Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 改訂版 作:うさヘル
第十五話 迫る刻限、訪れる闇夜 (三) ―復活、そして…―
結局……
結局、この世界は何も変わっていなかった―――
変わったのは……
*
茜色の空。地平の彼方に浮かぶ巨大な歯車。世界の端まで続く剣の突き立つ荒野。他人の正義と願いを抱えてただただ無意味に生涯を走り抜けた、贋作の英霊たるエミヤと言う存在のもつ、唯一の真作と呼べる、なんとも皮肉の象徴のような宝具。
―――禁忌の大魔術、固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」
地面に突き立つ剣は、その全てが、私が生涯において一目見た際、この世界に登録され生まれ落ちた贋作に過ぎず、しかし、この世界においては真作に等しい存在だ。ただ剣を登録し贋作を生み出すだけなら見た剣を無限に劣化コピーし保管する世界を作り上げるというに過ぎなかったチンケで大業なだけの魔術は、生前と死後、私が、多くの英霊が集う神話世界をも含む戦場を渡り歩いてきたことで、聖剣、宝剣、魔剣等の、かつての人間世界におけるほぼ全ての伝説の武器を内包する、まさに大魔術と呼ぶにふさわしい奇跡の技へと変貌している。
―――たとえこの世界がどう変わろうと……
世界を己の心象風景にて書き変える大魔術を、その、かつての世界に生きた多くの人の願いが込められた希望と絶望の力を借り受けて贋作として再現し、宝具本来の所有者当人すら真なるものと勘違いせしめるほどの再現をして見せる、いかにも他人の想いを借りなければ所詮は空っぽの自らの心を見せ付けなければならないこの不遜な大魔術を、私は好ましく思っていなかった。見たいと思ってなどいなかった。だからこそ私は、今までこうして出し渋っていた―――わけだが。
―――私は私だ。その事実は何も変わらない
それでも新たなる一歩を踏み出していくのだという決心と共に発動した。己の心象風景にて世界の一定範囲を書き換える魔術は、この世界を私の世界へと書き換えて、「異邦人」の全員と敵意を露わにする番人たち、つまりは、この場にいる生命体全てを飲み込んだ。突然の変化に驚いたのか、あるいは空間に満ちる威と圧に呑まれてくれたかのように、私以外の全員が動きを止めて英霊エミヤの象徴を無言で眺めている。
―――さて……
何を思っているのかは知らないそんな彼らには目もくれず、私は久方ぶりに解放した己の世界をようやく見渡した。瞼を開ければ以前と変わらぬ景色が広がるこの心象世界を見て、私は―――
―――ああ……
少しばかり落胆の気持ちを抱く。
―――変わらない……
変わろうと決心しようが、負の感情を食われようが、知人の死に立ち会おうが、世界の真相を知ろうが、この光景は今も昔も何一つ変わっていなかった。
―――一度英霊という不変の存在になってしまった私は……
生の気配がまるでない生命の変化を拒むかのごとき一面枯れ果てた野も、犠牲にしてきた人を偲ぶ墓標の如く荒野に並ぶ剣群も、正義の味方になりきれず、さりとて諦めきれない慚愧の境地にあることを示すかのような後悔色の黄昏空も、その空の中で寸分狂い無く回り続ける必死に正義の味方たらんと心がけを象徴するような歯車も、何一つ変わらず昔のままで―――
―――いつまでたっても、変わらない……
その様を前にして思わずため息が零れ落ちてゆく。どんなに変化の決意をしても、どんなに他人を受け入れようと決意しても、やはりまるでこの風景は変わらない。そうそう変わってくれなどしやしない。
―――当然ではあるが……
当たり前だ。覚悟や決意をした程度で変わる自己なら、自分という無茶をやる男はすでに世界の中で理想に溺れて溺死してしまっていただろう。そう。私はかつて、確かに過去の自分との決闘によって過去の思いを取り戻した。過去の誓いを思い出した私はそして、遠坂凜という存在によって拾い上げられ、新たなる世界で新たなる一歩を踏み出した。
―――生まれ変わったとしても……
そうして私が踏み入れた新たなる世界は、誰もが誰かのことを気遣っている、私にとって理想郷のような場所だった。だってここには、誰かを傷つける悪党がいない。取り返しのつかないことをやらかすか馬鹿がいない。しかしだからこそもはやこの世界は、私などという存在がいなくとも成り立っている。だからこそ私は、この世界において、正義の味方などという存在が必要なのだろうかと、強く懊悩させられた。
―――そこが理想の場所であったとしても……
はたして自分がこの世界に生まれた意味はなんなのか。誰かの助けとなれない英霊エミヤに、いったいどれほどの価値があるというのか。そんな悩みを得た私は、かつての自分でなくなった。誰もが私を否定しない。誰もが私を受け入れる。私が正義の味方を目指す原点となった罪悪感は、世界の裏側に潜む存在によって食われて失せてゆく。つまりもはや私が正義の味方になる理由なんてもはやない。だからこそ私は、私などという罪深き存在がこの世界に存在していていいのだろうかと、居場所を求めて彷徨った。そうして迷子になった私は、しかしこんな私を追いかけてくるそんな存在たちと出会い、失い、果てに共通点を見つけ、この世界にも居場所を見出した。だからこそ守ろうと決意した。だからこそ変わりたいと強くそう願った。だが―――
―――私は私なのだ
結局、変化とはこれまでの積み重ねの結果に生まれるもの。どれだけ罪悪感が消え失せようと、どれだけ変わりたいと願おうと、変化は自分がそれまで積み重ねてきた知識と経験との中よりしか生じない。どうやっても無から有など生まれてこないのだ。
―――それでも期待をしてしまったのは……
だからこれは、英霊エミヤという存在が、ただ、理想に燃えていた若かりし頃の自分に戻ったということにすぎないのだ。私は確かにダリという男との接触によって、かつての思いを取り戻した。だが結局それは、かつてこの未来世界に来て自我や自己の矜持というものを失い、精神のぐらついていた私が、この未来世界へとくる前の自分というものを取り戻して安定したという、ただそれだけの話なのだ。
―――彼らとの交流によって自分の心象風景は変わってくれているはずだとそう思えてしまったのは……
そうとも。自分をただ受け入れてくれる同類と交流をするだけの存在に、進歩などありえない。自らの世界にない、時にはそれまでの己を否定しかねないものを手に入れるからこそ、自らの世界というものは呼応して、対応するためにそんなないものを取り込んで広く強く変化してゆくのだ。結局、自分や自分と似たような存在とのやりとりで取り戻せるものなど、過去の自分が忘れていたものにすぎない。だからこれは、進歩ではなく、ただの回帰にすぎないのだ。そんな当たり前のことにきっと気付いていながら、しかしそれでも自分へと過剰な期待を寄せてしまったのは―――
―――未練……、か……
いなくなった彼女への想いが、そんな彼女を含めた多くの人にこの身が救われてきたという事実があったせいだろう。
「―――……まぁ、いい」
残念の言葉を呟くとともに、周囲を一瞥して静かに目を閉じた。胸に到来する無念と寂寞と荒涼の思いに呼応するかのよう、荒野に一つの疾風が吹き抜ける。風に含まれる微熱の正体は、おそらく自己の変化を諦めきれない情念の証だろう。
―――私の望みなど、今は関係ない
感傷は一瞬。胸の裡に生じた切なさを薄れさせるかの如く大きく息を吸い込むと、到来した風に載せるかのようにして思いごと世界に言葉を生んでゆく。
「―――これが私のもつ切り札。固有結界『無限の剣製/unlimited blades works』。己の心象風景であるこの世界において、私は文字通り、世界の支配者となる」
宣言に意味はない。詳しく説明してやる義理もない。それはただ、これから死出の旅路に向かう敵に対して、己にトドメをさす魔術の名前くらいは教えてやってもいいかな、と思ったが故の発言だ。
「――――――」
無言で片手をあげてゆく。呼応して荒野より数百本もの剣が宙に浮かび、ヒュドラとケリュネイアの鹿の周囲だけが空白地帯となった。地面より姿を表した刀身は、けれどまるで土になど汚れていない。無論、浮かぶ全ての刀身にも一切の曇りなど存在しない。今しがたこの世界へと生まれたばかりの、しかし私の心の中でずっと磨き上げられてきた裸身を晒す剣の群れは、まるで忠義者のように次の命令を待って宙に浮いていた。ならば―――
―――その望みを叶えてやろう
「―――さて」
告げてやる。そんな思いを実行に移す前、自らの思いを切り替えるために言葉を放つと―――
「!」
「!」
そのたった一言で、二匹の獣は止まっていた時を取り戻した。
「――――――!」
空中に中途半端な姿勢で固まっていたヒュドラは、焦るかのよう、たったひとつとなっていた巨大な首を振り下ろし。
「■■■■■■!」
のけぞっていたケリュネイアの鹿は、改めて私に体当たりをぶちかまそうと考えたのだろう、もう一度前傾姿勢を取ろうとした。両者の態度から狙いは簡単に読み取れる。やつらは私を殺し、元の己の意のままを発揮できる世界に戻りたいのだ。だが―――
「―――では始めようか」
当然、そんな番人どもの望みは果たさせてなどやらない。心中にて号令を下すと、ケリュネイアの鹿の周囲へと瞬時に鉄の棒を生み出してゆく。柄なく、反りなく、刃なく。地面より逆しまに生えてきた単なる直線的な鉄の棒は、敵を傷つけることを目的としない本当に単なる鉄の棒切れであり、だからこそこの場面においては反射能力をもつ存在に対してとても有効な楔となる。
「――――――!」
そうして生み出された無数の鉄の棒切れを、鹿の周りに寸分の隙間すらなく配備してゆく。一瞬の時すら経過しない間にケリュネイアの鹿は鉄の棒により全身を固定されて、針金細工のような有様となった。
「いかに素晴らしい挙動と反射能力があろうが―――」
力を生むには余裕がいる。例えば大きな力を生みたいのならば、脱力以上に、そんな力を生むだけの溜め以上に、動かすスペースが必要だ。剣の威力を生みたいなら、上半身を大きく振りかぶる必要がある。腰の動きも必要だ。同時、足が動けばなおもいい。動きが少ないといわれる日本の剣術においても、動くことのできる程度には空間の余裕というものが必須である。
「マイクロ単位で挙動を制限してやれば、その身体能力は生かしきれまい」
敵の余裕を―――動くために必要となるスペースを完全に封鎖する。もちろんこんな手段、目の前にいる敵が英霊であれば通用しない。膨大な魔力や常識外の肉体能力や宝具を持つ彼ら英霊は、それらだけでこんな楔を振り払うだろう。そもそもこんな小細工が体を覆う前に、彼らは脱出する可能性だってある。彼らの伝承は伊達でない。伊達でないからこその英霊であり、宝具であり、伝承の存在なのだ。
「ヘラクレスの伝承、十二の試練に数えられる魔獣。女神アルテミスによって傷をつけることを禁止されたヘラクレスは、それでも貴様を捕縛した―――」
だがそんな伊達ではない功績や人と外れた経歴、体質、実力によって伝承となった英霊の彼らは、だからこそ伝承の縛りに逆らえない。今や弱点の形容詞ともなった英雄アキレスの踵は、どうあがこうと弱点であり続けるのだ。そしてまた、目の前にいるのはケリュネイアの鹿という英霊と同じく伝承の存在である。こいつはそんな英霊に捕縛されたが故に伝承となった魔獣である。魔獣たる彼らの多くは、英霊という存在ほどは力を持っていない。だが、英霊と呼ばれる彼らと関わることによって伝承となった彼らも、当然、伝承に引きずられてしまいがちな存在である。
すなわち、人の心がわからぬ騎士王は他者と諍いを起こしやすく、多数のゲッシュを持つ光の御子はそれ故に全力を発揮する機会を失いやすく、裏切りの魔女と蔑まれた女神は裏切りによって身を滅ぼし、最高神の血を引く神の子は神縛の鎖にとらわれ身動きが取れなくなる。そんな第五次聖杯戦争に召喚された彼ら英霊たちと同様の法則と現象が―――
「―――伝承があだになったな」
この第五次聖杯戦争に召喚された英霊の伝承を元に造られた目の前の敵にも当然適用され、起こったのだ。
「!」
敵はそれでも動こうと、体にぴったりと張り付く檻の中で、足掻き出す。鹿の皮膚が針金を押すたび、私の体において該当しているのだろう箇所が押されたむず痒き感覚が生まれる。鹿が後ろ足を動かそうとすれば足が。胴を動かせば、胴が。前肢を動かせば、腕がくすぐったさを覚える。だが、それだけだ。全身のどこかが触られるか精々押される程度の感覚など、こそばゆいばかりでまるで脅威などではない。
―――ふむ?
だがそう感じたも束の間、身体中のこそばゆさが瞬時に消えてゆく。思わず首を捻った。疑念に突き動かされるかのように黄金の鹿のいた場所の気配を探ってみれば、棒で囲まれた内部にいるはずの鹿の姿は跡形もなく消えて消滅していて―――
―――なるほど、捕縛されれば消える、か……
私は瞬時に納得と理解をする。どうやら鹿は伝承の通り捉えられてしまったことによりその無敵に近い能力を喪失し、消滅してしまったようだった。たった一度捕らえられただけで、伝承通りに消えてしまう。だからこそあの鹿は、響の捕縛行為をあれほど警戒していたのだ。
―――まったく、私もさることながら、世界や過去に属するものは本当に進歩がない
魔術もスキルも、基本は等価交換だ。さてはその不傷の伝承を再現しようとしたあまり、そうした己の不利になる特性まで再現せざるを得なかったのだろう。トレードオフ。あちらをたてればこちらがたたぬ。そんな単純な法則こそが、ある意味で世界の真理であるがゆえに。そうして消えた奴の行き先が、果たしてアルテミスのもとなのか、はたまた魔のモノと呼ばれる存在のもとなのかは知らないが―――
―――ともあれ、これで鹿の試練は攻略できた……
一つの厄介ごとを消してまず一つ安心する。
―――後は……
「―――――――――」
見渡すと鹿とともに攻撃を仕掛けてきていたヒュドラは、しかし仲間たるケリュネイアの鹿が消える予想外に呆然としたのか、巨体の動きを止めていた。
「――――――――――――ッ!」
しかし私の向けた視線が気に障ったのか、ヒュドラは気を取り直したらしく、奴はもう一度その超巨大な頭を丸っこい胴体の後ろへと回してゆこうとする。再び振り下ろそうという魂胆だろう。だが―――
「おっと、仲間がやられても引こうとしないその行為。蛮勇ではなく勇ましさとして評価してやれないこともないが―――」
私はその振り上げられた巨鉄槌たるヒュドラの頭へ視線を送ると―――
「残念、そこは危険地帯だ」
直後、予想通り振り下ろされてきたそんなヒュドラの頭を宙に出現させていた剣で迎え撃つ。
「――――――!」
打ち出した数百数千の剣は、もちろんすべてが宝具と呼ばれるものである。そうして宙より射出された英雄の剣たちは、今や合体して一つになったヒュドラの巨大な下顎と喉と腹部に突き刺さってゆく。今や高層ビルと変わらない長さと太さの首をもつヒュドラと比べれば、突き刺さってゆく剣の大きさも質量も塵みたいなものでしかない。だがそんな塵のような存在であっても積もり積もれば、ヒュドラの首というは山のような存在と等しい存在となる。
「―――!?」
すなわち、空中に突如として出現した幾千もの剣群によって、ヒュドラという超重量超速度超巨体の化物は、強制的に空中で動きを止めさせられていた。激突した剣はヒュドラの表皮も表皮に流れる毒の煙もまるで無視してヒュドラの体内に押し入り、侵入箇所より赤い血を滴らせてゆく。仮にもすべての生物を溶かすといわれた、今では無機物すらも溶かすに至る世界最高峰の毒物も、あのヘラクレスをして苦戦させたというその硬質な鱗もが、概念の守りを持つ人類最高峰の宝具群―――のコピー品の前に破れ去ったのだ。
「―、――ッ!」
そんな小さき紛い物たちに自らの意が防がれた事が相当気に食わなかったのかヒュドラは身を振るわせると、なんとか我が意を押し通そうするかのよう首を下に動かそうとする。筋繊維の収縮が起きたのだろう首は僅かに細まり、上下の顎の表皮が波打ち、筋肉を締め付けたことで皮膚の硬質化が起きたのか、打ち出していた剣のうちの数百本ほどがヒュドラ体内への侵入に失敗して、弾かれ、回転して、やがて刃先から地面へ落ちてゆく。
ヒュドラは力を追加した。それによって数百の剣が突撃から脱落した。だがそれでもなお次から次に打ち出され続ける剣の軍勢は、膨大な数的有利によって、ヒュドラという神話生物をその場へと押し留め続けることに成功している。それはあたかも、人類が幾分かの犠牲を出しつつも自然の脅威を制したかのような場面であった。
「――、――、―、―ッ!」
弱者が数の有利に頼って強者と均衡状態を作り出すという事がよほど気に食わなかったのだろう、殺意を微塵も減衰させないヒュドラはさらにその首を細くした。
「――、―――ッ!」
自らの肉体の損傷を気にせず相手の攻撃に自分の肉体をぶつけるという荒業は、ヒュドラという化け物が無限の再生能力を持つという自覚を持つからこそできるものなのだろう。ヒュドラの行動によって、皮膚より侵入しようとした剣の数百が再び弾かれて。しかしうまく皮膚の隙間から侵入を果たした数百の剣が、ヒュドラの進行の勢いを味方につけて、ヒュドラの体内を貫通してゆく。
「―――ッ!」
我が身に突き刺さった小さな棘がいくつか失せたことで気力を取り戻したのか、小さな存在の抵抗による損傷など自らの行動に影響を与えるものかと吠えんばかりに、ヒュドラはいくらか勢い失った頭をそれでも必死に振り下ろしてくる。大質量の攻撃が頭上より降り注いでくるが―――
「馬鹿め。その諦めの悪さと根性だけは認めてやらんでもないが、先ほどよりも威力が減衰しているそんな攻撃で私を仕留められるとでも思ったか?」
そんなヒュドラの足掻きを無意味に帰してやるべく、打ち出す剣の数を倍にして突撃させてゆく。そうして数万の数にもなった剣の群れはヒュドラの下顎から首にかけてまで突き刺さり、威力が衰弱していたヒュドラの一撃は、倍増した剣の射出攻撃によって先ほどよりも簡単に押し戻されていった。
「そらみろ。足掻きの一撃など、早々当たるものでは―――、む……?」
だがそうして繰り出された一撃を防いだ折、自らの攻撃を防がれたはずのヒュドラの口の端が上方向に歪んだのを見て、眉を顰める。その喜びの笑みは、自らの意を防がれた者が容易に浮かべられる類いのものではない。
「―――なるほど」
疑問の答えを求めて視線をそのまま奴の口元から下顎にかけてまでの範囲をさまよわせると、敵の堅牢な皮膚の防御を突き破った場所からは紫色の液体が飛び出る姿が映りこんでくる。液体の色はヒュドラの表皮を流れる煙と同じ色だった。
「毒による融解。貴様、攻撃手段を変えたのか」
そんな事実から推察するに、それはヒュドラの体の下にある、表皮で煙として噴出される前の毒液なのだろう。そんな今や無機物すらも溶かす毒液は、液体であるがゆえに個体の剣群など歯牙にもかけることなく滴り落ちてくる。ヘラクレスや彼の師のケイローンすらも死を願うほどのヒュドラの猛毒を―――、今ではそんな悩みを抱かせないといわんばかりの慈悲深さを手に入れた猛毒を撒き散らし、眼下の矮小な敵に当てて溶かしてやる。単なる力任せの攻撃では剣の群を打ち破り難しと悟ったやつは、自らの肉体の特性を真に活かせる搦め手へと攻撃の手段を変えたのだ。それが見下していた相手であっても侮り難しと見るや意識を切り替えて応じるその姿勢と在り方は見事だが。
「だが、甘い」
ヒュドラの狙いを見抜いた私は突撃して奴の体を留めているそれらとは別に大量の剣を空中に生み出すと、降りだした毒液の驟雨に目掛けて突撃させてゆく。果敢に毒液めがけて飛翔していく剣からは、やがて炎が発せられてゆき―――ヒュドラが空中へと散布した毒液は、次から次へと蒸発させられていった。
「――――!?」
ヒュドラは最初こそ驚いた様子でそれを見つめていたが―――
「―――!」
奴が呆けたのは一瞬、炎をまとった剣を見て寧ろ先程までよりさらに瞳をぎらつかせたヒュドラは首を勢いよく後ろに戻してゆく。一瞬にて的を失った剣は一気に空中を駆け抜けて、赤い空の方へと昇っていった。そうして首を剣の突撃してくる空間から引っこ抜いたヒュドラは、自らの身を傷つけていた剣群の行方に視線を送ることすらせず、まずこちらに顔を向けなおすと直後、細く長い吐息を一つ漏らし、次の瞬間には丸い林檎が一気に芯になったかのような勢いで部屋の中央にある胴体を凹ませると、そして―――
「ッ―――!」
大きく口を開き、鼻の穴を広げ、思いきり息を吸い込んだ。繰り出されたヒュドラの吸引力や凄まじく、前方の空間はまるで巨大な掃除機に吸われたかのよう風が巻き起こる。そうして前方の空間にあった飛び交う剣の刀身からは―――
「む……?」
炎が消え失せてゆく。多分は勢いよく空気がその場より消えたことで、剣の飛び交う空間が疑似的な真空状態にでもなったのだろう。あらゆる奇跡を起こす宝具とは言え、さすがに数をそろえるために質を落とした低ランクの投影品では自然の摂理を完全に覆すような真似―――酸素のないところで炎を発することは不可能だ。なるほど、炎が毒を蒸発させているというのであれば、その炎を消してやる。そういう意味では、ヒュドラの吸気行動は一見理にかなっている。だが―――
