Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜  改訂版   作:うさヘル

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第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜 (一) ―遭遇―

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜 (一) ―遭遇―

 

 

神の与えた試練を乗り越えるなら、それ相応の代価が必要だ。

 

お前が神の祝福なき非才の身であれば、当然、相応の代償を覚悟しろ。

 

 

 

 

 

死ぬのが怖いと思い始めたのは、痛みに怯えるようになったのは、いつ頃だっただろうか。記憶を遡れば多分、それは子供の頃のとある夜にまでさかのぼることになるだろう。

 

 

―――幼い頃、わたしは自分のことを「街で一番の冒険家だ」、と、そう考えていた

 

 

あの頃の私には今の私が常に備えているような慎重さなんてものは欠片ほども持ち合わせていなかった。家の二階の窓から飛び出すのはしょっちゅうで、階段を下りる手間を面倒くさがって壁に伝う配管を利用して地面に降り立つのも珍しくはなかった。

 

冒険と称してはこっそりと魔物がうろつく迷宮の近くにまで足を延ばす事だってあったし、そうやって足を延ばした先にある森の中、多く茂っている木の上に登り、梢の上を跳ねまわるような無茶だってやっていた。そんな毎日を過ごしていれば一度くらいは痛い目を見てもおかしくないのだが、運のいいことに私は、ある日までは、どんな無茶をしようと不思議と怪我を負うことなんてなかったのだ。

 

 

―――だって、誰もが自分よりも遠くに足を運ぶことが出来なかった

 

 

人間、それをやってはいけないのだと覚えるには、痛い思いをすることが重要だ。だが私はそのある日に至るまで、一切ひどく痛む怪我というものをした覚えがない。だからこそ私は、はた目から見れば危険に見える行為であろうと平然と実行していたし、そうやって無茶を実行し、親に怒られては、なぜ無事である自分が怒られなければならないのだろうかと首を傾げるような子供だった。

 

……そう。今でこそ口うるさいくらいに安全を心掛ける私は、かつて、いつだって自由気ままにあたりを一人で駆け巡っては危険と無茶をおかして親を心配させる、そんなひどく手のかかる子供だったのだ。

 

 

―――だって誰もが、自分よりも、ずっと弱かった

 

 

また、当時の私は、そんな無茶をしては周りに迷惑をかける子供だったにもかかわらず、多くの友人がいた。というよりも、私のことを勝手に知っていて友人として扱ってくる奴が大勢いた。初めて出会ったその時から私の後ろについてくるようになった奴すらもいた。

 

 

―――……そうとも

 

 

今のこの不愛想の様から考えるに意外かもしれないが、私はかつて溌剌、かつ、わんぱくな子供であり、当時、そのあたりの子供たちの中心的存在だったのだ。私はかつて、周囲の子供たちから一方的に好意や敬意を向けられていた。

 

 

―――多くの人は自分よりもひ弱だった

 

 

ただ、今にして考えてみればそんな回りの子供たちの反応はきっと、子供というもの特有の大人に対する反抗心がもたらしたものだったのだろう。大人というものはたいてい、あれこれと口うるさく子供たちの失敗を指摘するし、そうした失敗の果てに怪我を負った子供の行動に制限をかける生き物だ。もちろん、大人たちのするそんな行動の制限は、たいてい、子供たちがもう二度と痛い思いをしないようにとそんな思いやりから発したものであるである。大人たちは子供たちを大事に思うからこそ危険を危険と認識するよう子供たちを本気で叱りつけるものだ。

 

また、大人たちはそれまでの経験から当然、叱るというおこないが子供たちにどう思われるかを知っている。だが、大人たちはそれでも、子供たちのためを思って、本気でその感情をぶつけてくるのだ。

 

 

……そう。叱るとは、相手のことを思っていないとやろうとは出来ない、誰かを思いやる心から生まれてくる尊い行為である。

 

 

―――なにが起きても自分だけは傷つかなかった

 

 

だが。まだ相手のことを思いやる気持ちが十分に発達していない幼い子供たちは、そんな大人たちの思いやりになど当然気付かない。いや、子供たちはそれどころか、感情を叩きつけるようにして叱りつけてくる大人たちのことを怖がり、嫌い、疎ましく思うものだ。だって「あれをするな」、「これをするな」、という子供たちにとって大人の叱るという行為や、その先に待ち構えている行動の制限はすなわち自分らの行動―――自己を否定されるという行為に等しいのだから。

 

 

そう。まだ幼い彼らにとって、自らを叱りつけてくる大人たちは、すなわち自分の世界を壊そうとする悪者のようなものである。

 

 

―――すると自分の周りにいるみんながいい目を向けてきてくれる

 

 

だからこそきっと、子供の彼らはそんな悪者たちの言うことを無視しては平然と危険を冒し、その果てに一切失敗をしないままに無事に帰ってきては大人たちを困らせて振り回す私のことを、大人たちよりすごい存在であると思ったり、あるいは正義の味方のように思っていたに違いない。そしてまた、だからこそきっと、周りの子供たちからそんな好意や敬意を向けられていい気になっていた私は、だからこそ彼らのそんな無邪気な期待に応えるべく、多くのさらなる無茶をしては、多くの大人たちを困らせていたのだろう。

 

 

そうとも。私は幼いころ、法を順守するどころか、法を進んで破るような悪童だったのである。

 

 

―――だからこそ、自分はどんな無茶でもやった

 

 

そうして多くの大人たちを振り回し、多くの子供たちを子分のように連れまわしていたある日のことだ。その出来事が起きた季節は多分、秋だったのだと思う。赤い葉っぱの樹木が視界のあちこちにちらほらと目立つようになったある日のこと、気付けば私は、迷宮近くの森へと出かけていた。私は自分がなぜそんな場所へと行くことになったのかを覚えていない。多分は周りの誰かにそそのかされたのか、あるいは、勝手に思い立って行ってしまったのだろうと思う。あの頃の調子に乗っていた私はそうして誰かに無茶を言われたり、突拍子もない行動を思いついたりすると、途端にそれを実行するような、そんな子供だったから。

 

 

―――ほんとうに、どんな無茶でもやった

 

 

ともあれそうして森にやってきた私は、やはり何を思ったのか知らないが、突如として太い木に抱き着くと、器用に皮と皮の隙間に指をねじ込み、太い枝の上へとよじ登った。そうして木に登った私はそして、いつものように枝の上を飛びまわり、そして―――

 

 

―――そうしてどんな無茶をやっても、その時までわたしは傷一つすら負ったことがなかった

 

 

足を踏み外して樹木の枝の上から落下した。

 

 

―――だから

 

 

幸いにして、落下による怪我はなかった。どうも頑丈という特徴だけは、今も昔も変わらない私の取りえのようである。だが、そんな頑丈な私は、そうして当時にしては珍しくやってしまった失敗に歯軋りをし、横たわっている我が身を起こすために腕を地面につけようとして―――

 

 

―――その時初めて、自分の左腕に着いた大きく傷を見つけて、愕然とした

 

 

腕から赤いものがだくだくと流れているのを目撃した。はじめ私は、地面に向かって流れ落ちているそれの正体に気が付くことが出来なかった。何が起こったのかわからなかったのだ。今にして考えれば、多分それは落ちた拍子に鋭い枝か何かで付いてしまった傷なのだろう。

 

 

―――初めて感じたその感覚は、とても熱かった

 

 

しかし当時はそんなことを考える余裕すらもなかった。だってその時まで私は、自分の血が流れるところなんて見たこともなかったから。

 

 

―――遅れてやってきたのは不安感だった

 

 

呆然としている間にも血は次々と流れてゆく。止血しようなんて考えつきもしなかった。ただ、遅れてやってきた痛みに怯えるかのように、傷口を強く握りしめた。圧迫によって傷から流れ出る血は少なくなる。それは止血という行為に違いなかったが、その時の私にとってそれは止血ではなかった。

 

 

―――腕から流れる血はとめどなく地面へと落下していて

 

 

……その時の私にとってきっと、それは隠蔽作業だったのだ。

 

 

―――落ちた血液が地面に吸い込まれるたび、自分が世界に溶けて消えていく感覚がした

 

 

そうとも。私は自らの失敗の証である醜い傷跡を隠したかった。だって自らの体についた傷と流れ落ちる血はその時の私にとって、世界の崩壊に等しかったから。

 

 

―――だから、隠した

 

 

見ないふりをすれば私の世界はまだ正常なままだった。今からでも遅くはないはずだ。目を背けていれば、私はいつだって幸福のなかに浸っていることができるはず。だからこそ私は、必死に初めて感じる強い痛みと戦いながら、必死でその傷を抑えつけて、隠したのだ。傷口をもう片方の手で強く握りしめると、その部分は痛くなる代わりに、左腕から血が流れ落ちなくなってゆく。あとは血を服で拭ってやれば、たった一つの異常を除いて、私の世界は壊れずにいてくれるはずだった。でもそのたった一つの異常―――鋭い痛みが、私の正常な世界がすでに壊れてしまったことを認めさせようと襲い掛かってくる。

 

 

―――だから、その場から逃げだした

 

 

だからこそ私は、必死で街に向かって歩いたのだ。

 

 

―――逃げて、逃げて、逃げて、逃げて

 

 

街につけば、傷を治してもらえる。そうすればまだ、私の世界は元の私の世界のままのはずだ。そんな一心で私は、必死に街の施薬院に向かって歩いていた。私はその施設を利用したことはなかったけれど、皆が利用したことを口にするから、その施設の存在とその存在意義を私は知っていた。

 

 

―――逃げて、逃げて、押し寄せてくるこの不安感からどうにか逃げのびてやろうとして

 

 

街に向かうさなかにも鋭い痛みは鈍くじんじんとした痛みに変化して、私に現実を見ろと突き付けてくる。だから歯を食いしばって、必死でその痛みから意識をそらしていた。その時の私にとって、痛みとの戦いと傷の隠蔽と治癒だけが世界の全てだった。だからこそ私は、必死に傷の隠蔽と治癒だけを考えて、街に向かい歩いていた。だからだろう私はその時の帰り道、空が何色だったかすらも覚えていない。季節をはっきりと覚えていないのも、それが具体的に何時ごろだったかすらをも覚えていないのは、多分、そんなことも理由にあるのだろう。

 

 

―――でも、どこまで行こうと心はいつまでも押し潰されそうなままで変わらずに

 

 

私はそれだけ初めて味わったひどい痛みという現象から逃げようと必死だったのだ。でもそうして目をそらそうと、腕の痛みは当然、私をどこまでも追いかけてやってくる。そんな痛みを生み出す傷に怯えるかのように、私は帰り道、ずっと傷口を強く握りしめていた。それによって鬱血してしまっていたのだろう、握り締めた左腕の周辺は、すっかり白くなってしまっていた。考えるにそれは間違いなく体に悪影響を及ぼすほどの力強さだった。下手をすれば、圧迫によって細胞が死滅してしまっていたかもしれない。下手すれば切断だってあり得た事態だ。たが当時、止血のしの字も知らなかった私が助かったのは間違いなくそんな無知がもたらす力強さのおかげと言えるだろう。

 

 

―――わたしの記憶はそこから一気に自宅での夜へと飛ぶ

 

 

気付くと私は、自分の部屋の中にいた。あたりは真っ暗で、自分は布団にくるまって怯えている。自分はそうして、押し寄せてくる恐怖から目をそらすのに必死だった。暗がりの中で、腕を見る。

 

 

―――起きた時、私の体に傷なんてものは一切残っていなかった

 

 

あれほど怯えていた傷痕は、すでに回復スキルのおかげで残っていない。だが、初めて味わった痛みは私の心に決して癒えぬ傷を残していっていた。

 

 

―――……けれど

 

 

そうとも。私の体は確かに傷ついていなかった。私の体はいつもと同じく、正常なままだった。だがまた、いつかどこかで傷がついて、あの痛みがやってくるかもしれない。痛み。あの時から心に刻まれてしまったそれを思い出すと、自然と街に戻ってきたときのことが目に浮かんでくる。

 

 

―――……あの時

 

 

必死で痛みに耐えて街に戻ってきた私を最初に迎えたのは、いつも遊んでいる子供たちだった。そうして彼らは私を見て顔を破顔させたが、続けて私が青い顔で腕から血を流しているのを見てまず驚き、続けて信じられないものを見る目つきに変わり、そして最後には―――

 

 

―――私のいる世界は、私は、もうすでに別の何かに変わってしまっていた

 

 

心配の目線ではなく、失望の目線を向けてきた。そう。その時自分は、確かに向けられる多くの視線から、そんな自分にたいしての失望の成分を感じ取ったのだ。あるいは大人たちはたいてい建物の中で仕事をしていて、外には遊んでいる子供たちが多かったから、私はそうだと思ったのかもしれない。とにかくその時の私は、そして私のこれまでの世界が壊れてしまったことを、幼心ながらも強制的に理解させられたのだ。

 

 

―――もはやこの世界に自分の居場所などない

 

 

自分はもはや、死んでしまっているのだ。自分はあの時、傷を負ったその瞬間に、もうこの世界―――子供の世界から、死に失せてしまっていたのだ。だって子供たちの返してくる意思の中にあるのは、もはや失望や失意ばかりだったから。あの時私は、もはや世界に自分の居場所がなくなったのだということを痛感させられた。

 

 

―――そうとも

 

 

そのことを私は彼らが向けてくるあの視線で悟ってしまったのだ。この世界は、もはや自分の知る場所でない。そう考えると、自宅の私の子供部屋の布団の中ですら危険な怖い場所のように思えてしまうのだ。

 

 

―――私の周りの世界は、すでにわたしのいた世界ではなくなっていた

 

 

それが怖くて、怖くて、怖くて。

 

 

―――私はすでに、わたしでない誰かに、変質してしまっていたのだ

 

 

それが怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、本当に、どうしようもなく怖くって。

 

 

―――わたしは、私になってしまっていた

 

 

だからこそ私は、その次の日から、子供の輪の中に入ることが出来なくなっていた。だからこそ私は、傷を負った次の日から子供らしさを捨てざるをえなかったのだ。だからこそ私はその日から、人一倍、大人としてふるまうことに執着するようになったのだ。

 

 

―――あの日を境に、私は嫌いだった大人たちの仲間入りをしてしまっていたのだ

 

 

だって心配の目線を向けてくれるのは、今まで何とも思っていなかった大人たちだけだった。大人が傷ついた自分に向ける視線は子供たちの向けてくるそれとは違って、それまで向けてくる理解不能なものを見る視線ではなくて、まるで自らの仲間に向けるかのような暖かいものに変化していたのだ。

 

 

―――…………ああ、思い出した

 

 

怯えながら気付けば寝入っていた次の日、起きたときに不思議と痛みの記憶は残っていなかった。傷口があった場所さすってみても、自分が何でそんなに怯えていたのかわからなくもなっていた。けれど私はその日から、人一倍、安心と安全を心掛けるようになった。必要以上に余裕を取り、必要以上に入念な準備を重ねる。無茶、無理、無謀は絶対にしない。しそうなやつがいたら、全力を以てして引き留める。

 

 

―――子供だったわたしは、あの日、死んでしまったのだ

 

 

気付けば私は、私がかつて嫌って見下していた、口うるさい大人のようになっていた。

 

 

―――私が冒険者などという名乗っていられる無鉄砲な子供時代は、あの日を境に、終わってしまったのだ

 

 

だが、そうして嫌っていたはずの大人の世界はしかし、かつて私が過ごしていた子供たちの世界よりも―――、いや、同じくらいに居心地のいい場所だった。

 

 

―――だって私はもう、痛みを覚えて、傷を怖いと思ってしまった

 

それはきっと私を見捨てた子供たちと違って、大人たちは無知から来る子供らしい我儘さを失った私を歓迎してくれたからだろう。彼らは失敗に寛容だった。彼らは痛みに敏感だった。彼らは可能な限り傷を負いたくないと願っていた。彼らは、そうした自らの平穏な世界を壊しかねない痛みと傷を、蛇蝎のごとく嫌っていた。だからこそ大人たちが管理する街は、あらゆる面において危険というものが排除されつくしていた。だからこそそんな大人の世界は、そうなってしまった私にとっても、非常に心地の良い居場所となっていたのだ。

