「実りの季節」シリーズ第四話にして最終話「実りの季節に導かれ」となります。すでに完全にToHeartの世界観から遊離しているため、シリーズを通して読まれた方以外は絶対に読まないでください。第四話を持って「実りの季節」シリーズ本編は終了となります。

マルチの、そしてみのりの夢を実現できていない長瀬は焦りを感じていた。自分の向かうべき方向が合っているのか、間違っているのかもわからなかった。そんな彼を見つめている音山。みのりとの生活の中で長瀬が見つけたひとつの答え。マルチとみのりに導かれた人々の物語がここに終わりを告げる。

こちらの作品はPixivとのマルチ投稿となります。

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実りの季節に導かれ 実りの季節シリーズ4

          * 1 *

 

 その日はいつになく仕事が溜まっている日だった。

 退勤時間も過ぎ、来栖川HM研究所には残業をしている者だけがいた。それをさっ引いても静かな社長室で、秘書たちも返してしまったために、俺はひとり面倒な書類の整理をしている。

 重役出勤なんてありゃしない。仕事は朝から晩まで終わらないくらいやってくる。そんな中でもここ最近外を飛び回っていた俺は、社内社外の書類をため込み過ぎちまった。秘書たちこそここにはいないが、執務机の隣には、次に処理すべき書類を胸に抱えたセルフが、俺の仕事の進みを監視するかのようにものも言わずに立っている。メイドロボながらも、今日の分の仕事はきっちり終わらせてからしか帰してくれないような雰囲気を、こいつは漂わせていた。

 コンコンッ、と分厚い樫の扉がノックされたのは、そのときだった。

 待っていましたというように俺は立ち上がって扉へと向かう。

「音山社長、来客ならばわたくしが――」

「いいじゃねぇか。息抜きも必要、ってな」

 机に戻そうとするセルフを制し、俺は客人を扉の前まで出迎える。

「開いてるぜ。入ってきな」

 そう声をかけたとき、俺はまだその日がどんな日なのか忘れていた。

 メイドロボ業界のトップを走り続けるべく仕事を右から左にこなしているため、自分のスケジュールはもちろんのこと、自分に直接関わらない予定など、セルフに任せっきりだった。

「失礼します」

 そんな声とともに扉は開かれ、入ってきたのは長瀬。彼はいつになく扉を大きく開いて俺の前まで来、それから挨拶の前に後ろを振り返る。

「ほら、入っておいで」

 長瀬とともに入ってきたのは、ひとりの少女だった。

 長瀬の胸ほども身長のない小柄な身体。その身には真っ白な、幼い身体の線があらわになってしまうような密着したスーツをまとっていた。

 そう、突き出たイヤーセンサーを持つ彼女は人間の少女ではない。来栖川HMがまもなく世に送り出す、最新型メイドロボの試作機、HMX―53、ミノリだった。

「できたのか、長瀬」

「えぇ」

 俺の声に答える長瀬は、微笑んでいた。

 ――こいつのこんな笑みを見るのは、初めてかも知れないな。

 自分を見上げるメイドロボの頭に手を乗せ、長瀬は笑みを返す。

 穏やかで、静かで、満ち足りた笑みだった。過去に見たことがある長瀬の笑みの中で、一番のものだった。

 長瀬のこの笑みはひとつのことを達成したことによって生まれた笑みだ。ミノリというメイドロボを、――いや、もうミノリにはメイドロボという言葉はふさわしくないだろう。メイドロボを越えたメイドロボであるから――完成させたことによって生まれた笑みだ。

 このときが来るまでにどれほどの時間が経っただろうか。どれほどの事件があっただろうか。どれほどの壁を乗り越えてきただろうか。

 しかしミノリも夢そのものではない。みのりちゃんが見、長瀬が引き継いだ夢は、ミノリをもってして始まるのだから。ミノリはふたりの夢を実現していくために生み出されたものなのだから。

 これからも俺や長瀬は多くのことを乗り越えなくちゃならないだろう。だがいまここに、夢の始まりは確かにある。

「さぁ、自己紹介をしなさい、ミノリ」

 長瀬にうながされ、ミノリが俺の方を見る。つくられたものとは思えない深い色を湛えた瞳。そこに映っているのは――。

 

          * 2 *

 

 ただ時間が流れていた。

 すべてが無為としか思えなかった。

 リビングのソファに身を預け、私はテレビを見ている。けれどもテレビはつけられていない。真っ黒な画面がそこにあるだけだった。

 そろそろ高くなってきた日はほとんど差し込まず、リビングは薄暗かった。電灯はもちろんあったが、点ける気なんておきない。呆然とソファに座っていることしかしていない。

 コチコチと時計が無意味に時を刻んでいた。そろそろ中学ならば下校の時間を示している。

 それでも私はそこから動く気力なんて出てこなかった。今日は平日のはずで、私には高校があるはずだったが、登校することなんて思いつかなかった。いつから自分がこうしているのかも憶えていなかった。

 少し前ならば、そろそろ家に光が満ちる時間だった。

 電灯の明るさなどではない。いまここにある空気が、朗らかな笑みで満たされるはずだった。

 けれどももうこの家に光が満ちることはない。静けさの漂う家の中は静かなままだった。私ひとりで、ただこうして呆然と過ごしているしかなかった。

「みのり……」

 思わずつぶやいてしまうその名前。

 みのりこそが明るさの源。彼女がいなければ、この家に光が満ちることなんてない。

 いつもみのりは帰ってきてまず遅い洗濯をし、掃除をして、夕食の買い物にでかけていた。大きな変化のない毎日であったけれど、彼女が見せてくれる笑みは、この家に、そして私に、光をもたらしてくれていた。

 みのりはもう、この家にはいない。交通事故で他界してしまっていたから。

 あの日からもう二ヶ月が過ぎているというのに、私はいまもみのりの死が信じられないでいた。ソファに座っていると、そのうち学校から帰ってきたみのりが、買い物から戻ったみのりが、「ただいまーっ」というあの元気のいい声とともに玄関から入ってきそうな気がして、どうしようもなかった。

 ――私は、変わったな。

 それを思い、ため息をつく。

 ひとりの少女がいなくなっただけのことだと言えた。三年前の私ならば、クラスメイトが亡くなったとしても、それを知ったときに悲しみを覚えるかも知れないが、しばらく経てばさほど気にはしなくなるだろう。しかしいまの私は、みのりという、たったひとりの少女の死に、二ヶ月もの間自分の気持ちをどうすることもできなくなっている。

 コチコチと時計が無意味な時間を刻んでいた。

 春先の陽はもう西に傾いて、リビングからは陽光すらも差し込まなくなっていた。

 そんな中で私は、ただソファに身を預け、なにも映っていないテレビを眺め続けていた。

 ――みのりは私にとって、これほどまでに大きな存在だったんですね。

 彼女によって自分にもたらされた変化に、私は今更ながらに驚いている。三年前、あのとき訪れた変化を、みのりとの出会いを、どれほど大切なものであったのかをいまになって初めて感じていた。

 

           ∫∫∫

 

 コーヒーをひと口すすり、片手で持っていた本を両手で持ち直す。

 最近興味を持ち始めた機械工学や電子工学。それらの本は中学三年の私では内容的には難しいものばかりだったが、いろいろと調べて読み砕いていけば理解できないものは決して多くない。

 そういった本を読むこと自体にはあまり意味を感じることはなかったが、本を読んでいれば時間が経ち、明日が来る。その程度の意味にはなっていた。

 音楽に興味のない私はリビングにBGM代わりに夕方のニュースをテレビで流し、明るい電灯の下でソファに座って本を読んでいる。

 こうしているうちに夜が来る。適当に食事をして、風呂に入り、宿題などは終わらせてしまっているから、夜になれば寝るだけだった。

 もうひと口コーヒーを飲もうとカップを口元に寄せたとき、玄関の扉が開けられる音が聞こえてきた。門にあるはずの呼び鈴が鳴らされた様子はない。

 ――こんな時間にショージかな?

 ショージ、こと音山彰次なら、呼び鈴もなく勝手に玄関の扉を開けて家に入ってくる。どんな家に対してでもそうなのかどうかはわからないが、彼はいつも騒々しい足音とともに突拍子でもないことを私に発表したりする。

 学校で友達をつくったことなどはなかったが、ショージだけはズカズカと私の側によって来るので、拒絶しようにもできず、いつの間にか私も彼のことを拒まないようになっていた。

 いつもの足音が聞こえてくる前にソファを立ち上がり、ひと息で飲み干したコーヒーのカップをリビングテーブルに置いて、閉じた本を小脇に抱え玄関へと向かった。

「……」

 ショージだろうと思った私の予想は大きく外れた。

 いつ見ても変わっていた覚えのない白シャツと黒ベストを着、身体の大きさに似合わぬ小さな眼鏡をかけて玄関口に立っているのは、長瀬源四郎。私の父だった。

 ――なぜ帰ってきたのだろう。

 数ヶ月ぶりに会った父親だったが、挨拶をするよりも先にそんなことが頭に浮かんでいた。

 父は来栖川の本家で執事の仕事を住み込みでしていて、滅多に家に帰ることなどなかった。特別用事がない限り、顔を合わせても話をすることもなかったし、その気もなかった。

 ――ん?

