小さな子供のようにならなければ、あの天国へは行けない。俺たちが望むのは地上の国だ。
双方未修行のキャラソン()コンビ。博多はちょろっとしか出ません。
じろちゃんの酒:中身非固定ランダムだが一貫して強めの清酒。みんな酔っ払う。次郎が普通に振舞えるのは単に彼がめちゃめちゃ酒に強いだけ。日本号の酒:中身非固定自在。本刃だけは強制状態固定(ほろ酔い未満)。不動の甘酒:中身固定。分析してもアルコールはないのに誰でも酔っ払う不思議な液体。

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ザラスシュトラの祈りの唄

「お前は、信長様のところにずっといるべきだったのかもな」

 この炎を知っている。この火の中で自分と、主と、そのまた主人が焼けていくのを覚えている。だがすべてはそこまでだった。この本丸に顕現した不動行光は、焼けた後のことを知らない。

 

 

 

「行光!」

 そう言ってこちらへ駆けてくる眼鏡の少年の姿を、先日の宴で見た憶えはない。とはいえ不機嫌を隠しもしない不動に近寄る刀はそう多くはなく、不動の方も誰にも近寄ろうとしなかっただけで、宴自体には顔を出していたのだろう。

「は。誰だよ、お前」

 わかりやすく眉を顰めて嘲うようにそう言えば、レンズ奥の瞳を丸くして少年がまた一歩不動の方へ足を踏み出した。

「博多藤四郎! 小笠原におった吉光の短刀ばい」

 けれどその強い訛りも、不動に憶えはない。彼はあくまで、織田信長が森蘭丸に贈った刀として顕現していて、焼身の刀身が残る刀は、たとえ再刃されても記憶に欠けを生じる。

「……小笠原?」

 水戸へ渡ってからの記憶が虫食いになっている燭台切光忠、大火の前後を問わず記憶の殆どを失った骨喰藤四郎、大政奉還を最後の記憶とする宗三左文字、本能寺で記憶が止まった不動行光。

「……覚えとらんのやったら、別に気にせんでよかよ。ばってん、できたらまた俺と仲良うしてほしか」

 歪に笑って、吉光の短刀は行光の茄子紺の長髪をかき回す。悲しそうな声を隠すことは博多にはできなかった。

 頭に乗った腕を振り払って二歩、三歩と離れる不動の表情は殆ど恐怖に近かった。知らない刀に親しげにされることも、自分が失った何かを突きつけられることも、自分が本能寺の炎を越えてどこかへ行けてしまったらしいことさえも恐ろしくて、また一口手中の甘酒を呷った。

「長谷部とか日本号のおいしゃんとか、あと豊前とも」

 そう言って博多が挙げたのは共通の知り合い、なのだろうか。長谷部とはへし切大太刀のことだったはずだ。いや、今は打刀だったか。けれどそれ以外の名に聞き覚えはやはりなかった。

「こんなダメ刀と仲良くしたがるなんて、奇特なやつがそうそう居るわけないだろぉ」

 酔いに染まった瞳を逸らしてそう言っても、博多は「ここにおるとよ」と笑うだけだった。

 

 

 

「行光の」

 居るわけないとそう言ったのに、なぜか話しかけてくる奴はそれなりにいた。他の刀に馴染まなずともやってはいけるから、ずっと放っていたのを、この時ばかり声に答えたのはただの気紛れだ。決して槍の手元で揺れる酒に釣られたわけではない。

 どこの台所も大方夕食を終えて、短刀ならともかく長物の目には暗すぎる時刻になっていた。酒飲みの時間だ。

「何の用だよ」

 甘酒の蓋を開け、歩き出した槍の後を追いながらそう聞く。鳩羽色を濃くしたような灰色の単に絡まる、月白の藤紋様がやけに目についた。

「へし切と揉めたって聞いてなァ」

 午前の出陣の話だ。あんな場所で、何も思うなと言う方が無茶で、あれが八つ当たりでしかないのも不動が一番よくわかっていた。へし切長谷部とて蒸し返したりはしない、と思う。だからあの話はあれで終わっている。

「あんたにゃ関係ねえだろ」

「ま、本題はこっちだが」

 そう言ってこれ見よがしに徳利が振られる。おまえと呑んでみたかったのだと言われれば、不動とて酒は嫌いでない。

 