 

 

―――いや……

 

 

また、そうして早熟ながら大人たちに与するようになった私を、子供たちはさらに嫌い始めたと、という事態も、私が大人の輪の中に入っていこうとするのに影響を及ぼしていた。大人たちが愛する安全と管理を、大抵の子供たちはとても嫌っている。そんな彼らの態度は、少なからず私を傷つける痛みとなったから、私は彼らから遠ざかるようになったのだ。

 

 

―――痛みを負うことを恐れずになにかを追い求めることを冒険と定義するのならば

 

 

そんな多くの子供たちが求めていたのは余計な束縛のない世界であり、つまりは白紙の地図と、方位磁針だった。子供たちは多少の危険など恐れず省みず、自らの手でその白紙の地図を埋めることを望んでいた。そしてあの日までの彼らにとってわたしは、確かに自分もいつかは冒険者になれるという、そんな証明のような存在だったのだ。彼らが欲したのは完成している安全を保障する地図ではなく、未完成で間違いだらけながらも自分で描いた自分だけの地図だった。好奇心旺盛な小さな子供たちは、いわば小さな冒険者だった。だからこそ私は―――

 

 

―――わたし/私は、生涯において、たった一度すらも、冒険をしたことなどなかったのだ

 

 

彼らという、冒険者から、逃げたのだ。

 

 

―――私はそして冒険と名のつくすべてを恐れるようになった

 

 

もはや私には彼らの期待に応えてやろうという気力が残されていなかった。無茶無理無謀をする冒険者の気質を持ち合わせている存在は、今や痛みを与えてくる存在から逃げだして大人たちの側という安寧の土地を手に入れた私にとって、近づきたくない人種となってしまったのだ。

 

 

―――私は痛みを知ってしまった

 

 

もちろん街にいる多くの冒険者たちは、街の安全を守る大人の彼らと同様に、常識と倫理とを守る大人たちである。冒険者のほとんどは執政院の定めた法律を守るようなきちんとした大人たちだ。だが、冒険者の中には、まるで子供と変わりない好奇心や無鉄砲で動くような奴らもいる。

 

 

―――わたし/私は望んで痛い思いをしたいとは思わないし、思えない

 

 

そしてまた、そういうやつらは、えてして、迷宮の中で冒険という名の無茶苦茶をやらかしてくれるのだ。

 

 

―――だからわたし/私には、冒険などという、痛みと傷をあえて負いたがるような人々の気持ちがわからない

 

 

そうして無茶苦茶をして、その結果生まれる彼らがいつの間にか失せてしまったという出来事やあるいは死んでいなくなってしまうという出来事は、街に住む彼らに近しい大人たちを傷つける痛みとなることが多かった。とはいえ、そうして傷ついたはずの彼らの多くは心が強いのか、あるいは慣れているのか、そんな痛みによって生まれた傷などすぐに忘却したかのようなる人ばかりだったが―――

 

 

―――わたし/私が欲したのは、自分が安全に過ごせる居場所だった

 

 

だが、そんな誰かの命が失われたとか、誰かが不具になって帰ってきたとか、そういうことに過敏に反応して、いつまでも痛みを抱え続けている人々も、決して少なくはなかった。その時の私にとって、そうして痛みに過敏に反応する彼らはまさに自分と同類の存在であり、仲間と等しかった。

 

 

―――だからこそ私は、そんな自分と同類の彼らが傷つくのを見るのが、痛く、苦しかった。

 

 

だからこそわたし/私は、衛兵を目指したのだ

 

 

―――だからこそ私は、そんな居場所を作ってくれる、誰かを守れる存在になりたかった

 

 

 

だからこそ私は、それを少しでも防げる存在になろうと、そう思ったのだ。

 

 

 

―――そうして安全を保障してくれる誰かを守ってやることで

 

 

 

誰かの痛みを未然に防ぐ。それだけできっと、自分の世界の安全は保障されるというそんな気がしていたのだ。

 

 

 

―――私は、守った誰かから、守られたかったのだ

 

 

 

だからこそ自分は、その道を選んだのだ。

 

 

 

―――私はいつだって、誰かに守られたがっていた

 

 

 

だが、そうして飛び込んだ世界は、私にとって決して安楽な場所ではなく、故に私は、多くの出来事によって痛めつけられるようになる。

 

 

―――結局私は、幼い頃からなに一つとして変わっていない

 

 

もちろんそれは当然の結果と言えるだろう。だって衛兵とは、街とそこに住まう住人を安全と危険から守るための存在だ。衛兵とはいわば、安全と危険の境界線にいる存在である。衛兵はそして得た武力によって、街を時折発生する大量発生した動物の襲撃から守ったり、生活の糧を求めて迷宮へと入りこむ冒険者たちが無事に帰れるよう補助をしたり、時には直接的に街や街に住む人々を支援するために痛みを生み出す存在を排除するような、そんな存在だ。すなわち衛兵とは、痛みが生まれた折に、それを少しでも和らげる緩衝材であり、痛みと常に接する最前線の職業なのである。

 

 

―――わたし/私はただ、痛みから少しでも遠ざかりたかったのだ

 

 

私はそして衛兵となった後、迷宮のなかで死という出来事と接したとき、自らがこの道を選んだことを後悔した。迷宮のなかに残されていた彼らの死体が語る痛々しい傷跡は、容易に私の記憶を刺激して、私に痛みと傷と死の恐怖を思い出させたからだ。

 

 

―――いつだって私は、私の世界を変えてしまうような痛みを恐れていた

 

 

私は出来ることなら、そんな痛みばかりにみちている場所から逃げ出したかった。衛兵として過ごす日々の中、そうして痛みと接するような業務を任されるたび、そんな危険な場所の中に身を置くなんて、もってのほかだと、ずっと思っていた。

 

 

―――私は私を変えてしまう痛み/何かを、少しでも自分の世界から遠ざけたかったのだ

 

 

そうして後悔したり怯えたりした記憶は、しかし次の日になると消えてゆく。そしてまた、私が人並み外れて頑丈……、というよりも、不思議と守りの技に長けていたことが、私が衛兵として過ごす日々を延長させていた。

 

 

―――きっと、私は体が丈夫に生まれた分、心がとても弱く生まれついていた

 

 

私にはそれこそ衛兵となってから怪我をしたことなど、一度たりともないくらいに、私は衛兵の―――パラディンの役職の適性と才能があったのだ。多分それはまた、私の痛みを恐れる習性が、誰かの痛みを未然に防ぐというそんな職業の特性と合致した結果だったのかもしれない。

 

 

―――そうして臆病な私は頑丈な衣服と金属の装備を身に纏い

 

 

ともあれだからこそ私は衛兵として過ごす日々の中で適応してゆき、他人の死が想起させる痛みにも慣れていったのだ。そうして鈍感になった私は、だからこそ危険な領域に徐々に深入りしていくこととが出来るようになったのだ。そしてやがて、街の衛兵としてトップクラスの実力を身に着けたそんな時、私はとあるギルドの一員にならないかと誘われた。

 

 

―――それでも、いつだって何かが自分に痛みを与えてこないかと不安に思っていた

 

 

そのギルドの名前こそ『異邦人』。エトリアという街の外からやってきた彼らは、あろうことか伝説の三竜に挑もうとする大馬鹿だった。

 

 

―――そう。私はいつだって、痛みに怯えていた

 

 

はじめこそ街の安全を乱す主要因である冒険者になるなどとんでもないと思っていた。たが、話を聞くうちに、私はそのギルドに加わろうという気になっていた。いや、加わらなければならないという気にすらなっていた。

 

 

―――だからこそ

 

 

なぜなら、今やエトリアでも姿を見せなくなって久しい伝説となったそんな竜たちに挑めるとすれば、迷宮の最下層の方にまで潜らなければならなくなる。そしてその時、衛兵として頂点にいた私は、当然のように迷宮の最下層のことを―――『遺都シンジュク』と、そこにある遺物のことを執政院から教えられ、その危険性を知っていた。もはや万年以上も昔に滅んだといわれている、『遺都シンジュク』。そこにはしかし、いまだに、エトリアという街どころか、この世界を滅ぼしかねない遺物が多く眠っているのだ。だからこそ―――

 

 

―――だからこそ自分は、ギルド『異邦人』のパラディンになろうと決心したのだ

 

 

自分は、彼らを放っておくことなどできないかった。

 

 

―――だって彼らを見捨ててしまえば、それが自分の心に大きな痛みを与えるきっかけになりかねない

 

 

放っておけばやがて彼らは、私が安心して暮らせる世界を壊してしまうかもしれない。

 

 

―――そんなことさせてはならないと、強く私はそう思ったのだ

 

 

だからこそ私は、衛兵という、私にとってある意味で適合していた職業を辞めてまで、冒険者になることを決意した。

 

 

―――だってそれは、とてもこわいことのようにおもえたから

 

 

とどのつまり、私の―――ダリという男の生涯は、最初から最後まで、痛みと傷というものに支配されている、臆病者の逃避行に等しいだけの、虚しい生涯だったである。

 

 

 

 

白く巨大な扉を覚悟を伴った掌で押してやると、手に込められた討伐の意思を拒むかのように、扉は重苦しい音を立てて内へ向けて開いてゆく。二つの白が互いの結びつきを遠ざけてゆく中、向こうから飛び出してくるかもしれない三千の人津波を想像して、私たちは警戒を密にした。

 

 

「――――――」

 

 

しかして解放された扉の向こう側を見て、私たちは己らが抱いていたそんな懸念が無用の長物であったことを知る。重苦しい音を立てながら開けてゆく視界に飛び込んできたのは、地を埋め尽くすほどの敵軍ではなく、血を敷き詰めたように六方とも真赤な壁に囲まれた伽藍洞の部屋の中心、たった一匹の異端がいる光景だったからだ。

 

 

「うわっ、――――――ぺっ、ぺっ」

 

 

密閉された空間の扉が開かれたことにより、入り口付近に暴風が発生した。飛来した砂塵を呑みこんでしまったのだろうサガがそれを吐く仕草をする。赤い砂混じった荒れ狂う風はそうして私たちを乱雑に撫で上げると、眇然ながらも甲高い音を立てて森の中に消えてゆく。

 

 

「……、ふむ」

 

 

そうして一瞬発生した旋風にもひるまず部屋の中をのぞいてやるも、部屋の中心に陣取る魔物の姿は部屋の密度差が生み出した砂塵入り混じる竜巻に抱かれてぼんやりとしていて、敵の姿をはっきりと見ることは出来なかった。故に私たちは警戒を緩めることなく、その風と砂塵が収まるのを待つ。

 

 

「……」

 

 

すると時間の経過に連れて部屋の中心にいる一匹の魔物を覆い隠していた風の勢いは弱まってゆく。同時、部屋の中に舞っていた細かい砂埃の勢いも弱まった。さなか、そんな魔物の姿を隠すかのように空気中を踊っていた粉塵の出所を求めて部屋の中を見渡してやる。するとどうやらこの赤粉は平たい天蓋の何処かより壁面の成分が剥がれてはらはらと落下してきているものであるらしいことがわかった。微風となりつつあるなかでも視界の中で左右に踊る砂礫の姿を見るに、そうして空気中を舞う砂は、砂漠の黄砂や赤砂に近い軽い性質のものであるのだろうことを予測する。考察するさなかにも風の勢いは弱まっていっていた。

 

 

「―――お、ようやくか」

 

 

部屋の中に吹き荒れる風の弱化を視界で理解したサガは満足げに頷く。風の弱化に伴って、天井から剥がれ落ちてくる砂礫の量も減っていっている。量の減った砂は埃というより、まるで粉雪のようにも見えていた。

 

 

―――これが例えば新雪の色を伴っていれば、あるいは真夏も盛りを迎えそうな時期の今この頃に避暑のため訪れる場所として目に涼しい光景だっただろうに……

 

 

目の前で舞っている砂埃は脳裏にそんな暢気な考えを想い浮かばせる。だが現実のところ、砂埃には吹雪舞い散る雪原に佇むとは真反対の生温さが含まれており、私に不気味と興奮を誘うばかりを与えてくる。そんな赤い細砂塵の舞う光景は、番人部屋という場所を前にして漣だっていた神経を鎮めるどころか昂らせる効能を所持していた。

 

 

「うわ、髪が……」

 

「楽器が痛みそうな環境ですねぇ……。ああ、やだやだ」

 

 

また、神経を逆なでる不快の元である天井より落ちてくる砂は髪や服の隙間や道具に侵入してきて、それによって余計に不快感が増大させられてゆく。小さなストレスによって誘発させられる神経の昂りは、しかし大きなミスを誘う特効薬である。さてはこうして神経を逆撫で、苛立ちを引き起こさせ、やがてミスを誘発させるのが眼前に広がるこの景観を作り上げた人物の目的であるのかもしれない。

 

 

―――とすれば、この迷宮の製作者は、やはり底意地の悪い存在に違いない……

 

 

などとも思ったが、よくよく考えてみれば、この迷宮の構築に言峰綺礼という男が関わっているのを思い出して、とても素直に納得した。それは、「人の嫌がることを進んで行いなさい」という文言を聞けば嬉々として他人に苦痛を与えるために動こうとする、他人の不快と醜悪こそを己の快楽として愉しむなんともあの男らしい所業だと思ったのだ。

 

 

「ふぅ……」

 

 

だからこそ私は、そんな小さな苛つきが溜め込まれてしまわぬうちに、ため息とともに空気中に逃がしてやる。ついでと言わんばかりに湧き出てきた不快な考察を吐息の中に織り込んで体外へと放り出すと、そこでようやく私は目の前の敵へと視線をやろうという気になった。

 

 

―――さて……

 

 

地面を赤く染めた砂塵の降り注ぐ部屋の中心へと強化した眼球を向けてゆく。時が止まったかのように滑らかな赤い地面の上には、姿が露わとなった五百メートル先に佇むゆらゆらと輪郭を崩しながら身体をくねらせ続ける敵の姿があった。中心にたった一匹だけで地面に佇むその敵は透明なフォルムをしていて、さながら撥水性の布に水滴を垂らしたが如き姿をしている。くわえてその透明なボディに赤い粉雪が舞い落ちてそして粘度の高い体の表面をゆっくりと移動していた。その様から推測するに、敵の体は粘性であり、かつ流体の特性も保有しているようだとも思った。

 

 

―――これまたなんとも予想外に面妖な……

 

 

敵の姿は、場違いながらも最も適当に形容するなら、梅雪色に着色したきな粉を振りかけられたわらび餅のようである。番人部屋は巨大な菓子箱で、その中央にぽつねんとあるのは笹舟に置かれた水菓子のようだった。剣呑な雰囲気と違ってそこにはなんとも言えない滑稽さや場違さがある。だがそんな滑稽さや場違いさを生み出している存在こそが、この番人部屋の中をとてつもなく異様な雰囲気へと変化させているのだ。だからこそ私たちの心はそれにより檄されるかのように、より警戒心を強めさせられてゆく。

 

 

「エミヤ……お前の言っていた予想と大分と違うようだが」

 

 

さなか、槍盾を構えて緊張の態度を露わにしていたダリが囁き声で尋ねてきた。視線をおくると意識をダリは魔物からそらさないまま眉をひそめている。おそらく、『最悪、扉を開けた途端、かつての玉虫の如くアマゾネスが蠢いているかもしれない』と、扉に入る直前にそう伝えていたことが、彼のこのような疑念の態度と言葉を呼んだのだろう。おそらく彼はそうして三千はいるかもしれぬと脅していた敵の数が、その実たった一匹であった事をとても不審に思い、警戒しているのだ。その事実はつまり、彼がこちらが事前に述べていた意見を一切疑うことなく信じてくれていたという証でもある。

 

 

「……そのようだな」

 

 

そんな彼に見せる証によって私は少しばかり胸に嬉しさを覚えるとともに、不測の事態にも集中を切らず気を緩めない彼に敬意の念を送りつつ、答えた。

 

 

「……どうする? 」

 