 ショージでないのなら話すこともない父と一緒に時間を過ごすのは億劫としか感じられない。リビングから出た動きのまま二階への階段に足をかけようとしたとき、気がついた。

 父の身体に隠れるように、小柄な女の子が立っていた。

「久しぶりだな、源五郎」

「……」

 叫んでいるわけでもないのに大きな声の父の呼びかけを無視する。ただ私は、緊張しているらしく硬い表情で顔を見つめてくる女の子のことを見ていた。

 親戚の子を預かる、というわけでもないだろう。一応近い親戚筋の人々の顔は憶えていたが、この女の子に似た顔の子は憶えがない。ぱっちりとした大きな目と、黒く澄んだ瞳、同じように黒い髪は肩を越えて流されている。せいぜい十歳そこそこの女の子に美人、という言葉を使うのはどうかと思うが、雑と言えてしまうような顔立ちをしている人間の多い長瀬家の者とは思えない、どこか強い血筋の整った顔立ちを彼女は持っていた。

 そして、瞳や髪の色に合わせたような黒一色のワンピースが、なぜか私の目を止めさせていた。

「ふむ。今日はこの子のことで用事があってな」

 やはり父の言葉に私は応えない。

 そろそろ女の子にも興味を失って、私は階段を上り始めていた。

「この娘は今日からお前の妹になる。名前はみのり、長瀬みのり、だ。ほらみのり、今日から源五郎がお兄さんだ。挨拶を」

「えぇっと、あの、な、長瀬みのり、です。今日からよろしくお願いします」

 女の子の、長瀬みのりの声は静かな家には似つかわしくない、言うなれば鈴を鳴らしたような声だった。

 ――いったいなにを考えているのだろうか。

 悪態をつきたい気分を押し殺して、顔だけ振り返った私はみのりの言葉に「はい」とだけ応え、そのまま二階の自室へと向かっていった。

 

 

 その日から、私とみのりの生活が始まった。

 私にとってみのりが妹になったことなど、どうでもいいことだとしか思えなかった。リビングでゆっくり本が読めなくなる、という考えしか浮かんで来なかった。

 けれどもそんな私の思いを、みのりはいつしか変えていってしまう。

 

            *

 

「――ももう高校三年だ。中間試験も来週に迫っている。気を引き締めて――」

 担任の熱血男が教壇に手を突いて暑っ苦しく語っていたが、俺の耳はそんなも聞いちゃいない。教科書やらノートは六時間目の授業が終わる前に鞄の中にしまってある俺は、頬杖を突いて自分の真正面の席をじっと眺めていた。

 使い古されて薄汚くなってる机の中身は空っぽ。そんな中が見えるってことはもちろん、その席には誰もいない。中学三年の一学期が始まってから、その席に人が座っているのを見たのは、本当に数えられるくらいしかなかった。

「バカヤロウ」

 主のいない席を眺めながら、俺は小さく愚痴をこぼす。

 そこは長瀬の、ゲンゴロウの席。

 みのりちゃんが亡くなってからもう二ヶ月が経とうとしてるのに、ゲンゴロウのバカヤロウはまともに学校に来ようとしなかった。

 みのりちゃんが交通事故に遭い、病院で息を引き取ってからの一週間は、葬儀やなんだので忙しくてまともにゲンゴロウと話してる余裕はなかった。春休み中の教科書の購入やら始業式にはどす黒い影を引きずりながら姿を見せたゲンゴロウだったが、授業開始初日から休み、以降は登校しても遅刻だったり、早退だったり、丸一日来ない日も少なくなかった。そしてその状態は悪化し、ここ二日はあいつの顔を見ていない。その前は連続三日休んでいた。

「――ったく」

 そんな悪態をついているとき、「音山君?」と長瀬のひとつ前の席の女の子が振り向いて、前から回されてきたらしいプリントを二枚、ひらひらとさせていた。

「おぅ、悪ぃな」

 ゲンゴロウにぶつけたい気持ちを隠して笑み、身体を伸ばして二枚とも受け取る。椅子に座り直して見たそのプリントには、「進路調査」とでっかい表題が印刷されていた。

 ――もうこんな時期なんだな。

 高校三年の一学期もまもなく半ば。一学期の終わりにはたいていの奴が進路を決めちまう。自分の行く先をそろそろ決めないといけない時期になっていた。

 ――それなのに、ゲンゴロウの奴は……。

 心で愚痴りながらプリントを鞄に放り込む。

「進路調査のプリントは来週火曜には提出するように。それじゃあ日直」

「きりーつっ、――」

 必要なことだけ耳に入れた俺は、担任に挨拶することなく鞄を抱えて教室の出口に足を向けた。そのまま早足で廊下を歩き、階段を下りる。

「音山くぅーーん」

 階段を下りる途中で声をかけられ、俺の後を追って走ってきたらしい同じクラスの女の子に振り返る。その子はクラスの中でも、いや校内でも有数の美人だった。

「今日、一緒に帰らない?」

 魅力的な誘いだったが、俺はしかし――。

「すまねぇ。今日はバカヤロウに届けもんがあるんでな、また今度一緒に遊ぼうぜ」

 そう言って階段を下りていった。

 後ろの方で「ちぇっ」という舌打ちが聞こえてきたような気がしたが、もう俺の耳には届いていない。早足に下駄箱に向かっていく。

 ――ゲンゴロウのバカヤロウがっ。

 

            *

 

 もうずいぶん日は傾き、リビングの家具は輪郭を失いつつあった。止まることなく時を刻み続ける時計は、高校も終わった頃の時間を示していた。

 結局私は、半日もの間ソファに身を預けて過ごしてしまったことになる。

 空腹感はあったが、なにかを食べる気など起きなかった。

 ――気が向けばなにか食べるだろう。

 自分のことを他人のことのように思い、私は空腹感をそのまま放置する。

「ふぅ」

 緩く息を吐き出したとき、門扉を開ける音がした。蝶番が壊れるのではないかというほどの大きな音がして門扉が閉じられ、玄関に向かってくる重い足音が聞こえてくる。

 ――ショージか。

 いつもよりも大きな足音から、彼の気が立っていることがわかる。今日はなんの用事だろうと思っているうちに、玄関の扉が乱暴に開かれた。

 怠い身体を動かして、ソファに座り直す。

「ゲンゴロウっ、居んだろっ?」

 そこに大声を上げながらショージが入ってきた。

 怒りを宿した目で、彼は私のことを睨みつける。そのまま襟首をつかんで床に叩きつけられるのではないか、というほどの雰囲気を漂わせていた。

 ――今日はどんな言葉をかけてくるのでしょうね。

 近づいてくるショージのことを見ながら、しかし私には、彼がどこか遠くにいるかのように感じられていた。

 最初は慰めの言葉をかけてくれていたショージも、いつまでもみのりの死から立ち直らない私にいらだっているらしい。いまでは家に来るごとに罵倒を浴びせかけてくる。それでも反応しない私に、ショージの手が飛ぶこともあった。

 それでもどうすることもできない。それがいまの私の姿だった。

 ――そんな自分に一番驚いてるのはでも、私自身かも知れませんね。

 わかっていてもなにもできないでいる自分に、薄く笑みすらこぼれる。

 けれども今日はショージの口から罵倒が飛ぶことはなかった。瞳に怒りを湛えつつも、学校帰りそのままの鞄の中を探っている。

「ほれ」

 声とともに彼が取り出したのは、学校で配布されたらしいプリントだった。それを私の目の前に突きつけてくる。

 学校で今日配布されたのだろう、ショージが突きつけているのは進路調査の紙。希望する第一から第三までの学校名やその理由、進学以外の道についての項目などが書かれていた。

「ありがとう」

 言って私はショージの手からプリントを受け取ろうと手を伸ばす。しかし彼はその手を引っ込めた。

「おめぇはどうするんだ?」

 理由を聞く暇も与えず、逆に彼はそう問うてきた。

「学校なんてぇのは基本的におもしい場所じゃあねぇ。高校だって行きたくなきゃぁ行かなくてもいい。だがどうするんだ? お前は。この先、どうやっていくつもりなんだ?」

 瞳にある怒りは変わっていないけれど、彼は私にそう問うてくる。

 ――この先、どうするか?

 考えつきもしなかった。

 みのりはもう私の側にはいなかった。私にとって彼女は光そのものになっていた。彼女とともに未来があることが、気づかぬうちに当たり前になっていた。けれどももうみのりは側にいない。いなくなってしまっていた。

 ショージの視線を受け止め切れない私は、下を向き、ただ沈黙する。

「見損なったぜ、ゲンゴロウ。すっかり腑抜けになっちまったな。俺だってみのりちゃんがいなくなっちまったのはショックだよ。おめぇのショックは俺のよりでけぇだろう。だがてめぇはこのまま過ごしていくつもりか? このままなにもせず、過ごしていくってのか?」

 ショージの言葉が痛い。

 わかっている、わかりきってることだった。

 このままなにもしないで生きていくことはできない。いつかはみのりの死のショックから立ち直るか、彼女のことを忘れることによって、私はなにかを始めなくてはならない。そうしないなら、ただ死ぬのを待つだけだ。

 どちらにせよ、いつかはこんな無為な時間に終わりが来る。

 ――私もみのりのようになりたい。

 そう願っている。私自身、それを思っている。

 けれどもなにもできない。なにもする気が起きない。だから私は無為な時間を過ごし続けている。

「本当に、見損なうぞっ」

「えぇ、それで構いません」

 ショージの強い言葉になにも言えない私は、そう答えるしかなかった。

 途端、殴られた。

 眼鏡が吹き飛び、私の身体はソファから滑り落ちる。目の前に火花が散ったかのように視界が定まらず、口の中で血の味が広がった。

「このままダメになるんなら、俺は本当にてめぇを見捨てる!!」

 そう言い捨て、ショージは来たとき以上に重い足音を立てて玄関から出ていった。

 石畳が踏みならされる音、門扉が開けられ、閉じられる音がして、足音が遠ざかっていく。しばらくして、リビングはまた静けさを取り戻した。

「ふぅ」

 ため息をつき、ショージが落としていったプリントを手に取る。

 自分でもこのままではいけないのはわかっていた。しかしみのりという光を受けて生活していた私が、その光を突然失ってしまったいま、暗闇の中をさまようことしかできなかった。

 ――すべては言い訳にしかならないんでしょうけどね。

 もう一度ため息をついた私は眼鏡を拾い、床に座ったままソファに背を預けて手にしたプリントを眺めた。

 進路希望。

 高校二年の終わりにも同じ内容のプリントを渡され、提出していた。そのときはあまり深く考えず、適当に自分のレベルにあった大学を書いた。しかし今回はそれを書くことすらできない。

 ――思えばみのりとは、そんな話をよくしていましたね。

 一年ほど前だったろうか。中学三年に入ったみのりは高校進学のことでいろいろと考えていた。私は適当に近くの高校に進んでしまったから彼女の参考にはなってやれなかった。結局彼女もまた私とは違う近くの高校に進むことを決め、合格を果たした。

 高校進学以外でも、みのりは自分のしたいと思うこと、夢について、いろいろ私に話してくれていた。

 高校に入ってから自分の進むべき道を捜そうと話していたみのり。入学式を目前にして他界した彼女は、果たして自分の進むべき道を見つけていたのだろうか。

 みのりの進む道を、彼女の見ていた夢を、私は手伝ってやりたいと思っていた。

 他界したみのりは、私になにも残していかなかった。彼女の見ていた夢は話の上では知っていたが、それが本当にどのようなものか、一度でいいから詳しく話しておけばよかったと今更悔やむ。

 話していたなら、彼女の実現できなかった夢を、彼女の進めなかった道を、代わりに私が歩むことができたから。

『みんなが微笑むことができるようにしたい』

 彼女の言っていた言葉。それが彼女の夢。私はそれを実現する方法を見いだせない。

 見つめるのは進路希望のプリント。暗闇の中にうっすらと浮かぶ、第一、第二、第三と書かれた希望する大学名を書く空欄。

「ふぅ……」

 ため息をつき、それでもプリントを見つめ続ける。

 私はそこに書くべきものを思いつけないでいた。

 

          * 3 *

 