 日本号、と呼ばれるその槍はふたり部屋だが、相方はどうやら篭手切江に誘われて江派の部屋に泊まるのだとか。

「ほれ、入んな」

 不動の倍もありそうな長柄二つが過ごすだけあって、広い部屋だった。向かって左の壁際、短い絨毯の上には立てかけられた折り畳みの卓と、小さな冷蔵庫の上の電子レンジ、チェストが一つ。あとは部屋の奥に積まれた、短刀からしてみれば正気を疑うようなサイズの布団が二組。それ以外は、どうだろう押入れの中だろうか。ぱっと見渡す限りには思いの外何もないので、余計に広く思えた。

 

「甘酒に合うかはわからんが、今はこれしかねえんだわ」

 テーブルを出して、ぐい呑みを二つと箸がこれまた二膳。タッパーに入れられたままの豚の角煮と、既に切り分けられて四半分ほどに減ったカマンベールチーズ、それと疎に枝についた干し葡萄。

「いいよ、つまみなんてなんでも」

 流れるように準備を整えて、座布団などないがと部屋の主は席を勧めた。

「客が来てんのに何もなしってのもあれだし、な。まあ好きに食って飲んでくれ」

 そう言って笑う槍は、平気で夜の室内で短刀に背を向けた。知らない刀を、同じ審神者に呼ばれたというだけで平然と受け入れるその在り方が、不動にはわからない。世に信用に能うものなど一つとしてないと、不動行光は炎の中で思い知ったのに。

 

 日本号の持つ徳利からは火酒からジュースのような果実酒まで風味様々の、けれど美酒のみが供される。それらが不動の持つ酔うための酒と腹の中で混ざりあって、小一時間と経たぬうちに、不動は普段と比してもまだ赤い顔で卓上に突っ伏すことになった。

「あの人は、俺のかみさまだったんだ。それがさぁ、焼けて、焼け、て……」

 あの男はかみさまだった。宗三あたりは魔王と言うのだろうが、不動にとって織田信長は神だった。けれどその器は確かに人間で、そのかみさまみたいな人間が、たかが炎程度で、たかが不動を焼き尽くせなかった火ごときに巻かれて死んでしまったことが信じられないままで。

「右府様のことか」

 囁くような声とともに茄子紺の頭を撫でる手からも、酒の匂いがした。何がどうなってこの槍が酒を持ち歩くようになったのかは知らないが、これが黒田の槍と呼ばれたことは不動も聞いた。その黒田の槍が、織田信長を指して称する声が情に溢れているのが気持ち悪い。

「お前、黒田の槍なんだろ」

 あの時代、名刀であればどれも方々に渡るのが一つの役割だった。不動とて織田家中の刀剣を全て把握していたわけでは勿論ない。だからこの槍が織田信長の物であった可能性を否定はできない。

「だったら、信長様のことをそんな風に、知ったように言うんじゃねぇ」

 それでも、不動行光が与えられた称賛に殉じて記憶を炎にくれてやったように、一つの家、一人のひとのものであったかのように振る舞うことが、この城では許される。ならばそうすることが、愛だけでできたモノの当然の務めであり、権利であると。不動行光はそう思う。

「手前に指図される謂われはねえなァ」

 露悪的にそう笑ってやれば、酒器を握る小さな手にぐっと力が入る。やはりと言うか、この短刀は随分、織田信長を慕っているらしい。他の全てを投げ捨てられるほどに一人の人間を愛せるのはほんの少しだけ羨ましい、かもしれないと思う。

「偉そうな口きくんじゃねぇよ」

 これはきっと、槍と短刀の違いなのだと日本号は思う。合口拵えの懐刀は、日本号のようなものからすると少しばかり人間に近すぎた。視点の話だ。家屋の中に入ることさえ儘ならぬ身と、夜着一枚の枕元に置かれる物では、人間というものの見方も変わってこよう。より天に近いところ、一丈の高みから槍は、人と刀とを見下ろしてきた。それは位持たずとも同じこと。東の義助も常勝の正真も、国取りの長吉も。間合いの内のどんな人も等しく愛しい。槍とはそういうものだ。

「偉いんだよ」

 なにせ正三位だからな、と言うのを聞いて、不動は漸く、織田に在った三位の槍を思い出した。あれも、位を鼻にかける嫌なやつだったように思う。同じ鋼とも思えない、異質なやつだった。

