Guilty Crown Bonding the Voids 作:倉部改作
first
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翌朝。僕は通学中にiPhoneで楪いのりのミュージックビデオを開き、モノレールが進んでいくがままになっていた。僕のやることはただひとつで、天王洲アイル駅で降りるということだけだから。モノレールから差し込む四月の陽光は心地よく、扉近くで立つ僕は睡眠不足も相まって今にも眠ってしまいそうだった。身体が睡眠を欲したのか、ついにあくびが漏れる。そのとき、友達はやってきていた。
「おはよ、集」
やってきた友達の女の子は笑っていた。「どうしたの、すごいあくび」
うん、ちょっとね。そんなことを言いながら、僕はまだ楪いのりをみつめている。そんな僕の心ここにあらずな様子を見かねてか、女の子は訊ねてくる。
「ネットでもうろついてたの、それともインターンの仕事とか」
そして、彼女は僕の端末へと目を落としながら楽しげに訊ねる。
「あ、動画?」
そこで即座にバックグラウンドで動かしていた技術記事へと画面を変更する。そんなとこだよ祭《はれ》、とだけ僕は答えた。
女の子は、祭は自分が適当にあしらわれたと思ったのか、ふーんと言って遠くを見つめる。「ならいいけどさ」
僕は罪悪感で顔を上げる。すまない。女の子の動画を見ているのを知られるの、恥ずかしいんだ。英単語カードを取り出した彼女は視線を合わせてくれそうになかった。
僕はふと、電車の中にあるニュースを表示する画面を見つめていた。EGOISTがネット上でライブ配信をするという話だ。ここでも、EGOISTのいのりがいる。
そして、映像だけで無音のはずなのに、歌声が聞こえる。
ロンドン橋おちた、おちた、落ちた。
日本中、いや、世界中で、彼女の歌は流れ続けている。
楪いのりは、いまやどこにでもいる。
その次に、新たなニュースに移った。
『clown筆頭の開発陣、再び遺伝子共鳴《ゲノムレゾナンス》通信の軍事利用を反対』
そんなテロップと共に映しだされる、開発者集団の画像。そして、次に進んでいく。
『遺伝子共鳴《ゲノムレゾナンス》通信の匿名開発者、clownが再び遺伝子共鳴《ゲノムレゾナンス》の軍事利用反対の声明を発表した』
『内骨格型遠隔操縦式装甲車両・エンドレイヴを開発したセフィラゲノミクス社などから、多額の資金援助や開発支援をGitHubなどで得ていることから、声明には非難が集中している』
僕はため息をつく。
そのとき、電車の外の景色が目についた。その外に並ぶのは、息もつまるような戦車と大型の軍用トラックの壁。そして、エンドレイヴたち。あまりにも広範囲に配備されているような気がした。祭へと語りかける。
「今日は……多いね……」
知らないの、と優しい彼女は返してくる。
「昨日テロがあったらしいよ……お台場……じゃなくて二十四区で。集、インターンあそこでしょ、何も連絡なかったの」
僕は遠くに見える巨大浮動建造物《メガフロート》を見つめる。いいや、と僕は答える。「何かあっても、インターンにまでいかないんじゃないかな」
そうは言いながらも、僕は端末で職場のチャットルームを見てみるが、不自然に静かだった。そうして、もうひとつの伝手、桜満春夏と名前のついたチャットルームへ連絡をいれようとしたが、仮に何か聞いても答えてはくれないんだろう。
「祭、昼は映研で仕事するよ」
そのフレーズを聞いた彼女は顔を上げたが、わかった、と言ってすぐにiPhoneを開き、どこかにメッセージを流す。すると「映研」というチャットルームで「今日は映研出入り禁止」とかわいらしい絵文字とともに書かれていた。そして「いつもありがとう」とそこにメッセージを付け加える。