「……十秒待ってくれ。ダリは警戒と防御、サガとピエールは索敵、響は道具の準備を」

 

 

指示を出した途端、四人はそれぞれに一瞥を交差させて互いの意を汲みあったのだろう、己の役割を果たすべく動き出した。態度を見て「彼らにならば背を任せられる」と確信した私は、周囲の警戒と対処を彼らに託して、眼前に観察の視線を送りつつ、思考を巡らせ始めた。考えるのは無論、目の前にいる番人のことである。

 

 

―――番人……

 

 

そうしてまず浮かんできたのはこの新迷宮の一層の情報だった。

 

 

―――これまで攻略してきた層番人との戦闘において、初見から一体であったのは、一層の一匹だけだった

 

 

一層の番人は目の前の奴と同じように如何にも無防備だった。だがそうしてその無防備さに油断し突撃したところ、不意に現れた増援によって、私は無用の手間と手傷を負う羽目となった。

 

 

―――二層からは番人は最初から複数で待ち構えていた

 

 

一体多の状況。それはたとえどのような場合にも、たとえその一がどんな強者であろうと、死の可能性を招きかねない状況である。戦いとはすなわち、どれだけ相手の隙をつけるかということにかかっている。ならば無論、その機会が多ければ多いほどに勝利の確率も増えてくるわけで、すなわちだからこそ、数が多いというのはそれだけで相応の有利に働くのである。

 

 

私は一層にて、多くの蛇の群れに大苦戦した。だからこそ私は二層の階層の番人と戦うとき、それを踏まえて今のように部屋の中央に陣取っている二層の番人に対しては、入口より離れず、いつでも離脱できる状態で、遠距離から敵を一方的に排除してやろうとしたのだ。だが。そんな私の警戒を嘲笑うかのように二層の番人は私を強制的に部屋の中に閉じ込めて、一体多数という状況を無理やりに作り出した。そして私はまた、メディアと言う女の能力を持たぬと知らぬが故の油断であるとはいえ、我が身の背後に無数の玉虫を転移されて、危うくやられそうになった。

 

 

―――三層では雑然とした部屋の中心に一匹と五匹の魔物がいた

 

 

それゆえの警戒も含み、応対するため、そして仲間と頭数を揃えて挑んだ三層の番人は、しかし最も手ごわいものだった。三層番人である彼らは、見た目こそ犬のようであり異様さは少なく、また、その動きは直線的で捌きやすいものがあった。だが番人は宝具を発動させたかのような必殺と呼んで過言でないスキルを保有していたのだ。

 

 

 

……油断はしたつもりはなかった。だが、私たちは―――否、数が同数ということに、相手が自らの実力よりも下であるということに、私は間違いなく、油断し、過信した。そして私たちはそんな過信と見下しの代償として、仲間のシンの命という多大な犠牲を支払うこととなった。

 

 

―――そしてこの四層……

 

 

……これまでの層の番人部屋の傾向から考えるに、層の番人は、層を潜るほどに強さを増す存在である。そしてまた、番人の素体として使われているのだろう英霊―――すなわちヘラクレスという存在の試練が残り四つか五つ残っている事実から推測するに、敵はこれまでよりもずっと強い存在になっているはずだ。あるいは複数いて、この部屋のどこかにその姿を潜めており、その上で奴らは宝具のように必殺と呼べるような特異な能力を保有している可能性の方が高いとすらいえる。しかもおそらく敵がそんな特異さを発揮するのは、戦闘が開始された後―――すなわち、この扉が完全に閉じられた後なのだ。と、すれば―――

 

 

「―――まず私が先行して部屋に入ろう」

 

「……それで?」

 

「おそらくその動きに反応して、部屋のどこかから増援がやってくるだろう。数はわからんが、先ほども言った通り、千を越す数がいるかもしれん。あるいは、一度に増援として出てくる数は五、六かもしれんが―――もし、敵の質が高い場合、あるいはその数があまりに多い場合は、撤退を。出来ない場合は、私が即座に私本来の切り札を使用して殲滅を試みる。サガ、響、その際は各々のやり方で足止めを、ピエールは補助を頼む。ダリは悪いが、私を中心に守ってほしい」

 

「りょーかい」

 

「わかりました」

 

「仰せの通りに」

 

「了解だ」

 

 

提案に各々がそれぞれの顔に特徴をあらわにした確かな笑みを浮かべたのをみて、私は満足に頷く。それぞれの覚悟は十分。体力、気力も良好。こちらの知る情報は可能な限りに伝えたし、それらに対しての対策も練ってある。ならばあとは前に進むのみ、だ。

 

 

―――よし

 

 

「では行くぞ」

 

 

言いながら完全に開きおおせた扉の敷居を踏み越えてゆく。

 

 

―――さて、鬼が出るか、蛇が出るか……

 

 

だが、死線を超えるつもりで一歩を部屋の中に踏み入れてみても、しかし敵はまだ動く気配をみせてこない。

 

 

―――……動く気配はなし、か

 

 

二歩。部屋の中に足を踏み入れても、周囲に異常は見当たらない。

 

 

―――様子見か?

 

 

境界線を越えて三歩四歩と足を進めても、異変は何も起こらない。

 

 

―――それとも、こちらを舐めている?

 

 

五歩目、六歩目と続けても、それは同様だった。

 

 

―――……………………

 

 

動きがないのをいいことに、私はしかし慎重に敵の方へと近づいてゆく。何か動きがあれば即座に武器を投影して対応する所存ではあるのだが、やはりというか、しかし敵はまるで一切動く気配を見せてこない。敵対者が近づいてくるというにもかかわらず敵がそれをまるで意に介しないかのように停止状態を保っているというのは、なんとも不気味なものである。

 

 

―――……まぁ、いい

 

 

もう部屋に入ってから数十歩は敵に近づいた。それでも敵は一向に動く気配を見せてこない。

 

 

―――どのみち、やることは変わらないのだから

 

 

膠着状態が続いている。そんな余裕が生んだのだろう、不意に、「これならば先制攻撃を仕掛けてやれるのでは」、という考えが頭の中をよぎっていった。だが―――

 

 

―――しかし、「ヘラクレス」、か……

 

 

敵はあのヘラクレスをモデルにして造られたと思わしき存在だ。ならば不意を打って攻撃してみたところで、万が一にも攻撃がそのまま通用するということはあるまい。否、それどころか、敵がこちらの不意打ちに反応して烈火のごとく怒り狂うという可能性だってある。あるいはそんな不用意な先制攻撃がトリガーとなり、二層のように大量の敵が突如私の背後より現れるという事態だってないとはいいきれない。

 

 

―――十二の試練/ゴッドハンド。あれは確か、一定以下の威力の宝具を無効化する、ほとんど反則じみた強さの宝具だったが……

 

 

また、もしそのような事態に陥ってしまった場合、攻撃を仕掛けた私ではなく、私の指示に従って待機している彼らが最も被害を受けることとなってしまう。

 

 

―――それが反映されているかも、という可能性を考慮するならば……

 

 

私の行動によって誰かが犠牲となる。下手をすれば再び死人すら出てしまうかもしれない。

 

 

―――ならばやはり下手な手出しは愚策……

 

 

そんな事態だけはなんとしても避けねばならない。

 

 

―――敵の動きに応じて臨機応変に対応することこそが正解、か

 

 

改めて最悪の可能性を考慮しなおすと「一方的に攻撃を加えたい」という欲を捨て、可能な限りの宝具の設計図を頭の中に浮かべつつ、警戒の態度を密にしたまま前進する。だが、何が起ころうとも即時対応の意を露わにしたまま百歩を超えて敵に近づいてゆくも、やはり姿を一向に安定させない不定形の敵は未だに敵意すら露わにすることはない。攻めを重要視するタイプであるのか、守を重要視するタイプであるのか。無反応の敵からはそんな方針すら読み取ることが出来ないのだ。そうしていっこうに動かぬ敵から情報を得ることなどもちろんできるはずもなく……。

 

 

―――奴の狙いは何だ……?

 

 

狭まる距離に反比例するかのように、気付けば不安だけが募ってゆく。心に積もってゆくそんな澱を振り払うようにして足を前に押し出してジリジリと距離を詰めてゆくと、やがて何処よりか入り込んできた暮色の光が私を含む小部屋であるこの場所の一角を切り取っている光景が目に飛び込んできた。みれば光は、開かれた扉や森の木々の隙間から飛び込んできている。そうして細く鋭い赤染色の光と足元に長く伸びた自らの射影によって地面の一部が占有される様を見て、思う。

 

 

―――もう夜が近い……

 

 

日が暮れてしまえば、辺りは当然闇に包まれる。闇は多くのモノを覆い隠す魔性の衣だ。ここが満天の星空の元であるならばそんな闇の衣を月と星の光が剥がしてくれたかもしれない。だが、そんな月や星々の力をこの地下の密閉された赤の空間の中において期待するのは愚行でしかない。ならば。今この状況下において。迫りくる闇はすなわち敵の繰り出す行動を見えにくくするだけの余計に過ぎず、敵の有利に働く要素に他ならない。

 

 

―――敵の能力がいかなるものであるかはいまだに不明であるこの状況下において、戦闘手段が定かでない状態でそんな奴と戦うという事態だけは避けたい……

 

 

そんな背後から追いついてこようとする夜の不気味さに急かされるよう、部屋の中に進める足の速度があがってゆく。また、そんな湧き上がる焦燥によってだろう、踏み出す一歩の距離も確実に短くなっていた。そうして大きく一歩、また一歩と足を進めるたび、えも言い表せぬ不安だけが心の底に滓として積もってゆく。やがて足早になっていた私が、部屋の一部を染め上げていた暮光の領域より足を踏み出した、その時―――

 

 

「―――!」

 

 

―――来るか!?

 

 

ようやく未だ杳のなかにあった敵の体へと変化が生じた。

 

 

「これは……っ!?」

 

 

地面の上で一定の周期を保って蠢いていただけの奴は、突如として重力に逆らって宙に浮くと、その表面を大きく波打たせたのだ。そうして空中に浮き上がったそれは、やがてつぶれた饅頭から真球のような形態へと変化してゆく。同時、ふわりと浮き上がった奴の体からは透明度が失われていっていった。

 

 

「な、なんだぁ……!?」

 

 

真球型のプリズムが如きに変化した奴は、少ない木漏れ日を浴びて虹色の光を周囲にばらまきながら、さらに気配を増大させてもゆく。奴の放つ気配とすなわち、こちらを討滅するというそんな意思であるに間違いはないだろう。そうして真球へと変化した巨大化した体は次いでその表面を徐々に大きくうごめかせると、やがて粘土を捏ねたかのような変化をさらに起こして、そのまま別の形へと纏まってゆく。

 

 

敵が最終的にいかなる変化をしようとしているのかは、いまだ不明である。だが、その変化という行為にいかなる意図が込められているかがわからぬほど、私は愚昧でない。今、目の前の存在は、近寄ってきたこちらに敵意を飛ばしつつ、自らの身を変化させているのだ。ならば敵が自らの身を変化させる理由など、一つしかないだろう。

 

 

―――ついにその気になったか……!

 

 

すなわち敵は、己が敵と認識したこちらを撃滅するために、その身を相対する敵を撃滅するにもっとも適当な姿へと己の身を変化させているのだ。それは相手ようやくがこちらを敵として認めた意思の証明ともいえただろう。考えるさなかにも透明だった敵の体はグネグネと姿を変わってゆく。またそして、透明だったその体は緑の色を帯びていっていた。変化と変色が激しくなるにつれて、周囲へと無差別に発散されていただけの気配が指向性を持ったかのように重苦しいものへと変化してゆく。

 

 

「来るぞ……っ!」

 

 

感じた重圧にようやく戦闘の開始を直感する。認識した瞬間、自然と体中を緊張感が駆け抜けていっていた。

 

 

―――出てくる可能性があるとすれば、十二の試練のうち、未だ制覇していない試練に登場する敵か魔物であるはずだが……

 

 

予想が全身を硬直化させようとする。それを慣れた動作で程よく散らしながら、変化する敵を視界に収め、思考を巡らせる。

 

 

―――視界の先にある緑に染まった蠢く体は未だ大半が真球の状態で、その表面が大きくうごめいているだけ

 

緑色の球体は、今や直径三十メートルほどの大きさにまで膨れ上がっている。そんな緑の大球体の蠢く表面はまるで藻に覆われた湖面が暴れる様子にも似ていて、今にもそこから何かが飛び出してきそうな不吉さをも孕んでいた。

 

 

―――ともあれ、油断は禁物か

 

 

不気味な様相を呈するそれを見て眉を顰めていると、その薄汚れた表面は突如として盛り上がり、やがて触手のようなものが飛び出してくる。

 

 

―――……っ!?

 

 

変化の先に何が待ち受けているのか。そんな思考を巡らすさなかも、触手の先端は変化を続けてゆく。丸みを帯びていただけの触手の先端は尖り、透明な液体の身体は固形化していっていた。そうして尖鋭化して固まった触手の先端は、端から徐々に鱗のようなものが生まれてゆくゆく。やがて幾千万と生えていった鱗の持ち主はあからさまに蛇とわかる状態へよう揚然と変化していった。

 

 

―――これは……っ! 

 

 

蛇頭の生えたの球体は、続けて同じようにその緑の表面から八つの触手を生み出してゆく。それらはやはりさきほどの触手と同じように、その先端を蛇頭へと変化させていっていた。また、今や九つの蛇頭が生えつつあるその球体部分にも同時に変化が起きている。大きな体は徐々に緑と白の鱗に覆われていっているのだ。

 

 

―――かつてヘラクレスを最も苦しめたといって過言でない魔物……!

 

 

やがて完全変態を終えてゆくその姿を見て、敵がいかなる生物に変化していたのかを理解した私は、思わず叫んでしまっていた。

 

 

「―――ヒュドラか……っ!」

 

 

敵前で不覚にも大きな声を上げて驚く。そんな無様を失態だと思う間もなかった。声に反応したのか完全変態を終えたヒュドラは、やがてその九本つの蛇頭に備え付けられた一対の瞳全てを静かにこちらへと向けてくる。十八の眼の瞳孔は収縮を繰り返していた。やがてその瞳群はこちらを嘲笑うかのように細められてゆく。蛇は冷血で無感情と呼ばれている。だがしかし目の前の化物の瞳には、これ以上ないくらい灼熱の感情が露わとなって現れていた。

 

 

「くそっ……!」

 

 

視線に宿る熱量を肌身で感じ、同時、その変化先がヒュドラであることを完全認識した瞬間、私は思わず悪態ついてしまう。

 

 

―――よりにもよって、この難敵が最初に出てくるとは……!