「お前、すっかり武家に馴染んだな」

 織田家中において、戦に興味のない槍はそれだけで歪だった。

「お、思い出したか」

 面白がるようにも感心したようにも聞こえる男の声と、その紫紺の瞳が、いつかどこかの付喪に被る。将軍家から来たと言いつつ当の将軍を軽んじる、無銘の彼に。

「煩い。……けどまあ、今の方がマシだな」

 あの、血を知らない美しいだけの槍よりは、ずっと。そう吐き捨てると、聞こえたのだろうか。不動の視界のずっと上の方で日本号が笑った、気がした。

 

「不動行光つくも髪、人には五郎左……なぁ」

 不動行光に未来はない。ずっと、六百年も前から彼は生を止めたままだ。“不動行光、九十九髪。人には五郎左、御座候”。神のようなかの人の、うたう声を聴くために。それなのに、聞こえるのはいつも、弾ける火の粉のぱちぱちという音ばかりだった。その絶望を、涙程度のかたちにしてなるものかと不動は今日も、悲嘆の声を酒で押し流している。それに余人の理解は要らない。それを誰かが試みることさえ不動行光には、織田信長と、そして森蘭丸との絆に対する侮辱だった。

「応。どうした」

「かみさまも死ぬんだ、俺らみたいな半端物じゃなくて、もっとずっとちゃんとした奴らもさぁ」

 手遊びのように干し葡萄を弄びながら、こぼれ落ちるような言葉の欠片を不動が吐く。それは日本号の胸中へ滑り込んで八寸四分の刃の如くに鋭く過たず、それを刺し貫いた。人なくして在れないのは付喪神も社持つような天地の神々も同じことだ。人が神だと言えば、そしてすっかり忘れて言わなくなれば、どんな神も死ぬ。であれば生無き物の「かみさま」とは、きっと形を定めた人間のことに他ならない。

 正三位の槍はそれに返す言葉を持たなかった。名刀と謳われるような物語ある物ならどんな槍も刀も、一人くらい忘れられぬ主がある。いつでも人が神を殺すことを、日本号は知っているはずだったが、それでも彼はずっと、もう顔もわからない初めの主の名を呼べずにいる。諱は無論のこと、(おくりな)でさえも。そうすれば神の血を引くかの主人の死を、知らぬ振りができる気がした。

 

「黒田の、」

 そう呼ぶ短刀の声に、どうかしたかと応える。“日の本一のこの槍を”と、もう何百年と唄われてきた以上、「日本号」は黒田の槍だ。紅の上から黒に染めた縫腋の袍を脱いだのは、決して戦うためばかりではない。飾太刀も石帯も巻纓の冠も置いて、視界がぐんと高く。そうして気づけば、号のない時分から残るのは瞳の紫だけになっていた。それをさみしく思えない程度には、この小さな刀の言った通り、彼は武家の槍に成っていた。

「黒田……は、そんなに居心地がよかったのか? へし切も大太刀じゃないしさぁ」

 織田を忘れてしまえるほど、そこは良い家だったのかと、不動が問う。位を頂いたのは宮中の頃で、号がついたのは羽柴にいた時だった。それでも唄に謳われるようになったのも、東と常勝の槍が並んで東西の二名槍、天下三槍と語られるようになったのも母里に呑み取られた後の話だ。あの打刀はもっと単純で、擦り上げやら拵やらを置いても、銘に刻まれる以上、黒田を忘れることなどできはしないと。それだけのことだ、きっと。心地の話などでは、きっとない。

「……俺は“日本号”で、あいつは“へし切長谷部”だ。“三位の槍”とただの“へし切”でなく、な。それ以外には、どうだろうな、何もねえと思うが」

 もしも人が義元左文字や竜胆丸や五阿弥切を呼ぶことがあるならば、そこに並ぶ、日本号が置いてきた全部を抱えた正三位の槍はきっと日本号を蔑むのだろうと、たまに考える。望外の栄誉を忘れた不心得物と、彼は詰ることだろう。

 日本号だってわかっている。黒田への義理も母里への(おもい)も安川への恩も、すべてひっくり返して余りあるほどのものをあの日、自分は陛下に頂いた。それでも人は、彼を黒田の呑み取り槍と云うのだ。いつでも人が神をつくるのだと、知らない付喪など何処にもいない。