「そのために毒の攻撃を自らの無効化してしまっては意味もなかろうに―――」
ヒュドラはそうして息を吸うために、毒を空中に散布していた大本を―――首を引き抜いた。それによって毒の供給は停止し、こちらに降りかかってくる毒液の量も見るまに少なくなってゆく。それどころかそんな吸気によって、ヒュドラは自らのまき散らしたの液、煙、雫、霧状の毒を自ら回収してしまっていた。もはやいま、先程までより私たちの脅威となっていたすべてを溶かす猛毒は、空中に存在していない。つまり、ヒュドラの行動は、自らの攻撃を無意味化する、そんな何の意味もない行動となってしまったのだ。だが。
―――奴め……。いったい何を考えている……
仮にもヘラクレスの試練、伝承となった魔獣が、そんな簡単なことをわからぬはずがない。だからこそ、わからない。その行為がいったいどんな意図をもって行われたものなのか。そんな疑問を抱いたその瞬間―――
「―――ッ!」
思い切り息を吸い込んだヒュドラの体、そんな巨体についている傷口の一部からは炎が漏れだしている。それを見つけて―――
―――なるほど
持ち合わせていた知識と目の前の現実から伝わってくる情報がまじりあい、私は瞬時に事態を理解する。
―――ヒュドラは首をつぶされたのち、その傷口を炎で焼かれることで処理された魔物……
このヒュドラという化け物がヘラクレスの伝承をもとに作られたというのであれば、目の前のこのヒュドラは炎に弱くなければならない存在である。そう。先に登場し、そして消滅していった、同じくヘラクレスの試練に登場する魔物―――ケリュネイアの鹿が捕縛されただけで消滅に至ったというのであれば、そも、このヒュドラという魔物もサガの核熱の術式によって引き起こした爆発から生じた炎で体内を焼かれた際、その傷跡が癒えない状態を保っているというのが道理というものだろう。
ならばすなわち。
「パッチワーク……、というよりもキメラ、と言う方が正しいか。確かに足りぬ部分を補うは王道の手段ではあるが、まったく……」
目の前のヒュドラはそんな道理を覆すために、そんな炎に対する特性が備わるような改造が施されていると考えるのが自然というものだろう。そしてヒュドラと相性のよさそうな、ヘラクレスの伝承に登場する、ギリシャ神話における炎に耐性の有りそうな存在と言えば―――
「―――なるほど、いたな。君と同じように百の頭を持ち、同じくテュポーンを祖とする、黄金のリンゴを守っていたという、そしてヘラクレスに殺された怪物が……」
それはギリシャ神話においてテュポーンという最大の化物より生まれた存在。不死の飲み物『ネクタル』の湧く泉がある、世界の西の果ての楽園『ヘスペリデスの園』で、黄金のリンゴを守りし番人。
「ラドン……!」
そうしてその存在の名を呼んだ直後―――
「―――――――――――――!」
ヒュドラ―――いや、ヒュドラとラドンのキメラはその巨大な口から燃え盛る火炎を吐き出した。目の前が真っ赤に染まってゆく。炎はまるで、地獄の業火のようだった。光景に一瞬、始まりの地獄を思い出す。
―――だが、あの魂焦がす煉獄の炎と比べれば、この程度のただ燃え盛るだけの火炎は……
「なるほど。ヘラに宝を守る番人として選定された存在ならば、確かにこの最下層にお宝眠るといわれる迷宮の番人として相応しくはあるが……」
―――単なる火遊びにすぎんな
脳裏に浮かんだ光景を瞬時に思考の端へと追いやると、迫りくる火炎を前にして言い切る。
「お、おい、何やってんだエミヤ! 目の前一面、炎の海だぞ! ―――ダリッ!」
「―――あ、あぁ……!」
そんな言葉がトリガーになったのか。それはこちらの預かり知らぬところだが、ともあれ目の前の空間全てを覆うような業火を前にして、ようやく意識の正常を取り戻したらしいギルド『異邦人』の彼らたちは動き出す。
「この程度、先程と同じように『ファイアガード』で―――」
「ああ、なに、心配はご無用だ」
「―――何?」
だが私は、彼らに手をひらひらと降ってその動きを止めると―――
「固有結界を発動した今の私にとって、この程度―――」
そのまま腕を振り上げて―――
「たいした障害ではない」
振り下ろす。途端、宙に現れた数百の剣群が空へと広がる火炎へと突撃し、そして―――
「うぉっ……」
「炎が……」
「消えた……!?」
宝具の中に秘められていた共通するとある概念たちが、まとめて炎をかき消してゆく。
「古く、人類は炎を制することにより文明を発達させてきた。故に、炎に関する伝承を―――炎を制する伝承を持つ剣は非常に多い。それこそ、この程度の火遊び対応には事欠かぬほどに、だ」
こちらの彼らが浮かべるよう、あるいはもっと目を丸くして驚くヒュドラとラドンのキメラ―――ヒュドラ・ラドンを前に、射出した宝具に秘められた概念を説明する。この度の打ち出した剣群に秘められた概念とはすなわち、そんな炎を無効化するというそんな概念の類いのものばかりだった。
「炎を生み出せる剣を保有しているのだ。ならば炎を消すことの出来る剣も保有していると考えておく方が道理だと思うがね」
こんな簡単な道理もわからないのか、という意味を秘めた挑発交じりの言葉を視線と共に視線を向けてやる。
「―――!? ―、ッ、――ッ、―――!?」
すると目の前のこのプライド高いはずのヒュドラ・ラドンはしかし、目の前の現象が信じられなかったのか、あるいは目の前で次々と起こっている現象をついに処理しきれなくなったのか、蛇頭を上下左右あてもなく彷徨わせると、揺れさせ、瞼を素早く開閉させ、目を白黒させ、戸惑いの様子を露わにし始めた。そんな決定的な隙を―――
―――チャンス到来か
見逃すような私では、もちろんない。
「―――投影開始/トレース・オン」
そうして私はこの目の前のヒュドラ・ラドンに決定的な一撃を与えるべく、あるモノの投影を開始した。
―――そもそも私が常に使用している剣は、この世界より零れ落ちたもの
私にとっていつもの世界に剣を投影するとは、基本的にはこの世界から剣を引き抜いてくるということに等しい。すなわち私はこの無限に剣を内包する世界が具現化したこの場において、私はそれが剣であるのならば、それを欲しいと思うだけで一秒の間もなくそれを用意することが出来る。故に。
―――だが……
この固有結界領域内において、私はそんな魔術の始動キーを一節たりとも述べる必要なんてない。なぜなら、私は常に魔術回路を全開稼働させている状態だからだ。それはすなわち、すでに動いている車でエンジン始動のキーを回すようなものである。だが、無限に剣を内包する世界と言えど―――、否、しかし、無限に剣を内包する世界だからこそ。
―――この合成魔獣をしとめるために重要なのは、剣ではないからな……
そんな世界には通常存在していないそれを生み出すため、本来の正しい用途としての投影魔術を発動するため、私は魔術の始動キーを発声したのだ。眇に終わる作業の間、自身の魔術とピエールの補助によって強化された思惟の中は、投影魔術という精密作業の間にも思考をする余力を私に与えてくれていた。そうして余った時間と余裕を用いて私は、自らの知識とたどり着いた論理を振り返ってゆく。
―――先の再生能力を見るに、このヒュドラ・ラドンは、ヒュドラの体をベースにラドンの特性を植え込んだ魔物であるとみて間違いない
ヒュドラは伝承において、ヘラクレスがいくら首を潰しても何度でも再生する、それどころか潰した首から複数の首が再生する、もはや不死に近い再生能力を保有している。だがそんな頭部を潰されようと死なないし再生する体を持つヒュドラは、唯一の弱点として、そうして潰された―――あるいは切り落とされた傷口を火で焼かれると再生不能になるという特性を持ちあわせているはずだ。……だが。
―――この世界の冒険者のスキルには、シンが用いていたような眼前にいるすべての魔物の首を一撃で切り落とす概念に至ったようなスキルがあり、サガを筆頭とするアルケミストたちの使用する炎術や雷術、核熱の術式といった遠距離からでも傷口を焼くことのできるスキルがある……
この世界の冒険者たちの中には、そんなヒュドラの弱点を突けるようなスキルを身に着けている者たちが多数いる。そしてまた、そんな彼らの中においても、迷宮に潜るような冒険者たちはヒュドラのような魔物を退治するプロフェッショナルだ。無論、新迷宮という場所を攻略できる冒険者も、そしてまた、仮にたどり着けたとしても、ヒュドラや黄金の鹿という強大な存在を前にして、首を落とした後、その傷口を焼くという正解手順に辿り着くものは非常に少ないだろう。だが、少ないと零は等しくない。すなわち、可能性は零というわけでない。
―――もし仮に私がこの場にいなかったとして……
そう。仮定に仮定を重ねた場合の話ではあるが、もしヒュドラがラドンの耐火能力を持たぬ状態でこの部屋の番人を単独で務めていた場合、もし仮にヒュドラの知識を持たない状態のギルド『異邦人』の彼らがシンという男の生存している状態でたどり着いていたのならば、強敵を前にしたシンは迷わず『一閃』というブシドーの奥義を使用してヒュドラの首を切り落とし、そこへたぶんはサガが迷わず追撃として核熱の術式を使用し、結果、ただのヒュドラという存在はあっさり葬られてしまっていたかもしれない。
―――あくまで低い可能性に過ぎないが……
そう。過去の世界において最強クラスの魔獣はしかし、この、誰もが魔術のようなスキルという力を使えるようになった世界において―――
―――ヘラクレスを殺しかけたはずのヒュドラは、条件さえ整えば、この世界において鴨葱のような存在に成り下がってしまう
あっさり倒されていたかもしれない。だからこそ。
―――それ故の魔獣同士の合成であり、攻撃反射能力を持つ鹿の配置、というわけだ……
この趣味の悪い迷宮や番人を作り出した存在は、弱点を補うため、ヒュドラにラドンの耐火特性を付与したのだ。そうして耐火能力を備えたヒュドラはまさしく無限再生能力を持つ不死の如き存在であり、そこへ反射能力を持つケリュネイアの鹿が防御盾として加わるのだから、この番人部屋はまさに攻略不能、盤石といえる状態であった―――、わけだが。
―――私たちはすでにその盤石の一部は瓦解させている
すでに盤石の片翼を担っていたケリュネイアの鹿は攻略済み。また、自分はそして、ヒュドラの知識もラドンの知識も持ち合わせている。ならば。
「―――後、数手か」
もはやこのヒュドラ戦は、攻略したといっても同然だろう。知識と論理的思考により導き出された解答と、そんな解答から導き出されたゆるぎない勝利までの手筋の数を見直して、しかしやはり再び確信する。……そう。
―――伝承によれば、ヒュドラは全ての首を叩き落としてその傷口を焼かれた後、不老不死の核となる部分に岩を乗せたことで退治されたという
目の前の化物は、ヒュドラとラドンのキメラだ。今までの戦いから見るに、確かに奴はラドンの特性でヒュドラとしての弱点である炎に耐性を得ているらしい。炎だけが致死に至るレベルの弱点だった疑似不死の化物は、耐火能力を保有することで、まさに真の不死と言えるような存在へと変質したと言えるだろう。だが―――
―――どうやらラドンの耐火能力を付け加えた際……
既存のモノに既存のモノを無理矢理組み合わせてくっつけてやるなんてそんな手法、所詮はその場しのぎの応急策にみたいなものだ。この世に完全なものなんてあり得ない。機械は性能を向上させようと組み合わせるほど、別の弱点を保有するようになる。鉄を加工し組み合わせて馬力を生み出せるようになった自動車は、不変性や強度という点において、加工前の元々の単なる鉄に劣るのだ。
そう。そもそも、真に不死で、真に弱点がない存在であるというのなら、一部の攻撃を反射させる盾としてケリュネイアの鹿などを配備する必要なんて、まるでない。ただ相手を番人部屋に閉じ込めたのち、その巨大な肉体の不死性と再生能力とまき散らされる猛毒を敵に押し付けてやれば、それで事足りるといえるだろう。だが奴はそれをしない。それどころかヒュドラは、鹿という盾を使って、攻撃がその身に当たるのを防ごうとしてくる場面すらもあったのだ。
―――余計な弱点をも得てしまったらしいな
そうとも。今にして考えれば、あのヒュドラ・ラドンやケリュネイアの鹿が優先的に私を排除しようとしだしたのは、私がヒュドラ・ラドンの首めがけて剣を射出した直後だった。『核熱の術式』という控えめに見ても宝具クラスの威力を持った必殺の大技をまともに喰らって、しかし平然とその傷を癒せる再生能力を保有しているあのヒュドラ・ラドンは、けれども高々一本の弓から射出された剣の直撃を避けるため鹿に反射させ、その後、私に狙いを定めたかのごとく攻撃を繰り返してきたのだ。無論、ケリュネイアの鹿の行為には反射によってこちらの戦力を削ぐ狙いがあったのかもしれないが―――
―――別の伝承によれば、ラドンはヘラクレスの矢……、それも鏃にヒュドラの毒が塗られた矢によって撃ち落され、殺されたという……。ならばその合成魔獣たる奴は―――
奴がヒュドラの体をベースとしてラドンの耐火性能を得ているというのならば、おそらくあのヒュドラ・ラドンは―――
―――弓と毒の仕込まれた矢で射られること自体が弱点である可能性が非常に高い……!
思考の見直し終了と共に黒塗りの洋弓が現れる。それは宝具でも何でもない、何の効力もないカーボン製の頑丈な黒塗りの弓であり―――
「――――ッ!?」
しかしそんな洋弓がこの世界に現れた途端、狼狽えていたヒュドラ・ラドンの蛇頭と首が大きくのけぞった。遠ざかった蛇頭にある大きく開かれた瞳は私―――というよりも、私の持つ洋弓へと向けられている。その様を見て、自らが至った結論に確信した。
―――間違いない……!
「首を落とされるよりも、頭が傷つけられるよりも、固有結界よりも、宝具の剣群よりも、『核熱の術式』よりも、ただのカーボン製の頑丈なだけが取り柄の洋弓がそんなに恐ろしいか、化生!」
「――――ッ!」
咆哮に弱点を見抜かれた、と、そう思ったのだろう、遠ざかった場所にある巨大な蛇頭のなかで見開かれる一対の目は、見る間に落ち着きを失くしてゆく。一口でこちらを呑みこめるだろうその巨大な蛇頭の噛み締められた上下の顎は細かく、しかし大きく震えており。そしてまたその馬鹿みたいに長い首は多少引き気味に胴体へと近づいて、落ち着きなく動かされていた。閉じられた口の唇はもごもごと動き、舌がそうしてわずかに開閉する唇の隙間からあわただしく出入りしている。ヒュドラ・ラドンは初めて、恐怖の様相をあらわにしていた。
「響。毒の香をくれ」
「……え?」
奴のそんな臆病の態度を見た瞬間、もう片方の手を響に差し出して要求する。
「え、で、でも、あの、その、毒は……」
自らの管理する道具の中で最も扱いが難しく、そして最も危険な効力を発揮するそんな道具を求められた響は、しかしまずヒュドラ・ラドンを見て、その次に奴の体から落ちる煙を眺めると、戸惑いがちに言う。
「―――ああ、君が言わんとしていることはわからんでもないが……」
私はそんな初めて英霊同士の戦闘の眺めたどこかの誰かさんのような態度を見て、ふと懐かしい気分を抱くと―――
「今はとにかくそれが必要なんだ」
だが、そんな郷愁を振り払い、改めて言い直す。
「あ――――――…………はい、わかりました」
改めて言うと響はバッグに手を突っ込み、手のひらサイズの小袋を取り出し、こちらへ差し出してくる。
「それの中に毒の香一回分が入っています。本来なら香の類は練香と香炉の形で使用するんですけど―――」
「道具の専門家である君だからこそ毒香を粉末状のまま保管できるし、利用も可能、というわけだな」
私はそうして差し出された小袋を受け取ると―――
「はい。―――あの、でも」
響が何か言いかけるよりも先に受け取った小袋の口を開け―――
「あ」
すでに近場に投影済みだった剣を拾い、その柄を開き、空洞となっている柄の中へと毒の粉末を流し込んでゆく。ヒュドラの猛毒なんかより遥かに劣るだろうそれは、だからこそおそらくは先程響が想像した通りに、こんな改造施して耐久性落ちた剣の柄の外殻すらも溶かせない威力しかもっていない。
「さて―――」
たがそんな些細なことを気にせずに毒を収納し終えたのを見た私は、柄の蓋を閉めると、誰が反応するよりも早く呟き、剣を弓に番えて構え、毒剣―――毒矢―――になったその切っ先をおそらくはヒュドラ・ラドンを不死にせしめている核のようなものが格納されているのだろう胴体の方へと向けてゆく。
「―――――ッ! ッ!」
するとヒュドラ・ラドンは、とうとうたまらなくなったといわんばかりに巨大となっていた蛇頭と首をうねらせ―――
「―――トドメだ」
その隙を見逃さず、私は毒矢と化した剣を、番えた洋弓より素早く射出した。
「―――――――――ッ!」
同時、させるものかと言わんばかりにヒュドラ・ラドンの首が活動し始める。ヒュドラ・ラドンはそして、盾代わりにしようとしたのだろう、頭を、首を放たれた剣の射線上に持っていこうとして―――
「おっと、そんなこと―――」
しかしそんなヒュドラ・ラドンの抗いを私は許さない。同時、私は空いた右手を振り上げた。するとヒュドラの超巨大化している蛇頭と首の周辺に再び剣群が現れる。そうして出現した剣群は全ての刀身が太くたくましい、つまりは西洋の両手剣のような耐久性に優れている代わり、切れ味のひどく鈍い形のものばかりが選定されていた。
「もちろん、させはしないとも」
右手を手刀の形にして振り下ろすと、それを号令として空中に現れた大量の剣がその場より射出され。
「……む?」
そうして飛び出した剣は、私の予想とは裏腹に、ヒュドラ・ラドンの振り下ろされる蛇頭と首に勢い良く突き刺さってゆく。空を裂き、首の背から侵入を果たした無機物たる剣は、全ての生物を殺すと称された、今や無機物すらも溶かす毒を、しかし気にも止めず、血も、肉も、骨も、神経も、その毒を生み出す器官をも断ち切り、ヒュドラ・ラドンの体内を突き刺さった剣とかち合いながら、体内に侵入し、その身を引き裂いていっていた。
「これは―――」
頑丈な代わりに切れ味の鈍く生み出された剣群は、しかし先ほどよりもずっと多い数がヒュドラ・ラドンの皮膚を突き破り、体内を通り過ぎてゆく。
「――――ッ!」
我が身を傷つけられたヒュドラ・ラドンは一瞬だけ鬱陶し気に目を細めたが、すぐさま目に力を入れなおすと、侵入してくる剣を気にしない様子で、そのまま首を振り下ろしてくる。ラケットをすり抜ける砂のようにヒュドラの首へと剣が突き進むその姿を見て理解する。どうやらヒュドラ・ラドンの体内は先ほどよりも相当密度が薄くなっているらしい。おそらくは先ほどの再生で回復できたのは外側だけで、中はまだスカスカの状態なのだろう。隙間だらけになったはずのヒュドラの首や頭は、だからこそしかし、大量の剣の影響を受けずに突き進むことが可能な状態となっている。また、そんな己の行為の結果として生まれる大量の傷はしかし。
「しまったな……」
無限の再生能力を持つヒュドラ・ラドンにとって傷は傷でない。それどころかそうして生まれた傷や隙間から飛び出してくる毒液は、奴にとってはむしろ攻撃の手段すらでもある。そう。私の生み出した剣群はむしろ、ヒュドラの攻撃の手助けとすらなってしまっていた。剣群によって生まれる傷から新たに出現する毒液が空中へと散布され、あたりへとふりまかれてゆく。無機物をも溶かすヒュドラの猛毒とはいえ、さすがに私の不変の心象風景へと影響を与えることはない。だが、あの記憶に残る限り最強といっても過言でないヘラクレスが死を望むほどの降り注ぐヒュドラの猛毒をそのままこの固有結界内に放置してというのは、私の心情としてどうにもぞっとしない。
「どうやら切れ味を良くしすぎていたようだ」
そんな思いを抱きつつ自らの行いの反省を済ませた私は、即座、先と同じように炎を生み出す概念を有する剣をいくつか生み出して毒液を蒸発させると、続けて射出する刃の刀身に改造を施してゆく。その後に生み出されてゆく剣は、刃先を広げ、接地面積を広げられたものだった。そうして改良を加えた剣は、剣というよりもむしろ杭、杭というよりもむしろ杭打機のハンマーのような姿に近いものであり―――
「―――では続きと行こうか」
次弾として可能な限り切れ味を落とした無数のこん棒状のそれが、ヒュドラ・ラドンの顎や首、腹の下部にかけて射出されてゆく。かつてヘラクレスは、硬い木から作りだしたこん棒で、ヒュドラの頭を叩き潰したという。そんな伝承を再現するかのよう、しかし先のとがっていない直撃するそれらは、当たったところでヒュドラ・ラドンの頭を潰す威力などこめられていない。改造ほどこされたそれらは、私の想定通り、体内に侵入する威力すらも秘められていやしないのだ。だがそんな威力の低いこん棒のような剣は、しかし先端の広がった面積の分だけきちんとヒュドラ・ラドンの肉体に先程以上の衝撃だけを与え、そうしてヒュドラ・ラドンの鼻先から首にかけてまでが最初のように剣群の勢いによって空中に固定されてゆく。下方から押し寄せるそんな切れ味の無い剣群が、しかしヒュドラ・ラドンがこうべを垂れて処刑人に許しを請うような所作を完全に禁じていた。