 

 

もちろん自分は、仮にヒュドラが敵として現れた場合をも想定し、対策に毒を無効化するアクセサリー「毒祓のタリスマン」を装備してきている。このポイズンウーズと呼ばれる魔物の体液を凝縮して造られた「毒祓のタリスマン」は、あらゆる毒を無毒化するというアクセサリーだ。

 

 

―――近接戦闘は……、しない方が無難か……

 

 

そう。このアクセサリーは、間違いなくあらゆる毒を無力化する。だが、ヘラクレスの窮地を幾度となく救い、しかしその果てに彼や彼と親しい人間の命をたやすく奪い去った地上最強と名高い毒相手に、果たしてこの無毒化を謳うこのアクセサリー「毒祓のタリスマン」がどこまで効力を発揮してくれるかは、まるきり未知数だ。

 

 

―――ヒュドラの毒を受けないに越したことはない……

 

 

「―――、エミヤ! 」

 

「……っ! 」

 

 

思考の一部が懸念に支配されつつあった最中、切羽詰まったサガの叫び声を聞いて意識を完全に現実へと引き戻された私は、目の前にいるヒュドラより視線を外して即座に後ろを向く。

 

 

「―――……っ!」

 

 

すると、振り返るさなか、目端にまるで黄金の魔弾が如きものが超速度で迫りくるところが飛び込んできて―――

 

 

「く……!」

 

 

そんな黄金を私の瞳の中心がとらえきるよりも寸前、私は振り向いた勢いを利用し、とっさにその場から飛びのいた。

 

 

「……っ!」

 

 

直後、寸前まで私のいた場所を人間大の黄金の塊が通り過ぎてゆく。あらかじめ強化を施していた私の肉体は、強烈な速度で迫り来る何かとの激突をすんでのところで回避することに成功させていた。すれ違いざまに荒れ狂う風が乾燥気味の肌と地面を引き裂き、肌には小傷が、地面には長い轍が残されてゆく。そのひりつく感覚と、振り返りざま、地面に残された深い傷痕を見て戦慄した。

 

 

―――サガの助言がなければ死んでいたかもしれん

 

 

遺憾なく深々と地面に刻印された威力の証を見て、改めて悪寒が背筋を駆け抜ける。

 

 

「いったい何が……!?」

 

 

言いつつ視線を轍の伸びた先へと向けてゆく。すると轍の終点には、変形し終えたのだろうヒュドラの傍らにある光を浴びて黄金に輝く獣がいた。獣の見せる大きな角とその後ろ姿を見て、私は今しがた自らの身を砕きかけたモノの正体を理解する。

 

 

「―――ケリュネイアの鹿か!」

 

 

私を轢殺したかけた魔物の正体。それは女神アルテミスの聖獣でもあり、黄金の角と青銅の蹄を持つ、ヘラクレスという大英雄が捕縛するのに一年の時をかけたというすさまじい脚力を持つ鹿だった。そうしてヒュドラの傍らに立ち止まっているケリュネイアの鹿は、私の言葉に反応するかのようにゆっくりと振り向くと、その黒曜石のような瞳をこちらへと向けてくる。

 

 

『―――殺し損ねたか』

 

 

細められた黒の瞳はそんなことを語っているかのようだった。

 

 

「ちっ……」

 

 

鹿が私に敵意を持っていると判断した瞬間、私は即座に体勢を立て直し、助言をくれたサガへと向かって跳躍した。約二百メートルの距離が数歩の助走からの跳躍で零となる。

 

 

「うぉっ、っと……、―――!」

 

 

そうしてサガの傍らに着地すると、彼はその短く纏まった金髪を揺らして驚きを露わにして見せた。だが彼はすぐさまそのような些細に気を取られている場合ではないと思いなおしてくれたらしく、すぐに意識を敵らの方へと向けなおしてゆく。集中した瞳にはすでに一秒前の驚きは残っていなかった。それはこの場にいる他の彼らも同様である。そんな彼らが見せる手練れの反応が、死線と化したこの場において何とも頼もしい。

 

 

「――む……」

 

 

サガや彼らの反応に好ましさと敬意を抱いた瞬間、背後より大きな音が聞こえてきた。見るまでもなく、それは入り口の扉が完全に閉じられた音だと理解する。そうして私たちはいつものように、この番人部屋というその層の最強の存在との強制戦闘を強いる閉鎖空間の中に隔離されたのだ。

 

 

―――始まるか……!

 

 

そう。迷宮はいつだって層の終わりに最強の番人を用意して、不埒な侵入者を排除しようと試みる。この度侵入してきた私たちを排除すべく此度目の前に現れた番人は、ヘラクレスの神話に基づいて生み出されたのだろう、二匹の魔物。すなわち、ヒュドラと呼ばれる最強の毒と不死性を保有する化け物と、黄金の角と体、青銅の蹄を持つケリュネイアの五頭目の鹿だ。

 

 

―――まずは二つの試練が同時に、か……

 

 

訪れた試練が二つ同時であったことに戦々恐々とした思いを抱きつつ、同時に、試練が五つ同時でなかったこと。また同時、現れた敵の数が同時二体であったことから、おそらくは敵には一度に生み出せる試練の数か、あるいは操れる魔物の数か、質量かに限界があるのだろうことを私は推測した。私は一瞬、胸をなでおろしかけ―――

 

 

―――……あのヘラクレスが難儀した試練を、同時に二つも、か……

 

 

「はぁ……」

 

 

しかし同時、五つあるうちの試練の内からこの二つの試練が同時に選ばれたという事実にため息をつく。

 

 

「すまん。警戒していたが、敵の動きが早すぎて対処しきれなかった」

 

 

すると近寄ってきていたダリがその吐息に反応したのか、視線を敵から離さないままに謝罪を送ってきた。言葉に反応して彼へと視線を送ると、敵から視線を離そうとしない姿が目に映る。敵へと向く彼の瞳からは一切の迷いが感じられない。だが多分は無意識なのだろう、彼は下唇を少しばかり歯を軋ませていた。それはおそらく、罪悪感の証であるに違いない。

 

 

 

おそらくダリは先のため息を対処できなかった自身に対する抗議のものと受け取ったのだ。あるいは盾役としての役目を果たせなかったという思いがそんな卑下た謝罪の言葉として変換されたのかもしれない。ともあれその謝罪は石橋を叩く慎重を持ち合わせている人間特有の己を卑下する悪癖から生み出されたものだろうことは確かだった。

 

 

―――いかんな……、必要以上に肩に力が入ってしまっている

 

 

そうして敵と相対するダリの態度は真剣そのもので迷いがない。だがそんな戦闘の覚悟をしている彼の態度とは裏腹に、彼の体はひどく強張ってしまっているようだった。

 

 

―――これでは満足に己の力を振るうことはならないだろう

 

 

よく見ればダリは頬も顔も腕から足にかけてまでガチガチの状態だ。真剣な目はともすれば血走っているようにも見えるし、腕や足はまるで高熱で変形させたばかりの鋼鉄のようだった。彼の性格から考えるに、おそらくは失態を取り戻さなければならないというそんな思いが、必要以上に自らの体へと力を入れさせてしまっているのだろう。だが、こと互いの命を奪い合うような戦闘の状況において、体を強張らせるほどの緊張や余計を考えてしまうような態度は即座に死へと繋がりかねない。彼はもう二度と同じ失態を繰り返すまいと強く決意したが故に、体が緊張感で支配され、動きが鈍ってしまっていた。

 

 

「いや……」

 

 

失態を取り戻すほどの成果を求める態度が、逆にさらなる失態を呼ぶ。彼は焦るものにありがちな、ドツボに嵌ってしまっている状態なのだ。若かりし頃―――否、つい先日、彼と同じような失態の末に人死にを出してしまった私は、だからこそ彼の焦燥と態度が理解できた。だから私は、そんな失態に私も覚えがあるので何とも歯痒い気分ではあるのだが、過去の我が未熟に目を瞑りつつ、多少むず痒い感覚を抱きながらも、彼のその緊張を解してやるべく、口を開く。

 

 

「あの速度での不意打ちだ。たとえ誰だろうと早々に反応できるものではない。だからそれを君が気にすることなどないさ。だが―――、いくら素早かろうと敵の姿をそうしてしっかと捉えた状態である今、エトリア一のパラディンと名高い君にならば、あの超速度の攻撃を防ぐことも可能だろうと私は信じている」

 

「―――ああ。任せておけ」

 

 

称賛の言葉を敵に目を向けたままダリに返すと、そんな予想外の賞賛が照れくさかったのだろう、彼は少しばかり頬を赤らめて、しかし素直に受け取り、力強く頷くと、再び敵に視線を向きなおした。そうして敵を見据える彼の体からはすっかり強張りが失せている。私は自らの言葉で彼の緊張が程よく解れたことに満足感を覚えつつ、そうして見せた彼の態度から、「思いのほか単純で純情なところもあるのだな」、と、場違いながらも内心少し驚いた。

 

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 

すると周囲が異様な空気に包まれた。違和感を覚えてあたりを見渡すと、サガ、響のみならず、ピエールという男までが、目の前で起きた理解不能の光景を必死に咀嚼してやろうと試みている顔が目に映る。彼らの態度から推測するにおそらく、彼がそのような乙女の恥じらうが如き反応を見せた事は初めてだったのだろう。

 

 

―――やれやれ、まったく、戦闘中だというのに……

 

 

人のことは言えぬが、皆、なんとも呑気なものである。

 

 

―――しかし……

 

 

……などとそうしてそんなやりとりをして隙を晒している私たちを目の前にして、しかし眼前の二体の魔物は殺意をこちらに向けたままその場から動くそぶりを見せずにいた。

 

 

―――予想外に、動きはなし、か

 

 

私は少しばかり当てが外れて内心に少し残念を覚える。

 

 

敵がこのやり取りを絶好の好機とみて攻撃を仕掛けてきたのならば、私は即座に応じて敵に反撃を叩き込むつもりだった。すなわち私は、ダリの緊張を解して戦力を適正な状態に戻すとともに、彼のそんな態度を餌に罠を張っていたわけである。これは私の独断に基づく者であり、我ながら何とも性格が悪いと思う作戦だが、この手段は相手が自らを狡猾であると思い込んでいるほど、呆れるほどに有効となる手段なのだ。

 

 

「なるほど、慎重だ」

 

 

だが敵はその誘いに乗ってこなかった。私は秘かに投影していたいくつかの宝具の設計図を破棄すると、敵の慎重さを戦力の修正値として加えつつ、改めて敵の姿を観察する。すると私の視線は金鹿の鋭い眼光が私の向けえきて、交錯した。

 

 

―――敵もこちらの出方を観察しているのだろうか……?

 

 

鹿の鋭い眼光は、私とダリを交互に捉えたまま放さずにいる。また、もう一匹の魔物であるヒュドラの巨大な九つの頭部にお行儀よくはめ込まれた一対の眼球は、誰を視認しているのか分からぬほど透明さで戦場全体を俯瞰する姿勢を保っていた。

 

 

「む……」

 

 

そうして私が奴らの一挙手一投足に注目していると、やがて白と緑の鱗生えた不定形の体に九つの蛇の頭部を携えた魔物―――ヒュドラの体から突然紫煙が漏れて、緩々と地面へ向けて落下し始める。

 

 

「―――来るか」

 

 

判ずるにヒュドラの身体から放出された紫煙は空気よりも重いらしく、重力に従ってだらしなくゆらゆらと下へと垂れ流されてゆく。煙はそのまま緩慢な動作で空気を押しのけて地に落ちるとやがて予想通りに赤の地面と接触して―――

 

 

「うぉっ、なんじゃありゃ!?」

 

 

瞬間、地面に生えた赤草をグズグズに溶かし、さらには土の地面すらもが融解させていった。ヒュドラの落とした紫の煙に溶けこんだ地面は、まるで煮沸した鍋の中の湯水か、あるいは溶岩であるかのように波打っている。

 

 

「地面が……溶けた!?」

 

「硬質な地面ですら簡単に溶かす煙―――、ううん、毒!?」

 

「あれは一体……」

 

 

目の前で起きた現象があまりに予想外だったのだろう、冷静を保っていた一同が次々に驚きを露わにした。

 

 

「ヒュドラの猛毒か……!」

 

 

一方で、その光景に私は、あれこそが伝説に名高い全ての生物を触れただけで殺す猛毒、「ヒュドラの猛毒」であるのだろうことを直感的に理解させられる。不死であるケイローンや無敵の肉体を持つヘラクレスに根をあげさせたそんな毒を前にして、驚愕と恐れの念に、心がざわついていた。そんな二つの思いは私の視線を胸元の毒祓のタリスマンへと向けさせてゆく。胸元で怪しく光るその紫色の宝石は一層に出現した蛇の毒を見事に無効化してくれた頼れる相棒だ。だが果たしてこの毒祓のタリスマンは、あの地面すら液状化させてしまう毒液を前に、一体どこまで効力を発揮してくれるのか―――

 

 

―――なるほど、この階層の地面だけ、時間が固定化されたかのような状態になだらかで固い煉瓦がコンクリのようである理由は、ヒュドラの毒が即座に地面に浸透して迷宮を瓦解させてしまわないための処置かもしれない

 

 

「気をつけろ……、あの毒煙に触れれば、おそらくタダではすまない」

 

「みりゃわかるってもんだ。―――さっき言ってた、どんなもんでも死なせる猛毒ってやつか?」

 

 

自らの湧き上がる妄想と不安を吐き出すように述べた私の言葉を聞いて、サガが言った。

 

 

「ああ。一応、タリスマンを装備しているから煙に触れた程度なら大丈夫だと思うが、煙を思い切り吸い込んだり、溜まった液体を一定量以上浴びた場合にどうなるかまでは、私にも保証できん……」

 

 

続く言葉に不安を誘発させられたのだろう、一同の視線が再びヒュドラの下に溜まる液体へ集中する。すると、不安を嘲笑うかのように、ヒュドラから発せられていた毒煙が大きく揺らめいた。

 

 

「……っ」

 

 

誰かが固唾をのんだ音が静かを割って聞こえてくる。さなかにも煙によって地面に生まれた赤と黒と紫のマーブル模様は、その内部に紫の煙を取り込みながらその範囲を広げてゆく。その侵食の拡大速度や尋常ではなかった。

 

 

「ぬ……? ―――ッ!」

 

 

そのことに違和感を覚えて溶けた地面の上へと目を向ける。すると、ヒュドラがその巨大な胴体のみならず、その緑の体躯より伸びる九つの首の口先からも大量の放出を行い始めている光景が眼に映った。緩やかに落ちてゆく濃い紫煙を吐き出しておるその口元からは、あからさまにこちらを挑発する意図をもっているのだろう、赤い舌がちろちろと踊っている。見る間にも生存確率が限りなく低いだろうの毒の領域が部屋の中を徐々に侵食していっている。そんな不安に誘発されたのだろう誰かが唾液を嚥下した音が、先ほどよりも大きく静かな部屋の中へと響き渡り―――

 

 

「……ところで、もしかして、このままこうしてると、まずいんじゃね? 」

 

「―――だろうな」

 

 

やがて静寂破って述べられたサガの言葉に、肯定の意を返す。観察をつづけるに、敵はどうやら呼吸をする度、あるいは、その場にいるだけであの紫の毒霧を無限に生み出せるらしい。ならばこのまま時間が経過した時、この部屋が毒霧に満たされた空間へと変貌するのだろう事は、容易に予測ができるというものだ。毒祓のタリスマンを身に着けているとはいえ、流石に地上最強の猛毒に満ちた空間の中でも平然と生きていられるだろうと胸を張って言えるほど私は自信家でなければ豪胆でもない。

 

 

「お前の話によると、ヒュドラってやつは、首を切った後、傷口を焼けばいいんだったよな」

 

「ああ。奴の首を切り落とすのは、私に任せておけ」

 

「おう」

 

 

言うとサガは籠手を展開させて、スキルの発動準備を開始した。私は彼の動きを背中越しに感じて頷くと、身体を戦闘の状態へと移行するべく強化の魔術を施し、次いで手慣れた手順でいつもの黒塗りの弓と宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する。

 

 

―――宝具「赤原猟犬/フルンディング」

 

 

それは一度放てば剣に籠められた魔力の続く限り敵を追い詰めて殺す、かつてベオウルフと呼ばれる英雄が使用していた魔性の剣だ。

 

 

―――自動追尾機能と一定の操作が効くこの剣ならば、奴の煙を避けつつ、九つ存在する全ての首を切り落とし続けることが可能なはず……

 

 

「ついでに言っておくが、傷口を焼くのにむやみ風を巻き起こすようなスキルを使うのはやめた方がいい」

 

「わかってるよ。あの毒をまき散らすような炎系統のスキルは今回使わない。雷撃で一個ずつ潰していくさ」

 

 

皮算用をはじきながら述べた忠告に返ってきたサガの言葉を聞いて、私はサガが私の懸念を見事に理解してくれていたことを知り、胸をなでおろす。

 

 

「お前こそ、あの煙と毒の液体をまき散らすような攻撃をしないでくれよな」

 

「もちろんだ」

 

 

言いながら私は、初め、「あの巨体であれば、宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」で吹き飛ばすのが手っ取り早いかともしれん」などと考えていたことを思い出していた。

 

 

―――確かに「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」なら奴の体を宝具で吹き飛ばす事もできる可能性は高く、あるいは撃破も容易いかもしれないが……

 

 

宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」。それはアルスターの英雄フェルグスが使用していた螺旋剣/カラドボルグに、私が改良を施して生み出した改造投影宝具だ。「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」は螺旋剣と付くその名の通り、剣に魔力を籠めやると、剣自体がまるでドリルのように回転する。また、「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」は、そうして魔力を籠めると、雷光をも身に纏うのだ。すなわち、もし私が当初の思惑通り、宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」をあの毒煙を放つヒュドラ相手に射出していたのならば、今頃のこの部屋は、「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」の生み出す回転や推進によって生み出される風圧によって奴の周囲にある毒煙や、体内に格納されているのだろう毒煙がまき散らされ、この部屋は毒煙に満たされてしまっていたかもしれないのだ。

 

 

―――あの毒がヒュドラの死亡と同時に消えるとも限らないし……

 

 

毒祓のバングルがあるとはいえ、あのヘラクレスですら殺すようなヒュドラの毒をその身に取り込むなど、如何にもぞっとしない、可能な限り避けたい事態である。 また、「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」の生み出す雷光が密度の高い毒煙と反応して、粉塵爆発が如き現象が起きないとも限らないのだ。

 

 

―――……あれは、僅かに触れただけであのヘラクレスが自ら死を選ぶほどの苦しみを味わうことになる毒だ

 

 

ならば慎重に慎重を重ねても過ぎるということはない。そう考えた私は、この度宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」の使用を自ら禁じ、「赤原猟犬/フルンディング」を用いて地道に敵の首を切り落とすという選択肢を取ったわけである。……しかし。

 

 

―――いまだ静観を保つ、か……

 

 

敵は自らにとって不埒な行動を企む私らを―――宝具「赤原猟犬/フルンディング」を取り出した私を前に、しかし未だ大きな動きを見せずにいる。地上最強の猛毒を持つ獰猛なはずのヒュドラは九つの首を揺らして泰然と不動を保ち続けているし、先程あれほどの速度で体当たりを仕掛けてきたケリュネイアの鹿もやはりヒュドラから少し離れた場所を闊歩するだけで積極的な攻撃の意思は見せてこないのだ。

 

 

―――何を考えている……

 

 

その静観。その傍観が、私にはひどく不気味に映る。

 

 

―――本当にこのまま攻撃を仕掛けて良いものだろうか……?