 

 ぐび、と不動がまた一口甘酒を飲む。喉を焼く酒精の感触さえない、甘くやわらかいだけの酔いの元。そのやわらかな白が不動の感じるすべての罪悪と劣等を飲んでなくしてくれはしないかと祈っている。例えばこの忘却さえも、消えてしまえばいいと確かに思う。

「俺は……俺は、再刃されてるはずなんだ」

 修行に出れば欠けた幾百年が見つかるのかと。思いつつも空白が埋まることを怖がって、そうして不動は今日も酒に溺れる。焼跡から拾い上げられたことも、再刃されたことも、博多藤四郎の言う家のことも、不動は知らない。覚えていないだけでなく、知識としてさえ。それなのに、八寸四分の本性が雄弁に語るのだ。知らない刃紋を宿したそれが、お前には置いてきた未来があったのだと。

「俺はあの炎を越えたんだ。俺の知らない俺が」

 その過去(みらい)が、不動には一等恐ろしい。

 

 越えずとも良い、などとは言えない。日本号自身はどんな逸話も主もすっかり抱えて顕現したのだから、有り得た何かを捨てるのを良しとはできない。どんな小さなひとかけらでも、このものがたりのすべては、きっと愛と呼ばれている。後藤基次など知らぬと言い切れたのなら、吉光の子が連れる子虎にそれこそ親の仇のように睨まれることもなかったろう。大野も頭山も忘れてしまえれば、きっとずっと楽だった。何処へも行けなかったあの瞬間を、あるいは値がついたことそのものを、過去か未来の何処かに置いてくることができたのなら、その時はそれを赦しだと呼ぶこともできただろうが。

「この話はやめだ、やめ。酒が不味くならァ」

 薄く切り分けられたチーズを不動の口に押し込みながら、槍が言う。造り手の名さえ判れば、あるいは炉の火を連想できるのだろうか。日本号は無銘物だった。炎、と言われて日本号が真っ先に思い出すのは、二十世紀半ばの火の雨だ。もう戦場に槍の居場所などないのだと、人に守られてただ飾られていればよいのだと、否が応でも思い知らされた時の。

 

 ぽつりと落ちる夜露のような声がした。祈りのような、あるいは本当に単純な疑問のような。

「……なんで、俺は終わってないんだぁ?」

 さよならばかりを刃生としても、ただ一度のそれが耐えられぬこともある。織田信長は、あまりに巨大な存在だった。天下がいつの間にか畿内でなく秋津洲全体を指すとされたように、気がつけば個々の心中でも動かせないほど大きくなっている。そんな人間だった。今在る不動行光のすべてを彼に与えたくせに、鋼を焼くには冷たすぎる炎の中で灰になって消えてしまった人間。

「理由が欲しいか」

 有るはずもないと、言えれば楽だろう。祈りが届いて生死が定まるのなら、そんなに簡単なことはない。日本号とて、死出の路へ分かれていくのは人ばかりではないのを知っているつもりではあったのだ。空から降る火の雨が、その日黒田の蔵をも焼いていった──ただ一つ、へし切長谷部と日本号の有る一の蔵を残して。けれど眼前で燃えゆくそれよりもなお、胸中でぷつりと切れた縁の糸が痛かった。この世でただ一つ、自身と並び得た物が焼け失せたのをただ愕然と感じる他に、日本号は何もできなかった。

「……いや」

 理由など無い方がいい。自分が理由なく残ったのなら、まだこうして酒と過去に溺れる言い訳も立つ。不動がそう言って甘酒を口にすると、日本号の方も「そうか」とだけ言って酒を呑んだ。

 再刃が叶う程度なら、記憶が欠けるだけで済む。刀と認められるか怪しくなるほど焼け焦げても、刀の形さえ残っていれば。だが日本号は、元は結城の街にあったというその槍、政府の社にて「御手杵」の本尊として祀られるそれに、彼の手杵の槍が宿らなかったことを知っている。それなのにあれは確かにあの日炎に消えたはずの東であると、一目見れば充分に解った。解ってしまった。彼ならぬ依代に宿って、人に呼ばれて黄泉より還る。あれが「そう」なら、付喪とは全体何だったのだろう。この時分に戦に出られるのなら望外ではあろうがそれでも、これが自分の祈りの果てなのだとは思いたくなかった。