「―――、――――――、―――、――――――!」
ヒュドラ・ラドンは、顔面に、喉元に、首に、押し寄せてくるその違和感に悶えるかのよう、絶え絶えに息と悲鳴を撒き散らしながら、しかしそれでも胴体を矢の一撃から守ろうと、必死で頭と首を毒矢の進路上に持っていこうとしてみせる。
「―――ッ!」
だが、死の運命から逃れるため長い首に力を込めて動かそうとするヒュドラ・ラドンのそんな必死の行為は、しかし、下方向より飛びかかってくる剣型ハンマーの群にて宙に動きを固定されて、阻害されてしまう。ヒュドラ・ラドンはすでに延命の足掻きをすることすらも、すでに処刑のための一撃を放った私という存在に禁じられていた。
―――邪魔はさせない
決死の覚悟と行動は現れる剣群によって串刺しにされてしまい、まともに動けない。そんな事態によってだろう、奴の口がいかにも悔しそうに曲がってゆく。顔色は見る間に絶望の青へと塗り替えられていっていた。だがそれでも奴は延命、事態の打破の願いを叶えようと、空中にはりつけにされた首を胴体の盾にするべく、必死に押し出そうとして―――
「―――――――!」
「あ……」
しかしそんな奴の必死の行動は―――
「首が―――」
その真摯な悲願とは裏腹に、死地への邁進を促す手助けとなってしまう。……当然だ。ヒュドラ・ラドンの鼻先から首元の下部、そのすべての領域には下方向より無限の刃が不断に叩きつられている。刃先を広げているがゆえに一見まるでハンマーのようになっているとはいえ、それがハンマーのように見えるのは、あくまで私が人間の視点で物事を見ているからだ。
そうして刃先を広げられた本来ならば刺さらないはずのこん棒のごとき刀は、しかしヒュドラ・ラドンという超巨大サイズのそいつにとって、木の板の僅かな棘のようなものといえるのだろう。あるいはホッチキスの針と例えた方が、私のような文明の便利を味わった人間にはわかりやすいかもしれない。
すなわち、そうしてヒュドラ・ラドンの肉体を可能な限り傷つけぬよう細心の注意を加えて変形させられた刃の群れは、しかしヒュドラ・ラドンにとって針山―――剣山に等しいということであり。そうやって下方向から押し寄せる剣山―――尖った金属の群れに、しかしヒュドラ・ラドンは柔らかくなった我が身を全力で押し付けているものだから。下に向かおうとするヒュドラ・ラドンの巨大な密度が薄くなって柔らかくなってしまった首の皮膚と上方向へと進む剣の群れは、当然、反発し合い。
「剣にめり込んで―――」
結果、最初と同じように硬度で劣る方が敗れ、しかしそれでもヒュドラ・ラドンは諦めずに力を籠め。
「千切れて―――」
けれど体内を侵入した無数の針が通過したことによってズタズタにされたヒュドラ・ラドンの首の筋は巨大な自重を支えられなくなり―――
「落ちる―――」
つい先程の奴の望み通り、しかし明らかに違う形で、剣によって粉々にされつつある首は徐々に下方へと進んでゆく。ヒュドラ・ラドンと剣群の激突によって生まれた肉片や体液の飛沫が宙を舞っていた。細かく裂かれた顔面や首の血肉の欠片や切り裂かれた肉体から零れ落ちる毒の飛沫が、剣の隙間から落ちてゆく。顔面も首もバラバラになっていくヒュドラ・ラドンは、それでも『ようやく目的を果たせた』、といわんばかりに口を曲げている。そんな奴の現状に似合わぬ笑みを見つけた私が不思議に思ってそんな奴の真意を探るかのように血肉の行方を追うと、降り注ぐ血肉が一直線に私の放った毒矢へと落下してゆく光景を見つけて、納得する。
―――なるほど
「―――いや、恐れ入る」
量は多少は減ったといえど毒の粉を入れるために即興の改良施して多少骨子の弱くなった一矢程度、土砂のごとく降り注ぐ血肉と毒液の勢いならば防ぐも造作ないに違いない。
「一寸の虫にも五分の魂というが、なるほど、ヘラクレスの試練と称されるほどの相手、決して侮ってはならないということを改めて思い知らされたよ」
末期、自らの肉体の全てを使用してでも生存を達成しようというその生き汚さと根性に私は思わず称賛の声を上げたが―――
「―――だが、無意味だ」
私は―――
「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」
そんな奴の抵抗を無へと帰すための一言を告げてゆく。同時、ヒュドラ・ラドンの蛇頭と首を血肉と骨片と毒液とにより分けていた剣群がことごとく爆発した。
「――――ッ!」
ヒュドラ・ラドンの進行を邪魔していた剣群の一本一本は、私が即興で改良してこの世界に生み出しただけの、大した質の概念の含まれていない、宝具としては低級の剣ばかりだ。対して、私が今やった『壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム』は、宝具に秘められた概念の質によって威力があがるものである。すなわち、そんな宝具としての概念の質の低いものをいくら爆発させたところで、耐火性能、再生能力を持つヒュドラ・ラドンを仕留めるには到底至らない。それどころか、本来ならば体内の血肉を傷つけるどころか、その皮膚を貫くことすら難しいだろう。けれど。
「―――そう。爆発は耐火性を得た貴様の皮膚や肉片を傷つけにくい。……だからこそ―――」
そんな威力に低い爆発の群れによって、だからこそ、耐火性能の高いヒュドラ・ラドンの血肉片は浮き上がってゆく。また、生まれた炎熱と爆風が、毒液をもかき消してゆく。そうして生まれた風や熱は、しかし、突き進む毒矢に影響を与えない。当然だ。質量に敗れるならともかく、ただの爆風に負けるような一矢を放つようでは、到底『弓兵/アーチャー』のクラスなんて名乗れない。
「―――……」
我が身の不幸と努力の無駄を悟ったかのよう、ヒュドラ・ラドンの顔からは嘆くかのように、消え失せてゆく曲がった口は元の位置に戻ってゆき、直後―――
「チェックメイトだ」
一切の邪魔が入ることなく直進すること出来た毒の一矢は、ヒュドラ・ラドンの胴体へと突き刺さる。
「―――壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」
そんな毒矢の侵入を見届けた瞬間、発言する。直後、体内で小規模な爆発が起こる。
「―――」
それがこの世界において起こった最後の爆発だった。今までの攻撃や爆発と比べればあまりにささやかなはずのそんな一撃で。しかし起こった変化は、あまりに劇的だった。私はただ、ヒュドラ・ラドンの胴体の内部へと浅く侵入した剣の柄のその内部で爆発を生じさせ、毒の香―――粉を剣やその周囲にまき散らしただけである。柄に仕込まれた毒の威力など、ヒュドラの猛毒という今や無機物すらも溶かす世界最強の毒と比べれば、たいした威力ではない。放った矢の傷口も、起こった爆発も、これまでで一番小さかった。けれど。
「――――――――――――――――――――――――」
ヒュドラ・ラドンは体内で小さな爆発起きたその瞬間、まるでそれまでの強情と抵抗が夢幻であったかのよう、停止した。
「―――」
ヒュドラ・ラドンはまるで時計の針を止められたかのように動かない。あれほど細やかに動いていた瞳はまるでレンズ玉のよう固まっており、どこか逆立っていた鱗も、最後の瞬間に「あっ」と言わんばかりに開かれた口の形で停止した頭と首の血肉の欠片も、ほとんど無事を保っていた胴体と大半の首の部分も、いずこもがまるで人形のように固まっている。ヒュドラ・ラドンの意思とは無関係そうに噴出されていた毒煙すら、もうヒュドラ・ラドンの表皮からの噴出を停止していた。飛来した無数の剣によって傷ついた箇所から流れ落ちてゆく体液と毒液だけが、今やヒュドラ・ラドンの周囲で動くすべてである。やがて宙より切り刻まれたヒュドラ・ラドンの頭と首を構成していた物質のすべて、毒液さえもが、黒い灰にかわってゆく。そうしてできた大量の灰の固まりはやがて地面に落ちてバケツにいれた砂ぶちまけた時に発生する音を何倍にもしたかのような爆音が響いた。
「やっ……、た、の、か……?」
「―――おそらくは……」
そんな耳をつんざく音が意識を取り戻させたのか、サガは恐る恐ると言わんばかりの態度で呆然と問うてきた。一応の同意を返しながらしかし、私の心は敵が間違いなく死んでいるという確信に満ちていた。
―――さて、これで十二の試練のうち、十をクリアした
「―――あ」
考えるさなか、響の漏らした間抜けな声が思考を現実へと引き戻してゆく。そんな彼女の声に誘導されるかのよう視線も響の瞳が向いているのと同じ場所へと移動させると、視界には人形のように固まっていたヒュドラ・ラドンの体から色が失せ、透明化になってゆく光景が映りこんできた。続けざまにヒュドラ・ラドンの蛇頭から胴体までの、その輪郭までもが消え失せてゆく。消える、と。そう思った次の瞬間、ヒュドラ・ラドンの透明だった体はクリアさを失って黒ずんでゆき。直後、初めに現れたときのような粘性のある状態へと変化したかと思うと、やがてそのまま重力に従って素早く落下し、そして。
「――――ッ!」
番人部屋に足を踏み入れた当初の姿に戻ったヒュドラ・ラドンの残骸は、無数の剣が立ち並ぶ荒野に落着した。瞬間、固有結界の大地が大きく揺れ動く。不変であっても決して揺るがない分けてない大地は、振動に大きく上下させられ、生まれた大きな騒音が周囲へと広がった。大地を大きく揺らした振動に、体が思いきりふらつく。体全体を叩くそんな音は、まるで餡子の詰まった牡丹餅を思い切り地面へと叩きつけたかのような品のないそれを何十倍にもしたかのようだった。そうして地面に落ちたヒュドラ・ラドンの残骸の内、巨大化した首から上の部分はそのまま地面へとくっついた。胴体の丸っこい部分は一瞬だけ元のわらび餅の身体であるかのようにぶよぶよと縦横に伸びては広がり、縮まって狭まってを細かく繰り返した。直後、ヒュドラ・ラドンはその蛇頭を失って短くなった首の先端を固有結果内の夕焼け空に向かって伸ばしていって、空を眺めるようなポーズをとる。
「む……」
それが最後の力だったのか、次の瞬間、ヒュドラ・ラドンの体からは一切の粘性が失われて、黒ずんだ胴体はまるで燃え尽きた灰のよう、さぁっ、流れて地面の上へと落ちてゆく。先の抵抗によりすでに地面の上におちていたヒュドラ・ラドンのばらばらになった巨大な頭部と長い首の残骸は、すでに原形を失って灰の山になっていた。それはまるで小さな丘群のようだった。そんな小丘の端へと、遅れて多くの灰の塊が加わってゆく。その光景を前にして、心の中にあった確信の想いは単なる知識へと変化していった。
―――……死んだか
思う間にも灰の山が消え失せてゆく。試練をクリアしたというのに番人の残骸が黄金の鹿のようにすぐさま消滅に至らないのは、きっと巨体か否かの違いのせいだろう。おそらくこの灰の山もそのうちすべてが鹿のように消えてくれるに違いない。そんな予測の正しさを裏付けるかのように、目の前にある灰の山はその高さと盛り具合が小さくなっていっている。もはやヒュドラ・ラドンの死は確実だった。
―――さて……
これで残る試練はあと二つ。
―――残る試練は果たしてなんだったか……
考えた直後―――
「―――ッ!」
全身に違和感が走った。
「これは……!」
直感が危機を訴える。脳が異常を訴えて警鐘を鳴らし続けていた。体は反射的に戦闘体勢へと移行させられてゆく。直後、集中状態へと移行していた感覚は残された小さくなりつつある灰山の中から何かが飛び出してくる何かを瞬時に捉え、意識と視線が異変の起こった場所へと移動させられてゆく。そうして移動させられた視界に映りこんできたのは、三つの犬の如き首と漆黒の体に四足を持った、獣の体躯だった。
「こいつは……ッ!」
瞬間的に脳内記録よりその存在を思い出せたのは、事前にその存在のことを強く意識していたからに違いない。先端の首が三叉にわかれるその姿は、黒百合が斃れた姿を想像させる。麗しさの中にも恐怖を含んでいるその獣の三つ首は、プラトンによれば、三つのそれぞれの首は保存、再生、霊化を表し死後、魂が辿る順序を示しているという。そう。死者の灰山の中から出現した獣は、まさしくそんな場所から現れるに、そんな伝承にふさわしい、地獄の代名詞と呼ぶに相応しい外見をしていた。
「ケルベロス!」
「ガッ!」
冥界の番人たるその名を叫ぶと同時、応じるかのよう目の前にいる漆黒の三つ首獣―――ケルベロスが短く雄叫びを返してきた。さなかにも獣はこちらへと距離を詰めてきている。ケルベロスの疾走速度や疾風迅雷を体現したかのように早く―――
―――マズッ……!
弾丸―――というよりも大砲の弾のような速度で迫りくるそれを前に、慌てていつもの双剣、『干将莫邪』を両手に用意し、握りしめてゆく。この場は未だ固有結界の中であるゆえに、武器を用意するタイムロスというものほとんど存在していなかった。そんな有利に助けられつつ、なんとか瞬き一つする間に体勢を整えると真っ直ぐこちらへと突撃してくるやつの動きを予測し、その進路上へと置こうとして―――
「……ッ!?」
だがそうして反撃の一撃を用意する寸前、迎撃の態勢を整えたその瞬間、まるで全力疾走した時のよう全身が風に撫でられるそんなくすぐったい感覚を覚え、体中がざわついた。
―――まて、伝承によれば確かケルベロスも……
「ハデスにより殺傷を禁じられている……! 」
あらゆる剣を瞬時に取り出せる固有結界があだとなっていた。敵に攻撃の意思ありと判断したケルベロスは、これ幸いと反射の能力を発動させたのだ。己の迂闊さを呪うも、もはや過ぎた時は戻ってなどきやしない。
「―――クソッ!」
慌てて用意した双剣を破棄して消滅させると、ケリュネイアの鹿を捕縛した鉄の棒と同じ目的の、しかしそれとは別種の剣を思い浮かべてゆく。そうして思い浮かべたのは、鋼鉄の合金で作られた金属板のような刀身をもつ剣だった。それはケリュネイアの鹿の時に使用した鉄の棒よりもさらには平たく、分厚く、一見すれば塊にすら近くある形状のものである。剣というよりは鉄板や鉄塊に近いそんなものを投影する目的は、もちろん、直進してくる三つ首の獣を先ほどケリュネイアの鹿にやった時と同じようにやがては捕縛してやることだ。
―――ダメージを受けることは免れられないだろう……
あらゆる攻撃を反射する特性を持つ敵を前にたいして、剣などというどう控えめに見ても凶器でしかない物体を投影するなど愚行以外の何物でもない。そしてまた、剣が凶器であるのならば、固い金属の何かを用いてその行動を阻害しようなんて行動だって同様の愚行だ。とはいえケルベロスの猛烈な突進は、どう控えめに見ても綿や布のような柔らかい素材で止まるようなものでない。止めるにはそれこそかつて戦ったヘラクレスの膂力や腕力と同じくらいの威力を発揮する鉄の壁が―――キロではなくトンの量の鉄の塊が必要となるだろう。
―――この際、死ななければ多少のダメージは必要経費として諦めるが……
しかしそんな大きさの鉄の塊を用意したところで、ケルベロスには反射能力がある。すなわち鉄の巨大な塊とケルベロスが激突したならば、ケルベロスと鉄の塊との間に発生する激突の威力はすべて反射され、自分が受けることとなってしまう。あの腕力だけで地面を大きく陥没させるほどのヘラクレスとの激突と同じ威力の反射ダメージ。そんなものをこの脆弱な身に受けたのならば、間違いなく自分の体は粉々に砕けてしまうだろう。
とはいえ、何もしなければケルベロスの突進をまともに受ける羽目になってしまうのもまた事実。ヘラクレスの一撃には劣るだろうが、それでも大砲の砲弾のようなケルベロスの一撃を受けるなんてことはやれば、間違いなく大ダメージを受けるはめになる。また、ケルベロスが反射能力を持つと予想される以上、その突撃を無理矢理止めるのは難しいかもしれないが、ケルベロスに近づかれるのもゴメンだった。
だからこその捕縛という選択肢であり、だからこそ無い時間の中で必死に練った策は、ダメージ覚悟のものしか出来上がらなかったのだ。とはいえそうして生まれたこのダメージ覚悟の捕縛作戦は、考えうる限りでは最高の成功確率数値を叩き出したもの。……それでも。
―――この即興で練り上げた策は、余りも不確定要素と不安材料が多すぎる……
もちろん即興で生み出したそんな策の成功確率は決して高くない。だからこそ、果たして本当に追い詰められた自分がほとんどない時間の中で必死に用意した策は、突撃してくるケルベロスに対して通用するのかという、不安が拭い去りきれない。
―――いや、いけるはずだ……!
信じきれぬ自らの策を、それでも大丈夫であると信じるため、自らの策と策が完成に至るまでの流れを振り返ってゆく。
―――ケルベロスはその見た目からして、犬科の生物と同じ特性を持つとみてよかろう……
多くの生物は周囲の情報を視覚からもたらされる光の情報にゆだねている。犬科の動物は外界の情報を取得するにあたって最も嗅覚を頼りとしているが、それでも三割ほどは外界からの情報取得を視覚にゆだねている。たとえ二番目、三番目の参考情報だとしても、例えば人間だってガスの臭気を感じて火災の危険を察知するように、犬だって空から突如として岩が落ちてきたのを目撃したのなら、避けようとするものだ。
―――どのような生物であれ、唐突に目の前へと鉄の壁が出現したのなら、身を引くもの……
人間、突如目の前に現れるのが綿の塊や布の塊であるのならば恐れずに突っ込む輩はいるかもしれないが、鉄の壁が目の前に現れた時、どのような愚か者であっても間違いなく足を止めるものだ。だって人間、誰しも不要の痛みを恐れている。そしてまた、そのように痛みを恐れるのは、人間だけでなく、犬猫のような動物だって同様だ。
―――ならばその神代の魔獣とはいえ、犬科と同じ特徴を持つ生物であるケルベロスも同じような反応をしてくれるはず……
『鉄の壁を驚いたケルベロスが足を止めるか、そこまでいかずとも速度を落としたケルベロスを、多少のダメージ覚悟で無理矢理にその周囲を鋼の合金の棒で覆ってしまい、奴の回りの空間を埋めつくして捕縛する』というのが、今回私が即興で用意した策である。また、この度ケルベロスの認識を欺くために用意したのが鉄の塊ではなく鉄の板であるのには、万が一驚いたケルベロスがしかし足を止めなかった際の保険だ。すなわち、ケルベロスと衝突する物体の質量を少しでも減らしておくことで、最悪の場合には発生するだろう激突の威力を少しでも軽減しようという試みである。
―――動きを封じさえすれば、先ほどと同じ手段で捕獲は可能であるはずだ……
とにもかくにも、反射能力持ちであっても隙間なく体を固い物質で覆ってやれば、その挙動を封じてやれることは、ケリュネイアの鹿で実証済み。そうして捕縛することさえできれば、おそらくはこのケルベロスという神代の魔獣も伝承のように消えてくれるはずだ。
―――だが……
とはいえ、先ほどのケリュネイアの時と今しがたのケルベロスの時とでは、状況が違っている。
―――先ほど私があれほど簡単にケリュネイアの鹿を捕縛できたのは、間違いなく私の鉄の棒を生み出す行為がケリュネイアの鹿に攻撃として認識されなかったからだ
ケリュネイアの鹿の突撃を防ごうとして物理無効化スキルを発動したダリは、しかしケリュネイアの鹿の突撃によって吹き飛ばされてしまった。それはおそらく、ダリがスキルを発動する直前、盾を構える際、槍を片手に握っていたことが原因なのだろう。すなわち、ダリの武器を構えて守護をする体制を、ケリュネイアの鹿は迎撃の態勢―――すなわち攻撃の準備として捉えたのだ。
―――そう……
あの時ケリュネイアの鹿は、ダリの構えを攻撃として認識した。だからこそあの激突の衝撃はダリへと反射されてしまったのだ。それに気づいたからこそ私は、同じく攻撃反射能力を持っていたケリュネイアの鹿に対して、素手で応対した。
―――あの時、ケリュネイアの鹿は、私の固有結界を前にしてひどく混乱した状態だった
攻撃の意思を見せなかったこと。混乱の隙をつけたこと。固有結界という投影のロスを零に出来る切り札の存在。そのすべてが、私があの時、ケリュネイアの鹿を捕縛できた大事な要因である。ケリュネイアの鹿は固有結界の能力を知らなかった。ケリュネイアの鹿は、鉄の棒で囲まれる直前まで、鉄の棒の存在に気が付かなかった。ケリュネイアの鹿はさらにそうして囲まれた際、鉄の棒が私の行為によって生み出されたものだと認識できていない状態ですらあった。ケリュネイアの鹿は、そうして自らの身に起こった出来事が、私という存在によって引き起こされた捕縛行動の結果だと認識していなかった。そう。
―――混乱の極致にあったケリュネイアの鹿は、私の言葉によって認識させられるその直前まで、それが自身に対する敵対行動であるという認識すらなかったのだ
だからこそ私は、ケリュネイアの鹿をほとんど無傷と言える状態で捕縛できたのだ。……だが。
―――ケルベロスを前にしている今、状況はあの時と大きく違っている……!
この度私は、灰の山の中より突如として現れたケルベロスの気配と物音に反応して剣を用意し、迎撃の姿勢―――攻撃の意思を見せてしまった。すなわち―――
―――私がこれからするあらゆる行動は、敵に攻撃として認識されてしまう可能性が高い……!