 トントントンッ、とリズミカルな音がキッチンから耳に届く。

 また板と包丁が立てる音、蛇口をひねる音、水音、食器と食器が立てる音。

 そんな音を聞くともなしに聞きながら、私はテレビから流れてくる経済ニュースをBGMに、ソファに座って新聞を読んでいた。

 いま夕食をつくっているのはマルチ。人間になった彼女がつくってくれる美味しい夕食を、私は新聞を読みながら待ちこがれていた。

 季節はそろそろ冬。すっかり日が暮れた外は暗かったが、家の中には光が満ちている。電灯の光ばかりでなく、マルチとともに過ごす朗らかな光が家中に満ちあふれていた。

 年を越し、寒い季節が終わる頃にはまたメイドロボショーがある。試作型すら完成していないミノリの開発には、まだまだ時間と手間が必要だろう。

 けれども家の中には、ここのところずっと穏やかな空気があふれていた。

 テーブルのカップを取ってコーヒーをひと口飲み、新聞をめくった。老眼用の眼鏡の位置を指で直して新聞を読みながら、私は考える。

 思えばみのりとの生活も、こんな穏やかな生活だった。

 穏やかで、静かで、けれども一日一日が輝いていて、そしてなにより、笑みがあふれていた。ひとつ違うことがあるとすれば、人間になったマルチに比べてみのりはなににつけても不器用で、家の中が騒がしくなることが多かったことか。

 しかしそれもみのりが一緒であれば、笑みに変わる。自分の失敗に涙するみのりも、私の笑みに応えて笑ってくれる。

「ふふっ」

 みのりの様子を思い出してしまって、笑みがこぼれてしまう。

 そんなすべてのことは、みのりがつくってくれたものだった。いま私が目指しているものも、ミノリをつくる目的も、みのりがもたらしてくれたものだった。

 多くの人々に、社会に、笑みがあふれてほしい。

 そんな彼女の望みを、夢を引き継ぎ、形こそ彼女のものとは違えど、私なりに実現させようとしていた。

 みのりに出会わなければ、私はどうなっていただろうか。

 彼女に出会う前の私は両親に接する機会はほとんどなく、自分から人と関わろうとすることなどなかった。無理矢理近づいてくる音山を除けば、他人を避けてすらいた。

 そんな私に、みのりは光をもたらしてくれた。みのりに出会わなければいまも人と関わらない生活をしていただろう私を、みのりは変えてくれた。

 思えば浩之君もマルチに光を、夢をもらったと言っていた。

 みのりやマルチは、私や浩之君に、笑い方を教えてくれていた。笑うということをあまり知らなかった私たちに、言葉を使わずに自らの行動で教えてくれていた。

 彼女たちはそれを無理矢理にではなく、ごく自然に、自身の有り様から引き出してくれる。笑うということを忘れてしまっている人々に、そのやり方を示してくれる。

 ――私は、そんなメイドロボをつくりたい。

 ミノリはみのりの夢だった。マルチの娘だった。

 果たして私の望みは人々の中で実現されるとは限らない。けれどもみのりの夢が込められたマルチの娘たちならば、それが実現できると信じていた。

 

           ∫∫∫

 

 ショージは今日、クラスの女の子たちと一緒に帰ってしまった。月曜で図書館も締まっている。駅の近くの商店街の本屋を何軒が回ってみたが、新刊や雑誌にめぼしいものはなく、既刊本にもとくに興味の沸くものは見つけられなかった。

 仕方なく私は、ひとり夕日に染まりつつある町を家路についている。

 本当はもっと暗くなってから帰るつもりだったが、外にいる意味がなければ仕方がない。自室にでも籠もって読みかけの本でも読んでいよう。

 そう思いつつ、鞄を片手に私は家に向かってとぼとぼと歩いていた。

 家に帰れば、みのりがいる。

 突然私の妹となった女の子、みのり。彼女とふたりの生活はすでに三ヶ月が経とうとしていたが、私は慣れることができないでいる。

 家でみのりと話すことはほとんどない。話したとしても、彼女の質問に答える程度。食事は自分で適当につくって済ますか、外食でどうにかしていた。

 私はみのりのことを避けるかのように生活していた。いや、確実に彼女との接触を避けていた。

 そして今日は朝に、みのりに言われた。自分が食事をつくるから、夕食時には帰ってきてほしい、と。

 やっと家の周辺を歩くことには慣れてきたらしいみのり。彼女はとくにたいした用事でもないのに私に話しかけてきて、微笑みを見せてくる。なにも言っていないのに学校から帰ってくると洗濯をし、掃除をこなし、たまに食事をつくっていることもあった。

 みのりは最初、家事のことなどなにも知らなかった。洗濯機の使い方も、ご飯の炊き方も知らず、私が教えてやらなければならなかった。それに基本的に不器用なのか、食事をつくるときは塩と砂糖を間違えることなど当たり前で、彼女が食事をつくる日は必ずと言っていいほど皿かコップが家から失われていた。

 それでも彼女は笑う。失敗して涙を流すことはあっても、気がつくと彼女の顔には笑みが浮かんでいる。

 私にはそれがわからなかった。

 確かにいま、私とみのりは兄と妹という関係ではある。けれども一緒の生活は三ヶ月にも満たない。私のことをほとんど知らないはずなのに、なぜあぁまで楽しそうに微笑みかけてきて、強制もしていないのに家事をするのか。

 私にはみのりのことが不気味と感じることすらあった。

 別にみのりのことが嫌いということはない。嫌いではないが、私はみのりのことを避けてしまう。そのことに理由があるわけではなかったが、私の身体と思考は自然と彼女のことを避けるよう動いていた。

 ――慣れていない、というのが本当のところかも知れませんね。

 父は住み込みの仕事でたまに帰ってくるだけであったし、母――瑞恵は物心つく前から研究だと言って家を出ていて、顔を合わせたことなど数えるほどしかない。私がまともに話したことがある人間と言えば、ショージくらいしか頭に思い浮かばなかった。

 ――かといって慣れる必要は感じていませんが……。

 そのうちみのりとの距離も安定してくるだろうと思いつつ、私は自宅の門をくぐり、玄関へと向かう。夕食時間を自室でやり過ごして後で外になにか食べに行こうと思いつつ、家にあがって階段を上ろうとしたとき、廊下の奥のキッチンに光があるのに気がついた。

 ――まだ夕食の準備を始めるには早い時間のはず。

 みのりが夕食の下ごしらえでもしているのだろうことはわかっていたが、少し気になって私は階段を上がる足を止め、キッチンへ向けた。

 開きかけの扉を開けるとそこはもちろんキッチン。さほど広い家でないのに余裕のあるスペースがとられたそこには、システムキッチンと、一応食事もできるくらいのサイズの背の高いテーブルがある。食事は落ち着けるダイニングで取ることが多く、そのテーブルには私もよく食材などを広げて置いている。

 今日、そのテーブルの上には、開かれたままの料理の本が置かれ、料理の準備に使っているらしい食器類などがあった。

 どうやら夕食はコロッケらしい。

 金属のトレーのひとつにはつくりかけのコロッケが、他のトレーには失敗したらしい黒く焦げてしまったコロッケが乗っかっていた。

 そしてみのりも、そこにいた。椅子に座ってテーブルに突っ伏し、彼女は眠っている。

 ――私には、やはりわからない。

 下ごしらえさえしておけば、コロッケなど一時間もかからずにつくれる。揚げるだけなら食事の直前にした方が美味しくできるだろう。

 それなのに彼女は、夕食の時間までまだかなりあるのに、おそらく一所懸命になって夕食をつくる準備をしていたのだ。

 みのりが完全に眠っているのをその顔から確認して、私はガスレンジを見に行く。油が入った鍋が置かれたレンジ台の火は完全に消えていた。

 ――そそっかしいところがありますからね、みのりは。

 安心した私は二階に行くためにキッチンから出ようと踵を返した。

「お父さん……、お母さん……」

 私の耳に入ってくる、みのりのつぶやき。

「みのり?」

 思わず名前を呼びながら振り返ってみたが、彼女はまだテーブルに突っ伏したままだった。けれどその目尻に、光るものを見つけた。

 ――思えば、彼女の両親のことは聞いたことがありませんでしたね。

 振り返ってみる限り、父に連れられて最初に出会ったその日を除けば、みのりの顔で思い浮かぶのは笑顔ばかりだった。泣き顔ももちろん憶えはあったが、悲しい顔というよりも、自分のミスを悔やむような涙だった。

 つい最近、父からみのりの素性について聞かされていた。彼女はさる良家の一人娘だった。私の父が執事を努める来栖川には比べるべくもないが、家はそれなりに裕福で、そして家族は明るく円満だったそうだ。

 しかし、両親は突然の交通事故でともに他界。どういうつながりがあるのかは知らないが、父が引き取り、養女にすることになったそうだ。

 父に連れられて家に来たとき、みのりの両親が他界してからまだ一週間しか経っていなかった。

 みのりが失った両親を悲しむ様子など、一度として見たことがなかった。家に来たその翌日には、彼女は私に微笑みを見せていた。同じ家で過ごしてきて、私が彼女に構うことなどほとんどないのに、いつも笑顔を見せてくれていた。

 ――なぜみのりは、私に笑みをかけてくれるんだろう。なぜ自分のためじゃない誰かのために、笑っていられるのだろう。

 不思議に感じた。

 彼女の心には決して消えることがないだろう、両親を失った悲しみが隠されている。それでも彼女は笑う。私に笑みを見せてくれる。

 私にはそんなみのりのことが信じられなかった。

 ――起きたらみのりと少し話をしてみよう。

 初めてみのりに対して抱く疑問を聞いてみようと、私は考えていた。

 起きるまでの間に飲もうと、私専用で、みのりに飲ませたことも、さわらせたこともないコーヒーメーカーを準備する。

 少し酸味のきついブレンドの粉を入れ、水を注いでスイッチを入れる。しばらくすると、湯気とともにポットにコーヒーが貯まってきて、いい香りが漂い始めた。

「んっ、んぅ……」

 その香りに釣られたのか、コーヒーメーカーを眺めていた私の後ろで、みのりの声がした。どうやら目を覚ましてしまったらしい。振り返ると彼女は身体を起こしていた。

 ――ちょうどいい。両親のことを聞いてみよう。

「えっと、あれ? あ、わたし……」

 状況がつかめないのか、左右を見回すみのり。そして私の存在に気づいたらしい、椅子から立ち上がって、私に振り返った。

「あっ、お帰り」

 私の顔を見たみのりは、そう言って微笑んだ。

 いつもとなにも変わらない笑み。さっきまであった涙の跡は、拭われてかすかに残っているだけだった。

「……」

 疑問を口にすることなどできなくなっていた。

 私はただみのりの笑みを、まだ少し濡れている瞳を、じっと見つめてしまっていた。

「どうしたの? おにぃちゃん」

 そんな私の様子に、みのりは舌っ足らずな口調で私を呼ぶ。

 もうなにも言うことができない。私は水屋からカップをふたつ取ってきて、カップに注いだコーヒーをみのりに勧めることしかできなかった。

 