「ああ、でも」

 声は、緑の目をしていた。あのまま、自分も焼けてしまいたかった。織田信長と、森蘭丸と、彼岸の果てまで連れ添っていければと今でも思う。だから不動はまだ其処にいるのだ。

「いっそ自分も、とか思っても言うんじゃねえぞ。ぶん殴られるからな」

 経験談というやつだ。殴ったのは当の東ではなく本多の常勝槍だったが。不動を殴るなら国重の刀だろうか。あれなら殴るより蹴り飛ばすかもな、と思いの外好戦的だった旧知を思う。

「殴られたのかよ。いい気味だ」

 だがそれを、他ならぬ以前の主人らが望まないのも、きっと知っていた。織田信長は死んだ。森蘭丸も死んだ。だが不動行光は残った。焼け残って、生き残って、そして目指すべき場所が見つからないでいる。その先に在る自分そのものさえ見落として、見失った。だがそれでも、自分たちがただ愛だけで出来ているのを、不動も知っている。

 

 お前も逃げてしまえばいいのに、と。言葉にはしなかったけれど、そう言いたいのは通じたと思う。手に取りやすいように、甘酒を持つ方の腕を伸ばして突っ伏す。この、位も矜恃も視点も同じくらい高い槍の顔をこれ以上見ていたくはなかった。星が出る前の夜のような灰紫の瞳が覆って隠すその「何か」が漏れくるのを予感する。九寸足らずの刃でも、その向こうまできっと届いてしまう。この槍も、確か、不動明王倶利伽羅の。

「……ああ、くそ。それ寄越せ」

 日本号がたった今持主から奪い取った甘酒は、酔うためのものだ。だから飲めば皆酔うと、それだけの単純な話だった。神に近い刀剣には効きにくいだろうが、それでも量を飲めば酒精など含まれていないはずなのに酔わせることができる、逃避の酒。それはどんな槍にも刀にも、等しく救いになり得た。そしてたぶん、日本号自身の酒はそうではないのだ。

 日本号が一度呷って、瓶は畳に下ろされる。思考が鈍っているのを自覚するのも難しいくらいには、すでに酔いが回っていた。だがそれでも、鋼の兵器が動けなくなるまでにはまだまだ酒量が足らない。

「なァ、行光の」

 ぞっとするほど、柔らかな声だった。重厚なベルベットや重たい布団のような、載せられたら動けなくなる重ねた布のような、声。低く掠れたそれと一緒に俯いていた顔が上がって、応えて身を起こした不動と、目が合った。血よりも赤い龍の炎に、あの日を幻視して息が詰まる。

 (それ)は、不動自身の奥底にも潜んでいるのかもしれない。倶利伽羅龍王の──不動明王の、炎。けれどそれにすら、何より先にぞっと背筋が凍る。その恐怖を、槍はすぐさま感じ取ったようだった。目を閉じて、数呼吸。日本号が再び瞼を開けた時には、瞳は随分明るいながらも紫と呼べる状態まで戻っていた。その、気遣いが不動は一番嫌だった。たとえ彼がどの刀にも同じようにするのだとしても、「お前は弱いのだ」とそう言われているようで。

 

 もっと飲め、と不動は手で示す。自分ばかりがぐずぐず溶けていくのはもう沢山だけれど、今の不動には一歩動くためだけでも甘酒(ねんりょう)が要った。ならこの槍にも同じところへ、暗くて静かで火の気配のしないところに、人の懐の熱を感じないところに、降りてきてもらわねばなるまい。

「この場所は温か過ぎるよ」

 人の着物と帯の間の温もりが恋しくなるくらいに、本丸は温かい。そして不動行光は短刀だ。槍でなく刀でなく、人に添う、短刀だったのに、添うべき人はいなくなってしまった。不動はこの本丸の十何振り目かの短刀で、主の懐は他の、例えば吉光やなんかでとっくにいっぱいだった。

「そうか?」

 けれど槍はたった三振りきりだ。きっとこれからも。いや、そもそもが槍にとって人の熱とは柄を握る主の手ではなく、切り裂き突き穿つその先の、死にゆく兵らの血と肉のことだ。それに比べれば酒精の熱さえ秋雨に等しい。最早遥かな過去の戦場にしかないその熱に値する温度を、日本号は身中に巣食う龍の炎の他に知らない。