たとえ敵がこちらの思惑通りに足を止めてくれて、たとえこちらが敵を先と同じように鉄の棒で囲めたとしても、敵はすぐさまその行為をこちらの行動の結果として認識してしまうかもしれない。というよりも、その可能性が非常に高い。
―――ケルベロスはすでに、こちらの切り札の能力を認識、把握してしまっている……!
そう。相手はすでにこちらの能力を把握、認識してしまっている。ならば私がケリュネイアの鹿にやったよう鉄の棒でケルベロスを取り囲んだところで、ケルベロスがそれを捕縛行為として認識してくれなければ―――こちらのあらゆる行動が攻撃であると認識されたままであれば、そんな囲いだって破られる可能性があるのだ。
一般の世界にも『病は気から』という言葉があるよう、あるいはそれ以上に、こと魔術や概念を操る戦いにおいて、認識とはとても重要なファクターだ。認識によって魔術の効果範囲が広がることだってあるし、あるいは効果の対象が増えることだってある。身近な実例として、術者の認識によっては、過去の未熟な自分が未来の自分を凌駕することも、あるいは偽物が本物を凌駕することだってあり得るのだ。それほどまでにこと認識というものは、概念戦―――魔術戦において、重要なファクターとなる。先ほど私がケリュネイアの鹿をあっさりと捕縛できたのには、私だけが事前に相手の情報を持ち得ており、相手が認識するより以前に相手の精神を揺るがし、相手がこちらの言葉を真実であると認識しやすい状況に持っていけていたからこそだといえるだろう。……だが。
―――認識をそんな方向に導くための情報や、それらにおける状況の有利というものが、もはや私にはない……
情報の天秤はすでに逆側、相手の方へと傾いてしまっている。こちらはすでにジョーカーを使用してまで役と札を揃え終えてしまっているのだ。対して、敵は未だ役といくつかの札を隠していて、さらには札交換とレイズの権利まで残しているかもしれない。状況は圧倒的不利。一応、札交換の権利と相手にも私にも不明な札は、こちらにも残っている。だが―――
―――今の彼らにまともな援護を期待することは……!
そんな未知のカードを出してくれそうな共に歩もうと決めた彼らは今、連続して起こる異常事態に精神が対応しきれていないのだろう、唖然としてしまっていて動かない。彼らは全員が固有結界を発動して以降、呆気に取られている時間のほうが長いのだ。
―――だが、それも当然か……
無論、それを不思議とは思わない。固有結界は有する心象領域を展開し、自らにのみ完全理解と完全把握可能な絶対有利な世界を展開する魔術。そんなたった一人が自らと相容れぬ存在全てを完全排除するために展開されるのが、魔術師の工房の最上位版へと世界を変貌させる魔術、固有結界である。すなわち本来、この固有結界という心象領域において心身の十全を保てるのは、その領域の主たる自らのみだけである。だからこそ彼らの不明の態度は間違いなく正しい反応であるといえるだろう。
―――呼びかけて彼らの意識を正常に戻し、援護を頼む暇などすでにない以上……
すなわちそんな私の独り善がりの世界へと招き入れられてしまった彼らは被害者で、私はそれの加害者である。ならば私のためだけに用意された世界に放り込まれた彼らの動きや反応がいつもより鈍いのも当然の出来事で、だからこそ、ケルベロスに反応しきれない彼らを恨むなんてもってのほかの出来事だ。
―――ケルベロスが仕掛けてくる突撃を、今は私だけで何とかするしかない……っ!
「投影、開始/トレース・オン!」
言葉と共に灰の山の中を進むケルベロスの周囲へ通用するかも定かでない太い鉄の板のような剣を多数生み出していく。ケルベロスの前方と進行方向には分厚く見える鉄板の剣が出現した。一見ジグザグと乱雑に配置されただけに見えるそれは、しかしその実、敵の挙動を制限するよう計算されつくしている。そんな鉄板の剣の群れは、ケルベロスからすれば、まるで分厚い鉄の一枚壁に見えているはずだ。もしも突っ込んでくるのが普通の動物ならば、蛇行、一定の狭い間隔に配置されたそれらを前にして止まるしかないと判断し、ぶつからぬようスピードを落としてくれるだろう。……だが。
「グ、ルァッ!」
そんな必死の抵抗と振り絞った知恵を弱者の悪あがきと嘲笑うかのように、ケルベロスはさらに速度を上げて突進してきて―――
「ガッ!?」
直後、鉄の棒で思い切りぶん殴られたかのような痛みが、脳天を貫いた。
「グッ―――、クッ……!」
一度訪れたそれは、二度、三度、四度、五度と、主に頭部から肩への箇所に間断なく訪れる。予想通りで訪れたしかし想定以上の痛みは、晴を閑所に送り込もうと、容赦なく、自身が生み出した鉄板剣の数の内、ケルベロスという魔獣が弾き飛ばした鉄板剣の数だけどこまでも続いてゆく。
「グ、グガッ、グゲッ!」
鉄の板の剣をまるで紙切れのように弾き飛ばしながらやってくるケルベロスは嗤っていた。三つの首から零れ落ちる嘲笑の声は、低音のトリオとなって本体の疾駆より早くこちらの耳に届いてくる。それは間違いなくこちらの抵抗を無意味と笑って生み出されたものに間違いない。……そう。
―――……そうか
抵抗は無意味だった。捕縛のために生み出した鉄の板の剣は、全てが飴細工か何かのように折れてゆく。ケルベロスと鉄の板の剣の衝突によって生まれる衝撃は、全てこちらが請け負う羽目になっていた。どうやら奴は予想通り、一度でも敵の行動を攻撃と認識してしまえば敵のほとんどあらゆる行動を反射することができるようである。
―――抵抗はもはや無意味か……
そして私はすでにケルベロスが最初に出現した時点で、反撃の姿勢を―――攻撃の意思を見せてしまっているのだ。また、私はさらに切り札をも見せてしまっている。そうして私の攻撃の姿勢と切り札を認識したケルベロスは、すでに私の行動の全てをすでに攻撃のそれと完全に認識し終えていた。だからこそ、私の抵抗はもはや無意味に散ってゆく。
―――あらゆる生物の脳みそは、一度そうであると認識したが最後、意識の手綱を放さない限り、その出来事をそうであると認識し続ける
ケルベロスの三つ首の視線はすべてがずっと一直線にこちらへと向けられている。その昏い三対六個の視線は、灰山をかき分けるさなかであっても、鉄板の剣の群れを弾き飛ばすさなかであっても、決してこちらから外れることはなかった。細かい塵や激突によって一つが目を閉じることはあっても、そのほかの二つがその隙を補完する。ケルベロスの首はまるで三本の矢のたとえのように、自らの意識の隙を補い合って強靭な一本の矢と化していた。
―――ならば……
ケルベロスは私から認識を外そうとしない。だからこそ抵抗は無意味に終わってゆく。こちらに攻撃の意思が認められてしまった以上、もはや固有結界という己を絶対優位の場所に押し上げるはずの空間すらも錆びた剣に等しかった。何をしようが、その何かをするということそのものが己を傷つける。そんな不条理極まりない法則がしかしケルベロスによって、この世界へと施行されてしまっている。法の拒絶は許されない。なぜならそれは、この世界の拒絶に等しいからだ。
「グル、ガウッ、ガッ―――!」
不遜にも制定された法に逆らおうとした存在へ、番人が迫りくる。地を蹴る足音がたった一匹ぶんしかないそいつは、しかしまるで息の合わぬ声を漏らしていた。吐息から判断するに、片首は多分、苛ついているだけである。もう片首は多分、噛み砕いて呑みこみたいのだろう。残る片首は多分、喉笛をちぎってやりたいようだった。どうやらケルベロスの三つ首は呉越同舟の運命を強いられている胴体ほどに仲が良くないようである。だがしかし。不仲であるはずのそんな三つ首は、私という共通の敵を前に、意志を一つにして駆け抜けてくるのだ。ケルベロスの様相は、まるで人間という存在の性質を表すかのようだった。いわば敵は、旧人類が背負っていたサガそのものである。だからこそ抵抗は無意味で、拒絶は旧人類の作り上げたこの世界の否定を意味しているかのようだった。……だからこそ。
―――ならば私は、抵抗を止めよう
私は攻撃の意思を以て飛び掛かってくるそんな存在を、ほとんど何の抵抗もなしに受け入れた。
「―――ッ」
「グ、グォ、グルッ!?」
そうして三つの首の口をいずれも大きく開きつつ飛びついてきたケルベロスは、しかし飛びついた獲物がしかしまるで意思持たぬ人形であるかよう簡単に押し倒せてしまうことに驚いたのだろう、いずれの首からも戸惑いの声を漏らしてゆく。突撃の衝撃によってケルベロスの毛皮の隙間に残っていた灰の礫が飛び散り、あたりに細かく薄い灰色の煙を生み出していった。瞬間、肌の上にあった違和感が消失する。ケルベロスが意識を途切れさせ、反射能力の効果が一時的に失せたのだ。今なら奴の喉元に刃を突き立てること出来る。とはいえ、抵抗の力を完全に抜いている私に、そんなこもは出来ない。微かでもそんな攻撃の余力を残していたら、突撃を真正面から受け止めるこの試みは成功しなかっただろう。私の力が零だったからこそ、反射の影響も零となり、私はケルベロスの激突の威力を受けるだけですんだのだ。
激突の最中、鳩尾にケルベロスの頭部がぶつかった衝撃で、私の体はくの字に折れ曲がる。勢いに前へとつきださせられた腕はガクガクと揺すらされ、掌がすぐ近くにあるケルベロスの体を幾度か叩いてゆく。相手の反撃を完全封殺してやらんとしていたのだろう、触れた相手の体、突撃にはとてつもない威力が秘められていて。またその体躯は、そんなバカみたいに力を生み出した筋肉の影響でだろう、パンパンに膨れ上がっていた。
―――だが……
一方、そんな力ずくの突進をかましてくるケルベロスとは対照的に、奴の突撃を受け止める私は自分の足で立つ力すら抜いている。力を籠めた者と抜いた者。軍配は当然、籠めたものへと上がり、私はそんな突進の威力を当然受け止めることなど出来ず、なされるがまま突撃の威力によって十数メートルほど吹き飛ばされた私は―――
―――それは、生きる足掻きを止めるということを意味しない……!
そのまま私と一緒に飛んできたケルベロスによって地面へと押し付けられてゆく。
「ガッ―――!」
直後、背中に予想以上の衝撃がやってきた。
「ハ―――」
全身の骨が砕けたかと思う衝撃に、肺の中へと溜めこまれていた空気が口から余さず漏れ出してゆく。
「ァ―――」
頭部へガツンと衝撃が来て、視界がぶれたのはその後だった。
「―――ッ」
空気を完全に失った肺が、酸素を求めて訴えている。だが、鳩尾あたりにケルベロスの頭が直撃したせいで、呼吸を満足にすることも出来なくなっていた。
「―――……っ!」
背中が痛い、胸が痛い、頭が痛い、肩が痛い、腕が痛い、腰が痛い、足が痛い、体の中が痛い。痛みを感じない箇所は、もはやこの体のどこにも存在していなかった。続けて身体の上にのしかかってくる重さが、そんなすでに訪れていたあらゆる痛みを増幅させてゆく。……だが。
「グ―――」
受け入れると決意した。だからこそ予想通りやって来ているそんな痛みに、負けてやるなんてありえない。歯を食い縛りながら必死で意識を保ち続けてゆく。起きてしまった出来事を覆そうとする無意味さはすでに悟っている。一度生まれた痛みは傷となり、その後もずっと心の傷として残り続けてしまう。この世界はかつて、そんな痛みと傷にばかり満ちていた。かつて私は、こんな世界の痛みに耐えかねて、現実から目を背け、空想に逃げ込んだ。……けれど。
―――この世界で生きていくと決めた……!
「こ……、の……!」
だからこそ私は、そんな世界の延長線上にある今のこの世界で生きていくために、必死で、この身を喰らいつくそうとする痛みに抵抗を重ねてゆく……!
「どけ……、この……!」
だが、そうしてまともに意識を取り戻した私が圧し掛かってきているケルベロスを跳ねのけようと力をいれて奴の体を押した。瞬間―――
「グ、ギ、グルァ――――――!」
三つの首に連続していた意識を途切れさせたはずの奴は喪失状態にあった自我を同時に取り戻すと、私の肩を押して上にのしかかり、その三つある口の牙を全て私に向けてくる。
「――――くぉっ!」
瞬時、その三つの口の撃を防げるほどの巨大なダリの盾を彼我の間に投影してやり、なんとかその三連同時攻撃を防いでやった。
「―――ちぃっ……!」
高い金属音が鳴り響く。反射的にダリの盾を投影したのは、単にそれが今のこの目に映った最も固そうなものだったからだ。奇しくも私の持つ最高硬度の盾と全く同じ名前を持つその金属の盾―――アイアスの向こうでは、ケルベロスが憎々しげに特有の獣臭と腐敗臭を漂わせながら牙をかち鳴らす音が聞こえてくる。ケルベロスはこちらの喉元を噛み切ろうと盾の隙間に口をねじ込んで来ようとしていた。
「小汚い口を近づけないでもらいたいものだがな……!」
「エミヤ―――!? ……このっ!」
悪態を着くと、ダリが叫びながら近寄り援護に入ってこようとする。彼は私の投影した盾を見て、一瞬驚いて見せたが、瞬時に知識の採集などよりも現状の打破を優先して、その獣に体当たりをぶちかました。だが。
「がぁ!」
ダリはケルベロスに攻撃を仕掛けた瞬間、それ以上の勢いで元来た方向へと吹き飛んでゆき、近くにあった蛇の残骸の灰山に激突して、あたりに灰の煙をまき散らした
「いかん! こいつに手を出すな! こいつは鹿と同じく、攻撃を反射する!」
忠告が風に乗って荒野に響き渡る。言葉が全員の耳に届くその間にも、私は必死に現状を打破すべく、ケルベロスの伝承を思い返してゆく。
―――思い出せ。何がいい。伝承だと、どうやってヘラクレスはこの試練を乗り越えた!?
伝承では、ハデスに生け捕りのみを許可されたヘラクレスは、素手でその首を絞めて太陽の元に引きずり出したという。記憶の中にあるあの鉛色をした巨体の大英雄なら、確かに己の肉体に反射のダメージがあろうと、平然と無視してそんな偉業をやってのけるのかもしれない。だが、あいにく彼のような丸太のような腕脚と、巨木のような鋼の体を持たない私には、そんな剛勇ぶりを発揮するなど、到底真似できそうもない。
「――――――、――――――、―――!」
「く……そ……」
考えている間に、盾が押し込まれる。敵の声はもはやまともに聞こえてきていなかった。腕に力が入らなくなってゆく。いつの間にか復活した反射の効力によって、盾にこめた必死の抵抗の力がそのまま私の方へと跳ね返って来ている。そのせいもあってだろう、いつもの倍以上の速度で私の肉体は疲労し続けているのだ。気を抜けば集中が途切れそう。敵の攻撃を防ぐ。もうそれ以外の事に意識を割く余裕なんて残されていなかった。もちろん、固有結界を保つ余裕なんてものもない。というよりも、事ここに至っては、もはや固有結界を維持しておく意味などまるでない。だってケルベロスはもう目の前だ。一対一の決闘において、固有結界なんて余計な策を弄する余裕なんて、体の何処にも欠片すら残ってやしなかった。
―――余力をすべて注がねば……、やられる……!
「ぐ……!」
無駄な魔力と体力の浪費を防ぐべく、慌てて固有結界を解除する。途端、剣の世界は消え去り、あたりは元の番人部屋の光景へと戻っていった。そうして戻ったのだろう光景に視線を注ぐ間もなく、残った魔力をすべて強化の魔術へと回してゆく。だが、固有結界という世界を書き変える大技の反動で魔力は空っぽに近く、強化魔術の限界時間もすぐそこまで迫っていた。
「ダリ……!? お、おい、エミヤどうすりゃいいんだよ! 」
吹き飛んだダリの側に寄って彼の体を起こしたサガが、こちらに言葉を投げかけてきた。
「反射する……って、あ、あれ? さっきの眩しい鹿は? 」
続けざま、反射という言葉でその存在を思い出したのか、サガが状況にそぐわない間抜けな声を漏らし、煙の散る周囲を見渡した。
「……というか、世界がいつの間にか戻ってる!?」
サガはそして、すぐさま失せた煙の中に、目当ての獣がいないことを確認すると、固有結界が解けている周囲の光景に一層困惑したのか、あたりを見渡してはこちらの様子を伺って、こちらの様子を見てはあたりを見渡して、という行動を幾度も繰り返す。小柄な彼が乱雑ながらも小ぎれいに整えられた金髪を振り回すその様は、どうしてか、かつての聖杯戦争に主として参加した際のパートナーであり、また、英霊として参加した時には肩を並べる存在として共に戦った騎士王の取り乱すさまのようで―――
「な、何が起こってるってんだよ!」
「―――くっ、くくっ……」
そんな彼女とは似ても似つかない戦闘でとるにしてはあまりに不用心な様がなんともおかしく、危機的状況であるにもかかわらず、私は思わず失笑を漏らしてしまう。
「む……!?」
瞬間、笑いに余裕が生まれたのか、ぶれた視線の先、あたりに散らばっていた灰の煙や山が消えてゆく光景の中に、黄昏色の光があることに気が付いた。光はいつの間にか暗がりになっていた番人部屋の中で唯一の明かりとなっている。だから視線がそちらの方へと吸い寄せられてゆくのはきっと必然だった。そうして迷宮を照らす光は戦闘直前と違い、すでに部屋の片隅を照らすばかりである。
―――……!?
途端、盾を揺らす衝撃が少しだけ軽くなった。違和感に眼前の獣を見やれば、目の前の障害を無視して私が別の場所に視線を向けた行為につられたのだろうか、ケルベロスの三つの首のうちの一つは私が先ほど視線を向けたのと同じ方角へと向けられている。番人部屋の端に太陽の光を見つけたケルベロスの眉間にしわが増えてゆく。闇色の瞳の中には、限りないほどの嫌悪の感情がこめられているようだった。
―――……!
太陽の光を睨め付けているケルベロスの瞳を見て、私は天啓を得る。
―――太陽の光……!
確か先程も思い出したようにヘラクレスは、ケルベロスの首を締め上げた状態で、ケルベロスを太陽の下へと連れ出した。する途端、奴は悶え苦しんだという。思い出したそれは、目の前のこの神代の魔獣を打倒、殺傷せしめる類の伝承ではなかったが、この無敵の獣に通じる唯一の手段だろうに違いなかった。
―――だが、どうする……!
とはいえ、ケルベロスに押し倒された現状、あの太陽の光が照りつける場所まで奴を引きずり出す手段が思いつかない。反射という無敵の鎧を纏った猛獣を縛り付けて首根っこ引きずることのできる手段を、私は持ち合わせていないのだ。
「グルゥ……!」
一方、さなかにも散った気の統一を済ませていたケルベロスは揃って一向に力を弱めないまま、私を地面に抑えつけ、私を食い散らかそうと臭い口を開閉して牙を鳴らしてくる。敵は余裕の態度だった。敵は己の絶対的優位を知って、動こうとはしていない。そんな中、しかし奴の荒く吐きだす息の中には多くの唾液が混ざり始めてきて、それが構えている盾の表面に触れた途端―――
「!?」
投影品の盾に亀裂が生じ、そこから植物の球根のような根が伸びてきた。信じがたいことに、その植物は金属の盾の上に発芽し、分厚い金属をかち割って、根っこをその金属板の中に伸ばしてきたのだ。
―――植物……!? なんだ、なんの……
ヒビの入った盾の向こう側に、紫色の烏帽子が目に映る。帝王紫よりもはるかに薄い、かつての日本の貴族が被っていた折れた冠に似た紫色の花を持つ植物といえば、思い当たるものは一つしかない。
―――そうか……!
「トリカブト!」
そういえばヘラクレスの神話には、太陽に当たって悶え苦しんだケルベロスの唾液が地面に触れた瞬間、そこから生えた植物がトリカブトになったと言う伝承があった。
「―――ちぃ……っ!
伝承が現実で再現されているのだという事実に、思わず舌打ちをする。
―――くそ、こんな隠し球を持っていたのか……!
そうこうしている間にも盾は植物によって次々と侵攻を受けていた。盾の亀裂は一秒ごとに大きくなってゆく。通常、投影品というものは一定以上の破損が起これば、魔力に還って消えてしまうものである。だが、私がこの度投影したダリの盾『アイアス』は、盾という特性ゆえに、ある程度の亀裂が入り、破損が起こっても、投影品のそれは崩れて消えずにいてくれる。だが、それでももう盾の半分以上は、植物によって役目をはたせない状態に陥っていた。おそらくはあと十数秒もしないうちに、この投影品の盾は消えてしまうだろう。
―――どうする……!?
盾が砕けたあと、盾を再投影する時間なんて残されていない。そんなのは、先のケルベロスという魔物が見せた速さや、今の繰り出してくる奴の攻撃の鋭さから考えても明らかだ。かといってこの攻防を繰り広げている最中、別のものを投影しようと余計な意識を割けば、その隙をケルベロスは見逃さず、私の喉元にはその鋭い牙が突き立てしまうことだろう。
―――……どうする!?
また、唾液が即効性の効力を持つ猛毒の植物を生むとわかった今、噛みつかれて即座に引き剥がせたとしても、牙を突き立てられた場所からそれが発芽し、根を張り、体内に侵食してくることも考慮しなければならない事態だ。トリカブトという猛毒の植物の根が体内に侵入して根を張るなどという事態に陥ってしまえば、たとえ毒を防ぐアクセサリーがあったとしても、高確率でその後に待ち受けているのは死の運命だ。それどころか唾液が脳天や胸付近にあたったのならば、その場で即死してもおかしくない。
―――もう時間がない……!
