まぁ、他にも色々な事を明かさないといけなくなりますから。とはいえ皆さんの場合もうこちら側ですし、興味がおありでしたら、魔のモノについてだろうと、第五層についてだろうと今度詳しくお話しして聞かせますよ」
「ああ、それは是非。いやぁ、心が踊りますねぇ」
彼らの会話だけが耳に入ってくる。ピエールなどは声を弾ませていた。だが、その様子を観察しようという気にはならなかった。不思議なことに、両親を赤死病で亡くした際にあった悲しいとかの感情はほとんど消え去っているはずなのに、彼らが死んだ原因を隠していたという事実に対する怒りがこみ上げてくる。由来もわからないその憤怒の感情は、目の前で朗らかに会話を続ける彼らを目の前にして、グツグツと煮立ったスープのように、その温度を上げ続けていた。
―――じゃあ、そんな貴方達の都合で、シンは死んでしまったのか
「――――――、あ……! 」
「―――、ご歓談中悪いのだがね。そろそろ本題に入ってくれないか? 」
喉元まで出かかっていた沸騰した思いを吐き出そうとした瞬間、我関せずを貫いていたエミヤが口を開いた。彼は普段通りを装ってはいたが、まるで感情というものが抜け落ちたかのような様はどうにも不自然なものである。そんな態度は私に、彼は冷静の態度を努めているのだなと直感させた。
―――多分、彼も私と同じように怒りを抑えている
おそらくエミヤも、院の方針にシンが死んでしまった一因があると考えたに違いない。けれど多分、彼はそれを今責めたところでシンは返ってこないし、何の意味もない行為だ、と、己を戒めたのだ。私は何と無しにそう確信した。そんな彼の努力の態度は私にも伝播したらしく、私の茹った頭は冷水を浴びたかのように冷めてゆく。
「クーマ、結局依頼とはなんだ。君は私と彼らに何をさせたいのだ」
そして私は、話の焦点がもともとクーマの依頼であった事を思い出す。逸れていた話の熱に冷や水がかけられた事で、煮沸していた気持ちもまるで蒸気のように霧散してゆく。彼の冷たい一言は、私の煮立った気持ちを冷めさせてくれる効果を持っていた。ダリやサガ、ピエールに魔のモノの説明を行なっていたクーマは、エミヤの一言を聞いて、またやってしまったか、といった感じのバツが悪そうな顔を浮かべると、いつものように咳払いをして、姿勢を正し、そして告げた。
「はい、私たちの依頼とは、つまりはこうです。新迷宮の奥へと挑み、その奥にいるのだろう魔のモノを鎮めて欲しい。―――、これを使用する事で」
「――――――」
クーマの差し出した赤い石を見た瞬間、エミヤは今度こそ目元から肩に至るまでの間の全ての力を抜いて、愕然という言葉が似合う姿で、その宝石を指差した。
「―――、それは」
「珍しいでしょう? シンジュクの更に地下、真朱の窟の更に深いところで見つけた、世界樹の上という環境では滅多に手に入らない宝石、天然のルビーです。……多分、貴方の生きていた時代でも相当珍しいものだったのでしょうね」
差し出されたそれは、たしかに非常に綺麗な赤い石だった。オーバルカットされたそれは、カッティングされてなお、手のひらに乗せて余るほどの大きさの石で、その縁を彩る金属の造形も素晴らしい。おそらくは一流の職人の仕事だろう。
そうして周囲の光を取り込んで光輝を振りまく宝石は、たしかに気品と風格があったけれど、何故それをクーマは珍しいというのか、なぜそれを見てエミヤが驚いているのかはまるで検討もつかない。だって、あのくらいの大きさのものなら、旧迷宮の三層で取れる鋼石、コランダム原石から造れるルビーやサファイアの方が、よほど大きいものが手に入る。