「これでも冷たいって? 贅沢なやつだな」

「皮膚越しの熱じゃあまだ足りねえなァ」

 あっさりと放たれたその言葉を、不動はその一瞬では拾いきれなかった。肌の内側、血と肉と骨と脈打つ心臓。そういうものだけを熱とするのだとしたら、これは間違いなく不動自身とは別種の物だ。遥かな高みから人と刀とを見下ろして(それ)は戦うものだと、武家の刀なら皆知っている。けれど、その心中を僅かにでも理解する日は永遠に来ないのだろう。

 ああ、しかしだとしたら何年、これは冷たい場所にいたのだろう。不動の知る限り、三位の槍は戦いに執着など見せなかった。傷一つない鋼と、螺鈿細工のない柄と。銘も号もない彼の槍は、讃えられるだけで満足なように見えた。

「あの頃も、凍えてたのか」

 織田の、話だろうか。将軍家からの贈物、元は御物の自分は、愛刀の行光と比べれば触れられることさえなかったと言っていいだろう。人の願いを受けて刀槍は造られ、人の想いを受けて付喪は産まれる。人の愛と熱とを食んで、自分たちは育ってきた。それでも、あの頃凍えていたなどというのは冗談が過ぎる。「美しいな」の一言だけで、無銘の龍には十二分だった。

「気付かないうちはそれでよかったさ」

 無知こそは幸福の一形態でなかろうかと、今の日本号なら思う。自分が贈られた当初、織田信長はまだ無位無官であり、贈り主の足利義昭さえ従四位下であった。互いに、自分より高い位の鋼の塊を持て余していたように思える。

「ああ、それは分かるな」

 人の温もりなど、溺れるような愛など。知らなければ、こんな無様を晒しはしなかった。不動の心の容量はさほど大きくない。信長と蘭丸とを載せてしまえばそれだけで一杯になってしまった。それでも、今を抱える隙間が残っていなくても、人の懐の暖かさを知って欲さずにいられる短刀はそう多くない。そういう意味では、不動行光はどこにでもいる刀だった。

 

「もし、もしだぞ。仮定の話だからな。折れたら、信長様のところへ行けるのかな」

 付喪神にあの世はない、とへし切長谷部は言う。あの(おとこ)は、本丸中でただ一振りきりの基督者(キリシタン)だった。魂なき物にはあの世もないと、かの刀は言う。

「さて、俺は不信心でね。ただ、そうだな。もし俺たちのようなものに逝く先があればいいとは思う」

 付喪神にあの世は無かった、と御手杵は言う。焼けて、溶けて、残ったのは写真が二枚、それだけ。そうして彼が辿り着いた先などなにもなかったと、あの槍は言う。

「ただ消えるとしたら命など、何のためにあるんだ」

 きっと、人に似せて姿をつくったのがいけない。ただ冷たいだけの鋼でいられなかったのは、たぶん弱さと呼んでいい。この身に血が流れることを、幸いだと呼ぶには余分が多すぎた。

「そりゃあ、敵を屠るためだろう」

 たとえこの身が幾百年、ただ飾られるだけで良いのだと言われ続けていたとしても。もう、この世の何処にも並ぶものも、打ち倒すべきものもないままだとしても。それでも「日本号」とは、槍の名だ。そして槍とは戦うものだった。

「槍は単純でいいな」

 その言葉に乗った感情は、紛れもなく羨みだった。槍が戦うものなら短刀は守るもので、不動は自分が守りきれなかったことを悔いている。心底から。ああ、そうだ。槍は単純なものだ。単純で、だから自分が健全であった時などこの六百余年の内ほんの僅かだった。この戦いが終わらなければ、と。薄く削れて消える未来のことを考えずに心を研ぐ日々を、肉と骨と鋼を裂いて貫いて、打って打たれる傷を省みないこの時を。逃してなるものかと、今はそれだけでいい。槍は、そういう単純な理屈でできている。そのはずだった。