そうこうしている間に、部屋の隅を照らしている希望の光すらも失せてゆく。絶望の闇は周囲に広まりつつあり、夜はすぐ背後にまで迫っていた。やがて時計の長針が一つ二つ進む間にあの光が完全に失せてしまう事を悟りながらしかし何もできない歯がゆさが、我が身をどこまでも焦がしてゆく。けれどいくら焦ろうと死力を尽くして敵の攻撃を防ぐのに精いっぱいの自分には、やれることなど何も残されていなかった。
―――絶体絶命か……!
詰みの瞬間が近い。倒すには太陽の光が必要だ。だが、太陽の光はすでに数百メートル先、離れた部屋の隅へと落ち込んでいっている。もうどうあがこうと、ここからあそこまでいって奴に太陽の光を当てることはかなわないだろう。ならばこのケルベロスという冥府の魔物を倒すには、もはや千、二千メートルに上空の大地へと足を運んで、沈みゆく太陽の光に直接当てるしか方法はない。しかし、そもそもそれ以前に、敵はあらゆる攻撃を反射するのだ。今やそれが拘束であってもその力を反射する相手を、どうやれば地上まで運べるのか。まさか大英雄のように、いく日もかけて洞穴をひたすら逆走してやらなければならないというのか。
―――進歩なく、どこまでも伝承通りか……っ!
心中で悪態を吐くも、状況は変わらない。押し迫る敵は、その絶対的優位を知って自分を嬲っている。例え己の身を捕らえたところで、倒す手段がないと知っているのだ。その愉悦を多分に含んだ憎たらしい表情を見たとき、思わず言峰綺礼という男のことを思い出した。
―――なるほど、ここまで奴の筋書き通りか……!
おそらく奴は、私が鹿やヒュドラという相手に固有結界を使用することを読んでいた。そうしてどうにかしてヒュドラを倒し、鹿を捕縛し、そうして精魂疲れ果てたところで、本命の獣を登場させる。そうして、やった、倒した、と安堵したところに、討伐の手段がない獣を送り込み、一転して最高の状況から絶望の底に叩きこむ手腕は、なるほど、人が何をすれば一番嫌がるかを驚くほど正確に読み取る奴だからこその手練れの嫌がらせだ。
―――本当に、あの、言峰綺礼という男はどこまでも性格が捻じ曲がっている……!
「エミヤ、どうすればいいんだよ! 」
「……! 」
近くでサガが叫んでいる。ダリはこちらの様子を観察したまま手が出せずに戸惑い、ただ見に徹していた。何とかしようとはしているが、手出しができずに心底悔しがっているのを、彼の巨体が起こしている短い感覚の貧乏揺すりから見てとれる。
「弱点は……、恐らく、太陽の光だ……! そこまで連れて行けば、悶え苦しむはず……! 」
「た、太陽の光って……今、この時にここでかぁ!? 」
解決手段を求めての言葉に答えをやると、サガが頓狂な声をあげて赤い天井を見上げていく。口をぽかんと開けて間延びした声をあげたのは、策として提案された手段があまりにも非現実的だったからだろう。
―――私だってそう思うとも……!
「グルゥゥゥゥゥッ!」
「ぐ……っ!」
答えるよりる間にも、獣の口が迫っていた。その勢いは先ほどのものよりも強く素早くなっている。おそらく己の弱点を露わにされたことで怒ったのだろう。勢いを増す三つ口は、防ぐ盾をどうにかどかそうと、龍頭のついた尾っぽまでをも動員して、敵は一枚盾の向こう側で暴れている。私がそうして盾で敵の行動を阻害する抵抗すら反射の対象とみなされているようで、先程からもう両手ともに掌の感覚は殆ど残っていない。もう後数十秒も持たない。
「エミヤ、太陽が弱点なんだな!? 」
「―――ああ! ダリ、どうにかできるのか! 」
聞きかえすと彼は静かに頷いて、響の方を見た。
「地上に行く必要があるというのであれば、私には何もできないが―――」
そうして見つけるダリの視線は、正確には響ではなく、彼女が道具を保管している―――特に戦闘用でない方を保管するバッグへと注がれている。
「そうか―――」
私は彼の視線を見て、ここにくる際、直前に使用したアイテムの存在を思い出す。必死の最中記憶へと蘇ってきたのは、私たちという存在にほとんど一切の消耗をさせないままこの場所へと運ぶことを可能とした、そんな地上とこの迷宮内とを自在に行き来できるようにするというそんなアイテムだった。
「携帯磁軸か! 」
必死の叫びが一帯に木霊し、彼女の小さな体がびくりと震えあがる。響はそして、おびえるようにしてその赤毛を揺らすと、自らのバッグへとその小さな手を添えた。
*
「携帯磁軸か!」
叫び声が周囲に鳴り響く。本来ならば深みのある重低音の声をしたエミヤの叫び声はしかし今、どこか甲高く悲鳴じみていた。というよりも、それはまさに悲鳴だったのだろう。常の彼が見せない珍奇な態度が気付けの効果となったのか、あまりの非現実的な出来事の連続に停止していた思考が揺さぶられたかのように動き出す。
―――携帯磁軸……?
「響!」
ダリが自分の名を叫んでいる。白紙の思考とは裏腹に体は勝手に怒鳴るような声へと反応し、上下した。
「磁軸だ! 携帯磁軸を使ってくれ!」
「け、携帯磁軸を? 」
反射的に手がカバンへと伸びている。戸惑う思考とは裏腹に手があっさりと動いてくれたのは、今が戦闘中であるという自覚だけは失っていなかったからだろう。けれど今が戦闘中であるという自覚こそが、反射的に伸びかけた手を途中で止めさせて、いきなりすぎる提案に疑問を抱かせてゆく。
―――何を言っているのだ。なんでこの戦闘の非常事態に、そんなわけのわからないことを言い出すのだ。だって、そんな、できるわけがないだろう? だって、携帯磁軸は
「だ、だめです! 携帯磁軸の設置は安全な場所でないと! 」
そうだ。携帯磁軸は設置場所が厳密に決められている。当然だ。だって携帯磁軸とは、通常の樹海磁軸の流れの中に無理矢理出入り口を作ることで、迷宮内と迷宮外の移動を可能とする道具なのだ。そう。樹海磁軸が使用者の意思によって使用者を転移させるものであるのに対して、携帯磁軸は道具の周囲一定範囲にいるすべての生物を一気に移動させてしまう道具である。すなわちこれは、その気にならずとも一定範囲に望まぬ客がいる状況下であれば、そんな招かれざる客すらも招待してしまう危険な道具なのだ。だからこそこの携帯磁軸という道具は、その設置に厳しい制限がかけられている。
すなわち携帯磁軸装置の設置が許容されているのは、層の出入り口の衛兵が見張っている場所―――つまりは、エトリアの衛兵の携帯磁軸装置影響範囲一体の完全監視が可能となる場所だけだ。もしもそれ以外に設置した場合、設置した人間と所属する団体に厳しい罰則が与えられてしまう。
「ましてやここは、番人部屋ですよ!? 」
加えてここは、番人部屋。厳密に定められた法の中でも、何があろうと許可など下りることのないだろう、さらに固く設置を禁じられている禁忌の場所なのだ。そん場所で使用なんてしたら、それこそ極刑は免れられない。だというのに、彼はいったい何を―――
「その番人を倒すための手段がそれしかないらしいからそう言っている! 」
思っているのか。などと文句をいう暇を与えないといわんがままこちらへと近寄ってきたダリは、余裕を取り繕う間もないというよう声を荒げつつ、一息すら置くこともせずに叫ぶと、まさに必死という体でこちらの両肩を強く掴んでくる。
「―――っ……、じ、磁軸でどうやって倒すんですか!? 」
そうしてつかまれた肩の痛みに耐えかねて振り払うよう彼の手を払いのけると、悲鳴をあげるかのように叫んだ。
「わからんがエミヤが言うには太陽の光が弱点らしく、ここでは倒せないというんだ! 」
余裕を失っているダリはお返しと言わんばかりに一切の遠慮がない態度で叫ぶと、私のバッグへと目線を向けてくる。視線の理由はこの中に彼のいう携帯磁軸が入っているからだろう。その視線には必死以外の余分な感情はなくて、もしも彼が自分で使えたのなら、迷わず使用していただろうと思わせる真剣さだけで占められていた。けれど。
「わ、わからない……、らしくて、って……」
返ってきたあやふやさを含む答えを前に、躊躇以外の答えを返せない。携帯磁軸の規定場所以外での使用は、無断での土を掘削する位の禁則事項だ。私たちが、番人の部屋で、それも戦闘中に使用すれば間違いなく私は追放を免れないし、それどころかギルドの彼らも、それと協力したエミヤも追放を間違いなく同じ処分を受けるだろう。
―――そうなれば、私は二度とエトリアの土地を踏むことができなくなる
いや、あるいはそれ以上の罪が―――つまりは処刑の判決が、私に―――私たちに下されるかもしれない。私の行動一つで死を命ぜられた罪人になるかもという怖気が全身を貫いた。犯罪者に―――それもエトリアの長い歴史の中にほとんど存在しない名を残してしまうような重犯罪者になってしまうかもしれない可能性を思うと―――
―――私の判断一つで……?
それだけで得体のしれない恐れが湧き出てきて、体が震えた。私の判断一つで、不名誉の烙印が私に―――私の所属しているこのギルドに押されてしまう。赤死病のときに味わったあんな思いをまた、それも今度は他の人もかつて私が味わったのと同様の思いをさせてしまう。そんなの、考えたくもない事態だ。判断を下してしまうのが怖かった。この場で携帯磁軸という道具を使えるのは、ツールマスターである私だけだ。すなわち、私の判断が私どころか、私たち全員の未来を死の運命へと確定させてしまうかもしれない。そう。私の判断が、このギルドのみんなから目を向けてもらえなくなる存在にしてしまうかもしれないし、そうでない道を選ぶと今度はシンのように―――
「―――……ッ!」
皆が死んでしまうかもしれない。この世界から彼らがいなくなるかも、と。そう思った瞬間、胸がさらに締め付けられるような感じを味わった。呼吸は荒くなり、とてもじゃないけど思考はまともになんか働いてくれない。訪れた感覚によって、目の前は真っ暗になってしまいそうだった。
―――誰か……
助けて、と。そんな頼りない全身を支えてくれる止まり木を探すよう周囲を見渡すと―――
「グルァッ!」
「くっ……!」
今まさに敵に食い殺されそうなエミヤの姿が目に映りこんでくる。そんな姿に思わずはっとした。いつも傍若無人なくらいに自信満々で、でも実際にそうして問題ないだけの強さと頭の良さを兼ね備えていて、先程などは破天荒にも世界そのものというものを変貌させて番人を討伐してみせた彼は、しかし今、この世界の地べたに背をつけて弱々しく必至に抗っている。
「グル、グ、グルゥゥゥゥゥッ!」
「く、そ……!」
エミヤのいずこかより生み出したダリの盾―――『アイアス』は、もうボロボロだ。ケルベロスとかいう魔物の垂らす涎には触れた部分に植物―――トリカブトを生み出す効力があるらしく、エミヤの『アイアス』とその周囲は紫色の毒々しい花畑へと変貌させられていた。土竜除けの彼岸花というわけではあるまいが、私たちと彼との間では、世界を断絶するかのようにトリカブトが咲き誇っている。そんな毒々しいトリカブトの花畑の中心では、エミヤが周りに咲く毒々しい色の花を散らしながら迫り来る敵の牙をなんとか避けていた。浅黒い顔の皮膚はトリカブトの茎や葉によってだろう細かい切り傷だらけで、同じ境遇によってなのだろう手もボロボロだった。彼のそんな彼の姿に私は初めて、エミヤが一人で平然となんでもこなせる超越者なんてものでなく、私と同じ人間であることに気付かされてゆく。
*
私は何となく、エミヤという人物は私たちとは違う特別な人なのだと思っていた。だってそれも当然だろう。彼はこのエトリアの長い歴史の中でも存在しなかった、たった一人で新迷宮という完全に未踏破の迷宮の複数層を踏破したという化物じみた実力と経歴をもつ存在だ。エトリアの長い歴史をどれだけ紐解いてみても、たった一人でほとんど情報のない迷宮に潜り、一層―――それどころか複数層を丸ごと完全に攻略、開示して見せた存在など聞いたことがない。
一応、はるか昔、旧迷宮が攻略される直前くらいにはブシドーとカースメーカーの二人組が旧迷宮の四層にまで到達したという伝説が、エトリアにはある。けれどそんな伝説に残る彼らですらも、『元々二人がエトリアの低階層で長い間鍛錬を積み重ねた、かつ、当時の迷宮の四層までがある程度解明された状態という条件があったからこそ、彼らは二人という人数で四層までを攻略できたのだ』、と歴史家たちが文句を言う程度にはまともに信じられていない。
それほどまでに少人数での未踏の大地完全制覇という事態は難易度の高いものなのだ。しかしエミヤは、そんな口うるさい猜疑家の歴史家たちにすら文句を言わせないような成果を単独であげて、今や生きた伝説となった人である。
また、二層の番人戦などからこれまでを通じて目の前で見せられてきた彼の実力はまさに別格で、そうした彼が使用するスキルはこれまでに見たこともないスキルばかりが用いられていて、だからこそ私は、彼と私たちは違う生き物で、エミヤは一人で何でもできる超人なのだろうと思い込んでいたのだ。
―――そう……
そしてまたきっと、エミヤも先ほどまで私と同じように思っていた。自分は特別で、だからこそ周囲より特別強い自分が弱い皆を守ってやらないといけないと、そう思い込んでいた。だからこそ彼は、何でも一人でやりたがった。今でこそ体全体すらをも地面に預ける羽目になっている彼にとって、しかしかつてのこの世界は地続きじゃなかったのだ。
そう。例えるならきっと、実力のありすぎる彼にとってこの世界に生きる弱い人間たちは、子供みたいなものだった。そういう意味では、私たちの住む世界と、彼の住む世界は―――彼が見るこの世界は確かに違っていたのだろう。大人の彼は崖の上から私たちを眺めていて、そこから低い階層に住む子供の私たちに降りかかる災害を取り除こうとする、そんな掃除屋のような存在だったのだ。
―――そうだ
短い付き合いではあるが、このエトリアにおいて多分、私が最もエミヤと長く過ごしている。僅差であの宿のインというおばあさんが候補に挙がるかもしれないが、最近エミヤが多くの時間を迷宮の探索や私の訓練に付き合ってくれていること加味すると、私の方がきっと勝っている。
だからこそ私は、あのエミヤという男の人の性格を、このエトリアで最も理解しているという勝手な自負がある。そんな私から見たエミヤという人物は、お人好しで、気が回る人で、だからこそ人一倍他人に気をかけて、勝手に苦労を背負い込んでしまうような人という、そんな印象の人物だ。そしてまた彼は、他人にとって出来て当たり前じゃないことを当たり前のように出来てしまう、そんな人だった。
そう。言ってみればエミヤは、シンのような人だったのだ。エミヤは他の人と比べて、実力がありすぎて、何でも物事を解決できすぎる。そしてまた、いろんな才能に溢れるシンはそれでも誰かの助けを借りなければならないくらいの強さに収まっていたけれど、エミヤはそんなシンをはるかに上回るいろんな強さを保有していた。
昔よりずっと強くなった今の私だからこそわかるようになったことだが、強さというものは踏み台のようなもので、高ければ高いほどに、見える世界は異なってくる。そう。その違いは幼いころに私が見上げていた世界と成長してから私が見下ろすようになった世界がまるで違うようになったのと同じようなものなのだ。
幼いころ、私はエトリアという街は広く、どこまでも続いているように感じていた。そんな広く無限に続く世界の中でそして私は、『自分は何でもできる』という、そんな万能感を持っていた。けれど、成長して背の高さが伸びるにつれ、エトリアは無限に続く街ではなくなって。私は決して万能の存在じゃないことを思い知らされてゆく。世界は何も変わらない。エトリアの広場から見える景色は、昔も今も変わらない。けれど、積み重ねてきた知識と経験が自分の体を押し上げる踏み台となり、エトリアの広さに限りがあることを、私がそんな限りある世界のなかで喘ぎながら必死に生きている小さな人間でしかないことを、広い世界に対して私がどれだけ小さい人間であるかを思い知らせてしまったのだ。
でも多分、それがきっとこの世界の今を生きる多くの人間の限界で。きっとあのシンだって、たとえてみれば、エトリアの鐘楼塔程度の高さのモノでしかなかったのだ。けれどエミヤは、その中で一人、もっと高い視点を持っていた。それこそ彼の踏み台は天に浮かぶ太陽にまで続くような高さがあったのだ。
そう。強すぎるエミヤにとって、世界はあまりにも小さかった。エミヤにとって、自分はあまりに巨大すぎていた。だからこそエミヤは、誰の助けも必要としなかった。……いや、あるのが当たり前すぎてそれが助けであると理解される事もなくなり、誰にも必要とされなくなってしまったのだ。
―――エミヤの助けは誰にも気付かれなくなった
だって見える視野が違いすぎるのだ。滝の上から流れ落ちてくる巨木があろうと、崖下までしか見通せない私たちは気付かない。けれど、唯一崖の上を見通せる彼だけは、その危険性に気付くことが出来る。
―――見ている視線が違いすぎるから
そして多分、エミヤはそのお人好しな性格ゆえに、気付いた危険性を放っておくことが出来ない。だからこそ崖の下に住む彼らに危険を忠告し、あるいは迫りくる巨大な流木に対応しようと提案する。でも、崖下に住む彼らはそんな忠告や提案を理解してくれない。だって崖上で起こっているそんな危険の変化は、崖下にいる人たちにとって見えないのだ。人間、結局危機が目の前に迫るまで動こうとしないもの。私だって、お店に誰も来なくなったからこそ、危機感を覚えて動き出したのだ。そう。人間は自分の目で見えたものしか信じようとしない。だからこそ彼の言葉は理解されず、聞き流されてしまう。
―――その立場があまりに違いすぎるから……
理解できない危機が迫っている。自分だけがそれに気付いていて、そして訴えても他の誰もがそれを理解してくれない。気付いているのは自分だけだ。放っておくなんて、自分の良心が許さない。だからこそ彼は一人で危機を解決しにいってしまう。そうして一人で事態を解決に導いた彼は、さらに力をつけて、高い視点で物事を見られるようになる。
―――誰も近寄ってきてくれなくなったから……
そんなことの繰り返しが彼をさらに高い場所へと追いやってしまい―――、彼は誰にも理解されなくなった。彼も無意味を悟って、言うことをやめてしまった。そうして一人で事態を解決する彼は、しかしだからこそ結果として、誰の助けをも必要としない強さと孤独を手に入れてしまったのだ。……はたしてそれは。
―――誰にも助けてもらえなくなったから、一人で強くなる以外に生きてゆかざるをえなかった
赤死病で両親を失い、一人でも何とか生きていこうと決心して動き始めた私と何が違うのか―――
*
―――誰かに手を伸ばしてもらえる
エミヤは今、ケルベロスという魔物によって地面に引きずり降ろされている。そうして目の前に迫りくる脅威を振り払おうと足掻く彼は、とてもじゃないけれど超越者のそれになんかまるで見えやしなかった。強さという梯子を失った彼は、まるで『異邦人』のギルドハウスを訪ねたときの私のようで。そんなエミヤはまさに、先ほどダリが指摘したように、シンと同じく、私と変わらぬ、人間という存在でしかなかった。
―――存在を求められ、手を差し伸ばされた
そう。彼は間違いなくこの世界に生きている人間で、しかも赤死病に侵され死んでいった両親を持つ私と普通に接してくれた数少ない人なのだ。彼はさらにそんな私を三層番人の攻撃からシンヤダリと共に命懸けで守ってくれた人でもあり。また、あの頃、ダリやシン、そしてエミヤに守られてばかりだったそんな私を、しかし今まさに私の力を必要としてくれている人なのだ。
―――私を助けてくれた相手が、私に助けを求めて手を伸ばしてきている
場違いで不謹慎とわかっていながら、そんな現実が嬉しさで胸を溢れさせてゆく。だってそれは、かつて赤死病の悪名広がり、引き取り手もなく店の中で放置されて埃をかぶっているだけだった道具/私が必死に伸ばしたそんな手にそっくりだったから。だってそれは、かつて私が必死に伸ばした手を握り返してくれたそんなヒトの手にそっくりだったから。
―――かつて、この世界の誰かにも必要とされなくなった私を……
そう。必死に伸ばした手を握り返してもらえる。その嬉しさを私はよく知っている。かつてたった一人になった私にとって、それは私という存在がこの世界にいる価値を認められたに―――許容されたに等しかったから。君には世界にいる価値があると。そうしてこの世界にいてもいいのだというかのよう、握り返すための手を伸ばし返してくれたのは―――かつて誰にも必要とされなくなったはずの私の価値を認めてくれたのは、シンという人だった。
―――でも今、求めてくれる人がいる
あの時の私はシンやほかの人たちに与えられるばかりだった。でも、今は違う。私の立場はあの頃と逆転している。私は今、この世界、この場にいる私にしか出来ないことがあると、そう求められて、手を伸ばしてもらえている。あなたの力を貸してほしいと。かつてシンがされた立場に、私が今いるのだ。そうして伸ばされる手は何よりも雄弁に私がこの世界に必要であると訴えていて、同時にはるか上の自分たちとまるで違う存在だった人がこんなにも自分と同じ人だということが理解できて、それが―――
―――それがとても嬉しく、こんなにも喜ばしい……!
