いつもの場所で、彼と彼女らは仲睦まじく遊んでいる。 作:サンダーソード
温和な時間に紅茶を楽しんでいると、由比ヶ浜が雪ノ下に額を擦り付けながら俺を窺ってるのに気がついた。
俺が気づいたことに由比ヶ浜も気づいたらしく、当てていた肩口に顔をうずめてしまう。
「えっと……じゃ、じゃあ……ゆ、『結衣』」
少しだけくぐもって聞こえる声。髪の隙間から覗く耳は赤く、そのせいで彼女の緊張が伝わってきてしまう。
雪ノ下は慈しむように由比ヶ浜の髪を撫で付け、その優しさが抜けない目で俺に回答を促してきた。
肺の中身を出し切らんばかりに長く息を吐いて一気に吸い、ハッ、と強く吐く。そして俺はいざ回答せんと口を開いた。
「『ゆいゆいゆい』」
由比ヶ浜がそれを聞いて鳩が豆鉄砲食らったような顔をパッと上げる。雪ノ下の目からは優しさが引かれ、代わりに軽蔑が足されていた。
「あ、あれ? ヒ、ヒッキーもうちょっとゆっくり……」
「早口言葉だぞ何言ってんだ」
「うー……なんか思ってたのと違う……」
由比ヶ浜がしょぼくれる。
……いやだって、さっきこっそり仮託した心の裡ですら丸裸にされてんのに、この状況で童貞クソぼっちに想い込めて名前囁けとか無茶振りにも程ってもんがあるでしょう?
ただでさえいやなんでもない忘れろ。というかガハマさんあなた、さっきからお題がもう勝敗度外視になってません?
「で、判定は?」
「……くりあー」
ほっぺ膨らませて不承不承の合格を出してくれた。
雪ノ下は呆れを隠しもしない溜息を吐いて、しがみつく由比ヶ浜の肩にそっと触れる。
「……私も、いいかしら。『結衣』」
――その表情に、見惚れた。
「『結衣』」
いつもの勝ち気さは鳴りを潜め、ただでさえ美しい容貌に湛えられた柔らかな優しさが目を奪う。
「『結衣』」
「――っ! ゆきのん大好きっ!」
「あ……もう」
目を閉じてお題をクリアした雪ノ下を、感極まった由比ヶ浜が強く強く抱きしめた。
その様があまりに美しくて、子供じみた理由で反抗してしまったさっきを後悔してしまう。
それでも今更という気恥ずかしさには耐えかねて、口の中で溶けるように彼女たちの名前を呟いてみるに留まってしまった。
× × ×
さて、そんなこんなで俺の番。もう少し発想を捻ってみることにした。
「あー、みょ、も、よ、も……」
自分でも一発で言えるかどうか怪しかったので練習していたら、二人に憐れむような目線を貰ってしまう。
「……どしたのヒッキー」
「あなた、ついに壊れてしまったの? 壊れた比企谷くんみたいよ?」
「ちょっと比企谷くんを一般名詞扱いするのやめてくんない? 固有名詞だから。ちゃんと個があるから」
「え、でもほんとどしたのいきなり」
「……試してたんだよ難しいから。いくぞ、『もょもと』……よし、言えたか?」
中々それっぽく言えた気がする。のだが、どうにも二人ともぽかんとしている。
「えっと……なにそれ?」
「ゆうしゃだ。たたかうぞ」
なんなら破壊神まで破壊する。
しかしせっかく答えたのにガハマさんは1、2のポカン継続中。おしゃべりの使い方忘れたかな?