            *

 

 みのりの行動を説明する事など、いくらでもできるだろう。

 彼女はそんな性格なんだ、と、たったその一言でも充分だったろう。

 けれども私はあのとき、みのりに魅せられた。彼女の笑みに、瞳に、私は魅せられてしまった。

 おそらくあのときから私は変わった。みのりが側にいることによって、変わっていくことができるようになったのだろう。

 みのりの行動について、過去に一度だけ疑問をぶつけてみたことがある。どうしてそんなに笑っていられるのか、と。どうして自分以外の人のためにそんなに微笑んでいられるのか、と。

 みのりは長い間考え、そして「それがわたしだから」と答えた。

 そのときの私には、彼女のその答えがわかるような、わからないような、そんな感じでしかつかめなかった。その不思議な感覚は、いまの私でもはっきりとはわかっていない。

 ただひとつ言えることは、いま私が目指しているメイドロボは、そのときのみのりの答えと同じ言葉しか返せない理由で開発をしている、ということだった。

 昼間の街道沿いを歩きながら、私はみのりに教えてもらった笑みを漏らす。

 ミノリの開発は、設計の段階をほぼ終えていた。いまは各モジュールの組み上げとその評価試験、そして設計の叩き直しを行っている段階だった。

 その段階では私に回ってくる仕事も少なくなく、ここのところは家に籠もっているか、研究所に詰めっぱなしでいることが多かった。

 今日は呼び出しを食らったために、こうして昼間に家を出、約束の場所へと向かっている。

 平日の住宅街の昼間では、人通りも少なく、道路を走る車もまばらだった。家から十分も歩かないうちに目的のレストランが見えてきた。

 私を呼びだしたのは、瑞恵。

 いつも突然帰ってきて用事があれば勝手に呼び出す彼女だったが、いつもとは違って手紙や電子メールでの呼び出しではなく、電話を使って、それも今すぐに会いたいと言われた。

 瑞恵にしては珍しい、というよりそんなに急を要することは初めてだったので、忙しいながらも私はすぐに家を出て、こうしてやってきた。

 店に入ってウェイトレスに待ち合わせであることを告げ、店内を見回す。瑞恵の姿はすぐに見つかった。店の一番奥の窓際の席で、まもなく食事を終えるところだった。

「早かったわね、源五郎。それから突然呼び出してゴメンナサイ。ちょっと待っててね、食事を終えるから」

 瑞恵のところまでいくと、そう声をかけられ、手で席を勧められた。

 最後に会ったのは成体クローンの研究所で、一年ほど前だったが、やはり瑞恵は私を生んだ人間とは思えないほど若々しく見える。傍目に見れば私と彼女は、妻が年上の夫婦と見えないことはないほどに。今日の昼食の献立もどうやらステーキだったらしい。瑞恵は変わらず元気な様子で、色気とは違う妖艶な雰囲気もいつも通りあった。

 デザートの最後の一口を飲み込み終え、口を拭いた彼女は、待ちかまえていたウェイトレスにコーヒーをふたつ注文した。少ししてコーヒーがやってくる。

 私は瑞恵が中心となって行われていた成体クローン研究を、マルチのために、みのりのために完膚無きまでつぶした人間だ。瑞恵にとってその研究がどこまで重要なものであったかはわからないが、彼女が望まないことをしたことには変わりない。研究をつぶしてから一年の時間が経ってはいたが、なにを言われるのかと緊張を覚えていた。

「さて、と」

 ブラックのコーヒーを一口飲んだ瑞恵は、持ってきていたアタッシェケースを開けて私に中身を見せる。そこには数枚のデータディスクと、大量の書類が詰め込まれていた。

 パッと見ただけで私にはそれがなんのものであるのかわかった。

「これ、わかるわね? そう、成体クローンの研究に関する資料。各地に散らばってたのをかき集めて持ってきたの。本当は研究復活の声もあたのだけどね、いまでは機材の入手はいろいろ監視されてて困難だし、なにより前に比べて出資者が少なくてね、実現することはなかったわ」

「……」

「みのりの記憶の欠片も、源五郎の知らない場所にあった奴は削除してきた。みのりの細胞サンプルもいくらかあったけど、それも全部使えないようにしてきたわ」

 そう言って薄く微笑む瑞恵は、アタッシェケースを閉め、私の方に寄せる。

「これはあなたが必要になったときに使いなさい。あの娘の身体は安定しているようで、不安定になる可能性を秘めてるわ。十年も経てば身体的には普通の人間とまったく同じになるでしょうけど、それまでの多少の保険程度にはなるでしょう」

「……」

 私には瑞恵がなにを考えているのかわからなかった。

 少なくとも怒っている様子はない。だからといって私のしたことを許しているなど、彼女の性格を考えれば信じることはできなかった。

「成体クローンのことなら、もういいわ。怒ってないから。許したわけでもないけどね」

 心を見透かしたように言う瑞恵。それから彼女は、目を細めて笑む。

「今日あなたを呼びつけたのは、別の用事。それを渡すのはついでよ。少し話したいことがあるの。聞いてくれるかしら?」

「――はい」

「よかった」

 瑞恵らしくなく優しく微笑んで、またコーヒーをひと口飲み、彼女はひとつ息を吐く。そして話し始めた。

「源五郎。あなたは私のことを恨んでいるんでしょうね」

「……」

 突然そう言われて、私は驚く。いきなりなにを言い出すのかと思ってしまう。

「別にそんな意外な顔をしなくてもいいわよ。わかってるわ、その程度のことは、ね。少し考えればあなたに恨まれる理由なんていくらでも思いつくし。

 でも私はあなたに恨まれようと、誰に生まれようと、私は人間ではなく、一個の研究者だったわ。生まれたその瞬間からあふれかえる『なぜ』という疑問に答えを出すために、世界のすべてを深く追い求めていたわ。私が知りたいのは、なにより自分自身のことよ。生物全体、脳、細胞、遺伝子、進化、死……。私は自分に関わるすべてについて研究を続けてきた。結局今でも答えは出ないけどね。もちろんあなたの父親と結婚し、あなたを生んだのも研究の一環よ。それ以上でも、それ以下でもなかったわ。

 そんな研究のためだけに生まれてきた私は、どういう理由でこれまで研究を続けて、生きることを続けてきたんだと思う?」

「――さぁ」

 答えながら私は疑問を感じ始めていた。

 いつも通りの瑞恵のように思えて、どこか違っていた。

「簡単なことよ。ただの自己満足。自分を知りたくて調べて、そのために他のあらゆるものを犠牲にして、それでも答えられない『なぜ』に悩んで……。答えが見つかろうと見つかるまいと、ある意味ではどうでもいいことなのかも知れない。おそらくあと百年、あと千年研究を続けたとしても答えは出ないだろうし、結局見つからなくてもいいのかも知れない、って、最初から感じていたから。私なりに精一杯やってきたつもりよ。いまでももっと研究がしたいと思うし、いまも関わってる研究はあるわ」

 そこまで語った瑞恵は、ふと目を細めて私から視線を逸らす。

「そんな私もいつかは死ぬのよね。永遠の命は得ていないから。いえ、永遠の命を得ていたとしても、いつかは終わりが来るもののように思えるわ。でも死ぬときに私は思うでしょうね。『もっと研究がしたかった』って。私は自分のためだけに生きてきた。自分だけが満足を得られるように生きてきた。そして死ぬときは、そのまま死ぬつもりよ。そんな私だから、これから先、どんなことがあっても笑みを絶やすことはないわ。私はこれから先ずっと、笑みを浮かべているわ」

 語り終え、コーヒーを飲む瑞恵。

 私はいま、長瀬瑞恵という人間がどういう人間であるのかの一端を理解したような気がした。しかしそれについて口にすることはなく、沈黙していた。

 それからもうひとつ、私にはわかったことがあった。予想ではあったが、それがはずれることはないだろう。

「呼び出して済まなかったわね。それじゃあ私は行くから。まだいかなくちゃいけない場所があるからね。それじゃあ、源五郎」

 伝票を持って立ち上がった瑞恵を、私は追わなかった。彼女の背中が見えなくなるまで見送り、冷め切ったコーヒーを飲み干した。

 ――もしかしたら私は、みのりの言葉の意味を理解したのかも知れませんね。

 瑞恵が最期に見せた笑みを思い返しつつ、私もまた笑みを浮かべていた。

 

 

 後でわかったことだったが、瑞恵は私と別れた後、父のもとに向かったらしい。父とともに夜を過ごし、翌日にはまたどこかに消えてしまったという。

 そしてその後、案の定と言うべきか、瑞恵の消息は完全に途絶えた。それ以後、彼女から連絡が来ることは一切なくなった。

 

          * 4 *

 

 酔っぱらいどもの話し声と怒号が飲み屋の中にあふれていた。店員たちの注文を伝える声が響き、入ってきた客への挨拶が店内を包む。

 ――たまにゃぁこいつとこんな場所で飲むのも悪くねぇな。

 日本酒の入ったコップをちびちびと傾けてる長瀬のことを見ながら、俺は口元に笑みを浮かべていた。

 長瀬の家からほど遠くない駅の裏通り。住宅街に隣接した小道にある飲み屋が、今日の俺たちの場所だった。女の子を連れ込むにはちっと問題はあるが、気軽に話すにはもってこいの場所だ。

「もうほぼ障害はなくなったな」

「そうですね」

 昼間の会議で、ミノリの実稼働試験用の機体の予算が承認された。メイドロボ業界は中古の循環市場も確立され、新機種の、それもミノリのような日本製のちょっとした車が買える程度の価格で提供する普及機では、予算が確保しにくくなっていた。だが未来に向けた新機能を搭載したミノリの予算は、従来機をちょっと改良した程度の高級機、中級機よりもかなり多額の予算が組まれていた。そんな予算だったが、今日の会議で減額もほとんどなく承認が降りた。現行の普及機であるマルチシリーズとは別系統で発表されるミノリには社内的に対抗機種はなく、今日の予算承認で事実上製品出荷までの道が開けたことになる。

 その祝いで、俺は最近見つけたこの店に長瀬を連れだし祝杯を交わしていた。

「ちなみに開発の方はどうなんだ?」

「ほぼ順調ですよ。予測通りの遅延はこれから先発生するでしょうけれどね。セルフの方はどうです?」

「まぁまぁ、ってとこだな。セルフの場合は俺の扱い方がわりぃからなぁ。もう一機の試験機の方は順調だろ?」

「えぇ、社内では評価が高いですよ。内々での公開でもそうですし、すでに注文予定も入ってます。……オーダーメイドユーザーなので、また大変なことになりそうですけどね」

 言いながら長瀬は笑い、コップを傾ける。俺も半分くらい残った日本酒を一気にあおり、お代わりを店員に注文した。

 みのりちゃんと夢の形を実現するものとして、マルチの娘たちとしてつくられるミノリは、過去のメイドロボと大きな違いがある。

 身体機能的には従来型のメイドロボの発展型である以上の大きな変化はない。今回の目玉はなんと言っても新型BCHM「タイプM」の搭載。それとAHSをさらに発展、改良したとふれ回っているミノリの中核システム、『GHS』の採用だった。