そうして顔を上げると、彼女は微笑んで僕をみていた。僕も微笑み返すが、なぜ彼女がいろいろ気を使ってくれているのかわからず、なんとなく首を傾げていた。
### 4
僕は自分のインターン先、セフィラゲノミクスの味気ない公式声明を読みながら、教室の自分の席に座る。
声明は酷く簡単なものだった。
『昨日深夜に、二十四区沿岸のセフィラゲノミクス関連施設周辺で、爆発工作が行われました。今回の事件において、死傷者はおりません。我々は悪烈極まりないテロに断固反対し、GHQ特殊毒液災害対策局アンチボディズと全面協力のうえで、共に浄化に努めてまいります』
あまりに素っ気なく書かれた言葉の羅列に、本当にそうなのかと、拡散されて配備された軍事力を思い出しながら首を傾げる。
そして、別の記事をみてみる。
『高依存性薬物ノーマジーンの駆逐と第一級汚染区画、六本木の統治に成功したというテロリスト集団、葬儀社が声明を発表していることを、取材チームが確認しました』
しかし、書かれている声明はごく簡単なものだった。
『我々は葬送の歌を送る者。故に葬儀社』
「おい、集」
僕は声明文にかまけすぎて、やってきたふたりに気づくのが遅れた。
「ああ、颯太、谷尋。ごめん、コードはまだできてないんだ」
颯太の声に棘が加わる。「別に催促じゃねえよ」
「じゃあなんの用?今日は仕事をしているから明日でもいいかな」
颯太の声は沈黙する。その手に握られているのはタブレットで、楪いのりがまた映っていることに気づいた。急ぎの用ではないだろう。だが颯太の表情は険しい。
「あのな集、お前は……」
谷尋が制する。「いいじゃんか颯太、忙しいみたいだし。じゃあ、頑張れよ」
そうして二人は席に戻っていく。すると祭が一言添えてくる。
「かわいそう、颯太くん」
「なんで……これでも配慮してるつもりなんだけど」
「できてないよ」
そうかな、と言っていると祭は「仕事、そんなに大事なの……」
そう言われ、答えに窮する。チャイムが鳴り、それと同時に先生が現れる。情けない僕は起立という言葉に合わせて立ち上がることしかできなかった。
昼休みになって、僕はイヤホンを片耳につけ、おにぎりの入ったお弁当を持って、ある場所へと向かっていく。
仕事は大事だ。
だからみんなとは感覚がずれていると言われればそうかもしれない。
僕にはわからないだけだ。みんなにどう言えば自分の目的を伝わるか。だから内心焦りながら話を合わせて、友達風のものを増やして生きてきた。
僕は気を紛らわそうと、眼に入るものを歩きながらみていく。学校のどこもかしこも……たなびく旗にも、遠くのごみの収集車にも、蛇口の口にも、同じようなロゴマークをあしらったものを使われていた。国連と書かれた、青と白のロゴだ。
自分のポケットの中にあるセキュリティカードを取り出し、そして握りしめる。
日本は独立風の主権で運営している。僕はそう思う。
十年前、東京でアポカリプスウイルスと呼ばれる謎のウイルスのパンデミックで、この国は、世界は、めちゃくちゃになって。大勢の国にとんでもなくお世話になって。気づけば今でもお世話になりっぱなしで。
そのすべてが、遺伝子技術でタイムマシンをつくろうとした人類の、悲惨な事故だったとされている。ヴォイドゲノムと呼ばれる、自分の体で時間移動できる
火の不始末ひとつで世界がおかしくなる。世界は蜘蛛の糸のように、繋がれてしまっているから。通貨と経済と安全を消し炭にすれば、この世界の王を自称する国たちの言いなりになるしかない。
灰以外なにも残らなかった日本がたどり着いたのが、世界の王のために、東京で車の代わりに人型戦闘機エンドレイヴを作り続ける仕事だった。戦争と政治の勝敗は、いまやエンドレイヴの有無によって決する。そんな理不尽で不平等な世界において、口をつぐんだ臣下になることだけが、日本に許された罪の償いだった。