 

 

生まれた不安が脳裏をよぎってゆく。

 

 

―――ほかに有効そうな手段は…………

 

 

しかし。

 

 

―――ない、か……

 

 

私がいくら記憶に残っている伝承を漁ってヒュドラの特徴を思い出そうとも、「首を切り落として、その傷口を焼く」「岩をもって核を封じる」以外に有効そうな手段を思いつくことはできなかった。ならばそうして、思いついた手を一つずつ試して有効打を探るのは相対する敵を打ち倒すには常道の手段なはずで、間違いなく正しい選択のはずである。

 

 

―――いかんな……

 

 

にもかかわらずこうして戸惑うのは、おそらく、私はその伝承の手段こそが目の前の魔獣どもに通用する手段であると知っていることに由来するのであろう。

 

 

―――随分と臆病風に吹かれている

 

 

一人だけが解答を知っているというのは、かくも間違えた場合の事を懸念してしまう様になるものなのだ。

 

 

―――これではダリの先ほどの態度を笑えぬではないか……

 

 

そうして我が身の内に湧き上がってくる不安を自嘲しつつ、思う。こと互いが生死をかけた戦闘において、不測の事態は当然起こりうることだ。もっと言ってしまうのならば、敵が自らの能力を隠すのも、こちらが敵の能力が完全に把握できない状態で戦いを始めるのだって、常の事である。そうして互いがカードを隠した状態で始める戦闘を尋常な勝負と表現するなら、情報量の天秤が片一方に傾いているこの状況など、卑怯千万の謂れを受けても反論できぬ状況だ。敵の情報が万全に揃っている戦いに一抹の不安を抱くというなら、もうそれは腑抜けと称するより他に呼びようがない臆病ぶりではないか。

 

 

―――は、このザマが元は英霊と呼ばれる守護者の末路だというのだから、笑わせてくれる

 

 

「ふぅ……」

 

 

心の裡に生じた臆病をあえて責め立て自身を奮い立たせると、あえて無駄に大きく一歩を踏み出しながら、動作の最中でカーボン製の黒弓と宝具「赤原猟犬/フルンディング」を強く握りなおしてゆく。そのままその気性の荒さを象徴するかのような刺々しい金属板が打ち付けられた剣を歩きの流れの動作の中で弓に番えると、やがて敵正面に向けていた体を横に構えなおして立ち止まり、弦を弾きながら弾となる刀身へ魔力を籠めてゆく。

 

 

 

刀身に流し込まれた赤銅色の魔力が、剣自身が持つ荒々しい赤の暴力と混じり合う。途端、余剰分の緋色の魔力がその体より空気中に放出され始めた。漏れ出した魔力はまるで存分に餌を与えられた猟犬が嬉しさを隠しきれず尾を振っているかのよう、やがて刀身と添えた手を辿って剣の柄より赤の地面へとゆらゆら落ちてゆく。

 

 

……それでも。

 

 

―――動かず、か……

 

 

こちらが攻撃の準備を進める間も、やはり敵は動かない。奴がまるで動きを見せないという異常は、私の不安を煽り、少しばかり鏃の狙いをぶれさせた。私はその臆病の表れを無理やり押さえ込みながら、我が身の内より湧き出てくる迷いを振り切るよう、頭をさっと傾けて視線を背後へと送ってゆく。

 

 

「――――――」

 

 

見ればサガはすでにスキルの発動準備を終えていた。

 

 

「―――」

 

「――――――」

 

 

 

ダリは盾を構えて前傾姿勢になり、響はバッグの中に手を突っ込んで弄っている。ピエールの指は竪琴に添えられ、口はすでに開きかけていた。そう。その場にいる誰もがすでに戦いの覚悟を決めていた。そんな味方となる全員の迷いない態度は私の中に生まれつつあった私の迷いを打ち消して、心を落ち着かせてゆく。そしてやがて全員の準備が整ったことを察したピエールは竪琴の弦に指をあてるとともに大きく息を吸い、そして―――

 

 

「さぁ、それではいきなり閉幕の宣言するのは恐縮でございますが―――」

 

 

ピエールの竪琴の音色とそんな雄叫びに静寂は破られ、戦いの幕が開けられた。

 

 

「この新迷宮四層におけます戦いの最終楽章を始めましょう! 」

 

 

叫んだ彼は弦楽器に負けはせぬと堅ながらもしなやかな糸を強く弾き、共鳴箱を通じて艶やかな、しかし荒々しい音を周囲に撒き散らす。そうしてバードであるピエールが発動したのは、己のフォーススキル「最終決戦の軍歌」だった。

 

 

「踊れ踊れ、戦士たちよ!」

 

 

白魚のような手の先にある弦タコにて硬くなった指が弦を掻き鳴らし、そうして生まれた楽器の音色に重なるよう、ピエールは己の喉を大きく動かしながら声を張り上げてゆく。

 

 

「その身に宿りし力、使い果たす宿命の時が今、やってきたのだ!」

 

 

すると生まれる勇ましい曲調とそれに乗った言葉によって生まれ出流麗な音色が濁流の如くあたりに散布されていった。生まれた音色は周囲にいる味方の体に飛び込むと、すぐさま対象となった人物の身体能力を引き上げる。

 

 

―――これは……!

 

 

そうして強化の魔術を最大限自らに施した上でかけられたバードのフォーススキル「最終決戦の軍歌」は、私がさらに剣へと流し込む魔力の量を増やすことを可能とした。ピエールの放つ音の一つが私の体を揺らす度、宝具「赤原猟犬/フルンディング」のさらに隅々にまで魔力がいきわたってゆく。

 

 

―――いいだろう……!

 

 

私は乗じてミクロン単位での魔力流入調整を宝具に施した。応じて剣の柄から垂れる魔力の尾はますます生き生きとして揺れ動いてゆく。それはまるで忍耐の限界に達していた宝具が、もはや我慢がならぬと解き放てと私を急かしているかのようだった。

 

 

――――ならばその望み通り、願いを果たさせてやろう……!

 

 

私はそんな堪忍袋の小さな猟犬の要望を叶えるかのよう己の指という枷からそれを解き放つと、ともに己の身に秘められた威力を存分に発揮させろと急かすその名を高らかに叫びあげる。

 

 

「赤原猟犬/フルンディング! 」

 

 

直後、緋色の暴虐が赤の部屋を引き裂いた。首輪を外された「赤原猟犬/フルンディング」は、魔力による身体強化の上にさらにスキルによる強化を乗せられた威力を存分に発揮して、不定形の敵との空気の間に一条の赤い飛行機雲といくつもの浮雲を描きながら飛翔する。

 

 

―――……!

 

 

緋色の魔力を垂れ流しつつまき散らしながら空中を直進するその姿はまるで、卑しくも涎を周囲にまき散らしながら大きな口を開きつつ牙を押し出して疾駆暴走する狂犬の様を具現化したかのようだった。

 

 

―――これは……!

 

 

補助を得たことによって起こした出来事が生み出したその結果は、そんな攻撃を放った自らにとってもあまりに予想外すぎるものだった。強化の上にスキルを重ね掛けされた体はまた、自身の放った武器と敵が接触するその刹那しかない合間に自らが驚愕することをも許容する。

 

 

―――私の通常の宝具射出速度を遥かに凌駕している……!

 

 

そうして常より感度の上がった視界に映る飛翔する剣の速度は、もはやかつての自身の攻撃の最高速を大幅に上回っていた。今や剣の速度は一秒の間に十㎞、ニ十㎞どころでない距離を突き進むことを可能としている。そうして今という時をすぐさま過去の中へと置き去りにするほどの剣と敵との距離は、もうたったの五百メートルほどしかないのだ。

 

 

―――これならば、いかにヘラクレスの試練とてひとたまりもあるまい……!

 

 

そう。一秒未満の間に数キロメートル以上もの距離を零にする剣と敵との距離は、たったの五百メートルしかない。すなわち今の赤原猟犬なら、次の瞬きを終える前に、ヒュドラと私の距離を零にしてくれるはずで―――

 

 

「な……っ!」

 

 

だが、瞬時の間に直進した剣がヒュドラの首の一つを叩き落とさんとしたそんな一瞬にすら満たない刹那以下の時の狭間―――

 

 

「――――――――――――」

 

 

魔力とスキルによる強化を施された眼球は、ヒュドラと剣の間にするりと入り込んでくる生物の存在をとらえて、私を驚かせる。一秒を数千もに分断した短い時の最中、最大限まで強化された瞳が捉えたそいつは、なんとも優美な動きで、赤い空間引き裂き直進する魔剣の前に軽々と身を晒してきていた。

 

 

―――……っ!

 

 

ケリュネイアの鹿。そう呼ばれる奴がとったその所作のあまりの自然な優雅さに、私は一瞬その挙動を不信と思うことが出来なかった。秒を万に分断された意識の中に空隙が生ずる。万分の一の呆然の時間の直後、訪れた情報を咀嚼し終えた強化済みの脳みそは、遅ればせながらも危険を察知した。

 

 

―――まっ、ず……

 

 

「くっ……!」

 

 

遅れてやってきた半端のない悪寒が我が身の中を余さず貫いてゆく。脳内では警鐘があらん限りに鳴り響いていた。奴の狙いはわからない。だが、奴の思惑は知らぬが、己の身をわざわざ攻撃の前に晒しておきながら、しかし奴はまるでなんて事のないように振る舞っている。死線を超えてその先に身を晒しながら、「そんなつまらぬ些事、気にもしませんよ」と言わんばかりの態度は、銃を前にして死を恐れなかったマハタリと呼ばれる女傑を私に思い出させて、不吉な思いは膨れ上がってゆく。

 

 

そんなかつての伝説に残る英霊と呼ばれるような存在に似た態度の異常が。魔獣である奴がとって見せた、致死だろう攻撃の前に無防備な我が身を晒すという慮外の動作が、私の直感と戦闘経験に基づく心眼を刺激して最大限の警戒を訴えていた。

 

 

「……く、そっ!」

 

 

迷いは一瞬。しかし、剣が金鹿と接触しかける直前、奴がその優美な口元に浮かべた笑みを一切崩さない様を見て、私は即座に魔力が最大限に籠められたその剣をこの世から抹消させる事を決意する。だってあの鹿は、自らの体に「赤原猟犬/フルンディング」が当たることを望んでいる。飛来する剣を我が身で受け止める。それこそが奴の狙いであるというならば、それをさせないことこそが、奴の狙いを達成させないための条件となるといえるだろう。

 

 

「投影破棄/トレース・カット……!」

 

 

生まれた命令は光の速さで剣に伝わってゆく。だが放たれた猟犬が挙動を止めるよりも先に、その刃先はすでに鹿へと到達してしまっていた。消去の意思を受け取り剣が消滅するまでの間、待ての命令を遵守しきれなかった剣は少しだけ鹿のその緩やかな曲線にて構成される喉元へと直進し、そして吸い込まれるようにして刃先が消え失せ―――

 

 

「―――ぐ……っ!?」

 

 

瞬間、私は喉元に違和感を覚えた。

 

 

「……っ、かッ……、はッ……! 」

 

 

強化された感覚の中、表皮が熱い熱気を感じ取り、悶える。喉にじく、と肉を割り異物が入り込む感覚がある。だが、わかるのはそこまでだった。生まれた違和感は瞬間的に喉の全体に広がり、私の思考を停止させてゆく。

 

 

「が……、ぐ……」

 

 

 

突如我が身を襲った理解不能の事象に対して、反射的に異常の起きた喉元を抑え、地面に両膝をつく。呼吸のために動かそうとした喉元からは、ひゅう、風が抜けていった。

 

 

「……、エミヤ!?」

 

 

ダリの声が耳朶を打つ。

 

 

「おい、なんだよ!?」

 

「エミヤさん!?」

 

 

サガと響が叫ぶ声が続けて聞こえてきた。

 

 

「これは……、喉から血が溢れて……!」

 

 

次いで聞こえたピエールの声によって、ようやく答えを得た私の脳は、稼働を再開する。遅れて、思考が喉の一点に集中されていった。脳が通常ではありえない、体内の血肉と皮膚と内臓器官に外気が触れる異常を察知する。遅れて異常を示す信号を発しだす。すると向こう岸より現実へと引き戻されてきた意識は、ようやく現状を把握した。

 

 

―――喉が、裂けたのか……!

 

 

信号によって生み出された喉元の痛みが、私にようやく自らの喉元が切り開かれたのだということを自覚させてゆく。掌から零れ落ちてゆく液体が血だとわかった途端、訪れる痛みはさらに倍増した。

 

 

―――ッ……!

 

 

露わになった肌身をぬるりと血が流れ落ちてゆく。割かれた喉の傷口から入り込んだ風はひゅうひゅうごぼごぼと、異音を奏でていた。布地が血で濡れて重くなってゆく。そんな出来事たちを意識した途端、痛みに胸がざわついた。喉が異様なくらい熱くなっている。

 

 

「カ……、ハ……」

 

 

灼熱の痛みと共に、寒いのに暑いという極寒の中に裸で投げ出されたような、矛盾に満ちた感覚が訪れた。強化された感覚が痛みによってかさらに鋭敏化してゆく。そうして敏感になった神経は、周囲からの心配の視線を密に感じ取っていた。

 

 

「ゴボッ……」

 

 

認識した瞬間、思わず「心配するな」と答えてやろうと口を動かしかける。だが、隙間の出来た喉は肉の割れ目より間抜けに空気を漏らす音をたてるばかりで、思い通りの言葉など生み出してくれなかった。

 

 

「ガ……、グ……」

 

 

言葉を発することに失敗した代償として、鉄の味が口の中いっぱいに広がってゆく。そんな事実が胸の中に生まれた不快感をさらに増大させていた。喉元は蠕動して、しかし声を出し損なった痛みがさらに加わった。

 

 

「ゴッ……」

 

 

筋繊維の動作により、切れた周囲の血管が時間の流れを取り戻して、喉元からはさらに大量の出血が生じつつある。肉の狭間より噴出した血液は、気管と食堂を上に下にと蹂躙し、口内、鼻腔にまで登ってきた生暖かきそれらは舌下や鼻腔内と触れることで鉄の味やにおいを感じさせてゆく。

 

 

「ガ―――、ハ、ッ……」

 

 

―――ま……

 

 

そして逆流した流体の氾濫にむせ返ると、その挙動が一層、喉元の出血を促した。傷口、口腔、鼻から赤の色の液体が噴出し、落ちてゆく。

 

 

「ブッ……、グ……」

 

 

―――まっ……、ず……

 

 

血の気が失せていくとともに、わけのわからない喪失感が脳裏に押し寄せてくる。肌に生まれたぬるりとした感覚が、早まっていた鼓動の速度をさらに増大させていた。そうして巡りの良くなった血管からは、さらに噴出する出血の量が増えてゆく。

 

 

―――――――――――――――あ……

 

 

視界は白に染まりかけていた。

 

 

「い、いやぁ!」

 

 

―――…………っ!