 ミノリの登場は、おそらく今後のメイドロボ業界の色を塗り替えることになるだろう。そしてそうなるまでの障害は、もうほとんどないと言ってよかった。

「ついにミノリが完成するな」

「そうですね……。でも、ミノリの登場によって世の中が変わるか、変わらないのかはわかりません」

「そうか?」

「えぇ」

 長瀬はコップを両手で包むように握り、語る。

「本来マルチやミノリは人間にとって不必要な存在かも知れません。彼女たちの助けがなくても、人間には自分で自分を変えていく力がありますからね」

「確かにそうかも知れないが、そうでない奴もいるだろ?」

「えぇ。手を差し伸べてもらわねば変わっていくことができない人もいるでしょう。私がみのりにそうしてもらったように、マルチによって変わっていった人々のように、手を差し伸べるものが意識的にしろ、無意識にしろ、きっかけを必要としている人は必ずいます。けれどもミノリは人間にとって、過渡の存在と言えるかも知れません。ミノリに与えられたきっかけによって変われた人は、ミノリを不必要とするかも知れません。けれどもそれが彼女たちの、みのりの夢の実現であるなら、そうなるのは正常なことなのかも知れないですね。微笑むことができるようになった人にとって、微笑むことを望んでいたミノリの存在が消えることは、人間とミノリの関係の上において、幸せなことかも知れません」

「確かにそうかも知れねぇな」

 ――いつになく酔ってやがんな。

 長瀬が長々と語るときは、悩んでいるときでなければ、酔っているときだ。

 よほどミノリの予算承認がうれしかったのだろう。俺と話しながら空けたコップは、すでに五杯になっていた。眠気も身体に回ってきているらしい。瞬きが多くなってきた長瀬に、俺は少し突っ込んでみる。

「でもよ、消えるんじゃなく、人間とメイドロボが友達とかそういう関係で、共存していくこともあるかも知れねぇじゃねぇか」

「……確かに」

 その後も、俺と長瀬の間で、人間とメイドロボの、ミノリの関係について話は続いた。

 ――輝いてるよな、こいつ。

 酔いが脳味噌まで回って、拳まで入って熱く語り始めた長瀬のことを、俺は笑みを顔にあふれさせながら見ていた。

 中学の頃、初めて出会った長瀬は暗かった。根暗とかそういう言葉を使い尽くしちまうくらいに暗かった。でもそんな長瀬の中に、俺は自分に似たものを感じた。だから俺はこいつに声をかけるようになった。

 そんな奴だったこいつはいま、輝いている。

「私はマルチに、多くのことを教えてもらいました。そしてなにより、みのりと出会い、微笑みというものを教えてもらいました。ふたりに出会えた私は、幸せだったんでしょうね」

 語っている中で、ポツリと長瀬がこぼす言葉。

 その言葉に俺は目を閉じて思う。

 ――だったら俺の幸せは、おそらくお前の側にいられたことだろうよ。

 思っていても長瀬には伝えない。それは俺の心の中にだけあればいい気持ちだから。

 まだ続いている長瀬の語りに、俺は耳を傾けていた。

 ――でもこいつは気づいてるんだろうか。

 みのりちゃんに出会えたという長瀬の幸せ。長瀬を手伝えたという俺の幸せ。そして、もうひとつあった幸せ。

 ――こいつはみのりちゃんの幸せに気づいているんだろうか。

 おそらく彼女は長瀬に自分の思いをうち明けることはなかったろう。自分の気持ちを話していないだろう。

 でも俺は知っていた。みのりちゃんが抱き、そして伝えられることなく終わった、彼女の本当の気持ちに。

 

           ∫∫∫

 

 学校の後、適当に時間をつぶした俺は、そろそろ赤くなってきた空の下、坂道を歩いていた。

 一応バス通りにはなっていたが、この辺を回るバスは一時間に一本くらいしかない。小高い丘になっているために家も下の方にしかなく、雑木林に囲まれているそこは、新興住宅街が広がるこの町で一番静かな場所だ。

 丘を登り切ったところで舗装道路からはずれ、木があまり生えていない林の中に入る。そこの土が踏み固められているのは、俺が週に一、二回はここに訪れてるからだった。

 学校からはけっこう歩くし、バス通りになってるからって別に丘の上の方には停留所なんてありはしない。けれども俺にとってそこはお気に入りの場所。女の子たちと一緒に過ごすのも面倒で、長瀬と話すのもなんとなく億劫なときにここに来る。家もなく車の通りもほとんどない。人がいることなんてまずない、ひとりで過ごすにはちょうどいい場所と言えた。

 少し歩くと、嘘のように林が切れる。その先には丈の低い草と、一本だけはずれたところに木があるだけで、その先は切り立ってて降りれない。ちょうど西に向いているそこは、町で一番綺麗な夕日が見れる場所だった。

 ――ん?

 この丘に人がいることなんて過去になかった。それなのに今日は先客がいた。風に吹かれて揺れてるスカートが見えるから、女の子だろう。

 沈んでいく夕日は、もう気持ちいいくらい綺麗に見え始めていた。女の子だろうがなんだろうが、俺の場所にいるなんてのは気に入らない。まぁ相手の方も俺と同じように丘回りのバスに乗ってる途中で偶然ここを見つけたんだろうが、ひとりで過ごしたい気分の俺は、先客の女の子を追っ払おうと足音を潜めて近づいていった。

 近づいて見えてきた女の子の背中。横に立つ木に手を添え、ただじっと夕日を見ている。小柄な身体は緩い風に吹かれ、黒い髪とスカートが揺れていた。

 ――俺もこの子と同じように、夕日を見てるんだな。

 さらに近づくと、彼女の横顔が見えてきた。

 よほど夕日に見入っているのか、女の子は俺に気づいた様子を見せない。鼻筋が通る整った顔つき。じっと夕日を見つめる澄んだ黒い瞳。

 ――どっか、俺と同じような目をしてる気がするな。

 そんなことを思ってしまった俺は、近づいてみたはいいが、もう女の子に声をかけることはできなくなっていた。

 無言のまま彼女の隣に座り、俺もまた静かに夕日を眺め始める。

 じりじりと沈んでいく夕日。町の喧噪はここまで届かず、ただ風の音だけがここにはあった。

「……」

 いつもならばそうして夕日の最後の切れ端が消えるまで眺め続けているんだが、さすがに今日は夕日だけに集中していられない。

 隣に座ってもまだ俺に気づかない女の子の横顔を、そっと盗み見た。

 ――やっぱりどこか、俺に似てるのかも知れないな。

 彼女はどんな想いで夕日を見つめているのだろう。俺はよく、死んでしまった姉の早紀のことを思い出しながら夕日を見つめている。

 ――この子もまた、俺と同じように、亡くしちまった誰かのことを思いだしているんだろうか。

 少し強い風が俺と女の子を吹きつける。そのとき俺は、彼女の目尻に夕日を受けて光るものを見つけた。

 ――たぶんそうなんだろうな。

 結局俺はその日、彼女に声をかけることができなかった。

 

            *

 

 俺とみのりちゃんはそんな風にして出会った。

 次に会ったのは、夕日の丘じゃなく、長瀬の家だった。いつも通り呼び鈴も鳴らさずに玄関を開けると、箒片手に驚いてるみのりちゃんがいた。そして俺は、彼女が長瀬の家にやってきた養女であることを知った。

 それからまた夕日の丘や長瀬の家で会うようになり、挨拶を交わして夕日を一緒に見るようになり、いつしか話をするようになっていた。

 ――思えばそうやって、俺が長瀬の家に行く回数が増えたんだったな。

 握ったハンドルを軽く右に切って車線を変更しながら、俺は苦笑いを漏らしている。ちょうどいい具合に目の前にきちまったでっかい夕日に、俺は目を細めた。

 ――昔のことを思い出して笑ってるなんて、俺らしくもねぇな。

 HMX―53のナンバーが割り当てられたミノリの試験機は、まもなく稼働試験に入る。

 そんないまの状況と、今日のでっかい夕日がそんなことを思い出させたんだろうと考えることにした。

「なんでもねぇよ」

 俺の笑みを見つけたのか、助手席に座っているセルフが俺の顔を覗き込んでくる。そんな様子に俺はまた苦笑いを漏らしていた。

 ――俺は幸せなんだろうな。

 みのりちゃんに出会えたこと、長瀬の手伝いができたこと。それは俺にとって幸せだったのだろう。けれど俺自身の生き方は、果たしてどこまでいいものだったのだろうか。

「なぁ、セルフ」

「はい」

「お前は俺の人生を、どう評価する?」

「ショージの人生の評価、ですか……」

 思った疑問をセルフに訊ねてみる。

 考え込むかのように、正面を見つめたままのセルフ。実際はネットにアクセスして情報を集めてるんだろうが、横目に見る無表情なセルフの顔に笑みが漏れる。

「中学、高校、大学の成績については出席日数の問題を除けば上位に位置し、来栖川エレクトロニクス及び来栖川HMでの異例なほどのスピード出世、メイドロボの開発を中心とした仕事に対する評価は社内的にも社外的にも非常に高いです。ショージのこれまでの人生全体の評価としては、一般の平均の人に比べ多難でこそありますが、その分得られるものも多く、一般にはショージの人生はいいものであると言えるでしょう」

「ふっ」

 セルフの言葉に俺は思わず苦笑いを漏らしちまう。

「俺が聞きてぇのはそんなことじゃねぇ。俺の人生は……、そうだな。いい人生だったと言えるか?」

「…………。知人友人関係は広く、特に女性関係においては三度の結婚という幸せにも恵まれています。仕事のことなども含めて、充実した人生を歩んで来られたのではないでしょうか?」

「ちげぇな、セルフ。それは違うんだよ」

 たいていの人間は、俺の人生にセルフと同じ評価を下すだろう。だがそれは決して正解じゃない。俺が聞きたかったのは、俺自身の気持ちとして、自分の人生がどういうものだったのか、だ。

 ――セルフはまだまだだな。

 ハンドルを握りながらちらりとセルフの顔を見ると、表情こそ相変わらず無表情だったが、言葉を待ってじっと俺の顔を見ていた。

「俺の人生は、つまらねぇものだったんだよ」

「つまらない?」

「あぁ。たいしたことのねぇ人生だったよ。俺は早紀のようにも、長瀬のようにも、そしてみのりちゃんのようにも輝くことはできなかったからな。俺は月にはなれたかもしれねぇが、星には、太陽には決してなれなかったんだ」