その答えを求めて周囲を見渡すと、同じような疑問を抱いていたのは私だけでないようで、ダリもサガも疑問を顔に浮かべて首を傾げている。ただ一人、ピエールだけが好奇の視線でその赤い宝石を眺めていた。どうやら彼だけは事情を知っているようだ。
「へぇ、本物の宝石なんて久しぶりに見ましたよ。実家を出て以来です」
「あの……、ピエール? ルビーのどこがそんなに珍しいの? 」
尋ねると彼は、まずは驚いた顔をしてみせて、次に意地悪く口角を上げると、にこやかにクーマに話しかけた。
「クーマ。手にとって見てもよろしいですか? 」
「ええ、もちろん。でも、扱いには気をつけてくださいね」
「ええ。傷をつけてインクルージョンを増やすような真似はしませんよ」
いうと彼はクーマの手のひらから、恭しくハンカチを用いてその宝石を己の手にして、大事に布で包み込むと、両手の平で優しく包み込んで私の前まで持ってきて、広げた。
「覗き込んで御覧なさい」
「―――わぁ……! 」
途端、その透明度に見惚れた。それはいつも店で見れるようなルビーと違って、表面に現れる六条の光はぼやけた輝きである。しかし宝石はだからといって頼りないわけでない確かな存在感を主張していた。また、そうして宝石の中に閉じ込められた光は、いつものとは比べものにならないくらい内部でキラキラと乱反射を繰り返して、宝石の周りに真紅の色をばら撒いているのだ。それは人工的に作られたルビーを覗き込むでは見ることの出来ない、天然の万華鏡のようだった。
「これが本物の宝石です。私たちが日頃アクセサリーなどに用いる人造のものとは違う、天然の宝石。私の家にあった、六爪の指輪に支えられた透明なダイヤなどより、よっぽど品があり、美しい……」
「これが本物……」
なるほど、たしかに目の前のルビーは、今まで自分が取り扱ってきたもの全てが贋作であると思えるほど、内部は星空の光をそのまま閉じ込めたかのような流動性に満ちている。目の前の赤い優雅なそれには、決して人の意思が介在しては作り出すことのできない、天然の優雅さと高貴さがあった。
「―――あ」
「―――――――――」
そうして天然の鉱石の内部に作り出された万華鏡の光を楽しんでいると、やがて突然、鑑賞は浅黒い肌によって遮られた。エミヤの大きな手はそっとルビーの縁を掴むと、くるりと回して背面を確認し、そしてもう一度表面にすると、宝石を手にした時と同じように、呆然と驚愕の感情を使い切ったような表情で佇む。
「心配しなくとも、片面半分だけの贋作なんかじゃあありませんよ」
ピエールが言ったそんな言葉も、今の彼には届いていないらしく、ルビーを持った時の姿勢のままで固まっている。目の前に出現した赤のたくましい彫像は、その固定化された外面とは裏腹に、その内面ではルビーの中の光の乱反射もかくやという勢いでいろんな思いが錯綜しているに違いない。一体何がそんなに彼の琴線にふれたというのだろうか。
「―――クーマ、君は一体、これをどこで手に入れたと言った? 」
エミヤは滅多に崩さないその仏頂面を珍しく崩していた。その質問も、思わず素直に口から出てきたという風に見受けられる。どうやらそのルビーの登場は冷静を常の態度と彼の仮面を剥がしてしまうほど、よほどの重大な予想外であったらしい。
「旧迷宮、第五層シンジュクの最下層にある建物から、さらに地下に潜った場所にある、第六層「真朱の窟」の一番下のある部屋に置かれていました。初代院長ヴィズルの記録によりますと、このトオサカの宝石は、魔のモノの侵食を抑制する効果があるらしいのです」
トオサカ。その名前に、今度こそエミヤは感情抑制の臨界点を超えたようで、体内に残っていた分の驚愕を余さず使い切ったかのように、取り繕うのを忘れて、息を呑んで目を見開き仰け反って、愕然とした表情で手にしていた宝石を布の上からそっと握りしめた。