 

 

だが、そうして意識が苦痛を逃れるかのように虚空の彼方へといってしまいそうになった瞬間、しかし鼓膜を揺らした響の絹を引き裂いたような悲鳴が、私の意識をこの場へと押しとどめる。

 

 

「エミヤさんッ!」

 

 

乾坤に響くかのよう聞こえてきたヒステリックな声にぼやけた意識を向けると、視界には蒼褪めた響がバッグの中から取り出した二つの瓶を私に向けて振りまく場面が映りこんできた。響は、神速とも言える速度で、私に向かって何かを振りまく。そうして振りまかれた二つの何かは空中で混ざると、私の体に触れた途端、瞬間的に光の粒子になったかと思うと、傷口を塞ぎ、あるいは皮膚より浸透した成分が失った血液を補填し、私の傷を癒してゆく。

 

 

「ア……、グ、ハ……ぁっ!」

 

 

ばら撒かれたそれは、ネクタルと呼ばれる、気付けと造血、微かながら傷を塞ぐ効果を持った薬と、メディカと呼ばれる肉体の損失を補填し、再生を促す効能の薬だった。響の体温と周囲の気温のせいでだろう肌に温くなったそれらは、遺憾無く効能を発揮するともに揮発して私の体を光で包み込んでゆく。二つの液体はまた、メディカが持つアルコールの匂いで私の鼻腔と、ネクタルの名を冠する薬が持つ相応しいような甘ったるさをもってして私の舌の上に侵入してくると、気付けの効果だと言わんばかりに暴れまわってゆく。

 

 

「……、ハッ、ッァ、アァッ―――、カッ、グッ! 」

 

 

激烈な刺激とともに、先ほど生まれたばかりの傷口はしかし塞がってゆく。そうして傷口が塞がっていくという感覚に擽ったさを覚え、また、傷口が塞がるにつれて噎せることの出来るというそんな感覚を私が思い出した直後、そこでようやく私の意識は完全にこちらへと引き戻された。

 

 

「ハ―――、カ……、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!」

 

 

二つの治癒の薬の効力によって傷口はやがて完全に塞がり、私はそして思う存分にむせ返る。だが、もう痛みはなかった。血液を地面にまき散らす度に、口と喉元から違和感が失せていっている。それはまさに傷が失せた証であったといえるだろう。

 

 

―――危うく死ぬところだった……!

 

 

「大丈夫ですか!?」

 

「ゴホッ、―――ゴホッ、ゴ……、ホ……ッ!」

 

 

私の命の天秤を生の側に傾けてくれた響という存在に存分に感謝しつつ、私はしかし、彼女の呼びかけに応じられずにいた。なぜならば私は―――

 

 

―――死ぬ……?

 

 

命を救われたにもかかわらず、そんな彼女に対して感謝の言葉を発せないほど、心の坩堝にて暴走している不快な感情を宥めるのに必死だったからだ。

 

 

―――誰が……?

 

 

「エミヤさん……!?」

 

 

―――私が……!?

 

 

「……!」

 

 

気付けば顎部の上下が震えている。そんな無様をみっともないと思う間も無く片手で治った喉元を抑えると、もう片方の手を胸元に添えた。胸に添えた掌からは、先ほどまでより早く心臓が脈打つ感触が伝わってくる。脳から送られてくる何かが、鼓動のテンポを先ほどまで以上に高めていた。

 

 

「エミヤさん!」

 

 

―――私/エミヤが?

 

 

それぞれの掌で、必死に傷口と胸を抑えつけてゆく。

 

 

―――死ぬ?

 

 

それを外に放り出した途端、私はもはやこの戦いにおいて戦闘者として参加できなくなってしまう。

 

 

「おい、おい、エミヤ!」

 

 

この手を離した途端、傷の跡や心臓から、このわけのわからない感覚が抜け出て行ってしまうような、そんな予感が、私にはあった。やがてその何かによってだろう、視界が一瞬だけ真っ赤に染まりあがったその瞬間―――

 

 

―――ああ、なるほど

 

 

かつて我が身で味わったその地獄を幻視したその瞬間、そして私は理解する。

 

 

「意識が混濁している……!? いけない、気を確かに!」

 

 

だって我が身を襲うこの感覚は―――

 

 

「おい、エミヤ!」

 

 

それは、全ての生物が必ず一度は経験するはずの根源的な感覚で―――

 

 

―――これは

 

 

それは沈んでしまえば二度とは戻れぬ、そんな抗えぬ闇に飲み込まれてしまうという、そんな―――

 

 

「エミヤさん、死なないで!」

 

 

―――自分が死ぬかもしれないという、恐怖か

 

 

すべての生物が持つそんな根源的な死に対する恐怖だった。

 

 

―――死ぬ……

 

 

そう。死への恐怖。それこそが先ほど私の意識を呑みこみかけたものの正体であり、そしてまた、今私の心臓の鼓動を早くしているものの正体である。感覚を肉体を取り戻した私は、ようやくそんな正常な感覚を思い出し、そして恐れたのだ。

 

 

「ハ……、ハ……、ハ……」

 

 

―――私が……

 

 

死の恐怖。それこそが今、私の鼓動をあらぶらせて、私を恩人に対して礼の言葉も言えない無様な状態に陥らせている。無論、私は、この世界においても命の危険を感じたことは幾度もあるし、生前にも命を賭して戦って来て、同じくらいひどい傷をおったことも指折りで数えられないほどにある。だが、こんなふうに三途の川にて駄賃を渡すどころか向こう岸に渡る寸前まで行ってしまったのは、この世界に来てから初めての経験だ。

 

 

このような感覚を味わったのは、それこそ今しがた見たように、時計の針を生前のあの赤い煉獄の原初の時にまで巻き戻さねばなるまい。それははるか昔、私が英霊などという死と無縁の存在になってしまってから―――、否、あの原初の地獄の中に置き忘れてしまっていた、そんな感覚でもある。

 

 

―――この世界で、死ぬ……

 

 

「ハ……ッ、ハ……ッ!」

 

 

そうとも、英霊となり不滅となった私は、あの地獄で一度死んだ私は、この感覚のことを久しく忘れていた。だがしかしそうして忘れていたはず死の恐怖を、この生身の体は私に思い出させたのだ。

 

 

―――この世界で、死ぬ……

 

 

「ハ―――、ハァ、ハァ……」

 

 

私はまるで初めて戦場にでた兵士のように、怯えて震えてしまっていた。私の死に瀕して現れたそれはたった一瞬姿を現しただけで、私の魂に冥府と接することの冷たさをこの魂に思い出せて刻み付けていっていた。あの感覚を思い出す度、死の恐怖はその怜悧さを以てして、頑丈な体の内側を刻んでゆく。

 

 

―――せっかく生き返ったのに、何もできずに死んでいく……

 

 

喉元に感じた熱さと共に覚えた冷たさは、冥府のそれに間違いないだろう。そんな死という現象より生み出される冷たさは、私の魂をずたずたに切り裂いていったのだ。

 

 

「ハ―――」

 

 

すなわち今、私は敵の攻撃に対して死の恐怖を覚え、目の前の敵を大いに脅威の対象として認識している。例えばここで一度でもひざを折ってしまえば、湧き出てくる死の恐怖はやがて私の全身を埋め尽くし、包み込み、私があの番人どもと敵対することをやめさせようとするだろう。

 

 

―――せっかく生き返らせてもらったにもかかわらず、誰にもその恩を返せずに、死んでゆく……

 

 

すなわちその時点で、私はこの戦闘において単なるお荷物となる。

 

 

―――正義の味方になれないどころか……

 

 

死の恐怖が思考を捻じ曲げつつあったのか、私の脳裏は抒情にそんな寒々しい予感に支配されつつあった。

 

 

―――誰も助けることが出来ずに死ぬというのならば、果たして……

 

 

「―――」

 

 

―――私がこうして生き返った意味とは、一体、なんだったのか―――

 

 

「エミヤさんっ!」

 

 

だがしかし、聞こえてきた声と体を揺さぶる両手に秘められている思いの暖かさが、そんな我が身と心を支配していた寒々しさをかき消した。

 

 

「……っ!」

 

 

我が身を揺さぶるその声と両手には、他者を思いやり、他者の命を救い上げようとする、そんな暖かさに満ちていた。

 

 

―――そうだ、私は……!

 

 

その両手で誰かを守る。

 

 

―――私は正義の味方になる為にも……

 

 

助けてくれた誰かに、その恩を返す。

 

 

―――私をこうして助けてくれた彼女たちを守るためにも……

 

 

他者の体から我が身に伝わってきた熱が覚悟と決意を思い出させてくれ、私の意識は正常な状態に戻されてゆく。

 

 

―――こんなところで立ち止まっている場合ではない……っ!

 

 

「―――……ッ!」

 

 

そうしてここがどこで、今がどのような状況であるかを完全に思い出した私は、それでも呼吸をすると共に心に生じてくるそんな死への怯えという余計を必死で抑えつけるべく、歯を噛み締めると、片手で顔の下半分を拭うとともに、もう片方の手で口元を覆った。

 

 

「―――ウゥゥゥゥゥゥ……」

 

 

やがて肺の中にあった酸素をすべて吐ききったころ合いを見計らって手を口から離すと、気付けば震えはどこかに行ってしまっていた。私はそしてなんとか体の正常を取り戻してやることに成功する。

 

 

「エミヤッ」

 

 

サガの甲高い叫び声によって、意識が彼へと向けられる。向けた視界の先には、たくさんの心配の表情があった。誰かに心配されている。そんな事実が、我が身を奮いたてる生気となり、体の内側で熱にもなっていっていた。

 

 

「ああ―――、大丈夫だ……、問題な……」

 

 

そうして私は恩人の彼らを安心させるべく、治った喉元をさすり、離すと、我が身の無事を知らせようとする。

 

 

「―――ッ!」

 

 

だが、そうして傷口をさする動作の以前、私は思わず口を押えて、自らの声やその他の余計が漏れぬよう蓋をした。傷痕をさするという動作が、死の恐怖を強く私に思い出させたのだ。体の中に再集結しつつあった熱が一気に霧散する感覚がある。それを防ぐかのようにして離した手を喉元をへと移して擦った。するとなんとも気持ちの悪い生暖かさと、精神から来たのであろう冷たさが心の底から湧き上がってくる。死の恐怖は一度接した者の精神を容易に変質させ、対象者を弱気に陥らせやすい性格にする効力を持っているらしかった。おそらく死水を口に含んだ死者とはこのような気分なのだろう。そんなことを勝手に思いつつ、だが―――

 

 

―――今更、この程度の痛みと恐怖に……

 

 

決めた覚悟が、周囲の向けてくれる心配の視線が私の心を奮わせる原動力となり、生きようとする気力を生んでゆく。体の中では再び死に抗ってやろうとする熱が生まれつつあった。そうして私は体に纏わり付き心中に残る熱を奪ってやろうとする冷たい死神の手を振り払うかのよう、改めて強化の魔術を全身に叩き込み、無理やり我が身を起こしてやる。

 

 

―――負けてなどやるものか……!

 

 

「大丈夫ですか!?」

 

「ああ……、君の適切な処置のおかげで助かった。礼を言う」

 

「あ……、あぁ、よかった……」

 

 

まともに動くようになった口と喉を用いて改めて響に短く礼を述べると、響は胸に片手を当てて、なでおろした。私の安堵を見届けた周囲の彼らからも、安堵のため息が零れ落ちてゆく。

 

 

「ありがとう。――――――もう大丈夫だ」

 

 

その様子に微笑ましい思いを抱きながら気合を入れて立ち上がった私は、思いやりに感謝を送りつつ喉元を抑えていた手を解放し、双剣を投影して常の戦闘態勢へと移行した。私は改めて視線を自らにこのような無様を晒させた輩へと視線をやる。視線を向けると、この部屋の番人であり、すなわちこの新迷宮を踏破しようとする敵を葬り去る役目を背負っているはずの二体からはしかし、こちらを攻め来ようとする気配は見受けられなかった。

 

 

「さて……」

 

 

ヒュドラはその場から動かないままに己の領域を拡大している最中である。また、私を死の淵に追いやった金鹿もまた、その紫の煙に満たされつつある空間の内側で平然とその優美な曲線美を見せつけながら闊歩しているだけだった。

 

 

―――奴らの狙いは何だ……?

 

 

動く気配のない奴らを前に、幾度となく繰り返した自問を飽きることもなく自らへと投げかける。だがしかし答えは出てきそうにない。私は二体の敵がそうして追撃も何もしようとしなかったから助かったのだということを理解しつつも、だからこそ私は、そうしてなぜ奴らが何もしてこないのだろうということを殊更疑問に思っていた。

 

 

「……」

 

 

静寂の時間があたりに訪れる。ヒュドラの毒が地面を溶かす音と、黄金の鹿の爪がまだ固い地面をたたく音だけが、辺りにある音の全てだった。

 

 

「な、なんだったんだ。一体何が起こったってんだ、エミヤ!」

 

 

やがてそんな静寂を嫌ったかのように、あるいはこの中で最も様々な思考を巡らせすぎたため混乱したのか、サガが口火を切って我が身の想いに溜めこまれていたを喚き散らした。彼の喚きに対してもやはり番人の二体は無反応である。

 

 

「―――恐らくだが……」

 

 

そのことに私はさらに疑念を深めつつも、私は彼の質問に対してこれまでに得た情報から導き出した予想を口にする。

 

 

「あの鹿が私の攻撃を反射したのだろう」

 

「攻撃を反射しただぁ?」

 

「ああ……」

 

 

サガが片方の眉を顰めつつ言った。私は敵を見据えながら、しかし一切の攻撃を仕掛けてこようとしない敵の余裕から恐らく積極的な攻撃はないだろうと判断し、しかし油断しないように目線を奴らより切らないまま淡々と予測を述べてゆく。

 

 

「……十二の試練の伝承の一つに、アルテミスがケリュネイアの牝鹿を欲する場面がある。ヘラクレスという英雄が彼女の願いを受けてこの牝鹿を捕縛しようと試みるのだが、この鹿は狩猟の女神の力をもってしても捉えられないほど速く、また、傷つけられることを禁じられていた。おそらく、その伝承が転じて、己を傷つけようとする攻撃には須くの事象として反射を行う、という性質を持つようになったのだろう。ゴホッ……」

 

 

言い終えると治ったばかりのところを多少酷使しすぎたせいか、少しだけ喉に違和感を覚えた。

 

 

―――ッ!