「響! 」
続く私の沈黙を先ほどと変わらぬ躊躇の証と感じたのだろう、その迷いが煩わしいと言わんばかりにダリが叫んでくる。ダリ。彼はかつて私を助けてくれた人の内の一人だ。
初心者を迷宮の深部になどという危険な場所に連れてゆけるか、と。
正しいといえばあまりにも正しすぎる理由で私が加入するということに反対してくれていた彼は、しかし今、迷宮の深部での戦いに私が参加することを当たり前のように許容してくれている。そして彼はまた、私が仲間の危機に動こうとしないことを心底怒っていて、法を破ってでも動いてくれることを心底願っていて、つまりは私を心の底から必要としてくれている、かつての私と同じような人なのだ。
―――しかも、求めてくる人は、かつて何もかもを失った私を助けてくれた人たちで
それが。そんな彼がまた私を突き動かすための材料の一つとなって―――
―――なら、何を迷う必要なんてあるものか……!
「―――わかりました! 」
気づけばそんな同意の言葉が口から零れ落ちていた。彼らの言う通りに携帯磁軸を使って魔物を地上へと転移させる。その提案は確かに、不名誉の称号を得るか、あるいは死ぬかの目しか出ない、あまりに理不尽な賭けだ。提案が真実であろうと間違いであろうと、私には―――私たちには、重罪でエトリアを追放されるか死刑になるか、あるいはケルベロスに殺される未来しか残されていない。けれど、よくよく考えてみれば、エトリアを追放されるから、死刑になるかもしれないからなんだというのだろう。
―――そう
そもそも、今の私にとって世界とは、彼らと一緒にいる世界だけを意味している。私のいる場所がエトリアであろうと迷宮の中であろうと僻地であろうと、関係ない。私にとって、彼らがいるそんな場所こそが、一緒にいるその時だけが、この世界の全てなのだ。だから今更エトリアになんてほとんど未練なんてない。
エトリアにいた一番の理由だった父母はとっくに死んでしまったし、知り合いのほとんどは赤死病を恐れてだろう、最近まで店に寄ろうともしないかった。そうして名声が赤死病の噂を上書きしてからこの身に纏わりついてきてから寄りついてきた、あるいは戻ってきた相手なんて、どれほど信用出来るかわかったもんじゃない。相手の気持ちを慮れない奴らなんて、誰が信頼するもんか。
―――そうとも
いまじゃ私の知り合いは、私が元々知っていた「異邦人」のみんなとヘイ、そして、一緒の立場で戦っているエミヤ、そしてせいぜいクーマという彼だけだ。仮に追放される場合、私たちは全員一緒にのはずだ。そうしてエトリアを追い出されることになっても、私たちには他でやっていけるだけの経験と技量がある。あるいは死刑になるかもしれないが、そもそも何もしなければケルベロスの手にかかって死ぬかもしれないのだし、第一、死ぬかもしれないなんてそれこそこれまでの冒険者生活の中で嫌という程味わってきた感覚だ。
―――その通りだ
追放も死ぬこともまるで怖くない。そんなことよりも、この居心地のいい世界を失ってしまうことの方がよほど怖い。あの時、狭い店の中に一人でいるその感覚は、しかし広い世界の中に一人で取り残される感覚に等しかった。そう。世界の中にいながら、しかしまるで世界から一人だけ切り離されてしまったかのような感覚。あの孤独の中に溶けていってしまいそう凍える感覚をもう一度味わうくらいなら、それこそ死んでしまう方がましというものだろう。
―――それに……
なにより―――
―――もしシンが生きていたら、彼らを救うために迷わず掟などは無視していたはずだから
「―――ッ……、やります!」
胸を締め付ける思いは、迷いの天秤の針を片側へ傾かせるための決定的な重石となる。過去の記憶に浮かんだ彼の意志に導かれるかのようバッグに手を突っ込むと、迷うことなく必要と言われる装置を取り出した。
携帯磁軸。それは迷宮の内外の移動を可能とする、一部の許可が降りている人間にしか利用する事のできない、本当に特別な道具だ。設置や使い方自体はとても簡単で、縦横五十センチの四角い箱の蓋を適切な方法に則って解き放ってやるだけでいい。そうすれば後は、収められた機材が自動的にその場へと磁軸への入り口を生み出してゆく。
ただし、樹海磁軸が登録した人間が移動の意志を示した場合にしか起動しないそれと違って、この簡易的な装置は、起動させた際、一定範囲内にいる生物と、その生物が身につけている物を全て巻き込んでの転移を引き起こしてしまうという特徴を持つ。
勿論使い方次第ではとても便利なのだが、仮に悪意を持った人物が悪用した場合、例えば、己らの手に負えない魔物を石碑の前に送り込むという事も可能なそれは、あまりに危険すぎるということで、執政院ラーダの初代院長ヴィズルが使用を厳しく制限したのだという。そして今、私たちはそのヴィズル元院長が危惧した通りの使い方をしようとしてしまっているのだ。
「それだ! 響、早く! 」
「エミヤがもうもたねぇ! 」
けれどもそんな法を破るという事態に、誰一人として躊躇をしてなかった。目の前でエミヤが―――、仲間が死にかけている。そんな目の前に広がっている現実の方が、彼らにとって、私にとって、とてつもなくも重いものであるからだ。
「はい、すぐに―――」
ダリとサガに急かされて視線を彼に向けると、エミヤは必死でどこからか生み出したダリの盾を使って、ケルベロスの攻撃を防いでいる。けれどエミヤがそうして三つ首の獣の攻撃を抑えていることのできる時間は、見た目から簡単に理解が出来るほどに、限界が近そうだった。エミヤの構える盾は、涎が垂れ落ちた部分から生えてきたトリカブトという植物によって、もう半分以上の部分が侵食されている。道具屋の娘である私は当然、盾に生えるその植物の危険性はよく知っていた。
「―――っ」
私の想いとシンの意志。エミヤの危機と、植物の危険性という情報は合わさることで、私のぼやっとしていた頭を高速で再起動させてゆく。
「す、すぐに用意します!」
慌ててバッグを持ち直すとすぐさまその場に置こうとして。
「グルッ!」
「……っ!」
―――駄目……、ここじゃ、敵に近すぎる……!
しかし目の前で行われている騒動を見てケルベロスに邪魔されることを危惧した私は、 磁軸を持ったままエミヤと敵から少し離れた場所へと移動した。
「ここなら……!」
そうしてわずかばかりながらも先ほどよりは安全が確保できたと思える位置へ移動すると、すぐさま携帯磁軸の蓋を多少弄って地面の上へと設置していく。
「十秒ほどで転移します! 必要な持ち物は身につけておいてください!」
設置と同時に携帯磁軸内部の仕掛けが飛び出した。瞬時にその性能を発揮しようとする装置がみせたいつもの所作に、お決まりの台詞が口から飛び出てゆく。そんな暇などないのがわかっていながらも、身についた習慣というものはふと出てしまうものだな、と呑気な思考がよぎってゆく。言葉に反応して見渡せばダリもサガもピエールも装置に目線を向け、そして必死のエミヤも多分はその装置に視線を向けようとしていた。
そして辺りの視線のほとんどが私の周囲―――というより、傍らにある携帯磁軸へと集中する。浴びせられる視線の行方を私は理解していながら、しかし集中する彼らの動きにつられるかのよう、つい後ろを振り向いて。そうして何もないことを改めて確認した私が、きっとは照れ隠しの思いによってだろう周囲を見渡すと。
―――あ……
視線の先、先程サガを治療する際に放り出してしまった刀、『薄緑』が転がっていることに気がついた。大事なものを忘れずに済んだ幸運に感謝しつつ、慌てて刀の元へと駆けつけるとその軽い刀を拾いあげ。その後、転移の範囲内へ戻るために振り返ると―――
「!」
多分は私たちの態度の変化や視線の向ける先が自分以外へと変化したことに疑問を抱いたのだろう、ケルベロスの一つの首が転移装置の方向に向けられていることに気が付いて。
「―――、―、――、―、――……!」
動いていた一つの首はエミヤ以外の周囲の三人をそれぞれ一瞥して彼らの意識の先を確認すると、エミヤを殺すためにだろう、開かれては閉じて、という動作を繰り返してばかりいた口を堅く閉じてゆき―――
「―――……!」
やがて意地悪く口角を上げたいやらしい笑みを浮かべてゆく。直後、その一つの首から繋がった胴体も通じて意思が伝播したのか、残る二つの首も開け放ってばかりいた二つの口を閉じると、ケルベロスは三つ首の視線を揃って解放済みの携帯磁軸へと向け、エミヤを抑え付けていた体ごとのそりと動かそうとした。
―――まずい……!
嫌な予感。これまでにないくらいの悪寒が全身を駆け抜けた。慌てて装置に近づくため、走り出す。同時、私たちの視線と態度からそれこそが私たちの切り札と見抜いたケルベロスは、転移装置に向けて駆け出そうと姿勢を変えてゆく。
―――なんて迂闊……!
「おい、あいつ、どこに……! 」
「―――いけない、ダリ! 装置を守って! 」
「グルゥゥゥゥ、ガゥゥゥ、ガッ!」
エミヤを抑えつけるために全力を尽くしていたためか、駆け出したケルベロスの初速はひどく遅かった。
「ダリ! 」
そんな事情とすでに身構えていたという条件が猶予を与えたのだろう。
「任せろ、『パリング』! 」
盾を持ったダリはピエールの二度も続けられた呼び掛けに答えながら装置と犬との間に立ちふさがると、物理攻撃を完全に無効化するスキルを発動させてゆく。瞬間、ダリの盾の前にどのような物理攻撃も防ぐ光の粒子が展開され―――
「―――っ」
しかしそうしてスキルを発動したはずのダリは、ケルベロスの突進をほとんど止めることが出来ず、吹き飛ばされてしまう。
「ぐ……っ!」
「ダリ! 」
彼の呻き声とピエールの叫び声がやけに大きくその場へと響き渡っていく。さなかにもケルベロスは速度を上げ、見る間に黒い塊は装置へと近づいていっていた。初速の遅いケルベロスの加速は、しかし目にも止まらぬほど速く。また、激突の際、置き土産だといわんばかりに残していったケルベロスの飛び散った涎はダリの盾に付着して―――
「ぐ……! く、そ……!」
直後、あれだけの激戦の中も絶えず清廉な笑みを浮かべ続けていた盾『アイアス』は、まるで悲鳴をあげるかのよう女神の顔描かれた中央からトリカブトによって亀裂が生じ、破損し、やがて真っ二つに裂けてゆく。石畳が成長した植物に砕かれるようなその光景を見て思う。
―――ダリのスキル発動が不可能に……!
パラディンは盾があるからこそ、盾を通じてあらゆる攻撃から味方を守る守護スキルの発動を可能とする。だからこそ最も堅牢に作られているはずの盾は、しかしケルベロスの涎から生まれるトリカブトの根の前にあえなく砕け散ってしまっていた。だが、そんなダリの献身の甲斐あって、時間は幾分か稼げている。見た感じ装置の軌道まであと五秒ほど。たった数回、瞼を閉じて開くそんな間に、装置は起動してくれるはず。でも―――
「グ……、グ……、グル……!」
そうしてダリを吹き飛ばした後、パリングの効力によってか、ほんの一瞬だけケルベロスの速度は落ちている。ぶつかったあと、それでも駆け続ける奴の発揮する速度は先程よりも遅く、目に映る程度のものに過ぎなかった。だがそれでもそんなケルベロスの疾走は、その場にいる誰もがもうそれ以上の対応できないくらいには早く―――、駆け出したケルベロスが五秒もしないうちに装置へとたどり着くだろうことは明らかだった。
「ダメだ! 間に合わねぇっ!」
パリングによって突進の威力を殺されたはずのケルベロスが、しかし猛然と装置に迫る姿を見て、サガが顔を青くしながら叫んだ。突進するケルベロスはサガの悲鳴を原動力としたかのよう、わずかばかりに失った突進の勢いを取り戻してゆく。地面を蹴る黒々とした四肢には相当の力が込められているのだろう、むかつくほどに膨らんでいる。
―――その通りだ
このままでは間に合わない。五秒―――今やそんな時間すらもないが―――という時間があれば、携帯磁軸が起動する前に奴は間違いなく装置に到達する。起動前に携帯磁軸装置が破壊されてしまえば、もちろん転移は起こらない。そうすればその時点で私たちの負けは確定だ。手持ちにある携帯磁軸とは別の迷宮脱出道具『アリアドネの糸』は、魔物がすぐ近くにいる状態で使うことが出来ないようになっている。そしてそれら以外に樹海磁軸のような迷宮から脱出できる装置なんて、もう、ない。すなわち、この手段に失敗したが最後、私たちにはもう番人部屋から逃げる手段なんて残されていない。そうして逃げ場を失くして消沈する私たちに、ケルベロスは喜び勇んで牙を突き立ててくるだろう。
―――そう……
奴はまるで、あの時の三層の番人のように―――
―――シンがやられたよう……
私たちを笑顔で咬み殺す/―――私たちを笑顔で咬み殺す
「―――……!」
瞬間、灼熱の怒りが腹の底から湧き上がった。そしてまたそれは瞬時に私の全身へと行き渡り―――
「させるもんかっ! 」
そうして私は、気がつくと刀剣『薄緑』を振りかぶっていた。足先は迷うことなく装置へ突進するケルベロスに向けて踏み込みを開始している。一度勢いを失ったケルベロスとは異なり、すでに駆け出していた私の体はすぐに最高速へと達することが出来ていた。今の私なら―――
―――ケルベロスが装置と接触する前、奴へと切りかかることができる……!
「―――響!? 」
「いかん、だれか彼女を止めろ! 」
ピエールが驚きの声を上げ、ケルベロスの戒めから解放されて体勢を整えていたエミヤが大きく叫び、そんな二つの声が重なり合ってこだました。焦燥から出た彼らの声を嗤うかのように、疾走するケルベロスの勢いがさらに増してゆく。だがそれでも奴に先程までの速さはなく。
―――大丈夫だ、間に合う……!
私がやつに斬りかかる時間は、十分に残されている。燃え滾る思いとは裏腹に、理性は冷静さを保っていた。それどころか冷静な理性は灼熱を保つ感情と協力して、私の体は今までにないくらい最高の状態を保ってくれている。このままいけば、奴の口が装置に触れる前に、この体を装置の前に持っていくことが出来るだろう。……だが。
「―――……!」
そんな私を見たケルベロスは、馬鹿めと嗤っていた。反射能力を持つ奴は、私のこの攻撃行動が無駄な足掻きに終わる未来を予測して、大いに笑っているのだ。
―――そんなこと……
「……よせっ!」
エミヤは必死に手を伸ばしてきてくれていた。間に合わないとわかりながらも私の行為を止めてくれようと伸ばしてきてくれた手が、言葉が、だからこそとても嬉しかった。でも、だからこそ、やめろと訴えてくるその手や言葉は迷いを生み出す要因にならず、むしろ私の行為をよりいっそう加速させてゆく。……そうとも。
―――通用しないのなんて、わかっている……!
ケルベロスは相手が攻撃の意思を見せた、あるいはそんな態度をとった瞬間から、全ての攻撃を反射できるようになる。そんな理不尽極まりない理屈と法則を、今までの戦いから私はなんとなく理解できていた。その法則はエミヤという男の必殺の攻撃スキルですら、ダリの完全防御系のスキルですら覆せなかった、理不尽ながらも絶対に覆せない法則だ。
―――でも……
しかし、その反射能力に隙が無いわけではない。反射能力はおそらく、ケルベロスの意識が別の場所へと逸れている間だけは、発動しないのだ。
―――奴の意識を一瞬でも別の場所に移せるのなら……
そうだ。そもそも、敵がなんでもかんでも、何時どのような時であれ、あらゆる攻撃スキルも防御スキルをも無視できるというなら、私たちはあの黄金の鹿を倒せずに、今頃死んでしまっている。しかし、あのケルベロスと同じ反射能力を持つ黄金の鹿を前に、エミヤはしかし黄金の鹿を呆気に取らせて、そうして攻撃の意思を見せないままスキルを使用することにより、反射能力を持つ敵を捕縛した。認識外からの攻撃の意思を含まない奇襲の行為によって、黄金の鹿は反射能力を発揮させることなく鉄の棒の檻に捕らわれて消滅したのだ。
―――奴らが、攻撃の意思に対して、最も敏感に反応するというのなら……!
すなわち、こいつらの反射能力は、敵の行動を攻撃として認識することで発動する。そしてまたこいつらは、そんな認識したものを反射する能力を持つがゆえに、反撃や攻撃の意思に対してとても一番敏感に反応し、認識し続けてしまうのだ。なら―――
―――その敏感さを逆手に取る……!
「こっちだ、化物!」
「グルァッ!」
攻撃の意思を見せ続けて敵に突撃していけば、敵はこちらへと意識を向け続けるはず。そうして敵の意識が装置から逸れれば、その隙に装置を少しだけ敵の進路からずらしてやることが出来る。携帯磁軸装置はもともと迷宮という場所の中に持ち込めるよう頑丈に作られており、また、ツールマスターと呼ばれる非戦闘要員が持ち運べるほどに軽量化されている。だからこそ携帯磁軸はこれまでの激戦の中でも壊れることなく、そして私は装置を持ったまま戦うことが出来たのだ。
―――そうだ……
もともとある程度手荒に扱うことを念頭に入れて作られた軽い装置なのだから、私程度の力でも突き飛ばせるだろうし、突き飛ばされて動かされたところで動作に支障なんて起こらないだろう。装置は一瞬その場に樹海磁軸に繋がる穴をあけるだけの、とても単純な仕組みなのだきから。
―――別に、一瞬で構わないんだ……!
一秒か、二秒。反射する敵を前に私が稼げるのはたったそれだけだろう。それはダリが先程稼いだ時間よりも少ないかもしれない。だが、そんな僅かな時間があれば、装置は起動してくれるはずだ。捩じ込んだこの体と反射のダメージで生まれるだろう血飛沫も、多少の時間を稼ぐための材料くらいにはなってくれるだろう。どんなものを使ってでも、一秒か、二秒。今この瞬間、数秒後、たったそれだけ時間を稼げるというなら、ただそれだけで―――
―――それだけで、私たちの目的は達成されるんだから……!
「くたばれ!」
そうしてやってきた瞬間、私は迷わず最後の一歩を踏み込み、反射能力を持つ相手に片手で握り締めた刀を振り下ろす。瞬間、寸断された時間の中、皮膚の上を猛烈な風が駆け抜けていく感覚を味わった。寒さすら覚えるそんな風圧はきっと、ケルベロスが反射能力によって自らの纏う風の勢いが私の突撃のそれと混ざった結果なのだろう。肌寒さに自らの意図通り事が進んでいることを確信した私は、視線と攻撃意志のほとんどを奴からそらさないまま、開いているもう片方の手を携帯磁軸へと伸ばしてゆく。すると、とん、という軽い感触と共に、携帯磁軸が少しだけ移動した感触があった。
―――やった……!
確信し、喜ぶ。しかし、次の瞬間―――
―――……ッ!
緩んだ気持ちは必死に抑え込んでいた蓋をずらして、胸の中を恐怖の感情で満たしてゆく。死ぬかもしれないと。これは、そう思って繰り出した一撃だ。決意はしていた。覚悟はあった。……そのつもりだった。でもそれが出来ていたのはきっと、それをしなければ私の居場所がこの世界になくなってしまうというそんな思いが主に働いていたからで、そのためには装置を守らないといけないと言う必死さがあったためだった。けれど、直面する死という出来事が、成し遂げたという気の緩みが、私が必死に被っていた冷静の仮面を引っぺがしてゆく。
それでも……!/―――それでも……!
そうして生まれくる弱気を抑え込むかのように、残る気力を奮い立たせて体を前へと突き動かす。
―――死ぬならせめて、一歩でも前へ……!
その時の私を突き動かす原動力となっていたのは、かつての私の中には決してなかった、そんな思いだった。自分の中にいつの間にか生まれていたそんな思いに驚くと同時、そんな無鉄砲にも感じられる蛮勇じみた行いが、今の自分を今はいなくなった彼の姿を思い起こさせてゆく。
―――シン……!
それは多分―――、いや間違いなく、シンから受け継いだものだった。きっとそれは、彼がいなくなってしまった悲しみを今なお忘れずにいる私だからこそ模倣できた動きなのだ。そう。きっと彼がこの場にいたら、間違いなく同じようにしていただろう。シンはどのような恐ろしい敵にだって、どんなに強い相手にだって、ううん、むしろ相手が強大だからこそ、自分のため、ひいては仲間のために迷わず突っ込んでいっていた。そうして彼は、どのようにかしていつも『一閃』を煌めかせ、目の前の障害を寸断していったのだ。
―――あの人がここにいる……
そんな彼の想いを私は受け継いだ。そんな彼から私は、願いと刀を託された。そんな死んでいった彼の想いがしかし今もなおこの胸とこの手に残っているからこそ、私は恐れながらもしかし彼と同じように剣を振りかぶってこの恐ろしい敵との間に身をねじ込ませていくことができている。
―――なら……
世界から彼は失われても、彼の想いは消え失せずにいる。彼は失われても、彼の残した剣技の煌めきは、この目に焼き付いて離れていない。彼が失われても、彼は私の中に残っている。なら、私がいなくなっても、私のいなくなった世界は、私がいなくなるわけではない。シンが私の中に受け継がれたよう、私の想いはこの場にいるほかの誰かに、きっと受け継がれていく。今の自分がやらなければならないことはもうやりきったのだ。なら―――
―――……!