エミヤのその宝石を握る動作は無意識だったのだろうが、しかし宝石に対しての優しさを秘めていて、決して手荒なものではなかった。その思慮と遠慮の入り混じった所作からは、ルビーに対する特別の思いが見て取れて、私は直感する。
―――間違いない。エミヤは、このトオサカの宝石について、何か知っている
シンジュク、魔のモノ、トオサカの宝石についてなど、エトリアの相当上層部の中でも、さらに限られた一部しか知り得ない、遥か昔に滅びた過去の知識を知っているなんて、普通じゃない。私は、多分彼は、おそらく先ほどクーマが言っていた、過去からやってきた人間、という推測が正しいのだろうな、と勝手に思い始めていた。
*
木目の扉を開けて部屋の中へと入ると、満たされていた温熱の空気を突き進んで窓を解放する。すると窓から吹き込んでくる風は、あっという間に部屋と扉の通り道を駆け抜けいって、部屋の隅々までが森羅の香りに満ちていった。それはおそらくそろそろ夏の季節だからだろう。そうして部屋を駆け抜け体を撫ぜる風には、涼しさの中にもどこか生暖かさが秘められていた。部屋の扉が風に押されて、大きな音を立てて自然と閉じられる。
女将の文句が飛んでくる前に扉を閉めてくれた一瞬の颶風に感謝すると、胸元より赤い宝石を取り出して夜空に掲げた。すると天空より落ちてくる淡い光と、街中に満ちる街灯の光を表裏より取り込んだ真紅の宝石は、これ以上ないくらいに闇を衝いてその存在感を主張した。
宝石は月光と燭光を吸収し、己の周囲の空間との間に真紅の壁を作り出して内外の関わりを断絶している。己の周囲にオーラを纏うようにして存在感を撒き散らすその所業は、宝石の内部に魔力という余分が蓄えられた状態でしか起きない現象だ。溜め込まれた内部の魔力が絶え間なく流動することによって生じる独特のこの光の反射がなければ、たとえその姿と宝石が関する名前が、かつて彼女が持っていたものと同じだとしても私はこの宝石が凛のものであると確信はしなかっただろう。それくらいには、この宝石が目の前にあるという奇跡は信じがたいものだった。
「―――、魔のモノを封じる力、か」
そう、これは、間違いなく、凛という彼女が持っていた、遠坂家秘伝の切り札となる宝石だ。かつて己を死の淵から救いあげた宝石が、今この手の中にある。数千年の時を超えた邂逅は、驚愕の事実伴って私を興奮の坩堝に叩き込んだが、夜風と月夜に晒されて淡い光を放つその宝石は、興奮の余熱が収まらぬ私の意識を冷静の状態へと変化させる効力を持っていた。
私は部屋にそよそよと侵入する涼やかな風の移動を邪魔するように窓辺に腰かけると、胸の内に大切に宝石をしまいこんで腕を組む。そうしてそのまま何をするでも無く部屋の中に飛び込む月と街の明かりが生むコントラストの変化を楽しんでいると、そうして整えられた部屋の明るさが先の会談の場所のそれと一致したためか、ぼうっとした頭はとつぜん先程のクーマと異邦人一同との話し合いをの事を思い出す。
―――しかし、醜態を晒してしまったな
新宿、魔のモノ、赤死病の正体。提供された情報はどれも私の裡の琴線をかき乱して胸の底までを混沌に叩き込む十分な破壊力を秘めていた。だが、特に実体のあるこの宝石を目の前にした際は、逆波渦巻く心中の内部を混乱もろとも欠片も残さず吹き飛ばすほどの威力で、私の余所行きの仮面を全て吹き飛ばしてしまったのだ。
―――まったく、なんと不甲斐のない
その結果があの無様だ。彼らは魔術という存在を知らなかったが故に、私がこの世界にやってきた詳細な理由などを予測することが出来なかった。だが彼らは、だいぶ私の正体と近いところまで勘付いている。加えて、トオサカという名が過去の記録に残っている事から考えるに、このまま調査が進むと、いつかは己の隠し事全てが暴かれてしまうかもしれない。