現に、遺伝子共鳴《ゲノムレゾナンス》通信をエンドレイヴ以外に使う気は、世界の王たちにはなかったらしい。遺伝子共鳴《ゲノムレゾナンス》通信はエンドレイヴに蹂躙された発展途上国で加速的に普及したけど、臣下たちに仲間外れにされたくない王様たちは、エンドレイヴと使い道もないほど余ったお金をちらつかせながら、ネガティブキャンペーンを繰り返し続けて対抗した。残念だけど、武力と資本になびく普通の臣下たちが世界の王の妄言を再生し続けるには、十分すぎるほどだった。
十年かけて完成した世界の王たちが、僕らに語りかける。
君たちには任せておけない。
君たちには、大切な人を守る能力がない。
でも、本当にそれでいいのかな。
僕にももっとやれること、ないのかな。
封鎖区と書かれたフェンスを尻目に、僕は歩いていく。そうしてたどり着いたのは、旧帝大名残のレンガ倉庫。
ここに、僕の遠隔《リモート》操作用のiMacがある。接続先は、違法に構築した、多くのクラックシステムを抱えるクラウドコンピューター群。そこから、幾千のテクノロジーを組み合わせた魔法を成し遂げる。今日の目的は、その群体から直接二十四区で起きたことを調査することにあった。残念ながら僕はセフィラゲノミクスでも、外様でしかなかったから。
そうして入ろうと鍵を取り出した時、僕は歌を聞き取って足を止める。
イヤホンからじゃないことに気づいた僕は、イヤホンをはずして耳をすます。安らかで、とても美しい歌声。
そうして、僕は気づく。
幻想の世界の声と同じだ。
僕は、おそるおそる扉へと手をかける。開いていないはずの鍵は、開いていた。しかも、足元には血糊がわずかについている。
まさか、そんなことありえない。僕はそう思いながらおそるおそる、入っていく。
血糊は続いている。僕は足音を立てないように、慎重に、慎重に進んでいく。
そうして中に入った時、いるはずのない人物がそこにいた。
穿たれた屋根から、光が差し込んでいる。光は埃とあたって反射し煌めき、座っている少女へと降り注いでいる。桜色の髪と白い肌は、いっそうの艶をみせる。
少女は背を向け、歌を歌っていた。左肩の包帯に手を当てながら。そのはだけた背中と、桜色の髪に、僕の視線が吸い込まれる。
歌の中から、感情が響いてくるような感覚。これは寂しさだろうか。それ以外、そこからまるでわからなかった。ただ綺麗な歌だけが、滔々と続いている。
僕も彼女と会いたかった。すぐそこに、殺してしまったはずの彼女がいる。
いや、なんだそれは。知らない。会ったこともないのに、殺せるはずがない。気づけば、一歩、また一歩と無意識に前に進んでいく。
そのとき、転がっていた缶を蹴飛ばしてしまう。
少女は振り返ってきて、それと合わせてどこからともなく丸い機械が出てくる。そして丸い機械は何かを僕に向けて発射してきて、気づけば僕は地面を寝転がっていた。
引っ張られて倒れてしまったのか。
背中の痛みとともにそう気づいた時、僕はすかさず起きる。そうして倒れたまま、少女へと目を向ける。
彼女こそが、楪いのり。しかし、なぜここに。彼女もまた両腕を抱えて下がっていく。よく見てみれば、服が脱げている。先ほどの治療の時のものだろうか。おまけに、先ほどの丸い機械はぐったりと動かなくなっていた。僕を引っ張った時に無理をしたんだろうか、四つの足のひとつがひしゃげている。
そして、相手も僕を凝視している。
けれど、警戒している、というふうとはまるで違っている。
そうして、互いを見つめ合っていた。
夢で会った彼女は、僕を知っているのだろうか。僕は知らない。
でも、本当に綺麗な人だった。映像とも一切の見劣りをしなくて、むしろ一層輝いてすら見えた。どこを見たって一級なのに、特にその顔から目が離せない。