「どうしてそのような評価になるのですか?」

「それは自分で考えてみな」

「――はい、わかりました」

 思考に入ったんだろう、正面を向いて無言に戻ったセルフ。俺はそんなセルフの様子にまた笑んでいた。

 ――俺とみのりちゃんの瞳は、まったく別物だったんだな。

 出会ったとき、俺はみのりちゃんの瞳に自分に似たものを感じた。けれどもそれは違っていた。みのりちゃんの瞳には、俺と似た部分なんてなかった。

 自分自身の力で輝いている瞳はそして、同時に深い海のような澄んだ色を湛えていたんだから。

 

           ∫∫∫

 

「みのりちゃんって、学校じゃあけっこうもてるんじゃねぇの?」

「そんなことないですよぉー。男の子からの手紙だって、まだ四回しかもらったことないですし……」

 ――一回ももらったことねぇ奴からしたら、充分もててる気はするがな。

 俺とみのりちゃんは、夕日の丘で楽しく話をしている。

 そんなこんなで長瀬の知らない場所での俺とみのりちゃんの関係は、二年を過ぎようとしていた。

 だからって別につきあってるわけじゃない。長瀬には秘密だったが、ふたりきりになれるここで俺とみのりちゃんは、今日のように楽しく話をしたり、一緒に夕日を見ている。ただそれだけの関係だった。

「思えばみのりちゃん」

「はい?」

 みのりちゃんに顔だけ向き直った俺は、いままで話していた口調そのままに言う。

「俺とつきあってくれないか?」

 言って俺はみのりちゃんに微笑みかけた。

 その言葉は俺にとって女の子に対する礼儀みたいなものだった。こういう楽しい雰囲気になれた女の子に対しては、一度は言う常套句で、特別深い意味はなかった。

「ありがとうございます」

 拒絶するでなく、受け入れるでなく、みのりちゃんは俺の言葉にそう答えて笑った。

 ――あれ?

 答えられた俺は、みのりちゃんの瞳を見つめる。

 顔は笑っていたが、彼女の目はけっこう真剣な色を湛えていた。

 いままでこの言葉を俺から言われた女の子たちは、冗談として笑うか、真剣に受け止めて拒否したり受け入れたりと言った言葉を返してきた。

 だがみのりちゃんは違った。

 瞳を見つめ返され、俺の顔から笑みが消える。

 彼女は俺の言葉の意味を正確に把握していた。冗談でも本気でもなく受け止め、そういう言葉をかけてもらったことに対しての「ありがとう」を返してきた。

 いままで返ってきた答えの中で、一番的確で、ストレートな答えだった。

 ――なんでだ?

 みのりちゃんの答えに不足を感じる自分に、俺はとまどっていた。

 いままでの女の子と同じような答えなら、その次の言葉も適当に思いつく。冗談と流されても、真面目に受け止められて拒絶するにしても、受け入れられるにしても、予想の範囲内の言葉であればいくらでも話を続けることはできた。

『みのりの瞳は、よく人の心を引きだしてくれますよ』

 長瀬が前にそんな風に言っていた。俺もいま、それを実感している。

 ――俺はみのりちゃんに対してそんなに軽い気持ちじゃあなかったんだな。

 身体ごとみのりちゃんの方を向き、真正面から彼女の視線を受け止める。ひとつ深呼吸をして、俺はもう一度告白の言葉を、――今度は真剣に言おうと口を開いた。

「ダメですよ、音山さん」

 俺が言う前に彼女はそう言って笑う。

 ちくり、と胸の奥が痛んだ。無意識のうちに手が胸を押さえている。

 早紀が死んで以来、そんな痛みを感じるのは初めてのことだった。

「わたしにはいま、大切な人がいるんです」

 俺から視線を外し、夕日を見つめるみのりちゃんが言う。

「わたしにとってその人は誰よりも大切で、わたしはその人にできる限りのことをしてあげたいと思ってます。その人の側に、ずっといたいと思ってます。わたしみたいなのじゃたいしたことはできないと思いますけど、けど、わたしができるすべてのことをその人にしてあげたいんです。だから音山さんの――」

「あっはっはっはっ」

 語り始めたみのりちゃんの言葉を笑い声で遮る。

 驚いて顔を見つめてくる彼女に、俺は片方の唇をつり上げて笑って見せた。

 ――俺にとっちゃぁみのりちゃんは憧れだったんだな。

 わかっていることだった。

 みのりちゃんが一番輝いているのは、ゲンゴロウのヤロウの側にいるときだったから。みのりちゃんが一番の微笑みを見せるときは、必ず側にゲンゴロウの莫迦がいるときだったから。

 俺はゲンゴロウの側にいるみのりちゃんのことを好きになったんだろう。みのりちゃんは俺にとってひとりの女性ではなく、その瞳に輝きに憧れている人だった。

 ……そう、自分に言い聞かせていた。言い聞かせるしかなかった。

 夕日はすっかり没していた。残り火もそろそろ消えつつあった。

「帰ろうぜ、そろそろ。夕食つくんねぇといけねぇだろ?」

「あっ、はい。そうですね……」

 みのりちゃんの背中をポンと叩いて、先に道路へと向かう。いま彼女と並んで歩くことは、俺にはできなかった。

 ――ゲンゴロウのバカヤロウは、気づいてんのか?

 みのりちゃんがどんな気持ちで側にいるのかに。本当はどんな気持ちで笑っているのかに。

 ――おめぇは気づいてやんねぇといけねんだぜ。

 小走りに寄ってくるみのりちゃんの足音を聞きながら、俺は心でゲンゴロウに愚痴っていた。

 

          * 5 *

 

 私の部屋の扉が開けられ、誰かが入ってくる。机に突っ伏していた私は身体を起こし、扉の方を見た。

 廊下の窓から差し込んでくる西日は入ってきた人物の影をつくり、私にはそれが誰だかわからない。

「あげるわ」

 言葉とともに床になにかが投げられた。

 声からして、やってきたのが瑞恵であることはわかった。けれど投げられたものは、金属とプラスティックでつくられたなにか、という以外にはわからない。

 扉から数歩部屋の中に入ってきて、やっと私は瑞恵の顔を確認した。

 ――なにをしに帰ってきたんだ?

 みのりの葬儀から、一週間が経っていた。

 早々にみのりの遺骨は長瀬家の墓に納められ、父親も仕事に戻っていった。家はまた前のように、――みのりがやってくる前のように、静けさを取り戻しつつある。

 そんな間に瑞恵は一度として姿を見せることはなかった。たまたま日本に帰ってきていたために、みのりが運び込まれた病院には姿を見せたらしいが、その後は葬儀にも一切顔を出さず、すべてが終わった今日になって姿を見せた瑞恵。

 私はそんな彼女に、怒りを覚えていた。

「あげたんだから受け取りなさい、源五郎。あなたにとっては意味のあるものよ」

 言われて椅子から身体を引き剥がし、立ち上がる。

 みのりを失った脱力感で、全身が怠い。いや、いまにもみのりが帰ってくるのではないかと思って待ち続け、それが叶わぬことを毎日のように確認し、疲れてしまっていた。

 のろのろと床に手を伸ばし、瑞恵が投げ落としたものを拾う。

 ――ディスク?

 それは瑞恵が研究かなにかで使っているのだろう、大学ノートほどの大きさがありそうな、プラスティックケースに収められた二枚のデータディスクだった。

「……これは?」

「私が研究で使っているものよ」

 見上げた瑞恵の顔には、彼女らしくなく疲労の色が見えた。

 彼女は私のことを見下ろしながら言う。

「期限付きで借りられた施設では、そのディスクに納めた内容を解読することなんてできなかったわ。実際記録したまではいいとして、解析すらできなかった。私が日本にいられる時間はもうないしね、費用も与えられない研究じゃあこれが限界。だからそれ、源五郎にあげるわ。それが原盤で、コピーも一切ない。大切にしなさい、源五郎」

 言うだけ言って私に背を向ける瑞恵。

「これは一体、なんなんですか?!」

 一方的に言って部屋を出ていこうとする瑞恵に、私は怒鳴りつける。扉に手をかけながら振り向いた瑞恵。夕日にかすむ彼女の目は、なにを意味するのか細められていた。

「それにはみのりが死に際に考えていたすべてが入ってるはずよ。そう、おそらく走馬燈の思考が、ね。私にできたのはそれだけだった。そのディスクの中身が、私に救えた、みのりのすべてよ」

 そう言って、瑞恵は扉を閉めてしまった。

 彼女の後を追うことを忘れ、私は手の中の二枚のディスクを見つめる。

 ――みのりの記憶?

 人が死に際に思い出すのが自分の記憶なのだとしたら、このディスクに入っているのはみのりの記憶なのだろう。

 ――この中には、みのりの残していったすべてが入っている?

 私はディスクを胸に抱き、葬儀が終わって以来、初めての涙を流した。

 

            *

 

「ベッドの準備は終わったか?! 洗浄液が足りてないぞっ。注文しといたはずじゃなかったのか?」

 怒号が飛び、白衣姿の研究員達がそこら中を走り回る。しかしそれも、収まってきたところだった。

「すいませんね、長瀬さん。もうだいたい終わったんで」

「構いませんよ。私のいる場所はなさそうですし」

「そんなこと言わないでくださいよ」

 私の言葉に苦笑いを浮かべるのは、三津木君。ミノリ計画、いわゆるHMX―53計画を推進してきた来栖川HM開発課第四班の副主任であり、いまでは数少なくなってしまったマルチとの対面者で、そして人間となったマルチのことを知るわずかな人間のひとりだった。

「休憩所でも行きませんか? 一緒に煙草でも吸いましょう」

 ニッカと笑った彼に背を押されて、私は第四班の研究室を出て、そこからほど近い休憩所へと向かった。

 並んでいる自動販売機で三津木君が飲み物を買って来、受け取った私は彼とともに煙草を吹かし始める。

「ついに明日になりましたね」

「えぇ、まぁ多少遅れはでましたけど、けっこう順調な方でしょう。問題は出ていませんし、明日はあっさり終わると思いますよ」

 明日に迫っているのは、試験型のミノリの組み上げ実験。パーツも部分レベルでは『合わせ』は終わっていたし、外装――表皮部品を取り付ける前の仮組みの方で、全体の調整も終わっていた。BCHMタイプMの調整も完了していたし、ソフトウェアの部分の調整も含めて、早ければ明後日には初期起動試験が行えそうな感じだった。