後のことは、全部他においてしまっていい。ケルベロス。今はそんな目の前にあるのは不可能の代名詞を切り捨てることだけに注力しろ。無様な太刀筋となっている体を立て直せ。振り下ろす刀の方向を敵のあのむかつく顔面に集中しろ。反射を頼りにしている敵は隙だらけだ。ならばそんな敵の意識の隙を突いて刀を振り下ろしてやることなど、それこそシンが三層の番人の目も眩むような速さの必殺技相手にやったことなどよりもずっと容易い、児戯にも等しいこと―――
「響っ!」
*
―――『一閃』……!
*
新迷宮の四階層番人部屋。赤く枯れた森を進んだ先にあるのは、束ねた試練が待ち受けるそんな部屋だった。二つの試練を攻略したのちに出てきたのは、人を三人ほども束ねた胴回りを持つ巨大な三つ首の獣『ケルベロス』。かつて黄泉の国を守っていたこの冥府の魔獣は今、周囲にある生きる者全てが呪われてあれと憎々しげなに声を上げつつ、全身の機能の全てを利用して小さな少女を食い殺さんと、一心に突撃してゆく。
「……くたばれ!」
一方、そんな魔獣に対立する少女は、今まさにそんな飛び掛かってくる獣めがけて剣を振り下ろそうとしていた。あらゆる攻撃を反射する魔獣へと切りかかる直前、おそらくは彼女の思惑通りになのだろう、響は見事に携帯磁軸の位置をケルベロスの進行方向からずらしていた。口元に笑みが浮かぶ。赤髪が舞っていた。瞳は意思に燃えている。見た瞬間、想像にすぎなかったその行為の理由が、小さな体の彼女の思惑通りであり、つまりは真実であるのだということを理解させられてゆく。
「ガッ……!」
そんな響が切りかかっているケルベロスは、あらゆる認識した攻撃を反射するというそんな不条理極まりない特性を持つが故になのだろう、響の強い攻撃の意思へと敏感に反応してしまっており、彼女が携帯磁軸の位置をずらされしたという事実に気付いていないようだった。この場において最も戦闘の経験浅いだろう響は、しかしそうして我が身を囮にすることで自らの発動した道具を―――、私たちの命を救うためのキーアイテムとなりうるそれを守り切ったのだ。
「ば……」
「あ……」
「ま……」
しかしこの場の面子の中には、自らよりも経験浅く、年も下である少女の献身と犠牲を代価としなければ得られなかっただろう、そんな勝利と呼べない救いの形を喜ぶ輩などいなかった。他社の犠牲を当たり前のように容認する不埒な性格の人間が、この場に誰一人としていない。そんな彼女が成し遂げたことに比べれば儚すぎる事実だけが、その場にある救いの全てだったといえるだろう。
……そう。
少し未来に浮かんだ自分たちだけ救われてある勝利などよりも、手前にある少女が犠牲になりかけている。そんな現実の光景の方が私たちにとってはずっと重かった。コマ送りで映りこんでくる目の前の光景が、勝利の余韻に浸る暇なんてものを許さない。
そんな最中、一瞬だが、彼女の顔が恐怖に歪む様が見えた。当然だ。自殺と変わらないそんな事を恐れない人間はまともじゃない。彼女はまともだからこそ最初躊躇し、しかしまともだからこそ我が身を犠牲にすれば多くの人間が助かるというよりも損得計算を完了させ、まともであるからこそしかしそんな自らが誰かの代わりに死んでしまうという未来を恐れ、目を瞑ろうとしてしまったのだ。
だがそんなまともな感性と頭をもつ彼女は、それでも死と相対している今、そんなまともさなど今は不必要といわんばかり切り捨てるかのよう、目に力をいれなおすと、さらに勢い増して斬りかかってゆく。反射する番人へと繰り出されるそんな攻撃を前に、誰もが切り傷と咬み傷によって刻まれている無惨な少女の死骸散らかされた未来を予想したに違いない。だからこそ誰もが無駄と分かっていながら、体を必死に前へと送り出し、彼女へ向けて手を伸ばす。けれど、それぞれに驚愕と絶望の表情と共に伸ばされた手はどれもむなしく空を切るばかりで、誰もが彼女の行動を止められずにいた。
「響っ!」
制止の想いと一縷の願いを乗せ、叫ぶ。けれどそんな慟哭も虚しく、むしろそんな叫び声が後押しとなったといわんばかりに決意を秘めた薄緑の波紋美しい刀の振り下ろされる速度は増してゆき。直後、剣を握って浅い経験しか持たぬ彼女の繰り出した力任せの一撃が、しかし突如として熟練の剣士の太刀筋と見紛うほどの流麗さを伴ったものへと変化した。同時、響の振り下ろした刀身より光が発せられ―――
―――『一閃』
「―――え?」
ケルベロスの胴体の中心の皮膚の上、突如としてその手前から終わりまでを現れた光がまっすぐに通り抜けてゆき―――
「―――ッ!」
一泊遅れ、彼女の振り下ろした刀―――『薄緑』は、キンッ、と甲高い音をたて、鍔元からポキリと折れてゆく。その結果は、反射の効力か、それとも獣をぶった切ったときの衝撃がようやくやってきたのかのどちらかだろう。ともあれ、彼女が握っていた剣はものの見事に刀身の中央から二つに分かれてしまっていた。直後、勢い殺さないままケルベロスの突撃が響へとぶつかって。
「っ……!」
ドガンッ、と、車が壁に激突したかのような音が鳴り響く。激突の直後、響の口元と目元は大きく見開かれ、歪んでいた。自らの体躯よりずっと巨大な魔獣の体当たりをもろに受けた響は、その場から大きく上方向に吹き飛ばされてしまってゆく。響が真横にではなく斜め上の方向へと吹き飛ばされたのは、四足獣であるケルベロスの突撃が二足立で構える響にとって下方からの突き上げ攻撃に等しいものだったからだろう。
「―――~~~ッ!」
響の苦しみの表情は宙に浮いて変化するも、その内側にある感情はおそらく保たれたままだった。瞼は痙攣したかのように震えているし、口は大きく一文字に結びつけられていた。それらの所作から察するに、自らの体を大きく宙に浮かすような一撃を食らった響はしかし意識をきちんと保てているらしい。それはおそらく、ケルベロスと激突する寸前に体をひねり、右肩につけたブシドー用の肩当てを用いた咄嗟の防御姿勢をとっていたことが功を奏したのだろう。だが。意識を保っているはずの宙を舞う響は、顔を苦しそうに歪める以外、身じろぎ一つしないまま―――
「―――……!」
やがて半回転ほどしたのち、無防備に背中から地面へと叩きつけられてゆく。意識のあるはずの彼女は受け身すら取らなかった。おそらくケルベロスとの激突の衝撃は、響の体を一時的な麻痺かショック状態へと陥らせたのだ。聞こえてきた激突の音は不気味なほどに巨大だった。衝撃は少女から声を出す余裕すらも奪っているようだった。あまりの光景にその場にいる誰もが声を出すことすらも出来ずにいた。
はじめに聞こえた鈍い音から判断するに、彼女の背骨は折れただろう。あるいは砕けてすらいるかもしれない。折れて砕けた骨が筋肉や筋、神経を切り裂き、内臓に突き刺さっている可能性だってある。続けざまに聞こえてきた、ゴンッ、という鈍く短い音は、響が頭を強打したときに聞こえてきたものだ。脳出血、脳挫傷が起こった可能性が生まれてしまった。はたしてスキルは溜まった血液を脳から抜き出してくれるのだろうか。ともあれ早々に処置が必要だ。このままでは最悪、生き残っても廃人になる可能性が高い。今すぐ動いて彼女の治療にあたらなければならない。そんなことはわかっていた。けれど―――
―――命を救ってくれた恩人が死んでしまう。私のせいで、また人が死ぬ。私を助けてくれた人が、また、私のせいで死んでしまう
そんな予感から生まれる怖気に全身が支配されてしまっていて、体は固まったかのよう動かない。今しがた周囲に響き渡ったその鈍い音の連続はそんな私の妄想に過ぎない思いを、しかし現実に起こった事実であるかもと思わせるだけの威力を秘めていて、私の体をその場へと固定してしまっていた。
「グ……」
さなか、聞こえてきた声に意識が引き寄せられてゆく。聞こえてきた声は妄想の中の死よりも濃い成分を保有していた。そうして視線をケルベロスへと戻すと、奴の体は胴体の真ん中から尻にかけてまで線が走っているのが見えてくる。やがて線は太さを増して、やがて隙間となっていった。
「グ……」
「グ……、ゲ……?」
「ゲェェェェェ!?」
分かたれて半身ずつになった三つ首の獣がしかし地上で器用にも立ち姿勢を崩さないまま律義にも一と半分ずつの唸り声をあげた頃、時間が動きだしたかのよう私たちは携帯磁軸装置から発せられた白い光に包まれてゆき―――
*
次の瞬間、雲の繚乱する黄昏色の天空と、裾野の遠くまで広がる白と灰色の隙間から斑に赤い光が零れ落ちてくる光景が飛び込んできた。素肌を突き刺すほどに寒い空気に、しかしとても清々しい気分を得る。
―――……、地上……っ!
突如として飛び込んできた眩さによってだろう、思考が一瞬だけ遅延してしかし働きだし、出現した澄んだ空気と絢爛な陽光が私に転移の成功を確信させてゆく。見える景色の中には、夜とほとんど変わらない光の量しか残されていない。しかしそれでも―――
―――間に合った……!
山の端に見える赤光とぽつぽつと空いている雲間から零れ落ちてくる鋭い黄昏色の光があれば―――、太陽の光が世界に残されているのであれば、それだけで十分だった。
「……え?」
やがて転移の際に発した白い光が消え失せるのと交代するかのように兵士の間抜けな声があたりを通り抜けてゆく。同時―――
「―――ま、魔物だ! 」
その場に居合わせた冒険者のうちの一人が怒号をあげ―――
「嘘だろ、なんで!?」
「ここに魔物は出ないはずなじゃいのかよ!」
「まて、彼らが現れる寸前、現れたのは磁軸の光だった! ということは……!」
「いいから早く逃げるんだよ! 何ぼさっと考察してやがる!」
生まれた悲鳴は連鎖してさらなる悲鳴を生み、重なってできる大音量があたりへと響き渡ってゆく。押すも引くもできない大混乱の中、有象無象の衆が我先に私たちやケルベロスといった存在から遠ざかろうと離散してゆく。ほどなくして私たちの周囲の空間は、私たちとケルベロス、そして地面で仰向けになって転がっている響だけとなった。
―――わけのわからない現象を前にしておびえるその気持ちはわからんでもない……
そんな彼らの醜態に、軽い絶望を覚える。確かに冥府の番人と呼ばれるケルベロスは、見た目恐ろしい魔物かもしれない。分断されて尚も仁王立ちを続ける奴の二つの身の姿には、背筋が凍りついておかしくない迫力があるのも事実だ。分かたれ二分化されて一つと半分ずつとなった首のそのいずれもの口からまき散らされる唾液が、トリカブトの花畑を作ってゆく。漆黒の獣が唾液によって足元の世界を花畑へと書き換えるそんな光景には、見ていておぞましいものがあるのも理解できよう。しかし。
「―――」
けれど、そうして真っ二つとなり苦しんでいるケルベロスのすぐ近くには、ぐったりと力なく倒れこんでいる少女―――響がいるのだ。刃先の折れた刀の柄を大事そうに片手で握り締めている仰向けの彼女は、しかしまるで死んだかのように動かない。そんなどう見ても瀕死の重傷を負った彼女に対して、しかし彼らのうちの誰もが近寄ろうせず、むしろ離れるようにして距離を取ってゆくのだ。
―――だが、我が身大事にするあまり、保身がすぎて倒れている人間に手を差し伸べようとすらしないその態度は、流石に人としていかがなものかと思うがね
そんな我が身の安全だけを真っ先に確保しようとするその態度は、我が身を捨ててまで私たちを救おうとしたがゆえに倒れている響の様と比べてあまりに見苦しく、私を少なからず失望させてくれていた。また、そうして他者へと抱いた負の感情は、やがてしかしそんな彼らと同様に動かずいる、つまりは彼らと変わらぬ存在に堕ちかけていた自分への叱咤へと変化し―――
「響っ!」
自らの体を縛っていた恐怖の戒めを解く力となる。
「―――っ、響っ!」
「お、おい響!」
「響さんっ!」
叫ぶと同時、それは私以外の呪縛も解呪する言霊として働いてくれたようで、私と同様に手を伸ばしていたままの姿勢で停止していた三人も動きだす。そうして動いた私たちは、横たわる響の側へと近寄るため、それぞれに分断された獣の横を通り抜けようとして。
「グ……」
「グル……」
そんな私たちの動きに反応するかのよう分断された獣が今だ無事を保っている中央以外の左右それぞれの口を開き、体を動かそうとして―――
「ギ―――」
「ギ―――」
しかし真ん中から二つに分断された中央の首がそれぞれに小さな呻き声を漏らしたかと思うと、直後、胴体の中央に走った傷口から二つに分かれ、地面へと倒れ伏してゆく。間を置かずして、どちゃり、と重苦しい音が鳴った。音はケルベロスの二つとなった体のその両方が、傷口から地面へと接してしまった際にあがったものだった。
「グ―――」
「グル……?」
左右にあった二つの首は、我が身に起きた理解が出来ぬといわんばかりに、夕焼け空を見上げている。察するに、いまだ自らの身は健在であると思っていた左右の首がそれぞれ別方向に行こうとしたのだろう。本来ならば左右の首のそんな別々の意思は胴体という接続箇所によって交換され統一され、どちらかの意思のみが反映されるはずだった。だが今、そうして三つ首の意思を聞き、統合する司令塔だったはずの胴体はすでに別たれてしまっている。それ故にケルベロスは互いの首同士での意思疎通を上手くとることの出来ず、だからこそそれぞれの近くにいる獲物に反応してしまった結果、互いに動いてはならぬ方向へと動いてしまい、傷口から地面へと倒れ伏す結果に終わってしまったのだ。
「ガ―――」
「グ、グルォォォォォォ……ッ!」
倒れ伏したケルベロスはようやく現状を把握したのか、今更ながら身悶えだす。分かたれた獣は赤い地面をその黒々とした両足で掻き毟り、起き上がろうとしてはしかし失敗する。さもあらん、それは起こって当然の失敗だった。なぜならケルベロスは、今や別たれて一つと一つになってしまった右前足と左前脚を駆使して身を起こそうとしているからだ。
そうして本来ならばできるはずの当たり前の動作に失敗する度、地面に接している内臓が現れては見え、見えては隠れ、そうしてはみ出る内臓が潰れては悶え、悶えては痛みから逃れようとして、何度も体を揺り動かす度、ケルベロスの体は見る間に自壊してゆく。地上という自らの領分外へときてしまった冥府の魔獣は、地上の上でまるで溺れているかのようだった。そんなところへ雲間から落ちてきた太陽の光が、待ち構えていたかのよう、ケルベロスの残骸へと降り注いでゆく。
「グ―――」
「グゥゥウゥゥゥゥ―――ッ!」
そうして降り注いだ太陽の光は、魔獣の黒々としたその身を焦がしてゆく。ケルベロスの分かたれた体は太陽の光を浴びたその個所から煙を上げ、空気に溶けるかのように消えてゆく。それはあたかも伝承の通り、深い地の底より引きずり出されたケルベロスが、冥界の加護を失ってしまった事を確信させる光景だった。冥府という自らのいるべき領分を犯した魔物は、まさに太陽神の怒りを一身に受けているかのよう、あるいは矢傷をおって長い間放置された罪人のように、黒い巨体を別の黒に染めながら、大きく身悶えている。
かつてギリシャ神話において太陽神アポロンは人間が触れれば一瞬で即死してしまう黄金の矢を持っていたという。アポロンはその黄金の矢を用いて時にはあらゆる疫病を操って大量の人間を殺し、時には逆に矢を用いて疫病から人々を救ったという。矢で撃たれた人間が傷の手当てをしないまま長く放置されていると、その傷口は黒く染まってゆく。一説によれば、そんな黒く染まったさまがギリシャ以前より古来、人々を大量に殺してきた疫病といえば、すなわちペスト―――黒死病と結びつき、オリオンの矢という存在になったのだという。
新石器時代の古くから欧州にその痕跡を残すペストという疫病は、感染した人々の肌を黒く染め上げたのち、やがては死に至らしめてしまう恐ろしい病である。ペストと呼ばれる病気はそしてまた、人の体内においては猛威を振るうが、外気に非常に弱く、太陽の下にいると一時間もしないうちに死んでしまうらしい。そんな恐ろしい病気が猛威を振るっていながら、しかし太陽の光を多く浴びている地域では周囲一帯程ほど死人が出ず。
すなわち矢による処刑後の死体に残る黒い傷跡と、黒死病という体を黒く染め上げる病気。そんな二つの要素が合わさった結果、欧州、ギリシャという場所において、太陽神アポロンは黄金の矢を用い、人々の生死を疫病にて操るという伝承が有名になったのだ、とその学者は語るのだ。
「グ……、ゲ……」
「ガ……」
陽光はそんな古来の人々を畏怖させた黄金の矢のごとく、もとより黒々と染まっていた魔獣の体をさらに黒く染めあげ、ケルベロスを苦しませている。矢で体を射抜かれていながら即死させてもらう事が出来なかった魔獣ケルベロスは、処刑場の聖人セバスティアンのよう、陽光の中で悶え続けていた。
しかしそうして自らの体の剥離という現象が起き続けているにもかかわらず、ケルベロスはなかなか死に至らない。そう。ケルベロスの皮膚や肉は陽光によって焼かれ、焦げ、剥けてゆく。だがしかしそうして失われた部位を埋めるかのように、残存する肉体の傷口からは次々と新たな皮膚と肉体が生まれており、それがケルベロスの命をこの世に繋ぎとめているのだ。
冥府の番犬が死したという明確な記録は伝承に残っていない。おそらくこの地獄の番犬はそんな伝承からによってだろう、不死性だか超再生能力だかをも備えていたのだ。あるいは、この回復はかつてヘラクレスが持っていた十二の試練/ゴッド・ハンドのようにストック性であり、ケルベロスは本来ならば試練として存在していたはずのアマゾネスの女の数だけ蘇生できるように改造が施されているのかもしれない。
ともあれ、反射能力と回復能力。そんな揃えば無敵ともいえる能力を持っていたからこそ、このケルベロスという魔獣は、新迷宮においてヘラクレスの試練の難攻不落の番人として選ばれたのだ。だがしかし今、そんな回復能力を持ち合わせていたからこそ、この冥府の番犬は身体中を反する属性の光に焼かれながらも死ぬ事が出来ずに苦しんでいる。回復能力は今、ケルベロスの精神を蝕む猛毒となり果てていた。
―――なるほど、ヘラクレスや、彼の師である不死のケイローンがヒュドラ毒によって味わった死ぬほどの苦しみや、彼らが苦しむ様というやつはこのようなものだったのかもしれない
くだらない考えが頭の中をよぎってゆく。目の前で苦しんでいるのは今まで我らを苦しめてきた敵だ。こちらの命を狙ってきた相手にかける情けなどないのが当然と思いながらも、そうして灼熱の痛みに苦しみ続けるケルベロスの姿は、あまりにも哀れで思わず目を伏せたくなるほどに気の毒なものだった。きっと、だからこそ。
「―――」
「―――」
「―――」
「―――」
ケルベロスの横を通り抜けようとした私たち四人は、魔物が見せるそんな目を瞑りたくなる光景を前にして、身構えたまま先程のように硬直してしまっていた。ケルベロスはいつ終わるともない苦しみに、今もなお悶え続けている。そんな中。
「ざ―――」
向かおうとしてきたその先から聞こえてきたその低い声が、私たちの止まった時を動かした。魔獣の横を通り抜けようとしていた四人とも、声の聞こえてきた方へと目を向ける。向けた視線の先には、仰向けに倒れた状態のままの首だけを起こして獣の苦悶の様子を見つめている響の姿があった。そうして何とか首を起こした響は、なんとも少女の彼女がするには似つかわしくない凶暴で獰猛な笑みを浮かべると―――
「ざまあみろ……! ―――ヵ、ッ!」
可愛らしいとはとても遠い声色で、そんなことを言ってのける。喉元に詰まっていたのだろう、口から言葉が飛び出した直後、血反吐が飛び出してしまってゆく。
「―――」
あどけない声色とまだ幼い外見とは裏腹に、そうして浮かべる笑みは見ているのもつらいと思うほどひどく凶悪な負の感情の皴に歪んでいる。それだけで私は、誰かを救うために我が身を差し出すことを判断した高潔な彼女の内面がひどく汚れてしまった気分を得た。だからこそ。
「投影、開始/トレース・オン―――」
私は即座にあの獣にとどめを刺してやろうという気分になったのだ。それは苦痛に悶える獣への情けではなく、あの年若い少女に憎悪の仮面は似合わないと判断しての行動に違いなかった。言葉と共に魔力回路が励起し、流れ込んだ魔力が脳裏に浮かんだ幻想を現実のものへと変化させてゆく。この度私が不死の特性を持つ獣を処刑するそんな道具として投影したのは、ハルペーという鎌の宝具だった。かつてギルガメッシュの宝物庫に収められていたそれは、ケルベロスと起源を同じくしてギリシャ神話においてペルセウスがメデューサという女怪を葬り去る際に使用した、クロノスが父ウラノスの男根を切り取るのに使用された、ガイアという地球の名前をもつ地母神によって生み出された、「屈折延命」の効力を持つ神剣……の贋作だ。
「―――……!?」
かつてケルベロスと近しい親族を屠るならこれ以上ない剣を投影した私は、しかし、そうやって神造兵装を大した反動もなしに容易く投影してみせた己の所業に驚き、なぜそんな神造兵装を投影できると判断したのかと自らの判断を驚き、最後に自ら投影した不死殺しの品を見つめ直した。
―――これほどの格を持つ剣をこうもあっけなく投影できるとは、どういう理屈だ
長柄の先にくの字に折れ曲がった刃がついた、鎌とも剣とも区別のつけにくいハルペーは、刃先から内側に入ったものの命を枯れ草のように摘まみ取る冷淡な光を携えて、妖艶に光を放っている。内側から醸し出されている光から生み出されるそんな気品と風格は、その名を高らかに叫び使用してやれば伝承の通りの効果を発揮するだろう気配を伴っていて、此度の投影が姿形ばかりを真似た張りぼてのそれではない事を静かに主張する。
真作というには内包する神秘と輝きがちと足りないが、かといって贋作と断ずるには神剣が持つ奇跡の成分は真に迫り過ぎている。神々と呼ばれるような超越者達のみが生み出せる輝きは、通常、己の使用する投影魔術ではなし得ないものだった。
私の使用する投影魔術とは、あくまで真作の代替たる贋作を作り出す魔術。その魔術は、矛盾を嫌う世界の特性上、真作と同一のものを作り上げるのは不可能とされている。それは通常の世に生み出されてから数分で霞の如く投溶けて消える投影魔術とは違い、魔力の続く限り永久に残る事という特性を持つ、投影魔術の中でも異端、異常、異様と称される私のそれも例外ではない。
材質構成から内包する歴史に至るまでがまるで同一のものが同じ時間軸において同時に存在するという矛盾を世界は許さない。そのため投影魔術において架空のそれを現実に持ち込むためには、世界からの修正を避けるため、真作と異なる証明のために必ず劣化か改良かの道を選ばねばならぬのが常である。
そうして世に数多存在する単なる一振りの剣でしかないものにすら、そうやって細かすぎるほどの気を配らなくては、世界はその存在を許容しない。そんな狭量の持ち主がこの世界という存在だ。だからこそそんな世界という存在が、こんな世界の法則やあり方すら変革しうる神造兵装という武具の投影などを認めるはずはない。
何より、このような人の手以外にて作り上げられた、それ自体が一個の神格を保有するような宝具を、私は自滅覚悟でもなければ投影が出来ないはずである。しかし今、その伝説上に置いて不死殺しを体現する神具は、確かにこの手の中で鋭利に、己の存在は現実のものであると、声高らかに主張していた。
―――いったいどうして……
己の魔術によって生み出しされた神造兵装を前に、私はしばし呆然とする。やがてそうして彼方にいた意識をこちらの側に引き戻したのは、―――
「エミヤ! 何をしている! 早くトドメを! 」
「エミヤ! 」
ダリとサガの大声だった。大小それぞれの頭部のある位置で黒髪と金髪を振り乱す彼らは、大いに慌てた様子である。多分彼らは、死にかけたケルベロスを前にしてわざわざ生み出した私の手中のその鎌がケルベロスに有効打を与えるものだと認識し、しかしそんな武器を手にしていながら呆然と突っ立つ私の様子に焦燥の気持ちを呼びおこされ、彼らはそんな気持ちの変化によって声を大きくあげる羽目になったのだ。
「―――、……」
二つの重ならない声色に正気を取り戻した私は、しかし慌てずその矢を新たに投影した弓へと番え、ハルペーの曲がった刃の峰を悶える敵に向けてゆく。番えられたハルペーの曲がった刃先は、しかし常とは異なる使用方法を拒否するかのように、地面を捉えて離さないでいた。そんな出来る事なら同郷の出身者を害したくはないとでもいうようなささやかな抵抗を踏みにじって、私は弦を思い切り引き、番えたハルペーを極限の位置にまで到達させてゆく。引き絞られた細い糸は、カーボン製の西洋弓の剛性の弾性限界を試すかのように、キリキリと横溢して解放の時を待っていた。
「―――」
やがて暴れまわる獣の心の臓あたりに狙いを定めて細かく位置を調整していると、雲間より山の端に身を隠しつつあった太陽がそのわずかばかりに残された光でケルベロスの姿を一層明るく照らした。それはまるで燃え尽きる前の蝋燭の火によく似ていた。すなわち、あと少しもしないうちに、太陽は沈んで身を隠してしまうのだ。
太陽の光によってケルベロスは死に体だ。だが夜という冥府の時間が訪れれば、きっとケルベロスはその力を取り戻すだろう。そうして再生の力と反射の力を取り戻した奴がおとなしく迷宮に帰るなんて保証はない。それどころか奴は、間違いなく、今の今までため込んだ怒りと鬱憤を発散させるべく、この場にいるすべてを殺しつくそうとするだろう。そうして奴のいる場所は、正しく地獄へと変化させられてしまうのだ。すなわちこの太陽の光が途切れる前にこの一矢で奴を仕留めねば、この場にいる全ての人間が餌食となってしまう可能性が非常に高いと言えるだろう。
「―――恨まば、この身を恨むがいい」
外せない理由が明確化したことにより、覚悟は完全に決まっていた。彼と我。今や私の意識の中にある太陽の残光で赤に染まった世界はその二つだけの成分となっていた。時の流れすらも排したかのよう、あたりの情報はまるで入ってきていない。そう。今やそんなものは必要ない。もはやこの段階に至ってしまえば、放つというそんな意志すらも、もはや不要だ。息を吸ったのは自然の動作のうちだった。あとはこの流れに身を任せるがまま指から力を抜き、弦と剣の関係を断ち切り、関係を断ち切られたその剣の名を叫べば、すべての動作は完了する―――!