「『もよもと』? 比企谷くん、もう一度言ってちょうだい」
「……だから『もよもと』……違うな、『もょもと』……だ」
「……あなた、自分が満足に言えるかどうかも怪しいようなものをお題にしたの?」
「自分が満足に言えるかどうかも怪しいようなものだからお題にしたんだよ」
簡単にクリアされたら悔しいじゃないですか。もとい勝てないじゃないですか。
「っていうかあたし何が違うのかわかんないんだけど……『もよもと』だよね?」
「いや、『もよ』……んっ、『もよもと』……『もょもと』、だ」
「ヒッキーも言えてないんじゃん……」
「比企谷くん、それを三回言ってみなさい」
「おまっ……! 『もょもともよも……もよ……もょもと、もよもと、もよ……もよ……』くそっ、『もょもと』!」
いやもうなんかゲシュタルトが崩壊しそう。認識まで破壊するとは、げに恐ろしきはゆうしゃである。
「ね、ゆきのん。ヒッキーがどこで苦しんでるのかわかんない……。『もよもと』じゃないの?」
「察するに、『よ』が拗音なのよね?」
「ああ、そうだ」
「よーおん?」
「しょ、のような小さい音を指すのよ。……中学国語の範疇なのだけれど」
「え……そんなの習ったっけ……」
いや習ったけどな。でも材木座とかも知らなそうって偏見がある。小学校から日本語学び直せとばかりに雪ノ下がフルボッコにしてたし。
「でも……こういう場合、ルール上の裁定はどうなるのかしら?」
と、雪ノ下が顎に人差し指を当て、何事かを考える。
顎をしゃくって続きを促すと、無礼には眇で答えられつつも言葉の続きが流れてくる。
「由比ヶ浜さんと比企谷くんの認識が違えば、当然ながら回答と採点にズレが生じるわよね。先程の『新出シャンソン歌手ショー出演新春シャンションショー』では私と比企谷くんの合意が由比ヶ浜さんの採点を覆したけれど、私と由比ヶ浜さんの認識が『もよもと』だった以上、採点はそちらでするべきなのかしら?」
こいつ終わったお題まで覚えてんのかよ。しかもミスまで含めて。雪ノ下の末っ子は化け物か。閑話休題。
「む……。確かに俺は『もよ……もょもと』と言ったつもりだったが録音してたわけでなし、互いの記憶にしか証拠はないのか……」
突き詰めれば言った言わないの水掛け論になる以上、雪ノ下の言い分のほうが道理は通っているか。つーかよく考えたら発音の正確さを求めるんなら巻紙の時点で俺アウトだったんだよな……。
もよもよ言ってる由比ヶ浜に視線を移す。もょもと見事に言えてねえ。
「由比ヶ浜」
「『もよ』……むー、なに?」
「『もよもと』でいいわ。悪いな」
「え、だから『もよ……もよ……? もよもと?』なんだよね?」
「いや言えてねえけど『もよもと』で……ああもうほんとに区別ついてねえんだな。お前が最初に聞いたとおりの『もよもと』でいいんだよ」
「えっと、『もよもと』でいいってこと?」
「ああうんそれでいい」
いや俺もお前のそれ判別付けらんないけど。むしろ判別付けらんないからどっちで言ってるつもりでもクリアできるけど。
「じゃあ超かんたんなんだけど……『もよもともよもともよもと』。これでいいんだよね?」
「ああ、由比ヶ浜クリアだ」
「なんか、なんだったんだろ……」
「ほんとなんだったんだろうな……」
パスワードのお題からこっち、やることなすこと裏目引いてる感が凄まじい。大きなため息が漏れ出す。
「空回り谷くんの空回りに振り回された格好ね。『もよもともよもともよもと』」
「雪ノ下、クリア」
渾名のセンスの方は直截すぎてアウトだけど。重複と併せてダブルプレー。俺の空回りでスリーアウトチェンジだ。
湯呑みを引き寄せて紅茶を飲む。
もう一つ大きなため息が出てきて、二人の苦笑を買ってしまった。
× × ×
さて、次は雪ノ下なのだが、どうも何かを企んでいる気配がその僅かに細められた目から伝わってくる。由比ヶ浜もそれを感じているのか、しきりにお団子を弄って落ち着かない。
停滞した空気の中、雪ノ下が、口を開いて。