「やっと完成しますね、ミノリが」

「そうですね……」

 私は煙草を深く吸い、椅子の背に身体を持たせかけて目をつむった。

「思えば長瀬さん、ひとつ聞いていいですか?」

「なんですか?」

 三津木君の言葉に目を開け、彼のことを見る。

「俺がここに入ったのは、最初マルチみたいなメイドロボをつくりたいと思ったから、ってのは前に話しましたよね」

「えぇ、聞きましたね」

「じゃあ長瀬さんは、なんでメイドロボの開発をするようになったんですか? なんか音山社長に聞いたら、最初からメイドロボ部門を希望して来栖川に入ったみたいな話をしていて、詳しくは本人に聞け、って言われちゃって」

 そんな風に話す彼の様子は、確かもう三十になったはずなのに、どこかあどけないところが感じられた。

 頬に笑みがこぼれるのを感じつつ、吸い終えた煙草を吸い殻入れでもみ消した私は口を開く。

「そうですね……。私が来栖川のロボット部門――いわゆるその後のメイドロボ部門のことを知ったとき、そこは医療用ロボットの分野で成功を収めつつありました。さらに将来的には医療用だけでない、人の手助けになる汎用のロボットの開発を表明し、意欲を燃やしていたから、でしょうか」

「なるほど……」

 真剣な顔をして頷く三津木君。

 ――嘘ではないですけど、違いますね。

 自分で言っておきながら、自分の言葉は違うと感じていた。もっと根本的な理由は、別にある。

「いまの私の言葉は違いますね」

「違う?」

「えぇ。三津木君がマルチのようなメイドロボをつくりたい、という理由でここに入ったのであれば、私もそれに応じたことを答えなくてはいけませんね」

 顎に手を当て少し考え、私は言う。

「来栖川に入ろうとした考えていたとき、私はマルチをつくったときと同じ、人の心を持ったロボットをつくろうと思ったときと同じ心の暴走がありました。人々の笑顔があふれるようなものがつくりたい、という強い想いの暴走が、ね。暴走は決していいことではなかったでしょう。けれども多くの人に微笑んでほしいという気持ちは、本当でした。そしてその気持ちは、ある人から引き継いだものでした」

「ある人?」

「えぇ」

 煙草を一本取り出し、口にくわえる。三津木君が差し出してくれたライターで火をつけ、ひと息吸い、煙を吐き出す。

「その人は私に夢を教えてくれました。メイドロボをつくる、ということ自体は私がふとしたときに思いついた物ですが、私にとってメイドロボをつくるということは、亡くなってしまったその人から受け継いだ夢を、私なりに実現する方法だと思えたんです。私はおそらく、その人に導いてもらったんです」

 

           ∫∫∫

 

「みのり……」

 つぶやきを漏らして、私はまた二枚のディスクを胸に抱く。そうして枯れたとも思っていた涙を、また流している。

 あるときはみのりが帰ってくるのではないかと思ってソファに座ってずっと待ち、あるときは私の手の中に残るみのりの断片をかき抱いて涙を流す。

 ――いつまで私はこんな生活を続けるのだろうか。

 頭の中では考えていても、実行に移すことはできない。進むべき道など、私には見えなかった。

 みのりが帰ってこないいま、私の胸にある二枚のディスクが残っている彼女のすべてだった。

 ほとんどは処分してしまったが、遺品は残っている。葬儀のときに使われた、私の知らない幼い頃の写真であれば手に入れることもできるだろう。

 それらはしかし、みのりそのものではない。みのりが残していった抜け殻のように思えた。

「あなたの夢は、どうしたらいいんです?」

 涙を流しながら、私は抱いたディスクに向かって問う。

 みのりが抱いていた、儚い夢。実現の方法こそまだ見えていなかったが、私は彼女の夢を一緒に実現していきたいと思い始めていた。彼女とともに、未来を歩んでいこうと考えていた。

 けれどもうみのりはいない。彼女の残していった夢の断片だけが、私の中にある。みのりがいないのならば、私には彼女の夢を実現していくことなんてできそうになかった。

「みのり」

 つぶやいて、私はまた涙の粒をこぼす。

「みのり……。みのり……」

 いまの私には、ディスクを抱きしめて、涙を流し続けることしかできなかった。

 

 

 クラスメイトたちが席を立ち、手にしたプリントを担任に渡している。

 内容が見られないよう折り曲げて渡す奴、気にせず堂々と渡す奴、渡そうか渡すまいかと悩んで机にしまいこんじまう奴。

 いろんな奴がいる中で、俺はゲンコツで頬杖を突き、目の前の席を眺めていた。

「おーい、もう提出する奴はいないか? ……じゃあ終わりだな。提出期限は明日だ。まだ決定じゃあないにしろ、親としっかり相談して決めるんだぞ」

 週が明けた。

 進路調査のプリントを長瀬に叩きつけてから、四日が経っていた。

 ――あのバカヤロウ。

 大声で怒鳴りつけてやりたい気持ちを抑え、俺は心でつぶやく。

 ゲンゴロウはやっぱり学校に来ていない。今日もどうせ、ソファで呆然としてるか、よくわからんディスクを抱いて泣いてるかだろう。

 帰りの挨拶を座ったままやり過ごし、担任が教室を出ていった後に立ち上がる。学校が終わって奇声のような声を上げるクラスメイトたちの間を抜け、俺は教室を出た。

 ――見捨てるぜ、本当に。

 鞄を持ってない手を握りしめ、階段を下りて下駄箱で靴を履き替えた俺は、ゲンゴロウの家へと向かう。

 ――さすがに俺だって、限界ってもんがあるんだぜ。

 あふれてくる怒りを奥歯でかみ殺しつつ、俺は早足でゲンゴロウの家を目指した。

 

 

 バキッ、といういい音がリビングに響く。

 殴られた私はソファから落ちるどころか、ソファの端から端まで吹き飛んで床に叩きつけられた。

「ぐっ」

 うめき声を漏らして私はうずくまってしまう。胸が詰まってなにも言えないでいる私の襟首をつかんだショージは、自分の顔の側に無理矢理引き寄せる。

「どーんすだよっ、てめぇは! このまま腐っていっちまうつもりか? このままなにもせずに居続けるつもりか!?」

「……」

 ショージは間近で睨みつけられる。背中を打って詰まっていた胸も治り、息ももとに戻ってきたが、私はなにも答えない。返す言葉も持たず、ただショージの鋭い視線を受け止めているしかなかった。

「ちっ」

 いつまでもなにも言わない私に舌打ちし、襟首をつかんだ手を乱暴に離すショージ。ドスドスと大きな音を立てて歩き、ソファに座った彼は目の前のテーブルにあったテレビのリモコンを取り、電源スイッチを押した。

 私とショージの息づかいくらいしか音がなかったリビングに、突然わき起こる盛大な音。ちっ、とまた舌打ちし、彼は適当にチャンネルを変える。なにかの報道番組らしいチャンネルにしてリモコンを放り出した。

 静かな部屋にレポーターの声が流れる。音山はソファにどっかと座って画面の方に目を向けているが、見ているわけではないだろう。

 身体を起こした私もショージと同じようにテレビ画面を眺めていた。

『――では、実験の方は順調ということですね?』

『えぇ、そうですね。もちろん多くの問題が発見されていますが、それは今後の課題として提示されたと思えば、研究に張りが出てくるというものです』

『なるほどぉ』

 テレビの中では、白衣姿の若い男が女性レポーターの質問に丁寧に答えていた。

 そんな風に意味もなくテレビを眺めてしばらくして、音山が口を開く。

「てめぇがそんな奴だとは思わなかったぜ、俺は。どんなに悲しかろうと、おめぇにはもっと芯がある奴だと思ってた。見損なったぜっ、ゲンゴロウ。なぁ、俺はおめぇを見損なったぜ!」

 立ち上がり、私に寄ってきたショージは、ゆっくりと拳を振り上げていった。

「これが最後だ」

 怒りではない、黒い色を宿した目で、彼は私の見つめてくる。

『そうです! 夢なんです。いまは確かに夢なんです。けれども「いまは」であって、将来に渡って夢であるとは限らないことなんです!』

 なぜかそのとき、いままで耳に入ってこなかったテレビの音が聞こえてきた。

 熱の入った若い男の声に、私は半分無意識のうちにショージの手を払いのけ、テレビに寄ってかじりつく。

 なにも考えずに眺めていたが、テレビの内容はドキュメントのようなものらしい。いま画面に映っているのは先ほどから喋っている若い男とレポーター、そして箱状の身体に手が生えたようなロボットだった。

「……ゲンゴロウ、どうしたんだ?」

 かけられたショージの声にも気づかず、私はテレビに注目する。

『来栖川エレクトロニクスは今現在、医療現場に限定したロボットを開発しています。ですが今後、その限定された世界という枠を飛び越え、もっと広い分野で活躍するロボットを開発していく方針で動いています』

『広い分野ですか。それはどういった方向ですか?』

『もちろん、家庭の中で活躍するロボットです』

 熱く語り始めた若い男。レポーターはその熱に圧倒され始めていた。

『いまは医療という、バリアフリーが浸透し、必ずエレベーターがあるような環境でしか活躍できないロボットですが、技術が進歩すれば一般家屋という、複雑で、狭い環境でも充分に仕事ができる、汎用性の高いものが登場するはずです。もちろん家庭ばかりでなく、人間が仕事をしている場所であればどこでも、ロボットがその手助けをしている時代がいつか訪れるでしょう。また人の代わりに仕事をこなす以上に、人とともに笑い、考え、泣くような、人間のパートナーとなるべきロボットが生まれるということも、決して夢の中の出来事ではなくなると思います』

『そう、ですね……』

 男の言葉についていけなくなったレポーターは、相づちを打つばかりになってしまっていた。それでも男は話を続ける。

『私の言ったことは夢です。けれどもいつかは実現される夢です。夢は眠っているときにみるものではなく、言葉に出し、行動で近づいていくことによっていつか実現するものです』

 ――みのりも、いつか同じようなことを言っていた気がしますね……。

 白衣姿の若い男は、みのりとは似てもにつかない雰囲気を持っていた。けれどその瞳に映る輝きは、みのりにどこか似ていると感じた。

 ――人の手伝いをするロボット。

 私の中に、なにかが生まれつつあった。

 ――人とともに笑い、泣き、考えるようなロボット……。

 脳裏に浮かぶ、みのりの笑み。

 もしロボットがみのりのように微笑むことができたら、その側にいる人もまた微笑むことができるようになるだろうか? 一緒に笑ってくれる人が、泣いてくれる人がいて、悩みにつきあってくれるような人がいたら、それが人間ではなくロボットであったとしても、みのりが望んでいた微笑みがあふれる世界が広がるだろうか?