「不死身殺しの鎌/ハルペー! 」
直後、言葉と共に神造兵装の魔弾が放たれた。必殺の意思こめられた剣は赤紫色の光を纏う銀矢となりて真っ直ぐに進み、分断されたケルベロスの胴体を貫いてゆく。そうして反射能力を失ったケルベロスの肉体の一つに突き刺さったハルペーは、そのまま勢いよく体内を貫通すると、離れた場所にあるケルベロスのもう一つの肉体への侵入をも果たし、やがて鏃たる鎌の峰が地面へと突き刺さった。ケルベロスの千切れた肉体はハルペーという継枝によって、背中同士で不格好に接合させられてゆく。突き刺さったその貫通痕からは溢れんばかりの血潮が貫通部分より噴出して、ハルペーの柄や刃や周囲の地面を汚していった。
「―――」
撒き散らされた赤色。すなわち奴の肉体に新たに生まれた傷口から飛び出した血液は、周囲の地面にしみこんでは斑模様を作っていった。直後、ケルベロスの血のしみこんだ地面からは、薄紫の烏帽子が天を目指して生えてくる。生まれる陽の光と血潮を浴びて毒々しい赤紫色を周囲にばら撒く散逸した範囲に咲くトリカブトの群れは、忘れられた墓標の前に咲いた花畑のようだった。そんな花畑の中央では伝承の魔物ケルベロスのその身が、次から次へと地面の上より生えてくるトリカブトの花群の中に消え失せていこうとしていた。
伝承を覆い隠すように花がケルベロスの死体を覆い隠し切ったころ、花畑は急に毒々しい光を放つのをやめた。花を照らしていた赤光が完全に消え失せたのだ。すなわち、夜の訪れだ。雲間から注がれていた太陽の光も、もはやない。残照は消え失せていた。死闘の跡地には戦士達の健闘を讃えるかのように月明かりが落ちてくる。
アポロンがアルテミスに活躍の時を譲ったそのころ、天空に輝く月光を浴びて輝くトリカブトの花畑は藤色の柔らかさに似た穏和な光を周囲に散らしてゆく。あたる光の波長が少し変化するだけで、光景はまるで違った雰囲気を放ち始めていた。咲き乱れるトリカブトの花はその場にいる誰もの息を止めるほどに美しい。地獄の門番がその死と引き換えに出現させた花畑はしばしの間、戦いに疲れた私たちを慰めるかのように夜の闇の中で咲き誇り、私たちの意識を奪ってしまっていた。
……だが。
「―――」
そんな意識の空隙が決定打となったのだろう、響は起こしていた頭をふらつかせると後ろに倒れこんでゆく。その小さな後頭部が再び地面へと叩きつけられる音が、いやになるくらい周囲へ大きく鳴り響いた。
「―――響っ!」
投影品を破棄しつつ慌てて駆け寄ってその名を呼ぶも、彼女からの返事はない。
「―――薬は!? どれだ! どれを使えばいい!?」
「どけ、エミヤ! ―――これは……」
「動かしたらいけませんよ! まずは呼吸の確認を―――」
「やってる場合か、ピエール! とにもかくにも手持ちの残ってるメディカとネクタル、全部ぶっかけろ!」
天に広がる星々が辺りを彩りはじめたそんな夜の中、私たちは失せようとしている命の花を拾い上げようと必死だった。しかしそうして花の命を保とうとしている私たちの前に、無粋な軍靴の音色が鳴り響く。風情も何もない無骨な音を立ててこちらへと近寄ってきたそれらはやがて槍の刃先を我々に突きつけつつ、告げてきた。
「―――、魔物を連れての転移は、重大な規約違反です。例えどのような理由があろうと、見逃す訳には参りません」
兵士たちは丁寧に言うと、夜の闇の中で刃先をこちらに向けて淡々とした態度で、我らの反応を待っていた。私はそんな彼らの規律違反者に対する敵対の態度に、この善性を基本の軸とする世界においてもきちんと法が敷かれ機能しているのだという証明を見つけて驚きを感じた。しかし同時―――
―――倒れた人間の救助ではなく、法の順守を優先するか……!
「ご同行を。どうぞ無駄な抵抗は致しませぬよう、よろしくお願いします」
目の前で倒れ伏している響とそんな彼女を前にしても手を差し伸べようとしない冷静な彼らの態度が、私をひどく苛つかせていた。……否。罪人であると捕縛のための刃を向けながらしかし行動をこちらに治療行為の自由を許容しているのは、間違いなく彼らなりの思いやりの結果なのだろうからまだ許せるが―――
―――誰一人として、手を貸そうとする人間はいないのか……!
そんな中、遠巻きに見つめている冒険者たち―――多分は道具を豊富に持っているだろうし、メディックと呼ばれる治療職である輩も見受けられる―――の中から倒れた響を助けようとする手が伸びてこないことが。そんなかつての世界に生きていた多くの人々と何一つ変わっていないその無関心の態度が。それ以上に私の腹を煮えくり返らせていた。
*
やがて大量の治療薬を持ち込んだ甲斐もあってか何とか響は、ぱっと見、意識を失っているだけのような状態へと落ち着いた。そうして彼女の治療が完了した瞬間、私たちの両手には鉄の枷がはめられる。衛兵たちはご丁寧なことの、意識を失った響の手にも鉄枷をはめてゆく。瞬間、彼女が檻の中に閉じ込められている、そんな光景を幻視した。それはいつかかつて。己の我欲を満たすために彼女を裏切った私が、そんな彼女を剣の檻の中に閉じ込めたそんな光景によく似ていて。
「……」
思い浮かんできた過去の自らの愚行から背けるようにして、空を眺める。空には今や、雲一つすらもなくなっていた。浮かぶ月だけが目立つ夜空に目立つのは、燦然と輝く星の光と、そんな星の光に負けぬといわんばかりに輝くエトリアの街の灯である。天に浮かぶ星空と街の明るい日が混ざる夜空は、かつて高層ビルの屋上から大地を見下ろした街の風景によく似ていた。広がる光の違いは、人の営みによって生まれたか、自然に生まれたかだけである。光景をぼんやりと眺めていると、いつぞや彼女と共に駆け抜けた運命の夜の記憶がいくつも頭の中に浮かんできた。そうして頭の中に浮かんでは消えてゆく過去の光景は驚くほどに色付いていて―――
―――あぁ……
しかしそんな過ぎ去った日々や共に過ごした彼女と比べ、目の前に存在している人間たちはあまりに色あせた醜いものに見えてしまってきて―――
―――……変わらない
過去の中に消え失せたはずの、他でもない彼女らに拭ってもらったはずのそんな失意が湧き上がってくるのを止められない。見知らぬ人間を命懸けで助け、しかし感謝などされず、それどころか刃を突き付けられ、責められる。懐かしいといえば懐かしいそんな出来事を前にすると、思わず笑いすら漏れてしまいそうなくらいの衝動が湧き上がってきた。
―――どれだけ時代が経とうと……
こんなものを守ろうとした時代があった。愚かだと笑った自分がいた。醜いと心の底から絶望した自分がいた。なぜ忘れたのか。なぜそれを忘れてまで、誓いを果たせると思い込んでしまったのか。なぜ愚かで醜いそんなもののために死力尽くそうなどと決意してしまったのか。……そうだ。
―――人間は変わらない
人間は救いようのない存在だ。醜悪な自我。繰り返される自滅。終わらない闘争。変わらない本質。貧すれば鈍する。富めれば驕る。足りなければ憎む。違えば妬む。無ければ求める。飢えれば蛮し、集しては襲う。快に飛びつき、嚼しては貪る。そうした自らの負の感情から生まれる刃に誰が傷つこうが無関心。余裕のない人間が他人に気を配るのは自らの欲望を十分に満たされて負の感情が失せたその後で、つまりはどこまでいっても人間は畜生と変わらない。
―――日々、負の感情が失われていくという状況下にあろうと……
そうとも。負の感情の有無なんてものは所詮スパイスだ。香辛料の有無で変わるのは料理の味付けくらいで、料理の本質なんてものは決して変わりっこない。どれだけ変化したと豪語しよう、ふと余裕を失った時に現れる行動が人間の本質を露わにする。彼らはただ、この世界とその上に敷かれたシステムによって十分な余裕を与えられていたからこそ、善性の生き物に変化したよう見えていただけなのだ。
―――人間は、何も、変わらない
背筋が伸びてゆく。矯正されるかのよう、正しく過去の己へと歪んでゆく自らの意識を止めるすべなど持ち合わせてなどいなかった。見せつけられる人間の愚かさと醜さの証明を前に誓ったはずの想いは薄れてゆき、白くなったはずの己はかつてのようどこまでも黒く塗りつぶされてゆく。
―――世界は決して、登場人物の変革など許さない
世界はいつも通り残酷で、私の固有結界のように何一つとして変わっていなかった。世界はこれほどまでに変革を許容しない。ならばそんな世界に生きる人間が何一つとして変わっていないのも、道理というものだろう。
―――ならば
そう。目の前、変わったと思った世界に広がる夜の闇はかつてのように深く濃いままだ。それといったい何が違う。魔のモノが人間の負の感情を食おうが、人間の本質は何も変わらない。運命は決して変わらない。迷宮は決して踏破などされていなかった。人間はただ終わりと問題を先延ばしにしただけで、つまりはかつてのころから何一つとして進歩なんてしてはいなかった。ならば。
―――こんな醜い生き物と残酷な世界を必死になって守る理由なんて……
そうして迷宮で戦いの中でかつての自らを取り戻した私が、しかし今そのまま一足飛びで死後の果てに至った境地へとたどり着きかけていた。
―――大人しく捕まってやる道理なんて、どこにも……
……その時。
「う……」
心に響いてきたその小さな呻き声に―――
「……!」
闇に染まりそうになった意識が引き上げられてゆく。暗がりの中。振り向けば視線の先にいた華奢な体のそんな存在は、月明かりに照らされて生の艶やかさに満ち溢れていた。寝入るその顔には、先ほど一瞬だけ負の感情に染まったと思えないくらい、穏やかな表情が浮かんでいる。響。ケルベロスの体を断ち切ったそんな赤髪小柄な彼女の顔を見た瞬間、つい先ほどケルベロス戦において私が起こした不可解な現象を思い出させてゆく。
―――いや……
突き動かされるようケルベロスの介錯を決めた時、私はハルペーという神造兵装を投影した。過去の私に神造兵装を投影することなどできやしなかった。その変化が何を意味しているかはわからないし、それは求めていたものとは違う、自分からすれば些細な―――魔術的には大いなる―――違いでしかない。
―――変わらないわけではない……
だがそんな違いは、確かに自分が過去と違う存在になれているという証であり、同時に自分という存在の内面、不変であるはずの固有結界の性質が変わっているという確かな証でもあり―――
―――見た目や一時の行為からはわかりにくい変化もあるというだけのことか
物事の見た目や一部一時の行為から全体の性質を判断するのは危険であるという当たり前の事実をも示唆していた。人間集団、個人の集まりから引き出された抽象は、空想にすぎない。
―――やれやれ、私は本当に……
スコラ哲学者たちが語るそんな教えを自らにそんなことを思い出させてくれた赤毛の少女の寝顔を見ると、それは不本意、かつ、彼女に失礼とわかっていながら、なぜだが正義の味方になると誓った幼少期の自分のそれとよく似ているように思えてくる。誰かによって、初めて自らの変化を自覚させられる。そんな昔と何一つ変わらない自分がしかし確かにほんの少しだけ変われていることを認識させられて―――
「あんたはいつまでたっても変わらない、か」
呟く。変化の有りと無しを喜ぶ言葉は誰の耳に入ることもなく、夜の闇へと消えていった。そうして晴れた気持ちで夜空を見上げなおしてやれば、先ほどやかつてとはずいぶん違った光景が―――夜空に広がる満天の星々が飛び込んでくる。だがそうして見上げる夜空は天球の地図が多少ズレているものの、煌めく星々の見た目や位置はほとんど変わっていなかった。これなら初期の天球観測儀―――アストロラーベすらも通用するかもしれない。
「変化しそうで変化しないものがあり―――」
一方で、未来の地上の様子は大きく変わっている。今更ながらに見上げた夜空とポラリスの位置、これまで浴びてきた風の様子、雲の流れる様や気温、湿度などの変化から考えるに、どうやらミランコビッチ・サイクルに従って地球の自転と公転の周期も大分変化したらしい。そんな変わった地球の上、エトリアという街に住まう多くの善性に満ちたような人々と接した私は、だからこそ人間全体が善性の生き物に変わったのだと、多くの期待を寄せていた。だがそんな変わった彼ら人間のために何かをしたいと思った私はしかしこうして訪れた機会、そんな世界で変わらぬ人間の本質を見せつけられて、失望させられかけた。人間は何も変わらないと。どれだけたっても人間の本質は悪そのものである、と絶望の中に追いやられかけてしまった。
「変化しないようでいて、変化しているものもある―――」
そう思い込んだ私はしかし唐突に、かつての彼女のような存在と星空、そして己の見えにくい変化によって、そんな当たり前のことを理解させられたのだ。そう。かつて旅人が旅の参考にしていた不動の星、北極星だって、長い歴史の中で幾度となく変わってきた。かつて古い時代には旅人たちにもてはやされ、そして私の生きた時代にはツバンからこぐま座アルファ星に移り変わった北極星―――ポラリスは、すでにその座をデネブだかベガだかに譲ってしまっているようだった。星座だって、もはやかつての位置にない。
「これほどの変化は千年……、いや、万年先の話だっただろうか……」
けれど、不動といわれている星が長い旅路の果てに別の星へとその座を譲るように。あるいはこんなにも変わってしまった星空の下、しかし地球が今も回っているという事実は変わらないように。長い歴史の中で変化するものもあり、また、変化しないものもあり。
―――決めつけるのは早計、ということか
「ま、この度はそういう結論で手打ちにしておくか」
結論を急いで空想を抱きかけた己を戒めるよう、改めて言う。そう。何かに絶望を抱くなんてことは簡単にできる。だが、易いからといって流されるがまま流されるだけでは、それこそ自らが絶望した人間の性質と何一つ変わらない。確かに人間の本質はそこまで良いものではないかもしれない。だがそれでも、誰かのために命を投げ出そうとする、守る価値のある大いなる馬鹿者は世界に幾人も存在しているのも確かなのだ。
……そう。
この夜空の暗闇の中で煌めく星々のように、世界には救うべき価値のある人間が両手に抱えきれないくらい大勢いるはずだ。ならば―――
―――そんな彼らのためこそ、今一度、人類を守る存在として、かつて疎んだこの力を存分に振るうのも悪くない
「ふむ……、む―――」
思いを新たに星空へ手を伸ばそうとしてみると、鎖の音と自由の効かなくなった両手を前に、今更ながらに両の手首へと鉄の錠がはめられている現実を思い出す。
「さて……」
―――確か、魔物を連れての転移は重罪とか言っていたな……
携帯磁軸装置を用いての番人部屋からの転移。確かあの時、響はそれを重罪であるという風に語っていた。そして確か、入り口のエトリアの衛兵はここ長い間に犯罪など起こったことがないと、そうも言っていた。
―――そう思えばなるほど、彼らの先の態度もわからなくもない
彼らはまさに、今までを木の上で過ごしてきて、しかしやがて降り立った平原の上で猛獣と初めて出会った人類そのものなのだ。なればこの度の出来事は、そんな獰猛な獣をおっかなびっくりながらもなんとか捕まえたという出来事に等しく。
―――重罪人、か……
そして人に害なす猛獣の行方など、古来より三つしかいない。地の果てに追放するか、檻の中に閉じ込めておくか、あるいは二度と同じような過ち起こさぬよう―――
―――……死刑ということにでもなったら、今度は絞首台にかけられる前にみんなを連れて逃げ出そう
終わらせる。出た結論に何とも後ろ向きな決意をしつつ手の引かれてゆく方向を見ると、送った視線の先、星々の輝く夜空の下で輝くエトリアの光はいつもと変わっていなかった。だがそんな変わらない姿の街で、しかし変わってしまうだろう自分たちの扱いの行方を思い浮かべると―――
「ふ……」
いつもと変わらぬ自嘲の笑みが浮かんでくる。同時に落ちた変わらぬ吐息は、まるで英霊の帰還を受け入れるかのよう世界の中へ溶けてゆく。それはまた、大きく変わってしまった世界の中で止まっていた運命が再び動き始めた合図のようでもあった。
終了