整った目鼻立ち。絹のように流れる桜色の髪。そして、紅玉を彷彿とさせる、輝く瞳。
彼女はさらに下がろうとして、僕のiMacのデスクにぶつかってしまう。
その時、マウスが動いたからか突如としてiMacが起動し、心理計測技術《ヴォイドテクノロジー》を使った診断がスタートする。彼女をスキャンしたデータから、声が告げる。
「あなたの色相は、非常に健やかであることを示す、チェリーブロッサム・ピンクです」
そしておもむろに3Dモデルが表示され、緩やかな心拍のような連なりがわずかに色と形を揺らがせていく。僕はすかさず普段使うフレーズを使った。
「こ、ここで作ったんだ。遺伝子共鳴《ゲノムレゾナンス》通信の平和利用で……」
「きれい……」
彼女は告げた。僕は当惑していた。普段は首を傾げられてばかりの、クラッキングマシンであることを偽装するための急造ジョーク・アプリケーション。その人が好きと心理計測技術《ヴォイドテクノロジー》から観測できる色を褒めるだけの、簡単なコードでできたもの。確かに、僕は苦労して3Dモデルは自作したが、褒められたことは初めてだった。
彼女は続けた。
「ゲノムレゾナンス通信みたい」
「知ってるの?」
「世界中に私の歌を届けてくれたから。道化師《clown》がつくったって、涯が言ってた」
僕が呆然としていると、ジョークアプリケーションは更に続ける。
「あなたの好きな相手の色相は、ターコイズ・グリーンです」
相手は、ふと訊ねてくる。
「好きって、どういう意味……」
僕は、何も言葉を出せなかった。詩的すぎる。なんだろう。いや待て、この診断機能は僕が実装したものじゃない。どこかから引っ張ってきたものだから、解析アルゴリズムはよく知らない。どう答えればいいんだ。
「そ、それは……」
そのとき、相手から、奇妙な音が聞こえた。
そうして、僕がなんだろうと思っていると、少女は顔を赤く染めている。
そうして、僕はお腹のなった音だと気づいた。
どうすればいいのかと僕は目を泳がせる。すると僕の傍らには、さっきまで僕が持っていた弁当が落ちていた。でも、中身は幸い出ていなかった。僕はその弁当を寝転がったまま手に取り、そして少女へと差し出す。
「あの、おにぎりたべる……」
### 5
楪いのりが衣装を着直しているのを、僕は背を向けて少し待った後、弁当箱からおにぎりをひとつ取り出して、差し出していた。少女はそれを受け取り、しげしげとそれを見つめていた。それで僕は気づいた。
「おにぎり……食べたことないの……」
少女は少し固まったかと思えば、小さく頷く。僕は言った。
「口に合うかはわからないけど、たべてみて」
僕はそう言って、弁当箱からもうひとつのおにぎりを取り出して食べて見せる。
「今日は鮭のフレークなんだ」
少女はまたおにぎりを見て、そして少しだけ口に頬張る。と思ったら更にかぶりつく。そうしてもぐもぐと繰り返していくうちに、どんどん目が見開いていく。そうしてまた更にかぶりつく。
僕は吹き出しそうになるのをどうにか防ごうと目を背ける。
なんなんだ、この子は。こんなにおにぎりで喜ぶ子も、はじめてみた。
ふと視線を戻してみると、相手はもぐもぐしながら僕のほうをじっと見つめていた。ちょっと恥ずかしくなったので、僕は姿勢を正して、無心でおにぎりを食べる。
そうして無心の三口目を頬張ろうとしたとき、疑問が頭をもたげた。だが、ストレートに聴くわけにはいかない。だから、言葉を選び、少女へと向く。
「怪我、してるんだね。痛みは……」
相手は首をふる。
「まだ、ちょっと……」
口が非常に硬い。話をあえて続けないようにしている。
僕は苦しい直感を感じ取った。だから、いのりがおにぎりを食べきるころまで、待ち続けることにした。