 立ち上がった私は、テーブルの上に置いてあったディスクを手に取り、胸に抱く。

 ――みのりはいつか、生き返る。

 それは本当のみのりではなく、自分の側にいてくれるだけの存在でもない。けれども生き返ったみのりはすべての人間のパートナーとなる。夢ではなく、現実のものとして実現する。誰でもなく、私がそれを実現させる。

「……どうしたんだ、ゲンゴロウ」

 振り返った私を見て、驚いた目を向けてくるショージ。

 そんな彼に私は言い放つ。

「私は来栖川エレクトロニクスに入ります。そこで人間のパートナーとなるべきロボットをつくります。そのときに必要な知識と技術を身につけるための大学を探します」

 ――私が進むべき道は見つかりましたよ、みのり。

 

          * 6 *

 

 家で本を読んでいることが多かった私は、みのりを外に連れ出すようなことはほとんどなかった。一緒に買い物に出たことも、数えるほどしかなかった。

 けれども一度だけ、みのりとふたりだけで遠くに出かけたことがある。

 その年のみのりの誕生日がちょうど休みに重なったその日、私は彼女を連れて電車に乗り、バスを乗り継いでずいぶん遠くにやってきた。

 なにがあるわけでもないただの草原に訪れるものはなく、その日私とみのりは、ふたりきりのピクニックを楽しんだ。

 

 

 昼を少し過ぎたくらいの時間だったが、陽の光はちょうどいいくらいの暖かさを振りまいている。そろそろ秋の足音が聞こえてきていたが、草原には青々とした草が生え、小さな花が咲き乱れていた。

 優しい風を感じながら草の上に寝ころび、私はみのりのことを眺める。

 ――連れてきてよかった。

 柄にもなく私は顔に笑みを浮かべ、そう思っていた。

 視線の先にいるみのりは、私から少し離れたところで座り込み、どこで憶えたのか器用に花輪をつくっていた。

 家の中にいるのとは違う、のびのびとした時間。

 見えるものすべてが、感じるものすべてが、いまの私にとって心地よかった。

「できたよぉー、おにぃちゃん」

 満面の笑みのみのりが花輪を手に走ってくる。

「そんなに走るとつまづきますよ」

「大丈夫だよっ。ほら」

 ジャンプをしながら私の前までたどり着く。立っている彼女にあわせ、私は身体を起こして座った。

「はい、おにぃちゃん。あげる」

 できた花輪を頭にかけてくれる。

「どうですか? みのり」

「ん~、似合ってるよ、おにぃちゃん」

「なんですか? その最初の間は」

「えぇっとぉー」

 なんてことのないやりとり。そんな彼女とのやりとりが、私にとっては幸せだった。

「みのりはいま、なにがやりたいですか?」

 唐突に、そう聞いてみた。

 自分の分の花輪をつくっていたみのりは私の顔を見、それから首を傾げながら考えてしまう。

「わたしがいま一番したい、こと?」

「えぇ、そうです」

「どんなことでもいいの?」

「もちろん」

「だったら――」

 にっくりと微笑んだみのり。そして彼女は言う。

「わたしはいまみたいに、ずっとおにぃちゃんと一緒いたいよ」

「え?」

 どこかに行きたいとか、どんな遊びがしたいという答えを予想していた私は驚いてしまう。もっとみのりにはいろいろとしたいことがあると思っていた。

「ちょっと、目を閉じて、おにぃちゃん」

「……はい」

 近づいてきたみのりの要求に応え、目を閉じる。彼女がなにをしてくれるのか、私は予想していなかった。

「っ!」

 唇になにかが触れたような、気がした。

 それは柔らかく、暖かいものだったような気がした。

「みのり?」

 目を開けて彼女の姿を捜す。

 朗らかな笑い声を上げ、みのりは草原をくるくると回りながら走っていた。

 ――みのりは、なにを?

 はっきりとはわからず、わずかな感触の残る唇に指を当て、私はさっき以上に驚いていた。

 風が吹いて、花びらが舞い踊る。

 くるくると踊るみのりの笑顔が目に映る。

 笑い声が遠くまで響いていた。

 私は立ち上がることも忘れて、ずっと彼女のことを見ていた。

 

            *

 

 ライトアップされた試験台の上には、一体のメイドロボが横たわっていた。

 誰もいない研究室の中で、私はそのメイドロボに近づいていく。

 HMX―53、ミノリ。

 ついに形を持って実現した、私の夢。目をつむり静かに横たわるミノリは、これから初期稼働試験に入るところだった。

 表情のないミノリの唇を人差し指でそっと触れる。

「ずっと一緒だったよ、みのり」

 三ヶ月に渡る起動実験の後、ミノリは量産される。町にあふれていく彼女たちは、私だけでなく、多くの人の助けになり、そして微笑みを増やしていくだろう。

「お帰り、みのり。待っていたよ」

 言えなかった言葉。彼女にかけてやれなかった言葉。その言葉をいまやっと、私は口にすることができた。

 顔には笑みとともに、なぜか涙があふれてくる。

 いま、私は満足だった。

 

          * 終 *

 

 無垢。

 ミノリの瞳にあるのは、なににも染まっていない無垢な色だった。

 ――どこが似てるんだろうな。

 俺の目をじっと見つめてくるミノリは、どこにもそんな部分はないのに、みのりちゃんに似てるように思えた。

「ミノリは出荷直後に笑うことはありません。命令された仕事をこなすことはもちろん可能ですが、彼女たちの表現は人とともに過ごすことで学習されていきます。人とふれあうことで、彼女たちは成長していくのです」

 そう長瀬は言い、ミノリの頭をなでてやる。

「GHS、『Growing Hyumanity System』の効果だな」

「えぇ、そうです。ですが少しだけ違います。公式には音山の言う通りですが、私は彼女に搭載したシステムのことをこう呼んでいます。『Growing Heart System』と。行動ばかりでなく、メイドロボが本来持ち合わせている心自体が、人ともに成長していくシステムだからです」

「そっか」

 ミノリの目にある無垢は、ともに過ごす人間によって様々な色に染まっていくんだろう。

 試験機のミノリに俺は微笑みをかけてやる。彼女の無垢が、微笑みの色に染まっていくことを願って。

「でも長瀬、人によっちゃぁミノリの無垢を黒く染めちまうような奴もいるんじゃねぇか? 無垢な色はどんな色にでも染まっちまう。それなら俺たちが考えていないような、ひどい色になるってぇ可能性はないのか?」

 思った疑問をぶつけてみる。だが長瀬の奴は驚く様子もなく微笑み続けている。

「その可能性がゼロとは言えないでしょう。けれど大丈夫ですよ、音山」

「なんでだ?」

「ミノリは、みのりの夢であり、マルチの娘なんですから」

「……そうだな、その通りだな」

 微笑みあう俺と長瀬。

 みのりちゃんの夢は、いまここに形を持って現れた。これから先、その夢はミノリたちによって広がって行くんだろう。

 俺たちのやるべきことは、そろそろ終わろうとしていた。

「私はずっと、人の心に届くようなものをつくりたかったんです」

 そう言って微笑む長瀬は、まぶしいほどに輝いていた。

 

          * 余 *

 

 音山彰次より、三津木信也に宛てた手紙。

 

 元気にしているか? 三津木。まずは来栖川HM第一研究所所長就任、おめでとう。お前は俺と違って現場でこそ力を発揮する人間だ。研究所所長はお前にとって一番いい位置になるだろう。

 それから先日はご苦労。よくあの頑固者揃いの来栖川役員たちを説得して、GHSの一般技術公開を認めさせたと感心する。長瀬とは違う意味で、おそらく三津木信也の名前はメイドロボの歴史に刻まれることになるはずだ。

 さて、本題だ。

 もしかしたらもうお前の耳にも届いているかも知れないが、念のため伝えておく。

 長瀬源五郎はつい先日、この世を去った。

 ここのところ体調を崩しているのはわかっていたが、若い頃の無理が祟ったんだろう、どうすることもできなかった。なにも言わず、あいつはひとりで逝った。

 だがあいつは満足に逝けただろう。来栖川HMの顧問を辞めてからもメイドロボの研究は続けていたのは知っての通りだが、あいつにとってそれは、やるべきことをし終えた後の余生だった。身内だけの葬儀で長瀬と最期に会ったが、あいつの顔には笑みがあふれていた。

 ミノリは順調に出荷されているし、賛否の多い評価だが、だんだんと上向いている。お前にも話したみのりちゃんの夢は、いつか実現していくだろう。

 だが当分の間、人間にとってメイドロボが不要になる時代は来ないと俺は考えている。人間は本来自分で自分を変えていかなくてはならない。伸ばされた手を取り変わることができた人間も、いつかまた自分の力を示さなくてはならない時が来る。

 真実の意味でみのりちゃんの夢が実現されたとき、おそらく人間はメイドロボとともに歩んでいくことを選ぶだろう。

 そうなるにはまだ長い時間を必要とするはずだ。三津木、お前は俺や長瀬よりも後の時間を見ていってくれ。俺たちやみのりちゃんの夢を意識する必要はない。お前はお前の夢を、お前なりに実現していけばいい。

 過度の期待をかけるつもりはないが、しっかりやってくれることを願う。それから、身体にも気をつけろ。

 以上をもって、来栖川HM社長ではなく、音山彰次個人としての私信とし、三津木信也に送る。

 

 

 音山彰次の手紙が三津木信也に届いてから数ヶ月後、彼は体調不良を理由に来栖川HM社長の席を辞任した。

 その後は療養生活と称して別荘に籠もり、表舞台に現れることはなくなった。

 さらに数ヶ月後、音山彰次、他界。享年五六歳。

 若くして来栖川グループの一角を担うまでに成長した来栖川HMの社長に上り詰め、三度の結婚と離婚をし、他にも多くの女性関係が噂されていた彼であったが、その最期を見取ったのは、ただ一体のメイドロボだったと伝えられている。

 




これにてマルチを起点とし、原作から遊離してしまった自己満足の体現たる実りの季節シリーズは完結となりました。お読みいただいた方には本当におつきあいいただきありがとうございます。
実りの季節シリーズは、一番最初の「~いつの頃」が1998年に書いたもので、確か完結である「~導かれ」の脱稿までに3年ほどの時間がかかっていたかと思います。
本当はもっとエログロ方面を臭わせるような話(仮タイトルは「ToHard」でした)になる、はずでしたが、なぜかこんな感じの作品となりました。
あらすじにも書きましたが、「~いつの頃」以外はもう完全に自己満足の世界に入っている作品です。それでも長編作品の、それもシリーズの小説を書いたのは初めての試みだったこともあり、完結の際には満足感もひとしおでした。
このシリーズはいまでもわたしの中で影響が強く残っており、とくにオリジナルキャラクターであるみのりや音山については、少し形は異なりますが、いまでもわたしの中で息づいています。
もしかしたら、いつかどこかで彼らが世に出て来る機会もあるかも知れません。そのときにはよろしくお願いできたらと思います。
後書きなど長々と書くことでもないかと思いますので、これにて。
読んでいただいたすべての方に、ありがとうございました。

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