 

 

同時に湧き上がってきそうになる想いを気のせいであると自分にいい聞かせつつ抑制すると、しかしそれでも覚えた違和感と湧き上がってくる恐れを拭い去り切ることできずに片手でさすり、我が身の無事を再確認して、ようやく安堵の想いを得る。

 

 

「なんだよ、そのインチキ!」

 

 

すると私の言葉を聞いたサガは喚き散らした。

 

 

「では、その伝承とやらで、彼はどのようにしてその試練を乗り越えたのだ? 」

 

 

理不尽に怒りを露わにするサガを諫めるようにして彼の頭を抑えたダリが冷静に尋ねてくる。

 

 

「……、ヘラクレスは一年の時をかけて、鹿を疲れさせ、追い込み、捕縛した」

 

 

故に私は、冷静に答え返した。

 

 

「――――――、一年も奴の疲労を待つしかないというのか? 」

 

 

するとぞっとするような結論に辿り着いたダリは、それでも冷淡に絶望の事実を口にする。

 

 

「分からん。傷さえつけなければ、あるいは捕縛することも可能かもしれんが―――」

 

「……わかった」

 

 

その意に応じてこちらも予測を答えると、彼は考え込む素振りをして、のちに頷いた。

 

 

「―――響」

 

 

ダリは言うと、ネクタルを使った後、近くで呆然と我々の話を聴講していた彼女の方を向きなおし、声をかけてゆく。

 

 

「え……」

 

 

響はいきなり己の名が呼ばれたことで少し驚いた様子をしてみせた。

 

 

「―――あ、はい」

 

 

だが彼女はすぐに気を取直して、静かに返事を返してくる。

 

 

「聞いていたな? 状態異常や捕縛ならなんとかなるかもしれんらしい……。ならばつまり、循環型のF.O.Eや、停滞型のF.O.Eを同時に相手にするような感覚で行けばいいということだ。―――いけるか? 」

 

 

そうして最後に発せられた短い言葉には、響という少女が己の意を読み取り的確な判断とともに返事を返してくれるという無言の信頼が込められているようだった。その態度に私は、「ここにきてダリという男はついに彼女を肩を並べて戦うに足る戦友として認めたのかもしれないな」、などと、それを他人事のように暢気に考える。

 

 

「……とりあえず、あいつを状態異常にするっていうのは、多分無理です」

 

 

応じて響は目を伏せて閉じると、たっぷり数秒程もしたのちに開いて、言う。

 

 

「なにせ私の状態異常攻撃は、香によるものです。香の煙は遅く、そして、風によって拡散されやすい。そしてあの鹿は、その動きで尋常じゃない風を生み出します。だから―――」

 

「だがツールマスターである君のフォーススキルなら?」

 

 

響の否定の言葉に、ダリが質問を割り込ませてゆく。ツールマスターである彼女のフォーススキル、「イグザード・アビリティ」は、道具の効力をより発揮できるようにするものだという。ダリはそれを使用することによって、あの鹿を追い詰められないかと聞いているのだ。ダリの提案に、響は一瞬だけ再び思案顔を見せたが、すぐに首を横に振る。

 

 

「たとえばフォーススキルを使ったところで煙の特性自体は変わりません。所詮、香は煙です。遅い煙では、あの鹿の速さに対応できない。フォーススキルと使えば、あるいはあの鹿を追い詰められるほどの範囲に香をばら撒けるかもしれませんが、仮にそれが可能だとしても、そんな範囲にばら撒いてしまったら、こちらにまで被害が及んでしまいます」

 

「ま、そもそもあの無機物も溶かすわけわからん毒が効かない相手、それ以下の効力しか発揮できない香が効くとも思えないしな」

 

 

響の言葉と判断に、サガが援護をするように言った。

 

 

「ならば糸はどうだ?」

 

 

すると、状態異常で敵を追い詰めるのを諦めたらしいダリが、すぐさま別の提案をする。

 

 

「たしかに糸を使えば、捕縛することはあるいは出来るかもしれません。―――けど……」

 

「それが攻撃と認められなければ、か。どうだエミヤ」

 

 

言い淀んだ響の意思を汲み取ると、ダリは再びこちらを見て尋ねてきた。

 

 

「鹿はヘラクレスによってを捕まえられた後、轡をかけられ女神の戦車を引く事になったという。ならば道具であっても、「拘束」「捕縛」という手段なら、あるいは有効かもしれん」

 

 

私は彼女らの意見から導き出された結論を、私の記憶にある伝承と照らし合わせると、頷いて言った。

 

 

「やった……!」

 

 

私が言い終えた途端、それを聞いた響の顔が明るく輝く。

 

 

「よっしゃ、それなら」

 

「その方向性でいきましょうかね」

 

 

喜びの表情はすぐにサガやピエールにも伝播して、彼らも同様の反応をして見せた。

 

 

―――もっとも……

 

 

だが、ある懸念が私を彼らのように喜ばせてはくれずにいた。何せ、彼らの用いる「縺れ糸」という捕縛の道具がその効力を発揮するためには、それが相手と接触していなければならないのだ。すなわち―――

 

 

―――君らがあの鹿の速度に対応できれば、の話ではあるのだが

 

 

「ならそれでいこう。響。足を対象とした縺れ糸はいくつある?」

 

 

そうして心中に湧き出てきた彼らの能力に対する疑念の言葉を私が口に出す前に、ダリが珍しく唇を枉げて喜びをあらわにすると頷きつつ、言う。

 

 

「三個。それで打ち止めです。一回はフォーススキルで出来ますが、二つも同様にフォーススキルで使用するとなると、ちょっとだけ時間を稼いでもらうことになります」

 

 

応じてすぐさま響が答えた。

 

 

「十分だ。ではそれでいこう」

 

「ダリ。で、どうやってあの鹿の足を止めるつもりだ?」

 

「フォーススキルを使う。『完全防御』ならば一時的に奴の足を止めることが出来るはずだ」

 

「なるほど……、悪くねぇな」

 

「ま、鹿が攻撃してきてくれれば、という注釈は必要でしょうけどね」

 

「おい、ピエール。お前はなんでそう、気を削ぐようなことを言うんだよ」

 

「そうならないように気を付けよう。―――では、それでいいな」

 

 

ダリが話を纏めると、三人は合わせて頷き、ダリは次いで私の方を向き、口を開いてゆく。

 

 

「エミヤ。そういうわけだ、私と響が鹿を追い回し、何とかして鹿の足を止めてみせる。君は鹿が足を止めた隙を狙って、ヒュドラの首を叩き落とし、サガは予定通り雷撃でヒュドラの傷口を焼いてくれ。ピエールは回避の補助と素早さの援護を」

 

「はい」

 

「よっしゃ、了解」

 

「了解しました」

 

 

そして私が返事をする間もなく、響は素直に、サガは意気揚々と、ピエールは淡々と返し、動き出す。私の知識や予測をもってして組み立てられた作戦であるというのに、彼らの態度には迷いがなかった。それは彼らが私という存在を無邪気なほどに信頼しているという証に違いなく。

 

 

―――しまったな……

 

 

だからこそ私は言いそびれたことがあるということを口にしづらかった。

 

 

「さて、響……。とはいえ、私たちだけであの鹿を捕縛するのは相当難しいだろう」

 

「そう……、でしょうね。――――――でもやらないといけないこと、なんですよね」

 

「ああ」

 

「うん……―――、じゃあ、やりましょう」

 

「うむ。ともあれ、まず、私が奴に対して突撃し、何とかして鹿から攻撃を引き出そう。動かないあの鹿といえど、流石に近づかれれば、攻撃をしてくるはずだ。そして『完全防御』ならばその突進の勢いを止められるはず。君はそして生まれるだろう隙を狙って―――」

 

「糸を使うんですね!」

 

 

だが、彼らは私を信じ切って、私の差し出した情報から導き出した作戦に命を賭けようとしている。それは間違いなく私の実力や人格、そして私が差し出した知識を信じきっているが故のものと言えるだろう。

 

 

―――彼らの実力と提案を信じてはやりたいが……

 

 

誰かから無条件の信頼を得る。普通に考えるならば、それは間違いなく喜ばしい出来事と言えるだろう。しかしその時の私はある懸念からその作戦は失敗するだろうと冷静に考えており、喜ぶどころの状態ではなかったのだ。

 

 

なぜならば。

 

 

―――無理、だろうな

 

 

この作戦の鍵はダリと響の二人があの黄金の鹿を追いかけ、追い詰め、捕縛することにある。だがその鹿は、ヘラクレスというチーター並みに早い半人半神の超人の足から一年は逃げることを可能にするだけの脚力を持っているのだ。

 

 

―――なにせ、彼らは普通の人間だ

 

 

すなわち、あの鹿はF1のマシンのようなものといえるだろう。

 

 

―――そうとも

 

 

そう。あの鹿と彼らの速度にはF1マシンと普通の人間ほどにも差がある。だからこの度のダリと響の挑戦はすなわち、サーキットを駆け回るF1マシンに対して人間の足で追いつこうとするような愚行と言って過言でない。

 

 

―――彼らは元英霊である私とは違う存在なのだ

 

 

元のスペックが違いすぎている。どれだけ足掻こうが普通の人間の足ではF1マシンに追いつけないのとおなじだ。ならば追いついて捕らえようなんて言うのは、正気の沙汰でやれることじゃない。どう考えてもこの作戦は失敗する。だからこそ私には彼らのように喜ぶなんてことは出来なかったのだ。

 

 

―――このままでは彼らが犠牲となってしまう

 

 

「喜んでいるところ悪いが、言っておくことがある」

 

 

そうして慌てた私は、喜ぶ彼らに水をさす覚悟をして、言った。

 

 

「なんだ?」

 

 

焦燥から生まれた私の言葉に、ダリはいつものように憮然とした顔で問い返してくる。そうして平生に彼が浮かべるようなものへと戻った顔から判断するに、私の言葉によって彼の中には不安の想いが生まれたようだった。

 

 

「……君たちの覚悟は十分に理解した」

 

 

―――悪いな……

 

 

私は少しばかり躊躇した。だが、このまま作戦を実行しても失敗が待ち受けているだけである。だから私は思ったことをそのまま述べることにした。

 

 

「だが、ダリ、そして響。それはやめておいたほうがいい」

 

 

述べた言葉によって一同の顔から喜びが波引くよう消えてゆく。押し寄せる罪悪感を味わいながらも、それでも私は彼らのためを思い、言った。

 

 

「まずダリ。盾とスキルで鹿の突撃を止めると言ったが、そもそものところ、君の反射神経ではあの鹿の速さに対応できないことが先程証明されたばかりだろう?」

 

 

なぜならそれは、元はと言えば私が言いそびれたことにより発生してしまったぬか喜びの結果だったから。

 

 

「加えて、この広さだ」

 

 

一言ごとに、彼らの顔には翳りが生じてゆく。

 

 

「もし仮に君が必死になることであの鹿の動きについて行けくことが出来て、あるいは鹿がうっとおしがって君に攻撃を仕掛けようとすることがあって、万が一響が糸を使う機会がやってきたとしても、君たちが攻撃を仕掛けたその時、きっとあの鹿は君たちのそんな捕縛の意思にすぐさま気付き、そんな戒めのための攻撃から瞬時に逃れ、広い部屋の奥へと遠ざかっていってしまうだろう」

 

 

そうして私の言葉に彼らの顔が苦しみに染まっていくのが、私にはつらかった。

 

 

「また、それに追いつくだけの身体能力が、君たちにはない」

 

 

 

それでも私は、彼らを勘違いさせてしまった人間として、彼らに命を救われた人間として、真実を伝えなければならない義務がある。

 

 

 

「すなわち、君たちの今の能力では……」

 

 

そう、それでも私は、彼らを守るため―――

 

 

 

「あの鹿を捕縛してやることは、不可能だ」

 

 

先ほどに述べた自らの言葉を否定するような宣言を、私はそれでもする。

 

 

「ならば……」

 

 

 

それに対してダリは不機嫌さを深めつつ、しかし私の言葉に対して一定以上の理解をしてくれたのだろう、少しばかりいいよどむと、そんな矛盾を唇を噛む事で表現すると、直後、いかにも悔し気に目元を歪ませて、こちらを睨め付けてきた。

 

 

「ならば、どうしろというのだ!」

 

 

そうして彼はここに来て初めて感情を露わにした叫び声を、大きくあげたのだ。

 

 

 

「『万が一にも不可能だ』、と―――」

 

 

 

それは間違いなく、彼の心の奥底からの叫びに違いなく。

 

 

「ああ、そんなこと、百も承知だ!」

 

 

 

そうして弱音を叫ぶ彼の表情は、とても苦しみに満ちていて。

 

 

 

「だが、それでも、やらねばならぬ時がある!」

 

 

 

だからこそ、何処までも嘘というものが感じられなかった。

 

 

「無茶だろうが無理だろうが、意地と無謀を押し通さなければならない時がある!」

 

 

 

真摯な思いに満ちた言葉は迫力にも満ちていて。

 

 

 

「だって、私は死にたくない!」

 

 

だからこそ反論を言葉を述べようなんて、考えにも浮かんできやしなかった。

 

 

 

「死にたくないからこそ、こうして必死に計画を立てている!」

 

 

―――否

 

 

 

「だというのに、何故君はそうやって、必死な他人の意見を否定することばかり言うんだ!」

 

「―――……っ!」

 

 

 

反論の言葉が浮かばなかったのではない。

 

 

 

「何故、初めに出てくる言葉が、いや、とか、違う、とか、そんな否定の言葉ばかりなんだ!」

 

 

 

―――違う

 

 

 

「そうだ! 君は他人どころか、まるで自分が生きているこの世界すらも拒絶している!」

 

「―――」

 

 

 

その言葉は、的確に私の心の影を見事に撃ち貫いていて。

 

 

 

「なんなんだ、君は! 君はこの世界にたった一人で生きているつもりなのか!?」

 

「―――」

 

 

激情のままに伝ってくるその言葉の数々はまた、使うと宣言しておきながら使用を躊躇していた私のある魔術の特徴をよく捉えていた。

 

 

「この広い世界で王様気取って、独り善がりか! 強いだけで君はそんなに偉いのか!」

 

「―――」

 

 

 

だからこそ私は、反論のしようがなかったのだ。

 

 

 

「えぇっ、なんとか言ってみろ! ―――おいっ……、エミヤッ!」

 

 

 

―――あぁ……

 

 

 

続く名指しの言葉が断罪の刃となり、私の心はここでない何処かへと飛ばされてゆく。

 

 

 

「君は私たちに何もするなと言うのか!?」

 

「……」

 

 

 

私にとって今やその言葉は彼から発せられたものでなく。

 

 

「君は私に、あの化物を前に―――」

 

 

この世界に生きる、すべての人間の代弁に他ならなかった。

 

 

 

―――いったい、私というやつは……

 

 

「ただ座してシンのように死んでゆけとでもいうのか!?」

 

 

彼の言葉に私は瞬時、気付かされてゆく。

 

 

 

―――なんという思いあがりをし続けて……

 

 

「そうだ!」

 

 

 

英霊と。

 

 

「君の言葉は、私たちに死ねと言っているのと同じなんだ!」

 

 

 

そう呼ばれるようになった自分は、そんな終わりにたどり着いてしまった自分は、だからこそいまだ旅路の途中の彼らを守らないといけないと、そう思い込んでいて。

 

 

 

―――何度同じ過ちを繰り返して……

 

 

「君にとても強い力があるのはわかる!」

 

 

 

だからこそ私は、なんとしても彼らを守らぬと、頭からそう決めこんでいた。

 

 

―――何度こうして他人を傷つけてしまえば気がすむのだろうか……

 

 

 

「ああ、間違いなく君は、今のこの世界の人間で最強の存在だろうさ!」

 

 

破りたくない誓いが、この胸にあり―――

 

 

 

「だからこそ君の言葉は間違いなく正しいのだろう!」

 

 

 

―――誰をも守れる正義の味方になってみせると、そう心に決めた

 

 

 

「だが!」

 

 

 

だが―――

 

 

 

「それは君と君の見ている世界にとってのみ正しい結論だ!」

 

 

 

―――……そう考えること自体が、誰かの世界を否定することに直結している

 

 

 

それは結局、自分の正義を相手に押し付けるだけの行為だ。

 

 

―――私はそんな結論に、何度だって到達した

 

 

「その正しさは私たちを―――」

 

 

 

私にとって正しいだけの結論は、私以外の誰をも救わない。

 

 

 

「私を救ってくれるものではない!」

 

 

―――そんな単純な結論に何度も気づきながら、しかし私は、それでもそれを正せない

 

 

 

「君のそれは、私に何もせず死ねといっているのと同じなんだ、エミヤ!」

 