僕もおにぎりを食べ終わったころ、言った。
「君は楪いのり。EGOISTのボーカル。そして……葬儀社の一員」
いのりは僕の発言に固まる。僕は続けた。
「でなければ、こんなところに来ないでしょ……」
彼女は否定も肯定もせず、固まっていた。どうも当たりらしい。だから言った。
「ごめん。僕を信じられないと思う」
いのりは更に後ろに下がる。
迷いはあった気がした。けれど気づけば、言葉が口を衝いて出ていた。
「でも、君を助けたい」
いのりはそれを聞いて、下がるのをやめる。
「なんで」
僕は自分で慌てる。何を言ってるんだ。ただ、首を振ってどうにか振り絞った。
「君が歌ってる時、すごく寂しそうだったから」
呆然とする彼女に、僕は続けた。
「ねえ、たぶんここに君の仲間がやってくるのには、時間がかかるんじゃないかな。外にたくさん、GHQの特殊毒液災害対策局《アンチボディズ》がいるんだ」
いのりはうつむく
「うん」
「でもここにも、地下の移動ルートがあるんだよ、六本木までの」
いのりは顔を上げる。その様子をみて僕はどうにか訊ねた。
「ど、どうする……」
彼女は黙り、僕をじっと見つめる。
「わかった、行く」
そして、丸い機械へと目を向ける。
すると、丸い機械はぱかりと頭を開き、地図を表示してきた。いのりはそれを見て、僕へと向く。
「涯もいいって」
僕はほっと一息つく。
涯とはリーダー格の人物のことだろう。
「ありがとう……じゃあまず、この丸いやつの足をなんとかしようね」
そうして、僕は丸い機械に近づく。すると、その開いた頭に何かが刺さっていたのに気がついた。
「これは……」
僕はかがんでそれに手を触れようとしたが、いのりはそのとなりにやってきて、即座に抜き出し、隠す。
「これを、涯に届けるの」
「ご、ごめん」
そんなふうにうなだれる僕に、いのりはやがて、それを僕に見えるように差し出してきた。僕はいのりの顔を見上げる。じっと、僕を見ている。彼女なりに試しているんだと、僕は気づいた。僕はそれを仔細に観察する。
それはシリンダーだった。その中には赤い結晶のようなものがあって、そこに二重の螺旋が絡み合っている。情報集積を行う補助記憶装置《Solid State Drive》ではないことだけは間違いなかった。よく見てみれば、それがペン型注射器であることもわかった。でも、そこに刻印されている文字を指で追う。それは、十年前の大災害、ロストクリスマスを引き起こしたものだった。
『Sephirah Genomics Void Genome』
「まさか……完成させていたっていうのか……
いのりは王の能力というフレーズを聞いて、目を少し見開いていた。その時、脳裏に炎がフラッシュバックする。
シリンダーに近づいていた指は震えていた。そしてすぐさま、いのりへと顔を上げる。「これは、使っちゃいけない。これは……十年前の災害の火元だったんだ」
いのりは静かに首をふる。「誰かが、これを使わなきゃいけない。涯はそう言ってた。すべての人型戦闘機《エンドレイヴ》を、倒すために」
「
そして、わずかな沈黙ののち、あろうことかいのりは僕へとシリンダーを差し出してくる。「とって」
僕は呆然としていた。「どうして」
いのりは自分の行いに戸惑うように目を泳がせ、けれど答える。「これがなんなのか、よく知っているみたいだから。えっと……あなたが……」
僕はそれで気づいた。名前をまだ言っていない。彼女は僕をじっと見ている。ここで信頼を得られなければ終わりだ。けれど知らず知らずのうちに、僕はふと自分のポケットの中にあるセキュリティカードを握りしめていた。セフィラゲノミクスのインターン生としての自分。そして、自分の関係者。