「……私の番ね。『比企谷結衣、由比ヶ浜八幡』」
とんでもない爆弾をダンクシュートで決めてきた。
「っはぁ!? おま、お前……!」
我知らず椅子を蹴立てて立ち上がっていたが、肝心の続く言葉が見つからない。
「ゆきのんっ!?」
「由比ヶ浜さん、比企谷くんを追い詰めるときには全ての逃げ場をちゃんと塞がないとダメなのよ?」
ひたすら怖えよ由比ヶ浜に何教えてんだよお前。しかも狩りの対象が俺限定だし。
「お前、これは……」
「あら、何も難しいことなどないでしょう? ただのお題なのだから。それとも素直に敗北を認める?」
くっそ、もうお手つき即敗退じゃねえか。負けられない罰ゲームがここにあるのに。
由比ヶ浜はどうかと思えば、顔真っ赤にして雪ノ下の右腕を抱きしめながら上目遣いにこっちを見ていて、どうにも伝わってくる喜色が面映ゆくてむず痒くて駄目だ見てると感染する。
「じゃ、じゃああたしから、やる、ね?」
「……お、おう」
何故か出題者ではなく俺の方に確認を取ってくる。腕一本抱かれながらも高みの見物決め込んでる雪ノ下が恨めしい。
「すぅ……はぁ……『比企谷結衣、由比ヶ浜八幡』」
深呼吸して、そっと由比ヶ浜は言の葉を紡ぐ。
「『比企谷結衣。由比ヶ浜八幡』」
大切なものを愛おしむように、そっと。
「『比企谷、結衣。由比ヶ浜、八幡』」
胸に緩く結んだ手を当てて、潤んだ目で正面から俺の目を見つめてくる。雪ノ下の腕はいつの間にか離れていた。
顔が熱い。身体が熱い。全身から汗が噴き出る感覚。由比ヶ浜の瞳に吸い込まれそうになる。喉が渇く。言葉が出ない。だというのに、彼女を見ていると見つからないはずの言葉が腹の底でうねり狂い、口を衝こうともがきだす。
「比企谷さん、クリアね」
そんな様だったので、雪ノ下の発言を聞き流していた。由比ヶ浜がびくんと思いっきり反応したことで初めて耳に残った発言に意識が向き、意味を理解して、色付いた金縛りが弾かれるように解けた。
「……ああ、間違えてしまったわね。由比ヶ浜さん、クリア」
いけしゃあしゃあとしたり顔でのたまう雪ノ下。あ、由比ヶ浜がしゃがみ込んだ。戯画化したら頭の上から煙噴いてそう。そんな一歩引いた視点で見てるふりしないと自分の内心の惨状から目を背けてられないどうも俺です。
間抜けに口をぱくぱくさせて何か言おうとするも、猫のように目を細めた雪ノ下と丸くなってあうあう言ってる由比ヶ浜を見てると言葉の代わりに熱が迫り上がってくるばかり。どうしたって勝てる気がしないのはどうすればいいんですかね? どうしようもない? だよね知ってた。
ひとしきり醜態を晒す俺に満足したのか、雪ノ下は視線を外してうずくまった由比ヶ浜の肩に手をかけ、横顔に唇を近づけ……おい、おま、えっ?
一瞬慌てそうになるが、耳元で止まった。だだ大丈夫、あわててないしちょうよゆうだからかんぜんにせーふ。ただの致命傷で済んでる。雪ノ下は何事か囁いたのか、由比ヶ浜がまるくなるからかたくなるでさらに防御力を上げていた。
「え、それ……」
由比ヶ浜は錆び付いたギアを動かしながら問い返す由比ヶ浜に、すっげえいい笑顔の雪ノ下がまた一言二言何か囁く。
そのままブリキ人形はどんな顔晒してるのかもわからない俺を見て、赤い顔を更に赤くしていた。
「では次は由比ヶ浜くん。あら、間違えたわ。比企谷くんの番よ」
雪ノ下に弄ばれたままでいれば俺の順番が飛ぶわけでもない。薄笑いを浮かべる雪ノ下を全く意識せず席に着き挑発を全く意に介さず深呼吸をしてお題をただの文字列と認識し何でガハマさんが椅子持ってこっちに来てるんですかね?
「ゆ、いが、はま?」
「ぼ、妨害するの」
言いながら、俺のすぐ左に椅子を置いて寄り添ってくる。雪ノ下に視線を飛ばす。そっぽ向きながら笑い堪えてやがった。しばしの間発作をやり過ごし、いっぱいいっぱいな俺の視線を受け止める。
「あなたも、したでしょう? 妨害行為。問題ないわよね?」
返す返すも自業自得だった。殴りかかった自分の力を十倍返し、これが合気か……!