―――……、ふむ
そう考えて、喉に骨が引っかかったような違和感を覚えた。……、そもそも、なぜ己の正体が暴かれることにこうも抵抗を覚えるのだろうか。どうせもはや誰も己の事を知らぬ世界だ。また、この世界では、魔術の代わりとなるスキルという技術が隠匿されることも無く一般の隅々にまで広がっている。さらに一部の人間は、過去から来た人間というものを受け入れる度量すら持ち合わせていることが此度の会見で判明した。
そんな世界において今更、己が元英霊で過去の存在であるだとか、魔術という異能を異端者であるとかは、己の正体を隠す言い訳にもならない。ならばわたしは一体、なぜ―――
「―――む」
疑惑を思考しようとしたその時、部屋ごと吹き飛ばすかのような風が吹いていった。小さな窓よりその威力を強めながら部屋に入り込む颶風は、窓辺に腰掛ける私の背を強く押して、立ち上がることを強要する。私はその要望に素直に従って両の足で木板の地面を踏みしめると、背後より不躾な振る舞いをした輩の顔を拝んでやろうとするかのように、振り向いて四角い窓の外へと視線を移していった。
「―――ああ」
瞬間、視界いっぱいに広がる、平穏の光景。夜空と街との狭間で自然と人工の光が衝突を起こして、淡い光の霧を生み出している。霧は我を主張することなく、静かにエトリアの街を包み込むオーロラとなりて、森林に囲まれた夜の街に光の帳を下ろしていた。
視線を街から外してみれば、雲一つない夜空、その中心で煌々と輝く満月は、その嫋やかな光彩を惜しげもなく街近くの森林から草原を辿り、山の稜線にまでその領域を広げて、月下は美しきに溢れている。そこだけ切り取れば、寂寞と雀躍の色を引き裂く様にして希望が塗りたくられたような景色は、まさに負の感情というものと無縁という世界を象徴するかのような寓意に満ちていて、私は、己がなぜこうも己の正体を明かすことに躊躇しているのかを悟らせる効力を存分に発揮していた。
―――果たして。この負の感情が一夜で失われる未来の世界において、私という、もはや別世界と言っていいほど異なる環境にて気質性質を培ってきた人間が考える正義とは、本当にこの世界においての正義と呼べるのか
とどのつまり私は、私の目指す正義の味方というものが、この世界において独善でないかを心配しているのだ。昼間の葛藤と同じだ。私の独善というタッチも色合いも違う異物が、優しさをモチーフにして書きあげられた絵画のようなこの世界に加わることで、絵が元の美しさを損ない、粗野で野卑な贋作めいた作品になることを、なによりも恐れている。
―――私は……
*
A.いや、こんなことを考えている暇はない。
B.一旦、時間をかけてこの世界のことを深く知る必要があるかもしれない。
*
→ A:選択
*
いや、今はそんなことを悠長に考えている場合ではない。クーマはまだ余裕があるとは言っていたが、言峰の言動から察するに、魔のモノは今こうしている時も、負の感情を糧として力を蓄え、なにかを企んでいるに違いない。
宝石を用いて封印作業を行うなら、相手の力は少しでも万全でない内に処理を行った方がいいに決まっている。雑事を考え懊悩するのは、奴らの処分が全て終わってからでも遅くはないはずだ。
私は決心して、一歩を踏み出すと、扉を開けて階下へと向かう。主人を失った部屋の中は、主人の心の伽藍堂を象徴するかのように空虚に満ちていて、扉が静かに閉じられた後はすきま風ひとつ起こらない静寂さを取り戻していた。
―――この部屋に夜明けの光が差し込む時は、まだ遠い。
世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜
第十一話 「生き方を選べ」