「道化師……」それが、いまこの状況を越境可能な最低限の識別名だった。しかし彼女は道化師という言葉に首を傾げる。だめだ、何をやっているんだ僕は。首を振り、「集、桜満集」
名前を聞いたいのりはおもむろに語りかけてくる。「あなたは使っちゃいけないって言ったけれど……」
彼女は続ける。
「やれば、できるかもしれない。でもやらないと、絶対にできない」
いのりは決定的な一言を訊ねてくる。
「桜満集は、臆病なひと?」
僕の手は、固まったように動かない。取らなきゃいけない。捨てなきゃいけない。壊さなければ。これで終わりにするんだ。
しかし炎が見える。真っ赤な十字架。倒れた友達。そして、炎の中で泣いている君が、見えるんだ。
彼女の歌声が聞こえる。
ロンドン橋おちた、おちた、落ちた。
気づけば、自分の手が下ろされていた。そんな自分が、とても情けなかった。
「こんな僕でいいのか……」
そんな言葉が、ふいに口をついていた。
### insert daryl 1
あいつのことは会った時からずっと嫌いだった。
けれどその日の作戦から、あいつに僕の日常は破壊された。今振り返ってもそう思う。
朝、僕が二十四区を無理やり拡張した巨大浮動建造物《メガフロート》にたどり着いた時には、すでに多くの軍人が駆け足で出入りしている状態になっていた。けれど僕は気づけばセフィラゲノミクスにたどり着いていた。そして、そこで留まっているエンドレイヴを見つめる。流線型の純白の機体。
聴き慣れた声が僕の背中に語りかけてくる。
「よかった、ここにいたのか坊ちゃん……」
僕が振り返ると、そこにはよく顔をみた男がいた。
「その呼び方はやめてくれよ、ローワン大尉」
すまない少尉、とローワンは言って、「なんでシュタイナーのところに……まだこれは、実戦投入前だろ……」
僕は純白のエンドレイヴを見上げる。
「シュタイナーの動き、気持ち悪いぐらいに噛み合ったんだ」
「それはいいことじゃないのか……」
「いや、詮索されるのは、気持ち悪い……あいつ、僕の秘密にたどり着きそうだったし……」
ローワンは息を呑む。その反応が、気に入らなかった。だから付け加える。「けどあいつは僕と違う。特別じゃない」
僕は顔を俯けていた。そう、特別じゃない。だが、僕はあいつの姿を思い出しながら、気になった。「あいつなんなんだ。他の開発者より若すぎるだろ」
ローワンはため息をついて、「そりゃ君と同い年だからな」
僕は首を傾げる。「あいつもGHQの軍人なのか」
彼は首を振り、「違う、インターン生だよ」
「インターン?周りにいろいろ指示出してたぞ、あれでシニアの開発者じゃなかったのか」
ローワンは肯く。「彼は特別だ。あの桜満玄周と冴子と同じファミリーネームだし……たまたま、君みたいにエンドレイヴ含めて心理計測技術《ヴォイドテクノロジー》に触れる機会も多かったんじゃないのか」
僕はその言葉にローワンをただ見ることしかできなくなる。いるのか。僕みたいなやつが。そう思っていると、ローワンは僕に、奴の名前を教えてくれる。
「桜満集。ここセフィラゲノミクスのナンバーツー、桜満春夏の、息子さんだ」
僕はため息をついた。「冗談も休み休みにしなよ、春夏、若すぎるだろ……」
ローワンは首を傾げる。「確かに。だが春夏さんからそう言われたしな」
そこでローワンは何かを思い出したのか、語りかけてくる。
「本題だ。君のお父さんからの呼び出しだ」
パパ。親子の話から思い出したのか。気にいらない。僕は黙って、彼の横を通り過ぎて、その場所に向かう。
昔は呼び出しを食らうとよく周りの大人に勘違いされた。別に家の車を勝手に乗り回したわけでも、変な薬をやったわけでもない。仕事だ。軍人としての。