女の子がこっちを気にしながら隣に座ってるってこんなにも平静を削るものなんですか? いや、嫌悪で気にされることなら茶飯事だったけどそう言うのって大概すぐ離れようとするし、そもそもそういうのとこれって全然違うっつーか……。映画館で折本が隣座ってたときとかマジで何も思わんかったし……。
冬の空気を介在して伝わってくる暖かな体温とか、脳髄の奥まで浸食してくる柑橘の香りとか、耳朶に残る柔らかな息づかいとか、身じろぎすれば時折触れる肩の近さとか、頭の中が由比ヶ浜に染められていく。少しでも気を紛らわそうとお題を思い出せば致命傷だった。
だがいつまでもこうしてはいられない。なぜならこの状態で時間をおいても動悸が酷くなる一方で何一つ好転しないからだ。
何事にも決して動じない覚悟を持って、深呼吸を一つ。
「『比企谷結衣』」
「な、なあに?」
「っ!!?」
隣から予想だにしない一撃がぶっ込まれて危うく奇声が出かけるも、同時にむせることで結果的にお手つき回避するという奇跡。代償に呼吸不全起こしかけてるけど、我慢すればセーフ。
しばらく低酸素状態に苦しみながらも声に出さず咳き込まず耐えきり、目を向けないようにしてた隣を見れば薔薇色の頬をこれでもかと紅に染めてお団子を忙しなく弄くり回してる由比ヶ浜。
お前そんななってまで刺しに来なくてもいいだろって突っ込みそうになるけど、やると折角耐えたお題がお手つきなってしまうので辛うじて自重。
何事にも決して動じない覚悟? 奴は死んだよ。産声を上げる間もなくな。
「……『由比ヶ浜八幡、比企谷、結衣』」
左に細心の注意を払いつつお題の続きを回答する。いつでも緊急停止する心の準備は万全だ。
「『由比ヶ浜八幡、比企谷結衣、由比ヶ浜八幡』……雪ノ下」
「由比ヶ浜くん、クリア。惜しかったわね」
「そこは危なかったわねじゃねえのかよ」
「あら、間違えたわ。比企谷くん、クリア。惜しかったわね」
めっちゃ楽しそうなのが腹立たしい。なるべく顔を動かさないよう目線だけで左を見れば、むにゃむにゃと嬉しそうにはにかむ由比ヶ浜がお題終わってなお俺の心中をかき乱してくるのだった。
× × ×
目が合ったらえへへと照れ笑いを浮かべてきたり、控えめに袖をつまんできたり、何事か考えてるのか上の空になったと思ったらほにゃっと表情を緩ませたり、ついでに雪ノ下からの生暖かい視線に晒されたり、そんな猛攻に耐え抜いて由比ヶ浜の手番となった。
正気に戻った由比ヶ浜は何故か雪ノ下の隣に戻らないまま、手を上げて元気よく立ち上がり答えた。小学生か。その衝撃で揺れた胸部? 大人より凄いんじゃないですかね。
「次あたしっ! 『比企谷雪乃、雪ノ下八幡』!」
雪ノ下が生温い笑顔浮かべたまま硬直した。そらガハマさん相手にあんなことしたらこうもなろう。由比ヶ浜満面の笑顔だし。完全に善意でやってらっしゃるつもりだよねこれ?
だがこれでダメージ入るのは雪ノ下ばかりではない。同じこと由比ヶ浜とやったからって慣れてるわけねえだろ無茶言うな。
しかし雪ノ下が慮外の一撃で硬直している今が好機でもある。雪ノ下にまで妨害されたら心臓持たねえ。
由比ヶ浜の袖を指の先でほんの少しつまみ、制服と注意を軽く引く。
「あー……その、俺から、言うわ」
「うんっ」
横目に見る由比ヶ浜は嬉しそうに頷き、盗み見た雪ノ下は頬を染めてまじまじと見返してきていた。思いっきり目が合ったぞ畜生。
「……は、ぁ。『比企谷雪乃』」
彼女の名前を呼んだとき、正面で目を閉じ身を固くする雪ノ下が視界に入る。あえて物思わぬようにして続きを。
「『雪ノ下八幡、比企谷雪乃、雪ノ下八幡』」
雪ノ下が身を縮め、熱の篭もった吐息を絞り出す。耳に届く息づかいが俺の中の何かをこそぎ落とす。
「『比企谷雪乃、雪ノ下八幡』」
どうにか最後まで言い切り、満足げな由比ヶ浜に疲れ切った視線で判定を乞う。
「うん、ヒッキークリアだよ」
その言葉に安堵と解放の長大息。疲れた。なんかめっちゃ疲れた。
重い頭に力を込めて仰ぐと、由比ヶ浜が雪ノ下を見ながら何か考えている。
そしてパッとこっちを見ると、にっこりと。
「ヒッキー、ゆきのん妨害しよう」
「は?」
俺と雪ノ下の声が綺麗に重なる。由比ヶ浜は隣にあった椅子を持っててってこ定位置に戻り、こちらに向かって差し招き。ひくっと頬が引きつる。
あれを、やれと。雪ノ下に、あれを。
由比ヶ浜に腕を取られてる雪ノ下は真っ赤になって固まっている。いや無理ですの意味を込めてふるっと首を振るが、ガハマさんはじーっと見つめてくる。なお対ゆきのん特攻スキルであるわけだが、別に俺に特攻じゃないとは言ってない。
しばらく注視を捧げられ続けて、またちょいちょいっと手招きをもらう。意識的なのか知らんけど小首を傾げながらとかもうね? ほんとね?