 それをただの鋼にみんなして、よってたかって願いを載せる。西だ東だ、非戦だ龍の加護だと。虎を仕留めるのも憑き物を祓うのも無銘の二尺六寸には荷が勝ちすぎる。正三位の位などはなおのこと。人が祈るのなら応えてやらねばとは思うが、時折どうしても重く感じることはある。その重たいのが酒に鈍った頭には余計鮮明で、緩やかに濁って溶ける感情が瞳にかかる青の覆いを拭っていく。沈んだ赤など、もう何年も見せていなかったのに。声は、獣の唸りにも、風の吹き溜まるのにも似ていた。

「…… ったく。畜生め。なんで、こんな」

 それは不動の台詞だった。弱みなど見せないで欲しい。不動行光は森蘭丸の刀だ。短刀だがその性根は本来、脇差にも近い。そんな支えたくなるような真似は、自分の重みすらままならない身には毒でしかなかった。

「飲めよ」

 蓋を閉めた甘酒の瓶を放ってやる。きっとこの槍も、愛がかなしいのを知っているのだ。肉より余程頑丈な鋼が、人なくしては在り得ないあやかしが、人を愛するかなしさを。

「飲んで、全部忘れっちまえ」

 だというのに、この槍は不動の手を拒んだ。まるで瞳の奥の炎が酒精を焼いてしまったとでもいうように、一瞬だけ正気の目をしてふっと笑う。

「……いや。やめておこう」

 そう言って手を伸ばす先が「日本」の文字のある徳利なのだから、きっとそういうことなのだろう。他のどんな刀によしとしても、自分にだけは酔いつぶれるをよしとしない、これはきっとそういう槍なのだ。

 人の形を得ても、槍は刀とは別のいきものだ。

「やっぱお前らわかんねえな……」

「俺にも刀はわかんねえよ」

 だから何かあれば言ってくれ、というのは本心のようでそれが一層腹立たしい。ふと、これと同じものが見たいと思った。自身の握るこの甘い泥濘、温かな夢の残骸でない、冬の高い空のようなものが飲みたい。この槍が、夢を払う時に欲するものが。

「……飛び切り強い酒が飲みたい」

 この刀には、何を渡せば正解だろう。日溜りに似た温燗か、炉の温度に似た火酒か。あるいはずっと冷たい、夜の雨のような。

「……応、任せな」

 咄嗟のことで、気づけば中身をそのままに渡していた。龍の火を消す雨雪のような、遙かな空を穿つ澄んだ鋼のような、それ。日本号にとっては自身の立つ場所を思い出すための、理性の酒だ。

 日本号が放って寄越した徳利の中身は、まるであの日の炎を液体にしたような、凄まじい熱で不動の喉を焼く。それを無理矢理にでも飲み下さないことには、何も進まないと思った。きりりと引き絞られた弓の弦のような、透き通った辛口の酒だった。

「……美味い」

 不動行光は酒に弱いわけでは、ない。二口目を口にすれば、頭はむしろ冷えていった。酔うための酔いが、アルコールの自然な酩酊に上書きされる。三口目。強くはあれど、火酒というには不十分な気もした。喉を焼く酒精よりも、口中の冷たさの方がむしろ勝る。零下で凍らぬ水があればこんな風だろうか。不動の抱えるあの日の炎まで、そのうちに消してしまえそうだと思って、飲むのを止めにした。この火は他の誰にもやらぬと決めたから。

 

「……また、飲みに来てもいいか?」

 甘酒の瓶を一つ持って、不動が立ち上がる。畳の縁を目線でなぞりながら、問いを落とした。

「槍は嫌いなんじゃなかったのか」

 揶揄うようにそう言えば、微かに笑みのようなものが返ってきた。投げやりなものではない、けれど静謐な、どこか日向正宗のそれに似ている。そういえばこれも相州の刀だったか。

「嫌いだよ。……でも、酒の趣味は悪くない」

 味はすごくよかった。あんな、冬の雨のように冷たくなければ、なお良い。

「そーかい。別に構わねえよ」

 障子を開いて、不動は振り向かずに部屋を出ていく。

「ん。おやすみ」

 既に夜は深く、槍の目にはほとんどなにも見えなかった。けれど短刀には、この闇もまだ明るいのだろう。灯りの一つも持たぬその姿に、異種を感じた。

 明日になれば、きっと不動はまた甘酒を飲むだろう。それでも、逃げることなく純粋に酒が飲みたい日もある。

「ああ」

 おやすみ。



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