最新の研究設備は整えられているけれど、ここはアメリカじゃない。今この世界で最も危険な戦場、極東、ジャパン、東京。戦場として危険なのは、そこでウイルスのパンデミックがあったこと、何よりもテロリストが体制派、GHQに本当に歯向かっていることだった。パパはそのGHQ最高司令官。そのパパが僕をここに来させた。僕はどんなにウイルスまみれで、不潔だったとしても、ここにいるしかなかった。けれど、それでよかった。パパが僕の存在を、認めてくれたのなら。
たどり着いた先、GHQ最高司令官の部屋にいたのは、パパだけじゃなかった。僕は並んでいる人間を見つめる。軍人がパパ含めて二人、僕の嫌いな科学者たちが二人、そして、あの奇妙な奴がひとりいた。そうして僕が来たのを見て、パパは話し始めた。
「それで、盗まれたヴォイドゲノムというのは。あれは十年前、ロストクリスマスを引き起こしたもののはずだが」
科学者の女がそれは、と話そうとするが、それを初老の科学者が「春夏……」といいながら手を上げて止め、「レベルAAA《スリーエー》の、最高機密ですので」
パパは顔をしかめる。「茎道、GHQ最高司令官の、この私でもか……」
茎道と呼ばれた特殊毒液災害対策局《アンチボディズ》の局長は答える。「ええ、ですがご安心を。今回の作戦には特別に、ハングマン……特殊毒液災害対策局《アンチボディズ》の嘘界少佐が務めます」
そう言って茎道は、最近特殊毒液災害対策局《アンチボディズ》に来た奇妙な奴に目を向ける。
僕がそいつを奇妙だと言っていたのは、今時スマートフォンでもなく、フィーチャーフォン……ジャパンではガラケーとか呼ばれていたやつを、ひたすらキータイプしていたからだ。彼は、ガラケーを閉じる。それつけられた、吊られた男《ハングドマン》のストラップが揺れる。
「ヤン少将、道化師《clown》をご存知ですか」
パパは顔をしかめ、「君以外では一人。エンドレイヴの基礎研究、ゲノムレゾナンス通信をつくった詳細不明の開発者のことだろう。それが何か」
「彼のことはどう思いますか」
「不快だ。全世界にゲノムレゾナンス通信をばら撒き、我々のエンドレイヴ産業を妨害している。早々に消えて欲しいものだ」
嘘界は笑う。
「彼は、どうやら我々の近くにいたようなのですよ。どこだと思います……」
その試すような口調に、パパだけでなく科学者の女も顔をしかめていた。嘘界は答える。
「エンドレイヴの生産拠点、セフィラゲノミクスです。道化師《clown》の成果物は、特に最近、セフィラゲノミクスの実施している機密の軍事計画に非常に影響されたような形跡がある。だから、ずっと妨害されてきた」
僕は首を傾げる。余計にわからない。なんで道化師《clown》はそんなことを。パパはため息をつき、眉を吊り上げる。「それで……道化師《clown》が今回のヴォイドゲノムの内通者であると?」
「いいえ、むしろ逆、蚊帳の外になるようにしてあります」
嘘界が言うことは、ますます訳がわからなくなった。パパは沈黙し、奴を睨みつけている。その顔は、僕は怖かった。
けれどこの嘘界は笑みを絶やさない。
「ネット上の伝説のハッカー、道化師《clown》がセフィラゲノミクスにいようとも、葬儀社を支えるクラッカー、黒鶫《ブラックスワン》がどれだけの攻撃をしかけようとも、彼らはヴォイドゲノムの真実にたどり着くことはできない。私にとっても不本意なのですがね」
嘘界の目をよく見る。瞳の部分が、回転している。その目に埋め込まれているのは義眼だったことに、今更気づく。機械のような人間。しかしその笑いに嘘はない。道化師とは似て非なるもの。本当に、楽しんでいるみたいな気味の悪い男だった。
「だから、レベルAAA《スリーエー》の機密事項なんですよ」
こいつの指揮下に入るのかと思うと、最悪な気分だった。
そして、実際ひどいことばかりだった。桜満集。あいつともう一度会った時、心底そう思った。