ため息とともに両手を挙げて、ガハマさんが破顔一笑。背を向け椅子に手をかけたところで、後ろから透き通るような声。
「……『比企谷、雪乃、雪ノ下八幡』」
振り向くと、真っ赤な雪ノ下が目を閉じて回答を開始していた。なるほど戦術的不利を得る前に片付けるのはいい判断だ。この物言い材木座っぽくてなんか嫌だな。そしてガハマさんは少々不満げなご様子。
「『比企谷……雪乃、雪ノ下八幡、比企谷……雪乃』」
だったのだが、何か思いついたようにいたずらじみた笑みを浮かべ、雪ノ下の腕を引き、頬に唇を……違うから。耳元だから。さっきも同じこと考えたからいっさいどうようしてないからまじよゆう。
近づけて、ぽそっと囁く。
「『雪ノ下八幡』」
「ゆきのんは、どっちがいい?」
「んんんんっ!?」
ぎりぎりお題の回答を終えてからの妨害工作だったため、その場で椅子をがたつかせ転びそうになってもセーフである。由比ヶ浜が腕取ってたから安心安全。ところで当方全身の汗腺が開いた感覚があるんですがこれどうすればいいんですかね。じっとりと滲む。
「あ、ちょっと遅かったや。ゆきのんクリアだ」
「由比ヶ浜さん……」
「で、ゆきのんはどっちがいい?」
「……何の話かしら」
そっぽ向く雪ノ下にふふーと微笑む由比ヶ浜が最強すぎる。
二人に悟られないように静かに深呼吸をして、暴れ回る鼓動を少しでも鎮める。……勝ち目も見えないし、もういっそ早々と負けた方がいいんじゃないかという考えが頭をよぎったが、ゲームの始めの経緯を考えるに、ここで手を抜いたら下手すると賞罰追加とか再戦とかの可能性が目に見えたので却下した。
全くもって八方塞がりである。
× × ×
とまれこうまれ俺の番。今回のお題はもう決まっている。猿真似なれど合気の技を受けるがよい。……俺もこれ微妙にテンションおかしくなってねえか?
「……なら、俺は『由比ヶ浜雪乃、雪ノ下結衣』だ」
きょとんとした二人の顔。あ、あれー? まさかの効果なし?
「では私から。『由比ヶ浜雪乃、雪ノ下結衣、由比ヶ浜雪乃、雪ノ下結衣、由比ヶ浜雪乃、雪ノ下結衣』。どうかしら」
「あ、ああ。雪ノ下、クリア」
「じゃあ次はあたしね。『由比ヶ浜雪乃、雪ノ下結衣。由比ヶ浜雪乃、雪ノ下結衣。由比ヶ浜雪乃、雪ノ下結衣』」
「由比ヶ浜、クリア」
何故だ……一瞬で終わったぞ……二人が出したお題の時と何が違うというのだ……。
世の理不尽に嘆いていると、雪ノ下が少し遠い目をして、嘆息一つ。
「……由比ヶ浜さんと結婚したら、きっと幸せな家庭を築けるのでしょうね」
……雪ノ下が何を、あるいは誰を思い浮かべているのかは想像に難くない。俺ですらそうなのだから、コミュお化けの由比ヶ浜にそれがわからぬはずもなく。
雪ノ下を横合いからぎゅっと抱きしめ、笑いながら睦言を囁く。
「ゆきのん、あたしと結婚する? あたし、ゆきのんと結婚したら、絶対に幸せになれると思うよ?」
それを聞いた雪ノ下は一瞬目を丸くして、気が抜けたようにふっと息を吐く。
「……それも、いいわね。私が由比ヶ浜さんを幸せにしてあげるわ」
「うん、幸せになろうね」
にっと笑い合う二人。ほんと見てるだけでほっこりするな。お二方が幸せそうで何よりです。
「で、どっちにするんだ?」
「由比ヶ浜ね」
「わ、即答だ」
「雪ノ下の家に由比ヶ浜さんを束縛させるわけにはいかないもの。……あの人たちと別の姓を使えるようになるし」
「でも、あたし雪ノ下って苗字もキレイで好きだよ。ゆきのんにぴったりって感じ」
「あ、ありがとう……」
雪ノ下の雪、誰も触れられない美しき幻想。
でも今はもう隣に座って融かして寄り添ってくれる人がいる。雪ノ下にとって、きっとそれは人生を丸ごと変えてしまうほどの出来事だったことだろう。
花開く雪ノ下を間近で見られる幸福を甘受しながら、俺はまた紅茶に手を伸ばした。