 

 

否。

 

 

 

「そうやって君の正しさに従って、結果、このまま何もせず死ぬのだとしたら―――!」

 

 

 

―――自分のこの正義が誰かにとっては間違いにかもなんてことはわかっている

 

 

 

「だとしたら―――」

 

 

 

だとしても―――

 

 

 

「私たちは一体、何のためにこんな迷宮の奥くんだりまでやってきたというんだ!」

 

 

 

―――わかっていながら……

 

 

「だとしたら、私はなんのため衛兵なんかに―――」

 

 

 

それでも私は、同じ過ちを何度も切り返してしまう

 

 

 

「このギルドのパラディンになった意味があるっていうんだ!」

 

 

 

―――否

 

 

「何もせずに死んでなんていきたくない! これが私の心からの望みなんだ!」

 

 

 

私は何度だって、心から望んで、自ら同じ過ちを繰り返す。

 

 

 

「そうだ!」

 

 

―――そうだ

 

 

 

「何度だってくりかえしてやる!」

 

 

 

私はそんな自らが愚かしくも過ちを繰り返す理由を、よく知っている。

 

 

「私はまだ死にたくない!」

 

 

 

―――だって私は

 

 

 

「私はまだこの世界に生きていたいんだ!」

 

 

自分という存在がこの世界で生きるに足る証が欲しい。

 

 

「まだ死にたくなんてないし―――」

 

 

 

―――あの火災で他人を踏みつけながらも一人生き残ってしまった

 

 

「死にそうな仲間を見捨ててまで生きていくのもイヤなんだ!」

 

 

 

だから、困っている人を助けずにはいられない。

 

 

「だってそんな痛み、私は耐えられそうにない!」

 

 

 

―――誰かの命を蔑ろにしてしまった

 

 

「君は私に、またあの痛みを感じろと―――」

 

 

罪深き自らは、だからこそ世界に存在していてもいい意義が他人より与えられたい。

 

 

 

「死ねと、そういうのか!」

 

 

 

―――それでも、生きたい

 

 

 

「私は死ぬのなんてもう、真っ平御免なんだ! 」

 

 

 

だからこそ私は、困っている誰かを見つけた途端、まるで羽虫のように飛びつくのだ。

 

 

 

「私は死にたくなんてないんだ!」

 

 

―――そうとも

 

 

 

「私はこんなところで死にたくなんて、ない!」

 

 

 

そうだとも。

 

 

 

「私は、こんな場所で死にたくなんてないんだ!」

 

 

 

―――私は、どうしようもなく、この世界に生きたがっている

 

 

 

「この願いは強い君にとって愚かしいかもしれないが!」

 

 

 

 

何とも愚かしく、女々しく、救い難いことに、私は他者の願いを踏みつけて、それでも自分がこの世界に生きている理由がどうしても欲しいのだ。

 

 

 

「馬鹿で弱い男の戯言だと強い君は嗤うだろう!」

 

 

 

―――馬鹿で愚かな男の弱さから生まれた想いだということは重々承知しているが……

 

 

 

「私だってこんな臆病で他人の気持ちに鈍い自分、なんど嫌気がさしたかわからないさ!」

 

 

 

治そうと思った事だって、何度あるかわからないが。

 

 

 

「でも!」

 

 

 

―――けれど

 

 

 

「これが私なんだ!」

 

 

 

そうして理解している過ちの理由はしかし、今も昔も、私の生きる意味そのものなのだ。

 

 

 

「どうあがいても、私には自分を変えることが出来なかった!」

 

 

 

―――そうとも

 

 

 

「何をしたってすでに凝り固まった自分ってものは、変わってくれなかったんだ!」

 

 

 

私は、今やすでに心象風景としてある魔術の背景になってしまうほどに凝り固まった己の思考を変える術というものを持ち合わせていない。

 

 

 

「それでも!」

 

 

 

―――それでも

 

 

 

「私はいきたいんだ!」

 

 

 

私は、生きたい。

 

 

「私はこのギルドのパラディンなのだ!」

 

 

 

―――生きて正義の味方になるという夢を叶えたい

 

 

 

「それだけが、今の私が生きるための唯一の意味なのだ!」

 

 

 

その願いと矜持のために、私は何度だって自ら望み、同じ過ちを繰り返す。

 

 

 

「もし私が間違っていて、君の方が正しいことを言っているとしても!」

 

 

 

―――いつまでも間違ったままでも

 

 

 

「それでも!」

 

 

 

それでも。

 

 

 

「それでも私は、パラディンでありたいのだ!」

 

 

 

―――それでも私は、正義の味方になりたいのだ。

 

 

 

「だから私は止まれないんだ!」

 

 

 

だから私は、止まれない。

 

 

 

「だから私は止まれないのだ!」

 

 

 

―――だから私は止まれないのだ

 

 

「何故なら!」

 

 

何故ならば。

 

 

「私はこのギルドのパラディンなんだ!」

 

 

―――この世界で、正義の味方になる

 

 

「それだけが唯一、この臆病な私が、この世界に生きているための理由なんだ!」

 

 

 

それこそがエミヤシロウという愚かな存在がこの世で生きてゆくために必要なただ一つの意義であり、自らという愚かな存在がこの世にある事を許せるたった一つの存在理由なのだから―――

 

 

 

 

 

咆哮。

 

 

「おぉ……っ、おぉぅ……っ!」

 

 

直後に訪れた一瞬の静寂の後、ピエールが感極まったかのように笑顔で絞り出した声をあげ、白魚のような指で竪琴をかき鳴らした。その心からの喜びに歪んだ表情を見るに、どうも感受性の高い彼は、ダリの魂の奥底からに感じ入るものがあったらしい。

 

 

「ダリ……」

 

「ダリさん……」

 

 

加えて、サガと響の態度から、恐らくその冷静を平生の態度とするダリがこのような憤怒と無念が混じったような弱気の言葉を激情と共に発露するのは、私の前だけでなく、彼らの前でも初めてのものなのだろうと勝手に推測する。

 

 

「ハッ……、―――ハッ……、ハッ……!」

 

 

一方、そうして呻くようにして心情のすべてを吐露してしまったのだろうこの異邦人というギルドで最も背の高いはずのダリは、奇しくも私が用いる投影品と同じ名前と似た姿を持つピンクの大盾「アイアス」を腕の横で所在なさげに揺らし、金属鎧を纏った肩を大きく上下させていた。

 

 

 

―――あぁ、彼は……

 

 

今や彼は、エトリアで一番の守護職と呼ばれていると思えないほどに、弱々しい雰囲気を纏っている。

 

 

 

―――彼はまるで、あの時の自分だ……

 

 

 

いつもならピッチリと整えられている黒髪を振り乱して叫んだ彼は今や、私よりも小さい彼らの中で最も小さい人間のようだった。

 

 

 

―――彼は今、自分が落ちていたあの地獄にいる

 

 

 

ダリというエトリア一の守り手であるはずの彼は、しかし今やいかにも目の前の絶望が現実の自分たちを押し潰すことを恐れている。そんな彼の様子は、すぐ近くにまでやってきている死の脅威に怯える子供のようにも私には見えていた。だからこそ彼のそんな態度に私は、過去の記憶と想いが強く刺激される感覚を得させられたのだ。

 

 

 

「ハァ……、ハ……ッ!」

 

 

 

―――彼はまさに、あの時の自分に等しいのだ……

 

 

 

「……パラディンの役目は逃げる敵を追いかけ、追い込むことではない」

 

 

 

だからこそだろう捻くれ者のはずの私はしかし、意地の悪い言い方をしてしまったな、と、素直に反省することができたのだろう。

 

 

 

「パラディンに求められる役目は守護であり、襲いかかる脅威から誰かを守ってやること……」

 

 

 

―――だからこそ私にも、彼が今、どれほど傷ついているのかわかるのだ……

 

 

 

「そうだろう、ダリ」

 

 

 

そして私は、落ち込んだ子供を慰め諭すよう、静かに言い返す。

 

 

 

「……!」

 

 

差し伸べられた励ましの言葉が意外だったのか、ダリの―――否、皆からの視線が我が身へ集中する。

 

 

「獲物を弓矢で追い詰めるのは、アーチャーの―――、この世界風にいうなら、レンジャーの役割だ」

 

 

 

応じるかのよう覚悟を告げてやると、彼らの視線は揃って驚愕のものへと変化した。

 

 

 

「―――エミヤ……」

 

 

 

さなか、今しがたダリという男が見せたその様は、いつか私が過去の自分と切り結びあった時に私がやった自らの裡に秘めていた激情を撒き散らす無様な姿によく似ていて。

 

 

 

「お前……」

「エミヤさん……」

 

 

そしてまた、そんな彼らの間抜け面は、まるでいつぞや遠坂の屋敷で彼女と世界平和について問答を繰り広げた時に私が浮かべたそれともよく似ていた。

 

 

 

「いやぁ……」

 

 

 

―――否

 

 

 

「同じ想いや経験を共有する仲間っていうものは、良いものですねぇ……」

 

 

 

そう。

 

 

「―――そうだな」

 

 

 

―――彼らはまさに、あの地獄の炎に包まれたときの私なのだ……

 

 

「卑しくもこの私は、今、しかし君たちの仲間であるつもりだ」

 

 

 

だから―――

 

 

 

 

「―――だから……」

 

 

 

―――そう、だから

 

 

「―――私が、やろう」

 

 

だからこそだろう、そんな彼らとのやり取りは私の思い上がりを一時的に鎮める効力を発揮して、気付くと私は、毅然とした態度で胸を張り、周囲の彼らを眺めて言い切っていた。

 

 

「私が、あの鹿の捕縛を担当する」

 

 

 

続けざまに述べた言葉で、さまざまな思惑が宿っていた彼らの視線は共に暖かい信頼の念に満ちたものへと変わってゆく。

 

 

 

「然るに、君たちにはその援護を頼みたい」

 

 

 

彼らから向けられる日向の中で揺蕩うような温かさの宿った視線は、私の中にあった自己嫌悪や自責の念を残さず吹き飛ばし、決意と覚悟の温度を沸騰させる効力を持っていた。

 

 

「私が真の切り札を使用して―――、この戦いの全てを支配してみせよう」

 

 

―――私は、全霊の力と覚悟をもってして、目の前にある命たちだけは何としても拾い上げてみせよう……!

 

 

そうして確固たる決意や覚悟とともに述べた言葉は、周囲にすべての時間を一瞬だけ奪う効力を持っていて。

 

 

 

「――――――」

「――――――」

 

 

 

瞬間の空隙の直後、発した言葉に応ずるかのよう、ヒュドラの体はその蠕動を止め、鹿は闊歩を止めた。

 

 

 

―――困っている人が目の前にいる

 

 

 

そうして毒煙や舐め腐った余裕を撒き散らしていた二者の瞳には今や、「何をするつもりだ」、という疑念がありありと浮かび上がっている。

 

 

「―――固有結界」

 

 

 

故に私は、ニヤリと笑いつつ、答えを返してやった。

 

 

―――すぐそばにいる人が、誰かに助けを求めている

 

 

「――――――――――――――――――――――ッ!」

「―――――■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

 

 

すると直後、番人たちはまるで十数秒先に待つ己の未来を恐れるかのように、揃って嘶く雄たけびをあげてくる。

 

 

 

―――誰かの命が、失われようとしている

 

 

 

「うぉっ!」

 

「おおっと、これはこれは……」

 

 

 

―――誰かが目の前の脅威に怯えている

 

 

「クッ……!」

 

 

 

ならば。

 

 

 

「クソッ! 流石にこれだけ隙を見せれば、当然の結果か!」

 

 

 

―――そう、ならば

 

 

 

「―ッ!」

 

「■ッ!」

 

 

 

そんな脅威の前に身を晒して。

 

 

 

「ひっ……!」

 

 

―――脅威を前にして怯える彼らが漏らす小さな悲鳴を一切見過ごさずに

 

 

 

「―――くっ、くくくっ……」

 

 

 

抑えきれない想いから生じる笑顔を浮かべつつ誰かを助けに行くその姿こそ、私の目指した正義の味方というものの在り方だ……!

 

 

 

「あ、あは、あはっ、あははっ、あはははははっ……!」

 

 

 

―――グルグルと彷徨って、結局たどり着いたのはかつてと同じ答えで……

 

 

「うぉっ!?」

 

 

そうして蘇った自分は、過去のあの地点に戻ってきただけなのかもしれないが……。

 

 

「―――弱い犬ほど良く吠えるというが、どうやらその法則は貴様らのような害獣にも適応できるらしいな」

 

 

 

―――それでも構わない

 

 

 

「え、エミヤさん!?」

 

 

 

私が彼らの前で初めて直接的な毒含む言葉述べたことにだろう、響が驚いた顔を浮かべてくる。

 

 

 

―――どうやら私の言葉の毒は、あのヒュドラすら凌駕するらしい

 

 

「くっ、くっ、くくっ……」

 

 

 

そんな彼らの反応に、笑いを漏らすのが止れられない。

 

 

 

―――さて、他の二人はどんな反応を見せてくれるのだろうか……?

 

 

 

「―――」

「―――〜〜〜ッ!」

 

 

 

そうして意地悪い想いとともに振り向いて他の二人へと視線を移すと、表情を硬直させるダリと、何かを感じ取ったのだろう期待に顔を綻ばせるピエールが、視界に映り込んでくる。

 

 

 

―――いい反応をしてくれる……

 

 

「―――では行くとしようか、諸君」

 

 

 

―――ならばせいぜい、その期待に応えるとしよう……!

 

 

 

そうして意地悪い想いとともに出てきた言葉は、しかし先程までの決意を覆すような誰かの助けを求める言葉で。

 

 

「久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要する」

 

 

でも、そんな言葉を自然と口にできた自分が、とても誇らしかった。

 

 

「悪いが今までの様な援護は期待してくれるなよ」

 

 

 

そうして私は誰かの期待に応えるため、はっきりと宣言する。

 

 

―――ならば……

 

 

「何があろうと、私があの番人たちを倒してみせる」

 

 

 

決意によって鼓動は熱く胸を打っている。

 

 

 

「だから―――」

 

 

―――そうだ……っ!

 

 

 

「だから―――、だからどうか、代わりに、君たちの力で私を守り抜いてほしい。君たちの力を、どうか、この私に貸して欲しい」

 

 

 

しかし反比例するかのように、何処までも心は冷静さをたもっている

 

 

 

―――あぁ……、そうだとも……っ!

 

 

 

「お―――」

 

 

 

だが、失われたこの身の熱を補うかのように、熱こもった四つの視線が再び敵の方振り向いた我が背中へと集中する。

 

 

 

―――どんな手段を使ってでも脅威に怯える人を助けてみせる……!

 

 

 

「「「「オォ――――――――――――ッ!」」」」

 

 

 

続けざまに放たれた一糸乱れぬ雄叫びは、死地にいるものたちが放ったとは思えない、なんとも頼もしいものだった。

 

 

 

―――それこそが、かつて私の憧れた正義の味方の姿なのだから……!

 

 

 

「私はこの世界にいる彼らとともに生きてゆく―――」

 

 

 

だからこそ私は臆せずに、大地を踏みしめながらいう。

 

 

 

―――だからこそ……

 

 

 

「さぁ―――」

 

 

 

それは私がかつて英霊時代にあったような冷静さと強さと、そして生前に抱いていた矜持を取り戻したという何よりの証に間違いなく。

 

 

 

―――この取り戻した正義への想いの下、私は私の身に宿るすべての力を、彼らを守るために解放しよう……!

 

 

 

「ではいこうか、番人ども―――」

 

 

 

だからこそもはや、私の心に燻っていた多くの迷いなど、しかしもう一ミリたりとも残ってなどいなかった。

 

 

 

―――だって、それは当然だ

 

 

 

「試練の貯蔵は十二分か……!」

 

 

 

宣言が静かにこだまする。

 

 

 

―――だって、誰かを守りたいというこの想いに、間違いなんてないはずなのだから……!

 

 

 

世界は英霊エミヤの完全復帰を祝うかのように、凛然とした雰囲気をもってして応答してくれた。

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